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「教育行政の社会学」に対する検討

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「教育行政の社会学」に対する検討

荒井 文昭

はじめに

 日本の教育行政学では,これまで,規範的アプローチを中心にして研究が展 開してきたω。教育行政をめぐる多くの研究は,調査研究にもとついて展開さ れるというよりは,「教育行政はどうあるべきか」という問題関心にもとつい た,教育法規の解釈学として展開されてきた。教育法規の解釈学としての教育 行政研究では,「教育行政がどうなっているか」という問題意識があったとし ても,それを科学的に追求する方法が,きわめて不十分にしか研究されてきて

いない〔2)。

 しかし,規範的アプローチでは追求できない,教育に対する公共的意志をど のように集めるのかという統治的課題は,教育行政研究にとって,重要となっ ている。堀和郎は,このことを,次のように述べている。

  「わが国の教育行政学の営為を理論内容的にみれば,教育経営学や学校管

 理学にみられるような管理的発想にもとつく教育行政学が一般的であり,ま

 た,経験科学として一定の研究成果を蓄積し発展してきている。今日の教育

 行政が教育サービスの公共的な配分として成立し,そのシステムの制御が重

 要な課題であるとすれば,管理論的発想にもとついてその目的合理性や能率

 性を確保するための諸条件を探求する研究は,その意義を増すことはあって

 も決して減ずることはないであろう。つまり,管理的発想の教育行政学はそ

 れ自体重要不可欠の分野を構成するものである。/しかし,その同じ事情が

 同時に,教育行政の結果責任をどのように確保するか,教育に対する公共的

 意志をいかに有効適切に集約するかという問題の重要性を高めているのであ

(2)

 る。すなわち,教育行政にはもう一つの忘れてはならない側面,政治的側面  が存在する。(略)教育行政学はその学問的使命を達成するためには『行政管  理論』として理論構成されなければならないと同時に,『行政統制論』とし

 ても理論構成されなればならないのである。」(3)

 堀の指摘するように,教育行政の結果責任を確保する課題,あるいは,教育 に対する公共的意志をどのように集約するかという課題は,教育行政研究にお いて,検討されるべき課題であろう{4)。そして,この統治的な課題は,これま でのような規範論ではとらえられなくなってきている(5)。

 規範論的研究が主流となって展開してきた教育行政研究において,「行政統 制論的研究主題に対する経験科学的アプローチ」をこころみた,貴重な先行研 究として,宗像誠也による「教育行政の社会学」構想があげられる。宗像は,

「教育行政の現実を動かすものは誰なのか」という問いを,教育行政学のなか に立てようとしたのである。

1 「教育行政の社会学」構想

 1・1 「教育行政の社会学」構想と、その三つの課題

 1951年に,「教育行政に関する思惟の様式一一つの覚書」(6}が書かれてい

る。

 この中で宗像誠也は,戦前の教育行政研究を批判し,法規の解釈を越えて事 実そのものに立ち向かう,そのための学としての「教育行政の社会学」が必要 であることを説いていた。

 1954年には,この覚書の着想をふまえて『教育行政学序説』が出版された。

この中で宗像は,「教育行政の社会学」の性格を,r教育行政を実際に動かす社 会的・政治的な諸力を明らかにしようとする研究である」と述べた。

  「教育行政の社会学と私がよぶものは,教育行政を実際に動かす社会的・

 政治的な諸力を明らかにしようとする研究である。ここにおいて,先にも述  べたように,教育行政学と教育政治学との交差が最も顕著に起こって来る。

 それはむしろ教育行政の社会学というよりは,教育行政の政治学とよばれる

(3)

「教育行政の社会学」に対する検討 ラ7

 方がT 層適切であるかも知れないとさえ思う。しかし一般に,法律学の領域  で,実定法の解釈に止らず一或いはあきたらず一,実定法をも社会的存  在として客観的考察の対像とする立場を,法社会学とよびならわしているの  にしたがって,一応教育行政の社会学とよんでおくことにするのである。」(7)

 ここには,「教育行政の社会学」という発想が,法社会学から得られたもの であることが述べられている。

 宗像は,「教育行政の社会学」が取り組むべき課題として,つぎの三つのこ とをあげている。

 その第一は,「教育は誰の意志で決定されるのか」ということである。宗像 はいう。「いかなる集団が,いかなる要求をもち,いかなる方法で教育政策の 決定に,教育立法の過程に,また教育行政の運営に影響を及ぼそうとし,そし てそれはいかなる強さの力をもつのか,が明らかにされなければならぬ。」

 第二は,「この問題(第一の問題:引用者)の心理的側面,あるいは意識の側面 の究明である」とされた。宗像は,「例えば労働者はその数が多いにもかかわ

らず,自己の代表者を教育委員会に送り出すことが少ない。しかも彼らには機 会が与えられていないのではない」という問題を出し,なぜこのようなことが 起こるのか,民衆の教育意識と政治意識とを解明しなければならない,と述べ

ていた。

 第三番目は,「第一と第二との分析の上に立ちながら,教育行政の上に・い かなる集団のいかなる要求がいかように反映させられねばならぬのか」とされ

ていた。

 しかし,この部分に対する記述はわずか数行足らずで終わっている。なぜな らば,この課題は本論になるべきものだから,とされたのである(8)。

1・2法社会学のアナロジーとしての「教育行政の社会学」

 先にも示したとおり,「教育行政の社会学」の発想は,法社会学からそのヒ ントを得たものであった。

 引用されたのは,川島武宜の論文であり,この論文は,法社会学の対象とさ

れる,「生ける法」を論じたものである。

(4)

  「われわれが抽象的に或るr生ける法』規範の存在について語るところの   ものは,具体的な現実においては,ある利益・ある力と他の利益他の力との  力関係そのものであり,その結果である。」

  「法社会学の一つの重要な課題は,この力関係を分析し,この力関係を測  定し,またこの力関係が現実に形成され発展してゆく過程および構造を明ら

 かにすることである。」(9)

 ここで述べられている「生ける法」がどんなものであるのかという検討,あ るいは,宗像によるこの「生ける法」のとらえ方が適切であったかどうかの問 題を一応おくとしても,宗像の社会学的研究という発想が,この川島の論文か

らきていることは十分うかがえる。宗像はここで述べられている「力関係」

を,教育行政の場面にあてはめて考えていたようである。

 しかし,「教育行政の社会学」を法社会学のアナロジーとして構想すること に対しては,批判がだされてくる。

 「教育行政の社会学」が取り組むものとしてかかげられていた,第三番目の 課題は,いかにあるかという究明にとどまるのではなく,いかにあるべきかを 追求することのなかにこそ,「教育行政の社会学」の役割をとらえようとする 宗豫によって,設定されたものであった。しかし,川島自身は,いかにあるべ きかという点にかんしては反対に,法社会学の課題ではないと述べているので

ある。

 したがって,いかにあるべきかという問題が,法社会学の方法によって追求 できるのかどうかという聞題は,検討を要する問題なのである。はたして,法 社会学の方法は,宗像が期待するところの,sollenの課題に対して,どこまで 有効なのであろうか。

 『教育行政学序説(増補版)』の書評を書いた影山日出弥は,宗像の「教育行

政の社会学」構想には,いまだ教育行政学の科学方法論が明らかにされていな

いと述べたうえで,「従来の法社会学のアナロジーでは教育行政学の科学方法

論にはなりえないのではないか」と論じているω。

(5)

「教育行政の社会学」に対する検討 5g

2 「教育行政の社会学」における「自己形成」の要素

 2・1教育政策を支持する民衆の教育意識について

 「教育行政の社会学」の二番目の課題として,宗像は,社会的諸集団の社会 意識を明らかにすることをあげていた。教育行政を実際に動かす社会的・政治 的な諸力を明らかにしようとする,「教育行政の社会学」研究に,社会的諸集 団の意識の問題をふくめるという課題をたてた宗像には,自由選挙のもとであ

るにもかかわらず,社会的には多数派の労働者たちが,なぜ教育委員会にはそ の代表を送り出そうとしていないのか,という問題意識がはたらいていたので

ある。

 宗像はまた,別の論文のなかで,教育政策に関連してつぎのような発言もし ている。「イデオロギー的支配は,よかれあしかれ社会に沈殿し定着した価値

と結びっき,広範な民衆の容認と支持とを得られる形をとらなければ成功しな

い。」(11)

 あるいはまた,次のようにも述べている。「教育政策が貫徹して行くのは,

民衆の側に,それを受け容れそれを支持する態度があり,両者の間に照応関係

が成立しているからである。」〔12)

 これは,当時の「道徳」特設をめぐる教育政策,あるいはまた,教師に対す る勤務評定の教育政策が,一定の国民により「支持された」事態をさして述べ られたものである。

 そして宗像は,こうした事態を,「おくれた民衆」の意識状態の問題として とらえていた。宗像は,教育政策が現実に力を発揮するようになるのは,「お くれた民衆」による政策の下ぎさえがある,という認識をもっていたのであ

る。

 この「おくれた民衆」意識について,次に,宗像の教育委員会制度論を素材 にしながら検討してみたい。

(1)教育委員会制度(以下「教委制」と略す)に対する期待と構想

(6)

 宗像は,戦前教育への批判を込めて,戦後の教育改革を積極的に受けとめ た。すなわち宗像は,国家政策の従属下にあった戦前の教育制度に対置させ て,「民衆統制」「教育行政の一般行政からの独立性」「地方分権」を,教育改 革の三原則としてとらえ,そして,この三原則を機構化するものとして,教委 制にはやくから注目していたのである。宗像にあっては,教育行政の根本的な 改革を意味するこの制度は,まさに「教育民主化の鍵」なのだという認識であ

った。

 戦前の教育を根本から否定する原則の上に立つ教委制であっただけに,宗像 は当初からこの制度の積極的意味を説くと共に,繰り返しこの制度に対する不 安も表明していた。

  「教育は誰かが上から与えてくれるものだと考える習慣が固定してしまっ  た場合においては,国民がただちに自己に対する教育を強行する意志を起こ  すことは期待出来にくい,ということも否定できない。」〔13)

  「学校の発生の事情がアメリカと違う日本では,一般市民の教育に対する  識見が低く,また一般に民主化の程度のまだ低い現状では,選挙されて出て  来る教育委員はボスであり,ボスが教育を左右するのではないかという恐れ

 がある。」圓

 この発言は,当時すでに起こっていた地方自治体における「情実」を考慮し てのものであった。なお,日本教職員組合は,当初から都道府県と5大都市に 限って教委を置くべきであるという主張であった。これも,地方での問題状況 を考慮してのものであった。

 ともあれ,以上のように宗像は,封建遺制の問題を提出していた。こういっ た日本の現実認識に立って,宗像は,教委制の問題を次のようにとらえた。

  「教育によって改造されなければならない国民自身が教育を改造する主体  になるという論理的矛盾が生じるけれども,この本道をよけて通ることは明

 治教育の二のi舞になる。」(IS

 宗像が教委制の問題を「教育民主化の鍵」といったのは,この「論理的矛

盾」を日本の社会の現実が背負わなければならない課題としてとらえ,そこを

いかにして越えていくかという問題を提出しているからなのであった。いわば

(7)

「教育行政の社会学」に対する検討 61

論理的矛盾に対する実践的克服というとらえ方が,ここにはあった。

 この解決の方向として,宗像は成人教育を含み込んだ教育計画運動の構想に 期待を寄せていた形跡がみられる。

 1946年には,「教育を民主化するには民衆の教育的識見を高めるほかない」

として先覚者や専門家,研究調査の必要を考えていた。1947年にも「途上に横 たわる矛盾を実践的に克服する道は,教育者の一般国民に対する啓蒙活動を措 いてほかにない」としていた。ところが1948年には,まさに「進歩的勢力の結 集」への構想が提出されていた。

  「教育委員会制度を,民主化の現段階における日本でただちに実施するな  らば,ボスがこれを乗っ取り,これを牛耳るだろうということが恐れられ  る。そしてそれを防ごうとするならばボスに対抗する勢力を結集しなければ

 ならない。(略)そうしてそれは不可能ではないと私は考えるのだ。」〔16)

  「これは架空の想像論ではなく,ある程度は実際の例によって証明されて  いることだ。社会科が取り持つ縁で町の知識層が教育について共通の関心を  抱き,立村計画と教育計画とを結合して考えることによって村の指導層が結  びつき,町の生活改善と学校の学科課程とを緊密に連絡させようとして町民  の集会が定期的に開かれるというような例はすでにポッポツあらわれてい

 る。」〔17}

 宗像は,当時起こりはじめていた地域教育計画運動の動きに注目していたの である。特にここでは,大田尭が進めた本郷プランに注目していた。宗像は,

教育を契機として集まった集団が,「強じな結合力」と「柔軟な浸透力」を持っ て,一つの社会的勢力,さらには,町政や村政に対する政治的影響力を持つこ

とに期待していた。

  「いずれにせよこのような勢力が,ボスに対抗して教育に関する識見と良  心とを代表し,それが中核になって労働組合や婦人団体や青年組織に影響を  及ぼし,その協力をかち得るならば,教育委員選挙に措いて適格性を備えた  委員が選出される公算は大きくなり,また実はこういうことが前提となって  初めて教育委員会制度がその本来の目的である民主的教育行政組織たる機能

 を果撹すことができるようになるものである。」(18}

(8)

 以上明らかなように,宗像は教委制の持つ論理的矛盾を克服していく実践的 課題を,「大衆を動かす中心となる進歩的勢力が強く結集されるか否か」とし てとらえたのである。

 当時,地域教育計画運動と呼ばれるものは,埼玉県川口市ですでにはじまっ ており,その後神奈川県福沢村,兵庫県明石市など,さまぎまな市町村へひろ がっていった。

 また,労働組合の結成は,1948年6月で約34万の組合数,670万の組合員数 に達していた。1945年の労働組合法公布をまたずして,組合結成の動きが起こ

り,8月敗戦時に0であった組合数が,翌年1月には1,517,2月には3,243,

3月には6,538と,驚異的な伸びを示し,1946年8月には日本労働組合総同盟,

全日本産業別労働組合会議があいついで結成されていた。婦人団体でも結集の 動きが高まり,1958年には23の労組,多数の婦人団体があつまり「民主婦人協

議会」が結成されていた(19)。

 ② 現実の教育委員会制度の動きの中で

 1948年からさまざまな問題を含みながらも,第1回教育委員選挙が実施され た。46の都道府県,5大都市(以上i義務設置)および,46市町村(任意設置)

で,教育委員選挙が実施された。選挙は以後1950年,1952年と計3回実施さ れ⑳,多くの紆余曲折をむかえながらも,1956年の強行採決により公選制が廃 止されるまで続けられた。宗像はこの公選実施の中で,当初の構想が実態に迫

るものではなかったことを知る。

 当時の新聞には,教育委員選挙に対する国民の関心が低いことが報道され た。そして選ばれた委員は保守系が圧倒的であることが指摘されたee。しかも 1952年,一斉設置が実施されるにおよんでは,日本教職員組合の内部でもその 実態が大きな問題となり,教育研究大会でも否定論が支配的であったe2)。

 宗像は,1952年前後から,東京大学教育行政学研究室をあげて,富山・埼

玉・千葉・栃木・岡山の諸県で,教育委員選挙の実態調査を行った。1953年と

1954年には,研究費の補助を受けて「地方教育再編成問題についての調査的研

究」を実施した。この調査では,研究室構成員のほかに天城勲,大内力,小倉

(9)

「教育行政の社会学」に対する検討 63

庫次,海後宗臣,辻清明,日高六郎,福武直,藤田武夫,山本敏夫,蝋山政道 の協力を得ていた。これは,地教委制が日本社会の現実の中に置かれた場合,

どのような機能を実際にはたすのかを,調査によって明らかにしようとする研 究であった。その結果は,雑誌などにも公表されている。そのひとつである,

持田栄一との連名の論文に,次の考察が載せられている。一地方の政治選挙と 教育選挙とを調査し,この二つの選挙ともに,地縁・血縁関係が投票決定の強 い動機になっていることをふまえて,この論文では,次のように述べられてい

た。

  「もし教育の民主化の意味を形式的に考えて,地方民衆の参加による教育  の運営と解するなら,選挙によって構成される町や村の教育委員会はたしか  に民主的な機関である。しかし,もし教育の民主化ということに,日本社会  の教育による民主化を期待するとすれば,地方教育委員会に大きな望みをか  けることは到底できない。」圏

 「進歩的勢力の結集」という当初の構想は後退し,それにかわって,「教育の 民主化の主体的勢力としては,今のところ,やはり主として教師の組織に期待

をかけるほかあるまい」とされていたのである。同じ頃発表された,持田の

「地域教育計画と教育委員会」には,さらに次のようなことが述べられていた。

  「地域教育計画ということばは,時として安易に語られるが,それが単な  る机上プランであり,または一学校内の自己満足に止まっていいのであれば  格別,現実に行われることは決して容易ではない。」mp

 宗像がいだいていた「進歩的勢力の結集」の構想は,地域教育計画運動の衰 退と,公選制教育委員会制度の一面の現実のもとで,変容されていった。

 このような調査結果をもとにして書かれたのが,1955年の「教育行政の『民

主化』と『独立性』」であった。この中で宗像は,戦後教育改革の三原則の形式

性を自己批判しながら「三原則が実現されれば,特定の教育観が支持されるだ

ろうと考えるのは飛躍であるといわねばならず,その間に必然性のあるもので

はないといわねばならない」と述べた。「以上のことも実は当然で,地方教育

委員選挙の実状を少し立ち入って観察すれば,投票を決定する主要因は,いわ

ば教育選挙なるがゆえに,他の公職を選ぶ選挙,いわば政治選挙と特に異なる

(10)

ものがあるとはいえないことがわかる」。そして再び宗像は,民主化とは何か を問う。「そもそも(略)民主化とは何か,があらためて問われなければならな くなる。」「教育行政の民主化ということが(略)実質において民主主義的な教 育観に立つ教育行政をすること,またそのような教育行政組織を作ること,で あるべきならば,教育行政改革のために,三原則ではなく,少なくとも三原則 の機械的適用だけではなく,もっと別なことが考えられなければならないはず

である。」

 ここにはもはや,教委制に対する展望は書かれていない。宗像は「緊密な民 衆統制が民主化を意味するものとなるためには,少なくともこと教育に関して は,民衆はまず啓蒙されねばならないのではないか」という問いかけをくりか えしていた。三原則を機構化した教委制を,民主化の鍵として一貫して追及し てきたことに対する,自己批判がみられるes。

 しかし,1955年というのは,サークル運動・婦人運動がもりあがりをみせた 年であった。すなわち,1953年から1955年にかけて都市と農村に次々と起こっ たサークル運動は,生活記録運動の形をとり,そのひとつの結節点として,第 1回全国青年問題研究集会が,1955年に日本青年団協議会により開催されてい る。日本子どもを守る会の運動,母と女教師の会の運動のもりあがりは,1955 年の第1回日本母親大会開催の力となっていた。こういった中で,1956年1月 に開かれた第5次の松山における教育研究集会,第6目標第2分科会「教師と 父母の提携」には,700人もの参加があった。母親の「学びたい」という声に 支えられた学習運動は,「啓蒙する」などという教師の姿勢に対して,きびし い自己批判をせまっていたのである囲。宗像の発言は,こうした流れに逆行し

ている。

 宗像においては,教育民主化の主体的勢力の問題は,教員組合への期待へと 移っていったのである。

(3)教育民主化のための「論理的矛盾」の克服

 以上のように,歴史的課題としての民主化の主体的勢力の問題は,宗像にあ

っては,一地域教育計画運動をもとにして構想された「進歩的勢力の結集」か

(11)

「教育行政の社会学」に対する検討 6ラ

ら,教員組合への期待へと移っていった。これは,主体のとらえ方のひろさか らいえば後退といわざるをえないものである.それほどに・教育行政の反emヒ と日本社会に残っている封建遺制の根は深く,それだからこそ,主体の問題が 日本の民主化にとっての重い課題として,宗像の中に意識されていったといえ る。矛盾の実践的克服は,歴史的課題として残されたのである。

 1955年論文では,教育民主化の主体の形成という問題が,教育行政機構1(特 に地方教育委員会制度)とのかかわりを断念したところで語られていたan。こ れは,教委制に対する宗像の評価の大きな変化であった。この変化の原因には,

民衆の主体形成に対する断念とでもいうべきものがあったといえまいか2S)。

 このことは,教委制に対する宗像の評価にあらわれている。

 1946年,宗像の教委制に対する評価は,教員組合のそれとくい違いを示して いた。教育を職業としない,「素人市民」により構成されるのが教育委員会で あるとする宗像は,「教育を職業とする者の団体が教育を左右すること」はで

きないとして,教員組合が教育委員に参与することを否定的にみていた凶。

 ところが1948年,教育委員会法案が修正されて,現職教員が被選挙権を持つ ことになったことに対して宗像は,「経過的措置としてやむを得ぬこと」とし ていた。「素人」委員会主義の大きな修正も,「人民の教育に対する関心も識見

も低い」という現状では,教師が中心となった「進歩的勢力の結集」の必要が あるとして容認していたのである剛。

 1951年,「啓蒙的な意味では府県だけでなく地方にも教育委員がおかれる方 がいい」としながらも,府県には相当大きい権限を残しておくべきだと主張し

ていた圃。

 1952年,日本教育学会有志の一人として,「市町村教育委員会を一斉に設置 することに反対する」という声明を発表した。当時の政治状況による判断でも あったかも知れないが,これは「国民不信にたっている点で,民主主義にたい する初歩的理解をも欠くものであった」とも批判されている暁

 そして1955年,「かつて(略)府県教育委員会において集団の発言力が強すぎ

るということを,不当だとする議論があったが,実質的民主化を考えるならば

かえって逆に評価が与えられねばならなくなる」cmとして,日本教職員組合が

(12)

一貫して教育委員会を都道府県と5大都市のみにおくべきだと主張してきたこ とを,十分考慮する必要があると述べていた。

 このような教委制に対する評価の変化には,教委制にかかわらせて民主化の 主体形成をとらえることに対する断念があり,このことは民衆に対する知識人

としての宗像の断念があったといえる。

 この民衆の主体形成に関する宗像の断念は,以後の宗像の研究にさまざまな 影響をあたえていった。しかし,この断念は,地域運動のもりあがりを背景と

した研究活動によって,次第に再検討されていくことになるのである。

 2・2 「自己形成」としての教育運動

 宗像には,1961年で定着した「教育運動」の定義がある。それは,「教育運 動とは,権力の支持する教育理念とは異なる教育理念を,民間の,社会的な力 が支持して,種々の手段でその実現をはかること」「SUというものである。

 しかし,宗像の「教育運動」の定義には,批判も提出されている。たとえ ば,教育運動史研究会の柿沼肇は次のように述べている。

  「氏の『教育運動』の意識は,いわゆる公教育内部の問題(とりわけ学校  教育と教育行政)にほとんど限定されてしまっていて,国民のr自己教育運  動』(あるいは『自己形成運動』)が,教育運動のなかに正当に位置づけられ  ていない,あるいは,あえていえば,その視野から全くといってもよいほど  抜け落ちている,ということである。押

 後に明らかにしていくが,宗像にも「自己教育運動」ということばはなくと も,「成人教育運動」「自己形成運動」といったことばは論文の中に現れてはい た。しかしすでに述べてきたように,宗像には民衆の主体形成に対する断念が あったことを考えあわせると,宗像の「教育運動」に対する批判の問題は単純 でないことがわかってくる。自己教育運動が,宗像の中でどのような位置にあ ったのかを明らかにしていく必要がある。

(1)「教育運動」概念の成立過程

1956年12月には『教育科学』が出版された。宗像はその第5章を執筆し,

(13)

「教育行政の社会学」に対する検討 67

「日本教職員組合の教育研究集会  教育理念とそれを支持する力との問題を 主とする考察  」を発表した。ここにおいてはじめて,「教育運動」の定義 が,「権力の支持する教育理念と対立する教育理念を,社会的勢力の支持によ

って実現しようとすること」岡として示されたのである。

 さらに1957年,宗像は次のように述べていた。

  「権力側が支持するところの,始末をつける教育観にたいして,人間の尊  さを打ち立てる教育観を守り強めるためには,この教育観を支持する社会的  な力を大きくしなければならない。そのためには,民間教育運動団体や教員  組合や教育学会(の中の進歩派)などの組織の力を結集することが必要であ  るのはいうまでもないが,さらに,父母や国民大衆の多くの支持を得ること  が絶対に必要である。」an

 宗像はここで,「人間の尊さを打ち立てる」という教育の使命は,権力の支 持する教育理念にはなく,教組を中核とする「社会的勢力」の支持する教育理 念の中に受け継がれていると,主張していた。ここには「教育運動」にこそ

「教育の本質」があるという,宗像の認識が表されている。

 そしてそれは,主に教師により発展させられるものとしての認識があった。

 宗像は,一般の父母の教育要求がいかに「ゆがめられたもの」になっている かという不安を述べた後に,「大人が知恵をもってくれなければならない。大 人に知恵をもってもらうにはどうしたらいいかを研究するのも,当然教育研究 の一っの任務だ押とし,これは「教師の啓蒙活動に待つほかない」と述べて

いたのである。

 宗像は,戦前の教育行政研究批判から「教育行政の社会学」的研究に進もう とした。そして,反権力の勢力に注目し,それに「教育運動」という定義をあ たえた。そこに,「人間の尊さを打ち立てる」という教育の本質をみようとし た。しかし,この「尊さ」とは,インテリゲンチャーとしての「教師の啓蒙活 動」を通して,守られるものとされていたのであった。この時点での「教育運 動」研究は,宗像が提起していた,日本の民主化における論理的矛盾の実践的 克服の展望をさし示すものとなっていなかった。

 1961年論文により,宗像の「教育運動」の定義は定着した。ここには,以上

(14)

その主体としては教師が主な担い手とされているのである。「おくれた民衆」

という意識は,宗像に深く残されていた。

 しかし,すでにふれておいたように,この論文には次のような記述もみられ

るのである。

  「これらの市民の運動一時に国民運動と呼ばれる一は,一面では成人

 教育運動であり,自己形成運動であり,学習運動であるといえる。」B9)

  「ここでいっておきたいことは,これらの運動のなかで,民衆は自己の権  利にめざめ,権力側の政策の矛盾を見抜き,すなわち,直接の目標の達成と  いうことを越えて,さらに大きい政治的展望に到達することも可能であると

 いうことが一一っである。」90)

 この発言を,私たちはどう読んだらいいのだろうか。宗像の「教育運動」に は,国民の自己教育運動が正当に位置ついていないという指摘を,どう理解す ればいいのだろうか。

 これまで私たちは,「教育運動」の概念が宗像の中にどのようにできあがっ ていったのか,その外殻をみてきた。今度は,その内容を明らかにしていくこ とが必要である。はたして宗像の意識の上に,自己教育運動は具体的にどのよ うなものとして意識されていたのであろうか。「教育運動」の内容として,宗 像に意識されていた運動が論文に登場するのは,1954年のr教育行政学序説』

からである。以下年代を追って,その内容がどのように展開していったかをさ ぐってみたい。

 (2)「教育運動」の内容の変化

 既述の通り,宗像が定義として「教育運動」を使うのは,1956年論文からで ある。しかし,その内容を直接具体的に語ったものは,1961年論文においての みである。したがって,「教育運動」の内容を追うといっても,資料に限りが ある。ここでは,実質的に「教育運動」の内容を示しはじめた,1954年からの 著作を検討し,「教育運動」の内容にふれたものの展開を追うことにしたい。

 まずみられるのは,1954年r教育行政学序説』第4章第3節「若干の示唆」

(15)

「教育行政の社会学」に対する検討 69

の部分である。ここで宗像は,諸勢力の教育的要求の一つに,日本教職員組合

「日本教育政策の基本大綱草案」(1952)を,そして圧力団体の行動様式の一つ として,総評の国民教育会議を紹介している。1955年論文では,教育民主化の 主体的勢力として,「教員組合・労働団体・進歩的市民団体・文化団体」など

をあげている。具体的には,日本教職員組合,子どもを守る文化会議(1953年 11月第1回開催),さらには,全国青年研究集会(1955年2月第1回開催),日本母 親大会(1955年6月第1回開催),国民文化会議(1955年7月発足)の準備の動きを

さしていたと考えられる。

 1956年「人間の尊さを打ち立てるために(1)(2)」では,教育行政を監視する ために必要な組織として,青年団・婦人会・労働団体・文化団体,それに,子

どもを守る会・母親大会などをあげている。さらには,「エンピッを握る主 婦」,「母の歴史」・「職場の歴史」などの生活記録運動が,「人間の尊さの意識」

を創り出していると,宗像は述べている91}。

 このころ出版された『教育科学』第5章において,はじめて教育運動の定義 が登場する。この論文は,日本教職員組合の教育研究集会について書かれた論 文で,サブタイトルは,「教育理念とそれを支持する力との問題を主とする考 察」とされていた。ここには,日本教職員組合「教師の倫理綱領」にはじま

り,教育研究集会の経過が述べられている。そして,民間教育運動(日本作文 の会,歴史教育者協議会,創造美育協会,数学教育協議会,教育科学研究会な

ど)についてもふれられている。

 そして,5年後の1961年論文において,宗像は,教育運動の概観をおこなっ ている。この論文の中で宗像は,日本教職員組合,教育研究集会,民間教育団 体とともに,当時多様に展開しつつあった諸運動を取り上げ,それを「国民運 動」と呼んでいた。婦人団体,青年団体,学生団体,母親大会,子どもを守る 文化会議,青年文化・国民文化などの文化運動などが,それである。これらの 諸運動が,義務教育無償,高校全員入学制を要求したり,教員の待遇改善,勤 評反対闘争,教育委員公選制復活を要求していることに,宗像は注目してい

た。そして,これらの運動が「成人学習運動」であり,これらの運動のなかで

「民衆は自己の権利にめぎめる」と論じていたのである。

(16)

 (3)「真実の伝わるルート」の問題点

 以上,論文にあらわれた教育運動の内容を追ってきた。ここで,柿沼の指摘 にある,「意識の上で国民の自己教育運動が欠けている」という意味について 考えてみたい。

 宗像は,ことばの上ではたしかに,生活記録運動の中で父母が「人間の尊さ の意識の素地」を身につけつつあること,母親運動が,成人の自己学習運動で あることを述べていた。そしてこれらを,教育運動としてとらえていた。1961 年論文では,次のように述べられている。

  「現在の国民教育論の主張の重点の一つは,国家教育に国民教育を対置す  ることである。すると直ちに教育の主体としての国民の問題になる。私は先  に,(略)教育委員会の公選制が,国民に教育における主権者の自覚をうなが  すのに好適の制度であったといった。しかし今はこの制度は廃止されてい  る。だから制度でなく運動として,国民に教育における主権者の自覚をうな

 がす道をさがすことが必要になる。」@2)

 宗像はここで,国民教育論の要点を,教育の主体としての国民の形成を,運 動を通して実践することに求めていたのである。しかし,その運動の主体につ いては次のように述べていた。宗像は,「教育要求の組織的実現」として,次 の三つの方向を示していたのである。

 そのひとつは,「父母の教育要求を組織的に実現する」というもので,教育 白書運動や高校全入,あるいは,山形の校区教研などの例や父母の教科書検討 の取り組みをあげていた。これらはいずれも,「教師が父母とともに運動する ことによって実現していくこと」とされていた。その二は,生活要求そのもの の組織化とされた。ここでも「本来ならそれは政党の任務だというべきだろ

う。しかし,政党の組織は弱く,組織労働者が教組のほかにはないという状況 のなかでは,やらなければならなくなるのが実情」とされていた。その三は,

教組と他の組織との共闘であった。

 以上のように,教育運動の主体を考えるとき,そこに意図されていたのは,

父母の教科書検討の取り組みの例をぬかしては,ほとんどが教師なのであっ

(17)

「教育行政の社会学」に対する検討 7r

た團。

 教育運動の中核は教師であるという宗像の認識は,当時の日本社会の状況と 照らし合わせて評価されるべきであろうan。しかし,父母の教育要求を組織的 に実現することに対する宗像の分析には,あきらかに弱さがある。たとえば,

教育白書づくりと高校全員入学運動があげられている。教育白書づくりは,た しかに教師主導による運動であったとしても,高校全員入学運動などは,もは やそれだけのものではなかった。母親運動や,その他の組織のはたした役割は 大きい。さらに,校区教研など地域教育懇談会の組織化の例がだされているが,

ここでもやはり,運動の主体のとらえ方は変わっいっていた。教師の啓蒙活動 という側面は,1955年前後から,国民教育の確立という観点に移ってきていた のである9S。宗像はしかし,「教師が,日常的に,農民その他の父母と接触し て,その意識改革に力めること」を,「非常に大切なこと」とし,「私の願いと は,国民の世界像の歪みをなおすための,真実の情報・知識が伝わるルートと

しての,マス・コミに対抗する『教師のネットワーク』」を広げることである,

と主張していた。それほどに宗像は教師に信頼をおき,その役割を重視してい た。教育の主体としての国民形成を課題として意識しながらも,宗像は,教育 運動の主体を考察する際には,真実の伝わる「教師のネットワーク」の必要性

を述べるにとどまっていた。

 国民の自己教育運動とは,先に引用した柿沼によれば,「自己の生活の保障 とその豊かな発展のために(略)知的,身体的,技術的,芸術的諸能力および 自治=統治能力などの発達を目指した意識的,系統的な学習活動」圃である。

これは,生活の中から生まれてくる要求を,自らが意識化し組織していく取り 組みである。こういった要求は,地域で生活しているすべての人々が,何らか

の形でもっているものであり,たとえその意識化が他者からの働きかけを契機 としたものであるにしても,あくまでも組織の主体はその生活者自身である。

宗像が示した母i親運動,生活記録運動は,まさにそういう国民の自己教育運動

の一っであった。そこには,教育の主体としての生活者自身が意識されている

はずであった。しかしそれは,宗像においては,教育運動の主体の考察のとこ

ろでみたように,教師が中核となった父母の啓蒙の必要となってしまってい

(18)

た。つまり運動主体としては,父母は位置づけられていないということであ る。このことは,自己教育運動というものが,ことばのうえだけのものにとど まっていたことを示している。意識の上で自己教育運動が位置ついていないと いうことである。ここにも,教委論で示された父母のとらえ方の問題性が,影 響していたといえる。

 しかしいずれにしても,課題を残しつつも,論文に「自己形成運動」を含め てきていることは,宗像にとって大きな変化であると言わざるを得ない幽。

 2・3 「教育運動」概念再検の必要  (1)「教育運動」概念の再検討

 この時期,宗像が生み出した研究成果の一つは,教育民主化の主体の問題を とらえたことにある。

 宗像は,教委制の問題を通して,日本の民主化を論理的矛盾の実践的克服と とらえた。これは,矛盾を克服していく実践主体,すなわち,日本の民主化の 担い手の問題提起でもあった。公選制教委の廃止後,宗像は「教育運動」研究 にすすみ,この教育運動研究の中で,民主化の担い手を課題としてとらえてい

た。

 この主体の問題をとらえた意味については,五十嵐顕が『戦後教育の歴史』

の序章で述べている。すなわち,1960年代直後の教育史研究,教育科学研究 が,法則究明の努力とは不つりあいなほど,主体形成の観点を欠いていた状況 にあって,勝田の「変革主体の不在」という問題提起とならんで,宗像が主体 の問題をとらえたことは,戦後教育の歴史をみていく上で示唆的であった,と いうものである圏。

 しかし宗像が,その主体の問題の解答に,教師による父母の啓蒙をおいてし まったところに大きな課題がのこされていた。このことはこれまで述べてきた 通りである。ここには,教委制以来の,父母の主体形成に関する断念というも のが,宗像にはあった。宗像の「教育運動」研究には,1960年前後からその内 容に変化が見られるものの,底流としてはこの課題をひきずっていたといえ

る。

(19)

「教育行政の社会学」に対する検討 73

 主体のとらえ方の問題性が明らかになった今,宗像の「教育運動」の概念規 定を再検討する必要がある。宗像の定義は次のようなものであった。

  「教育運動とは,権力の支持する教育理念とは異なる教育理念を,民間の,

 社会的な力が支持して,種々の手段でその実現をはかることである。」llg)

 検討を要するのは,「社会的な力が支持して」という部分である。「社会的な 力」を固定的なものとしないで,まさに変化の要因を含めた構造化を通して,

動的なものとみていくこと,また,「支持する」というその動態を,その担い 手の変化の過程を通してつかみとること,さらに,そういった中で,教育要求 そのものも変化していくといったことを,みていくことが必要である。総じて これらのことは,教育運動の主体に注目して,そこから教育運動の意味を問 い,さらに教育そのものを問うていく問題につながっていく。

 〔2)勝田守一の問題提起

 宗像らの,1953年の論文には,勝田守一から次のような批判が寄せられてい

た。

  「一般的な把握として,日本社会の権力構造とか封建遺制とか現実の資本  主義社会の諸権力のあり方について認識をもつことは必要である。しかし,

 それだけでは,私たちの実践にはいつまでたっても手がとどかない。実践を  くぐりぬけない理論のおちいりやすい傾向は,こういう一般的情勢分析から  おこるのではなかろうか。」鋤

 宗像・持田の53年論文を例にあげて以上を述べた後,あるべき教育の理論と して,勝田は次のように述べた。

  「現実を構造化してとらえるのが理論の任務であって,構造化は変化させ  うる要因への分析を含んでいなければ不可能だ。その要因を変えるのは,実  践によるのだから,実践によって構造の全体が一定の仕方で変わるという一  般性をもたなければ理論として成立しない。そこで,絶えぎる実践によって  検討をしてゆくことで,一般性そのものを保障しなければならない。」6D  以不のような勝田の問題関心はr政治と文化と教育一教育学入門2』にひ

きつがれていく。

(20)

 ところでこのような勝田の批判に対し,宗像は「かつてこの誌上(雑誌r教 育』:引用者)で勝田守一君もいっていたが(略)権力を不動のものと考えるの は間違いであろう」62と認め,持田も「日常の教育実践を通して,日本社会全 体の矛盾に対決し,これを変革改造しようとする理論的追求」63として,勝田 の論を位置づけている。

 しかし黒崎勲は,勝田の宗像批判に疑問を提起している。一つの実践事例を 取りあげて,教育委員会制度を論じようとする勝田の宗像批判は,「まさにそ の観点からいちはやく教育改革における教育委員会制度の意義を論じ,その実 現のために精力的な努力を傾けた宗像の,この時点での自己否定ともいうべき きびしい反省にたいする,つきつめた理論的解答とはかならずしも考えること はできない」と,黒崎は述べている図。

 たしかに宗像は,ボス支配と呼ばれる問題に対し,「教育委員選挙を逆に日 本の民主化の促進のための一つのよい機会として活用することを,積極的に考

え得るしまた考えねばならない」eeと,1948年から一一貫して述べてきた。そし て「権力自体の性質がかわらぬかぎり,教育行政がよくなることはありえな い」,そういう「教育行政を研究する者の憂諺」をかかえつつ,教育政策とし て出されてくる教委制を研究し,「劣等感に負けないで,精一杯にやってみる よりしかたがない。みずからも動きつつ現実を動かそうとする努力のなかか ら,動的な理論も生まれてくるのであろうJ6aと述べていたのである。しかし,

この論文が発表されたのは,1955年1月であった。先に検討した1955年論文 は,この直後に発表されたことを考えると,私は黒崎の論に同調できる。だ が,勝田の論文は,教育理論における実践主体の問題提起としてみれば,宗像 への批判は重視されるべきである。そうした時,どうしても宗像の父母に対す るとらえ方の問題性を見逃すことはできない。もちろんこのことは,父母とい うものをロマン主義的に語ることによって解決される問題ではない。

 (3)「教育運動」からの示唆

 宗豫の「教育運動」概念を検討してきて,われわれが得られる第一の示唆

は,教育運動の主体になっていくという意味を問う必要性である。教育運動の

(21)

「教育行政の社会学」に対する検討 75

主体を,単に教育政策に対する教育運動を強化させていくために必要なものと してみることにはあやまりがある。生活者が,その生活の中から生まれる教育 要求を,教育政策には容易に取り入れられない独自の教育要求として認識し,

それを集団化させてその実現をめざしていくことが教育運動なのであり,その 運動の主体とはそうした認識する力を次第につけつつある成人,青年の変化を 内に含んだものとしてみていく必要がある。

 そして第一の示唆から導かれてくるのが第二のものであり,それは,教育運 動をその内に含む学習活動に視点を当ててみていく必要性である。教育運動

を,生活者の独自の要求の自覚化とすれば,そこには自覚するにいたった何ら かの認識の獲得がおこなわれたのであり,それはやはり広い意味での学習がな

ければ起こりえないものである。現在意識的に追求されるようになった学習活 動が,過去の運動のなかにもあったはずのものであり,その動態を研究して現 在に生かす必要がある。

 総じて以上二つの示唆から教育運動を検討していくことは,教育運動に「自 ヨ教育運動」の視点を組み込むということである。

 宗像の教育運動研究は,「教育行政の社会学」として,『教育行政学序説』の 本論に組み込まれていくはずのものであった。この教育運動研究を進めていく

ことは,「教育行政の社会学」にも受け継がれる必要がある。

3 民衆統制の課題と「教育行政の社会学」

 3・1 内外区分論と民衆統制の断念

 宗像が,その自己形成の問題の解答に,教師による父母の啓蒙をおいてしま ったところに大きな課題がのこされていた。

 60年代の宗像の教育法論理上にもこの課題はあらわれている。それは,宗像 の「教育の内的事項・外的事項区分論」を支える教師観の問題である。

 宗像が内外区分論,すなわち教育基本法10条の意義を論じはじめる時期がい

っ頃なのかということは,50年代宗像と60年代との関係を検討しようとする立

場からは重要な意味をもつ。

(22)

 1959年に発表された論文には次のような節が設けられている。

  「教育行政のオフ・リミットと教師の発言権」6D

 これ以降の論文は,オフ・リミットの意味をより徹底させてくり返し主張す るものとなっている。しかし,オフ・リミットの主張の仕方が弱いとしても,

宗像が教育基本法10条の意味を最初に述べたのは,1957年に出版されたr教育 基本法』であろう。この中で宗像は次のように述べているPt。

  「要するに第2項は,日本の現状において,教育行政は,教育の条件整備  を主として,それに力点をおいて,行われるべきであり,教育内容に関する  ことが教育行政当局の権限外にあるわけではないが,それに干渉することは  なるべく避けられなければならない,という教訓と考えるべきであろう。押  ところで,1960年に発表された論文には,オフ・リミット行政観について次

の記述がある。

  「戦後,教育行政改革の三原則ということがいわれた。民主化,地方分権,

 教育行政の独立性,がそれである。(略)ところで,いわゆる3原則は,教育  行政機構に即したものであるが,これとならんで,教育行政機能の面では,

 教育行政とは教育の条件を整備することだ,という教育行政観がとられたの

 である。」CU

 ここで述べられる「民主化」という用語は,注意を要する。

 戦後間もなくの頃,宗像は三原則を,民衆統制・地方分権・教育行政の独立 性ととらえていたのである。宗像は,戦後教育改革の方向を,民衆統制に見て いた。そして,そこにおいては,内外区分論とは異なる教育行政観がとらえら れていたのである。1952年の論文には次のように述べられていた。

  「専門的指導性と人民統制との調和が,教育行政の基本問題である。(略)わ  たくしはこれ(専門的指導性と人民統制とを調和させる方式:引用者)を仮に市町  村教育会議と呼ぼう。そのような教育会議の性格をどうするか,(略)たとえ  ば教科内容については決定権を持っていいだろう。」6D

 民衆統制が,戦後教育改革の中心課題としてとらえられていた,1950年代の はじめには,内外区分論とは異なる教育行政観が宗像にはあったのである62。

 宗像は,地域教育計画運動構想の後退をよぎなぐじ,さらに,公選制教育委

(23)

「教育行政の社会学」に対する検討 77

員会制度の実態を前にして,民衆統制の課題を後退させていった。民衆統制と いうことば自体も,三原則の形式性を自己批判するというかたちで再検討す

る。

  「民衆統制が民主化を意味するものとなるためには,少なくとも教育に関  しては,民衆はまず啓蒙されなければならないのではないか。」63

 「民衆統制」から「民主化」への書きかえは,オフ・リミットの行政観と無 関係ではない。オフ・リミットが主張されるのは,民衆統制の構想の断念があ ってからである。そしてこの断念が決定的となるのは,1956年の公選制教育委 員会制度の廃止をさかいにしてからである。

 オフ・リミッツを中心とする宗像の内外区分論は,民衆統制の構想が後退し

た結果である。

 3・2 規範と事実の二元論と法社会学の方法中断

 最後に「デ・ファクトとデ・ジュレ」の問題について述べる。宗像のこの主 張は,裁判で国側の弁護人から出された批判に答えたものであり,そして教育 基本法10条の正当性を徹底させるために述べたものであるとされている。『増 補版 教育行政学序説』の補説には次のようにある。

  「前者(教育政策・行政の定義を述べるときのもの:引用者)は事実としては一  defacto一の平面でいっているのであり,後者(裁判で権力の教育内容統制を不  当だと論じること:引用者)は法規範によれば一de Jure一の平面でいってい  るのである。」鋤

 そして,この事実と規範との関係を,宗像は次のように述べた。

  「憲法は,事実の到達すべき目標,事実のあるべき状態を指し示している  のである。」

 先に示したのが,50年代と60年代の研究課題上の切れ目であるといえるとす ると,私は,この二元論を宗像がとったというところに,50年代研究と60年代 研究との研究方法上の切れ目があると考えるようになった。

 周知のように,r教育行政学序説』で示されていた「教育行政の社会学」的

研究は,60年代以降中断されていた。この社会学的研究が中断されて進められ

(24)

たのが,宗像の60年代教育権論の活動であり,これは「国民の立場」からの法 解釈学であった。そして宗像が,彼の教育権論において,教育基本法10条解釈 を徹底させるために主張したのが,事実と法規範とによる二元論であった。し かし,r教育行政学序説』で述べられている新たな解釈学は,次のようなもの としてとらえられていた。引用が長くなるが,内容をできるかぎり正確につか むために記すこととした。

  「教育法規研究の基本的態度が,教育法規の動的・条件発生的把握の態度  でなければならない。」

  「条件発生的把握とは,社会的把握の謂であるといってもいい。くりかえ  すようだが,一つの法規がどのように誕生し,どのようにして生長一良く  も悪しくも一するか,ということが,教育法規研究の重要題目である。一  つの法規も,これを支持する社会的勢力とこれに反対する社会的勢力とを背  景にもち,そこにはいろいろの利害関係や勢力関係が投影されている。そう  してまた,一つの法規が,どの程度に発動し,励行されるかは,その法規の  成立の事情に制約される面があることは否定できない。たとえ国会は多数派  の数の威力で通したとしても,世論の強烈な反対があったような法律は,容  易には発動され難いものだということができよう。この意味で,法律も生き  ものなのである。」

  「さて,右のような意味で教育法規の動的・条件発生的把握,或は社会的・

 歴史的把握をいうと,教育行政法学は法社会学的な性質を帯びることにな  り,第4章で考えようとする教育行政の社会学に接近することになるであろ

 う。」6s

 ここに述べられている教育法規の研究とは,法解釈とは異なって,法社会学

の方法が意識されたものとなっている。したがって,社会学的研究が中断され

て教育法規の研究に移ったといっても,50年代に描かれていた法規研究と,60

年代に進められた法規研究とでは,内容にちがいがある。これは,研究領域が

移ったというより,研究の方法が移ったととらえるべきであろう。法規範を事

実と分け,そして,事実のあるべき状態を示したものが法規範であるという法

のとらえ方と,50年代に示していた「生ける法」という法のとらえ方とは大き

(25)

「教育行政の社会学」に対する検討 79

く異なっている。同じ教育法規研究といってもその対象となる法のとらえ方は 異なっており,この研究対象の違いは,研究方法の違いを意味している。

 事実と法規範との二元論を克服していくためには,法社会学的研究の意味を もう一度とらえなおす必要がある。この宗像の二元論の主張は,50年代の「教 育行政の社会学」的研究の中断後のものである。

 以上みてきたように,宗像の60年代教育権理論は,50年代研究とi無関係では あり得ないのである。内外区分論の主張には民衆統制の断念があり,そして,

規範と事実との二元論には「教育行政の社会学」の中断がある。

 私は,公教育理論の方向を,50年代研究にもどづで,もう一度さぐってみる 必要があると考えている。50年代研究にはこれまで示してきたように主体のと らえ方に問題性があるにしても,民衆統制の課題追求,方法としての「教育行 政の社会学」的研究という,今日検討されるべき要素があると考えるからであ

る。

おわりに

 以上,宗像の「教育行政の社会学」について検討してきた。1950年代の宗像 にあっては,「教育行政の社会学」が,少なからぬ意味と可能性とをもってと

らえられていた。しかし,この社会学的研究が,はたしてどこまで宗像の期待 に答え得るのかということについては課題が残されている。

 私は,民衆統制の課題を公教育理論の中心にすえてもう一度検討する必要が あると考える。内外区分論をもつ教育権論は根本的な問題を出発点においてか かえている。それはこの民衆統制の課題の断念である。民衆統制の課題を追求 していくには,なにより教育の主体が父母住民であることを理論的にも実質的 にも保障していくことが必要である。そのためには父母住民の教育参加の方向 が制度として構想される必要がある。しかも形式的参加を保障するのではな

く,そこには父母住民の主体としての力を現実のものとすることを保障する自

己教育運動を促進させるものを含みこんだ理論が必要である。 さらにこれが専

門性といかにかかわるのかを追求することも必要である。

(26)

 こうした点から,私は,教育運動に固有な可能性がないかさらに検討する必 要があると考えている。教育運動をただ政策に対抗する社会的な力,つまりは 労働者階級を中心とする教育要求のあらわれとしてだけみるのではなく,父母 住民がみずからの教育要求を,政策とは違う独自の,しかしより普遍性を持っ

「人間の要求」として集団的に自覚し提出する運動として注目する必要がある と私は考えている。

 いずれにしても,「矛盾した社会意識」と「主体形成」とに向けられる視点 は,カウンッの教育委員会調査研究,あるいはまた,このカウンッの研究を先 行研究として,アメリカ合衆国で1960年代から成立していく,教育政治学の主 流派の研究には見られない,宗像の「教育行政の社会学」構想に独自なもので

ある。

 この独自性を展開させるためには,要求形成過程についてのリァルな調査分 析の積み重ねが,当面は必要である。そして,そのための,教育行政研究にお

ける動態把握とでも呼ぶべき,独自の調査課題と方法論が求められる。

(1}たとえば,堀和郎は次のように述べている。「わが国の教育行政学の営為におい  ては,規範的アプローチというべき思惟様式が支配的である。わが国の教育行政研  究において発せられる問いは,r教育行政はどうなっているか』ではなくて,大部  分がr教育行政はどうあるべきか』である」(rアメリカ現代教育行政学研究』九州  大学出版会,1983年,358頁)。

(2)教育法が,これまでは法解釈学を中心にして展開されてきたとしても,それで教  育法が完結するわけではない。法社会学の研究を,これまでの教育法に取り入れて  いくことの必要性が主張されている。そして実際に,いくつかの法社会学の手法  を,教育法に取り入れようとする研究が生まれてきている。しかしながら,法解釈  学と法社会学との関係については,論争的な課題が存在しており,教育法社会学の  提唱にもかかわらず,容易には,両者の,「統合」的な研究は,展開していない よ  うに見える。

(3)堀和郎rアメリカ現代i教育行政学研究』九州大学出版会,1983年,370頁。

(4)しかし,規範的理論構成と経験的理論構成との区別が,脱イデオロギー化として  議論されはじめると,堀の議論はとたんにリアリティを失うように感じる。

  動態把握の経験科学は,システム論がもっている,静態的・調和的把握の課題と

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