博士論文審査報告書
北村 貴 氏
論文題目
「社会権の政策規範性に関する研究
-比較憲法政策学の観点から - 」
早稲田大学
大学院公共経営研究科
審査要旨
北村貴氏による博士学位請求論文「社会権の政策規範性に関する研究 - 比較憲法政策学の 観点から -」は、次の 8 章から構成されている。
第1章 序論
第2章 憲法政策と政策規範性
第3章 政策規範性の強さを表す代理変数の算出 第4章 生存権の政策規範性の分析・検証
第5章 教育を受ける権利の政策規範性の分析・検証 第6章 勤労権の政策規範性の分析・検証
第7章 総合的な社会権の政策規範性の強さに対する考察 第8章 結論
以下、1. 論文の目的、 2.論文の結論、3.論文の構成と概要、4.論文の特徴と評価、及び 5.結 論、の順で審査結果を記述する。
1. 論文の目的
本論文の目的は、社 会権 に関する憲法政策の政策 過程に対する規範性 、つまり「社会権 の政策規範性」に関して調査・研究を行うことである。具体的には、(i)日本における社会権の 政策規範性が他の先進国と比べてどのような特徴・傾向を持っているか、(ii)先進国における 成 文 憲 法 上 の社 会 権 規 定 が政 策 規 範 性 の強 さ・傾 向 とどのような関 係 になっているか、(iii) 社会権の政策規範性の強さがどのような要因に依存しているか、を検証することを目的として いる。本論文では、社会権の中でも特に「生存権」、「教育を受ける権利」、「勤労権」の 3 つの 社会権に絞って分析を行っている。分析方法(手法)として、抽象的な概念である「社会権の政 策規範性の強さ」を表す代理変数(指標)を設定し、その代理変数(指標)を時系列或いは国 際間で比較することによって 3 つの社会権に関して(i)、(ii)、(iii)について検証している。
2. 論文の結論
(i) 日本の社会権の政策規範性の特徴と傾向
下表(論文中の表 24)は、日本の社会権の政策規範性の特徴と傾向に関する分析結果をま とめたものである。下表から明らかなように「政策規範性の強さ」に関して、日本における 3 つの 社会権の政策規範性は、いずれも先進国と比較して弱いという結果 を得た。また、日本におけ る 3 つの社会権の政策規範性の傾向には共通した特徴が存在しないという結果も得た。
日本における 3 つの社会権の政策規範性の特徴
政策規範性の強さ 政策規範性の強さの傾向
生存権 弱い 強まっている
教育を受ける権利 弱い 強まっている
勤労権 弱い 弱まっている
(ii) 先進国における成文憲法上の社会権規定と政策規範性の強さ・傾向との関係
下記の①及び②の仮説を検証することによって成文 憲法上の社 会権 規定と政 策規範 性の 強さ・傾向との関係を導出した。
① 「成 文憲法 上に社会 権規定 を有する国の政 策 規範性 は、成 文憲 法上に社会権 規定 を有しない国の政策規範性よりも強い」
② 「成文憲法上に社会権規定を有する国の政策規範性は、成文憲法上に社会権規定 を有しない国の政策規範性よりも強化の幅が大きい」
3 つの社会権について、本論文で設定した代理変数を用いて①及び②の仮説を統計的に検 証した。その結果、すべての社会権について両仮説とも統計的に否定された。つまり、政策規 範性の強さ及びその傾向に対しては、成文憲法上の社会権規定の有無が影響を与えていな いという結果となった。こうした結果は、従来の立憲主義の考え方とは相反する結果である。
(iii) 社会権の政策規範性の強さを規定する要因
3つの社会権の政策規範性の強さを総合する代理変数を設定し検証した結果、「社会権の 政策規範性の強さ」は、大陸法体系に属する国の方が英米法体系に属する国よりも強いこと を明らかにした。
(ii)及び(iii)の結果から、「社会権の政策 規範 性の強さ」は、立憲 主義において重視されている
「成文憲法上の社会権規定の有無」ではなく、「各国の属する法体系」が影響を与えているので はないかということが推察できる。
3. 論文の構成と概要
本論文は 8 章構成である。第 1 章では、論文の目的、研究の背景、方法論について概説し ている。
第 2 章で、まず、本論文における「憲法政策」を「憲法で規定されている規範内容を実現する ために、憲法の他の規定の範囲内で施行される『立法』・『行政』による公共 政策」と定義した。
また、「政策規範性」を「憲法政策を施行 しなければならないと公的機関に対して命令している 規範としての性質」と定義した。これらの定義を踏まえて、社会権に関して、政策規範性の観点 から憲法政策研究を行う重要性を示した。
第 3 章で、「政策規範性の強さを示す代理変数の算出」という本論文の方法論を提示した。
具体的には、「憲法解釈による収集すべき指標の範囲の確定」、「憲法政策及び憲法現実に関 する指標の収集」、「指標を組み合わせることによる代理変数の算出」という 3 つの過程について 論じた。
第 4 章、第 5 章及び第 6 章で、それぞれ生存権、教育を受ける権利、勤労権の政策規範性 の強さを示す代理変数を算出した。具体的には、生存権の政策規範性の強さを示す代理変数 として LPNI を、教育を受ける権利の政策規範性の強さを示す代理変数として EPNI を、勤労権 の政策規範性の強さを示す代理変数として WPNI をそれぞれ算出した。その上で、それぞれの 代理変数が、対応する社 会権の政策規 範性の強さを表していると仮定 し、代 理変数の分析 を 行った。分析の結果、下表でまとめた日本における 3 つの社会権の政策規範性の特徴があきら かになった。
日本における 3 つの社会権の政策規範性の特徴
政策規範性の強さ 政策規範性の強さの傾向
生存権 弱い 強まっている
教育を受ける権利 弱い 強まっている
勤労権 弱い 弱まっている
上表(論文中の表 24)からは、「政策規範性の強さ」に関しては、日本における 3 つの社会権 の政策規範性は、いずれも先進国と比較して弱いという結果が読み取れる。一方、日本におけ る 3 つの社会権の政策規範性の傾向に共通する特徴はない。
また、「成文 憲法 上に社 会権 規定を有する国の政 策規 範性は、成 文憲 法上 に社会権 規定 を有 しない国の政 策 規範 性よりも強い」及び「成 文 憲法 上に社会 権 規 定を有する国の政 策規 範性は、成文憲法上に社会権規定を有しない国の政策規範性よりも強化の幅が大きい」という 仮説の成否を統計的に検証した。具体的には、それぞれの代理変数を用いて、各国を成文憲 法上に社会権規定が存在するか否かを基準に 2 つのグループに分けた上で、有意差検定を行
った。その結果、いずれの仮説も統計的に否定された。つまり、政策規範性の強さ及びその傾 向に対しては、成文憲法上の社会権規定の有無が影響を与えていないという結果となった。こう した結果は、従来の立憲主義の考え方とは相反する結果である。
第 7 章で、総合的な社会権の政策規範性の強さに影響を与えている要因について考察を 加えた。3 つの社会権の個別の政策規範性の強さを示す代理変数を統合した SPNI の分析を 行った結果、「社会権の政策規範性の強さ」は、大陸法体系に属する国のほうが英米法体系に 属する国よりも強くなっていることが明らかになった。SPNI が社会権の政策規範性の強さを正確 に表していると仮定すると、社会権の政策規範性の強さに対しては、立憲主義において重視さ れている「成文憲法上の社会権規定の有無」ではなく、「各国の属する法体系」が影響を与えて いると推察できる。
最後に第 8 章で論文の内容をまとめた上で、最終的な結論を述べている。
4. 論文の特徴と評価
本論文の特色・独自性は、(I)研究視点と手法、(II)研究結果・成果、に関して以下のようにま とめることができる。
(I) 研究視点と手法
① 憲法学のこれまでの研究の多くが「憲法解釈学」であるのに対して、「憲法政 策」を研究 対象としている点。
② 「政策規範性」という観点から社会権研究を行っている点。
③ 方法論として「社会権の政策規範性の強さ」を示す代理変数を設定し、統計的に仮説を 検証し、結論を導出している点。
(II) 研究結果・成果
① 同一の代理変数(指標)を用いて国際比較を行うことによって、日本における社会権の政 策規範性の特徴と傾向を明らかにした点。
② 成文憲法上の社会権規定の有無が政策規範性の強さ・傾向には影響を与えていないと いうことを示した点。
③ 社会権の政策規範性の強さは、大陸法体系に属する国の方が英米法体系に属する国 よりも強いことを明らかにした点。
以上にまとめた本論文の特色・独自性は、憲法政策の類似の研究には見られない斬新的かつ野 心的試みとして高く評価できる。特に、社会権の政策規範性を客観的に分析・検証した点は、憲 法学に新機軸を導入する試みとして注目すべきであろう。
しかしながら、本論文について問題が無いわけではない。少なくとも 2 つの点が指摘できるであ ろう。第1に、本論文で用いている社会権の政策規範性の強さを示す代理変数が唯一絶対の代 理変数という訳ではないという点である。他の代理変数を用いた場合には、同じ分析方法を用い たとしても異なる結果を得る可能性は否定できない。第 2 に、憲法規範と憲法現実の乖離と社会 権の政策規範性との関係を、生存権については 1995 年から 2007 年までの 13 年間、教育を受け る権利については 1997 年から 2007 年までの 11 年間、勤労権については 1991 年から 2008 年 までの 18 年間、についてのみ検証している点である。別の代理変数を用いることによって、より長 期間での検証が可能となった場合には、異なる結果が導出されるかもしれない。特に、本論文の 驚くべき検証結果である「成文憲法上の社会権規定の有無と政策規範性の強さ・傾向とは無関 係である」という結果を否定する結果を得ることになるかもしれない。
5. 結論
以上を考量し、今 後改善 しなければならない点は認められるものの、憲法政策研究と公共経 営研究に対する貢献を高く評価して、博士後期課 程を修了して独立した研究能力を証明したと 認め、本審査委員会 として、本論文は、博士(公共経営)の学位を授与するに値するものと判断 する。
2011 年 2 月 23 日
主査 Ph.D. in Economics 早稲田大学教授 福島 淑彦 (ストックホルム大学)
副査 Dr.rer.publ. 早稲田大学教授 縣 公一郎 (シュパイアー行政大学院)
博士(法学)京大 早稲田大学教授 稲継 裕昭
早稲田大学教授 山本 武彦
博士(政治学)早大 駒沢大学教授 西 修
博士(法学)日大