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二〇一七年度公開講座 : 秋成文藝の魅力 : 小説・和歌・俳諧

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Academic year: 2021

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全文

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  江戸時代中期 の 作家 、 上田秋成 は『 雨月物語 』や『 春雨物語 』で よ く 知 られて い るが 、そ れだけに とど まらず 様々 なジ ャンルの 多様 な 作品 を 残 して い る 。 今回 は、 恐 らく 普段 あまり 読 まれ るこ と の な い で あ ろ う 作品 を 紹介 しつつ 、 秋成 の 幅広 い 表現世界 や 面白 さを 読 み 味 わ っ て い き たい( 秋成 の 生涯 、 略 ) 。      一 、 学問 と 遊 び

『 癇癖談 』の 世界

  最初 に 取 り 上 げるの は 『 伊勢物語 』 と そのパロディ で ある 。 秋成 は 国学者 で も あったから、 『 源氏物語 』や 『 伊勢物 語 』 、 『 万葉集 』など 古典作品 に 強 い 関心 を 持 って お り 、 『 伊勢物語 』につい て も 『よし や あし や 』 と い う 伊勢物語論 を 出版 して い る 。ち な み に 秋成 の 学問 につい て 、 漢学 は 恐 らく 懐徳堂 で 学 び、 国学 は 賀茂真淵門 の 江戸 の 加藤宇万伎 に 学 んだと さ れ る が 、 と も かく 、 大坂堂島 の 裕福 な 商家 の 跡取 り 息子 とし て 、 仕事 の 合間 に、 曲 がり なりに も 学問 に 親 女子大國 お   第百六十二号   平成三十年一月三十一日

一七年度公開講座

  

秋成文藝の魅力

小説

和歌

俳諧

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しんだと 思 われ る。そ こで 、まずは『 伊勢物語 』 第二十三段 を 読 ん で みたい。 ( 前略 )さ て 、 年 ごろ 経 るほ ど に 、 女 、 親 なくたよりなくなるままに、 もろともにい ふ か ひ な く て あらん や はとて 、 河内 の 国 、 高安 の 郡 に、 いき か よ ふ 所出 で き にけ り。 さ り けれ ど 、 こ の もと の 女 、 悪 しと 思 へるけし きもなく て、 出 しや りけ れ ば 、 男 、 異心 あり て かかるに や あ らむと 思 ひ 疑 ひて 、 前栽 の 中 に 隠 れゐ て 、 河内 へいぬる 顔 にて 見 れば、 こ の 女 、い と よ う 化粧 じて 、うち な が め て 、     風吹 けば 沖 つ 白波 たつた 山夜半 にや 君 がひ と り 越 ゆら ん とよ み け る を 聞 きて 、 限 りなくかなし と 思 ひて 、 河内 へも 行 かずな り にけ り。   まれ まれ か の 高安 に 来 て 見 れば 、 始 めこ そ 心 にくも 作 りけれ 、 今 はう ち と けて 、 手 づか ら 飯 がひ 取 りて、 笥子 のう つ わ 物 に 盛 りけ るを 見 て、 心 うがり て 行 かずな り にけ り( 後略 )   夫 の 浮気 を 知 りながら 快 く 送 り 出 す 妻 に 不審 の 念 を 抱 いた 夫 が、 出 かけ たふ りを して 密 かに 妻 の 様子 を 窺 って い る と、 そ う と は 知 らない 妻 は 身 だし なみ を 整 え、 外出 して い く 夫 の 身 をひ たす ら 案 じて い る 。 妻 の 心根 の 美 しさに 感動 した 男 は 、 い と おしくなっ て 浮気 を 止 め て しまった と い うの で あ る 。 そ れ で も やはり 浮気 の 虫 が 騒 いで 相手 のとこ ろ へ 行 っ て みる と 、 す っかり 気 を 許 した 女 は、 自 らし ゃもじ を 手 にし て ご 飯 を 盛 ると いう 、 平安朝 の 貴族 からすれ ば 考 えられないような 品下 る 姿 を 見 てす っかり 幻滅 し て しまい、もう 通 わ な くなっ て しまった、 と い う 訳 で ある。   さて 、 次 にこ れ を 踏 まえ た 秋成作品 を、 作品解説 は 後回 しにし て 、 まずは 読 んで み よ う 。

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秋成文藝 の 魅力 こころよし と はおも ひ もの の 事 、 鈍太郎 とい う 優曲 に、 下京 の こ ころよし 、 と いへ り。 たて こ さ れ の 、 た て は 、 侠 者 をた て 衆 とい ふよ り 転 じ て、た て のぼ しなど い ふと、 ひとつ 意 なり。   むか し 、 人 のつまありけり 。その 男 、 外 ごこ ろ お ほき 癖 あり て 、 夜 ごと にいづ ち と も 知 らず、 う か れ あり きけり。さりけれど 、 こ の 女 、 いささかもうらみたるけし きなく、 小 袖帯 さし 釰 もの まで 、と ひ 求 めつつ 、 出 だした て てやり け り 。 男 、ふ と 心 づきて 、 も し 、 二 ごこ ろあり て や 、 と 疑 ひ つ き ぬるより 、 例 のこ こ ろ よ し が 方 へ 行 くふ り し て 、 せ ん ざ い の 厠 のう ち に 隠 れて 、 窺 うほ どに 、 こ の 女 、かかりけり とも 知 らで 、 い と 嬉 しげ に 、 男 のい で しままに 、はした 女 を 呼 びて 、 耳 に 口 つけて 物言 ひ け れ ば 、 う け た ま は りて いで 行 き ぬ。さ れば こ そ 、 ふ たご ころあるなれ 。 猶見 あら は さ ばや 、 と よく 忍 び て あるほ ど に 、 し ばしし て 、 は した 女 のしりにつ きて 、 男 の 入 り 来 たる を 見 れば 、 常 に 参 れる 、 八百屋 の 翁 なり けり 。 な に や ら む 物 うち 入 れた る 籠 わき 挟 みて 、 つ と 入 り 来 たる 。あなあさまし 、 年 は 六十 にこ え 、 歯落 ちか し ら 禿 げ、 すす 鼻垂 れた る を 、 こ れに 見 かへられ ぬる 事 の、 い と 口惜 しく 、さあ れ ば 、 いかに すらむと 猶堪 へ 忍 びつつ 見 るに 、あな こ ころう 、 恋 する には あらで 、 そ こ を 焚 け 、かし こ に 炭 つげ 、 と ののしりつつ 、 俎板 の 音 にぎは し く 、 鍋 どころあまた 、めうめうと 湯煙 た ち て 、 うまくさ き 匂 ひの 、 こ こに ま で 薫 りて 、 あ る じ の 女 、う ち ほ こ りつつ 、 手 づか ら 飯匕 とり て 、 盛 り 喰 らふ ありさま 、あまりにう ち とけ て 、 い と あさましく 、つ と 出 で んにさへ 、あ ぢきなく 、 風 ふけば 沖 つ 白波 、た てこ さ れ て は ならぬ、 と 心 づき しより、 其後 は、 夜 ごと に、い で ありかずなりにけり。

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  一読 し て す ぐ わ かるように 、 『 伊勢物語 』を な ぞ りな がら、も の の 見事 に 笑 いの 世界 に 転 じて い る 。 『 伊勢物語 』で は 妻 の 浮気 を 疑 った 男 が 見 たのは ひ た す ら 自分 だけを 愛 して くれ る 妻 、とこ ろ が 何 と、こ ち ら は 男 が 登場 する 。 さ て は 浮気 か 、 と ショッ クを 受 けつつ 尚 も 凝視 し て いる と 、さにあらず 、 夫 の 留守中 に 妻 は 贅沢三昧 、 夫 が 普段食 べた こ ともないよ う なご 馳走 を 食 べ て いるの で あった 。 自分 の 留守 をい い こ とに 妻 が 好 き 放題 して い る と 知 った 夫 は、 そ う はさ せじ と 浮気 を 止 め た 、と いう、と んで も な い 現実感 あふ れ る 話 にな っ て いる。 『 伊勢物語 』を 熟知 した 読者 にす れ ば、 二段構 えの どん でん 返 しになっ て いるの で あ る 。また 、 『 伊勢物語 』で 男 が 垣間見 する の は 「 前栽 」の 陰 から だ っ たが 、 こ ち ら は 「 前栽 の 厠 」の 陰 からで あ り 、また 、 八百屋 の 翁 を 見 た 男 が 敗北感 に 打 ち のめさ れ る のも 、いかにも 庶民的 で 卑俗 な 近世的世界 で ある。 決 して 上品 では ない が、 良 く で き たパロディ で ある。   さて、こ の 作品 は『 癇癖談 』で あ る 。こ れ は 「ク セ モ ノ ガ タリ 」と も 「 カン ペキ ダン 」と も 読 む。 作品名 が 定 まら ないの は 奇妙 だが、 秋成 が 序文 で、 ど ち ら で も 好 きな 方 で 呼 ん で よい、 と 書 い て いる。 「 ク セ モ ノガタリ 」 、 これは『 伊 勢物語 』の「イ」 を 「 ク 」 に 換 えただけの、 まさに「もじり」 で ある。もう 一 つの「カンペキダン」 、 こ の「カンペキ」 とい うの は、 秋成 の 疳 の 強 い 気難 しい 性格 に 由来 し て いる。そし てこ の 気難 しい 性格 を「 癇癖 」 、 つまり「 無 くて 七癖 」 のい わ ゆる「 癖 」の 一 つ で ある、 と し て 、その 癖 に 任 せて 書 かれ た 書 、と いう 意味 なの で あ ろう。   秋成 はま じめ な 『 伊勢物語 』 研究 の 傍 ら、 こ ん な 戯 れを し て いるの で あ る 。 こ の 作品 は、 実 は 意外 に 凝 って いて 、 これ 以外 にも 『 伊勢物語 』 研究 との 強 い 関 わり が あ る 。 ま ず 一見 し て わ かるのが 、 上段下段 に 分 かれて い ると いう 形 で、こ れ は い わ ゆ る 注釈書 の 形 のパロディ で あ る 。 例 えば 最初 の 注 「 こ ころよし とはおも ひ も のの 事 、 鈍太郎 とい う 優曲 に、 下京 の こ ころよし 、 と いへり」は 、 本文中 の「 こ こ ろ よ し 」 と い う 言葉 が 狂言 「 鈍太郎 」に 出典 を 持 つ、 と ふざ け て 注釈 し て いるの で あ る 。つまり これは 、 古典研究書 の 頭注 の 形 のパロディ となっ て いるの で あ る 。また 、 こ

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秋成文藝 の 魅力 の 作品 が 二 つの 名 を 持 つと いうこ と も、 『 伊勢物語 』に 倣 って い る 。 今 『 伊勢物語 』と 呼 ばれ る 作品 は、かつ て 『 在五 が 物語 』や『 在五中将物語 』など 、 別 の 名 で 呼 ばれ る こ とがあった 。 秋成 は、こ ん な 点 まで も 踏 まえて 遊 ん で いるの で あり、 遊 びになぜ これ ほ ど エネルギーを 使 うのか と 思 う 程 で ある。   この 『 癇癖談 』は 寛政三年 ( 一七九一 ) 、 秋成五十八歳頃 、 淡路庄村隠棲時代 に 成立 した 。 秋成生前 は 写本 で 回覧 さ れ、 回覧 の 過程 で 成長 し て いった 物語 と 考 えられ る 。 没後十三年 を 経 た 文政五年 ( 一八二二 ) 、 門人 らによっ て 刊行 さ れた 。   実 はこ の 作品 、 今 の 一段 を 読 んで 期待 して 読 むと 、がっかり す る かもし れ ない 。 見 てき たような 気 の 利 いたもじり は 他 には ほと んど な い ので あ る 。 中心 となっ て いるのは 堕落 した 今 の 世 の 中 への 批判 であ る 。 現在 の 世相 に 癇癖 を 募 らせ、 痛烈 に 指弾 する の で あ る 。 と ころ が 最終段 に 至 って 突然 、 趣 が 変 わる 。 さ ん ざ ん 人 の 悪口 を 言 い 募 って き た 男 、 これは 秋成自 らの 戯画 と 目 され るが 、こ の 老人 が 最後 の 最後 にな っ て 逆 に 厳 しく 批判 さ れ て いくの で あ る 。 批判 の 主 はこ の 男 の 家 の 庭 に 飛 んで き た 二羽 の 鳥 であ る 。 鳥 のい わ く 、 こ の 老人 はこ の 世 で 何 をし て 働 くで も な い 、 生 きる 甲 斐 のな い 人間 だ、 そ れ な の に、 心 が 狭 くて、 い ち い ち 世 の 中 のあり 方 に 怒 り、 昔 は 良 かった と 愚痴 を 言 い、 自分 だけ は 正 しい と 思 い 上 がっ て いる。 で も そ れ が 世 の 中 とい う も の な の だ か ら 、 致 し 方 ない で は ないか、 と い うの で ある。   『 癇癖談 』の 中 で、 この 最終段 だけは 秋成研究 の 中 で 繰 り 返 し 取 り 上 げられて いるが、それ は 秋成 が 不甲斐 ない 自分 を 戯画化 し 自嘲 して い る と い うこ と、 それ が 晩年 の 秋成 の 苦悩 と 一脈通 じる とい う こ とか ら で あ ろ う 。 そ う い う こと もあっ て 、 こ の『 癇癖談 』は 暗 い 色合 いの、 苦悩 に 満 ちた 作品 であ る と 捉 えられ る ことが 多 いように 思 われる。   とこ ろが 、ど うも 同時代人 に と っ て はそう で はなかったようなの で ある 。 現代 の 我々 にと って は 訳 のわ から な い 作 品 であ る が 、 当時 の 秋成周辺 の 人 たち に と って は 、 爆笑 する ぐ ら い 面白 かった、 らしいの で ある。なぜなら、 『 癇癖談 』

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がモデル 小説 だったから で ある 。 こ の 作品 は 秋成生前 は 写本 で 知人間 に 回覧 、つまり 回 し 読 みさ れて いた 。そし て 秋 成没後 に 門人 によっ て 出版 され たが 、 そ の 際 、 門人森川竹窓 による 序文 が 付 け 加 えられ た 。その 序文 は 秋成 に 宛 てた 書簡 の 形式 で 書 かれて お り、こ こ に「とて も 面白 かった」 と 書 かれて い る。 「 噂 のくせものがたり を 借 り て ゆっくり 拝 見 した 。あの 人 この 人 を 目 の 当 たりに 見 るかのよう で 面白 く、 飽 きる こ と なく 繰 り 返 し 読 んだ 」と いう の で ある 。モ デルの 名前 は 伏 せ て あるものの 、 「 こ れはあの 人 、こ れ は そ の 人 」 と わ か れば 、そ れは 抱腹絶倒 であ ろ う 。 「 を 4 かし 男 ありけり」の 男 が、あの 人 、と 具体的 に 思 い 浮 かぶ 訳 で あるから。   秋成 の 愉快 な 点 は、 単 にまじめに 勉強 する だ け でなく 、 そ の 学問 を 踏 まえ ながら 「 遊 ん で いる」 と い うところ で あ る 。しかし 、 実 はこ れ は 秋成 に 限 った ことで は なく 、 学問 と 遊 びが 渾然一体 となった 独特 の 文化 が、 宝暦 ・ 明和頃 、 つまり 秋成二十代 から 三十代頃 にかけ て の 大坂 に 花開 い て いたようなの で ある 。 こ の 独特 の 雰囲気 は 中村幸彦 によっ て「 大坂騒壇 」と 名付 けられ た 。 学問 と 遊 びが 渾然一体 となった 仲間内 の 文芸的 サーク ル が 成立 し、 秋成 はその 一員 とし て 活躍 して い た と 思 われる 。 こ の 文化圏 では 、 漢詩文 や 和歌 など の 学芸 と 遊 びが 一体 となっ て 笑 いを 生 み 出 し、 それ を お 互 いに 鑑賞 する とい う 、 大 いな る 才能 の 浪費 があった 。その 馬鹿馬鹿 しくも 愉快 な 遊 びに 興 じる 若旦那 たち の 中 に、 秋成 もいた 。 そういった 仲間 の 姿 を、 後年 にな っ て 、 面白 おかしく 、 毒 を 込 めて 書 いたのが 『 癇癖談 』だ っ たと 言 っ て いい で あ ろう。その 楽屋落 ちの 面白 さは、その 文化圏 にいる 人々 にしか 通 じないもの で ある。   そのあり 方 を 逆接的 に 浮 かび 上 がらせ て いるのが、 幕臣 で 村田春海門 の 江戸 の 国学者 、 小 お 林 ばやし 歌 うた 城 ぎ の 事例 の 存在 であ る。 歌城 は『 癇癖談 』の 欄外 に 、 モデルが 誰 で あるか 書 き 留 め て いる 。 こ れはまさに 『 伊勢物語 』のあり 方 と 同様 で ある 。 『 伊勢物語 』におい て、ただ「 女 」と だけ 記 され た 人物 が、 実 は 二条后高子 で あ る こ となどが、いつか 、 誰 かの 手 によっ て 書 き 加 えられて いるが 、 そ れ と 同 じ こ とで ある 。そのサーク ル 外 にいる 者 が、 面白 さを 共有 したく て 、 ど

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秋成文藝 の 魅力 こか らか 情報 を 得 て、 そ れ を 書 き 留 めたの で あ ろう。   とこ ろで、 秋成 の 古典 を 踏 まえ た 遊 びは 『 癇癖談 』に とど まらない 。 同様 の 例 とし て 『 万葉集 』を 踏 まえ た 狂歌集 『 万 まにおうしゆう 匂 集 』が ある 。 こ れ は 書名 もさる こ となが ら 、 序文 の 署名 を、 あ ろ うこ と か 秋成 の 国学 の 師 、 加藤宇 う 万 ま 伎 き の 名前 をもじっ て「 刈 かりこもの 菰知 ち 万 ま 伎 き 」 と し て いる 。 こ れ につい て、 秋成 が 敬愛 して や ま な い 宇万伎先生 をこ のよう に 茶化 すな ど 考 え 難 い、 と し て 秋成作 を 疑 う 説 もある が 、 私 は 秋成 ならや り かねないと 思 って い る 。と 言 って も、 先生 を 侮 る 気 な ど 全 くな く 、 ただ 悪 ふざ けし て い る だ けなの で ある 。 生 まじ めな 宇万伎先生 を 尊敬 す る からこ そ 、ついつい 茶化 した く な る、 い わ ば 愛情 の 裏返 しな の で はな いかと 思 う 。 こ う いった 、 真剣 な 学問 とそ の 知識 を 使 った 遊 びが 両立 する と ころ、 学問 と 遊 びが 切 り 離 さ れ ず、その 雅 と 俗 とを 往還 する と こ ろに 、 大坂騒壇 の 騒壇 たる 由縁 があるように 思 う。   そういった 市井 の 人々 の 生 み 出 す 自由闊達 な 文芸 のありように 目 を 見張 ったのが、 広島藩儒 で あった 頼春水 であ る 。 頼山陽 の 父 で、 の ち に 江戸 の 昌平黌 でも 教鞭 を 執 ったまじめ 一方 の 学者 であ る が 、 若 き 書生時代 、 大坂 の 混沌社 に 属 し、 溌溂 とし た 青春 の 時 を 過 ごした。 彼 が 後年 、 大坂時代 を 懐 かしん で 書 いた『 在津紀事 』 一 〇 九段 を 見 てみ よ う 。 浪華市井 の 人往々文墨 を 弄 す。 而 して そ の 詩文多 く 誦読 する に 足 る。 そ の 他風流好事 を 以 て 世 に 名 ある 者 、 亦 た 少 から ず。 蒹葭堂木世粛 の 如 きはその 選 なり 。 ( 中略 ) 京及 び 江戸市井 の 人 、 則 ち 恐 らく は 浪華 の 文 に 如 くこ と 能 はざらん。 つまり 、 大坂 では 普通 の 人 がよく 文雅 に 通 じて お り 、 京 や 江戸 を 凌 ぐ、 そ れ ら と は 全 く 別 の 興趣 を 持 って い た 、と 素 直 に 評 し て いるの で ある。

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  秋成 はまさに こ う いった 時期 の 大坂 で 若 き 日々 を 過 ごし て い た 。 しかし 、 や が て その 風 は 薄 れて いく 。 次 の 世代 の 若者 たち は、 今 や 失 われた 輝 かし き 文化 、 互 いの 才能 を 競 い 合 い、 無駄 に 学識 を 蕩尽 し て いたかつ て の 輝 きを 、 憧 れ をもっ て 眺 めて い た こ と だ ろ う 。 先 ほど の 『 癇癖談 』の 序文 を 書 いたのは、そのような、 一世代下 の 門人 で あった。   彼 らが 秋成 の 十三回忌 に、 秋成 を 偲 ぶ 記念 の 出版物 とし て 選 んだ のが 、 晩年 の 傑作 『 春雨物語 』で も な け れ ば 和歌 のアンソロジー で もなく 、 こ の 『 癇癖談 』 で あった と い う こ とは 、 改 めて 考 える べ き こと ではなか ろうか と 思 う。 周 囲 の 誰彼 を 素材 にし て 思 い 切 り 毒舌 を 吐 く、 面白 くて 痛快 な 秋成 、しかしその 一方 で、 密 かに 我 が 人生 を 恥 じる 心弱 い 秋成 。 弟子 たち は、こ う い う 秋成 の 心 をよ く 理解 して い た と 思 われる 。 彼 らに とっ て 最 も 秋成 その 人 を 思 い 起 こさ せる 作品 、そ れが こ の 『 癇癖談 』 だ ったの ではない だろうか。      二 、 小沢蘆庵 と 秋成   さて 、 少々深刻 にな ったが 、 次 に、 打 って 変 わっ た 秋成 の 姿 を 見 てい きた い 。 次 に 取 り 上 げるの は 、 和歌 の 世界 。 秋成 の 交流関係 を 辿 りながら 、 和歌 や 和文 を 見 てい きた い と 思 う。ま ず は 小沢蘆庵 と 秋成 で ある。   現代 におい て 秋成 は 小説作家 と 認識 されて い るが 、 秋成 が 世 を 去 った 当時 は 歌道 の 達人 と 称 されて い た 。 秋成 の 歌 道 における 履歴 はよく わ か ら ない が 、 二十四歳以前 に 下冷泉家 に 入門 したのが 最初 、と 私 は 考 え て いる 。しかしその 指導 に 飽 き 足 らず 、 独学 の 末 に、 独自 の 境地 に 至 ったもの と 思 われる 。 自 らの 心 の 赴 くままに 自由 に 詠 む 秋成 の 和歌 は 当時 、 わ かりにくい と 悪口 を 言 われ て い る が 、 こ の 秋成 の 和歌 を 高 く 評価 したのが 小沢蘆庵 とい う 人物 であ る 。 蘆 庵 は「ただこと 歌 」と いう 新 しい 理論 を 提唱 した 。 「 ただ こと 歌 」と は、 和歌 は 言葉 を 飾 らず、 日常生活 における 率直 な 思 いを 分 かり やす い 言葉 で 詠 むべ きだ 、 と い う 主張 であ る 。 この 蘆庵 の 主張 する と こ ろ を 、 秋成 は 実践 で 応 えた 、

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秋成文藝 の 魅力 と 言 ったらよい で あろうか 。 と もかく 、 秋成 が 六十歳 を 過 ぎて 初 めて 出会 った 二人 だが 、 す っかり 意気投合 して 水魚 の 交 わり を 結 ん で いる。   最初 に 取 り 上 げる 作品 は『 文反古 』 ( 文化五年刊 )より 、 秋成 が 京都 へ 来 た 翌年 、 南禅寺山内 に 引 っ 越 した 際 の 二人 の 応答 で ある。      粟田山 のふ もと のや ど り を、 瑞龍山中 の 何某 の 庵 に 住 かふ る 時 、たよりにつ きて 、 蘆庵 のもと へ い ひ や る かし こ の 人 のいざと 云 に、 今日 あは ただ しく 移 ゆき ぬ 。 道 のほ ど 近 くな りぬれ ば 、 御暇 には 訪 はせ 給 へ。 す き が ましくはあらねど 、 少 し 広 きがよし と 也 。 垣 のもとを 過 る 谷水 の 音 のさ やけきがめづらし 。 是 は 最勝院 の 滝 の 末 にて 、 け が れ な し と 云 。 纓 お す ま すばかりにはあらねど 、 夏来 たら ば 、 御足洗 ひて 遊 ばせ 給 へ。    山 に 入 かし こき あ と にならはずもうき 世 の 道 にまよ ひて ぞ こ し      蘆庵翁 かへし    われも 世 にまよ ひて 入 し 山住 よいざ 身 のう さをと も にかたらむ なほたいめに。よろづは。      時々来 たま ひて は    ひやか な る 谷水 をさ へ 庭 にみ て ね たくぞおもふ 夏 の 山 かげ      かへし

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   ねた き て ふか ご と ながらもう と むやと 心 ひやせる 庭 の 谷水     京都 の 方 には 言 うま でもない が 、 南禅寺 には 清 らか な 小川 が 流 れて いる 。 秋成 は 煎茶道 でも 名 を 成 した 人 で、 下戸 で あった 秋成 の 楽 しみは 一服 のお 茶 だったの で 、 清 らか な 水 は 何 より 嬉 しかったよう で ある 。 手紙 は、 南禅寺 の 知人 に 招 かれて 慌 ただ しく 引 っ 越 した 、 近 くなったの で 是非遊 びに 来 て 下 さい 、 と いう 内容 で あ る。 「 纓 す ま すばかりには あら ねど 、 夏来 たら ば、 御足洗 ひて 遊 ばせ 給 へ」は、 中国 の 故事 「 世 の 中 が 清 くなれ ば 、 仕官 す るために 纓 ( 冠 の 紐 ) を 洗 い、 濁 った 世 の 中 なら 、 足 を 洗 う 」 ( 『 楚辞 』 「 漁父辞 」 ) を 踏 まえ 、 冠 の 紐 を 洗 う 程 では ない け れ ど 、 この 清 らか な 水 で 足 を 洗 って 夏 の 暑 さを 癒 して 下 さ い 、と いうこ と で あ る。 「 山 に 入 る 賢 き 跡 にならう、つまり 出家 する とい う こ とで もな いが 、 浮世 の 道 に 迷 い 迷 って 辿 り 着 いた」 と い う 秋成 の 歌 に 対 して、 蘆庵 も「 私 も 同 じで す。と も に 語 り 合 いましょう」 と 返 し、あ れこれ 話 したい ことがあるが、そ れは 対面 の 上 で、 と 付 け 加 え て いる。   続 いて 、 南禅寺 に 住 んで か ら の 蘆庵 との やり とり であ る 。 時々訪問 して く る 蘆庵 がある 時 、 「 暑 い 夏 に、こ ん な ヒ ン ヤリした 水 さえ 庭 に 流 れる 山陰 で 過 ごせるなん て 妬 ましい」 と 歌 ったのに 対 し、 「 妬 し」 と い う 言葉 にこ と 寄 せて 「 妬 ましいなん て 言葉 の 綾 だと は 思 うものの 、 本心 では 私 を 疎 ましく 思 っ て いるの で は と 思 うと 、 心 がヒンヤリす る」 と 返 し て いる。 二人 の 息 の 合 った 応答 が 窺 える。   次 に 紹介 する 、 同 じく『 文反古 』に 載 る 次 の 応答 は、 二人 の 緊張感 が 伺 えて 面白 いもの で ある。      年 の 暮 には 、 蘆翁 より、 れ い に 炭切 て お くらるるに、 寒 さい や ましに こ そ なり 侍 れ 。いよよ 平 らかにおはすや 。 あ と の 月 の 中頃 より 、さ む か ぜに 吹 しか れて 、 今 に 起

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秋成文藝 の 魅力 き も あがらずて 、 みづ からはえ まうで ず 、 人 して と ひ 奉 る。    すき まかぜ 身 にし む 老 の 末 のや まこ す 月 なみ もし ばし とぞなる      返 し 御 たがひ に 、 山陰 の 寒 さを、す き ま の 風 に 煩 はせたま ふとや 。 ややをこ たりざまに と 、 使 の 人 に 承 りぬ 。い と 喜 ぶべし 。 猶 よくいたはらせたまへ 。 こ こ に もお ぢ う ばら 、かたみに 悩 みが ち に なむ 。 賜 はりし は 、 夜 ひる の と も にう ち く べて 侍 らん 。またありその 石花貝 、 故 さ と のなつかし き に は 、 何 も 何 もい とかた じ けなく 奉 りぬ 。    此 ごろは、    なべ て 世 の 冬 にこ も れ る 宿 ならばのどけき 春 の 日影 またまし また 御 こ たへま で に は、    かき たれ し 老 のしはす の 年波 は 末 の 山 をも 越 ゆとこ そ 聞 け      此 おくられ し 哥 は、 す み す こ し と 云詞 を、 句 ごと にいただきてと 、 後 に 思 ひ 知 りて、 い と 恥 ある こと に 思 へりしかば、 独 ごと に、    過 うし やみ ち の く 山 の 末 の 松 こす 年 なみはし きなみにし て   蘆庵 は 例年 、お 歳暮 とし て 秋成 に 暖房 の 燃料 であ る 炭 を 贈 って い た が 、 こ の 冬 は 体調 を 崩 して 自 ら 赴 くこ と 叶 わず 、 代理 の 者 に 炭 を 持 たせて 秋成 を 訪 わせた 。 蘆庵 の「 す き ま か ぜ 身 にし む 老 の 末 のや まこ す 月 なみ もし はし とそ なる」 とい う 和歌 は、 『 古今集 』の 「 浦 ちか く 降 り 来 る 雪 は 白波 の 末 の 松山越 す か とぞみる」 ( 326 )などを 踏 まえ、 「 すき ま

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風 が 身 に 沁 みる 老 いた こ の 頃 、 今年 も 残 すとこ ろ 僅 か と なりました」 と い う 挨拶 の 歌 で ある。   これに 対 して 秋成 は、 蘆庵 の 体調 が 快方 に 向 かっ て い る こ とを 喜 び、 自分 たち 夫婦 も 病気 が ち だが 、いただいた 炭 で 暖 かくし て 過 ごす つも りだと 言 い、 ま た 、 同時 に 蘆庵 から 贈 られ た 牡蠣 に 故郷 を 懐 かしみ 、 厚 い 感謝 の 念 を 表 して いる 。 秋成 の 和歌 「なべて 世 の 冬 にこ も れ る 宿 ならばの どけき 春 の 日影 またまし」は、 「 世 の 中 みな 冬 の 寒 さに 家 に 閉 じ 籠 もっ て い る 時節 なら 、のど か な 春 の 日 を 待 ち ましょう」 と い う 意味 であ ろ う 。 ま た 蘆庵 の 和歌 への 返歌 とし て 、 「か き た れ し 老 のしはす の 年波 は 末 の 山 をも 越 ゆとこ そ 聞 け」 、 す な わ ち 「 老 いて の 年末 の 年波 は 末 の 山 まで も 越 して いく で し ょう 」と いう 和歌 を 返 し て いる。   とこ ろが 秋成 は 後 にな っ て 、 ひ ど く 後悔 した 。 実 は、 蘆庵 から 贈 られ た 和歌 は 折句 で、 「 す きま か ぜ 身 ○ にし む 老 のす ○ ゑの やま こ ○ す 月 なみ もし ○ ばし とぞなる」 と 、 各句 の 句頭 に「す み すこ し( 炭少 し) 」の 語 を 忍 ばせた 洒落 た 和歌 だった ので あ る 。 蘆庵 の 仕掛 けを 見逃 し て しまった ことを 恥 じた 秋成 は、 同 じ 言葉 を 折句 にし て 「 す ぎうし や み ちの く 山 の す ゑの 松 こ ○ す 年 なみ はし ○ きなみにし て 」 ( 通 り 過 ぎにくいものだ、 陸奥 の 末 の 松山 を 越 す 年波 は 後 から 後 から 寄 せて く るの で / こ の 年末 を 過 ご す の は なか なか 難儀 なこ とで す ) と、 独 り 言 に 詠 んだと い う 。 今 さら 蘆庵 に 言 えない 、 と い う 訳 であ ろ う か 。   しかし 、 こ こ は 秋成 、や は り 黙 って いら れ ず 、 翌日 に 蘆庵 に 手紙 を 送 って い る 。 蘆庵 の 歌文集 であ る 自筆本 『 六帖 詠藻 』 ( 『 小沢蘆庵自筆 六帖詠藻 本文 と 研究 』 ( 和泉書院 、 二 〇 一七 ) 所収 ) 冬五 を 見 てみ よ う 。 ( 前略 )くるつあした 同 じ 人 のもと より、 老婆 、 文 も て き た れ り 。 き の ふ たまはせし 御歌 、 炭少 しと 聞 えさ せし を、 れ ひ のあ はた だし きさ がに 見 あや まて る、 いと 恥 ある 事也 。けふ ま た 聞 こえばうた て お ぼ すらん と て、 此 れう 紙 、

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秋成文藝 の 魅力 比 ごろの 手 すさ び 也 。 見 せ 参 らす 。 御心 とど まらば 又 も 奉 らん 。 名 はふと し も つ け た る 也 ( 大徳寺寸松院什物 、 貫之料紙懐紙 、 名 、 青雲紙 。 色紙 、 七枚来 〔 頭書 〕 )    瀬 は 渕 とい く 度 かは る 憂 き 身 かなむ か し を のみもしのぶなみだに( 11280 )   冒頭 の「 同 じ 人 」は 秋成 のこ と で あ る 。 秋成 から 届 いた 手紙 には 次 のように 書 かれて い た。 「 昨日 お 送 り 下 さった 和 歌 は「 炭少 し」 と 折句 になっ て いるの を 、 例 の 粗忽 でつ い 見過 ごし 、お 恥 ずかしい ことです 。 今日 また 返歌 を 申 し 上 げて は み っと も な いと お 思 いになるか と 思 い、 代 わり に こ の 料紙 、こ れ は こ の 頃 の 手 すさ び で すが 、 お 見 せ 申 し 上 げ ます 。も し お 気 に 召 したら、また 差 し 上 げま す。 名 は、ふと 思 い 立 って 付 けた もの です。 ( 大徳寺寸松庵 の 什物 、 貫之 料紙懐紙 。 名 、 青雲紙 。 色紙 、 七枚来 たる 〔 頭書 〕 ) 」 。 そ し て 、 「 瀬 は 渕 とい く 度 かは る 憂 き 身 かなむ か しを のみも し のぶな み だ に 」 ( 飛鳥川 では ない が 、 瀬 が 渕 にいったい 何度変 わる つ ら い 身 の 上 であ ろ う か 。 昔 ばかり を 偲 ぶ 涙 で( 涙 の 渕 となっ て ) ) とい う 和歌 が 添 えられて いた、 と 言 う。   さて 、 皆 さんお 気付 きで あろう か 、 こ の 和歌 が 折句 と な って い る こ と に。 「 瀬 ○ は 渕 とい ○ く 度 かは る 憂 ○ き 身 かなむ ○ かし をの み も し のぶなみだに」 、つまり 「せいうむ し ( 青雲紙 ) 」 の 語 が 隠 さ れ て いるの で あ る 。 手紙 の「 名 はふと し も つ けたる 也 」の 言葉 は 伊達 に 書 かれて い る 訳 では なく 、 秋成 から の 謎掛 けだったの で あ る 。 はたし て 蘆庵 は 気付 いたか どうか。   この よ う に 、 秋成 と 蘆庵 は 折 りに 触 れて 和歌 を 詠 み 交 わし 、 和歌 を 通 じて 互 いの 力量 に 敬意 を 払 い 、また 人間的 に も 固 い 友情 に 結 ばれて いたの で あった。

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     三 、 正親町三条公則 と 秋成   同 じく 和歌 を 介 した 交流 の 二例目 とし て、 秋成 と 正 お お ぎ ま ち 親町三 さんじよう 条公 きん 則 のり との 関 わり を 見 てい きた い 。 公則 は 公卿 に 列 せら れる 身分 の 人物 だが 、 秋成 の 国学上 の 門人 であ る 。 安永三年 ( 一七七四 ) 生 。 寛政八年 ( 一七九六 )に 参議 、 寛政 十一年 ( 一七九九 )に 権中納言 に 任 ぜられ 、 順調 な 人生 を 送 って い た が 、 寛政十二年 ( 一八 〇〇) 九月一日没 、 二十七歳 。 二人 の 交渉 の 経緯 は 不明確 だが 、 秋成 の『 万葉集 』 研究 を 聞 き 知 った 公則 から 直筆 の 下問 あるいは 批評 が あったため と 推測 されて お り 、 寛政九年二月以降 、 門人 の 荷田信美 が 仲介者 となっ て の こ とと 考 えられ る (なお 、 秋 成 は 寛政十年 に 信美邸内 に 移 り 住 ん で いる) 。   今取 り 上 げるの は 『 文反古 』に 収 められ た 秋成 の 書簡 であ る 。 とい っ て も 、 公則 に 宛 てた 手紙 では ない 。 秋成 は 京 都 の 公則 の 訃報 を 旅先 の 河内 で 受 け 取 り、 大 きな 衝撃 を 受 けた。 こ の 手紙 は、 公則 の 遺族 に 宛 てた 第二便 で ある。      またの 便 して 夢 ならばやと 思 ふ に は 、 はたゆめならざりけり 。 難波 まで も、 足 なえ た れ ば 、 か き 荷 はれて 出侍 りて、ひ と り ご たるる。    かからむと 思 ひ 知 らねばし ばし と て 告 し 別 れぞなが き 別 れに    なか なかに 都 は 遠 し 追 しか む 君 しば し 待 てよ も つ 坂路 に 此春賜 ひし 、 逍遙院殿 の、 御手 づか ら 合 せたま ひ し 、 やま 人 、 黒方 の 二 くさ を 、 上包 みに 御筆 し て かいつけ 給 ひ しを 、こ こ に もて 来 たりしままに、 御手向草 に、くゆらせ 奉 るなへに、

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秋成文藝 の 魅力    をし か ら ぬ 君 がみために 焼昇 すけぶりがへしのうた て く もあるか 又翁 が 兼 て も たる、めう 香五 くさに、くはへ て 奉 る、      名残袖    ひる ま な き 君 に 別 れの なみ だ 川 けふ ぞなごりの 袖 はく ち ぬ る      はた 手    ゆふ ごと に 立出 て みるい こ ま や ま 雲 のは た て を 面影 にし て      八木    神 まつる 祢 ね 宜 ぎ がささぐるしらげよねしらげい とはぬ 君 にませし を      無名    久 かたのあまつ 使 の 名 なし 雉 ねなき 悪 しと も 知 らで 別 れし      老木芽    名 もつ らし 片枝 はつかにめはる 木 を 花 とみ ら れ ん 老 が 身 のす ゑ 記 しと ど む るも 、な かな か に う た て 侍 る 。 はかなかりつる 事 ども 申契 り 奉 りし を 、 追 つきて 御 まのあたりし て 、 か き く ど き 、かつは 御心 の 限 りを も 承 るべく、あなかし こ 。   切々 たる 秋成 の 心情 が 伝 わっ てく る 書簡 であ る 。 夢 であ れか し と 願 って も 、 公則 の 逝去 は 厳然 たる 事実 で あった 。 老 いて 視力 が 衰 え、 足元 も 覚束 ない 秋成 は、 京都 どこ ろ か 難波 まで 出 るのもや っ と の 状態 で あった 。 「 かからむと 思 ひ 知 らねばし ばし と て 告 し 別 れぞなが き 別 れに 」 は 、 秋成 が 八月半 ばに 京都 を 発 つ 時 に 公則 の 体調 が 優 れないの は 知 っ

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て い たものの 、まさか 永遠 の 別 れに なる とは 思 わず 、 す ぐ に 帰 るから 、 と 軽 い 気持 ちで 別 れ たのに 、 と 千々 に 乱 れる 悲 しみの 心 を 歌 った 歌 で ある。   「な かな かに 都 は 遠 し 追 しか む 君 しば し 待 てよ も つ 坂路 に」は、 少 し 解説 を 要 する 。 秋成 は 六十八歳 の 天寿 を 信 じて いたが 、 こ の 寛政十二年 はまさにその 前年 、 秋成六十七歳 で あった 。 正月 に 一 つ 年 を 取 る、 と 考 えて い た 江戸時代 、 秋成 はあ と 数 ヶ 月 でこ の 世 を 去 るか もし れない 、 と 覚悟 を 決 めて い た 時期 であ る 。 秋成 が 自筆 の『 万葉集 』などを 公 則 に 譲渡 したのも 、 若 く 優秀 な 公則 が 自己 の 学問 を 受 け 継 い で く れ るか もし れない と 期待 を 掛 け て の こ とで あっただ ろう。しかし 公則 は 既 に 黄泉 に 旅立 っ て しまった 。 「 なかなかに 都 は 遠 し」 とは、 公則 のいない 京都 など 却 って 遠 く 感 じられ る 、 公則 の 待 つ 黄泉路 の 方 が 自分 には 慕 わし い 、 とい う の であ ろ う 。 「 追 しか む 」 は「 追 い 付 く」の 意 で、 私 も 間 もなく 黄泉 に 向 かいま す か ら、 どうかよもつ 平坂 でし ば し お 待 ち 下 さい、 と い うの で ある。   続 けて 、 逍遙院殿 ( 三条西実隆 ) 調合 の「や ま 人 」 「 黒方 」と いう 二種 の 薫物 を 公則自 ら 上書 きし て 下 さ れ た 、その 貴重 な 香 を 霊前 の 手向 けと し て 薫 らせつつ 、 「 を し か ら ぬ 君 がみために 焼昇 すけぶりがへしのうた て く もあるか」の 歌 を 詠 んだと い う。 「 貴重 な 香 も、あなた 様 のためなら 惜 しく ない 、 で も こ うし て 漂 って い く 煙 に、は か な く 散 ったあな た 様 が 思 い 出 さ れ て つ らい」 と いうの で ある。   次 の 五首 は 連作 であ る 。 秋成手持 ちの 妙香五種 の 名前 に 言寄 せ、 五首 を 奉 ったの で あ る 。 まず 第一首目 は「 名残袖 」 と 題 して「 干 る 間 なき 君 に 別 れの なみ だ 川 けふ ぞなごりの 袖 はく ち ぬる」 。 こ れは 、 「 君 に 別 れた 悲 しみの 涙 が 川 のよ うに 流 れて 乾 く 暇 もない、そし て ついに 今日 、ず っと 涙 に 濡 れ 続 けた 名残 の 袖 は 朽 ちて しまった」 と い う。   第二首目 は「は た 手 」と 題 し「 夕 ごと に 立出 て みるい こ ま や ま 雲 のは た て を 面影 にし て 」 と 詠 む。 「 夕方 にな る 度 に 立 ち 出 て 見 る 生駒山 よ、 雲 の 果 てに あ な た の 面影 を 見 て」 とい う 意 であ る が 、 雲 が 棚引 く 山 の 風景 は 秋成滞在中 の 河

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秋成文藝 の 魅力 内 、 生駒山 の 実景 でもあ る 。 ま た 、 「 夕 ごと に」 「 雲 のは た て 」の 語 から は、 『 古今集 』 四八四番歌 「 夕暮 れは 雲 のは た てに も の ぞ 思 ふ 天 つ 空 なる 人 を 恋 ふとて 」 ( 夕暮 れは 雲 の 果 てに 物思 いを す る 。 天 の 上 なる 人 を 恋 しく 思 って )を 踏 ま え て いる ことは 明 らか で 、 天 に 昇 っ て しまった 公則 の 面影 をそ こに 見 て いるの で ある。   第三首目 は「 八木 」と 題 し、 「 神 まつる 祢宜 がささぐるしらげよねしらげい とはぬ 君 にませし を 」 と 詠 ん で いる。 「 八 木 」を「 米 」と 見 なし て 「 し ら げよ ね ( 精米 ) 」 を 詠 み 込 むの だ が 、 そ もそ も 伝統的 な 和歌 の 世界 では 「 し ら げ よ ね 」 とい う 語 を 用 いるのは 異例 のこ と で あ り 、 他 に 用例 を 見 ない 。 次章 で 触 れる が 、 河内 は 農村 で あった 。の ど か な 農村 に 身 を 置 き、 間近 に 生駒山 を 眺 めながら 公則 を 偲 ぶ 、まさに 秋成 ならで は の 詠 みぶ り で あり 、 蘆庵 の「 た だ こ と 歌 」 の 実践 がこ こ に も 見 られ る 。 一首 の 意味 は「 祢宜 が 神 に 捧 げる 精米 のごと く 、 擦 り 磨 くこ と を 惜 しまぬ ( 努力 を 惜 し まぬ) 君 だったのに」 と い う こ とで あろう。   第四首目 は「 無名 」の 題 で「 久 かたのあまつ 使 の 名 なし 雉 ねなき 悪 しと も 知 らで 別 れし 」 と 詠 む。 これは 天 あめの 稚 わか 彦 ひこ の 神話 を 踏 まえて い る 。 天稚彦 が 地上 に 遣 わ さ れ たまま 復命 しな いの で、 神々 が 様子 を 探 るために 地上 に 雉 を 遣 わし た とこ ろ 、 天稚彦 は 天 あめの 探 さぐ 女 め の「 此 の 鳥 はその 鳴 く 声甚悪 し、 故 かれ 、 身 みづか ら 射 よ 」 ( 『 古事記 』 ) と の 進言 に 従 い、 「 無名雉 」 ( 『 日本書紀 』 ) を 射殺 した 、 と いう 伝説 であ る 。 和歌 は「 天 から の 使 いの 名無 し 雉 が、 声 が 悪 い (そのために 二度 と 天 に 戻 れない) とも 知 らない で 、 何 の 気 なしに 別 れてきて しまったよ ( 二度 と 会 えなくなる と も 知 らず 、 雲 の 上人 であ る 公則 のお 側 から 、 何 の 気 なしに こ の 地上 に 来 て しまった) 」の 意 であ ろ う 。   最後 の 第五首目 は「 老木芽 」と 題 し「 名 もつ らし 片枝 はつかにめはる 木 を 花 とみ ら れ ん 老 が 身 のす ゑ 」 と 詠 む。 老 木芽 とい う 、 片枝 にわ ず か に 芽 が 張 る 老木 ( 片目 しかみえない 老 いた 自分 )を 揶揄 す るかのような 名前 に 辛 い 気持 ち を 抱 く、 と い う の で あ ろ う 。 若 くし て 花 を 散 らした 公則 に 対 し、 老 い 先短 い 自分 がなお 花 を 咲 かせて い る 、 や る せな

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い 気持 ちを 表明 し て いるの で ある。   以上 、 公則 を 失 った 秋成 の 悲 しみの 和歌連作 を 見 てきた が 、 こ こ か らは 逆 に、 生前 の 公則 と 秋成 がいかに 心 ゆく 交 流 を 持 っ て いたかが 浮 かび 上 がっ て くるように 思 われる 。 身分差 も 年齢差 も 超 えた 、 類 い 希 な 優雅 な 交流 が 二人 の 間 にあった と 思 われ るの で ある。      四 、 河内 での 秋成   先 に 河内 の 話題 が 出 てきたの で 、 次 に 河内 での 秋成 につい て 見 てい きた い 。 この 地 で、 味 わ いのある 和歌 が 多 く 詠 ま れ て いる。     取 り 上 げるの は 『 山霧記 』で あ る 。こ れ は 寛政十年 ( 一七九八 ) 五月二十日余 から 七月末 まで、 河内国日 くさか 下 の 唯心 尼宅 に 滞在 した 日々 を 日記風 に 綴 った 作品 で あ る 。その 前年 、 秋成 は 旧知 の 唯心尼 を 妻瑚璉尼 (たま) と 共 に 訪問 、 旧交 を 温 めたが 、その 年 の 暮 れに 妻 は 急逝 、さらに 翌年四月 には 視力 まで も 失 った 。 こ の 旅 は、 悲 しみの 中 にある 秋 成 を 慰 めるため 唯心尼 が 河内 に 招 いたもの と 思 われ 、 秋成 は 唯心尼 の 一族 であ る 森公 きん 逵 みち や 河澄常之 ら、 地元 の 名士 た ちと 風雅 の 交 わり を 結 んだ 。   唯心尼 は 河内国日下郷 の 豪農 、 足立氏 であ る 。 大坂 の 富裕 な 商家 、 平瀬助道 に 嫁 ぎ、 堂島時代 の 秋成 とは 家族 ぐる みの 親交 があったが 、 三十代 で 夫 と 子 を 亡 くし 、 故郷 に 帰 って 尼 とし て 過 ごし て い た 。 父方 の 祖母 は 日下 の 庄屋 、 同 じく 豪農 の 森家 の 出身 で、 田園詩人 とし て 知 られ る 生駒山人 は 祖母 の 甥 に 当 たり 、 祖母 にと れ ば 実家 の 跡取 りで あ る 。 また 生駒山人 は 唯心尼 の 父 の 姉 と 結婚 し て いるの で 、 唯心尼 にと って は 伯父 に 当 たる 。 唯心尼自身 も 豊 かな 教養 を 持 ち、 晩年 の 秋成 を 精神的 ・ 物質的 に 支 えた。

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秋成文藝 の 魅力   さ て 、まずは 京都 を 旅立 つ 日 の、 蘆庵 との やり とり か ら 見 てい こう 。 此度出 たたん 日 、 蘆庵 の 翁 が 馬 のはなむ け し に 来 たま ひて 、 何 くれ と 別 れをを し み て 、    今 よりはおほにしも 見 じい こ ま 山 ふも との 里 に 君 が 住 まはば 生 きて は 帰 らじとや おぼしけむとも、おしはかられて ぞ 、    住 はて ぬ 里 にしあ ればい こ ま 山常 ゐる 雲 を おほにだも 見 よ と 答 へぬ。 蘆庵 が 秋成 に「 今 よりはおほにしも 見 じい こ ま 山 ふも との 里 に 君 が 住 まはば 」 と い う 餞別 の 和歌 を 送 って くれ た 、 と いう。 「 こ れ からは あ だや おろ そかな 気持 ちで 見 ます ま い 、 生駒山 を。その 麓 の 里 にあなたがお 住 まいなら」 と いう 意 で、 『 万葉集 』 三 〇 三二番歌 「 君 があたり 見 つつもをらむ 生駒山雲 なた なび き 雨 はふ ると も 」 など に 見 られ る 如 く、 人 を 思 いつつ 生駒山 を 遠 く 望 む、と い う 詠 み 方 は 常套 であ る 。 こ れ に 対 し 秋成 は「 生 きて は 帰 らぬ と で も 思 っ て いるの か」 と 悪態 を つ き つ つ、 「 住 はて ぬ 里 にしあ ればい こ ま 山常 ゐる 雲 を おほにだも 見 よ」 ( こ こ に ずっ と 住 み 続 ける 訳 で はないの で 、 どうか 気楽 に 生駒山 の 雲 を 眺 め て ください) と 返 し て いる。   河内 での 風雅 な 日々 の 合間 にも 、 秋成 は 蘆庵 に 手紙 を 送 っ て いる。 小沢蘆庵自筆 『 六帖詠藻 』 秋八 を 見 てみ よ う 。    余斎翁 より    か ふ ち のくにに て よめる

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いこ ま 山 かげ まだ 峯 にわ かれ ぬを な に は の 海 は 月 にな りけ り( 9221 )    かへし いこ ま 山山 かげ ながら 月 にな るな には 入江 を 見 る 心 ちする ( 9222 ) ゆかねども 見 る 心地 す る こと のはにい とど あはまくほし き 君哉 ( 9223 )   秋成 の 和歌 は わ かりにくい。 伝統的 な 和歌 におい て 「 峰 に 分 か れ る」のは、 例 えば「 風吹 けば 峰 に わ かるる 白雲 の たえて つ れ な き 君 が 心 か 」 ( 『 古今集 』 601 )や「 春 の 夜 のゆめのうき 橋 とだ えし て 峰 に わ かるる 横雲 の 空 」 ( 『 新古今 集 』 38 )に 見 られ るよう に 、 普通 は「 雲 」 で ある 。しかし 秋成 の 和歌 には 「 雲 」の 語 はなく 、 何 が「 峰 に 分 かれ 」な いのか 、 理解 しにくい 。そ こで 蘆庵 の 一首目 の 和歌 を 先 に 見 てみ る と 、 上句 に「 い こ ま 山山 かげながら 月 にな る」と あり 、 「 山陰 」 で あるのに 「 月 にな る」と い う。そし て 「 月 にな る」は 下句 にかかり 、 月 にな った「な には 入江 」を 見 る 心地 がす る、と い う の で あ る。こ の 歌 を 手掛 かりに す る と、 秋成 の 和歌 は、 「 今私 がいるのは 生駒山 の 山陰 で、 ここ から は ま だ 月影 は 峰 を 離 れず 見 えないが 、 眼下 に 広 がる 浪華 の 海 は 早 くも 月 に 照 らさ れ て 光 り 輝 い て いる」 と い うよ うに 読 み 解 けるの で はないか 。つまり 、 「 かげ」は「 山陰 」と 「 月影 」と の 両方 にかかっ て いるの で あ り 、 その 「 心 あ まり て 言葉足 らず」な 表現 を、 蘆庵 は「こ う い う こ と か 」 と 分 かり やす く 詠 み 直 し 、そし て 「ゆかねども 見 る 心地 す る こ と の はにい と ど あ はまくほし き 君哉 」 、 そ の 地 にいない 私 にもありあり と 情景 が 目 に 浮 かぶこ の 和歌 に、 ます ます あな たに 会 いたくなった 、 と 返 し て いるの で あ る 。 当時 、 秋成 の 和歌 が 理解 され ず 悪口 を 言 われた と い う の も わ か ら なく はない 、 ある 種一人 よが りの 和歌 で あ るが 、そのあ ふれ る 思 いを 蘆庵 は 的確 に 理解 して くれ る の で あ り 、 蘆庵 に 限 りな い 信頼 の 念 を 持 って い た 秋成 の 気持 ちも わか る 気 がす る。

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秋成文藝 の 魅力   さ て 、 こ のような わ かりにくい 和歌 で あ るが 、じ つは 実景 に 基 づい て い る と 思 われる 。 以前 、 河内日下 に 秋成関連 の 史跡 を 調査 した ことがあるが 、 山 の 手 を 見 れば 目 の 前 に 霧 にけ ぶ る 生駒山 が 迫 り、 目 を 転 ずれ ば 四天王寺 あたりま で 一望 できる 広大 な 平野 が 眼下 に 広 がる 。そし て ま た 古代史 の 舞台 とし て、 秋成 の 強 い 関心 を 引 いた 土地 で も あった 。 古代 には 平野 の 内側 まで 海 が 深 く 入 り 込 み 、まさに 「 河内 」の 字 の 如 く 水 の 豊 かな 土地 で あった 。 近世期 には 幕府 が 大和川 の 付 け 替 えなど の 大工事 を 行 い、 水 の 管理 に 努 めたが 、 それで も しば しば 洪水 が 引 き 起 こさ れ て い る 。 鴻池新 田 などはまさに 当時 の 新田開発 で 出来 た 土地 で あ り 、いくつかのため 池 もあった 。 秋成 は こ のような 土地 に 滞在 して いたの で ある。 生駒山 の 山懐 に 抱 かれ 、 遠 く 広 がる 海 が 光輝 くの を 見 て、 この 和歌 を 詠 んだことで あ ろう 。   その 河内日下 での 日々 を 描 いたのが『 山霧記 』 で ある。 今 、 谷水 の 走 る 山村 の 風景 が 描 かれ る 冒頭部 を 見 てい こう 。 田畠 にそそぐ 山水 の 音 も、ささ や かにのみ 成 ゆく 。 我 すむ 垣 の 外面 に、 俄 に 松風 のさ や ぐ とぞ 聞 ゆるは、あら で、 此谷水 の 走流 るるなりけり 。 此岡 のべ に 、 御所 の 池 とて 心広 くほりたるが 、 夏 は 必 ず 田 に 濯 ぐが 、 こ の 垣 もとを 過 て 、 を ち こち にみくまり すなり と 也 。こ の 池 は 、いにしへ 慶安 の 比 、 大坂 の 在藩曾我丹波守殿 と 申 せし がほ ら せて、 森 の 家 に 領 ぜさ せし 由也 。 千町 の 田 はた 是 にや しな はれて、 百五十余年 こなた の 国津宝 となん 成 ぬる こと のかたじけなさよ 。 守 はわ ら は 病 して、 森 の 家 のや ど り な が ら に 終 られ しとや 。 かの 家 の 園池 、 又 、 河澄 の 家 を もつ らね て 、 こ の 君 の 造 られ しとや 。 鳴鶴園 の 記 は、 去年 のまらふどぶりに 、 書 て あたへつ 。 唐 ざま なる は こ と にき たな 気 なる を、 今 は 取 かへさまほし きも、いかにせん。   聞 こえ て くるのは 、 さ や かなる 水音 。 曾我丹波守 によっ て 御所池 とい う 用水池 が 造 られ 、 こ こ か ら 流 れて くるの で

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ある 。 こ の 用水池 は 森家 が 管理 して いて、こ れ に よ り 水 の 管理 が 行 き 届 き、 村 は 長 く 恩恵 を 蒙 って い る と い う(こ の 曾我丹波守 はその 遺徳 が 慕 われ 、 現在 も 水神 とし て 祀 られて い る) 。 曾我殿 は 病 を 得 て、こ の 森家 で 息 を 引 き 取 った 。 この 森家 と 河澄家 の 園池 は 曾我殿 が 造 ったもの で あ る と いう 。 森家 、 河澄家 とい うの は こ の 地 の 二軒庄屋 であ り 、 森 家 は 先 ほど 申 し 上 げたよ う に 唯心尼 の 一族 と 言 っ て よい。   さて、こ こ に 『 鳴鶴園記 』の 書名 が 登場 する 。 こ れは この 滞在 の 前年 、 生前 の 妻 と 共 に 訪問 した 際 、 森家 の 人々 に 大変世話 にな った こ と に 感謝 し、 「 唐 ざま」 ( 漢文 )で そ の 園池 の 素晴 らしさ を 謳 った 作品 であ る 。 「 き た な 気 げ 」 、 す な わち 不出来 だか ら 取 り 返 したいぐらいだ 、 と い うが 、 秋成 はもともと 漢文 はあまり 得意 で な かったよう で ある 。なぜ わざ わざ 漢文 で 書 いたか と 言 えば、 や はり 森家 ゆかりの 生駒山人 に 敬意 を 表 して のこ と で あ ろ う 。 『 鳴鶴園記 』は 従来 知 られて いたのは 河澄家蔵 の 作品 のみ で あったが 、 近年 、 森家 の 一族 の 方 ご 所蔵 の 作品 が 明 らかになったの で 、 後 ほ ど 画像 でお 見 せしたい ( 画像 、 略 ) 。また 、 森様 がこ の 場 におい で 下 さっ て い る 。 感謝申 し 上 げる とともに 、 皆様 にご 紹介申 し 上 げる。   さて、 河内 の 話題 の 最後 に、 こ の 山村 の 生活 を 生 き 生 きと 歌 った 自筆短冊 ( 東大阪市教育委員会所蔵 )を 見 てい き たい。 お と たつる 時雨 も 知 らで いな 扱 こ きの 夜声 にぎはふ 冬 の 山 ざと   時雨 と 言 えば 、 晩秋 から 初冬 にかけて のしみじみ と し た 情趣 を 醸 し 出 す 言葉 であ る が 、 こ の 時雨 を 詠 み 込 んだ 和歌 におい て 、 聞 こえ て くるのは 時雨 の 音 では なく 、 健康的 な 人々 の 声 であ る 。 収穫 の 喜 びにあ ふ れる 冬 の 夜 、 聞 こえ て

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秋成文藝 の 魅力 くるのは 稲扱 き 歌 か、 弾 む 会話 か。 こ の 和歌 もや は り 通常 の 和歌 から 見 れば 破格 であ る が 、 こ の 地 に 根 を 張 って 生 き る 人々 の 素朴 で 力強 い 姿 を ありのまま 捉 えた、 秋成 らしい 歌 であ る と 思 う。      五 、 秋成 の 俳諧   次 に 俳諧 を 取 り 上 げる 。 秋成 は 十代 から 俳諧 を 嗜 んで い る が、 後年 は 離 れ た こともあり 、 あまり 研究 が 進 んで い な い。 特 に 解釈 や 内容 の 吟味 はほ とん ど 手付 かずで 、 今 、 私 どもが 科研 でチ ー ム を 組 んで 取 り 組 ん で いる ところ で ある 。 今 、その 成果 の 一端 を 紹介 しつつ 秋成 の 句 を 読 み 味 わ っ て い き たい。   まず 秋成 の 俳号 につい て 、 従来 、 漁 ぎよ 焉 えん ・ 無腸 が 知 られて い たが、 近年 、 「 青蕪 」と いう 号 があった ことが 報告 され た 。 「 無腸 」は 蟹 とい う 意味 の 漢語 であ る 。 秋成 は 自 らを 蟹 に 例 え、 自分 の 墓石 もわ ざわ ざ 蟹型 の 石 を 用意 して い る 。 蟹 は 外側 が 堅 い 甲羅 で 覆 われ て い る が 、 中身 は 至 って 柔 ら か い、す な わち 、 外面 はいかにも 気難 しく 人 を 寄 せ 付 けないが、 心 は 繊細 で 傷付 きやす い 自分 と 似 てい る 、 とい う の であ る 。 ま た 蟹 は 横歩 きし 、 目玉 が 上下 する とい う 特徴 がある 。 つまり 、 世間 に 対 して 斜 に 構 え 、つい 皮肉 や か らかいの 言 を 弄 して し ま う 素直 でない 性格 や、 目玉 が 突 き 出 てい る 、 現代風 に 言 うと 、つい 上 から 目線 で 世 の 中 を 見 てし ま う 悪 い 癖 を、 蟹 に 例 え て いるの で ある。   秋成 の 俳諧 は、 当時 の 大坂騒壇 の 事情 を 記 す 洒落本 『 列仙伝 』 ( 宝暦十三年刊 )の 「 俳諧部 」に 「 一人武者 」と 評 さ れて いる 。 特定 の 流派 に 属 さな い 、 独自路線 で 個性的 な 俳諧 を 詠 む、と い うこ と で あろ う か 。で は、 実際 に 秋成 がど のような 句 を 詠 ん で いたのか、 具体的 に 見 てい こう 。   最初 に 挙 げたの は 、 秋成最晩年 に 書 かれ た 自選句集 『 俳調義論 』 ( 文化六年成 )にある 、 近世 の 俳諧 における 三 つの 流派 の 物真似 で ある。

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   擬柿園 、 梅翁 、 蕉翁三体 鶯 の 酢 いと もき くや 梅 の 伽羅 梅 やなぎの うの うあ れに 御 たち あ る あだ し 野 や 此 孤 ひとつ 屋 や に 菊 を 売 る   「 柿園 、 梅翁 、 蕉翁三体 に 擬 す」 とあ る が 、 柿園 は 松永貞徳 、 梅翁 は 西山宗因 、 蕉翁 は 松尾芭蕉 、そ れぞれ 貞門 、 談 林 、 蕉風 のリ ー ダ ーで 、 各々 の 句 に 似 せて 詠 んだ 句 、と いうこ と で あ る。 まず 最初 の 貞門風 の 句 、 「 鶯 の 酢 いと もき く や 梅 の 伽羅 」 。 貞門 は 上品 で、 縁語 や 掛詞 など の 言葉遊 びを 特徴 とす るが 、 こ の 句 も「 鶯 」と「 梅 」 、 「 梅 」と「 酢 い」 ( す っぱい) 、そし て「 聞 く」 と「 伽羅 」が 縁語 と 思 われる 。 伽羅 は 香木 で あるから「 香 りを 聞 く」 、い わ ゆ る 聞 もん 香 こう であ る。 意味 が 取 りにくいが 、 試 みに 解釈 して みれ ば、 「 酢 い」 を 垢抜 けた 通人 の「 粋 すい 」に と り なし て 、 「 鶯 は 粋人 とも 聞 くが 、 粋 ぶっ て 梅 の 香 を 伽羅 と 聞 き 分 けた ものの 、 すっぱ い 梅 の 味 を 思 い 出 した」 と で も いうところか 。 次 は 自由奔 放 な 談林風 、 「 梅 やなぎの うの うあ れに 御 た ち ある」 。まさに 謡曲調 で、こ れ ぞ 談林 とい う 詠 みぶり で ある 。そし て 蕉 風 、 「 あ だ し 野 や 此孤屋 に 菊 を 売 る」 。 こ の 芸術的 で 端正 な 詠 みぶり 、 いかにも 芭蕉 らしく 、 思 わず 笑 みを 誘 われる 。 声帯模写 なら ぬ 詠風模写 とで も 言 った ところ で あろうか 、 俳言 の 使 い 分 けも 含 めて、 実 によくそ れぞれ の 流派 の 特徴 を 把握 して 物真似 し て いる。 秋成 の 器用 さが 窺 える。   次 に 追悼句 を 見 てみ る 。 秋成 の 句 を 端 から 読 んで い る が、 追悼句 の 美 しさが 際 だっ て いるの で 、 いくつか 紹介 した い。まず 最初 は、 大和路 で 亡 くな った 亀文 とい う 人物 を 悼 んだ 句 で ある。

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秋成文藝 の 魅力 短 みぢか 夜 よ にながき 夢 ゆめ 殿 どの 籠 ごもり 哉 かな ( 『 亀文追善集 』 ) 「 短夜 」と「 長 き」 とが 対句 にな っ て いる 。 夢殿 は 奈良 の 法隆寺東院 の 本堂 であ る が 、 「 夢殿籠 」の 語 に、 人生 ははか ない 夢 のようだと い う 想 いが 込 められて いよう 。   次 は、 与謝蕪村 を 語 る 際 に 枕詞 のように 歌 われる 秋成 の 蕪村追善句 、 「 か な 書 の 詩人西 せり 東風吹 きて 」 で ある。 東風凍 いて を 解 とく 日 、 或人 の 許 より 、 洛 の 蕪叟 の 訃 を 告来 る。 我此叟 の 俳諧 、 天 の 下 にと ど ろ くを 知 れれば 、 時々 得 て 読 に、 実 に 当世 の 作者也 。 然 に 其句々 の 麗藻 なる や 、 其文 の 洒 しや 落 らく なるに は 相似 ぬものに て 、 う ち よめば 唯 から 哥 を 女文字 して 書 いつけたるさましたるは 、 む か し 蕉窓 にゐぐくまり て 杜律 をうまく 読 、 笠着 てわら ぢは きな が ら 山家 を 懐 にしたる 人 の 一 すぢ の 教 なる べし 。 王母 が 鍋 を 霰 のう つと い ひ 、 牡丹 を 天 の 一方 にと いふ は 、 其語勢 をま ね び 出 たるものよ 。 又 、 釣 の 糸 に 秋風 を 悲 しび 、 花茨 しげけき 路 に 古 さと を お もふ は 、 その 意旨 をやうつしなせるならむ 。 是 やか む 名 の か ら う たと も い ふ べ くと、 時々人 にもかたりあ ひき 。 今 や 老 さり て 終 を よ くせられ し を うらや み、かつ 其麗藻 をを しみつつも、 かな 書 がき の 詩人西 せり 東 こ 風 ち 吹 て( 『 か ら 檜葉 』 ) 前書 きに も 「 か ら 哥 ( 漢詩 )を 女文字 ( 仮名 )し て 書 いつけたるさましたる」 「 是 やか む 名 のからうた と もい ふべく」 と 繰 り 返 し 述 べられ る 如 く、 漢詩人 で も あった 蕪村 の 発句 の 格調高 さを 見事 に 言 い 止 めて い る と 言 って い い で あ ろ う 。

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「む か し 蕉窓 に… … 山家 を 懐 にしたる 人 」は 芭蕉 を 指 し、 波線部 の 蕪村 の 四句 は、 そ れ ぞ れ 「 玉 霰 あられ 漂母 が 鍋 を 乱 れ 打 つ 」 、 「 広庭 の 牡丹 や 天 の 一方 に 」 、 「 か な し さ や 釣 の 糸 ふく 秋 の 風 」 、 「 花 いばら 故郷 の 路 に 似 たるかな」 を 言 うと 思 わ れるが 、 これらの 句 がそ れぞ れに 芭蕉 の 句 の 姿 や 心 を 写 し 取 って い る と、 高 く 評価 して い る 。 秋成 の 鑑賞眼 もなかな かのものだと 思 う。   次 は 茶裡 ( 三世十南斎 )に 対 する 追善句 で ある。    追善 琴 をさ く 斧 にち か ら も 涙 かな ( 俳諧奈類仏 )   『 列子 』 「 湯問 」の 「 断琴 」の 故事 を 踏 ま え る。 す な わ ち 、 琴 の 名手伯牙 の 弾 く 曲 をそ の 友人鐘子期 はよく 理解 して いたが 、 鐘子期 の 死後 、 伯牙 は 自分 の 音楽 の 神髄 を 理解 して くれ る 人 がい なく なった こ とを 歎 き、 琴 の 弦 を 切 って 、 二度 と 弾 く こ とはなかった 、 と いう 故事 に 拠 り 、また 「 涙 」に 「 無 し」 を 掛 けて、 茶裡 とい う 「 知音 」を 失 い 悲 しみ の 余 り 琴 を 割 こう と す る が 、 斧 を 振 り 下 ろす 手 にも 力 なく、 涙 にく れ る ことだ、 と い うの で ある。   最後 に 紹介 する 追悼句 は、 西鶴 の 師 で も あった 梅翁 、 西山宗因 の 百回忌 に 手向 けた 句 で ある。    梅翁百稔忌 目 を 閉 てあ い て ま た 観 るさくらかな

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秋成文藝 の 魅力   これは 宗因 の 代表句 、 「 な が む と て 花 にもいたし 頸 の 骨 」を 念頭 に 置 いて い る と 思 われる 。 そし て 宗因 のこ の 句 は、 西行 の「 な が む と て 花 にもいたく 馴 れぬ れば 散 る 別 れこ そ 悲 しかりけれ 」 を 踏 まえて い る 。 秋成 の 句 は、 桜 の 木 の 下 で 宗因 を 思 い、 目 を 閉 じて 祈 りを 捧 げ、 再 び 目 を 開 けて 桜 に 目 を 凝 らし 深 く 宗因 に 思 いを 致 す、と い う 意味 であ ろ う が、 西行 の 和歌 、 宗因句 、 秋成句 、と 順番 に 読 み 味 わっ てい く と 、 何 か 風流 に 繋 がる 一本 の 筋 を 見 る 思 いがす る 。   さて、 秋成 は 芭蕉 につい てど のように 思 っ て いたの で あ ろうか 。 しばしばその 芸術家然 とし た 態度 を 茶化 すよ う な 言辞 を 弄 する 秋成 で あ るが、その 一方 で 芭蕉 を 意識 した 句 も 詠 ん で いる。 近道 を 飛 とぶ 歟 か 烏 もし は す 空     (→ 何 に 此 この 師走 の 市 にゆくからす    芭蕉 『 花摘 』 ) 何人 ぞ 来 ては 鵜川 をか なし がる   (→ 面白 うて や が て 哀 しき 鵜舟 かな   芭蕉 『 曠野 』 ) 花 の 陰乞食 わすれぬた び 寝 かな   (→ 花 の 陰謡 に 似 たる 旅寝哉      芭蕉 『 曠野 』 )   一句目 は、 慌 ただ しい 年 の 瀬 、 混雑 して い る で あ ろ う 市中 に 向 かっ て 飛 んで い く 烏 を 詠 んだ 芭蕉 の 句 に 対 し、 「 忙 し い 師走 、 烏 も 近道 す るのか」 と ユ ーモ ラ ス に 詠 んで い る 。 二句目 は、 鵜飼船 を 題材 に 哀愁 に 満 ちた 一句 を 詠 んだ 芭蕉 その 人 を 茶化 して お り 、 三句目 も、 芭蕉句 の 中七 を 入 れ 替 えた だ け である が 、 や はり 乞食 の 境涯 に 身 を 置 いて 俳諧 に 精進 する 芭蕉 の 行為 それ 自体 に 視線 が 向 いて い る 。 い ず れ も 芭蕉 をか らか う 気分 に 満 ち 満 ちてはいる が 、 芭蕉 の 句 の 芸術性 そのものについ て は 必 ずし も 否定 して は い な い よ う に 思 われる。   つい で な がら、その 他 の 句 もいくつか 挙 げ て みたい。

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人 はいさ 貴様 はや は り 梅 の 花 妬 ねた もか や 人 のう しろ にあふひ 草 あなかま と 青梅 ぬすむ き ぬ の 音 うぐ ひすが 背 やすり 逃 げん 餅 のかび 桜 〳〵 散 て 佳人 の 夢 に 入   「 人 はいさ 貴様 はや は り 梅 の 花 」は 、 『 古今集 』の 有名 な 和歌 「 人 はいさ 心 も 知 らず ふるさ と は 花 ぞ 昔 の 香 に 匂 ひけ る」 ( 42 )を 踏 まえ 、 梅 に「や っ ぱりお 前 さんは 昔通 りだね、 梅 の 花 よ」 と 擬人化 して 呼 び 掛 ける 、 親 しみ やす くも 俗 な 詠 みぶ り で ある 。 「 妬 もか や 人 のう しろ にあふひ 草 」は 、 言 うま でもなく 『 源氏物語 』 「 葵 」 巻 、 車争 いの 場面 を 踏 まえて い よう 。 賀茂祭 の 折 り、 葵上 と 六条御息所 が 車争 いを して、 六条御息所 が 後 ろに 追 いや ら れ ると いう 屈辱的 な 仕打 ちを 受 けた、その 場面 を 詠 ん で いるのだと 思 われる。   次 の「 あな か ま と 青梅 ぬすむ き ぬ の 音 」は、 「 あなかま」 と い う 古語 と 衣擦 れの 音 に、 王朝 の 女性 の 面影 が 見 て 取 れ よう。そ こ に 「 青梅 」 、 一体 どうい う 場面 であ ろ う か 。 実 はこ の 句 は、 読書会 で、 解釈 が 付 かな いと 評 され た 句 で、 私 がひ ね り 出 した 解釈 は 一笑 に 付 され た 。 小説専門 の 私 から 見 ると、 青梅 、 酸 っぱい 、 そし て 人目 を 避 けて 青梅 を 取 ろ うとす る 女性 とく れば 、 こ れは 密 かに 身籠 もった 女性 の 姿 をユ ーモ ラス に 描 いて い る と し か 思 えない 。 これはほ と ん ど 散文 、あるいは 雑俳 の 世界 で あ るが、いかが で あろうか。   次 の「 う ぐ ひ す が 背 やすり 逃 げん 餅 のかび」は 、 ち ょ うど 正月 も 明 け、 鶯 の 初音 が 待 たれ る 頃 、そ ろそ ろお 餅 には 緑色 のカビが 生 え 始 めた 、 鶯 が 羽 を 擦 り 付 けて 逃 げたのか 、 と いうの で ある 。 風雅 の 代表 のような 鶯 もさん ざ ん な 言

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秋成文藝 の 魅力 われ よう で ある。   しかし 、 こ んな 俗 っぽい 句 ばかり で はない 。 締 めくくりは 秋成 の 代表作 、 「 桜 さくら、 散 りて 佳人 の 夢 に 入 る」 で あ る。 桜 が 散 っ て いるのは 夢 かうつつか 、ま どろむ 美 しい 女性 にはらはらと 散 りかかっ て いるのだろうか 。 と らえどこ ろの ない、 幻想的 で 美 しい 句 だと 思 う。      六 、 終 わりに   以上 、 駆 け 足 で 、 とり とめ も な く 秋成作品 の 面白 さを 語 って き た 。 小説 、 和歌 、 俳諧 、 形 はさま ざ ま で ある が 、 こ のと りと め の な さ 、 多様性 こそ 、 秋成 の 文藝 の 一番 の 魅力 では ない か と 思 う。   人生 に 苦悩 する 深刻 な 秋成 だけで も 、 笑 いを 志向 する 毒舌家秋成 だけで も 、 秋成 を 十全 に 理解 した こと にはならな い。 素直 に 、その 両方 の 世界 を 含 み 込 んだ 秋成 の 全体像 を 理解 する 必要 がある と 思 う 。また 、 軽妙洒脱 な 文章 を 綴 る 一方 で、 透明感 のある 硬質 な 文体 も 生 み 出 して い く 、 自由自在 な、 闊達 な 表現 の 世界 、こ れ こ そ が 秋成 の 持 ち 味 では ない だろうか 。 語 りたい こと 、 表現 したい こと に 応 じて、 文 の 形 が 定 まる 。ある 時 は 散文 、ある 時 は 和歌 、ある 時 は 俳諧 、その 折々 に、 自分 の 表現 したい こと に 最 もふ さ わ しい 形 を 選 んで、 自在 に 言葉 を 紡 ぎ 出 して 行 く、 そ れ が 秋成 の 文学 の 営 みで あ ろ う と 思 う。   以上 、 見 てきた 秋成 の 文芸 の 特徴 を 敢 えて 三 つにま と め て み れば、 次 のよ うに なろうか。     ①明 るい 笑 いと 、 そ こ に 込 められ た 毒     ②雅 と 俗 の 往還     ③書 く 喜 びと 相反 する 罪悪感

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学問 の 対象 とし て 古典作品 をきち ん と 理解 しながら 、 同時 にそ れと 戯 れる 。 雅 と 俗 とを 自在 に 行 き 来 しながら 、その 落差 から くる 笑 いを 楽 しみ 、また 時 には そ こ に 密 かに 毒 を 込 めて 現実社会 を 批判 す る 。しかし 、そのような 営 みを 行 う 自分自身 は、 親 に 捨 てら れ 、 そん な 自分 を 大切 に 育 てて く れ た 養家 の 家産 を 傾 け て しまった ( こ れは 当時 の 町人倫 理 とし てはあ り 得 べか らざる こ と で あり 、 最大 の 不孝 で あった) 、 こ の 世 に 何 もの も 為 さな い、 不甲斐 ない 存在 でし か ない 。そ う と 知 りつつ 、そ れで も 尚 、も のを 書 く 魅力 から 離 れられない 。 こ う いった 点 が 秋成 の 文藝 の 大 きな 特徴 だ と 思 われる。   そし て、 こ の 秋成 の 文藝 を 特徴 づけ る 要素 が、 『 癇癖談 』に すべ て 見出 せる 。つまり 『 癇癖談 』は、 気難 しく 、しか しユーモアがあり 、 繊細 で 傷 つき や す い 秋成 その 人 を 彷彿 とさ せる 作品 、 言 うなれば 、いかにも 秋成 らしい 作品 とい うこ と が 出来 よう。それ ゆ え に 、 門人 たち は 十三回忌 に 秋成 を 偲 ぶよ すが とし て、 晩年 の 傑作 『 春雨物語 』で は な く、 この 『 癇癖談 』を 選 んだ の で はな いだろう か 。 秋成周辺 の 親 しい 人々 は 、 こ う いった 秋成 の 等身大 の 姿 をよ く 知 り、 その 人 となり と 作品 を 愛 し て いた と 思 われる。   今回 の 講演 で 、 こ う いった 秋成 が 織 り 成 す 言葉 の 世界 の 奥行 き、 面白 さの 一端 を 少 しで も お 伝 えで き た なら 嬉 しく 思 う。 ( 駒澤大学教授 )

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秋成文藝 の 魅力 〔 付記 〕 ○ 第一章 より 第四章 は、 次 の 各拙稿 に 基 づき つつ、 新見 も 加 えて 再構成 し た も の で あ る。 「 物語 の 変容│ 『 癇癖談 』の 位置│ 」 、 「 大坂騒壇 の 中 の 秋成│泰良 と 秋成│ 」 、 「 秋成歌集 『 秋 の 雲 』 考│冒頭部 における 諸問題│ 」 、 「 秋成発句 「けふぞたつる 中納言 どの ゝ 粥柱 」 考│正親町三条公則 と 秋成│ 」 ( 以上 、 拙著 『 上田秋成新考│ くせ 者 の 文学│ 』 (ぺりかん 社 、 二 〇 一六年 ) 所収 ) 、 「 秋成 ・ 唯心 ・ 生駒山人│ 『 鳴鶴園記 』の 世界│ 」 ( 『 上方文藝研究 』 13、 二 〇 一六年六月 ) 、 「 秋成資料紹介│ 『 鳴鶴園記 』の 世界 ・ 続│ 」 ( 『 上方文藝研究 』 14、 二 〇 一七年六月 ) 。 ○ 第五章 は、 JSPS 科研費 ( 課題番号 JP16k02418 ) 基盤研究 (C) 「 上田秋成 の 俳諧研究 のための 資料整備 と 基礎的 研究 」による 研究成果 の 一部 で ある。

参照

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