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博士論文審査報告書

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Academic year: 2022

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(1)早稲田大学大学院アジア太平洋研究科. 博士論文審査報告書 論 原題名 Original Title. 英訳 In Japanese. 文. タイにおけるリベラリズムの初期の歴史. 申. 名. Name 学籍番号 Student ID. 目. An Early History of Liberalism in Thailand. 姓 Last Name. 氏. 題. 請. 者. Middle Name. Vanichaka. 名 First Name. Parkpume 4012S302. 2019 年 6 月. 0.

(2) 1.. 本論文の主旨. リベラリズムは近代タイにおける最も重要な思想であるが、タイ国におけるリベラ リズムの史的展開を正面から、且つ包括的に扱った既存研究は存在しない。 タイにおけるリベラリズムの歴史に関する現在の知識状況は、1932 年立憲革命を 分岐点として 2 つの時期に分けて見ることができる。1932 年立憲革命によって、絶 対王制が打倒されたが、これ以後、軍部及び旧エリートから成る保守派と、リベラル 民主主義派との抗争が続き、個人主義、平等、立憲主義などの思想が中心的な争点と なった。ところが、1932 年後のリベラリズムの歴史を正面から扱った研究は未だ現 れず、タイ政治研究の中で付随的に言及されるに過ぎない。 1932 年以前のリベラリズムに関する研究は、更に乏しく、断片的なものに過ぎな い。絶対王制期のタイ政治を研究する者は、主に宮廷政治に関心をもち、個人主義、 平等、立憲主義などには、重要性を与えなかったからである。 また、1932 年立憲革命の研究においては、リベラリズムの思想は同革命に関係あ る部分に限って言及されているに過ぎない。従って同革命で論点とはならなかった信 教の自由などは取り扱われていない。 既存研究の稀薄な 1932 年以前のタイのリベラリズム発展史研究は、極めて挑戦的 なテーマである。本論文は、単に研究の空白を埋めるのみに止まらず、タイのリベラ リズム研究の礎を築くことを目指すものである。 本研究は歴史研究であり、関連資料の蒐集、検討及び解釈により、タイ国の 1932 年以前のリベラリズム論を構築することを試みる。本研究では、公共の場で表示され たリベラリズムの思想の発展を明かにするため、新聞(例えば米人伝道使ブラドリー 医師が刊行したタイ最初の新聞、The Bangkok Recorder)、雑誌、書籍、碑文、ポス ター等の資料を重視する。但し、個人文書や官庁文書なども、必要に応じ参照する。 本論文は次の 5 章及び結論で構成される。 2.本論文の構成と概要 第1章. Introduction(Enter into the Unknown: Liberalism Before 1932). 本章は、本論文の問題意識を述べ、背景と目的、既存研究の検討、ならびに分析に用い られている諸概念を定義している。 第 2 章 License for Treason: Freedom of Religion as a Strategy 本章はタイにおいて信教の自由への制限が解かれた歴史を検証する。タイで個人が国 家から最初に得た自由は、信教の自由である。伝統的タイ国家の正統性は、仏教に依拠し ており、仏教はタイ人であること(Thainess)の核心をなしていたので、伝道師にタイ人伝道を 認めることは、タイ国家の原理の革命を認めることに等しかった。1856 年に、西洋帝国主義 の圧迫によりタイ人を含む全ての住民への布教権を認めるまで、タイ国家のキリスト教に対 する基本的態度は、在来仏教徒タイ人(タイ、ラーオ、モンなどを含む)のキリスト教改宗の 禁圧、外来異教徒コミュニティの容認であった。 伝統的タイ国家は、臣民として異教徒が存在することは忌避せず彼等を軍事面経済面で 利用したが、仏教徒ではない者は真のタイ人とは見做さなかった。16 世紀初頭にポルトガ ル人がアユタヤとの交流を開始し、教会建設も認められた。1662 年にパリ外国宣教会 (MEP)のフランス人伝道師たちがアユタヤに到着し、ナライ王の支援を得て活動を開始し 1.

(3) た。MEP はフランスのルイ 14 世とナライ王との交流を仲介し、両王の親交によりナライ王の 改宗を企図した。しかし、MEP の影響下のナライ王に対し、1688 年に貴族がクーデターを 起こし、仏人伝道師を追放し教会や神学校を破壊した。これ以降、1767 年のアユタヤ王朝 の崩壊まで、タイ人のキリスト教改宗は禁止された。一方、タイ人以外のキリスト教徒(中国 人ベトナム人日本人ポルトガル系人など)は信仰を継続できた。但し、1730 年には仏教を批 判した伝道師の文書が発覚したことを契機に、バイブルを仏教書と同一文字を使って訳す こと、タイ語で説教すること、タイ人仏教徒が伝道師等から借金することなどの禁止令が布 告され、キリスト教に改宗していたタイ人は死刑に処せられた。アユタヤの陥落後、トンブ リー王朝創立当初はカトリック教会との関係はいくらか改善するかに見えたが、キリスト教徒 の武人が国王への忠誠儀礼参加を拒む事件が生じるなどして、関係は悪化し、タクシン王 は 1774 年にタイ人、モン人がキリスト教、イスラム教を信奉することを厳禁し、1779 年には伝 道師追放令が発せられた。タクシン王を処刑して、1782 年に成立したバンコク王朝は、タク シン王がマカオに追放した伝道師に再来タイを認め、キリスト教徒の忠誠儀礼不参加を認 めるなどして、西洋との貿易の回復を図った。しかし、タイ人に対しては異教信奉の自由は 認めず、1804 年に改定された三印法典には、タイ、ラーオ或はモン人の女性が間違った宗 教を奉じる英、蘭、爪哇、馬来人などに嫁すことを禁じたり、性的関係を結ぶことを禁ずる規 定がある。ラーマ 2 世の時代(1809-1824)には、タイと近隣諸国との紛争の結果、近隣諸国 からカトリック信者がタイに流入し、信者数が増加した。ラーマ 3 世在位(1824-1851)の時代 の 1828 年にはイギリス系プロテスタント伝道師が初めて来タイしたが、同王は改宗した華僑 が政府に逆らうことを警戒しており、国王の命に従わない伝道師は国外追放に処し、タイ人 にはキリスト教のパンフレットを受け取ることを禁じた。1851 年にラーマ 3 世は死去し、王位 を継承したラーマ 4 世(1851-1868)は西洋勢力に妥協的政策を採った。 1856 年 8 月 15 日バンコクで調印された暹仏友好通商航海条約第 3 条 2 項は、フランス 人伝道師が、シャム全国でタイ人をも含む全ての人に布教する権利を認めた。これはパリ外 国宣教会(MEP)がシャムと条約交渉する仏外務大臣に信教の自由の条項を入れるように 求めたからである。その後に締結されたシャムと欧米の条約は、最恵国待遇条項により同一 の布教権を認めた。シャムの条約締結は、シャム政府が、タイ人に信教の自由を間接的に 認めたことを意味する。1858 年ラーマ 4 世は、「宗教を信仰する者及び誤った信仰をする 者」という布告において、「正義により統治する王者の慣行では、人民が心の拠り所として宗 教を信ずることを禁止することはない。国王は、人民が好むがままに宗教を信仰することを 許容する」と布告し、信教の自由に言及した。この布告によりタイ人は仏教徒でなければな らないという長らく維持された関係が切断された。アユタヤ時代もある程度の布教の自由は 存在したが、布教の対象はタイ人以外の者に制限されていた。西欧との友好通商条約が、 布教の自由を認めたことでシャム国家は布教を制限する権限を失った。タイの伝統国家の 正統性は仏教に依拠しており、仏教信仰をしない者は、国家への叛逆と見做され、弾圧さ れた。しかし、欧米帝国主義国の脅威の中で、信教の自由を条約によって認めざるを得な かった。 1867 年 4 月に米人プロテスタント伝道師(Daniel McGilvary)が初めてチェンマイに入っ た。彼は4名の現地ラーオ人の改宗に成功したが、1869 年 9 月に仏教信仰に熱心なチェン マイ第 6 代領主ガーウィローロットは、キリスト教改宗は領主への叛逆であるとして、2名の領 民を死刑に処した。同領主は 1870 年に死亡し、後継領主は穏健でキリスト教改宗者への弾 圧は緩和した。プロテスタント改宗ラーオ人の結婚において新婦側の父親が結納金を要求 したとき、McGilvary は教義に反するとして拒否させようとした。新婦の父親はチェンマイ領 主に訴えたが、領主は決定できるのは、バンコクのラーマ 5 世(1868-1910)のみだとして判 2.

(4) 断を回避した。1878 年 10 月 9 日付けでラーマ 5 世は、シャムの法律・慣行あるいは条約は、 何人に対しても宗教上の制約を課してはいない。キリスト教信仰は、その信仰を選ぶ者の自 由だ。領主もキリスト教に改宗しようとする者の親族も、キリスト教信仰を妨げないように、と命 令した。McGilvary はこの命令を First Church of Chiang Mai の壁に刻んだ。この石版は今 日も現存している。 第 3 章 The Forefather: Free Press in a Heathen Land 本章は、1835 年から 1873 年の間、タイで伝道活動をしたアメリカ人プロテスタントの伝道 師ブラドリー医師(Dan Beach Bradley,1804-1873)が、印刷技術によってタイにおけるリベラ リズムの先駆者としての役割を担ったことを検証する。 19 世紀前半のタイのカトリック教会は、タイの発展には関心を持たず、主に非タイ人から 成るカトリック・コミュニティはタイ人社会から隔離されていた。一方、プロテスタントの伝道師 はラーマ 4 世が即位する前までは、抑圧されたのは同様だが、英語、近代医学、印刷術な どの世俗的な知識をタイの支配階級・平民と友好関係を築く手段として用いるとともに、タイ の発展に貢献した。ブラドリー夫妻は 1835 年 7 月にアメリカ・ボード(ABCFM)の伝道師とし て来タイした。当時のラーマ 3 世王は伝道師が華僑を煽ることを恐れていたが、ブラドリーは 診療所を開き治療に当たるとともに、種痘を初めて実施した。彼の印刷所は、聖書の印刷 のみならず、配布用の種痘教本や官庁の依頼により阿片禁止令などをも印刷した。1844 年 7 月から翌年 10 月まで月刊の Bangkok Recorder を刊行した。 ブラドリーは 1865 年 3 月 1 日には自らを編集者、コラムニストとして The Bangkok Recorder(半月刊、タイ語、満 2 年間に計 48 号刊行)を発刊した。彼は医師としてラーマ 4 世 やブンナーク一門などタイの権門と親交があり、且つ通商航海条約で欧米諸国が治外法権 を得たこともあって、ある程度の出版の自由を手にした。同誌は、平民の請願や批判、対外 関係の機微な情報・評論を掲載したためラーマ 4 世との間に緊張が生じたが、ブラドリーは 論説で自由な新聞の存在は国家の改善の助けになるので社会的価値があることを説いた。 出版の自由と政治参加は表裏一体だが、当時のタイの政治は支配階級の専有であり、平 民に政治意識やナショナリズムは存在せず、同誌は平民の請願チャネルに止まった。しか し、エリート層や平民両方から成る読者から寄せられた、アメリカの南北戦争、奴隷制、憲法 などに関する疑念や質問に答えたことは、自由権、自助・自己実現、平等、法の支配、共和 制などの米国のリベラリズムを、米国の実例を通して読者に指し示す機会となった。ブラド リーはタイ政治体制の変革やリベラリズムの宣伝を意図してはいなかったが、彼の論説は結 果として出生や有力庇護者の有無により社会的地位が決まり、個々の能力や努力は意味 がなかった伝統社会に住むタイ平民には衝撃を与えたであろう。次章で述べる言論人ティ エンワンも同誌の定期購読者であり、同誌の影響を受けた一人であると思われる。 第 4 章 Local Voices:Independence Through Equality ラーマ 5 世王期前半はタイ近隣諸国が植民地化され、タイ独立の危機感からタイ平民に もナショナリズム意識が見られるようになる。これが欧米式のリベラリズムに基づく政治制度 への強い関心を生み出すこととなった。本章は、タイ最初のジャーナリスト言論人と言うこと ができるコー・ソー・ロー・クラープ(1835-1920)とティエンワン(1842-1915)の政治思想を考 察する。両者とも、西欧帝国主義による植民地化の脅威への反応として、雑誌を発刊して公 衆に対して自らの政治思想を提示した。彼らの思想は、タイ平民の政治意識の変化を明白 に示している。 クラープは幼少時、女性王族に養育され、貴族について法律、行政などを学んだのち比 丘出家した。1863 年に還俗した後、1879 年までバンコクの西洋人の会社に勤め、その際洋 行もしたと言う。1893 年、暹仏事件の年に、サヤームオブザーバー紙のタイ語版編集者とな 3.

(5) り、1898 年までその任にあった。彼は自らの民族意識や社会正義感を論説で表現し、同時 に階層や中央・地方を問わない多様な読者の投稿を掲載したので人気を博し、同紙は平 民には意見発表の場、支配層には平民の政治意識を探る場となった。これによって彼は平 民の議会政治への参加の意識を刺戟した。彼は 1897 年に自らを所有者編集者としてサ ヤームプラペート誌を発刊した。同誌の記事の中心は対外関係史、貴族の家系史であり、 政治に関する論評は多くはないが、政治評論では文明(信教の自由、自由主義経済・貿易、 平等な個人の独立自強、議会制、法の支配、国内の団結)と野蛮(無知で圧制的な支配者 の旧慣維持という不正義、帝国主義への屈従)とを対比し、タイは後者であることを暗示して、 列強の植民地化から免れ、列強から敬意を払われるためにはリベラルな西洋化が不可欠で あると説いた。クラープの議論は、基本的に国王専制とは相容れないものであった。 ティエンワンは平民の生まれで、生来向学心が強くブラドリーが刊行したタイ法律集に刺 戟されて法律家を目指した。比丘出家の後、国王への請願書代筆を仕事とした。1883 年1 月に代筆した請願文書が王位を侮辱しているとしてラーマ 5 世王の勘気に触れ 50 回の鞭 打ちの後、1898 年まで投獄された。投獄中に読書を重ね、多数の評論を書き溜めた。釈放 後 1900 年 10 月トゥラウィパークポチャナキット誌(半月刊)を発刊した。彼は毎号を国王に 送り、1902 年には暹羅発展計画の上奏を願ったが、国王は応じなかった。ティエンワンの評 論は、殆ど国家の発展政策に関するもので、国家有機体説に立って王族、貴族、平民の 3 者の相互依存的役割を説き、国家の発展にはそれぞれが近代的知識と徳を自己啓発する ことが必要であるとした。彼は平民の重要性を説き、平民も支配階級も潜在能力には違い はないとしたが、絶対王制の否定までには進まなかった。しかし、彼は身分に拘わらず個人 の能力の平等、能力主義、言論の自由、自由な新聞の存在の必要を唱道した。 第 5 章 Dealing with the Monster: Walking a Turbulent Path to a Constiyution 本章は、3 章の外国人や 4 章のタイ平民の言論人から、タイの支配階級に焦点を移して、 平民の憲法と議会との要求に対して、支配階級が行ったイデオロギー的キャンペーンにつ いて検討する。本章は、リベラリズムを異国の伝統からタイの主要イデオロギーに転換させ た 1932 年立憲革命で終わる。 結論(A Trinity of Revolutions)は、本研究を総括している。 3.口述試験での質疑応答 本論文審査委員会は、申請者から提出された学位請求論文を査読し、2019 年 1 月 12 日に 90 分に亘り口述試験を実施した。主たる質問・指摘は以下の通りである。 論文の英文に難があり、正確な意味が把握し難いところがある。各章の間の関連が把 握しにくい。この論文に言うリベラリズムについての、より詳細な説明があった方がよい。 コーソーロー・クラープ、ティエンワンを平民と見るのはどうか、彼らは上層知識層と見るべ きではないか。また、両人のタイのリベラリズム発展への貢献をより明示的に記述した方が よい。 指摘や質問に関して回答が示され、修正すべき点については、最終提出までに適切 に修正することとなった。審査委員会は、指摘に関し適切な編集、修正がなされたことを 確認した。 4.評価と審査結果 以上のように本論文は、主要文献を丁寧に読み込んで、タイにおけるリベラリズム、とり わけ信教の自由の歴史を系統的に明らかにしたこと、既存研究では知られていない史料 4.

(6) や文書間の関係を指摘したことなど、見るべき独創性がある。 口述試験の内容を踏まえ、論文に関して慎重かつ総合的に審査を行なった結果、博 士課程の目的として、大学院設置基準(昭和49年文部省令第28号)第 4 条にいう、「専 攻分野について、研究者として自立して研究活動を行」うために「必要な高度の研究能 力及びその基礎となる豊かな学識」を、十分に備えていることが、本論文により証明され たものと認め、全委員が一致して合格と判定した。. 5.

(7) 申 請 者 名 : Vanichaka, Parkpume 博士論文審査委員会 主査. Chief Examiner:. 氏 名 Name: 村嶋英治 ㊞(Signature) 所 属 A f f i l i a t i o n : 早 稲 田 大 学 大 学 院 アジア太 平 洋 研 究 科 職 位 Ti t l e : 教授 学 位 Degree: 取 得 大 学 Conferred by: 専 門 分 野 S p e c i a l t y : 東 南 アジア地 域 研 究 副査. Head Deputy Examiner:. 氏 名 Name: 早瀬晋三 ㊞(Signature) 所 属 A f f i l i a t i o n : 早 稲 田 大 学 大 学 院 アジア太 平 洋 研 究 科 職 位 Ti t l e : 教授 学 位 Degree: Ph.D. 取 得 大 学 C o n f e r r e d b y : Murdoch University 専 門 分 野 Specialty: History 副査. Deputy Examiner:. 氏 名 Name: 見市建 ㊞(Signature) 所 属 A f f i l i a t i o n : 早 稲 田 大 学 大 学 院 アジア太 平 洋 研 究 科 職 位 Ti t l e : 准教授 学 位 Degree: 博 士 (政 治 学 ) 取 得 大 学 Conferred by: 神 戸 大 学 専 門 分 野 Specialty: 東 南 アジア政 治 副査. Deputy Examiner:. 氏 名 N a m e : Kosit Tiptiempong ㊞(Signature) 所 属 Affiliation: 東京外国語大学 職 位 Ti t l e : Senior Assistant Professor 学 位 D e g r e e : Ph.D. 取 得 大 学 Conferred by: 早 稲 田 大 学 専 門 分 野 S p e c i a l t y : Culture and Literature. 2019年 1月 12日 6.

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参照

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