世 紀 転 換 期 ウ ィ ー ン
倉 田 稔
目 次
序
リング ・シュ トラ‑セ 建築 と絵画
音楽 と歌劇 文学 と演劇 民族、社会 問題
学問、オース トリア ・マルクス主義
[ 付録]2 0 世紀初頭ハブスブルク帝国の日常 結 び
序
通俗 的 なイメー ジで は、 ウ ィー ンは、 ヨハ ン ・シュ トラウスの ワル ツ、魅 力的 なカ フェ、 お菓子、無責任 な快楽主義 で ある 。 ウ ィー ン人 は、料理 につ い て味 き きで あ り、良 いぶ どう酒 、 うまい ビール、伝 統 のあ る菓 子 を求 め た.社交 や 日常生活 の中 には機転 が染 み込 んだ。 ウ ィー ンは享楽 の町で あっ た。音楽 を楽 しみ、踊 り、芝居 を演 じ、談笑 し、趣味 にかない人 の気持 ちに 叶 うように振舞 うことが、特別 の技術 として守 り育 て られた。 ここで大切 に された価値 は、分別 、秩 序、進歩、忍耐、 よい趣 味、安定 であ り、一 方、不 条理 、激情 、無秩 序 は、絶対避 けるべ きもので あった。 ウィー ン気質 とは、
のんび り、適 当 に、 とい うもので あった( 1 ) 。 あ るい は、 いい加 減 主義 で あっ
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輯た。 ウ ィー ンで はビーダーマイヤー精神
(2)の影響が強 か った。
軍事 ・政治 ・商業 は、個人生活 で も社会生活 で も、優位 を占め るべ き事柄 で はなか った。 この理 由 の一 つ は、オース トリア ・プ ロイ セ ン戦 争 ( 1 8 6 6 年) でオー ス トリアが敗北 した ことで ある
。消極 的理 由 として、 その時 か ら 第 1 次世界戦争 ( 1 91 4 年勃発) までの半世紀 間 に大戦争が なか った こ とが、
挙 げ られ る。国が もし危機存亡 の淵 にある時 は、軍人 や政治家が尊敬 され よ う 。 例 えば、 トル コ軍 を破 って国 を救 ったオイゲ ン公 ( Pr i nz Eugen Yon Savoy , 1 6 6 3 ‑1 7 3 6 )や、 ナポ レオ ン 1 世 に対決 したカール大公 ( Er z he r zog Kar l ) は、英雄 であった。
しか し今 や、 ウ イ「 ン人 に とって最 も重大 な関心 は、芸術 で あった。彼 ら の第一 の興味 は、劇場 やオペ ラや コンサー トの上演 曲 目で あった。俳優 やオ ペ ラ歌手が、誇 りと憧 れ の対 象 となった。芸術 的感覚や美感 のない ウ ィー ン 人 とい う もの は、考 え られ なか った。 ウ ィー ン は楽 し く、時 に危 険 な都 で あった。 ヒル フ アデ ィン
グ (2α ) の性格 が享 楽 的 で あ る と言 わ れ るの は、 この ウ ィー ン文化 と無 関係 で はなか った。
ウ ィー ン は、 ヨー ロ ッパ の諸都 市 の うちで最 も文 化 的 な欲 求 を持 って い た。宮廷 で も貴族 ・民衆 に とって も、 ヨー ロ ッパ文化 のあ らゆ る ものが合流 した。 スラグ的、ハ ンガ リー的、スペ イ ン的、 フランス的、 フラン ドル的 な ものが、 ドイツ文化 と結 びついた。 それ は、帝国が多民族 国家で あ り、過去 に広大 な世界帝 国であった こ とに、理 由が あった。 これ らが、オース トリア 的 あ るいはウィー ン的な文化へ と昇華 した。 こうして ウィー ン人 は、 コスモ
(1 )ブリオン 『ウィーンはなやかな日々』音楽の友社
(2)1 8 3 0 年代 に初期産業革命 によってオース トリア ・小 ブルジョアジーが登場 し、その小市民的文化を指す。
(2a) オース トリアの経済学者。主著 『 金融資本論』 ( ウィーン 1 91 0 年) ; 『ド イツ経済批判』 ( パ リ1 9 3 8 年) 〔『 R. ヒル フアディング ナチス経済構造分 析』新評論、所収〕。参照、拙稿 「『 若 きヒルフアディング』補遺 」 (『 商学 討究 』42巻 4号) ;拙著 『 金融資本論の成立』青木書店 ; 『 若 きヒルフアディ
ング』丘書房。
ポ リタ ン的 になったので あ る 。
1 9 世紀後半 のオース トリア にお ける資本 主義 の発 展 は、 ウ ィー ン文 化 が 発達 した原 因 をな してい る。ハ ブスブ) レク帝 国のブル ジ ョアジー は、政治的 に は君主主義的で あった。 また実業界 で指導的 な人物 にな るに は 「 良家」 の 子女 と結婚 す る必要が あ り、 .家 で た ま父 は絶対権力 を もっていた。 ブル ジ ョア ジーの発達 とその富 の増加 によって、一 つ は文化 的、一 つ は政治 的な、二 つ の動 きが あ らわれ た。
ブル ジ ョアジー は、富 を得 る とともに芸術 に関心 を持 つ ようになった。 し か しそれ らは本物 で はな く、彼 らは貴族文化 を模倣 しようとした。 その一因 は、 ブル ジ ョア文化が成熟 していず、固有 のブル ジ ョア文化 が なか った こと で あ り、 だか ら貴族文化 を利 用せ ざるをえなか った。彼 らは芸術 を商売 の飾
りと見 な した。芸術 を後援 す ることが、富 と社会 的 シンボル となった。 しか しオース トリア経済史上 の創業者 時代
(3)をす ぎる と、 ブル ジ ョア ジーの息子 たちの生活態度 は父親 と違 って変化 して きた。彼 らはすで に経済生活 に余裕 が あ り、芸術 を本質的 に創造 的 な もの と見 な した。前世代 の者 は、過去 の時 代 の芸術 に価値 を置 いたが、新 しい世代 の芸術 は、前 向 きで刷新 的で あ り、
真 にブル ジ ョア的 な もので あった。芸術 は彼 らの生活 の核 心 をな した。 もっ ともこれ は同時 に現実生活 か らの逃避 で もあった( 4 ) 。
他 方、 ブル ジ ョアジー の発達 によって、政治で は自由派が権力 に近 づ くこ とにな る
。リン グ ・シ ュ トラ ー セ
1 9 世 紀 後 半 か らハ ブ ス ブル ク帝 国 で は、政 治 ・経 済 ・社 会 に変 化 が袷
(3 )あるいは会社群生時代、泡末会社発生時代 、1 8 7 1 ‑2 年。オース トリアで は 1 8 5 0 年代か ら産業革命が本格的に始 まった。
( 4 )トウール ミ ン 『ウィ トゲ ン シュタ イ ン の ウィーン』 TBS ブ リ タ ニ カ
1 9 7 9 年
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輯まったが、文化 の変 わ り様 が最 も顕著で あった。
帝国の首都 ウィー ンで、 この時代 に目に見 えて分か る動 きは、都市 その も の の 改 造 で あった。皇 帝 フ ラ ン ツ ・ヨーセ フ 1 世 ( Fr anzJo s e phI . , 1 830 ‑1 91 6 、在位 1 8 48‑ 1 91 6) は、1 857 年 に旧城壁取 り壊 しの布 告 に署名 し た。旧市 内 ( ‑現在 のウィーン第 1 区) を囲 って いた城 壁 が、取 り払 われ る ことになった。 これ は、古 きウィー ンの心胆 を寒か らしめた二度 にわた るあ の トル コ軍 の攻撃 を守 った物 だが、時代 の波 に洗 い流 され るのである。 これ には 2 つの理 由があった。 ウィー ン市 の人 口の増加、お よび旧市 内 と郊外 と の交通 ・交易 の必要性が増大 した ことである。 こうして近代 的都市づ くりが 始 まった。現在 の ウィー ン市 とその多数 の有名 な建築物 は、 この 19 世紀後 半 に改造 されて出来上が った。 ヒ トラーが、 アラビアン ・ナイ トのような、
と言 った都会 の誕生 であ る 。 ヒル フアデ ィングはこのウィー ン市が再建 され ていた時 に生 まれ る 。
ハ ブスブル ク帝国の建築様式 は、伝統的 にバ ロック様式すなわ ち反宗教改 革の芸術 であった。 しか しこの さい、近代的都市建築 の必要か ら、新 しい様 式が導入 され、 あるい は試 み られた。取 り壊 された旧城壁 ( 現在 ほんの一部 が残 ってい る) に代 って、旧市 をめ ぐ り環状 道 路 ( Ri ng) が完成 した。折 衷 的疑似歴史主義 的 な この大通 りは、近代 的都 市 の装 い を整 えただ けで な く、帝国の力 を誇示 したい とい う現れで あ り、軍事輸送 の便 に も供 した。世 紀末 のウィー ンの壮麗 な外観 は、皇帝 フランツ ・ヨーセ フ 1 世個人 に負 うと
ころが大 きいように見 えた。 この時代 の最 も素晴 らしい建築 の一つ は、オペ ラ ・ハ ウ ス ( 現在 の St aa t s ope r 、 シュタ‑ツ ・オーバー、国立 歌劇 場)で あ る。こ ユル ( Ed uar d van de r Nt i l l ) とシ ツカーズブルグ ( Augus t Yo n Si c c ar ds bur g) の作 であ るイ タ リア ・ル ネ ッサ ンス風 の この建 物 は 、1 869 年 に完成 した。 ところで、新 しい様 式 を取 り入 れ よ う とす る芸術 家 の苦労
は、並大抵で はなか った。 この斬新 さに対 して批判が浴 びせ られ、特 に、皇 帝 の批評 でニ ヱル は自殺 し、 シツカーズ ブル グ も心労 が た たって死 ん だ。
オース トリア はカ トリック国であ りなが ら、 ウィー ンで は多 くの知識人が 自
殺 してい る。 しか しウィー ン人 は、ハ ンセ ン、 シュ ミッ ト、 フユルステルの ような偉大 な建築家 の作品が登場 す る と、次第 に歴史主義的様 式 に慣 れて来 る。ハ ンセ ン (The ophi lYonHans e n ,デンマーク人) は、古典 ギ リシャ的 構 図 を主 に、ム ジー ク ・フェライ ン ( Mus i kve r e i n ,ウィーナー ・フィルハー モニカ‑の本拠)、株 式取 引所 ( B6r s e) 、 そ して最 も有名 な古典様 式 の国 会議事堂、 を建 てた。 シュ ミッ ト ( Fr i e dr i c hvo nSc hmi dt ,ドイツ人) は、
ル ネ ッサ ンス様 式 とゴチ ック様 式 を結 び付 けて ラー ト ・ハ ウス ( Rat haus ) を造 った。 フェルステル ( He i nr i c hYonFe r s t e l ,オース トリア人) は、疑似 ゴチ ック風 なフォーテ イヴ ・キル‑ ( Vot i vKi r c he ,1 8 5 6 )、イタ リア ・ル ネ ッサ ンス風 のウィー ン大学本館
(5)、 を建築 した。 3 名 匠 の後継者 カール ・ フォン ・ハ ‑ゼ ンア ウ ア‑ は、バ ロ ック風 の ブ ル ク ・テ ア タ‑ ( Bur gt h‑
ea t e r 、宮廷 劇 場)、お よ び ル ネ サ ン ス 的 自 然 史 博 物 館 と美 術 史 博 物 鰭 ( 1 8 7 2 ‑1 8 81 ) 、 を建 てた。 ア ドル フ ・ロース ( ‑建築家) は、 ミハエル広場 に立 つ商館 のなめ らかで装飾 のないファサー ドによって、論争 に火 をつ けた。
建 築 文 化 の 時 代 は、 ゴ チー ク時 代 が 1 200‑1 450 年、ル ネ サ ン ス時 代 が 1 450‑1 600 年、バ ロック時代が 16 00‑1750 年、 その直後 が クラシック‑古典 主義 の時代 とすれ ば、 いか に も古 い様式 を採用 したのである。つ ま り新 しい ブル ジ ョア建築様式 を もっていなか った。
彫像 も見逃せ ない。 ホ‑ フブルグ ( 宮廷) の前 にへル デ ン ・プラ ッツ ( 莱 雄広場)が造 られ、 カール大公 とプ リンツ ・オイゲ ンの銅像 ( Ant o n Fe r n‑
kor n ,1 8 1 3 ‑1 8 8 3 作)が立 った。前記 2 つのシンメ トリックな博物館 の間 に マ リア ・テレジア像 ( Ka s pa rvonZe mbi s c h ,1 8 3 0 ‑ 1 9 1 5 作)、 そ してそれ 以 外 に モー ツアル ト像 ( Vi kt or Ti l gne r 作)、皇 妃 エ リ ザ ベー ト像 ( Hans Bi t t e r l i c h 作)、ゲーテ像 ( Edmund He l l e r 作)が、 リング ・ シュ トラ‑セ を飾 った。
(5 )ウィーン大学 ( 1 3 6 5 年創立)は、 もとは現在のアカデ ミーの建物 にあった。
都市改造時代、1 8 8 4 年に新 しい建物が出来、現在地に移転 した。
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輯建 築 と絵 画
世紀末か ら 2 0 世紀 を代表 す るオース トリアの建築家 は、オ ッ トー ・ワグ ナー ( Ot t oWa gne r ,1 8 4 1 ‑ 1 9 1 8 )
(6)である 。 彼 の代表作 は、 アム ・シュタイ ン ホ‑ フ 教 会 ( 1 9 0 5 ‑ 0 7 ) 、数 多 く の ウィー ン ・シュタ ッ トバ ー ン の 駅 ( 1 8 9 4 ‑ 9 7 ) ‑ 代表 はカール ス ・プラ ッツ ‑ 、 ウィー ン ・ポス トシュ パ ール カ ッセ ( 1 9 0 4 ‑ 0 6 ) な どで あ る。彼 はウィー ンの新 しい建 築様 式 ‑擬 古典主義 を打 ち破 った。 そ して歴史主義 か らユーゲ ン ト・シュテ イルへの橋 渡 しをした。
ユーゲ ン ト・シュテ イル とは、オース トリアで 1 8 9 6 年 に創刊 され た雑誌
『 ユーゲ ン ト』 ( 青年) にちなんで名 づ け られ た もので あ る。時代 にマ ッチ した造形様式 を求 めた、広汎 な、世紀末 の改革運動で ある。建築家 で は、 ワ グナーの弟子オルブ リヒ ( J o s e p hOl b r i c h) が これ に属す る。彼 は 「ウィー ン分離派」展示館 ( セセ シ ョン 、1 8 9 7 ‑ 8 ) を設計 した。 もう一人 の ワグナー の弟子 に ヨーゼ フ ・ホ フマ ン ( J o s e p hHo f f ma n n) が い る 。 ウィー ン分 離 派 とは、正統 的で帝室 ア カデ ミー風 の芸術 活動 か ら自分 たち を切 り離 した 人々の ことをいい、前掲 の 『 ユーゲ ン ト』 に結集 した。 こうしてオース トリ
アは固有 のブルジ ョア建築 を生 み出 した。
この時代 にオース トリア は世界 的 な画家 を出 した。 グスタ フ ・ク リム ト
( Kl i mt ,1 8 6 2 ‑ 1 9 1 8 ) である
。彼 の父 はボ‑ ミア出の金細工師 ‑職人 で、 ク リ ム トは生粋 のウィー ン子 で はないが、彼 の絵画 は、世紀末 ウィー ンの精神 を きわめて象徴 的 に表現 してお り、官能的な美 しさ、女性 とそのエ ロスを追求 した。彼 は保守的なウィー ン芸術家協会 に入 っていたが、 その中で新 しいグ ループ を作 ったので脱 退勧 告 を受 けた。 こうして ウィー ン分 離派 が で きあ が っ
た 。(6 )著作 ・訳 『 近代建築』中央公論美術出版 1 9 8 5 年
分離派 の新 しい芸術 の一 つの 目標 は、芸術 と生活 を融合 す る こ とにあっ た。 あ らゆるものを芸術 の対 象 にし、芸術 はすべ ての人 の共有財産 と考 え、
高級 な芸術 と貧乏人 の芸術 との区別 はない とした。 ク リム トに従 った者 に、
シー レ ( Ego nSc hi e l e ,1 8 9 0 ‑ 1 9 1 8 ) そ してム ンク ( 1 8 6 3 ‑ 1 9 4 4 ) 、が出 る 。 新 しい この芸術 は、 ドイツ とオース トリアで は 「 ユーゲ ン ト・シュテイル」、
フランスで は 「アール ・ヌーヴォ‑」 と言われ る 。
1 8 9 7 年 は特 徴 的 な年 で あ る。分 離 派 が 結成 され、 ブ ラーム スが亡 くな り、マー ラーが ウィー ン ・オペ ラの指揮者 になったのである。
音 楽 と歌劇
ウィー ンで は誰 で も楽器 を演奏 した。演奏会で音符が間違 えば、聴衆 は文 句 を言 った。 こうい うウィー ン民衆が下か ら音楽水準 を上 げ、 ウィー ンの音 楽家 は技量 を上 げるのを怠 け られなかった。ベー トーベ ンの臨終 の家
(7)が取
り壊 され るさいには、人々 は請願 をし、 デモ をか け、論説で戦 った。
ウィー ンの楽壇 で 1 9 世紀後半 に活躍 したの は、 ブラームス ( 1 8 3 3 ‑ 1 8 9 7 )
で あった。彼 は 1 8 6 9 年以来 ほ とん どウィー ンで生活 し、楽友協会 の指揮 を し、古典 音楽 の伝 統 を守 った。 ア ン トン ・ブル ックナー ( 1 8 2 4 ‑ 9 6 ) も、当 時 のウィー ン音楽 を代表す る作 曲家 で、 ワグナー派 としてブラームス と対立 した。彼 は 1 8 6 7 年以来 ウィー ンに住 み、 ウィー ン ・アカデ ミー教授 で あっ た。 ただ し死後 の方が有名 になった。 ブル ックナー とともにワグナー派 とし て、 と く に リー ト ( 歌 曲) で 活 躍 し た の は、 フ‑ ゴー ・ヴ ォル フ
( 1 8 6 0 ‑ 1 9 0 3 ) である
。グスタフ ・マー ラー ( Gu s t a vMa hl e r ,1 8 6 0 ‑ 1 9 1 1 ) は、 ブル ックナーの弟 子 で あ る 。2 3 才 の時、 自作 の詩 に作 曲 した歌 曲集 『さす ら う若人 の歌』
Li e de re i ne sf a hr e nde nGe s e l l e n ( 1 8 8 3 年発表、公開初演 1 8 9 6 年)で、若々
(7 )今 はない.場所だけ明示されている。 Sc h wa r z s p a n i e r s t r a L S e1 5
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輯し く甘美 な音楽 を示 した。 シンフォニー は全 1 0 曲あ り、 1 番 か ら 9 番 まで と、主 に李 白の詩 に よる有名 な 『 大地 の歌 』 ( 1 9 08 年作曲、本来第 9 交響 曲 になるはずであった)で あ る。交響 曲第 1 番 ニ長調 「 巨人」 は、第 2 楽章 に オース トリアの農民舞 曲 を入れた、オース トリアの森 の音楽 であ り、彼 の青 春 の歌 で もあ る
。第 2交響 曲 は 「 復活」、第 3交響 曲 は 「わが喜 ば し き知 識」 また は 「 夏 の朝 の夢 」 ( 1 8 9 5 ‑9 6)
。彼 の傑作 の一 つ は、交響 曲第 4 番 ト長 調 ( 1 9 00 完成、1 9 01 年 ミュ‑ ンで初演)で、モーツ アル ト・ベ ー トーベ ン的古典音楽 をロマ ンチ ックな発想 と色彩感 あふれ た新 しい音楽 に仕上 げ た。第 5 番 はハ短調、第 7 番 は 「 夜 の歌」 ホ短調、第 8 番 は変 ホ長調、千人
先駆者 といわれ、 その音楽 は新 古典 主義 とよばれ、現代音楽 と直接 結 び付 き、 シェー ンベルグ ( 1 87 4 ‑1 951 )、 シ ョスタコヴィチ らに影響 を与 えた。
1 897 年、宮廷 オペ ラが指揮者 を探 していた時、 ブ ラームス は、 「その地 位 に適 した人 は一人 しかいない、 グスタフ ・マー ラーだ‑」 と言 った。カー ル ・クラウスは書 いた。 「マーラー氏 を宮廷 オペ ラの監督 にす る噂が ある
。‑そ うなれば、才能 あ る若 い作 曲家 の作品が、 目を通 されず につ きか えされ るな どの ことはないだ ろう。」
マーラー は、 ウィー ン ・オペ ラの指揮者 とな るか ユ
ダヤ教 徒 で い るか に 迷 った挙 げ句、 カ トリック となった。彼 はニーチ ェを信奉 した。マーラー は ハ ンブル グの指揮者 で あったが、1897 年 にハ ンス ・リヒタ‑の後 を襲 い、
若冠 36才で ウィー ン宮廷歌劇 の指揮者 になった。 「 若冠」 とい うの は、老
人 の国オース トリアであるか らに他 な らない。彼 は芸術 的完壁 を目指 し、音
楽 をつね に高い水準 に維持 しようとして、熱狂的 な態度 を持 した。彼 はオペ
ラ劇場 で、 きわ めて細部 にいた るまで、仮借 ない鉄 の訓練 を課 した。マー
ラー は、 この時代 にオペ ラの大指揮者、模範的指揮者、 として仰がれ るにい
たった。彼 の指揮す る宮廷オペ ラには、世界最高 のオペ ラ歌手が集 ま り、出
演 したのである 。 またマー ラー は、 ウィー ン ・フィルハ ーモニーの指揮者 に
もなった。 このオーケス トラの奔放 な表現力 は、 マー ラーの要求 した厳密 さ
と結 びついていた。マー ラー は、芸術 に揺 るぎない信念 を もち、意志 の人で あった。 しか し 「 柔軟 な膝」 を持 たなか ったわ けで はない。 だが 「 サ ロメ」
の上演 はついに許 可 され なか った。ハ ブスブル ク帝 国で最 も権力 を持 ってい た宮廷侍従長 ( 宮内大臣) モ ンテヌオ ヴォ公爵 のお気 に召 さなか ったのであ る。 マー ラーが ウ ィー ンを去 らね ばな らなか ったの は、 モ ンテヌオ ヴ ォ公爵 の策謀 だ と言 われ る 。 彼 は 1 907 年 にウィー ンを去 って、主 にア メ リカで活 躍 す る
。そ の後 継 者 は ワ イ ンガ ル トナーで あ る
。従 って マー ラー に よ る ウ ィー ン ・オペ ラの全盛 時代 は、若 い ヒル フアデ ィングのウ ィー ン時代 と一 致 してい る。評論家 たち は、マーラーの ヨー ロ ッパ脱 出 を 「 文化 的悲劇」 と 呼 んだ。
マー ラー は、 シェー ンベル グの音楽 を個人 として は理解 で きなか ったが、
彼 を支持 した。マー ラー の音楽 は、後 のナチズム時代 に は、ユ ダヤ人 である とい う理 由で メ ンデル ス ゾー ン と ともに禁止 され る。 ∫. シュ トラウス もそ うだった。 ロダ ン作 マー ラーの胸像 は国立 オペ ラにある.
シェー ンベ ル グ はウ ィー ン生 まれ で、1 903 年 に ウィー ンに戻 り、 この頃 か ら独 自の音楽 を作 曲 し始 めた。彼 によって現代音 楽が始 まった。
モー ツ アル ト、ベ ‑ トー フェン、 シューベ ル トの都 に、音楽 の英雄 が生 ま れた。 ヨハ ン ・シュ トラウスその人 で ある。 ウィー ンは音楽 の都 と言 われ る が、1 9 世 紀後 半 にウ ィー ンの人々 あ るい はハ ブス ブル ク帝 国 の人々 に一香 愛 され た音楽 は、 ヨハ ン ・シュ トラウスの ワル ツであった。 ワル ツの父 ヨハ ン ・シュ トラウス ( 1 8 0 4 1 1 8 4 7 ) は、1 9 世 紀前 半 に活 躍 し一 世 を風 び した。
有名 な作 品 は、 「ア ンネ ン ・ポルカ 」 「ラデッキ一 ・マ‑ シュ ( 行進 曲) 」
な ど で あ る。実 子 で 同 名 の 「ワ ル ツ の 王 様」 ヨ ハ ン ・シュ トラ ウ ス ( 1 8 2 5 ‑ 1 8 9 9 ) は、父 よ り有名 になった。ハ ブスブル ク帝 国が崩壊 しなか った 理 由 の一 つ は ヨハ ン ・シュ トラ ウス の ワル ツ に あ り、 と言 わ れ る ほ ど、
ウィー ンの人々 はこの音楽 に熱 中 し愛好 した。彼 の有名 な作 品 は 「 美 し く肯
き ド ナ ウ 」 ( 186 7) 、 「酒 ・女 ・歌 」 ( 1869) 、 「ウ ィー ン 気 質 」
( 1 8 7 1 )、 その他、 「 芸術 家 の生 涯」、 「トリッチ ・トラ ッチ ・ポル カ」、
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輯「 春 の声」、 「ウ ィー ンの森 の物語」、 「 皇 帝 円舞 曲」、 「 南 国 のバ ラ」が あ る。彼 は 1 8 4 8 年 革命 で、バ ン ドを率 い て参 加 し、多 数 の革 命 曲 を作 っ た。 そ こで宮廷 か ら嫌 われ た。
ワル ツの調べ に乗 って ウ ィー ン人 は踊 り続 けた。 このダ ンス は、オース ト リアの歴史始 まって以来初 めて、公衆 の前 で異性 に触 れ る ものだった。 ワル ツ はウ ィー ン生活 の歓喜 の象徴 で あった. またダ ンス に対 す るウィー ン人 の 情熱 は病 的 なほ どで あった。 ワル ツ とダ ンスに うつつ を抜 か したの は、一 方 で、過酷 な 日常生活 の現実か ら逃 れ る必要が あったか らで もある 。
ワル ツ 「 美 し く青 き ドナ ウ」が どれ ほ ど愛 されたか。 ドナ ウの静 かな流れ を思 わ せ るあ の序 奏 が、人々 の挨 拶 (「ク リュ‑ス ・コッ ト」)代 わ りに なった。 この曲 は、オース トリア‑ハ ンガ リー軍 がサ ドヴ ァでプロイセ ン軍 に敗 れた二、三週間後 に書かれた もので ある
。その戦 いの結果、ハ ブスブル クの ドイ ツ諸 国へ の覇権 主義 も終 った。 あ まつ さ え、 この帝 国が二 流 国 に なっていた ことが、明 きらか になった。 「 育 き ドナ ウ」 は国民 の心 の救 い と なった。
J ・シュ トラ ウ ス は、 ま た オ ペ レッタ も手 掛 け た。 「こ う も り 」 Di e Fl e de r ma us は 1 8 7 4 年 に、 「ジプ シー男爵 」 De rZi ge une r ba r on は 1 8 8 5 年
に ウィー ンで初 演 され た。数々 あ るオペ ラや オペ レッタ の中 で、 これ ら は ウ ィー ン子 のお気 に入 りで ある とともに、 ウィー ンの気分 を代表 している 。
「こう も り」 は 、1 8 9 6 年 か ら 1 9 21 年 まで に 1 万 2 千 回上 演 され た。 この暗 い名前が嫌 だったシュ トラウスの 「こうもり」初演 の直前 に、経済恐慌 が起 きて い た。 「 黒 い金 曜 日」 と呼 ん だ 1 9 7 3 年 5 月 7 日に、株 価 が大 暴 落 し た。 だか ら 「フレーダーマ ウス」 は、 その悲惨 をウ ィー ン ・ブル ジ ョアジー の心 か ら拭 い とる効果 が あった。
ウ ィー ンの民衆 は、ム ジカー リッシュ ( 音楽好 き)で\ ある。 これ は、国 の
歴史 と伝統 のお陰であ る 。 上 は皇帝 ( 1 8 世紀)か ら下 は庶民 まで、音楽好 き
で あった。 マ リア ・テ レジアか らヨーセ フ 2 世 の治世 にか けて、 グル ックが
宮廷作 曲家 であった。女帝 はグル ックを娘 たちの音楽 の先生 に した。 グル ツ
クの後任 として、 ヨーセ フ 2 世 は、 その半分 の月給 だが、モー ツ アル トを任 命 した。次 の レオボル ト 2 世 は、 自 ら作 曲 した。次 の時代 か ら、皇帝 は音楽 の保護者 で な くなった。帝国 に生 まれたハ イ ドンや、 ボ ン生 まれのベ ー トー ヴ ェンは、オー ス トリアの、ハ ンガ リーの貴族 の保護 を受 けざるをえなか っ た 。1 9 世 紀後 半 に は貴族 階級 もその任 をお りた。 したが って三 月革命以 降 は、市民階級 ‑ブル ジ ョアジーが ウ ィー ンの音楽 を支 える ことになった。 ワ グナー、 シュ トラウス、 ブラームス、 ヴォ) レフ らは、すで に貴族 階級 に庇護 されていなか った。 この ような社会 ・経済 的変化 が、音楽 その もの も変化 さ せず におか なか った。音楽 を支 えたブル ジ ョアの中心 は、ユダヤ人 で あった とされ る 。 彼 らは劇場 ・演奏会 を満 た し、書物 ・絵 を買 い、 それ に よって文 化 を奨励 した。
ウィー ン は、歌劇 ( Ope r ) で は世 界 の 中 心 で あった。ベ ‑ トー フェンが 最 も有名 になったウィー ン会議 の時代 まで、 ウィー ンで最 も好 まれたオペ ラ は、 ドイ ツ歌劇 で あ り、 と りわ けモー ツ ァル ト ( Moz ar t ,1 7 5 6 ‑ 1 7 9 1 ) の歌 劇 で あった。彼 は 『フ ィガ ロの結婚 』 LeNoz z ediFi gar o ( 1 7 8 6 年 ウィー
ン初涛)で貴族 階級 を風刺 したが、 ウ ィー ンの貴族 はそれ を知 ってか知 らず か、笑 い こけた( 8 ) 。ベ ‑ トー フェンの晩年 の ころか ら、 ウィー ンのブル ジ ョ アの趣 味 が変 わ り、 イ タ リア ・オペ ラの全盛 時代 とな り 、1 9 世 紀後 半 か ら ワグナーの楽劇 が ドイ ツか ら入 った。 ワグナーのい くつかのオペ ラは、古 い
ドイツの神話 か ら題材 を取 ったので、オー ス トリア人 す なわち ドイツ人 の心 の琴線 を掻 き鳴 らした。
世 紀末 か ら 2 0 世 紀初頭 にか けて、 ウィー ンで よ く演 じたオペ ラの出 し物 は、例 えば、 ワグナー 「トリス タ ン とイ ゾル デ」、 「さ ま よえ るオ ラ ンダ 人」、 「ローエ ング リン」、 「タ ンホイザー」、 モー ツ アル トの 「フィガ ロ の結婚」、 「 魔笛」、 マー ラーが復活 させ たオ ッフェンバハ の 「ホフマ ン物
(8 )ボーマルシェ作。 これは当時の革命文献であった。
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輯語」、 ビセーの 「カ ル メ ン」、 ヴェル デ ィの 「イ ル ・トロ ヴ ァ トー レ」、
「ア イーダ」、プ ッチーニ の 「ラ ・ボ ェ‑ム」、 ヴェ‑バーの 「 魔 弾 の 射 手」 、J. シュ トラウスのオペ レッタ 「フレーダー ・マ ウス」、 スメタナ 「 売
られた花嫁」、 チ ャイコフスキー 「スペー ドの女王」 な どであった
(9)o 文 学 と演劇
1 9 世 紀 の終 りの 1 0 年 の時代 に、オース トリアで は新 しい文 学 が花 開 い た。新 しいタイプの詩人 ・作家が登場 した。 アル トウール ・シュニ ッツラー ( Ar t hur Sc hni t zl er ,1 8 6 2 ‑1 9 3 1 )や フ‑ゴー ・フォン ・ホ‑ フマ ンスタール ( HugoYonHof manns t hal ,1 8 7 4‑ 1 9 2 9 ) らであった。
シュニ ッツラーの名 を高 めた もの は、劇 『 アナ トール 』 Anat ol ( 1 8 8 9 ‑ 9 0 作、1 8 9 3 )で あ る。彼 はウイ‑ナ リッシュ ( ウィーン言葉)で書 い た。 そ の 後、人妻 に恋 を しそのため決 闘 で死 ぬ フ リッツにたいす る純情 な娘 ク リス テ ィーヌの愛 を描 いた 3 幕物 の劇 『 恋愛三昧 』 ( 1 8 9 5)、 『 輪舞 』 ( 1 9 0 0 ) を発表 した。 シュニ ッツラー はフロイ トと同 じ考 えを抱 いた。
シュニ ッツラーやヘルマ ン ・バール は、 ウィー ンを中心 として反 自然主義 の文学 グループ 「 若 い ウィー ン派」 を代表 した。若 い詩人 たちが 「カフェ ・ グ リー ンシュタイ ドル」 ( 9 a ) に集 まった。
これ に加 わったのが、早熟 の天才 ホ‑ フマ ンスタールである 。 『 デ ィ ・プ レツセ』 の付録 に詩 「問い 」 ( 1 8 9 0 ) を発表 して、批評家‑ルマ ン ・バール を驚 か し、 『 昨 日 』 ( 1 8 91 )、 『 テ ィツイア ンの死 』 ( 1 8 9 2 ) と、矢 つ ぎ早 に美 しい ドイツ語 の響 きの詩劇 を出 して、撃星 の ように登場 したホフマ ンス タール は、 まだ高校生 であった。彼 はその後、象徴主義的 ・唯美主義的作品 を書 き、 シュニ ッツ ラー と ともにウィー ンの文学 に、 グ リツバ ル ツアー、
シュテ ィフタ一、ネス トロイ も及 ばなか った ほ どの世界 的名 声 を与 えた。
(9)W. A. J e nks ,Vi e nnaa ndt heyo un gHi t l e r ,N. Y.1 9 6 0
( 9a)ThomasMar t i ne k ,Ka
j7Tee h au s e ri n WZ e n,W呈 e n1 9 9 0 , S . 4 2 ‑ 4 5
ホ‑ フマ ンスタール は後 年、作 曲家 リヒャル ト ・シュ トラウス と組 んでオペ ラの作 詩 を した。 「ローゼ ンカ ヴ ァリエー 」 ( バ ラ の騎 士)、 「ア リア ド ネ ・アウフ ・ナ クソス」、 「 エ レク トラ」、 「 影 のない女」、 「エ ジプ トの ヘ レナ」、 「アラベ ラ 」 な どで ある
。演劇 にもウィー ン人 は熱 中 した。 この中心 はブルク ・テアーク‑ ( 宮廷劇場) で あった。 これ は、 もともとヨーセ フ 2 世 が設 けた ものだが、都 市改造期 に 新築 された。 ブル グ ・テアーク‑ は、 まず権威 のある もので、帝 国最高級 の 劇場 で あった。劇 作 家 はその脚 本 が こ こで上演 され れ ば帝 室 の賓客 となっ た。 だか らウィー ンの作家 の最大 の夢 で あった。 それ ばか りで ない。 ウィー ン市民 は、宮廷俳優 の演技 を見 て良い趣 味 を学 んだので ある
。彼 らの会話、
着 こな し、物腰 、発音 な どが、市 民 の見本 となった 。2 0 世 紀初 頭 に ウィー ンの劇場 で よ く上 演 され た もの は、 レ ツシ ング、ゲーテ、 シラー、 ア イ ス キュロス、 シェイ クス ピア、 イプセ ンな どで あった。演 出家 ゾンネ ンタール やマ ックス ・ライ ンハ ル トの活躍 で、 ウィー ンは世界 的演劇都市 とな った。
人 々 は偉大 な国民 的俳優 や女優 をあたか も英雄 の ように仰 ぎ見 た。有名 な俳 優 として ゾンネ ンタール、 ヨーゼ フ ・カイ ンツ、女優 として シャル ロ ッテ ・
ウォル ター な どが知 られ る。人々 は 「 劇 場 狂 」で あった。 また ウィー ン人 は、舞台上 であ ろうと実生活上 であ ろうと、演劇 的 な ものを喜 んだ。
民 族 、社 会 問 題
ハ ブスブル ク帝 国 に はフランツ ・ヨーゼ フ 1 世が立 っていた。 ヨー ロ ッパ 随一 の美人 とうたわれた従姉妹 エ リザベ ー トと結婚 し、 また国民 か ら敬愛 さ れた。彼 の 肖像が国中 どこに もあった。 だが母 には頭 が あが らなか った し、
個人生活 で は幸福 で はなか った。息子 は自殺 し、妻 は共 に生活 しな くな り、
その後彼 女 は暗殺 され た。皇位継 承 者 たち は、病死 し、 あ るい はサ ライ ェ ヴ ォで暗殺 され る。皇帝 は新 しい こ とが嫌 いであった
。オース トリア に は上 級貴族 80家族 が社会 の トップにいた。近代化 は十分
浸透 していなか った。社会 は情実で動 き、役所 は仕事 が遅 く、袖 の下 が まか
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輯り通 った。政治 は秘密 に行 われ、政治問題 で は新聞 は検閲 された ( 1 0 ) 0
1 850 年代 に本格 的 な産業革命 を迎 えたオース トリア帝 国 は、 それ以 降 ド ラステ ィックな社会 的改造 を経験 した。政治的 に は 1 860 年代 に自由派が勢 力 をもった。彼 らはブル ジ ョアジー と開明的官僚 の代表 であった。 ブル ジ ョ
アジー は、産業革命 の進展 とともに力 を得 たのであった。 しか しオース トリ ア ・ブル ジ ョアジー は政治権 力 を獲得 す る意欲 はな く、貴族 階級 が それ を 握 っていた。経済的 自由主義 の時代 とされ るこの時代 は、帝国が経済的 に中 進 国で あったため、 その自由主義政府 も徹底的で はなか った。
議会 は 、1 897 年 か ら緊急勅令 のために滅 多 に開かれず、1 907 年 の普通選 挙以後再 び開かれた。普選 は、男子成年 のみで、テスライタこエ ンつ ま り帝 国 の西部 だ けに導入 され た。 しか も 1 914 年 にシュテユル ク首相 が議会 を解 散 し 、1 91 7 年 まで開かれなか った。
オース トリアの農民世界 は、 と くに厳 しい条件 にあったので はなかった.
解放 された農奴 か ら貴族 が再 び土地 を購入 す るの を禁 じた ヨーセ フ2 世令 は 、1 91 8 年 まで残 った。特 に 、1 848 年 3 月革命 の成果 であ る農民解放令
(ll)によって、農村 の封建制 は断ち切 られていた。
・近代社会 の発達 あるい は産業革命 による資本主義 の発展 は、二つの社会 問 題 を生 み出 した。すなわち大量 の人 口が都市 に流入す ることによる都市 (と
りわ けウィー ン)問題 であった。 また資本主義 的工業化 によって増大 した労 働者階級 の労働 問題で ある。 自由派 は、 この 2 つの問題 をつかみ きる能力 を 伝統 的 に欠 いていた。 そのため政 治 的支持 を急速 に失 って ゆ き 、90 年代 ま で には弱体化 した。 とりわ け市民層 と小市民層 は、 あ らゆる側か ら、進歩、
都市 の成長、技術、大量生産、経済 の集 中 に よって脅 か され た。1 859 年 の ギル ド規定 の廃止後 30年 内に、 ウィー ンだけで ほぼ 4万 の手工業企業が倒
( 1 0 ) Wi l l i a m M.J o hns t on,Os t e m i c hi s c heKul t ur ‑undGe i s t e s ge s c hi c ht e .Wi e n 1 9 7 2 . 邦訳 ジョンス トン 『 ウィーン精神』 Ⅰ、 I I. みすず書房。
(ll)
クー トリヒの発議、ラサーの執筆。
産 した。
ここに 2 つの大衆政党が登場 した。都市間題 を取 り上 げたのがキ リス ト教 社 会 党 で あ り、指 導 者 は、庶 民 出 の ド ク トル ・カール ・ル エーガ‑
( 1 8 4 4 ‑1 91 0 )( 1 2 ) で ある
。彼 はウ ィー ン市長選挙 で勝 ったが、皇帝 フラ ンツ ・ ヨーセ フ 1 世 は、 この党 の反ユダヤ主義 のために、 3 度 も市長 の認証 を拒否 した
。しか しとう とう、ルエーガ‑ は市長 になった。彼 は 1 5 年 間 の市政 の 中で、都市間題 の解決 に尽力 した。都市間題 は 2 つの難 問 をもっていた。住 宅問題 と上 ・下水 問題で ある。ルエーガ‑ は交通網 を近代化 し、教育制度 を 拡大 し、つ ま り学校 を沢 山作 った。 ウィー ンに緑地帯 を設 け、社会保 障の改 善 をした。1 899 年 にガス事業 を市営化 し 、1 902 年 に市電 を電化、街路 灯 を 電化 し、市場、屠殺場 を作 った。典型的な もの は、遠大 な第 2上水道 の敷設 だった。彼 は支配階級 との連携 を求 めた。ルエーガ‑の政治的支持層 は、労 働者階級 と小市民層、すなわちサ ラ リーマ ン、下級官吏、小商店 主、家屋管 理人、助任 司祭 な どで あ り、工業化 と社会 的零細化 に脅 か されていた人々で あった。 このキ リス ト教社会党 は、反 ユダヤ主義 を掲 げた。ユダヤ人 は下層 中産 階級 に経済的 に憎 まれていた。 もち ろんユダヤ人 はスケープ ・ゴー トに されたので ある 。 ルエーガ‑の支持母胎 は、後年 の ドイツの ヒ トラーのそれ と共通 している。
労働 問題 に取 り組 んだのが、社 会民主党 で あ る。 この 2 つ の政治勢力 が 19 世紀末 か ら急速 に台頭 した。世紀 の変 わ り目に社 会民 主党 は興 隆 した。
もっ ともハ ブス ブル ク帝 国 のつ まず きの石、民族 間題 は、共 に解決 で きな かった。
19 世紀 末 に は、 その民族 間題 が登場 した。 チェコ人 は、チ ェコ語 と ドイ ツ語 の同権 を要求 した。 ケ一二 ヒグ レーツ ( 1 8 6 6 年)の戦 いで、オース トリ アが ドイツの政治か ら締 め出 されてか ら、オース トリアが ドイツでな くパル
( 1 2) J o hanne sHawl i k ,De rBi i y ge : r k a i s e rKar lLue ge runds e i neZe i t .He r o l d
Ve r l ag,Wi e n/M臼nc he n1 9 8 5
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輯カ ンに 目を向 ける と同時 に、帝 国で はナ シ ョナ リズムが伝 染 病 の よ うに広 が った。
1 873 年 恐 慌 で 反 ユ ダ ヤ感 情 が爆 発 し、ガ リチ ア、ハ ンガ リー、 ブ コ‑
ヴ ィナか ら移民者が流れ込 んで くるにつれて、反 ユダヤ主義 が改 めて表面 に 出て きた。 ウ ィー ンが宥和 的妥協 的 なために、 ユダヤ人 の解放 が著 し く進 ん でいた。 そのために東方か らユダヤ人 が ます ます流れ込 んだ。 そ うす る とま た反 ユダヤ主義 が表面化 した。
ユ ダ ヤ人 は、土 地 を もつ権 利 と選 挙 権 とを 1 849 年 まで持 って い なか っ た。ユダヤ人 には出世 をして恨 み をはらそ う とい う人 が少 な くなか った。 ユ ダヤ人 の母親 に も、住 む国 にアイデ ンテ ィテ ィーが感 じられ ないので、子供 の教 育 にか け る者 も多 か った( 1 3 ) 。 ユ ダ ヤ人 が 上 昇 した幾 つ か の理 由で あ る。18 57 年〜 1 91 0 年 に、 ウィー ンの ユ ダ ヤ人 口比 率 は、 2%か ら8. 5% に 上 が り、 レオ ボル トシュタ ッ ト ( ウィーン第 2 区) で は 3 分 の 1になった。
世紀 の変 わ り目ころの ドイツ市民 のウ ィー ンは三人 の重要人物 を もった、
と言われ る 。 シェ‑ネラー、ルエーガ一、 ワー グナーであった 。 その一人 、 反 ユダヤ主義思想家 で有名 な人物 が、ゲオル ク ・リッター ・フォン ・シェ‑
ネ ラー ( 1 8 4 2 ‑1 9 21 )
(14)で あ る。オー ス トリア の ヴ ァル トフイア テ ル ( ‑ ニーダー ・エ ステライ ヒ西部 ) の生 まれで、地主 ( ‑貴族) の子 で あった。
初 め急進 主義者 であったが、ついで過激 ナ シ ョナ リズム に転 じた。彼 は、 ド イツ精神 が、 ユダヤ人 、 ローマ ・カ トリック、 スラブ人、社会主義者、ハ ブ スブル ク君主制 、 イ ンターナ シ ョナ リズムに脅 か され ている と考 えた。 ロー マ分離運動 を組織 し、 カ トリック教会 を敵 にした。 こうして初 めて政治 ・社 会 的 ・生物学的 な反 ユダヤ主義 を唱 えた。 これ まで は、反 ユダヤ主義 は宗教 的 ・経済 的動機 であった。彼 のス ローガ ンは、 「 宗教 はどうで もよい、不潔
( 1 3 ) ジ ョンス トン
( 1 4 ) Car l E. Sc ho r s ke, Fi n‑ de‑ s i e cl eVi e nna. N. Y. 1 9 81 邦訳 シ ョースキ 『 世紀
末ウィーン』岩波書店
は血 の中 にある」 とい うもので あ り、彼 の格 言 は 「ユダヤな く、 ローマな く して、ゲルマニアの ドーム は建 設 され る。‑ イル ! 」 で あった。彼 の思想 は ヒ トラー に影響 を与 えた。
ヒ トラー ( 1 8 8 9. 4. 2 0 ‑ 1 9 4 5 ) は、 イ ン河畔 プ ラウナ ウに生 まれ た 。1 9 0 6 年 5 月 に初 めて受験 で ウ ィー ンに 2 週 間行 った 。1 9 0 7 年 1 0 月 に もウィー ンに 来 た 。1 9 08 年 2 月、最終 的 に リンツ をあ とに し、彼 の ウ ィー ン時代 が始 ま る
。彼 は、運動 をルエーガ一、思想 をシェーネラーか ら見 て学 ぶので ある 。
学問、オース トリア ・マル クス主義
フロイ ト
(15)は 、1 8 56 年 にメ‑ レンの フライ ブル グ ( 現在のチェコスロヴァ キア) に生 まれた。両親 はユダヤ人 で あった。 お よそ 3 才 の時、父 の事業 が 失敗 し財 産 を失 い 、1 85 9 年 に ウ ィー ンへ移住 した。大 学 で はダー ウ ィンに ひかれた 。1 8 81 年 に卒業 し、 Dokt orde rges amt e nHei l kunde になった。
ギムナジウム時代 の親友 の義兄弟が ヴ ィク トル ・ア ドラーだったので 、1 8 83 年か 4年 に昼食 に招 かれ た。 こうして彼 はア ドラー とも親 しいのであ る。 フ ロイ トは、 とう とう正 教授 に はなれ なか った 。1 9 02 年 に、 ウ ィー ン大 学 の 員外教授 となったが、 それで も情実 でなった。 ウ ィー ンは彼 を高 く評価 しな か った 。1 91 0 年 に彼 は、 ウ ィー ンお よび国際精神分 析協 会 を創 立 し、 こ う して フロイ トの思想 はまず ウ ィー ンにで はな く、世界 に広が り始 め る
。フロ イ トは こう書 いてい る 。 「抵抗 に関す る説 と抑圧 に関 す る説、無意識 の学 説、性愛 の生活が病 因 として もつ ことに関す る説、 な らび に児童期 の体験 が 重要 で あ る とす る説が、精神分析 の主 た る構成部分 なので ある 。 」
(16)カール ・クラウスの風刺 と論争 は、 中産 階級 の偽善 といんち きを、才気縦
( 1 5 ) 拙書 『 若 きヒルフアディング』 ( 丘書房 1 9 8 4 年)で、少 しフロイ トを書い ているので、 ここでは省略する。
( 1 6 )Se l b s t d ws t e l l un g 『自らを語 る』 日本教文社 、5 1 ‑ 2 ペ ー ジ
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輯横 の機知 にあふれ た巧妙 な文章 で攻撃 した. ウ ィー ンの人々 は、 フロイ トと クラウスが提起 した問題 を検討 す ることを恐れ、彼 らの名前 を公然 と書物 の 形 で出 さなか った。
当時 オース トリアが生 ん だ世 界 的学 者 は、モ ラ ビア出 の フッサール ( 哲 学) *、 ア ン トン ・メ ンガー、ハ ンス ・ケルゼ ン ( 汰) *、 アル フオンス ・
ドブ シュ ( 歴史) らで ある。言語 ・記号体 系お よびすべ ての種類 の表現手段 にか んす る思想 は 、1 910 年 に はウィー ンの文 化 的論争 のすべ て の分 野 で あ りふれた もの になっていた。 その中でヴ ィ トゲ ンシュタイ ン ( 哲学) *が 出 る
。評論 で クラウス *、 そ してカール ・メ ンガー、 ウイ‑ザ‑、ベ ーム ・バ ヴ ェル ク、後 にシュ ンペー ター らの、経済学者、遅 れ るが文学 で ロベル ト ・ ム ジール *、 ロー ト*、 プロ ツホ *、 そ してカ フカ *が登場 す る
(17)。
ウ ィー ン文化 を担 う知識人 たち は、 その専門 に埋没 していなか った。 マー ラー はカ ン ト哲学 に関心 を もち、 シェー ンベル クは絵画 と随筆 を書 き、 シュ ニ ッツラー は医師で あ り、 ヴ ィッ トゲ ンシュタイ ンは物理学 のエ ンジニアで あった。 ヒル フ アデ ィング は医者 で あ りなが ら、経済学者 で あった。 ウィー ンの教養人 は皆、 カ ン トを論 じ、 カ ン ト以後 の思想 の中心的議論 を、 自分 の 関心 と直接 に関係が ある もの と考 えていた。芸術 家 で あれ、科学者 であれ、
また法律 学 や政治学 を問わずであった。 ヒル フアデ ィング もカ ン ト哲学 を学 び、当時勃興 したマ ッハ の経験批判論 に関心 を抱 いた。哲学 が単 に哲学専 門 家 だ けに価値が あ り関心 を持 たれ る とい うので はなか った。 それ どころか、
哲学 が、 同時代 の文化 のすべ ての分野 と互 いに関連 し合 うものであった。芸 術 家 ・音楽家 そ して著述家 たち は、 ほ とん ど毎 日会 って議論 す るのが習慣 で あった。 そ して職業的専門化 にはま り込 み、埋 ま り込 む ことはなか った。 そ れ に加 えて、彼 らに とって芸術 ・文化生活 は重要 な関心事 であった
(17a)0
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