● DOING SOCIOLOG Y ―――――――――――
社会学教育を考える
轟 亮
はじめに
大学での教育職に就いて十年、演習や講義、卒業論文指導を担当するようになって八年になる。最近、アカデミック・ポストに就いた当初にはなかったような役割期待を感じることがある。標準的な大学教員のライフコースで言うと約三分の一が過ぎ、若手教員というステージではなくなったためかもしれない(全体として大学教員の高齢化が進んでいるから、分布上は若手のままなのだが)。
就職当初は、学生を教えるという機会を得たことが単純に嬉しく、自分の感覚的な社会学観に依拠して、社会学や社会について語っていた。学生とともに、彼/彼女らの原初的な問題関心を素に調べ、社会学的に考察するプロセスは、私にとってはもちろんのこと、学生諸君にとってもそれなりに意 義ある経験だったのではないかと思っている。
しかし、ここのところ状況が変わってきて、最前線での学生との関わりだけに力を注いでいるだけでは不十分になってきた。さまざまな変化があるのだが、一言でいうと、私のような者にも社会学教育の意義や有用性について、説明責任を背負わされるようになった。社会学とは何なのか、どう役立つのか、当該大学・学部の教育メニューに社会学がなぜ必要なのか、そのような点で説得力のある説明が求められるようになってきている。
その理由は、他の学問同様、社会学教育が選ばれる対象になっているためだ。学生(や授業料負担者としての親)には、時間や経済的コストを払って学ぶ価値のある学問なのかどうかを吟味される。大学経営者からは、リストラが進められているなかで、カリキュラムのなかに社会学を残す意義の説明を求められる。他者から選ばれるための論理と戦略を考える必要が生じている。
私自身は大学教育において社会学の意義・価値は高いものだと確信しているが、学問共同体としてそれが十分には示されていない、人々に認知されていないように感じている。学界としての組織的な工夫を期待している。
小論では、社会学教育が、特に四年間の学士課程で現在直面している問題に関して、現状報告を含め、考えていることを少し述べてみたい。解答を用意できていないので、いくつ
かの論点を提示するのにとどまるのをお許しいただきたい。関西社会学会の重点部会
Teaching Sociology
(『フォーラム現代社会学』第二号、第四号)や『社会学評論』第五六巻第三号の特集「テキストに映し出される社会学の知」に見られるように、学会や社会学者の社会学教育への関心は近年たいへん高くなっており、社会学することそれ自体と社会学教育とが結びついているという見方に今やあまり違和感がないと思われる。伊藤公雄氏が述べているように、社会学教育を考えることには、「知の地殻変動」や学問の「脱領域化」の動きの中で、社会学教育を切り口に、社会学そのものの「再定義」Sociology T eaching Sociology
が可能となるかもしれない、という学術に対する積極的な意義もあるだろう(伊藤二〇〇五)。私にとってもDoing
は多分にと関わっている。大学教育の変化と社会学教育
既にさまざまな形で、社会学教育や大学教育の困難が指摘されている。ただ、問題を少し整理する必要があると思う。
まず、大学教育制度全体が現在抱える問題と社会学固有の問題を識別すべきだ。この十五年で大学改革が大きく進み、大学そのものが揺らいでいる。そのことと社会学教育の問題はもちろん関連することになるものの、まずは区別して論じられるべきだと思われる。次に、一口に大学といっても、現実には多様な状況にあることを踏まえて、どのような大学(の 学士課程)における社会学教育の問題なのか、一応識別した上で、議論されるべきだと思っている。
後者の指摘は、受け入れにくい部分も含んでいるだろう。ユニバーサル化が達成された高等学校では、学校タイプがあり、同じ教科メニューが並んでいても、そこで行われている教育の実質的内容(知識)が異なることは周知の事実である。マス段階にある日本の大学は、現状では高等学校ほどではないものの、今後大学間での差異がより明確なものになっていくことだろう。中央教育審議会大学分科会答申『我が国の高等教育の将来像』(二〇〇五年一月)では、大学の「機能別分化」を予測している、あるいは政策方針として提示している。
この答申では、世界的研究・教育拠点、高度職業人養成、幅広い職業人養成、総合的教養教育等の各種機能を大学は併有していることを認識しながら、複数の機能の比重の置き方に大学の個性・特色が表れ、各大学は固定的な「種別」ではなく、保有するいくつかの機能の間の比重の置き方の違いに基づいて、緩やかに機能別に分化していく、と予測している。例えば、(一)教養教育と専門基礎教育を中心として、専門教育は大学院に委ねる「総合教養教育型」「リベラル・アーツ・カレッジ型」、(二)学士課程段階で専門教育を完成させるもの「専門教育完成型」等が例示されている。予想されているとおりに分化が起こるのかは不明であるが、大学教育の(実質的)多様性は今後高まっていくと思われる。社会学教育に
ついての議論も、当該大学が置かれている状況を踏まえてなされる必要があるだろう。
少し戻って、大学制度全体の問題と社会学教育の問題を区別すべきことについて。例えば、学生の社会学人気が低いことがしばしば問題とされるが、他の学問分野に比べてどうなのだろうか? 医学部人気が伝えられ、臨床心理学への希望を身近にも聞くことが多いが、実はそれらが稀な例ではないだろうか。十八歳人口の減少と大学設置の規制緩和が、大学教育全体の需給のバランスを変えたのであり、入試倍率という意味での人気は、ほとんどの学部で低下している。人文・社会系の学問の中で、社会学の状況が特によくないようには思えないのだが。
また高度に職業と結びついた学部・学科の創設が続き、このような学問(?)との競合関係も問題となる。しかしこれは、既存のディシプリンと専門職業技術の伝授との競合であり、本質的には、大学で教えられるべき学問とは何か、専門学校と大学はどのように区別されるのか、という、大学教育制度レベルの問題である。
あるいは、学生のもつ学力や学ぶ意欲が社会学を学ぶ段階に至っていない、という困難の指摘がある。これも社会学教育においてのみならず広く問題となっていることである。高校教育のカリキュラムが多様化し選択科目制が拡大したこと、十八歳人口が減少し受験競争が著しく緩和されたことは、 大学で学ぶ基礎知識を受験勉強で獲得するという圧力から学生を解放した。それにより、入学者の基礎学力の多様化、低下による「まだら状況」が生じている。また、大学受験というハードルはこれまで、知的・情緒的発達課題を達成する装置として機能してきたが、受験競争の緩和によりこれが作動しなくなった。受験戦争からの解放は、社会がそれを望ましいとして選択したことでもある。これらは大学教育全体の問題である。天野郁夫氏が述べるように、「入試に代わる新しい、人間形成上必要な挑戦の場としてのハードルをどう構想」するか、ということが各学校段階で求められている(天野二〇〇六
い。 :二〇九頁)。これも社会学固有の問題というわけではな もちろん大学教育のなかに社会学教育は位置づけられているので、個別の問題対応に社会学も当たるべきだろう。さらには社会学的な知識・スキルはこの問題の全体的な解決に貢献する程度が高いのではないかと思う。ここで述べたいのは、しかし、それらは社会学固有の問題ではないということである。社会学自体の問題は、最後で触れたい。
地方国立大学での社会学教育
友人たちと勤務校での教育について話すと、状況は様々である。目新しさはないかもしれないが、地方国立大学での現況を紹介しておきたい。
私は文学部人間学科社会学講座(社会学研究室)に所属し、四名の社会学者と共に働いている。入試の単位は学科で、入学した約五五名の学生が、二年生から履修コースを選択する(他に、心理学、哲学など四コースがある)。社会学コースを選択した学生は、「社会学研究室」に所属し「社会学の学生」と称されるようになる。研究室は教員と学生がともに所属する、公式な組織である。毎年十五名前後の学生が進級してくる。社会学部や社会学科というユニットで学生リクルートをしなければならない方々には申し訳ないほど小さな市場ではある(ちなみに学校基本調査によれば、人文・社会系の学問を学んでいる学生のうち、国立大生は八%、私立大生は八八%である)。
社会学コースを卒業するためには、社会学概論四単位、社会学史四単位、社会調査法・社会統計学で六単位、社会調査実習四単位、社会学特殊講義十二単位、社会学演習十二単位を修得し、卒業論文を提出する必要がある。概論、学史で社会学とは何かを理論的に学び、調査法・統計学で計量的な研究法を身に着け、実習で実地訓練する
員の専門領域の社会学について学ぶ 演習、特講では、教 ;
度が、社会学の教員による授業となる。二十年以上にわたり、 に最低限必要な専門科目の単位のうちの六割から最大八割程 の「社会学を修める」スタイルのカリキュラムである。卒業 課題を社会学的に探求する、といういかにも国立大学文学部 卒業論文では、自らの ; このカリキュラムが続いてきた。
現行制度で社会学教育の「売れ行き」は、次のようである。例年約五五名の新入生は入学時点では六割が心理学研究室への進級を第一希望し、社会学は一〜二割(平均七名程度)というところである。例年、圧倒的に高い人気の心理学に続き、社会学を第二希望とする者がたいへん多い。その後、所属エントリーを行う十二月時点では、社会学研究室への希望が十五名前後となる。結果としてそれなりのリクルートはできている、というのが私の現状評価である。
この理由には、当初圧倒的に希望される心理学においても「学生の受け入れ上限数」があり、物理的にも制度的にもすべての希望者を受け入れることができないという環境条件がある。一方で、学生からの聞き取りによれば、大学入学時以降の授業などから、社会学や他の学問のイメージが把握され、希望そのものが社会志向的なものに変わっていく過程があるようである。広く社会について知ることができること、社会調査データの処理を統計的にできること(この点で、社会調査士の資格制度はたいへん効果的に機能している)、就職活動で学んだことがそれなりに生かされそうだと思えること、などが、学生にとっての魅力にあげられることが多い。少なくとも人間学科に入学するような志向性を持つ学生に関して、触れる機会があれば、社会学はある程度の訴求力をもつことを示していると思う。
実は、長らく続いてきた制度であるが、二〇〇八年度から大学全体にわたる大改革を予定している。改革のポイントの第一は、入学試験の単位が学部となることであり(呼称も、文学部ではなく「人文学類」となる)、学部に一括入学した一四五名が十五の学問コースを選択するようになる。学部内の学生リクルート市場において、学問間の競争性が高まることになる。
ポイントの第二は、研究と教育の分離である。教員が所属する組織(研究域)と学生が所属する組織(学域、その下位カテゴリーが学類)とが分離される。学生は授業科目の集合体であるコースを選択する(だけ)、教員は自分の専門に相応しい授業科目を担当する(だけ)、というのが、学生‐教員関係の基本的ラインとなる。従来のような「研究室」は、公的な制度的根拠をもたなくなるので、将来的に存続するかどうかは不透明である。
この二つは従来の社会学教育のシステムに大きな影響をもたらすだろうと予想している。
第一に、より広い範囲の学生から、より多くの学問コースが学生リクルートするようになるため、競争性が高まる。その市場では、社会学の初期の認知はいっそう低い状態にあることが、新入生に対して行った調査で明らかとなっている。社会学は高校生、受験生に知られていないのである。
第二に、入試の単位が大きくなるため、学生の基礎知識・ 学力の多様性が高まることが予想される。特に、人間や社会に対する関心・知識、数学的な予備知識について、多様化、低下が予想され、教育内容をコース(研究室)として見直す必要がある。学士課程での社会学教育の到達目標をどこに置き、どの段階で何を教えるべきなのかを再検討する必要が生じている。
第三に、研究室制度の希薄化は、社会学を修めることの困難に繫がると思われる。特に社会学は、複数の社会学者の差異と共通性から、学問の性質をよく学べるのだと思う。また一般に教育活動には、生活の場の共有が非常に有効である。研究室という制度はこれまでその実現を保証してきたが、この機能を如何に維持できるのかが対応すべき課題となっている。また、この改革は、コース・メニューを選ばずに社会学をアラカルトで学ぶ学生の増加を予定している。そのような場合に、社会学が伝えるメッセージが何であるべきなのか、検討する必要があると考えている。
このように、私の教育現場でも、喫緊の課題が多く存在している。個々の現場レベルでそれらに対応していくつもりであるが、社会学界にも支援を期待したいことがある。第一に、社会学に対する社会的認知の向上である。多くの学問分野に対して、社会学は出遅れている感がある。先に紹介した答申で今日の学校教育の目標とされた「二十一世紀型市民の育成」なる標語に上手く関わっていくことはできないだろうか。第
二に、社会学教育の標準化である。組織内での位置を得るには、何をどのように学ぶことが社会学教育にとって必要条件なのか、一定程度標準化されたメニューが存在していることが大変有効である。第三に、外部にもわかり易い、社会学の魅力を表現する言説を蓄積することである。手前味噌に語ってしまうのは反省的でなく、社会学的ではない部分もあるが、自信を持って端的に魅力を語ることで、「学生消費者」(喜多村一九九六)を引きつけることができるのだと思う。
社会学教育の魅力
社会学の魅力を表現する言説が不足していることは、社会学教育の固有の問題だと思う。斜に構えた学問の基本姿勢が、それを生んでいるように思われる 宮台真司氏は社会学の有用性を次のように表現している(宮台二〇〇〇)。社会学は「何故に『社会』がこれほど不透明であるのか」を徹底的に考察することにより、「『社会』を過剰に透明なものとして把握する営み全般に対して、全方位的に、鋭い批判的な力を獲得することになる」。世の中は、社会の「単純な把握」に満ちており、社会を透明なものとして捉えがちであり、このずさんな社会認識は多くの問題をもたらす。「社会学的訓練は、どんな『社会』の把握に対しても過剰な単純化を見出」し、指摘することを可能にする。
ここには、他のすべての社会認識に対する批判的・超越的 な位置に社会学がおかれるという姿勢が示されている。高度な理想であり、理想の高さが魅力に繫がる時代もあった。しかし、現代の一般的な学生にそのような表現が訴求力をもつのかは疑問である。宮台氏自身も、最近、「『社会』という主語や目的語を失い、等身大の自明性への対処で精一杯の学生」が増え、「『社会』、すなわち『不透明かつ非自然な全体』を知ること」に動機づけることが困難になったという事実を指摘している。
また、野村一夫氏は、社会学教科書の検討から、「標準的な社会学教育言説」というものが存在し、それを、①社会学は身近な日常生活の自明性を解体する(多元的リアリティ)、②社会学は脱常識の知性である(常識に対する上位性)、③社会学は実践を志向している(制度批判)、④社会学はしばしば逆説的である(パラドックス)、⑤それらの総称としての社会学的想像力、という表現で整理している(野村二〇〇三)。これらはかなりの程度、宮台氏が主張したところと重なる。
そして野村氏は、これらは、「社会学者の生き様(心の習慣)を正当化」する「一種のイデオロギー的相貌」を一般読者に与える。その特徴は、「人生論」、「高等遊民性」、「自嘲性」であるとし、これに対する評価は、「人生論でありながら生きるパワーを生まない。無気力のループを形成する。かつては左翼的な革新主義や戦後民主主義や社会運動・市民運動支
持の方向に読者をもっていければ話は済んだが、よほどナイーブでないかぎり今はそういうことはできないだろう。いささか出口を見失っているように思う」と全否定的である。社会学外の人々の誤まったイメージだとは言いにくい、社会学への印象を残酷なまでに明らかにする描写だと思う。
かつて卒業間際に「社会学を知ると社会生活が辛くなるんですよね」と言い残した学生がいた。熱心に学んだ彼は、野村氏の指摘する社会学イデオロギーの性質を実感として捉えたのだと思う。彼の場合決して全否定したのではなく、現代社会の問題を認識し、社会学的な思考(思想)することを学問的に楽しみ、それを肯定的に受け止めていたのだが。それでも、いつまでも楽しんでばかりはいられないこと、気づきながらも対処できないまま現実社会のなかで我慢を強いられることになる自分を、正しくも予想せざるを得なかった。学んだことが生きるという点で、もう少し何とかできないかとずっと気に懸かっているエピソードだ。
当面、二段構えの戦略が有効ではないかと思っている。初学者向けには、社会学を学ぶ魅力を、社会について大事な知識が増える(たとえそれが『そうだったのか! 日本現代史』くらいの情報内容であっても)、他者とうまくコミュニケーションする方法が身につく、データに基づいて正しく考えることができる、よりよい生活者・職業人になれる、社会のしくみがわかるというような、スキル・アップの積極表現で語 ること。単純な社会認識(と社会の問題の根深さ)を指摘する批判的な思考・思想の獲得は、次のステップであることに自覚的であること。それは学習の発達段階論から言って適切だと思う。
繰り返しになるが、学士課程での社会学教育の魅力を効果的に表現する言説が、社会学には必要だと思う。それは同時に、魅力を実現する教育を組み立てることを促すはずである。組織的な工夫を強く期待したい。
以上、社会学教育について考えていることをいくつか述べてみた。今後も多くの学生に社会学を学ぶ機会を提供し続けられるように、また、それが学生自身や社会にとって役立つものであるように、少しこだわってこれからも考えていきたいと思っている。
参考文献天野郁夫 二〇〇六 『大学改革の社会学』玉川大学出版部。池上彰 二〇〇一 『そうだったのか! 日本現代史』集英社。伊藤公雄 二〇〇五 「特集Ⅰ Teaching Sociology――イメージとしての社会学――はじめに」『フォーラム現代社会学』第四号五―九。苅谷剛彦 一九九六 『知的複眼思考法』講談社。喜多村和之 一九九六 『学生消費者の時代』(新版)玉川大学出版部。宮台真司 二〇〇〇 「成熟社会化と社会学的伝統の危機」『第
七三回日本社会学会大会報告要旨』、三九五―六。野村一夫 二〇〇三 「ネットワーク時代における社会学教科書の可能性」『フォーラム現代社会学』第二号、六―一三。轟 亮(とどろき まこと・金沢大学文学部助教授)