明治儒教と教育(続) : 世紀転換期を中心に
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(2) 30. 久. 木. 幸. 男. ているというペきであろうo川田・はまず風俗の隆汗一世間一般の道徳の盛衰が結局のと ころ政治の在り方紅帰因することを一般論として確認したのち,当時の道徳衰退の原田 杏,政治家が方正の人物でなく,その政治が利を重んじて義を軽んじている点軒こ求める。 これが,山城農事件(1872年)や開拓使官有物払下事件(1881年)においてその一端が暴露 されたところの,政商と癒着した明治汚職政府への批判であることはいうまでもない。川 (君子はその義を. 田が「義+を強調するのは,旧師山田方谷の「君子明其義,而不計其利+ 明らか書こしてその利を計らず)を承け8),さら紅『孟子』の「王何必日利+. (王何ぞ必ずしも利. を日わん)に連なるものであろうが4),ともかく義という観念を主張の中心にすえること紅 よって,川田は儒教の立場からの政治批判-限られた範囲内の批判ではあるが-を試 みたのであった。ただ山田方谷がここで問題にしているのが「君子+であり5),川田が論 じたのが「有司+. 「聖明・賢相+. 「朝廷+であることからも容易にわかるように,民衆は彼. らの視野には少なくとも直接には入っていない。儒教がもともと「士大夫+のための教説 であった限り,この民衆無視はそれなりの理由があるともいえる。. しかしわが国では周知のように,すでに近世末以降,儒教の教説は一定程度被支配民衆 の間にも渉透していた。この事実をふまえて,天皇制支配に適合する形に大改変を加えた 儒教教義を民衆におしつけようとしたのが,前稿(本紀要28集所収, 「明治儒教と教育-1800 年代を中心匠+)で検討した元田永字であり,儒教の中に近代社会にも通じる普遍的なもの を見出そうとしたのが同じく山本憲6)を例とする自由民権派儒学者であった.川田と山本. には儒準を基調とする政治批判,元田と山本には民衆への注目(ただしその意味は異なる)と いう共通点があるが,その他の点では三者三様ともみることができる。ただし当時の儒学 者の中には以上の三者に包括しえないのではないかと思われる雑多な流れがある。従って. この程度の対比からこの三者を,明治前半期儒教の諸潮流を代表するものとみなすことは できない。しかし少なくとも諸潮洗の一部を成しているということはできるであろう。こ. うしたいくつかの流れを含む明治儒教は,その後どのような展開を示すのか。本稿では19 世紀末から20世紀初頭にかけての時期に取って考えたい.いうまでもなくこの時期は,. 1890年の教育勅語発布を画期とする天皇制教育体制の成立,日清軟争後におけるその動揺. -再爾模索あ時期に当るが,結論の一部を先取するなら,明治儒教にとってもそれは,と くに教育との関係における大きい転換期であったように思われるo転換を示す最も顕著な 現象としては, 1900年(明治33) 1902年(明治35)の中学校漢文科廃止問題があるが,井上 哲次郎らによる「武士道論+の提唱を加えてもよいかもしれない。それらの背景紅は,儒 ・. 教が普通教育と交錯する場面で,一貫した思想としての体系性を剥奪されていった事実が あるのではないかと考えられる。以下漢文科廃止問題を取り上げて,. 19世紀から20世紀へ. の転換が明治儒教に何をもたらしたかを,やや詳しく検討したい. 注. 1)川田剛「道徳表替ノ源困+ (『東洋学会雑誌』4編, 6号, 1890年6月, P′.358)。・f3:お一部弓[ 用した中村正直の批評は,篇未紅付載され串ものである. 2)ここにいう儒教主義の採用とは,榎本武揚文相が1890年2月,地方長官に対し「孔孟の教ほ 我民の徳育に適すベし+と述べたことを指す(「榎本文部大臣の談話+, 『教育報知』207号,.
(3) 明治儒教と教育(続). 3 4. 5. 6). 31. 1890年3月8日, P.16) 山田方谷「静理財+ (『陽明学大系』巻9, P.494) 『孟子』梁恵王欝上。 民衆出身の山田方谷がつねに民衆を無視していたわけではないo ここでの紛議に民衆が現われ ないのは,直接の主題が領主層の「理財+であるためである。 前稿での山本意の経歴についての記述剛ま大きい不備があった。彼は後年「年譜+を書いてお り,没後『梅崖先生年譜』 (1931年)として刊行されているoそれに羊ると,大阪事件に連坐 するまでの主な略歴は次のとおりである。. 01871年,上京,育英義塾に学ぶo O73年,工部省電信技手に就職. 075年,大阪へ転任o O77年,電信技手として西南戦争に従軍,燥阪後,閲新吾らの大阪クラブに入る. 078年, 電信技手をやめ,京都で新聞社設立を企てるが失敗。 079年,大阪新報に入社。 081年, 082年,中国日日新聞主筆となるが社内抗争紅敗れ 岡山の稚児(おさな)新開主幹となる. 084年, 帰阪,福井の北陸自由新日酌こ入社o O83年,帰阪,漢学塾(梅清処塾)を開く. 塾を営みつつ立憲政党新聞の論説を書く。福井・岡山・広島・島根-遊説。自由党解党。 『明九 この間,前稿で取り上げた『憂国憤慨静』 (80年)の掩かに,次の著書を公刊しているo 征賊紀』(76年), 『明治正字典』(78年), 『府県町村会議事心得』(79年), 『朝鮮暴動記』(82年), 『古文真宝註釈大全』(84年)0 なお山本憲に関する先行研究としては,高梨光司「大阪事件と山本憲+ (『明治文化研究』5号, (大東文化大『東洋研究』 82号, 1935年5月),遠藤光正「山本梅崖のみた日清戦後の中国+ 1987年2月)がある。. 中学校漢文科廃止閉局とほ,第5回・第7回高等教育会議において,中学校漢文科廃止 が議決されたことを指す。. 1900年12月の第5回高等教育会議では,中学校・師範学校の漢. 文は「国語の中で教授+する,高等女学校・女子師範学校の漢文を全面削除する,との文 部省諮問案が,師範の場合を除いて可決された1).後述のようにこの議決は実施されなか ったのであるが,漢文授業時間数は1902年2月制定の「中学校教授要目+において大幅 に削減された.次いで同年12月の第7回高等教育会議で山川健次郎・勝浦柄雄が振出した 「中学校ニ於ケル国語及漢文ノ目(-科目)ヲ国語ト改メ,主トシテ今文ヲ課シテ漢文ノ手 読ヲ停メラレンコトヲ望ム+という建議が可決されたが2),これも実施には至らなかっ たo正確にいうと漢文科全廃を提起したのはこの山川らの建議のみで, 問案では教科名称からの「漢文+名の削除,. 1900年の文部省諮. 「教授要目+では授業時間数削減がなされた. 紅すぎないが,当時これら一連の出来事は漢文科廃止問題と呼ばれた.本稿でもこの呼称 に従い,以下この「問題+を概観するo. 漢文はいうまでもなく儒教そのものではないが,儒教テキストはその注釈を含め漢文文 献であるから,漢文や漢学の消長が儒教のそれと深くかかわることは勿論である。このこ とについては当時次のようFLいわれているが,それはそのころの一般的な見解であったと 思われる。. 儒教なるものが漢学の流行と共紅世の中に旺んに行はれたのでありますが,一旦西 洋の文明が這入って釆て,今まで漢学の占めて居った位置を失恥. 西洋学がそれに代. り,儒教と云ふものが衰寮するやうになったのは,是は己むを得ざることである。若 し儒教が漢学と離れて,独り儒教のみ此世に行はれて居ったものとするならば,今日 の如き衰熟ま起らなかったらうと考-ます。漢学と共に行はれて居′つたものであるか.
(4) 32. 久. 木′幸. 男. ■■ママ. ら,漢学の衰へるに附て,儒教も共に衰覆したのであります3). 漢文(さらに儒教)の「衰類+原因につい七は,別の見解もあった.例えば湯本武比古は 日清戦争勃発によって排中国感情が高まり,. 「何事も支部の事物とあれば,. ∴概に之を唾. 棄せんとする傾向あるより,漢字及漢学の如きも,亦漸く排斥さるゝVL至らんとす+と述 べている4).また96年雫群馬県沼田中学校に入学した生方敏郎も,幼時から『大学』. 『中. 庸』などを文に教えられていたが,日清戦後の中国軽視の風潮の中で「漢文よりも英語 杏,という考え+が少年たちの問で支配的になった,とのちに回想している6)o. 「まず明. 治二十年頃までは漢学塾の全盛+という同時代人からの聞書は¢),別に検証する必要があ るかもしれないが,. 90年代以降,漢学塾・漢文・儒教が,徐々に人びとをひきつけなくな. っていったことは,ほぼ確かであろう7)0 「西洋学+の隆盛や中国軽視風潮とは別に,漢文教師や漢文教授法への批判の声も,漢 学(ないし儒教)関係者の内外からようやく高くなり始めている。まず外部からの批判とし 「中学教育に漢学者を用ふべからず+と題する雑誌『日本主義』の批判がある。. ては,. 「漢. 学者のなし得る所止,唯だ迂遠なる字義の解釈のみ。今日の科学的思想の如きは,竃も彼 等の解し得る所にあらず,況んや教育の何たるに於てをや+というのがその要点である が8),漢学者たちの雑誌『東亜学会雑誌』は次のように反論している。 今日我国に於て漢学を根底より除去せんか,百科悉く廃せんo換言すれば漢文漢語 は百科の根底なり(中略)o斯る必要なる漢文科を授くるの任を誰にか託すべき(中略)。 漢文科を担当するの人は,是非とも中学程度に於て必要なり.故に吾人は常にいふ,. 今の中学程度にある漢学者にして普通の知識なきものは,奮て外国語を研究し科学を. 研究すべし,若し能はずんば科学書の翻沢物Ti:りとも読むべしと。然ども記者の言の 如く,漢文科の必要を忘失して漢学者を用ふべからずとは言ふを欲せず。何となれ ば,漢学者に欠点あると同時に又取るべき所あるを以てなり9).. 内部からの批判としては,上引とほぼ同趣旨の,漢文科教師が新知識に乏しいという, 次の指摘がある。 中学教育以下に於ける漢文授業に在りては,生徒の師に対するに一種不祥の感を脱. 却する能はぎるべし。何をか不祥の感といふ。日く,漢文教師は普通科の知識なしと. 思ふこと是なり.実に漢文教師の大部分は,此不祥の感を脱せしむること能はぎるな り。或種類の学科に就きて生徒の智識過かに優るものあり。不祥とは何の謂ぞ.教師 を蔑視するの念を脳裏に蔵するのみならず,或は動作に発するものあらん.是れ教師 の威厳に大関係を来すづし.故に吾人は切望す,中等教育に当る教師は,是非とも普 通教育を受けつゝある生徒よりは少しく勝れたる智識を具ふることを10)0. 当時中学校では,漢学者が倫理科を担当している例も多かったようであるが(これは『論 語』 『大学』などが教科書に採用された結果である),この問題に関しては月艮部宇之吉の所論が. ある.服部は「倫理教授の任に当るべき者には,漢学の学力以外に於て必要なる知識甚だ 多し+とし,次の5点が必要だという。. ① 「国史に通暁し,兼ねて世界大勢の推移,人類 文化の趨勢に就きての知識+および「古今東西の倫理説に就きて明瞭確実なる知識あるを. 要す+る。. ②儒教は普遍性をもつが,. 「北方支那人種の産物たる所以の特質+および「儒.
(5) 明治儒教と教育(疏). 33. 教の大本め確定せられたる時代(中略)紅於ける気運の産物たる所以の特質+を有している 「我が国今日の国勢に考-て適当の取捨変通をなす+ことが求められる。. ので,. ③儒教の. 天人合一説・性善説等の諸俊定に対する「哲学上種々の疑問+に応えうる「哲学上の修 義+が必要である。. ④ 「立憲政治の代+に必須の,. 「帝国憲法の精神+. 国交際の通誼等に就きて一往の知識+をもっていなければならない。. 「法律の精神+. 「万. ⑤儒教は「公共心の. 養成,公徳の修養+に余り力を用いなかったが,この点を克服することが大切である11)0 一言でいえば,漢学教師の「改造+が主張されているわけであって,ほぼ同趣旨の次のよ うな論もある。. 今の社会にあって古の漢学を以て,今の学生に教ふるに古の漢学者を以てすo普通 教育に於ける漢学の振はぎるは,是を以てにあらずや.吾人は此に於て先づ漢学先生. 改造論を唱ふ(中略)。退嬰主義を有する漢学者,若くは日進諸科学の教ふる所を破野 し否定せんとするの漢学者は今の漢学者にあらず(中略)。徒に古文を読むを知って,. 今の支那の時文を解せざるの漢学者は今の漢学者にあらず,科学,国家,教育等の概 念を有せざる漢学者は今の漢学者にあらず,今後の社会に於て漢学は何如なる位置を 保つベきやに思ひ及ばぎる漢学者は今の漢学者にあらず,専門学科に於ける漢学と普 通学科に於ける漢学とを混同せんとする漢学者は今の漢学者にあらず12)。 「改造+の方向は語られているが,.  ̄その方法-の論及はない。. 「今の文部の検定試験に合. 格せるものも,吾人は未だ今の学生に臨ましめ今の教育に従事せしむるに適するの漢学先 生たりと信ずる能はず。己むなくんば五年,十年の倹たんか+と述べるにとどまってい. る。漢文教師批判はほとんど出つくした感もあるが,結局その「改造+のための具体的提 案は見られず,教師自身の新知識獲得の努力が態覆されるに終った13)。 教授法については内堀維文が「維新以来三十年問,他の学課の教授法が比較的に講究せ られ改進し来りたるに,独り漢文のみ旧情の優にて推移し来りたる,是ぞ社会が-も二も なく漢文を排斥し,終に根本的撲滅を講ずる高潮の時勢を馴致せし原因なりける+とまで 言いきり,. 「教 「素読に始まり講釈を後廻しにす■るといふ如き迂遠の方法は時洗に投ぜず+. 科書も四書とか,左伝とか,文章軌範,八大家の塀にて,生徒の能力に適するか,材料の 選択も排列も省られず+と論じた14).また上田万年も, 教授法に注意+していないとして,. 「今日の漢学者は十に^,九まで. 「スペソセルといひ,ジョホノットといひ,.ペスタロ. ッテといひ,. -ルバルトといひ,明治の冊年間には,教育学上の波動によりて種々の大教 育家,大教育書世に紹介せられ,併せて教授法の事なども漸次各専門学科の学者より注意 せらるゝに至りしかど,漢学界のみは依然として毒も其法を改めざるが如し+と述べてい. る15).一方島田重礼は,漢籍の学習にほ「銘々準見ヲ主トスルガ宜シイ+ 「十三,四歳以 下ト二十二,三歳以上ノ人-講釈ト云フコトガ最モ益ヲ得ル事デアルガ,十五,六歳以上 十^,九歳,中学位ノ年齢ノ人-,マルデ講釈ガ無用ト-申サヌケレドモ格別利益ガナイ ト思フ+. 「博覧ト精熟トノニッガ第一デ有リマス。シテ是-専門学デモ普通学デモ此方法. デ行カズバナラヌ+として,中学生程度の少年には独見が適していると主張している16)。. しかしこれが中学校の漢文科授業の実態を把捉した上での主張であるのかは疑わしい17)0 彼はまた漢文の教授-学習の方法には専門学科・普通学科における区別も不必要としてい.
(6) 久. 34. 木. 幸'男. るが,島田のような指導的人物のこうした姿勢が,前引のように「今の漢学者にあらず+ として非難されていたのである。. 中学校漢文科をめぐって叡上のような諌論がくりひろげられる状況の中で,やがて漢文 科廃止論が提起されることになる.その早い例の一つは,. 98年5月の,吉村京太郎の帝国 教育会における講演であろう。吉村講演の諭旨は極めて単純明快で,国語科の目的は「智 鼓交換の道具+. 「精神を養ふ根帝+である国語の修得にあるが,古い和文や漢文の学習に. よってはこの目的は達せられぬのみかかえって有害でさえあるから,通常用いられている. 和漢混合文,いわゆる「新聞体の文章+のみを教え,漢文はもし必要なら読み下し文のみ を教えるベきである,ということに帰着する。そして,教育には国語漢文のみではなく外 「-ツでも,易くすることが出来るならば,どの学科でも. 国語の学習が必要であるから,. なるべく易くすることに力を尽さなくてはならんであらう+と結んでいる18).こののちも たびたび操りかえされることになるところの,道具主義的言語観と負担軽減論とに基づく 立論であるが,これとは別の観点から吉村に賛成する松井簡治説が,すぐ引きつづいて出 されている.松井は廃止反対・漢文科擁護の論拠になりそうな次の6点をあげて,それを 反駁する形で論を進めているo ①漢文は徳育に資するところが多い。 ②わが国古来の歴史 書・文学書には漢文のものが多い。 る。. ③漢文ほ簡勤,国文は繊弱で両者相補なう関係にあ. ④漢文の転倒読みは欧文学習にも役立つ。. ⑤漢文を和訳して教えたのでは真意が損わ. れる。 ⑥現行の熟語馴ま転倒読みに由来するものが多いので,その理解には漢文の知識が. 必要である。このうち①に対しては,徳育に役立つ漢文は書き下し文として用いれぱ事足 りる, ②FLついては,漢文の史書等は一般には読む必要がない,また③に関しては,漢文 を直読しない限り書き下し文にしても大差はない,とそれぞれ一蹴している。. ④は「一応. は岸もなる説+だが,現今の漢文教授では文法上の説明をほとんどしないので欧文理解に 役立つとは考えられない。. ⑤には同感するが,現在の漢文転倒読みと書き下しとの間に決. 定的な相違があるとは認められない。. ⑥は極めて些末な問題にすぎない.以上のほか,漢. 文は中国人との交際に役立つという説もあるが,. 「今の漢文にては支部の新聞すら読むこ. と能はず+,要する紅漢文科には実用的な効用は全くない.それゆえ文部当局が「教育に 通達せる国漢文家を会し,其の程度方法を議せしめ+.よ,と結んでいる19). 松井の論説は漢文科擁護論の論点の多くをあげているが,なお洩れた論点も若干ある。 その一つを取りあげたのは97年1月の「哲学館漢学専修科設置趣意+である。ここLでは漢 学が必要とされる根拠として,第一に漢学が徳育・法制・日用文などの板抵紅なっている こと,第二に「維新以来泰西ノ諸学漸ク隆ナルモ,漢学ヲ俊ルニアラザレバ之ヲ普及スル 鰭-ズ+,第三に「東洋ノ外交通商ニ閑スル政策ノ如キモ亦漢学ニ依リテ講究スべキモノ 多シ+の3点をあげるが20),第二の,漢学が西洋学術輸入のいわば「受け皿+紅なったこ と,第三の,対中国政策樹立に役立つこと,の2点は,他の漢文擁護論紅は見られぬとこ ろである。ただこの場合は専門学としての漢学必要論であって,中学校における漢文の要 否を直接に問題托しているのではないが,第ニ点が普通教育にもかかわる問題であること 紅も注意するペきであろう. ところで松井が結論的に述べたところの,. 「国漢文家を会し,其の程度方法を講ぜしめ+.
(7) 明治儒教と教育(疏). 35. ることには,すでに文部省が着手しており,松井論説が発表された98年_6月に『尋常中学 校教科細目調査報告』としてその結果が公表された.文部省は97年9月,外山正一を委員 長とする尋常中学校教科細目調査委員会を発足させ,教科ごとに内容・方法についての審 議を進め, 98年4月報告書がまとめられた21)o 予定されていた中学校令改定(実現は99年 2月)に備えるためのものであったと考えられるが,小学校カリキュラムの国定化(1900年 8月の第3次小学校令施行塊則)に先立って,中学校カリキュラムの国定化を目ざす意味を もっていた.このことは「調査報告+緒言に,従来の規定では「各学校ノ間ニ於テ,自ラ 学科程度ノ不均一ヲ生ズルノ虞砂カラズo. 釣テー定ノ準則ヲ定メ,中学教育ノ統一ヲ計. ル+と述べていることからも明白であるoただこの時には中学校カリキュラムの国定化に 成功しなかったためであろうか(国定化実現ほ先述の中学校教授要目においてである),従来こ の調査報告は余り注目されなかった22).しかし島田重礼・那珂通世両委員がまとめ, 文科ノ本旨-,生徒ヲシテ普通ノ漢文ヲ理会セシメ,又作文ノ・資料ニ供セソガ為ニ多ク用. 「漢. 語ヲ知ラシメ,兼ネテ徳性ノ頼義ヲ資クルニ在リ+と蘇った「漢文科教授細目+紘,漢文 科の在り方をめぐる様々の論議をひき起こしている。のみならず,漢文科廃止の論拠をこ の「細目+に求める議論さえなされているoそこで「細目+のどの点が問題になったかを みるため,その要点を1902年の「教授要目+と対比する形で整理すると,次真の表1の. 如くである。 表1を一見して直ちに目につくことは,. 「細目+がかなりの授業時間数を確保してい. ること(なお,国語科時間数は作文・文法を含んで4時間),教材にイデオpギ-性の強い史書 を多く採用していること,叙事文-論説文という順をふもうとしていること,第3学年ま で返点・送仮名つき読本を用いようとしていることなどであろうが,. 98年後半から99年に. かけて現れる「細目+批判でも,これらの点が問題になっていることが多い。そのうち比. 較的目立った特徴のあるものの若干について検討するなら,まず授業時数削減を主要する 石田陸舟の説がある。石田はとくに「漢文科細目+のみを取り上げているのではないが, 「漢文科-殆ド国語ノ古文トシテ授クルモノト見倣シテ可ナリ+という立場から,和訳し た漢文を国語科で教えることを併用すれば低学年(. 1-3年)の漢文科時間数は2時間で足. りるとしている23)o書き下し文による代用をいう上引の吉村寛大郎説に近いともいえよ う.これと対照的なのが樋口勘次郎・森岡常蔵らによる「細目修正私案+である.この 「私案+は吉村や石田が1894年「尋常中学校ノ学科及其程度+の「省令説明+に忠実に従 って漢文科を国語科に従属するものとした上で立論しているのとは反対に,両科の関連を 認めながらも「細目+と同じく漢文科の独立性を認めているところに特徴がある。従って, 教授上「英語との関係にも常匠注目+すべきことを強調し,英語に返点をつけないのと同 じく漢文読本にも「読書力の上進を害する+返点.送俊名を省くベきだというo直読を主 寮したわけではないが,漢文の構造を理解させることに力を注ぐベきことを績々説いてお り,英語教授法に学んで「漢文教授の方法がいつまでも旧慣を墨守して+いる状況を打破し 「歴史的材料の外,道徳的,地理的,・理 ようとする意図がうかがわれる。教材に関しては, 科博物的等のもの+を取り上げるベきだとし,また「本旨+のうち「末項徳性廟義のこと をま特に漢文科の上のみにてはあらず+という理由で削除するベきことを主張している24)。.
(8) 久. 36. 表1. 内 年慣差I. 容. 男. 「漢文科教授細目+と「国語及漢文教授要目+の漢文講読. 漢文科教授細. 学El. 木 幸. 1. 国語及漢文教授要日中の漢文購読. 目 教. 材. l点. 諾E. 内. 容. 教. l. 材. I点. 皇朝史略. 句読. 単語・単旬. 我国近世作家. 句読. 早. 国史略. 返点. 用語平易・構. の文. 返点. 数行の叙事文. 日本政記 日本外史. 詳しい 送俊名. 造簡易な短章. 古格言 やや長い文章 簡易な伝記紀. 漢文国史のほ. 平易簡短な文 A. 行. か,本邦近世 名家文集. 簡易な叙事文 伝記紀行の短. 送俊名. 日本外史 近古史談. 蓋IIl・5 ム虫. 局. 宕陰存稿. 同上. 読書余適. 支部史書中の. 通鑑獲賓. 句読. 前学年に準じ,. 文意完結した. 通鑑輯覧. 返点. 我国作家の論. 日本外史叙論. 説文を加える. を加える. 章段. 通鑑綱目. 明治の文意明 噺,議論平出. 明清諸家文集. 1.5. 前学年に準じ,. 同上. 記事・叙事文 1,論説文1. な文. の割合. 支部史書中の. 通鑑綱目. 前学年に準じ,. 清初作家. 句読. 文意完結した. 資治通鑑. 支部作家の簡. 唐宋八家文. 返点. 章段. 唐宋諸家の文. 句読. 易な伝記・紀. 一斎・傑堂の. 唐宋の文意. 行を加える. 文. 明断な名文. 我国作家1,支. 唐詩選. 部作家1の割合 難渋奇古の文 章を避ける. 唐宋諸家の文 資拾遺鑑 史記. 岡上I1. 2*. 我国作家1,. 前学年に準じ,. 支部作家3の. 史記・蒙求・. 割合. 論語を加える. 同上. 孟子. 注) 「漢文科教授細目+は文部省高等学務局『尋常中学校教科細目調査報告』, 目+は『明治以降教育制度発達史』 4, P.199ff・による。 *第3学期は0.8.. 石田や樋口ら以上に「細目+をきびしく批判するのは竹村鍛であって,. 「国語及漢文教授要. 「漢文料紙目+. は「細目中の最も不完全なもの+とまで言っている。批判は委員・本旨・教材・程度の全 般に亘っているが,まず委員については「尋常中学校の性質・程度等に精通せざる老儒先 生を委員として其教授細目を編せしむるは,もと八百善に西洋料理の調整を命ずるが如き もの+と酷評し(ただし97年当時46歳の東洋史学者那珂を「老儒+と呼ぶのは当らない),本旨に 「用語+等の語の摩 ついては樋口らと同じく徳育偏重を批判するとともに「普通ノ漢文+ 昧さを衝いている.教材に関してむま歴史書に偏っていることを漢文読本の修身書化だと難. じているが,程度匠ついては高学年の読本から返点を省いたことを負担過重を招くと批判 し,もしこの「神目+が無修正で施行されたら「中等教育に一大害毒を涜す+と結んでい.
(9) 明治儒教と教育(蘇). 37. る2S'.しかし漢文科と国語科との関係問題については全く言及していないo 「細目+について論じた以上の論者のうち石田のみは漢文科縮小論,他は現状維持論を. とっているとみてよいようであるが,同じく「細目+を批判して漢文科廃止論を展開する のは,埼玉の「蓬莱山人+なる人物(本名不明)である。彼は「細目+の本旨は実に「漢文 科の不必要を自白+したものだとして,次の3点を問題にする。. ①本旨は丁普通の漢文を. 理会せしめ+ることを漢文科の目的としているが,これは全く無用の目的である。ふつう. の中学卒業者が漢文を読む機会は非常に乏しいので,理会してもほとんど利益なく,理会 しなくてもとくに不便はない.. ② 「作文の資料に供せんがため多くの用語を知らしむ+ 本旨がいうのは,無益というより有害であるo漢文を通じて学ぶのは「倍屈なる形容詞, 奇怪なる熟字にすぎない.. 'と. ③ 「徳性の滴義を資く+と本旨が述べるのも時代錯誤であるo. -このように本旨批判を通じて漢文科の不必要を論じたのちこの論者は,一転して漢文 科は国語科と無関係ではないという.そして, 「漢文科の名目を全廃して,国語読本中に 極めて平易なる漢文を挿入し,且其和訳文をも対照する如き方法+によるなら,両者の関 係を生徒に理解させることができると結論している26)oこの論者も書村や石田と同じく, 結局94年の「尋常中学校ノ学科及其程度+の枠内で論を進めているということができる が,. 1900年12月,文部省が第5回高等教育会議に提出した漢文科廃止案も,少なくとも表. 面的には同じ論理に基づくものであった. この際の文部省の言い分は,専門学務局長上田万年の談話にはば尽きていると思われ. る。前にふれたよう匠漢文教授法の不備を論じたことのある上田は,廃止問題担当者では ないが,担当の普通学務局(局長は沢柳政太郎)援護の意味もあってのことであろう,廃止 理由を次のように説明している.. 理学(-科学)といふものを考へないで,単に在来の文字の上にのみ依る所の漢学の 様な学問は,到底今日の明治の人心を支配することが出来ぬと私は考へる(中略)。今 日の漢学者が,中等教育の上に立って自分の学問を拡めて行かうと熱bする前に,中 ど、. 等教育紅於ける生徒が何の位学力を有って居て文学力を有つべきものであるかといふ ことを・充分に調査する丈の熱心を有たなければならぬ(中略)。必要なる漢学的知識 といふものが何の位あるといふやうにして,此の小学及び中学の学課に輸入せしめな ければならぬといふことを,調査する必要があらうと思ふ(中略)。漢学者の言ふ所を 聞くと,漢文の上に道徳の分子があるといふことを大いにいふ人があるが,併しなが. ら其漢学者といふものに,果して国民の標準と為る丈の道穂の有る人が,現在の漢学 者紅在るかo又漢学をすれば支部の国民と互に交通するの便利があるといふことを主 菜する人もあるo併し現在の漢学者に於て,此両国の外交上に於て充分の談判の出来 る丈のものが在るか(中略)。漢語を読むことの知識を義ふよりも,西洋の書籍を読む ことの知識を養ふことが,今日及び今日以後に取っては遥かに必要である(中略)。唯 漠然と在来の歴の行り方で,さうして漢学は中等教育に必要欠くべからざるものであ や. せ. る杯といふやうな精神にては,私の最も不賛成の点である.又さういふことを為ずに 唯運動されても,今迄の漢学に因縁ある人はいざ知らず,現代の学問を専攻した人 は,容易に其説に服すまいと思ふ27)。.
(10) 久. 38. 木 幸. 男. 長い引用紅なったが,漢文科廃止を正式に提起した文部省側のひととおりの理由ほ尽さ. れてい考ように思われる.ただ談話筆記のため必ずしも体系的でもなく・またとくに新し い論点が提出されているわけではない。やや目新しいといえるのをも中学校に必要な漢学 的知識の範囲を明確にすることを漢学者たち紀要求していることと,漢学者たちによる漢 文科廃止反対運動を非難していることであろう。しかし各教科のスコープを疑問の余地の. ない根拠に基づいて確定することの困難さは,例えば第3次小学校令施行規則の教則紅つ いて当事者自身が認めているとおりである・28'。上田の漢学者たちへの要求は,決してフェ アなものだとはいえない。. 上田が非難した漢文科廃畦反対運動は1900年暮から始まり,文部大臣-の請願提出・ 森椀南・野口寧斎ら著名な漢詩人を含む漢学者集会の開催,写らに第15議会-の「師範学 校・中学校漢文科名称存置請麟書+の提出運動と次第にニスカレ-トし,運動同調者は 七,八千人に及んだともいわれた乏9'。最終的剛ま1901年3月の中学校令施行規則において 漢文科名称存置(教科名は従来どおり「国語及漢文+)となったo文部省の公式説明では,存 置理由は次のようにいわれているo. 婁に文部省は,漢文は之を国語の中にて教授することとし,高等教育会議に諮問し たり。其の趣旨たる,漢文を全廃する直あらずして国語と漢文との調和を期し・相待 て言語教授の目的を全うせんとしたるに外ならず。然るに高等教育会議は,師範学校 には漢文の名称を存し,中学校には諮問案の如くすべしと決議し,趣旨の一貫を欠け る答申をなしたり。然れども当局者は暫く現在の歴とし,当初期したる二者の調和 は,教授の要旨を明にし以て其の目的を達せんことを期したるものなり80'.. しかしこの説明ほ説得性に乏しい。高等教育会議が中学校漢文科廃止(漢文科名称の削除) に同意したにもかかわらず施行規則に率いて漢文科名称を存置したのは答申が一貫性を欠 いたためだとして高等教育会議に対して非難の口吻を洩らしているが,もともと漢文科の 国語科に対する位置は中学校と師範学校で異なっていたoたびたびふれたように中学校で ほ国語及漢文科であり,師範では独立の漢文科である。従って高等教育会議の答申が別の ものとなってもふしぎではないのである。そ/の上,中学校漢文科名称の存置は暫定的なも のだとしているが,もし存置が恒久的なものでないことが予想されるのなら,なぜ一挙に 廃止しえなかったのか,また逆に,一挙に廃止しえないのなら,なぜ恒久的存置にふみき れなかったのか-こうした疑問が残らざるをえないo更にふみ込んでいうなら,文部省 の漢文科廃止理由は上田談話で一応明らかにされているものの,談話では示されなかった 別の理由はなかったのか否か,という問題も生じるであろう。これらの問題の一部は,中. 学校令施行規則をめぐる菊池大麓・沢柳政太郎論争でも取り上げられたけれども31',結局 真相不明のままに終った.そして1902年の「教授要目+において,漢文科の大幅縮小がな. されたo前掲表1から明らかなように,授業時数も教科の程度も著しく切り下げられた。 同時忙中学校令施行規則も-部改定されたが「国語及漢文+という学科名称には手をつけ ず,.漢文科の縮小は比較的目につき難い文部省訓令である「要目+においてなされたので あった.この時には反対運動に全く起こっていない.かねて漢文科廃止に賛意を表してい た『教育時論』誌は,この「要目+を「中学教育の面目を改むるに足るベし+と高く評価.
(11) 明治儒教と教育(読). -39. したが32),むろん漢文科の「面目+には言及していない。. ところが同年12月,山川健次郎ら紅よる漢文全廃建議が第7回高等教育会議に提出,可 決されたoそれに先立って山川が公表したととえろ紅よると,廃止理由は「将来必要もな. いことを教-学び,之が為め学生の負担を重くし,国民の身体上,精神上,非常の影蜜を 及ばし,遂紅国民の死活問題にも関係するやうになり,取返-,しのつかぬこととなっては 大変だから,此際大に奮発して中学校から漢文を全廃することが,最必要であると思ふ+ というに尽きる38).このいわば素朴な負担軽減論に基づく廃止建議は,文部省によって振 りつぶされる.そして1903年に入ると,漢文擁護論のもこゎば捲き返しとでもいうべき動き が始まっている.その一つは法学者高橋作衛による「漢文奨励論+の提唱であり,一つは 帝国教育会漢文教授法研究部の発足である。前者は高橋竜雄との論争が漢文問題への一般 の関心を高めるのに役立ったが84),意味がより大きかったのは後者であろうo漢文教授法. 研究蕗は「漢文教授法の改良進歩を計る+ことな目的に,桑原騰蔵・岡田正之・島田釣ら新進の中国学者と,深井鑑一郎・細田謙蔵ち中等学校漢文教師が中心となって1903年1 月に発足,つごう14回の審議を重ねて同年7月「決議+を公表した。. 「決議+の名をもつ ものの狭義の教授法改良についての決定などではなく,実質は「漢文科教授要目+ -こ. 「んにち風にいえば自主編成カt)キュラム案といってよいかもしれない. 中等教育に 於ける漢文の位置 中等教育に於ける漢文は国語と対等の位置を有し,国語及漢文科と称. す+. 「二. 中等教育に於ける漢文教授の目的. なる漢文を了解し,漢字の. 中等教育に於ける漢文教授の目的は,ヰ易. 表2. 帝国教育会の漢文科カリキュラム案. 意義用法を理会し,文学上 の趣味を知らしめ,兼て知. 学年障蓑I内. 容. f. 教. 材. l. 点. 徳の啓発に資するものと. 簡単な語句. 我国現代・近. 句. 読. す+に始まり,その内容・. 用語平易・構造簡 易な短文. 世作家の文. 返. 点. 教材等は表2のとおりであ る。教科名は中学校令施行 規則に従っているが,事実 上は独立した漢文科であ. 送佼名. 用語平易・構造簡 易な叙事・記事. 岡. 上. 岡. 上. 上. 女 平易な叙事・記事文. 岡上の行か,. 岡. 簡易な論説・香腰 著名な詩. 唐・宋・明. 一部送佐名. 津作家の文. を除く. 平易な叙事・記事・. 唐・.宋・明. 清作家の文. 句. 読. 論説文・書腰. 遠. 点. 紅内容の系統性については. 簡易な支部時文. 我国作家の. 「細目+や「要目+(表1)よ. 辞. 文 唐・宋・堺・. 岡. 上. 清作家の文. 一部遠点を. 史記・漢書・. 除く. る。. 「教授の目的+を独自. に定めていることからも, このことは知られよう。教 材選定も穏当であり,とく. りも遥かにす(oれている。. なお表には示さなかった が,講読と平行して文法を 教授するとしていること,. 教授上の注意の中で簡単な. 岡. 上. 孟子・論語 注) 『教育公報』274号(1903年8月). p.28紅よる。.
(12) 久. 40. 木. 幸. 男. 複文を課し反切法を教えるとしていることなども注目されるところであが5)o. この「決. 読+は全国の中学校・師範学校に送付して意見を求め,その結果を文部省や各学校に報知 したというがs6),. 333校中,意見を寄せたのは45校であった。ただ地方教師の中からは■,. 次のような反響もあった。. 今の教育者中,多少文部に関係ある者は,命維れ損ぜんことを恐れで憶々鳶たる老 多き中に際し,区々たる法令に約せられずして不覇放胆の案をなせる研究部をi,深く 吾人の意を得たる所なり87)。. この論者は「決議+を「不薦放胆の案+と呼んでいるが,帝国教育会はその体質からみ て文部省(具体的には文部省訓令「要目+)に反対する意図をもともと強くもっていたとは思 われない。漢文教授法とカリキュラムの改良とを追求した結果が,客観的にみて「要目+. よりも遥かに合理的な「決議+の提示となったのであろう。文部省がもし漢文科改良を考 えていたのなら,虚心にこの「決議+に聞くべきであった.しかし山川の全廃建議と同じ く,このカ1)キュラム改良案も文部省は握りつぶした.このことほ,文部省による漢文科 廃止-縮小が,実は表面に現れたのとは別の意図に基づくものではなかったのかという疑 惑を,一層深めるものともいえるのではないだろうか。 注 1) 2 3 4. 5 6 7. 8 9. 10 ll. 12) 13). 566号, 1901年1月5日, P.70)。なお当時の正式教科名は, 「漢文科に就いて+ (『教育時論』 中学が「国語及漢文+,高女が「漢文+ (ただし随意科目),師範・女子師範が「漢文+である。 (1903年11月) p.339. 「第7回高等教育会議議事速記録+ (『丁酉倫理会講演集』 10輯, 1903年1月, P・2) 松山革蔵「儒教管見+ (『教育時論』 350号, 1895年1月5日, P・28) 湯本武比古「今後の教育問題の-二+ 生方敏郎『明治大正世相史』 (中公文庫版, P.58) 篠田鉱造『明治百話』 (角川選書版, P.105) 「漢学界に於ける近 97年ごろ一時「漢籍の流行+が喧伝され(『国民新聞』 1897年5月7日), 「此趨勢が膏に来の吉報+ (『東亜学会雑誌』1編, 5号, 1897年6月 p.436)と見られ, 435号, 1897年8月5日, (『教育時論』 時の洗行に止ま+らないことを望む,ともいわれたが. p.ll),永続しなかったようである。 P.90. 『日本主義』巻1, 8号(1897年12月), 「中等教育より漢学者の放逐+ (『東亜学会雑誌』2縮, 1号, 1898年1月, P・93) 「漢学教師むこ対する生徒の感情+ (『東亜学会雑誌』1編, 11号, 1897年12月, P.85) (『東亜学会雑誌』1編, 服部宇之書「中学教育に於ける倫理科教授に関して漢学者に問ふ+ 早, 1897年9月, P.673fF・) 「普通教育をこ於ける漢学+(『東亜学会雑誌』1編, 3号, 1897年4月, P・252f・). 16. 深井鑑一郎のように,漢文科の不振は教師の不熱心に依る所多いとして,漢文科教師が「熟Ll 以て其の真に任じ+るべきことを力説している例もある(深井鑑一郎「漢文教授法+,『国漢講義 録』P.5ff.なお本書は刊年不詳であるが,その記述の一部から1892年頃の刊行と推定できる) 内掘経文『中学漢文入門教授法』 (1900年5月) P・1ぽ・ (『日本主義』巻2, 11号, 1898年11月, P・7) 上田万年「今日の漢学者K就いて+ (『鹿洋学芸雑誌』162号, 1895年3月, P・126ff・) 島田重礼「漢籍ヲ読ム心得+. 17. 島田は学力差のある生徒の何れにも適した講義をすることの困難について述べているが(岡上,. 14 15. p.127),これは漢学塾についてのことと思われる. 18)書村寅太郎「師範学校及中学校に於ける国語漢文の学科目を廃し国文科を設くるの説+ 育公報』 212号, 1898年6月, P.35ff・) (同上, P・18庁・) 19)松井簡治「吉村寅太郎氏の中学科の漢文課廃止論を読む+. 8. (『教.
(13) 41. 明治儒教と教育(疏) 20) 21). 「哲学館の漠学専修科+ 『教育時論』422号, 1897年1月5日, 『東洋大学創立五十年史』P.55, p.47) 448号, 1897年9月25日, P・33), 「中学 (『教育時論』 「尋常中学校教科細目調査委貞の任命+ P・25) 校教科細目調査の結果+ (同上, 469号, 1898年4月25日,. 22)管見の範囲ではこの「調査報告+を紹介したものに桜井役『中学教育史稿』(1942年12月)があ る。また米田俊彦「『中等社会』育成をめぐる相勉-1899年改正中学校令の制定経過とその意 味+ (『日本の教育史学』28集, 1985年10月)は中学校令制定との関連において「調査報告+に 論及している。 1898年9月15日,P・9乱) 23)石田陸舟「尋常中学校教科細目調査報告ヲ概評ス+(『教育時論』483号, 24)町田弥平・樋口勘次郎・森岡常蔵・斎藤鹿三郎「文部省尋常中学校漢文科教授細目修正私案及 其説明+ (『教育時論』 470号, 1898年11月25日, P・7ff・)。なおこの「私案+と類似するところ の, 「漢文-異邦ノ語+という立場から,漢文初歩教授において漢文の構造を理解させる必要 (『教育時論』479号, 1989年8 を強調しているものに岩垂意徳「中学校襲文科教授法ニ就テ+ 月5日, P.10)がある。 (『教育時論』498号, 1899年2月15日, 25)竹村鍛「尋常中学校漢文科教授細目の大修正を望む+. P.9ff.) (『教育時論』526号,'1899年12月25日, P・7f・) 26)蓬莱山人「中学校の漢文科を廃すベし+ P・6f・646号・ 1901年1月 645号, 1901年1月1日, (『教育報知』 27)上田万年「漢学者の開展期+ 18日, P.7ff・) 28) 「文部省普通学務局長沢柳政太郎君の談話+ (『日本之小学教師』25号, 1901年1月・ P・2f・) 568号, 1901年1月25日, P・37), 「漢学者の反対運動+ (同左, 29) 「漢文学者の請願+ (『教育時論』 P・ 570号, 1901年2月15日, P.38), 「漢文科存置の講麻+ (同上, 571号, 1901年2月25日, 573号, t901年3月15日, P・32) 32), 「漢学者今後の運動+ (同上, 573号, 1901年3月15日, P・30) 30) 「中学校令施行規則の要旨+ (『教育時論』 573号, 1901年3月15日, P・30), 「菊池大学総長の 31) 「中学校令施行規則の非難+ (『教育時論』 非難に対する沢柳局長の弁+ (同上, 574号, 1901年3月25日, P・29), 「菊池大学総長の再駁+ P・34) (同上, 575号, 1901年4月5日, 606号, 1902年1月15日, ・P・44) 32) 「中学校教授要目の発布+ (『教育時論』 P・15ff・)なお高等 (『教育時論』 602号・ 1902年1月5日, 33)山川健準郎「中学校漢文全廃静+ 教育会議での山川の発言も負担軽減静が中心になっている(『第7回高等教育会議議事速記録』 1903年11月, P,33,) P・27ff・),高橋竜雄「法学博 638号, 1903年1月5日・ 博文奨励論+ (『教育時論』 34)高橋作衛 P・4ff, 640号, 1903年1月25日, 士高橋作衛君に呈す+ (『教育時論』639号, 1903年1月15日, (同上, 642号, 1903年2月15日, P・3ff・), 「三た p.10ff.),高橋作衛「再び漢文奨励に就て+ び漢文奨励に就て+ (同上, 643号, 1902年2月25日, P・6ff・) 『教育公報』268号(1903年2月) 35)漢文教授法研究部の設立から「決議+に至る経過については, 36). から274号(1903年8月)までの毎号にわたって記事がある。 『帝国教育会五十年史』P・ 120・ 「漢文教授法決議F-対する回答+. (『教育時論』696号, 1904年8. 月15日, P.38) 37)木村遂膏「所謂漢文問題の沿革と漢文教授法研究部+(『教育時論』673号,. 1903年12月・25日,P・6). ⅠⅠ. 漢文科廃止問題についての前節での概観を通じていえることの一つ紘,廃止論の多くが 1894年「尋常中学校ノ学科及其程度+の国語漢文科に対する「省令説明+を前提にしてい る事実であり,もう一つ注目を要するの払漢文科廃止が単なる議論の域をこえて実施の 段階紅入るのが99年の中学校令改正以降のことだという事実である.漢文科廃止の其の意 図がどこにあったのかという問題を,この二つの事実を最初の手がかりとして次紅考えた い.. 94年の「省令説明+紘,国語漢文科紅ついて次のよう紅いう。.
(14) 42. 久. 水. 草. 男. 国語教育-愛国心ヲ成育スルノ資料タリo又個人トシテ其ノ思想ノ交通ヲ自在ニシ 日常生活ノ便ヲ給与スルノ要件タリ(中略)o国語ト漢文ト-相待テ其ノ用ヲ見ル。蓋 国語-主ニシテ漢文-客ナリト錐,中古以来国語ノ材料-多ク之ヲ漢文ニ取レリ。故 ママ. ニ両者ノ間,尤教授ノ上ニ適当ノ調和ヲ得ルヲ要スl,。 漢文科は国語科の補助学科とされ,国語科に「調和+することを求められているわけで あるが,国語科は「愛国心ヲ成育スルノ資料+とみなされているので,結局漢文科は「愛 国心成育+のための補助学科であり,愛国J日数育に「調和+しなければならないというこ と紅なるo. T補助+や「調和+は国語科の副次的目的とされる「思想ノ交通ノ自在+. 「日. 常生活ノ便ノ給与+についても求められるわけであるが,主眼はもとより「愛国心成育+ 「調和→にあった。そもそも国語科と漢文科をそれぞれ独立教科として扱うベ の「補助+ きか帝かについては定論がありうるわけではないが,周知のように1881年「中学校教則大. 軌の「和漢文+科以後・両学科は-教科として扱われてきた。ただその理由が公表され たことは,この「省令説明+以前剛まなかったようである.和漢文科新設時には戸惑いを 示す地方もあって・. ママ. 「和漢文-文章学ニアラズシテ拾ク和漢学ヲ指ス義ニ侯哉+という伺 が文部省になされたこともあった2)oただ「中学校教則大綱+に2か月先立つ「小学校教. 則綱軌でも,中・高等科の読書科は漢文を含むこととされており,国語科・漢文科を教科扱いV-する先蹄になっているo. 「大綱+発布よりやや後れるが,文部省高官だった西 村茂樹は「明治ノ今日ニ至リ,吾邦文章-漢文ト和文(仮名文)トノ二種アリ+と述べて いる8)。恐らくこうした認識が和漢文科新設の一つの背景になっていたゎかもしれないが, それ以上の根拠の有無は定かでない。 94年「省令説明→には,当時の文相井上毅の意向が強く反映していたと思われる。 令説明+発表の直後に「文部省の高等官某氏が,文部大臣の許可を得たるものゝ由伝ふる 所の+. 「省. 「尋常中学校学科程度改正理由+なるものが別に公表されているが,この「改正理. 由+には国語科に関して「愛国心成育→の語は全くみえず漢文についての言及もない.早 紅「国語は国民の教育に於て最も重んずベきに拘はらず,従前の教科未だ完全ならず,辛 後の生徒・或は国語に習熟せずして己の思想を自在に表発すること能はず+と述べるにと どまっている4)o.あるいはこれは「省令説明+の草案(に近いもの)だったのかもしれない.. しかし「省令説明+が井上の意向紅基づくものだったとすれば,一体彼はどのような意味 で漢文を「愛国心成育→の補助たらしめることが可能だと考えていたのであろうか。. 「愛. 国心+をもし近代的な意味でのpatriotismと解するなら,漢文文献・儒教文献の中に 「愛国心成育+を補助し,あるいはそれと調和するようなものが存在するはずはない。し. かしながら,パトリオティズムの教育は突抜井上の念頭にはなかったのではあるまいか。 井上がもし近代的なパトリオティズムを考えていたとすれば,それは彼が教育勅語を作成 したことと明らか匠矛盾するoいうまでもなく教育勅語には近代的パトリオティズムの一 片だにないからであるo. 「愛国心成育+が井上の意向をうけたものであるなら,その愛国 とほ「教育勅語ニ基キ仲略)忠君愛国ノ志気ヲ滴養センコトヲ務ム+と,小学校祝日大祭 日儀式規定がいうところのr・r忠軍愛執であろう6)o. ・この意味の愛国,棄は′パトーリオティ ズムとは似而非の忠君愛国なら・井上の有名な「馬前演説+に糾、て,一方では敬師を.
(15) 明治儒教と教育(読). 「教育勅語の錦旗の下に御馬前で働く人+とし,他方その任務を■「愛国に厚き所の国民の 「教育勅語の御馬前+で働くこと 養成+と規定しているところ紅も,明瞭紅現れている6'o(「忠君+)が,まさに「愛国+とされているのであるo. しかし「省令説明+にいう愛国が乗ほ忠君愛国であっ.f=にしても・儒教文献・漢文文献 が直ちにその補助たりうるわけではないo忠君は単に儒教の一徳目・しかも比較的重要で ない一徳目乾すぎない7,。それにとくに重い意味をもたせるためには何らかの「操作+が 必要であろうが,井上は一体儒教をどのように考えて,いf=.のであろうかo井上の儒教観・ 漢文観に関してはすでに先行研究も少なくないので8'ここでは深入りしないが,比較的最 近の研究では,井上が「哲学としての儒学を非常に高く評価し+つつ・他面「政治体制論 において儒学をほぼ捨て去って+いることが指摘されていが'。妥当な指摘ではないかと 思われるが,さら紅多少付けカ口えるなら「哲学+と「政治体制論+との分離のほかに・経 学(「哲学+および「政治体制論+)と漢文学(歴史な含む)との分離という志向があるように 思われる。このことについて井上は,. 「学校の教科に漢文あるは,何の必要紅よれるか+. という問いに答える形で,次のように述べている。 漢文学は何の必要によりて教科とするかとの問に,余は答へていはんo. -,支部の経学(近時の語にて哲学)紘,道徳の為に必要なり。 二,支部の文字は,国語の材料として必要なり(中略)o 故匠経学を教ふるは,生徒匠高明堅確なる心術の鍛錬と純正なる徳行の標準を与ふ る業にして,欧洲の生徒が希鹿古学を学ふに均しく,精神の学と文字との両様の益あ るなり(中略)。総て言はんに,第一,経学は講義を主とし・第二,文学としての漢文 は講義素読を主とし,解剖的の詩義を客とすべし10'○ 経学から「政治体制論+を除外している上に・経学と「文学としての漢文+をその効用 においても教育上の扱い方においても,全く区別していることがうかがわれるoしかし儒 教においては「哲学+と「政治体制論+とは分ち難く結びついており・またそれらは「文 学としての漢文+とも深い内面的連関をもっているo儒教が哲学的,政治論的,文・史学 的側面をもつことは確かであるが,それらはいわば有機的なつながりをもって一つの思想 体系を構成しているo従ってこの有機的なつながりを否認する井上旺・思想体系としての 儒教の解体を求めていると解されようoそしてこのような解体を前提にしての儒教の部分 利用を,井上は考えたのではなかったかと思われるo先に「操作+といったのはこのこと. を指す。確か紅こうした部分利用によって,些々たる-小徳目に過ぎない「忠君+紅重い 位置を与え,非儒教的「愛国+と結びつけることも可能になるo井上が漢文を「愛国心成 育+の補助たらしめよというの臥こうした苛分利用を指すのであろうo しかしこのような形で漢文を天皇制教育に奉仕させようとした井上の意図が,彼の退陣 後の文部省によってどの程度継東されたかは,・別の考究を要する問題であろうo井上以後 目まぐるしく交代した文部大臣や文部省首脳が,彼と同じ漢文観,儒教観をもっていたと は考え難いからである。しかし「尋常中学校ノ学科及程度+の国語漢文科の規定も「省令 説明+ち,. 1901年の中学校令施行規則制定までは改定も撤回もされなかったのであるか. ら,その限り井上の意図は,少なくとも消極的には後継者たちによって支持されていたと. 43.
(16) 44. 久. 木幸. 男. みることができるoそれどころか19世紀最末期に出現する漢文科廃止論の多くは,先述の ようにこの「省令説明+を前掛こして立論されており,上記施行規則が漢文科名称を存置 した際の理由としても,前節で引用した如く「国語と漢文との調和+が番われている.こ. の施行規則の親規定である中学校令改定に当っては様々め中学校構想の衝突があり;せり 勝ったのはアカデミズム色の強い中学校像であったといわれるが11),前節でふれた菊 池・沢柳論争にも確かにこの衝突の余波といえる面があるo論争対象が漢文科廃止問題の みでなく,注制経済,数学などの諸科目にも及んでいるからであるoところが漢文科廃止 については,. 「アカデミックな中学→の支持者である菊池もそれに反対する沢柳も,基本. 的には一致しているoそのため菊池は高等教育会議の中学校漢文科廃止決議を実施に移さ なかった文部省を無定見と非難し,沢梯は苦しい弁解をするという低レベルの論戦に終 り・廃止理由が改めて論じられることももちろんなかったoしかしこのことによって漢文. 科廃止(実質上は縮小)に関して,中学校構想の違いをこえて意見の一致があったことが確 認されるのであるoそれゆえ翌年の「中学校教授要目+における漢文科の縮小は菊池文相・ 沢柳普通学務局長という体制のもとでスム-ズに実施されたo漢文科を←愛国心成育+の 補助学科とする「省令説明+を前提としながらも,その禰助的性格への評価の低減という 点でも,意見一致があったというべきであろうoそしてこの評価の低減は,井上退陣後天 皇制教育が行き詰りを示し始める状況のもとで・漢文・儒教の部分利用が同じく行き詰り つつあったことの現れであろう。. 井上は前述のように儒教の中で哲学と「文学としての漢文+を利用するべきだとしたの であるが,. 1870年代に漢文科教科書として広く用いられた儒教古典は『孟子』だったよう であるo文章や内容の難易度からみて妥当な選択と思われるo一方1890年過ぎごろから 種々の漢籍の抜琴から成る「漢文読本+も部分的に使用され始めるが,恐らくその比較的 早いものの一つとみられるのは秋山四郎編『漢文読本』. (91年,金港堂刊)である。しか. し漢籍抜琴とはいっても,のちの漢文読本のような一課ごとに出典を異にする短文を脈絡 衰3. 1892年質の中学校漢文科 主要教科書. 学年卜教. 科. 書. 名. 日本政記・日本外史・近 古史談. もなく並べたものではなく,例えば巻-はすべて. 『史記』列伝から採っているのであり,古典をその まま,あるいは一部省略して教科書としているケ_ スが多い。. 92年質中学校で使われることが多かった. といわれるテキストは表3のとおりであって『孟 子』がよく用いられていることが知られる。ところ. 見蓑鷺苧姦憲章軌範・十 が『孟子』を天皇制教育のための「補助+とするこ 文章軌範・孟子・史記列 伝. とには,大きい困難が伴う。それは『孟子』がいわ. ゆる「革命ノ主義12'+の書だからりみではない.む 4. 唐宋八家文・孟子・.史記. 5. 孟子・史記. しろ「革命+について直裁に語っている箇所はそれ ほど多くはないから,もし抜琴を用いるならその箇. 春秋左氏伝. 注)深井鑑一郎「漢文教授法+ P.15軒こよる.. 所を目立たぬ形で生徒から隠すこともありうる。そ れよりも,. 「愛国心成育+の「補助+とするため紅. は原義や伝統的な解釈を無視した解釈を重ねざるを.
(17) 45. 明治儒教と教育(疏). えないような箇所が非常に多いのである.この種の曲解の例として,水戸学者内藤牡里 ○が本文,. の『孟子』解釈の一端を示そう13)0. (内)が内藤の解釈,. ′(集)が集注, (題)が. 趨注すなわち古住である14).. 0未有仁而遺其親也,.未有義而後其君者也(未だ仁にしてその親をわするる者は非ぎるなり。 未だ義にしてその君を後にするものは非ぎるなり)0 ㌔(内)忠孝の二つは仁義の本にして(中略),子にして孝,臣にし、て忠なれば,必ず仁義の道. (莱)仁者必愛其親,義者必急其君(仁者は必ずその親. は行われて,国は必ず安泰なり。 を愛し,義者は必ずその君を急にす).. (逮)仁者親親,義者専尊(仁者は親むこ親しみ,義看は. 尊を尊ぶ)0. 内藤は忠孝を本,仁義を末としているが,集注・趨注では仁義が本,親に対する親愛等 はいわば末とされている。仁義と親・君主に対する道徳との関係を,内藤は逆転させてい ることになるoなお趨注にいう「尊尊+の尊(目的語)は君主を含む長上一般であるo 0. 0. O罪我者,其惟春秋乎(我れを罪するものはそれただ春秋か)0 (内) (孔子の心を)しらぎる者に,以て孔子の罪となす老あり.. (集)罪孔子者,以謂. 無其位,而託二百四十二年南面之権(孔子を罪するものはおもえらく,その位なくして二百 四十年南面の権を託すと)o. (逮)罪我者,謂時人見弾股老(我れを罪するものと札時人. 禅定せらるるものをいう)。. 集注と趨注とは別の解釈をしているが,内藤の解釈もまた異なる。塩江では孔子に批判 された人が孔子を非難するという意味であるが,集注は孔子が天子に代って世を裁いたこ とが批判の対象となるという意味に解しているo集注のいわば「大義名分論+的解釈を内 藤が採らないのは「孔子の教の本旨に於ては,きして我国の害となるベき'箇条ほなきこと なり+という立場から16),孔子が天子に代るようなことはありえないとするからであろ う。孔子をさえ相対化する朱子学の大義名分論に比して,水戸学の大義名分論の矯小性が. 現れているといえる。 ○普天之下,莫非王土,率土之浜,莫非王臣(普天の下,王土に非ぎるはなく,率土の浜,重臣 に非ぎるはなし)0. (内)此王事に非るはなければ,普天率土の臣民は何れも之に従て然るべし,我独り貿と して労力す。. (隻)天下皆王臣,何為独使我以賢才而労苦乎(天下皆王臣なるに,何すれぞ. 独り我れをして賢才を以て労苦せしむるや)0. (遭)是以怨也(ここを以て怨むなり)0. 「普天の下+の詩は課役の不公平を恨む詩であって,その意味を集注・連荘とも忙明瞭 に述べているが,内藤の解釈では怨嵯の意はあいまいにされている. o理義之悦我心,猶轟孝之悦我口(理義の我が心を悦ばしむるは,なお窮拳の我が口を悦ばしむ るが如し)0. (集)在物為理,処物為義,体用之謂也。 (物に在るを理となし,物に処するを義となす。体・用の謂いなり). (徳)心所同着音義理. (内)理とは物の条理,義とは物の分別なり。. 也,理者得道之恩(心の同じく著する所は義理なり,理とは得道の理なり)。 遭注は理・義の古義を述べ,集注は朱子学独自の解釈である.内藤は理については集注 に従いながら,義を分別(区別)とみるのは混乱しているといえるo.
(18) 46. 久. 木. 幸. 男. ○得天下英才,而教育之(天下の英才を得て之を教育す)0 (内)天下の英才を得て之を教育し,人物を作る。. (集)教而義之,則斯道之伝,得之者. 衆,而天下後世,将無不被其沢兵(教えて之を養えは,則ち斯道の伝,之れを得るもの衆く して,天下後世,まさ紅その沢を被らざるなからんとす).(冶)教養英才,成之以道(英才を 教義し,之れを成す匠道を以てす).. 「人物を作る+という内藤の解釈は琴有礼の口吻にならったものかもしれないが,儒道 の伝承・道の成就をいう集注・遭注にくらべる時,水戸学が儒道の洩れから外れているこ とを示すものとも見られる。 (一夫の紺な課す)について「我国 'このほか「革命ノ主義+に連なる有名な「謙一夫紺+ の如く君臣の義正しき国にては,固に言ふベき言にあらず+と付け加えているような事例 もいくつかあるが,一々あげたい。以上例示したところもアト・ランダムに拾った若干ケ. ースにすぎず,類似例は他匠も多い.むろん儒教古典の解釈は,必ず旧い注釈に従わねば ならないというものではないであろう。先人の解釈はもちろん,原典自身をさえ独自に読 みかえ,あるいは新しい解釈を提示すること紅よって,儒学が新しい展開をなしとげてき たのは事実である。しかしその場合は,新解釈の合理的な-あるいは説得的な根拠を提 示するという手続きが必要であることはいうまでもない。ところが内藤の場合は上引の諸 例から明らかなように,はとんどそのような手続き抜きで,彼がいささかでも天皇制思想 に反すると認めた箇所に,悉意的な解釈をしているのである.いうまでもなく/経書は天皇 制思想に適合することを予想して善かれたものではないから,両者に矛盾があるのは当然 であって,. 『孟子』以外の経書の場合も事態は同じである。このことは結局,儒教を「愛. 国心成育+の「補助+たらしめることが極めて困難であることを示している。. 確かに天皇制教育体制り理念を315字に書きあらわした教育勅語自体は,一見儒教風に みえる点がある.重野安揮によれば,教育勅語に使用された語句のうち儒教古典を出典と するものは28紅も及ぶ16).儒教の徳目に近い徳目を羅列していることも事実である.恐ら くそのためであろう,教育勅語は儒教思想に基づき,あるいは儒教道徳を鼓吹するものと いう理解がこんにちも存在している17'。このような理解が広くなされることを予想してい たのであろうか,重野は帝国大学における教育勅語「奉読+式において次のように述べて いる。. 勅語ノ大旨-蓋シ忠君愛国及ビ文子兄弟夫婦朋友ノ道ヲ履行スルニ在リテ,即チ五. 倫五常ノ道ナリ(君臣父子等-其ノ体,恭倹以下-其ノ目ナリ)。五倫五常-儒教ノ名 目ナレバ是ヲ儒教主義ト云フモ不可ナカルべシ。然ルニ(中略)五倫五常ノ道,必シモ 儒教ヲ待チテ我国ニ行-レシニアラズ(中略)。. -タビ倫理ノ事ニ説キ及べバ皆儒教主 義ナリト人々心得ル-,本末ヲ誤レリト言-ザルヲ得ズo倫理ノ教ノ儒教渡来以前ニ 行-レシ-,諸君,国史ヲ一関シテ知了アルべシ18).. これを誤読した『国民之友』誌が,重野が教育勅語を儒教主義と規定したと思い込んで 「重野安揮氏誤れり+と見当外れの非難をしたことはよく知られているが19),教育勅語発 布以前に重野は「熟ら当今の時勢を通観するに,孔孟の教の行はれて行く時勢とは私には 認められませぬ+と断言していた.しかし儒教を全面的に否認しているのではなく,. 「国.
(19) 明治儒教と教育(読). 47. 学主義も儒教主義も洋学主義も,皆今日に廃すべからぎるもの+であると述べている20)o いわゆる採長補短主義であり,儒教の部分利用に通じるものがあるo井上の儒教解体一 部分利用の主輩も,おおまかにいうと一種の採長補短主義だともいえる.. しかし儒教解体は,儒教を天皇制教育に奉仕させるためにのみ主張されたのではない。 全く文脈を異にする解体の主張もあった。それは,儒教ないし漢学を学術研究の対象とす 卑アカデミズムの立場からの,次のような主衷・提案であるo 世に所謂る漢学とむも支部の書籍を講習するを云ふのみ。吾人ほ敢て講習すと云ふ. 習ふのみ,読むのみ,断じて研究にあらず,断じて学問にあらず(中略).或は説をな すものあり,日はく,漢学は大凡分ちて三科となすべし,. -は支部哲学なり,ニは支 部歴史なり,三は支部文学なりと(中略).既に哲学科の設あり,而して別に支那哲学. 科を要すべきか(中略).既牢史学科の設あり,豊又別に支部歴史科を設くるを要せん や(中略)。哲学専攻の人,史学専攻の人,別に漢籍を解するの読書力を備-,其批評 眼を以て其史限を以て,支那哲学に入り支那歴史を攻めば,吾人は其効果大紅見るべ. きものあるを信ず(中略).古来用ゐ来れる所謂漢学の流義講究をも踏襲し,此れに文 献学・言語学等を加へて-科専攻の学となし,直に之紅突入しうべきは,支部の純文 学にあらずや(中略)。今の文科大学の漢学科は,所謂漢学の混沌を承けて猪托其の余 ・習を存せり(中略)0. 今の漢学科に入るもの,此の混沌に迷ひ此の散漫に惑ふ。慣れむべきにあらずや2,”. 儒教ないし漢学の解体が,時代の一っの流れになっていたことは否定し難いといえよう. この提案ど串りではないが,東京帝国大学院支部哲学・支部史学・支那文学の3学科がお かれるのは,. 1904年のことであった2急).世紀の転換は,ここでも儒学(T3:Jいし漢学)の大き. い転換を意味したo. このように,世紀転換期における儒教の解体むま単に政策的意図のみに 基づくものではなかったのであって,平凡な言い方になるが明治儒教の転換は,それが序 でふれた「義+の転換を含むものであったにしても,やはり歴史の必然であったといわざ るをえない。 注. 1) 2) 3) 4) 5) 6). 『明治以降教育御慶発達史』巻3, P.203f. 『文部省日誌』1881年21号(復刻版『明治前期文部省刊行誌集成』巻3, P.241) (『東京学士会院雑誌』6縮4号, 1884年9月, P.6) 西村茂樹「文章論+ 「尋常中学校学科程度改正理由+ (『教育時論』320号, 1894年3月5日, P.33) 『明治以降教育』制度発達史』巻3, P.88. 「井上文部大臣の演説+ (『教育報知』416号, 1894年4月7日, P.14),ず東京薯渓会雑誌』 号, (194年4月) p.6.. 135. 7)久米邦武は儒教の「忠+紅は臣下の君主に対するものと並んで,君主の臣下甘こ対する忠がある 『六合雑誌』155号, 1893年11月, P.50) ことを指摘している(久米「忠孝仁義+, (海後宗臣縮『井上毅の教育政策』 1968年2月, P・ 8)寺崎昌男・菊池城司「教育内容・方法+ 74ff.)が代表的なものであろう。 (2) (大阪薬科大『ぱいでいあ』巻9, 9)小山常葉「井上毅における宗教・道徳・政治と教育+ 1985年3月, P.44) 毅「国文教授並に漢文学に対する意見+ 1、0)井上 9f.). (『教育報知』419号付希, 1894年4月29日,. P・.
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