Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Jan.- Mar. 2020] │ 4
フ ラ ン ス 窓 は な ぜ﹁ 未 亡 人 ﹂で な け れ ば な ら な い の か
平 芳 幸 浩
﹁マルセル・デュシャンと窓﹂と言われると︑真っ先に思い浮かべるのは︽花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて︑さえも︾﹇図
1﹈かもしれない︒通称︽大ガラス︾と呼ばれ
るこの作品は︑その名の通り二枚の巨大な板ガラスを支持体とした絵画作品であり︑
ガラスの向こう側が窓のように透けて見えているのだから︒﹁窓展窓をめぐるアートと建築の旅﹂に出品されているデュシャンの作品︽フレッシュ・ウィドウ︾﹇図
窓の形状をしているものの︑ガラス部分は真っ黒で向こう側が見えなくなってしまって 2﹈は︑フランス
いる奇妙な窓である︒このふたつの窓のようで窓でない作品はどのような関係にあるの
だろうか︒デュシャンの作品群は︑様々なレベルで関連性を有しており︑その中心には常に︽大ガラス︾があるとも言われる︒ここでは︑︽大ガラス︾と︽フレッシュ・ウィドウ︾ の関係を紐解きながら︑デュシャンにとっての﹁窓﹂に迫りたいと思う︒
まずごく簡単に︽大ガラス︾について説明しておこう︒︽大ガラス︾はデュシャンの最重要作とみなされる作品で︑大きな板ガラス二枚にそれぞれ︑機械的形象による男性九人
の欲望放出回路︵独身者の領域︶と︑有機的かつ平面的に表された花嫁が中空にぶら下
がる様態︵花嫁の領域︶とが描かれている︒デュシャンは︑その二枚のガラスの間に細い板ガラスを挟んで︵花嫁の衣装︶直立させることで︑形象群が透明な支持体の上でふわふ
わと浮かんで見えるようにした︒ガラス上で展開される物語は︑独身者たちの性的欲望
と花嫁の電気的開花︵と呼ばれる発情︶が交錯して最終的に花嫁が脱衣するというもの
である︒デュシャンは八年以上の長きに渡って制作を続けたが︑一部の形象を描かない
まま未完の状態で一九二三年に制作を放棄した︒
︽フレッシュ・ウィドウ︾は︑職人に作らせたフランス窓のミニチュアのガラス部分を黒 く染めた豚皮に嵌めかえた立体作品で︑
Fr en ch W ind ow
︵フランス窓︶とFr es h W id ow
︵なりたての未亡人︶の言葉遊びになっている︒デュシャンが言うところの﹁視覚的地口﹂の ひとつであり︑モナリザの複製画にヒゲを描き込んだ︽L .H .O.O.Q.
︾︵一九一九年︶等と同系統のユーモアに溢れた作品と目されている︒通常︑この作品が︽大ガラス︾についての意味ありげな言及となっていると取り沙汰されることはないのだが︑その制作年が一九二〇年であり︑直立し区画化されたガラス窓であることを考えると︑当時制作の真っ只中であった︽大ガラス︾との関連を無視することはできないであろう︒デュシャンは︑一九一五年から取り掛かっていた︽大ガラス︾の制作に倦み飽きており︑二三年には制作を中途で放棄してパリに戻ってしまうのである︒ガラスを真っ黒にする作品が︑デュ
シャンのうんざり感の表出であったとしても不思議ではない︒
さらに突っ込んで両者の関係を見ていくと︑︽フレッシュ・ウィド
ウ︾が︽大ガラス︾の物語の事後あるいは絵画的イメージの終焉の徴としてあることがわかる︒︽フレッシュ・ウィドウ︾はその名の通
り︑﹁未亡人になったばかりの女性﹂を示している︒つまりそれは﹁かつて花嫁であった女性﹂である︒またこの作品の土台部分には作品名とともにコピーライトホルダー︵著作権者︶の名前が記されて
いるのだが︑その名はデュシャンではなく︑ローズ・セラヴィとなっ
ている︒ローズ・セラヴィはデュシャンが一九二〇年に創始した女性としての別人格であり︑以降ローズ・セラヴィ名義で作品の制作 ﹁窓展窓をめぐるアートと建築の旅﹂
会期二〇一九年十一月一日│二〇二〇年二月二日 会場美術館企画展ギャラリー﹇一階﹈
図2 マルセル・デュシャン《フレッシュ・ウィ ドウ》1920/1964年 京都国立近代美術館蔵
© Association Marcel Duchamp / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2019 B0443 図1 マルセル・デュシャン《花嫁は彼女の独身 者たちによって裸にされて、さえも(大ガラス)》
1915─23年 フィラデルフィア美術館蔵 The Philadelphia Museum of Art / Art Resource, NY/ DNPartcom
© Association Marcel Duchamp / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2019 B0443
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を行ってもいる︒︽フレッシュ・ウィドウ︾がローズ・セラヴィ誕生時に制作されていること
を考えると︑ローズ・セラヴィこそが未亡人であり︑かつて花嫁であった存在とみなすこ
ともできよう︒なぜなら︑︽大ガラス︾の花嫁︵Mariée︶と独身者︵Célibataires︶たちは︑そ れぞれデュシャンのファースト・ネームである
M arc el
を分割した文字列を冒頭に抱いているからである︒ローズ・セラヴィと花嫁はともにデュシャンの半身なのである︒
デュシャンの分身であるローズ・セラヴィは︑かつて花嫁であった未亡人として︑︽大
ガラス︾の世界を真っ黒に塗りつぶして閉じてしまう︒︽大ガラス︾が透過性︑窓として向こうが見える開放系を志向しているのに対し︑︽フレッシュ・ウィドウ︾は不透過性︑向こうの世界を覗き見ることができない閉鎖系を示している︒そこには︑独身者たちの型も機械群もいかなる図像も浮かび上がることはなく︑黒光りする豚皮の物質性だけ
が窓に張り付いているのだ︒
興味深いのは︑このような絵画的イメージの終焉が︑支持体の不透明性によってもた
らされているという点である︒通常絵画は︑板であれキャンバスであれ︑不透明な支持体の上に描かれることによってイリュージョンとしての空間性を紡ぎだし︑完結した世界として成立する︒透明なガラスは︑描き込みによる完結性を拒絶し支持体の向こう側の現実世界を画面中に嫌が上にも取り込んでしまう︒しかしデュシャンは透明な面
こそが二次元的図像を浮かび上がらせるのに重要と考えていた節がある︒それは彼の四次元への関心と繋がっている︒デュシャンは二次元的図像を三次元の影と考えた︒影
とは三次元的空間がある瞬間に切断された面である︒この考えを援用すると三次元空間は四次元をある瞬間に切断した塊となる︒切断面あるいは塊は常に暫定的なもので
あり︑潜在的に可能であったが表象されなかった次元の様態が無数に存在していること
になる︒切断面/塊は固定された様相というよりは無数の様態が通過していく場のよ
うなものとしてある︒それゆえにデュシャンにとって︑そのような切断は透過性を有して
いなければならなかったと考えられるのだ︒︽回転半球︾︵一九二五年︶しかり︽アネミッ
ク・シネマ︾︵一九二六年︶しかり︽ロトレリーフ︾︵一九三五年︶しかり﹁チェス競技﹂しかり︑︽フレッシュ・ウィドウ︾以降デュシャンが固定化されず流動的な形象への志向を強めて
いくのも︑これと無縁ではない︒
もうひとつ︑デュシャンは︑裸体の女性を描く画家の様子を示したデューラーの版画﹇図 3﹈
を知っていたのではないかと言われている︒なぜなら︑視点を固定した状態
で遮蔽物越しに裸体の女性を足元から視るという様子がデュシャンの﹁遺作﹂である ︽与えられたとせよ
1.
落ちる水
2.
照明用ガス︾︵一九四
六│六六年︶とそっくりだからだ︒ここにもフランス窓
のようなグリッド化された窓が登場していることに注意しよう︒当然︑この窓は転写の支持体ではないので透明である︒だが同時に三次元的空間を切断してい
る面として機能している︒この窓を︽フレッシュ・ウィ
ドウ︾に置き換えてみれば︑それが切断によってもた
らされる絵画的表象の否定となることがわかるであろ
う︵遺作においてはこの窓は重厚な木の扉に置き換えられ
ている︶︒
一九一八年に最後の油絵である︽
Tu m
︾を仕上げ︑その五年後には︽大ガラス︾を中途で放棄する︒その
ちょうど中間に生み出されたこの︽フレッシュ・ウィド
ウ︾は︑伝統的な絵画的イメージとの決別をユーモラス
に表明したものであり︑フランス窓/ローズ・セラヴィ/マルセル・デュシャンは︑絵画を葬り去ったばかりの﹁未亡人﹂なのである︒︵美術史家・京都工芸繊維大学准教授︶
後記 展覧会準備の過程で︑﹁したたかでユーモラスなポーランドの前衛美術ってどん
な社会情勢から生まれたんだろう︒コンパクトな文献があればなあ﹂とか︑﹁︽フレッ
シュ・ウィドウ︾と︽大ガラス︾って絶対関係ありそう︒でもそこに的を絞った研究は意外にないんだよね﹂などと不満が溜まった︒そこで今回は︑ポーランド美術研究と
デュシャン研究でいずれも日本を代表するお二人に︑この穴を埋めていただくことに
した︒︽わたしの窓から︾が監視社会をパロディしているかもしれないなんて︒透明な︽大ガラス︾と比較すれば︽フレッシュ・ウィドウ︾の絵画否定っぷりがこんなにはっき
りわかるなんて︒目の覚めるような指摘の数々に不満も消し飛んだ︒︵企画課長 蔵屋美香︶ 図3 アルブレヒト・デューラー『測定論』挿絵版画 1527年