第一 次大戦後〜昭和恐慌期における
信達養蚕農家の経営形態
1伊達郡国見町大木戸︑阿部喜作家の分析1
梅
宮
博・
は じ め に
戦前の信達蚕糸業地帯は︑桑園の全耕地に対する割合において︑従って養蚕業の密度において︑また︑養蚕業の大規模
経営者の存在においても︑恐らく全国的にも有数の地域に属していたと思われる︒
ところで︑蚕糸業は︑外国特に米国の需要にもっぱら頼って発展してきた産業であるので︑米国の需要乃至は貿易政策 ハエレによって大きな影響を受けるものであり︑さらに︑国内における製糸資本の利潤追求の犠牲を養蚕農家が強いられるとい
う形で︑作った繭が不当な価格で売らされることが多いという特性を持っていた︒
このような二重の被害を受けての養蚕経営は︑構造的にみて︑決して農民にとって有利になるようにはなっていなかっ
た︒それにもかかわらず︑全耕地のうち︑畑面積の大部分を桑園として養蚕を営むような姿は︑一体どのように理解すれ
1第一次大戦後〜昭和恐慌期における信達養蚕農家の経営形態一 一
1第一次大戦後〜昭和恐慌期における信達養蚕農家の経営形態− 二
ばよいのであろうか︒しかも明治期から昭和の初期まで一貫して増加していると考えられる︒
この稿では︑このような問題を念頭におきつつ︑特に第一次大戦後を中心に︑①養蚕業というものを︑一般農民は経営
の中でどのように位置づけていたのか︑②養蚕経営とは農家の経済をうるおすものであったのか︑それともその逆であっ
たのか︑③養蚕業は景気の変動の影響を受け易いが︑具体的にどのように影響を受けているのか︑等々を中心に検討して
みたい︒ 以上の検討を通して︑第一次大戦後の養蚕地帯の農家が戦後の一九二〇年恐慌とその後の変動︑そして引続く一九三〇
年恐慌以降の過程をどのように生きたか︑否生きなければならなかったかという農民の経営の実態を明らかにしていきた
い︒
第一次大戦期までの国見地方養蚕業の集中度
まず︑養蚕業の一般的な状況を知るために︑主として分析の対象とする伊達郡国見地方の一八九三年︑一九〇二年︑同
一〇年︑同一六年というそれぞれの時点の養蚕経営の概況を﹃伊達郡統計書﹄によってみてみよう︒
第1表は︑養蚕を中心とした国見地方の農業経営の概況である︒ここに現われている数字については︑いくつかの疑問が
あるが︑それについてはここでは問わないことにして検討を進める︒まず︑疑問の余地がなくはっきりしていることは︑
①桑園の面積は一貫して増加していること︒②一方︑畑の面積も水田面積も︑最終的には増加しているが︑そう大きな変
化はみられない︒③従って︑耕地面積に占める桑園の比率は着実に増加している︒④また︑最初の一八九三年より︑すで
に桑園面積は畑地の七〇%に達し︑全耕地に対しても三六・七%をしめているということから︑すでに一八九〇︵明治二
第1表桑園・繭生産の変遷,伊達郡国見地方出典各年次r伊達郡統計書』
1第一次大戦後〜昭和恐慌期における信達養蚕農家の経営形態1
館瞥隣村藤田村伊達鮒森闘村大木戸村大潮計
備考…1893年水田面積
1902〃
1910〃 〃
1916〃
1893年畑 1902〃
1910〃
1916〃
面一
マ
〃
〃
〃
町140.9 141。2 142.7 147.1
町 町 町
165.2 185.5 174.4 165.8 183.4 184.1 164.1 182.0 186.3 173.3 189.5 189.1
114竪119覧949賢1
鵬111111謝
1 1245136・71960・Ol 町126.4
135.1 149.4 176.4
町 町 町
117.9 281.6 190.8 116.9 262.2 160.6 119.8 310.4 176.4 139.6 293.3 195.0
町 町 町一
129.9 199.OI1045.6
128・1195・21998・1 ド
142.8 204.3:1095.5
163.0 188.61137.9 1893年全耕地の中一
の畑の割合
1902〃 〃 1910〃 〃 19!6〃 〃
!893年桑園面積
1902〃 〃
1910〃 〃
!916〃 〃
%
47.1 48.9 49.8 51.8
% % %
41.6 60.3 52曹2 41.4 58.8 46畢5 42.1 63.0 48.6 44.6 60.7 50.8
% %
53.2 62.5 51.9 60.0 54.2 60.2 56.7 58、0
% 52.4 56.3 56,9 54.2
町75.5 113.8 142.2 158.5
町 町 町
83.9 202.3 153.5 80.0 205.1 158.2 100.6 250.5 159.0 124.4 246.2 164.0
78覧139男1732弘i 1
95.5 115.0 767.6
10L4156・3P910・0
1342146・7974・OI
中合の割地の〃〃〃耕園全桑年の〃〃〃
れ
89
@909191
む 年の〃〃〃 畑桑 面園 積の〃〃〃 の割 中合89
@909191
1893年繭生産高
1902〃 〃
1910〃 〃
1916〃
% 28.2 41.8 50.0 51.9
% % %
29.6 46.7 42.0 28.3 46.0 45.9 35.4 50.9 43.8 39.8 51.0 42.7
% %
32.0 43.9 38.7 35.3 38.5 46.11 46.7 45.1
%
59.7 84.2 95.2 89.9
飾 % %
71.2 71.8 80畢5 69.4 78.2 98.8 83.9 80.7 90.1
89.1 83.9 84.1
拓 %一
60.0 70.2 74.6 58.9 71.0 76.5 82.3 77.7
%
36・7−
41.0 44.g1 46.41 %1 70.OI llllI 85.61
石669 503 845 1236
417石 566 1045 1428
石1422 2006 2324 2429
488石 1133 743 991
429石
496 742 769
繭 秋計上上 ︐合同同 春の石7681引07 7 n∠ 3 7 3 5 6 7
石51一π弼−鯉一
つ﹂ 員ノ 6 ハソ
1893年養蚕農家数
1902〃 〃 1910〃 〃 1916〃 〃
斤 月 299 295 215 165 137 170 250 156
425月 430 284 415
293戸 230 176 200
319 190:戸 戸 162 193 ! 143 153
1139 1701
1
18211斤1 13951 10631 1330i 『
−第一次大戦後〜昭和恐慌期における信達養蚕農家の経営形態! 四 パ ロO年︶代において︑農業経営全体の中においてかなりの比重をしめていたことが分る︒⑤繭の生産量をみると︑桑園の増
加率をはるかに上回る増加を示している︒これには︑秋蚕の普及が大いに関係がある︒⑥以上の諸特徴を持ちながらも︑
水田が半分近い面積をしめているので︑農業経営全体の中でみてゆけば︑せいぜい半分ということで︑統計等で平均とし
てみる場合︑桑園の比率がこれ以上に上昇することは殆んどない︒⑦養蚕農家数は︑桑園の増加とは反対にほぼ減少傾向
をたどっている︒なぜこうなるのかは不明であり疑問でもある︒⑧各村にまで立ち入ってみると︑同じ桑園をとりあげて
みても︑大きな違いのあることが判明する︒すなわち︑伊達崎・大枝・森江野村のように︑一八九三年段階ですでに桑園
面積が全耕地面積に対して四〇%を越えている村があるのに対して︑小坂村と藤田村は二〇%台であり︑大木戸村は三〇
%をわずかに越えたところである︒畑地に対する桑園の割合でも︑小坂・大木戸村は六〇%前後で︑他の諸村と差がある︒
これがいずれも︑一九一六年では桑園面積が畑地の圧倒的部分をしめるようになる︒両者の間の桑園面積の差は︑養蚕業
に対する関わり方の遅速の程度を示すものと思われる︒つまり︑前者は早くより深く養蚕業に依存する傾向が強く︑信達
養蚕業地帯の中心部の一角を形成した地域であり︑後者は︑割に遅く明治の後半になって急速に深く関わって行ったもの
と考えられる︒
総じていえることは︑村により格差はあるが︑一八九三年においてすでに畑のうち七〇%が桑園と化していることに示
されるように︑明治前半期から養蚕業が畑作収入の大部分をしめていた︒それほど深く農民は養蚕業に依存する経営を行
なっていた︒ただし︑水田が約半分近くあったので︑水田経営を放棄してまで養蚕業に専念するというのではなく︑両者
を併存させるという方式であった︒
一八九三年時点のこのような状態は︑その後養蚕業H桑園の一層の増加を一九一六年まで続ける︒といっても︑事実上
は一九一〇年時点で登りつめるところまで到達したという感じで︑あとは微調整がある程度と理解してよい︒
一方︑養蚕農家数は︑ほぼ一貫して減少しているという点は理解に苦しむところであるが︑ひとまず︑一戸当りの経営 ハ ロ規模が大きくなっていき︑極零細経営者が養蚕経営から脱落しているものと理解しておきたい︒
以上が︑国見地方の養蚕業の一般的状況であるが︑もう一度確認する意味で︑伊達郡全体の状況をみてみよう︒
第2表
伊達郡の桑園と全耕地面積との割合
に桑合%253107地る割 乳乳乳
耕すの 444
全対園 町06﹁謬地積 333
耕 4︐4︐生全面 11一46.86 46.40 46.32 46.58 46.73 46、601 6,7741 14,392
6,762 14,431 6,724 14,492 6,58。h4,212 6艶646 14,269 6,692 14,321
6.736i 14、4544,4541@ 46.60 4,489 46.78
4,597 46.66 4,687 46.57 4.716 46.51
認1桑園面積
町
1909 6,759 1910 6,786
6,778 6,811 6,840 6、844 911
912 913 914 915 916 917 918 919 920 921
出典『福島県統計書』(「福島県史』
13巻1035頁,1071頁による)
こうみてくると︑伊達郡全体としてもまた国見地方をみても︑
れを維持していくということと︑養蚕経営の内容を高めて︑
ハ レだものと理解してよい︒ 第2表をみれば直ちに分るように︑郡全体としては一九〇九年以来殆んど桑園が増加していない︒そして︑四六〜四七%台を維持している︒これを第1表と合せ考え パるロると︑水田との併存ということを前提とすれば︑このパーセントが限界で︑これ以上伸びることは不可能であるということと︑すでに一九〇九年時点でその水準に達していることを示している︒これは︑第1表でみた一九一〇年に頂点に達したことと完全に符合する︒明治末期には桑園はほぼ限界規模にまで達し︑あとはこ
特に秋蚕などの密度を高めて収繭量を増加させる方向に進ん
二 阿部家の経営概況
阿部家は︑国見町の旧大木戸村の中農の上層に属する家であるが︑
1篤一次大戦後〜昭和恐慌期における信達養蚕農家の経営形態1 第3表に示してあるように︑ パ ロ畑勝ちの経営であり︑ 五
1第一次大戦後〜昭和恐慌期における信連養蚕農家の経営形態一 六
特に桑園養蚕が圧倒的である︒第3表は︑一九三〇年時点の史料ではあるが︑同家は経営規模に殆んど変化がないので︑ ハマロ第一次大戦後も殆んど同一規模であったと思われる︒
第3表阿部家の土地所有 田 (2毛作地) 1畝 田 (1毛作地) 7反00畝 畑 (耕種地) 1反00畝 畑 (桑園地) 1町3反00畝 畑 1反00畝 宅地 1反00畝 出典 昭和5年「農業日誌」
り経営が不安定である︒③それにもかかわらず︑
不安定な中にも剰余を生み出す余裕があった︒
暴落であったび④一九三〇年以来繭価の決定的な下落に比して︑
必要な労賃・肥料等もそれ程には下がらなかった︒こうして︑繭価の下落は︑他の価格に比較しても決定的であったと思わ
れ︑養蚕農家の打撃はまさに決定的であった︒
要するに︑第一次大戦後の戦後恐慌は︑繭価の下落激しく︑養蚕農民に大きな打撃を与えはした︒それでも︑繭生産を ハむレ破壊してしまうようなものではなく︑むしろ農家の手元に剰余を残し得る程度のものであった︒ところが︑一九三〇年恐
慌以降は︑生産費をつぐない得ないことは勿論︑それが持続的に真綿で首をしめつけるような下落状態が続いて︑養蚕業 第3表からも容易に推察されるように︑同家は水田と養蚕が二大収入であるので︑この両種の出来いかんと価格いかんとは︑同家にとって決定的に経営を左右するというほどまでにこの二つの種類に依存している︒ 阿部家には︑一九二〇年以来第二次大戦後にいたるまでの﹁収支簿﹂が残されているが︑そこには特に経営の実態を明らかにしてくれる諸内容が含まれている︒個々の問題については後述するが︑全体的な特徴として次の諸項目があげられる︒ ①繭←生糸の一貫生産ということは︑第一次大戦を契機に姿を消している︒②第一次大戦後繭を中心とした農産物価格の変動が著しく︑従って毎年の農業収入に大きな変動があ 一九二〇〜一九二六年は一定の高価格を中心とする変動であったので︑ 一九三〇年の恐慌は︑これらの余裕を完全に崩し去った︑決定的な繭価の パ ロ 他の価格例えば一般物価類はそれほど下がらず︑生産に ︵9︶
としての息の根が止められた時期といえる︒
阿部家の﹁収支簿﹂は︑そのような評価を全体として与えてくれるものである︒
い︒ 以下において︑具体的に分析を進めた
三 阿部家の農業収入の内訳
耕地の内訳からしても判明するように︑桑畑面積が圧倒的に多く︑従って養蚕による収入が阿部家の収入の主力をなし
ていた︒第4表によって︑第一次大戦後から一九三〇年恐慌後にかけての同家の農業収入の構成をみてみると︑特殊な例外を除
いて収入の八五%以上を養蚕に頼っているという事実がまずみられる︒あとの一五%以内がほぼ米の収入ということであ へれロる︒これは明らかに︑養蚕の収入に全く頼って生活しているものと考えて差支えない︒この中で︑一九二七年と同三三年 ハせロの養蚕収入が七〇%台であり︑同九年が六〇%台であるのは︑前者は収蔵量が何らかの理由で少なかったのであり︑後者
の場合は︑繭価が期中最低値を記録した年という理由による︒なお︑一九二〇年と同二一年は︑他の年に比べて収繭量が著
しく少ないが︑これは﹁収支帳﹂の不備ということも考えられるが︑同家の場合この両年とも晩秋繭の記載がないので︑ パぬロ一九二三年より︵一九二二年は﹁帳簿﹂がない︶晩秋蚕を開始したのではないかと考えられる︒外の家の資料によれば︑
一九一五︵大正四︶年にすでに晩秋蚕の記載があるので︑この頃から一般に晩秋蚕の飼育は行なわれていたものと思われ
る︒従って︑晩秋蚕の有無が︑収繭の差となっていたものとここでは理解しておく︒
さて︑このように養蚕によりかかった経営である結果は︑善かれ悪かれ︑繭の価格によって農業収入全体がまさに左右
−第一次大戦後〜昭和恐慌期における信達養蚕農家の経営形態1 ︑ 七
第4表 阿部家の農業収入の状況
罰繭収・
[ 円 19201502・43 19211638.39
19221 _
192311,25亀46
192411,021.!2 1925
1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936
1,608。43
1,516.38 827.25 1,157.07 835.89 470.10 462.50 468.40 700.89 377.22 654.84 662.20
収入 米
繭数収貫
6募。。1円。
89.38
126.10 124.77 155.36
190.77
119.57 181.55
121.63 138.10 B4、35 137.00 119.68 148.96 135.94 130.43
98.20
244.60 111.60 171.30
その他
収 入農業収入 合 計
渋柿9円売桑15円30銭
桑代6円30銭 竹代5円他
桑代1円30銭 渋柿10円 柿11円 桑代10円 柿12円 大麦17円 0 236.30 157.00
81.20 76.50 100.20 88.20 215.60 187.50 137.35 155.00
桑代15円
小作料32円 大豆6円他 桑代11円
収入中の 繭の割合 円
545.18
753.67
1,543.11 1,199.88
…1,832.61
1,566.21
1,072.57 1,330.50 949.38 549.60 562.70 566.85 916.49 548.72 798.64 808.66
%
92.22 84.70
81.55 85.10 87.77
96.82 77.13 86.97
88.05 85.53
備 考
i晩秋蚕ナシ 米代ナシ 他に小作料75円 晩秋蚕ナシ
他小作料20円 他小作料20円 他小作料25円
林 シシ払 シシ山円ナナ売円ナナ有娼料料山90料料共上作作有当作作他毛小小共配小小
小作料ナシ 82.19小作料ナシ 82.63小作料ナシ 76.48小作料ナシ 63.33小作料ナシ 81.20他小作料27円 共有山293円 81.8g他小作料27円 共有山228円
!第一次大戦後〜昭和恐慌期における信達養蚕農家の経営形態1
出典 「収支帳」(「会計日誌」ともある)
備考①1920年は途中から記入,晩秋蚕はやっていない。米の収入が皆 無になっている。
②収繭貫数の中には糸量を繭に換算したものなども含まれる。
八
されるという結
果を生む︒毎年
の総収入に著し
い変動がみられ
るのは︑繭の相
場と繭の収量の
二つによって起
っている︵米の
相場も変動して
いるが︑絶対量
が少ないので大
勢には余り影響
がない︶︒特に
戦後恐慌から昭
和恐慌後にかけ
ての︑つまり第
4表に表示した
期間は︑価格変
動の激しい時期であったので︑格別総収入の変化がはげしい︒
この考薙霧造は・それが蓑業であるという点采安寡はある.例えば沓苦業曽讐しておれば︑繭ほ
どの変動はないので毎年の収入はこのよう美きく島かない.ところが︑繭の場合は︑刻々と相場が変る︑または相
場が作られて瓢︑ので︑予期せざる価格に下落してしまうことがある.
以上を前提にしてζう一度第4萎みてみると︑昭和恐慌以前と以後とで収入の蒙画然としている︵一九二︒年は
例準戦後恐慌といわれる一九二・象︑偶然にも最低の収入合計を示して蘇るが︑繭の貫数と米の収入が他の年と
同程度であるとす無・この年篭実竺︑8・円の大台を越えることができたのである.このことは同二年につい ハロりてもいえる・このようにして見直してみると大戦以降昭和恐監前の養嚢家は︑価格変動と作られた相場による被害は
受けつつも・蓑飼育農業の睾か督妙味のある仕事であったよう覧受けられる.同期間の桑園夏当&入は︑
平均一︒︒円程と推定さ鷲・喬皮当り5・円とぢ収入と全農護杢︑二・・主︑一二︒︒円という金額は︑
確実に剰余を生み出し得る金額であった︒このことについて若干検討してみよう︒
㈹ 昭和恐慌以前︵一九二〇〜一九二九年︶
阿部家の五西年高二五年の農業経営上の収支を示し奄のが第5毒ある.一西年は︑大戦後から昭和恐慌前の
時期の中で裏護入窪較的少奮年の典型を示したもので曹︑二五年は反対に多い年貴型を示し奄のである.
両年を対照させながらみてみると︑まず蚕業による収入が両年とも他を圧倒しているが︑また︑ともに大量の買桑をし
て瞬翻︒反別にすると一反五畝以上の買桑と思われるので︑この量は︑たまたま予想に反して桑が不足したから買桑をする
というのではなくて︑当初より積極的に買桑をしてでも大量の養蚕をやろうとする計画的な買入れの様子がうかがえる︒
それ程までに養蚕に力を入れ強気であったのである︒
1第一次大戦後〜昭和恐慌期における信達養蚕農家の経営形態− 九
1第一次大戦後〜昭和恐慌期における信連養蚕農家の経営形態1 第5表 阿部家1924・25年の農業収支
収 入(24年) 1 収 入
円
米雑穀 118.50 !米雑穀 1
蚕 業1,021.12
i蚕 業1,6
雑収入 40.26 雑収入
計 1,17免88 1計 1.8
3 7
2. 63 差年30娼8861
乃円L8.入込︵ 7 0 20
ユ ロの入 L 1︐
穀業人
米蚕雑 雑 収計
収支出 円
上納金 164.68肥料代 251.97 諸給料 175.5ア
農具 7.00 桑代120.15 桑苗 61.50 資材117.22
タネ種類 37.74
計935.83差120.09
差引残高 871.78
支 出 円
上納金 141.00 肥料代 162。00 諸給料 123.舶 農 具 76.55 桑 代 84。40 桑 苗 92.85
資 材
85.25タホ
種 類
49.80計 815.74
差引残高 364.14
一五四円であり︑三人の合計額は約六六八円となる︒コ
出典 大正13・14年「収支帳」
一六四円は︑ 一〇 さて︑二四年の場合︑差引残金が三六四円でているが︑この額は︑必要経費のすべてを差引いた︑つまりC部分
︵一部V部分も︶を支払った残額である︒三六四円は労
賃部分Vと︑さらにそれを支払って剰余部分Mが含まれ
るのかどうかということになるが︑同家の労働力構成を
考えると︑自家労働力三人︑雇人一人︑日雇は随時とい
のロう状況であったので︑家族労働力三人分と三六四円との
関係ということになる︒三六四円というのは三人分の労
賃をまかなって余りあるのか︑それとも不足なのかとい
う問題はかなりデリケートではあるが︑年間労働力を二
︵20︶八二日とし︑労賃を一三年の賃金水準によって盆前一円
三〇銭︑盆過八五銭︑冬期五〇銭とし︑盆前一〇一日︑
盆過一〇一日︑冬期を八○日として計算すると︑一人二
五七円となる︒女が一人いるので︑男の六割とすると一約
この意味では︑当時の正常な賃金による家族労働力の
V部分を生み出し得ないということになる︒しかし︑農業収入の中には︑自家消費分が含まれていないので︑実はこれを
加えなければならない︒その額は第6表のようになる︵これはあくまでも推定の額であるが︑この額より下がることは恐
らくないと思う︶︒
第6表農産物の自家消費額 米,3合x8人×365日=8。76石 8.76石×35円=306円60銭 副食類 50円
計356円60銭 備考 家族8人,1人平均米3合消費 大正13年の米価石35円
有利だったのだという具合で余り正当な論拠もなかった︒
成長が事実として存在したということが︑実は︑確実にM部分を析出するような経営条件に一定期間あったので︑そのよ
うな蚕糸業を取巻く経済情勢にのっかることができた結果であることが明らかになった︒
阿部家の経営は︑前述したごとく︑中農の上位か︑よくみて上農の下位層に位置すると思われるのであるが︑これ以上
の上位層は︑同じ条件の地域であればもっと有利な状況にあったことが考えられる︒果してそうなのかどうかを︑旧森江
野村の佐久間市郎家の史料によって検討してみよう︒
佐久間家の資産は︑第7表に示した通りである︒この表の数字の中には︑小作に出している土地も含まれているので︑
同家の農業収入を算出する基礎としては︑このままでは不適当である︒この中で︑水田の自作面積は一町三反歩︑同じく
1第一次大戦後〜昭和恐慌期における信達養蚕農家の経営形態− 一一 第6表の三五六円と前の三六四円とを合せると七二〇円であるので︑家族労働力を通常の雇傭労働力の最高水準の始畔として扱って︑全賃金分つまりV部分を完全に取去って五二円が残る︒結局CとVを出し尽してM部分として五二円残ったわけである︒ これが︑戦後期の中では低い方の年においてそうなのであるから︑これよりも農業収入の多い年の場合は︑原則としてM部分が生じていたものとみてよい︒そしてそうだとすると︑前述した理由による例外を除けば︑この時期は︑阿部家の経営においてはM部分を生じ得るような状況にあったと考えてほぼ間違いないであろう︒ うロ 別稿において︑養蚕が支配的な地域においては︑一九二六︑七年頃まで上位層を中心にしてかなりの成長を遂げたことを︑事実の問題として取り上げ︑その事実が生まれる理由として養蚕業の有利性というものをあげておいた︒それは︑どちらかというと︑急成長という事実があるから ここでのM部分の検出によって︑別稿での多くの養蚕農家の急
で
第8表佐久間家1924年 第7表佐久間家
阿 の農業収支 の資産
1第一次大戦後〜昭和恐慌期における信連養蚕農家の経営形態1
町田 4.8612
畑 2.4921 山林 11.4921 建家 9棟 宅地 1139坪 原野 1反120 1913(大正2)年
出典大正2年
「雑記」
二一 ︵認︶畑は二町歩程と推定される︒従って︑合せて三町三反歩が自作面積であり︑これ
よりの収支が純粋な農業収入である︒
以上を前提にして同家の農業収入を検討してみると︑第8表を得る︒ただし︑
原資料は小作よりの収入も含めてあるので︑それを取除いた数字がここの数字で ︹24︶
収 入
米雑穀(2盟含野
蚕業 1,690.49
雑収入 119.44 _ 2901.93 計 (4,う03、34)
支 出
上納金(711甥円
肥料代 354.90 諸給料 595.37
農具 2.00 桑代 184.05
桑苗 79.72資材 108.88
タネ種類 81.25
1713.17
計(2,149.02)差引残高(216艶ll円 出典大正13年 「当用日記」
阿部家と同様の計算でいくと︑いずれにしても六〇〇円台から九〇〇円台の間であるので︑
入に入れてごなくても︑すでにV部分は生じているので︑かなりのM部分が存在しているわけである︒
第9表 佐久間家 収繭量
1919年 247貫
1924〃 180 1925〃 270 1926 ノ 248
出典 佐久間家 「日記」
あり︑カッコ内の数字は原資料の数字であ
る︒こうして計算した結果は︑自作地にお
ける収支の差引残高は一︑一八八円■であ
る︒自家労働力が判明しないのであるが︑
三名乃至西名であることに間違はない︒労
働力のうち︑一名乃至二名が女子であるの
ここでは︑自家用米を収
︵25︶ なお︑一九二四年というのは︑五月二二日と一四日の両朝連続して降霜があり︑そのた ハガツめに収繭量が相当低くなっている︒それは︑第4表の阿部家の収繭量をみても︑第9表の
佐久間家の収繭量においても明らかに他の年よりも低い数字がでているので明らかであ
る︒しかも︑後述するように︑繭価も米価も決して他の年よりも高くはない︒いわば︑収
入の条件としては.こく悪い年に︑これだけのM部分が生ずるのであるから︑大戦後︵大戦
中は勿論のこと︶から昭和恐慌前においては︑中農上層以上のクラスにおいては一般的にM部分が生じていたものと思わ
れるエ般墨摺ついては︑論証する資料覆おで︑論証繁き蕊が︑中農層こそがもっとも生産力的であったと
考えて匹評ので︑恐らく︑この層にもM部分が生じていたものと予想している︒
⑧ 昭和恐慌以後︵一九三〇年〜 ︶
昭和恐慌以前の養嚢家経裳︑予想をも含めて︑一般的に剰余の生ず轟営と規定したが︑これに対して︑昭和恐慌
以後はどうだったのだろうか︒前項の要領に従ってこの期における養蚕農家の収支を明らかにしてゆきたい︒
恐慌の打撃竃っ乞強く受け︑総収入が最低であった一九三・年と︑不況が続くなかでは収入がもっとも多かった同
O
第10表 阿部家1930・33年の農業収支
収入(3・年) 1収入(33年)
米雑穀i 76.50円;…米雑穀t 215。60円
蚕 業1465。101一蚕 業!700.89
雑収入1 8.001雑収入i O 計…549・60…t計…916・49
ヨ
支 出 1! 支 出出
117.38円 166.26 2.83 20.13 87.92 14.58 44.86 15.03 468.99
上納金 肥料代 諸給料
農具 桑代 桑苗 資材
タヰ種類
計155.47円 196.70
81.43 6.62 58.89 16.80 52。65 8.96
627、46
金代料具代苗材類 納料給 計
一上
鷺桑桑霧
447.50円 一77.86円11差引残高
差引残高
出典 昭和5・8年「収支帳」
1第一次大戦後〜昭和恐慌期における信連養蚕農家の経営形態1 三三年とを第10表によって掲出して検討してみよう 一九三〇年と同三三年の﹁収支帳﹂より第10表を作成 タネしたが︑この表で三〇年の方の米雑穀の収入額と︑種類とあるなかに蚕種代が殆んど含まれていないこと等に疑問があるが︑それは致命的な欠陥でもないので︑この資料をそのまま使ってみてゆくと︑三〇年の方は︑農業収入で農業支出をまかなうことさえもできない状態であるから︑ここでは︑V部分さえも全く生み出し得ない状況にあったといえる︒このような結果になるのは︑蚕業収入が極端に低下していることに原因があり︑さらに︑前述の米雑穀の金額の低さが拍車をかけている︒このように︑収入の極端な低下が絶対的な条件であるが︑反面︑ 一三
1第一次大戦後〜昭和恐慌期における信連養蚕農家の経営形態− 一四
支出の方は︑恐慌に突入した年であるので︑押えが充分にきかずに︑割合に高い支出を余儀なくされているという状況で
ある︒肥料や資材への支出などにその傾向がみられる︵単価が下がらなかったので︑これらの支出が下がらなかったとい
った方が適切である︒賃金などは下がっている︶︒この結果︑三〇年度の収入は︑農業生産に必要な諸経費を賄い得ない
経営の姿となったのである︒
一九三三年は︑繭の価格も不況下では割合持ち直し︑従って蚕業収入も伸び︑一方米雑穀の収入も︑単価は決して持ち
直してはいなかったが︑販売数量が多く︑その結果︑収入全体が当時としては相当伸長している︒反面︑支出の方は︑不
況が深く滲透しているので購入物価格も値下げされており︑上納金も︑内容の分析は今不可能であるが︑恐慌後は相当程
度低くなっている︒さらに︑景気とは直接関係はないが︑支出の中で労賃が殆んどゼロに近いのは︑自家労力が増加した
ので︑雇傭労働力を必要としなくなったわけで︑それだけ農業経営のための必要支出︵のうちのV部分︶は減少したが︑
家族労働力のV部分は増加している︒結局︑収入の相対的な増加と︑支出の御三家である上納金・肥料・諸給料の減少と
によって差引四四七円五〇銭の残高がでている︒
これで︑とも角︑経営そのものが赤字でないことは判明した︒この点は三〇年の収支との大きな違いである︒しかし︑
四四七円という金額は︑四人の家族労働力を前項の方法で︑男子盆前六〇銭︑盆過四〇銭︑冬期三〇銭とし︑女子は盆前
四〇銭︑盆過三〇銭︑冬期三〇銭として計算すると四三〇円程になり︑差引残高は一七円程度となる︒実際は︑前項と同
︵艶︶様に自家使用部分があるので︑この他に︑一九二円を加えると︑二〇〇円余のM部分が生ずることになる︒
以上︑一九三〇年と同三三年の農業収支の検討を通じて次のようなことが明らかとなった︒同じく恐慌と不景気下にあ
っても︑片方は︑収入の絶対額の極度の減少によって︑生産に必要な諸経費さえ生み出し得ない状態であり︑しかも︑こ
︵29︶のような収支状況が当時一般的であった︒昭和の恐慌とその後の不況が︑農村を荒廃に導いたといわれているが︑中農の
上層から上農の下層に位置すると思われる阿部家の経営においてさえ︑自家労働力を除く必要経費さえも生み出し得ない
経営であったのであるから︑いかなる階層の農民であっても同様に赤字をまぬがれ得ないという状態であったと考えられ
る︒ 恐慌以前には︑すでに前項において述べたように︑養蚕農家であって︑大部分の収入を養蚕に頼っているということが︑
平均的にみると養蚕の有利性によって多くの剰余を蓄積することができた︒ところが︑ここでは逆に︑繭価の決定的下落
によって︑養蚕農家であることが︑赤字の拡大と負債に苦しむ立場に転落した︒勿論米その他の価格も下落はしているが︑
繭の価格のようには下落していない︒一九三〇年の一〇月三日と九日の佐久間家の﹁日記﹂には次のような記述がある︒
﹁晩秋蚕繭取引開始︑糸価暴落日に増し安値を呈し一極五五〇円位の相場なれば︑従って繭価の惨落も未曽有の安値にて パのロ一〇〆付一七〜一八円位の相場にて正に養蚕家の受難時代となれり﹂︑﹁売買相場一〆付二円〜二円二〇銭にて養蚕の前途 ハれマ暗憺として最早や之れのみに依頼すべからざる状態とはなれり﹂︒価格の惨落に対する落謄と養蚕の前途に対する深い危
惧の念がうかがえる︒これが下落初年度の養蚕農家の受止め方であったのであるから︑その後数年間の低迷状態に︑養蚕
農家がいかに打ちひしがれたかは想像に余りある︒
ところで︑一九三三年の場合は︑一九二四年︵第5表︶の農業収支と比較してみれば明らかなように︑収入額において
二六四円の差がある︵低い︶にもかかわらず︑自家労力分を差引いた残額は︑三三年の方に生じ︑二四年は一応マイナス
となっている︒この差は︑農業資材をはじめ︑諸価格が下落していることと︑不況下にあるので︑農業用をも含めて買控
えて転罷こと︑さらにまた︑雇傭労働力を殆んど必要としなくなったこと等によるのである︒ここでみられるように︑不
況期においては︑わずかな収入の増加であっても︑支出も相対的に低下しているので︑M部分を生む可能性が存在すると﹄
いうことがいえる︒
1第一次大戦後妻昭和恐慌期における信連養蚕農家の経営形態一 一五
一第一次大戦後〜昭和恐慌期における信達養蚕農家の経営形態− 一六
以上︑養蚕農家を対象に︑昭和恐慌以前と以後とに分けて検討したが︑両者は経営上質的に異なることが判明した︒すな
わち︑前者は例外的な場合を除いて剰余が生ずる条件があり︑反対に恐慌後は︑例外的な年を除いて経営が赤字になると
いう状況下にあったということである︒
四 農産物・購買品価格の構成
前項でみてきたように︑養蚕農家の経営は︑まさに繭の価格によって左右されるという状況にあった︒こういえば︑す
べての生産物がそうであり︑農産物以外の生産物についても同じことがいえるのであるが︑しかし︑本稿の最初のところ へ33︶で述べたごとく︑繭価格形成のメカニズムが特殊であり︑農家にとっては二重に受身の状態に置かれていたので︑価格政
策によって大きな被害を受ける立場にあった︒
ここで価格形成のメカニズムに立入って論じようとは思わない︒そうではなく︑養蚕農家が︑実際に生産物価格等の変
動によって︑経営上どのような影響を受けたかをみようとするのである︒
農産物の価格は︑工業生産物などと違って︑生産物が毎日変化する市場価格によって決まるので︑工業生産物のように
予め収入額の確実な予想が立たず︑ここ二︑三年の価格が幾らであったから︑或は︑昨年の価格が幾らであったからそのぐ
らいには売れるだろうというまったく根拠のない予想によって生産と収入の計画を立てる︒何年問もずっと相場が殆んど
動かない時期であると︑予想と現実の収入とは偶然にも一致し続ける︒明治の末期から第一次大戦の開始期にかけては︑ パリロ繭価格は︵米もそうであるが︶低いところで動かないという状況であったので︑経営的には非常に苦しい荒廃的な状態を
余儀なくされていた︒これを︑具体的な経営のなかで明らかにし得る資料はないが︑伊達郡の現国見町全体を通してみて︑
一九一〇︵明治四三︶年の小作地率四〇・二六%が大正五年には四四・九%と増加しており︑実際の面積では︑一九一〇 ︵35︶年の小作地六一六町歩から一九一六年には七二七町歩へと一〇九町歩も増加している︒この事実をもたらしたものは何か ︵36︶といえば︑それは︑繭価格︵並びに米価︶の低落による農民の土地所有の分解にあるわけで︑この点からみて︑生産物の ハ ロ価格が︑いかに農民にとって︵特に中以下の農民にとって︶重くのしかかっていたかが︑まず明らかとなる︒
さて︑本稿の対象である第一次大戦後についてはどうであろうか︒この時期については︑すでに物価の変動の激しい時
期と規定しておいた︒ここでは︑その具体的内容である生産物価格の実態を追ってみよう︒
第1図は︑阿部家が実際に販売した繭の春・秋・晩秋蚕それぞれの単価︵点線︶と︑各年の養蚕収入合計額とを図示し
たものである︒すでに検討したところであるが︑あらためて繭価格の変動の大きさを認識せざるを得ない︒特に第一次大戦
後恐慌と昭和初期恐慌の両時期は︑変動の幅も大きい︒繭の価格が高値をつけている時は︑二〜三円の変動︵貫当り︶も
左程苦にならないであろうが︑四円前後の低い価格の時に二円も変動するということになると︑上昇するならばとも角︑
下落ということであれば︑経営は壊滅的打撃を受けることは明らかである︒現にこの図で︑一九二九年から三〇年にかけ
ての下落や同三三年から二一四年にかけての下落の状況は︑まさしく致命的打撃を農民に与えた変動であった︒こうして︑
昭和期の繭価格は︑貫当り二円の線さえも下回るという現象が起り︑明治末から大正の初期にかけての低落期にもみられ
なかった低迷状態に陥った︒
ところでこの価格の変動は︑同じ年の春・秋・晩秋蚕のそれぞれにおいてもまったく同じように変動している︒繭の質
からいえば︑春蚕がもっとも高値であるべきなのであろうが︑価格の高低は︑この図全体を通してみるなら︑その傾向は
ややみられるが︑それとは余り関係なく動いているというのが実情である︒従って︑各養蚕期.ことに︑繭の価格が相当大
きく変動し︑同じ年の中でも︑春蚕の価格が好調であったからといって秋以降も安心して養蚕ができるというものではな
1第一次大戦後〜昭和恐慌期における信達養蚕農家の経営形態− 一七
一︒一〇 ミ 一〇︒ 一〇 8 § 爲 器 曽 誤 N⑦ 曽 N㏄ N︒ ωO ω一 認 墜酵︶一●緬海伸びぴ3聾固事緊︻融麟舜億雲ゆ嘩﹃麺海﹄一︒︒曝昭ω切畑3墨田%oパ茜︒浮び3・ bo.沖田貸 O蝸﹃岳㌶慧3自諮款創価︷腓4鍬ぴ3d幅増楓欝伴C誉離ゆ3極官e喬圏4びび︒ ω・ ︵醜︶伴蹴ぴ3舜醇︾謡翼t期3慧翔副官蕗︒ ♪蚤宍お叫+3︑郊刈興禽伴食3丑認嘩伴︒^諮き4びび︒ ω呂ωO
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一第一次大戦後〜昭和恐慌期における信連養蚕農家の経営形態1
八
かった︒このような大きな変動の中で︑常に不安を抱きながら︑また一方では期待を持ちつつ続けたのが養蚕経営であっ ありた︒そして多くの場合︑期待は裏切られたというのが︑実情であった︒
養蚕収入の合計喚当然のことではあるが︑見事に繭価格に照応している︒養蚕総収入は︑繭の生産量と繭価格によっ
て決まるものであるが︑かくも価格に照応しているということになると︑養蚕総収入は︑第一義的には繭の価格によって規
定されるということが確認される︒さらに︑高値の年には︑養蚕総収入が異常聖目同い数値を示しているように思われる︒
すなわち︑一九二三・二五・二六年と二八年がそれに当る︒これらを︑さきの第4表でみれば明らかなように︑一九二三
年は生産量が特別多かったわけではないが︑この年を除けば︑いずれの年も飛び抜けて生産量が大である︒これは︑価格
の上昇が生産意欲を高めて生産量の増大に結びついたものと思われ︑その結果として︑収入が異常に高まったものと思わ
れる︒このことは︑さきの︑価格は予想できないものであり︑期待を裏切る場合が多かったという論旨と矛盾するかの如
くであるが︑大正期は繭価が一般に高く相場の動きに対して生産者は驚ろくほど敏感であるので︑上昇気配に対しては鋭
く反応し︑それを逃すまいと生産意欲を盛り上げる︒その予想が外れることはあるが︑春が高値であれば︑大よその予想
はつくものでもあるので︑生産意欲と生産価格がマッチした場合には︑破格の高収入となって前述の三カ年のように現わ
れる︒ 第一次大戦から昭和恐慌期にかけての繭の価格を︑以上のように価格変動が激しかったものと認めた上で︑それでは︑
次に︑他の米とか︑または労賃︑そして主要な物資等についての価格と比較検討をしてみよう︒
第2図は・米・繭価と労賃の推移を図示したものである︒この図の推移も︑特徴としては第1図と同様な性格を持って
いる︒しかし︑著しい相違点は︑米価・賃金共にその変動は︑昭和恐慌時の下落が明治末〜大正初期の水準にまでは下がっ
ていな.圃︶ということである︒これに対して同時期の繭価は︑明治〜大正初期の水準よりもはるかに下がっている︒この点
1第一次大戦後〜昭和恐慌期における信達養蚕農家の経営形態− 一九
第2図 米伍と労賃(米価は福島の標準相場,労賃は佐藤家)
銭 2io
200
19U
180 17u
16(ナ
15U 140
130 120
110
100
go 80 70
60
50 40
30 20
10
賃金 ︵福島︑佐藤家 贔寓e督導岬こ 9一 ● 一8ノ ρf一 プO ーー−︐u躰 ︐^−−t一一 〜■︑・冒U望− ﹄・−・・⁝−︐︐︐︐?鼻畦︐− ﹄− つ一・ 一111一 か 漕一一11 し ︑︑ し ﹄ 11−L噛 只 t−し 脅^一■− 戸 ︐ −一Irード甘1 しし の﹁1し・Q︑ 一㌧^ 一 O︐し︐ イ一一ー 一1 桝 唱ひ 肖
ゼー昌hh賦撒堕︐﹃︐一・呂q郵無耕・・一⁝・: ︵.︒︐N毒薬蜜窒
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@ @
│7.︑一4新講藷雫圏h男ノ〆
︑覧 Ω︐ ノ ノィ づ か ウ V ゆ 〜︑ O 米価・繭価
1903㈱50607080910m213141516171819202122232425262了28293031323334353637認39404142
1
]40円
石 当
リ
130
120
110
100
90
80
70
60
50
40
30
20
ユ0
注)賃金は,その年の盆前期,最高額を支給される者の価格を表示した。
一第一次大戦後〜昭和恐慌期における伝達養蚕農家の経営形態1
0
が︑同じ下降状況にあるといっても大きな違いのでるところで︑養蚕農家がこの時期にもっとも大きな痛手を被むつた理
由もこの辺にある︒
特に労賃に注目してみると︑伊達郡の佐藤善右工門家の場合と﹃県統計書﹄での労賃との間にはかなりの差があるが︑
第一次大戦以降急激に農業労賃は上昇し︑戦後恐慌以降もそれほど下降もなく昭和恐慌まで続く︒まずこの点が︑養蚕農
家にとっては︑収入と支出のアンバランスを生む第一の要因となっている︒昭和恐慌期は︑労賃も他の諸物価.生産物と
共に下降するが︑これも︑佐藤家の場合でみると一時的に明治末の水準まで落ち込むのみで︑一般にはそれほどまでは落
ち込齢耀︑しかも一時的であって︑すぐに急速な回復をしている︒それは︑繭価や米価の低迷状況とは大きな違いである︒
この事実からみていくと︑恐慌と不況による生産物価格の下落に苦しむといっても︑その内容は︑V部分の割高現象と
いう形で︑収入の低さに対する生産費の相対的な割高がはっきり現われ︑そのために︑経営が圧迫を受けるという形でや
ってくる︒
生産物価格と労賃の関係とでみた場合の労賃の相対的な高さは︑実は他の物価との関係でも同じようにみられる︒ただ
し︑これは︑消費者物価指数を決定する際のように︑必要な品物をすべて検討した結果という程のものではなく︑阿部家
の﹁収支簿﹂で拾うことのできる範囲での検討である︒
日常的に使用し︑或は生産と密接な関係のある諸物資のうち︑価格の判明するものを第■表にまとめた︒ここで︑上の
方の①〜③までは直接農業関係のものであるが︑これらの価格︵堰費を価格で押えることは若干問題があるが︶の下落が
もっとも著しく・その他ではトウフの下豪例外的突き.贈︑全体として下落の幅はきわめて小さい.ビル鐸方の
秦が碗.の琵較することはできないが︑恐らく変集なかったのだろうし︑しかも︑四・銭という価格そのものが当
時の男子労働力の一日分の賃金に匹敵するかそれに近い数字であった︒
1第一次大戦後〜昭和恐慌期における信達養蚕農家の経営形態1 一二
諸物価の動き 第11表
1第一次大戦後〜昭和恐慌期における信達養蚕農家の経営形態1
率 落 下
しq
下点低時格朧
昭前〜慌格正恐価大和の名
24%
64〃
45〃
10〃
0〃
0〃
26〃
30〃
15〃
21〃
品
反当61銭
80 1
100〃
90〃
75〃
35〃
反当80銭
180〃
180〃
100〃
75〃
35〃
﹁一−1ーーi−
層代料代料油フル㈲ 一種鉄聞灯塩ウβ ㎜堰蚕蹄新電石 トビサ δ②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩
1 231〃 170〃
1
7i 10〃7パ10〃
レ1不明(,留
) 27〃 23〃
110 90〜
〜 130 ノ 100ノノ
阿部家「収支簿」
酒⑪
出典
二二
この外表示できなかった諸生活物資も︑恐らく極端な価格の下落
︹姐︺はなかったものと考えられる︒そこで︑もしそうだとすると︑さき
の第一・二回でみられる下落の状態と考え合せて次のようにみるこ
とができよう︒
まず︑農家が生産する農産物の価格は︑米価・繭価・蚕種価とも
に︑半値から三分の一以下に下落するという大幅な下落現象が起っ
ている︒ ついで︑農業生産に直接関係するような堰の費用であるとか︑農
︵網︶具・肥料或は労賃といったものの下落がやや著しい︒
これらに対して︑農業生産に関係のない生活物資については︑き
わだった下落はみられない︒特に︑農産物以外の原料を使用している生活物資は︑価格の変動が少ないように考えられる︒
以上は︑当時の全国的な物価水準からの検討ではなく︑一農家の実際の﹁支出帳簿﹂の中から拾ってみた結果なので︑
これを直ちに一般化することはできない︒しかし︑実際に中堅的な農業経営をやりながら当時を生抜いてきた生活着の
ナマ ︵誓生の記録であるので︑統計などと違って︑かえって真実味があるということもあり得る︒そこで︑ここでは︑生の現実に
基づいて︑一応次のように結論づけておきたい︒
決定的なことは︑ここでは差控えるが︑農民は︑自己の生産した農産物の価格が異常に下落し︑従って収入は半減また
はそれ以下になる︵尚この点は第4表ですでに表示︶︒このことと照応して︑生産費も下落してはいるが︑農産物の下落
程ではない︒このことは︑労賃についてはすでに検討したが︑第11表でみられる①〜③にしても︑地租を中心とする納税
にしても裏産物のよう旨立った下落はみら紮.瞳︑.云一般の生活物資はみるべき下蟹奈という状態で︑従っ
て︑日常生活上の支出︵但し︑魚とか衣類については比較のしょうがない︶については︑買い控えして節約する以外に切
りつめる方法はなかった︒
これを総括していえば︑昭和恐慌後の収入の大幅減という事態に対して︑農業生産上の必要経費をはじめ︑生活必需物
資は農産物価格のようには下落しなかったので︑まず︑農業経営の上で赤字をまぬがれず︑その上︑生活物資もその割に
は下がらなかったということから︑農家は二重の意味で生活苦に襲われたといえよう︒
養蚕業については・篁次大戦後恐蟹降諒するとい・つ意暑あ轟︑私は︑以上の検討に責養嚢家は自作農
を中心としてこの時期はむしろ発展し︑蓄積がなされた時期と考えている︒従って︑養蚕農家にとっては決して危機的な
状況にはなかったし︑そして昭和恐慌以降は︑地主も含めて農家の全階層が決定的な打撃を受けて危機的状況に追いこま
れる︑というように考える︒
お わ り に
一養蚕農家の経営という窓から︑第一次大戦後〜昭和恐慌期にかけての養蚕中心農家の経営を検討したわけであるが︑
これまでの検討を通じて︑これらの時期の経営の姿は︑不充分ながら一応つかめたものと考える︒
この稿においては︑養蚕業中心の農家は︑大正末期と昭和初期の経営が全く様相の異ったものであり︑大正期には蓄積
の基盤となり︑反対に昭和初期には再生産を保障し得なくなることをみた︒このことは︑この地方の小作争議を考える場
合に大きな意味があるものと考える︒
1第一次大戦後1昭和恐慌期における信達養蚕農家の経営形態− 二三
1第一次大戦後〜昭和恐慌期における信達養蚕農家の経営形態− 二四
福島県における小作争議は︑東北の各県と共に︑第一次大戦後恐慌期から昭和初期金融恐慌期にかけては︑まだほんの
散発的にしか起っていない︒この点は︑関東以西の地域との大きな違いで︑仮にこれを東北型と名づけるならば︑東北地
方の後進性を示すものといえよう︒
ただ︑信達養蚕地帯については︑後進性一般の類型に入れてしまうだけでは問題の解明にはならないのであって︑これ
はやはり︑養蚕地域の畑作小作の問題として別個に考えなければならないものと思う︒小作争議を︑経営の内容から一面
的に捉えることは間違いであるが︑信連地帯での小作争議は︑発展的な展開をなしつつあった時期には殆んどなく︑それ
が絶望的な状況になって爆発したものと考えるべきではないかと感じている︒森江野村の小作争議︵一九三〇年︶はその
象徴的なものであったといえよう︒
本稿との関連で︑大正〜昭和期の桑畑小作地帯における小作争議の検討を重要な課題として取上げる必要性を痛感して
いる︒ ︵1︶ 石井寛治﹃日本蚕糸業史分析﹄参照︒
︵2︶ 石井寛治氏はその著﹃日本蚕糸業史分析﹄の﹁第四章製糸資本家と養蚕農民﹂の第一節二︵三七八頁︶において︑ ﹁全耕地
に占める桑畑の比率が一四%ラインを境界に︑それ以上の県が先進県の特徴﹂とみているが︑三六・七%というのは︑一地域に
限ってではあるけれども抜群であり︑同三七九頁の第八一表によってみても︑最高の群馬県が三四・一%︑福島県が二三・一%
︵いずれも一九二一年︶であることと比較しても︑はるかに高い比率である︒
︵3︶ ただし︑零細経営者が脱落しても︑新たに新零細経営者が加わるので︵例えば拙稿﹁信達蚕糸業地帯における畑作養蚕地域農
民の存在形態﹂︹﹃福大史学﹄一八号所収︺の分析対象地向鎌田地区の場合︶︑減少するどころか増加するのが当然のように思わ
れる︒
︵4︶ 畑作地域の場合七〇〜八○%にもなっているが︑平均すればこのようになる︒
((((((((((((
16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5))))))))))))
︵17︶︵18︶
︵19︶︵20︶
︵21︶
︵22︶
︵23︶ ﹃伊達郡統計書﹄には︑以上の事実が明瞭に表記されている︒
昭和初期まで︑所有と経営とは同家の場合ほぼ一致していたとみてよい︒
大戦後昭和五年段階までは︑土地の移動はなさそうである︒
新聞・電灯料・砂糖・石油等々で︑阿部家の﹁収支簿﹂による︒
阿部家﹁収支簿﹂による︒
中農層を念頭においての場合である︒
大正九年の﹁収支簿﹂は︑五月以前の記入がないので︑収入の面で正確さを欠くことはま狙がれない︒
理由は恐らく霜害か養蚕の失敗による収量減か︑養蚕規模の縮小などによると考えられる︒
森江野村佐久間欣一家の大正四年﹁当用日記﹂︒
前掲石井﹃日本蚕糸業史分析﹄第四章第二節﹁一 繭取引の諸形態﹂参照︒
注︵n︶で示した通り︒
大正九年は︑米価が史上最高値を示す年である︒ところが︑記入もれが考えられるので︑この年は最低の収入の年となってい
る︒ 収入の八五%以上も養蚕収入に依存する農家をここでは指す︒以下同様︒
一四年の方が高値だったので︑共に二八0〜三〇〇貫程の買入量と思われる︒
昭和五年﹁農業日誌﹂による︒
同前︒ 二八二日働くということは︑もっとも多い労働日数を想定している︒
拙稿﹁信連蚕糸業地帯における畑作養蚕地域農民の存在形態﹂︵﹃福大史学﹄一八号所収︶参照︒
推定の論拠は︑収穫の稲束が一二四東︑畑は小作料が一一〇円程であることである︒
一第一次大戦後〜昭和恐慌期における信達養蚕農家の経僧形態i 二五
︵24︶︵25︶
︵26︶︵27︶
( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 39 38 37 36 35 34 33 32 31 30 29 28
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