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『梁塵秘抄』三四七番歌の「小磯の浜」の解釈をめぐって

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成蹊國文 第五十一号 (2018) はじめに   平安時代末期に後白河院によって編纂された今様の集大成である 『 梁 塵 秘 抄 』 か ら は、 そ の 今 様( 現 代 風 ) と い う 性 質 も あ っ て 当 世 の人々の心情や生活の様子が生き生きと伝わってくる。後白河院周 辺においてこうした歌謡が収集され、修得されていく過程には街道 や宿との結びつきが強い女性芸能者や遊女が深く関与しており、注 目される。   そこで三四七番歌の、 小 こ 磯 いそ の浜にこそ   紫 し 檀 たん 赤 あか 木 ぎ は寄らずして   流れ 来 こ で   胡 こ 竹 ちく の竹 のみ吹かれ 来 き て   たんなたりやの波ぞ立つ  (巻第二・四句神歌・雑) を取り上げて、特定の地を指すものではないと従来指摘されてきた 小磯(礒)の浜が東海道に位置する相模国の小磯を示す可能性につ いて検討す る (1) 。   また、この小磯は先学によって「恋ひそ」でもあると言及されて お り、 そ の 際 に「 ( な ) ─ そ 」 の「 な 」 が 省 略 さ れ た 形 の 禁 止 表 現 であると解釈される場合がある。ただ、例えば「 勿 なこそ 来 の関」のよう に、 「な─そ」の形式であればともかく、 「恋ひそ」だけで禁止の意 と 受 け 止 め ら れ た で あ ろ う か。 「 老 おい 蘇 そ の 森 」 に も「 そ 」 が あ る が、 一般的には「老い」の比喩として用いられており、禁止表現として 受容されてはいない。   本稿では小磯が東海道における通過点として認知されていたこと を確認したうえで、小磯(恋ひそ)がどのようなイメージを喚起し、 どう解釈されたかについて以下に分析を行う。   小磯の所在地   「 小 磯 」 の 所 在 に つ い て は 植 木 朝 子 氏 が、 梁 塵 秘 抄 の 注 釈 書 類 に おいて「岩波日本古典文学大系が『相模の小磯が想起される』とす る 以 外 は、 場 所 を 特 定 し な い と い う 立 場 を 取 っ て い る 」 と し、 「 大 系も相模に限定しているわけではなく、詞章内部にも、相模の小磯 に特定できる要素はないので、普通名詞の『小磯』の例と考えてよ かろう」と指摘されるように一般的には普通名詞あるいは所在未詳 と さ れ る (2) 。 ま た 例 え ば「 『 小 磯 』 は 相 模 の 古 い 地 名 に 大 磯 小 磯 と し

『梁塵秘抄』三四七番歌の「小磯の浜」の解釈をめぐって

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て 出 て く る が、 そ れ を 指 す か ど う か は 不 明 」( 『 歌 謡 集 』 日 本 の 文 学・古典 編 (3) )といったように相模の小磯の名を挙げるものでも、判 然としないという立場をとる。   し か し、 『 和 歌 の 歌 枕 地 名 大 辞 典 (4) 』 で は、 「 恋 そ の 浜〔 相 模 〕」 と し て、 『 八 雲 御 抄 』 の 巻 第 五・ 名 所 部 の「 今 様 詞 也。 相 模 国 (5) 」 を 根 拠として挙げ、 「『相模』とあるのは、 『恋その浜』を、 『小磯の浜』 、 『 相 模 国 余 綾 郡 』、 神 奈 川 県 中 郡 大 磯 町 の 辺 り と 考 え た か ら で あ ろ う 」 と 解 説 す る。 『 八 雲 御 抄 の 研 究   名 所 部   用 意 部 (6) 』 に よ れ ば、 『 八 雲 御 抄 』 巻 第 五・ 名 所 部 の「 浜 」 に は「 こ ひ そ の〔 相 模 国   今 様言也〕 」(国立国会図書館蔵本、宮内庁書陵部蔵伝細川幽斎筆本) 、 「 こ ひ そ の〔 相 ママ   相 模 国   今 様 詞 也 〕」 ( 宮 内 庁 書 陵 部 蔵 本 )、 「 こ い その〔相模国   今様也〕 」(国立公文書館蔵内閣文庫本)とあって、 ど の 本 に も 相 模 国 と 記 さ れ る。 『 藻 塩 草 (7) 』 の「 濱 」 の 項 に も「 こ ひ そ の ─ さかみ八 雲御説 」 と あ る こ と か ら、 今 様 に 歌 わ れ た「 小 磯 の 浜 」 は 相模国所在であると受容されていたと考えられる。   『 今 様 の 濫 觴 (8) 』 に「 而 宿 に 今 様 は じ ま る 事、 相 模 国 こ い そ の 翁 の 流 ながれ をもちて秘蔵ことにするなり」という表現がみえることからも、 詳細は分からないが、今様にとって重要な地であると捉えられてい た の で は な い か。 『 梁 塵 秘 抄 口 伝 集 』 に 度 々 そ の 名 が 挙 が る 後 白 河 院の側近の平業房が次に示すように相模守であったという事実から も、後白河院のもとに相模国に関する情報が伝えられていたと考え られる。   米谷豊之祐氏の研究によれば、平業房は安元元(一一七五)年八 月に相模守として自ら造営した浄土寺に後白河院と建春門院の御幸 を仰いでお り (9) 、治承元(一一七七)年には平家打倒のための謀議、 すなわち鹿ケ谷の変に関与したことで逮捕されたものの、後白河院 の再三の要請によって釈放されている。妻の高階栄子は業房の死後 に院の後宮に入って 覲 きん 子 し (宣陽門院)を生み、丹後局として後白河 院や源頼朝に対しても影響力を持つようになっていった女性である。 そして既に指摘されるように金沢文庫蔵の『転法輪鈔』には、亡く なった平業房のために後白河院が安居院流の澄憲に作らせた表白が 伝 え ら れ る。 『 梁 塵 秘 抄 』 と の 関 係 性 か ら い え ば、 乙 前 の た め の 表 白が有名であるが、新間進一氏によれば後白河院の関係の表白のう ち、臣下のためのものとしては、乙前の ほ か、師の鳥羽前大僧正、 平業房のものだけであるとい う )(( ( 。   五味文彦氏は「多くの国々が一度は平家の知行国になっているの に、相模だけが一貫して後白河の近習が知行していたのは、あるい は後白河自身の院分の知行国であった可能性もあろう」と言及する。 氏は、清盛のクーデター後に相模の国司となった藤原範能が、かつ て 後 白 河 の 院 分 と し て 尾 張 守 に な っ て い た 事 実 に 着 目 し て、 「 相 模 だけがこのクーデターにおいて後白河の院分として残されたものと も考えられる」と推察す る )(( ( 。このように、後白河院と相模国との密 接な関係性がこの歌の受容の背景に影響しているのではないか。   平業房が相模守に任じられ、また『梁塵秘抄』が編纂されたと考 えられる平安末期頃には、既に相模国府が大住郡(平塚市)から余 綾郡(大磯町)へと遷って機能していた。相模国の政務の中心地と

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成蹊國文 第五十一号 (2018) して余綾郡が重要な役割を担っていたことに留意したい。   『 吾 妻 鏡 )(( ( 』 建 久 三( 一 一 九 二 ) 年 八 月 九 日 条 に は、 北 条 政 子 の 出 産に際して鶴岡八幡宮や相模の寺社に神馬を献じて誦経したという 記 事 が あ り、 そ の 中 に「 新 樂 寺 小礒 」 と あ っ て 小 磯 と 鎌 倉 幕 府 と の 結 び つ き も 指 摘 で き る。 ま た こ の「 新 樂 寺 小礒 」 に 続 い て「 高 麗 寺 大 礒 」 と い う 名 も 記 さ れ る。 こ の 大 磯 の 高 麗 寺 に 関 し て は、 大 磯 の 宿 の遊女との関連性を示す次のような記事が『吾妻鏡』に載る。源頼 家が大磯の宿に泊まって遊女らと歌舞音曲を楽しんだとき、傍輩の 妬 み に よ っ て 宴 席 に 呼 ば れ な か っ た 愛 寿 と い う 遊 女 が い た。 後 で 知った頼家が愛寿に祝儀を与えたが、彼女はそれを高麗寺に寄付し て 逐 電 し た と い う( 建 仁 元〔 一 二 〇 一 〕 年 六 月 一 日、 二 日 条 )。 鎌 倉幕府の崇敬を得ていた寺社を有する大磯小磯地域における宿と遊 女の様子が知られる史料である。   大磯や小磯は『和名類聚 抄 )(( ( 』における相模国餘綾(余綾)郡の伊 蘓、餘綾、霜見、礒長、中村、幡多野、金目の郷のうち、伊蘓郷の 辺 り に 比 定 さ れ る が、 餘 綾 郡 に 含 ま れ て い る た め、 「 こ よ ろ ぎ( こ よ ろ き・ こ ゆ る ぎ・ よ ろ き・ ゆ る ぎ な ど )」 と し て も 認 識 さ れ て い た。顕昭は『古今集注』で「コヨロギノイソ」を「サガミ ニ ママ オホイ ソトイフ所」とする説を紹介し、由阿は『拾遺采葉抄』で「コヨロ キ ノ 濱、 大 礒 ハ ヨ ロ キ、 小 礒 ハ 小 餘 綾 ナ ト 申 キ 」( 第 一 四・ 東 歌 ) と説明す る )(( ( 。   その他、大磯小磯についての言及もある宗祇の『名所方角抄』に も「 但、 こ よ ろ ぎ の 磯 は 大 磯 の 辺 を い ふ 」 と あ り、 『 東 国 陣 道 記 』 にも「大磯といふ所にしは〳〵とゝまりて、こよろきの磯を在所の 人に尋ねけるに、すなはち此所のよしこたへ侍るに」との記述がみ られ る )(( ( 。時代は下るが上田秋成の『冠辞考続貂   三 )(( ( 』でも「こゆる ぎ」は「和名抄、相模國餘綾郡伊蘇の郷在、後に大磯・小磯と云所 なり」と説明されていることから、こゆるぎ(こよろぎ)と大磯小 磯は ほ ぼ同一視されてきた地であったことが指摘できる。   着目される「大磯、小磯」   「 よ ろ き( こ よ ろ ぎ・ こ ゆ る ぎ )」 は、 『 万 葉 集 』 や『 風 俗 歌 』 に も 歌 わ れ た 地 で あ る )(( ( 。 特 に『 源 氏 物 語 』 に み え る「 あ る じ も、 肴 さかな 求 む と、 こ ゆ る ぎ の い そ ぎ 歩 あり く ほ ど 」( 帚 木 ) と い う 表 現 に 影 響 を 受 け た で あ ろ う 中 世 の 文 学 作 品 は 多 い。 例 え ば『 竹 む き が 記 』 の 「いみじう 経 けいめい 営 し 騒 さは ぎつゝ、 小 こ 余 ゆるぎ 綾 の 肴 さかな 求 もと むと 急 いそ ぎありく、程なく 聞 きこ ゆ 」 や、 『 真 曲 抄 )(( ( 』「 遊 宴 」 に お け る「 こ の 誰 たれ か は 求 もとめ ざ る べ き   主 あるじ は い ま や 小 こゆ 動 るぎ の   い そ ぎ て 磯 いそ 菜 な み る め か り   入 いり 江 え の 浜 はまもの 物 尋 (たづね) つ つ   塩 しほ 干 ひ の 潟 かた にいさりせん」などが挙げられる。 「こゆるぎのいそ」 は、 そ の「 い そ 」 と い う 響 き か ら、 急 い で 何 か を す る 様 子 や「 肴 」 「磯菜」とともに表される。   こ の「 こ ゆ る ぎ 」 と 併 行 し て、 平 安 時 代 以 降 に は、 「 お ほ い そ の き し に き よ す る 白 浪 か 打 ち み て か へ る ほ ど は ま さ ら じ 」( 元 真 集・ 二 〇 四 ) や、 「 お ほ い そ に あ さ な 夕 な に か づ き す る あ ま も 我 が ご と そでやぬるらん」 (永久百首・六五四・仲実)のように、 「大磯」が 歌に詠み込まれていく。元真集の歌は『夫木和歌抄』にも「お ほ い

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その浦、相模」として「お ほ いそのうらにきよするしらなみにうら み て か へ る ほ ど は ま さ ら じ 」( 一 一 五 六 二 ) と あ り、 同 様 に 仲 実 の 歌も「大いそ、相模」 「永久四年百首」として『夫木和歌抄』 (第三 句目「かづきぬる」 〔一二〇八一〕 )に載る。   『月詣和歌集 』 )(( ( には、 「おなしやうなる事にて、はらからともあつ まのかたへまかりけるとき、さかみの国お ほ いそといふところより、 おの〳〵くに〳〵へわかれけるによめる」との詞書を持つ、後白河 院近臣の静賢による「おもひきやお ほ いそ浪に袖ひちて別のなかの わ か れ せ ん と は 」 の 歌 が 載 る。 『 宝 物 集 』 二 四 八 番( 新 大 系 ) に も 同 様 に、 第 三 句 目「 袖 ぬ れ て 」 と し て 記 載 さ れ て お り、 「 平 治 の 乱 で 安 房 国 へ 配 流( た だ し 丹 波 国 に 下 向 )」 と な っ た 際 の 作 か と さ れ ている。この歌の詞書からは、交通の要衝としての大磯の特質が浮 かび上がってくる。   なお、西行の『山家集』の「磯菜摘みて浪かけられて過にける鰐 の 住 け る 大 磯 の 根 を 」( 一 四 五 二 ) に み ら れ る「 大 磯 」 は「 普 通 名 詞 で 歌 枕 で は な い )(( ( 」 と さ れ る が、 『 宴 曲 集 』 に お け る「 は や む る 駒 は大磯の   いそぎてすぐる磯づたひ   よせくる浪に袖ぬれて   磯菜 つ み て 」( 巻 第 四「 海 道 下 」 の 一 部 ) の 表 現 や、 歌 に 詠 み 込 ま れ て きた「こゆるぎ」の風景などとの類似性が認められる。   さ ら に『 夫 木 和 歌 抄 』 で は「 お ほ い そ の は ま、 相 模 」「 海 道 宿 次 百首」として「松のこだち浪こす岩のけしきまでげに見どころはお ほ い そ の は ま 」( 巻 二 五・ 雑 七・ 一 一 八 〇 六・ 為 相 ) と あ り、 景 勝 地としての性質が強調されている。   中 世 の 作 品 に お い て 顕 著 な の は、 例 え ば『 海 道 記 』 の「 大 おほいそ 礒 浦 のうら 小礒浦ヲ 遥 はる 〻 ばる ト 過 すぐ レ バ 」といった際の状況を詠じた「大礒ヤ小礒ノ 浦ノ浦風ニ 行 ゆく トモシラズカヘル袖カナ」のように、大磯とともに小 磯が並び称されることである。この歌は『歌枕名寄』にも「大礒   小礒浦 」 と し て、 第 五 句 目 が「 か へ る 波 か な 」( 五 四 〇 一・ 長 明 ) と いう表現で載る。   『遺塵和歌集』には、 「弘安のころ、あつまへまかりて侍けるに、 みちの ほ との宿〳〵を、よみつゝけけるなかうた」の詞書を持つ、 「 た ひ こ ろ も   み や こ を た て は   あ け か た の   月 影 の こ る   こ の ま より   (略)   あしからも   一よなりけり   竹のした   関もとさかう   はやすきて   こいそ大いそ   さかみかは   (略) 」の歌が載り、錺武 彦 氏 に よ れ ば「 宗 成 は、 当 該 歌 を 詠 む に 当 た り、 『 平 家 物 語 』 の 原 型となった道行や、東海道の遊女たちによって唄われた歌謡に題材 を得たと考えられる」とされ る )(( ( 。このような歌の成立にも関与する といった点で、東海道の宿や遊女たちが果たしてきた役割の重要性 がうかがい知られよう。この歌で小磯が宿として認識されているこ と に も 留 意 し た い。 『 亀 山 殿 七 百 首 』 で は「 名 所 磯 」 と し て「 旅 衣 波のたよりに東路の大磯小磯ともにみしかな   前藤大納言(為世) 」 とあるように磯の名所として、大磯小磯が並んだ形で取り上げられ てい る )(( ( 。   散文でも先 ほ どの『海道記』にみられたように、小磯は主に大磯 と と も に 叙 述 さ れ る。 『 延 慶 本 平 家 物 語 )(( ( 』 に は、 石 橋 山 の 合 戦 の 際 に頼朝軍に合流できなかった三浦の人々が「小礒ガ原」を過ぎて、

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成蹊國文 第五十一号 (2018) 波打際を金江河(金目川)へ向かって進んだ(第二末・十四「小壺 坂 合 戦 之 事 」) と あ る。 ま た 平 宗 盛 の 関 東 下 向 に お い て は「 国 々 関々 打 うち 過 すぎ 〳〵、 漸 やうやく 日数モ積リケレ バ 、都ニテ 聞 きき シ大礒、小礒、唐 原、 ト ガ ミ ガ 原、 腰 越、 稲 村 打 過 テ、 鎌 倉 ニ モ 入 給 ヌ 」( 第 六 本・ 三 十「 大 臣 殿 父 子 関 東 ヘ 下 給 事 」) と の 表 現 も み え、 都 に も そ の 名 が知られていたことを伝えている。同じように『源平盛衰記』でも、 和田義盛が石橋山の合戦に向かう時には「大磯・小磯打過ぎて、二 日 路 を 一 日 に 酒 さかは 匂 の 宿 しゆく に 着 く 」 と あ り、 結 局 合 戦 に 間 に 合 わ ず に 引 き 返 す 場 面 で 和 田 が「 小 こ 磯 いそ が 原 を 過 ぎ て、 波 なみうちぎは 打 際 を 忍 び 通 とほ ら ん 」 と 発 言 し て い る。 他 に も 頼 朝 か ら 生 唼 を 賜 っ て 鎌 倉 か ら 出 立 し た 佐 々 木 高 綱 が 宇 治 河 を 目 指 し て「 相 模 河 を 打 渡 り、 大 磯・ 小 磯・ 酒 さかはの 勾 宿 しゆく 、 湯 本・ 足 柄 越 え 過 ぎ て 」 と 描 写 さ れ た り、 平 宗 盛 の 関 東 下向で「日数経れば、大磯・小磯・ 唐 もろこし 河 がはら 原 ・相模河・腰越・稲村 打過ぎて、既に鎌倉に着き給ふ」と記されたりしてい る )(( ( 。   また『平家物語』巻十「海道下」でも、 「『戀せば痩せぬべし、戀 せずもありけり』と、明神の歌ひ始め給ひけん、足柄の山打越えて、 こゆるぎの森、鞠子川、小磯、大磯の浦々、やつまと、砥上が原、 御輿が崎をも打過ぎて、急がぬ旅とは思へども、日數やうやう重な れ ば、 鎌 倉 へ こ そ 入 り 給 へ )(( ( 」 と あ り、 『 撰 集 抄 』 に も、 名 所 を 連 ね た 部 分 で「 越 の 白 山 雪 つ も り て、 ( 略 ) 大 磯 小 磯 の 浦 々 は、 す ぎ が たく侍るぞや」 (巻二ノ第四「花林院ノ永玄僧正之事」 )という表現 がみえ る )(( ( 。   真 名 本『 曾 我 物 語 』 巻 五 に は、 曽 我 十 郎 が 小 田 原 の 宿 か ら「 佐 河・古宇津・澁美の宿・小礒・大礒・平塚の宿・三浦・鎌倉」に至 るまで心に添う遊君を探し求めた末に大磯で虎御前と出会ったとあ り、 巻 六 に は 五 郎 が 十 郎 の い る「 大 礒 の 宿 」 を 出 て、 「 小 礒・ 澁 美・古宇津の宿・佐河の濱」を過ぎて早河の伯母のもとへ向かった との描写があ る )(( ( 。   さ ら に『 太 平 記 』 に も「 足 あしがらやま 柄 山 の 巓 たうげ よ り、 大 おほいそ 磯 ・ 小 こ 磯 いそ 見 お ろ し て、袖にも波はこゆるぎの、急ぐとしもはなけれども、日数つもれ ば、 七 月 二 十 六 日 の 暮 くれ 程 に、 鎌 倉 に こ そ 着 き た ま ひ け れ 」( 巻 第 二 「俊基朝臣再び関東下向の事」 )と記される。   こ の よ う に 大 磯 小 磯 は、 そ の「 い そ 」 と い う 響 き か ら「 急 ぎ 」、 「 過 ぎ 」 と い う 表 現 と 関 連 付 け ら れ る 頻 度 が 高 く、 時 に は こ ゆ る ぎ とともに叙述される。東海道に位置する大磯と小磯が数々の中世文 学作品に記載された事実は、平安末期以降、鎌倉と京との往来が増 加した影響で人々の関心が寄せられていったことを示している。   「恋ひそ」は禁止の意か   ──「そ」のみに禁止の意を担わせるこ への疑問   それでは「小磯」にはどのような意味が込められているのであろ うか。   『梁塵秘抄』 (新潮日本古典集成)は、 「『恋ひそ』の小磯   名が悪 い、 紫 檀・ 赤 木 は 寄 り つ か ず、 来 や せ ぬ よ。 『 恋 ひ そ 』 の 小 磯   嘆 くまい、 『 此 こ 方 ち 来 く 』と   胡 こ 竹 ちく なびき寄り、 『たんなたりや』の波が立 つ」と訳し、小磯については「地名に『恋ひそ』 (『な恋ひそ』の略。

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恋 す る な、 の 意 ) を 掛 け た 洒 落。 ど こ の 海 岸 と 特 定 す る 必 要 は な い」と注記す る )(( ( 。   また『梁塵秘抄』 (ちくま学芸文庫)においても、 「小磯」に「恋 ひ そ( 恋 す る な、 の 意 )」 を 掛 け て い る と し、 前 半 部 分 を「 小 磯 の 浜 に は、 『 恋 す る な 』 と 言 わ れ て 紫 檀 や 赤 木 は 寄 っ て も 来 な い で、 流れても来ないで」と解釈す る )(( ( 。   古語辞典類においても、終助詞「そ」の項には「そ」が単独で禁 止 を 示 す と 説 明 さ れ る。 例 え ば『 新 全 訳 古 語 辞 典 )(( ( 』 に お い て は、 「『そ』の単独用法」として、 「『そ』に禁止の意味があると意識され るようになった平安時代末期以降では、禁止の表現に『そ』だけが 単独で用いられた例もある」とする。同様に古語文法の解説書など で も、 使 用 さ れ 始 め た 時 期 に 多 少 の 説 の 異 同 は あ る も の の、 「 そ 」 のみで禁止を表す形式が平安末期には出現していたことについて述 べ る )(( ( 。   しかし「そ」のみで禁止を表現するとされる用例は子細に検討す ると、実際にはかなり特殊な例ではなかったかと考えられる。細川 英雄氏は「─そ」の禁止表現形式について、 『覚一本平家物語』や、 口 語 的 表 現 の 強 い『 虎 寛 本 狂 言 』 や『 天 草 本 伊 曾 保 物 語 』、 さ ら に は『きのうはけふの物語』でさえも、数える ほ どの用例しか見出す ことができないため、発生的に特殊な言い方であり、禁止表現体系 内においてきわめて不安定な位置にあったことを指摘す る )(( ( 。   そこで古語辞典や古語文法の解説書類に挙げられた「そ」のみで 禁止を表すとされる例を検討したところ、次の三つのパターンに分 類できることが分かった。   ⑴「な」の代替となる要素( 「不」や打消を伴う副詞など)が文中 にあ る )(( ( 。    「此ク 濫 みだり ガハシクテ 不 お 御 は シソ」 『今昔物語集』巻第十九ノ第三    「今ハ 此 か ク 馴 なれ ヌレ バ 、何事也トモ 不 か 隠 く シソ」 『今昔物語集』巻第 二十九ノ第二十八    「糸 此 かく ナ 云 いひ ソ、 不 さわぎ 騒 ソ」 『今昔物語集』巻第三十ノ第二    「カマイテ人ニ見セソ」 『蒙求抄』巻 六 )(( (   ⑵「 な ─ そ 」 が 既 出 し て お り、 繰 り 返 し の 際 に「 な 」 が 省 略 さ れ る )(( ( 。    「冬 来 く とも 柞 ははそ の 紅 もみぢ 葉 な散りそよ   散りそよな散りそ色変へで見 む」 『梁塵秘抄』四五四 番 )(( (   ⑶「な」の音の響きが文中にある。    「世ノナラヒニ候ヘ バ 、ナゲカセ 給 たまひ ソ」 『愚管抄』巻第四    「父ノ御 故 ゆゑ ニ命ヲ失ワム事、歎カセ給ソ」 『延慶本平家物語』第 六末・十七「六代御前被召取 事 )(( ( 」    「さのみ 泣 な き給(ひ)そ」 『御伽草子』 「三人法師」    「さのみ 情 なさけ をふりすてそ」 『御伽草子』 「和泉式 部 )(( ( 」   細川英雄氏は「な─そ」の禁止表現形式において、文中における 「な」の位置が、かなり自由であることにも言及する。確かに、 『大 鏡』にも「 荒 くわうりやう 涼 して、心知らざらむ人の前に、夢語りな、この聞 か せ た ま ふ 人 々、 し お は し ま さ れ そ 」( 「 師 輔 」) と あ り、 副 詞 の 「 な 」 が 述 部 で あ る「 し お は し ま さ れ そ 」 と 離 れ た 位 置 に あ る。 こ

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成蹊國文 第五十一号 (2018) う し た 事 例 も あ る こ と か ら、 も し「 な な げ か せ 給 そ 」「 な 泣 き 給 ( ひ ) そ 」 と、 「 な 」 が 続 い て し ま う 場 合、 連 続 す る こ と を 避 け て 「 な 」 の 音 の 響 き を も つ 言 葉 で 代 用 し、 禁 止 表 現 を 予 測 さ せ た の で はないかと考えられる。 『堤中納言物語』における「かかる文など、 人 に 見 せ さ せ た ま ひ そ 」( 「 よ し な し ご と 」) も 文 中 に「 な 」 の 響 き が含まれることが影響していると推察される。   『 建 礼 門 院 右 京 大 夫 集 』( 新 潮 日 本 古 典 集 成 )(( ( ) 九 六 番 歌 に は、 「 心 とむな   思ひいでそと   いはむだに   こよひをいかが   やすく忘れ む」とあって、 「思ひいでそ」は、 「そ」だけで禁止を表した例だと されている。終助詞の「そ」の用例としてこの歌を挙げる『例解古 語辞典   第三 版 )(( ( 』には、 「普通なら、 『心留む な 、 な 思ひ出で そ 』と 言うところを、字余りになるのを避けてこのように言ったとも考え られる。そうみるならば、終助詞と副詞の『な』を一つですませて しまったということになる」と解釈されており、この説に従いたい。   また⑴~⑶の ほ か、中世末期から近世の文献には、細川氏が指摘 するように決まった言い回しに使われるものも現れる。ただそのよ う な 用 例( 『 き の ふ は け ふ の 物 語 』「 そ の 段 だん は 御 き づ か ひ な さ れ そ 」 〔上・五五〕 、「そうじて春の 夢 ゆめ はあはぬ物ぢや。きづかひなされそ」 〔上 ・ 六四〕 、「人が申 共 (とも) 、まことになされそ」 〔下 ・ 六〕 )にも「な」 の響きが含まれることは注目される。   以上の⑴~⑶の分類に入らないものとして、 『とりかへばや物 語 )(( ( 』 巻二の「さまざまに契り知らるる身の憂さにいとどつらさを 結 むす びか ためそ」が挙げられる。   なお、文法書や古語辞典などで挙げられる次のような例について は、他の本を参照すると「な─そ」の形をとるものもあったり、字 体の類似などにより混同や揺れが生じていたりする可能性もあるた め、先の分類には含めなかった。   A 「な」と「は」       「 牛 の 子 に ふ ま る な 庭 の か た つ ぶ り 角 の あ れ ば と て 身 を ば た の み そ 」( 夫 木 和 歌 抄・ 巻 第 二 十 七 雑 部 九 動 物 部・ 一 三 一 〇 九・ 寂 蓮 法 師 ) は、 『 寂 蓮 法 師 集 』 二 六 六 番 の 下 の 句 で は 「 角 あ り と て も 身 を な 頼 み そ 」 と な っ て い る )(( ( 。 夫 木 和 歌 抄 の 表現の場合でも「ふまるな」に「な」が含まれるので⑶に分 類できる。       また「散りぬとも ほ かへはやりそ色々の木の葉めぐらす谷 の辻風」 (『旺文社古語辞典   第十版増補 版 )(( ( 』による夫木和歌 抄の引用)や、岩井氏前掲書(注 31)引用の「 ほ かへはやり そ 」 に つ い て は、 『 新 編 国 歌 大 観 』 所 載 の『 夫 木 和 歌 抄 』 で は「 ほ かへなやりそ」 (巻第十九雑部一・七七六三・源仲正) 、 ま た『 為 忠 家 初 度 百 首 』 で も「 ほ か へ な や り そ 」( 雑・ 六 三 五)となっている。   B 「そ」と「て」       「 我 が 背 子 が ふ り さ け 見 つ つ 嘆 く ら む 清 き 月 夜 に 雲 た な ひ き そ 」( 『 旺 文 社 古 語 辞 典 』〔 前 掲 書 〕 に よ る 古 今 和 歌 六 帖 の 引 用 ) の 五 句 目 に つ い て は、 『 新 編 国 歌 大 観 』 所 載 の『 古 今 和 歌 六 帖 』 に は「 雲 な た な び き 」( 第 一・ 三 四 五 )、 「 く も た

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な 引 き て 」( 第 一・ 五 一 三 ) と あ る。 ち な み に『 万 葉 集 』 で は「 く も な た な ひ き 」( 巻 第 十 一・ 寄 レ 陳 レ思・ 二 六 七 七 〔 二 六 六 九 〕) で あ り、 『 綺 語 抄 』 で は、 「 く も は た な び き 」 (三三四)とある。 『萬葉抄(宗祇抄) 』( 『萬葉學叢刊中世編』 前 掲 書〔 注 14〕 所 収 ) に は、 「 雲 な ゝ ひ き そ 」 と あ っ て「 な ─そ」の形をとる。 「雲たなひきそ」の場合でも、 「な」の響 きがあるので分類⑶が適用できる。   C 「な」と「を」 、「ナ」と「ヲ」       「 肝 きも を つ ぶ し 給 ひ そ 」( 『 新 定 源 平 盛 衰 記 』 巻 十 九 「 文 覚 入 にふ 定 ぢやう 京 上 のぼ り 附 平 家 追 討 の 院 ゐんぜん 宣 の 事 」、 岩 井 氏 前 掲 書 で も 指 摘 ) については、 『新訂源平盛衰記』には「 肝 きも をなつぶし給ひそ」 、 ま た『 源 平 盛 衰 記( 四 )』 ( 中 世 の 文 学 ) に は、 「 肝 ヲ ツ ブ シ 給フゾ」とあ る )(( ( 。       また「サレハ由無シ事ヲ云ソ」 (池田併治 氏 )(( ( に よ る『 今 昔 物語集』の引用)に関しては、新大系では「サレ バ 由 よしな 無 シ 事 ごと ナ 云 いひ ソ」 (巻第一ノ第十二)と、 「な─そ」の形になっている。 「 ヲ 」 と 取 る 場 合 も「 由 無 シ 」 の 部 分 に「 な 」 の 音 が 入 っ て いるので分類⑶が適用できる。   その他、 A から C に挙げたもの以外で、他の本を参照すると「な ─そ」の形を取っている例として次のようなものがある。   ま ず、 「 人 の 命 終 の 時 は、 思 は し か ら ん 妻 子 や、 惜 し と 思 は ん 宝 な ど を 皆 見 せ そ と ぞ 申 し て 侍 る め る 」( 岩 井 氏 前 掲 書 に よ る『 宝 物 集 』 の 引 用 ) に つ い て は、 新 大 系 で は「 さ れ ば、 『 人 の 命 みやうじゆう 終 の 時 は、おもはしからむ妻子や、 お (を) しと思はん宝などをばなみせそ』と 申 まうし て 侍 る め り 」 と あ っ て、 「 な ─ そ 」 の 形 式 を と る。 「 皆 見 せ そ 」 の場合であっても「な」の音が含まれるので⑶が適用できる。   次に、 「あの男に物いはせそ。討ちて捨てよ」 (湯澤氏前掲書で引 用 さ れ る『 平 治 物 語 』「 義 朝 敗 北 」) に つ い て は、 『 古 活 字 本 平 治 物 語 』( 大 系『 保 元 物 語   平 治 物 語 』 所 収 ) や 高 橋 貞 一 校 註『 平 治 物 語 )(( ( 』では「あの男に物ないはせそ」として「な─そ」の形をとる。 同じく湯澤氏前掲書引用の「やをれ有王、今はかかる憂き事をば語 り そ と よ 」( 『 源 平 盛 衰 記 』「 有 王 硫 黄 島 に 渡 る 」) に つ い て も、 『 新 定 源 平 盛 衰 記 』『 新 訂 源 平 盛 衰 記 』 は「 な 語 り そ と よ 」、 『 源 平 盛 衰 記(二) 』も「ナ語リソトヨ」とあって「な─そ」の形をと る )(( ( 。   従って、基本的には「な」や「な」の代用となる言葉がある場合 の み 禁 止 表 現 と し て 作 用 し、 「 そ 」 自 体 に 禁 止 の 意 は な く、 あ く ま でも添えられた言葉であると考えられる。ゆえに禁止表現を予測さ せるような語を伴わない「恋ひそ」が禁止の意に解釈されることに は疑問が残る。   「恋ひそ」の解釈の可能性   そ れ で は、 「 恋 ひ そ 」 を ど の よ う に 解 釈 し た ら よ い の だ ろ う か。 歌 枕 で 有 名 な「 老 蘇 の 森 」( 滋 賀 県 蒲 生 郡 安 土 町 ) が、 例 え ば「 か はりゆく 鏡 かゞみ の 影 かげ を見るたびに 老 おひ 蘇 そ の 森 もり の 嘆 なげ きをぞする」 (金葉集・ 巻九・雑上・五九九・源師賢)と老いの比喩として用いられるよう に、 「小磯の浜」も恋の比喩として受容されたのではないか。

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成蹊國文 第五十一号 (2018)   「 こ ひ そ 」 と い う 表 現 の 使 用 に 関 し て は、 ま ず『 万 葉 集 』 に よ く み ら れ る 形 と し て、 「 な 恋 ひ そ 」( 恋 し が る な、 恋 し く 思 う な ) と い っ た 禁 止 表 現 が 挙 げ ら れ る が、 平 安 期 か ら 鎌 倉 期 に か け て は、 「な恋ひそ」を含む和歌は管見の限り ほ とんど見られない。   例えば新日本古典文学大系の『八代集総索引』の各句索引の「こ ひそ」で得られる例は次のような表現をとる。   Ⅰ 「恋ぞ~」 (二例)      筑 つく 波 ば 嶺 ね の峰より 落 お つるみなの河恋ぞ 積 つ もりて淵となりける  (後撰集・巻十一・恋三・七七六・陽成院)      みかりするかりはの 小 を 野 の の ゝ なら 柴 しば のなれはまさらで 恋 こひ ぞまさ れる  (新古今集・巻十一・恋一・一〇五〇・人麿)   Ⅱ 「恋ひそめし」 (四例)      恋 ひ そ め し 心 を の み ぞ う ら み つ る 人 の つ ら さ を わ れ に な し つゝ  (後拾遺集・恋一・六三八・平兼盛)      恋 こ ひそめし人はかくこそつれなけれ 我 (わが) なみだしも 色 いろ 変 かは るらん   (千載集・恋二・七〇六・二条太皇太后宮大弐)     恋 こ ひそめし心の色の 何 なに なれば 思 おも ひ 返 かへ すにかへらざるらん  (千載集・恋四・八九二・太皇太后宮小侍従)      ひさかたの月ゆ え (ゑ) にやは 恋 こ ひそめしながむればまづ 濡 ぬ るゝ 袖 そで かな  (千載集・恋五・九三〇・寂超法師)   このように Ⅱ の「恋ひそめし」の用例が、後白河院の勅によって 編纂された千載集に三首みられることは注目される。その他、千載 集の編者である藤原俊成が判者を務めた『六百番歌合』のなかにも、 「 恋 (こひ) そ む る 心 の 底 そこ を 尋 たづ ぬ れ ば 人 や り な ら ぬ 思 (おもひ) な り け り 」( 恋 一・ 六 一 一・ 兼 宗 )、 「 恋 そ め し 心 は い つ ぞ 石 いそのかみ 上 宮 (みや) こ の 奥 おく の 夕 暮 ぐれ の 空 」 ( 恋 三・ 七 八 〇・ 信 定〔 慈 円 〕) 、「 恋 (こひ) そ め し 思 おも ひ の 妻 の 色 ぞ そ れ 身 に し む 春 はる の 花 の 衣 手 」( 恋 九・ 一 一 二 三・ 定 家 ) と い っ た 歌 が み ら れるのは興味深い。   「 恋 そ め 」 の「 初 め 」 に は「 染 め 」 が 掛 け ら れ て お り、 赤 色 系 統 の色彩を連想させて心情を強調するものも多い。ただ染まる色につ い て は 特 に 赤 色 と は 限 ら ず、 「 恋 (こひ) 初 そ め し 心 の 色 に 積 つ む 年 とし は 我 (わが) 黒 くろかみ 髪 に 現 あらは れ に け り 」( 六 百 番 歌 合・ 恋 五・ 八 五 〇・ 信 定〔 慈 円 〕) で は 黒 髪 が 白 く な り、 「 く ち な し の 色 の 八 や 千 ち 入 しほ 恋 こ ひ そ め し し た の 思 おも ひ や い は で は て な ん 」( 拾 遺 愚 草・ 一 四 五 一 )(( ( ) で は 濃 い 山 吹 色 で、 宗 尊 親王の「 恋 こ ひそむるからあ い (ゐ) の 衣 きぬ の色に出て 深 ふか き心を 知 し らせてしが な 」( 文 応 三 百 首・ 恋・ 二 〇 二 ) で は 藍 色 と な っ て い る( 新 大 系 『中世和歌集   鎌倉篇』 )。   おそらく平安末期から鎌倉期において、 「こひそ」は「恋ひそめ」 の初々しい様子に彩りが添えられている状態を表すものとして好ま れ て 使 用 さ れ た の で は な い だ ろ う か。 「 こ ひ そ 」 と「 恋 ひ そ め 」 と の関係は、老蘇の森の名の由来を「追い初め」だとする『源平盛衰 記』における説話を想起させる。熱田社の草薙剣を沙門道行という 僧 が 盗 み 出 す と い う、 『 日 本 書 紀 』 に そ の 原 型 が み ら れ る 話 で、 そ れによると、道行が剣を盗み出したところたなびいてきた黒雲に取 り返された。再度盗み出した際にまた取り返されたので追いかけは じ め た そ の 場 所 が「 近 江 の 国 蒲 生 郡 に 大 磯 の 森 と い ふ 所 あ り。

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追 おひそめのもり 初 森 なり」と説明される。 「大磯の森」と記されるところに老蘇 の 森 と 大 磯 と の 親 近 性 も 指 摘 で き よ う が、 こ の よ う に「 お ひ そ め 」 た こ と に よ っ て「 お い そ 」 の 森 の 名 前 が 説 明 さ れ る の で あ れ ば、 「 こ ひ そ 」 と い う 響 き が「 こ ひ そ め 」 の イ メ ー ジ を 喚 起 し た と い う ことは十分考えられる。   『 梁 塵 秘 抄 』 三 四 七 番 歌 で は、 「 小 磯 の 浜 」 に 続 い て「 紫 檀 赤 木 」 という言葉が出てきていることもあり、とりわけその色彩を介した 結 び つ き が 興 趣 を 催 し た の で は な い か。 『 吾 妻 鏡 』 文 治 五( 一 一 八 九)年九月十七日条には、藤原基衡が建立した毛越寺の金堂である 圓 隆 寺 に つ い て「 鏤 二 銀 一 継 二 檀 赤 木 等 一 尽 二 寶 一 交 二 色 一 と あ っ て、 万 宝 を 尽 く し て 多 く の 色 を 交 え て い る と い っ た と ころに主眼が置かれている。また『胡琴教録』の「琵琶寶物」にお いて「瞿麥」は「赤木甲」とあり、割注で「はなやかにあかからず。 下品の花梨木の色也」と、色彩について言及されているのは注目さ れ る )(( ( 。   難波めぐみ氏は、平安中期に成立した藤原明衡の『新猿楽記』に 唐物の交易品として赤木、蘇芳、檳榔子、臙脂、丹の色材が見え、 また陶砂(明礬)の存在も明らかであることから、これらは染料と して活用され、その陶砂(明礬)を利用して赤に染めていたと指摘 してい る )(( ( 。   このような色彩的特徴を持つものとして紫檀赤木が認識されてい たならば、小磯(恋ひ初め・恋ひ染め)という表現を契機として紫 檀赤木という木材が導き出されてきたことも自然な流れであると捉 えられる。   いずれにせよ、恋の比喩としての役割を小磯が果たしていたので は な い か と 想 定 さ れ る。 『 海 道 記 』 の 大 磯 浦 小 磯 浦 を 過 ぎ る 場 面 で 「雲ノ橋 浪 なみ ノ上ニ 浮 うかび テ、 鵲 かささぎ ノ 渡 わたしも 守 リ 天 あま 津 つ 空ニ遊ブ」というように、 空を見上げ、鵲に焦点を当てて描写していたのは、小磯の「恋」が 織姫と牽牛を連想させたからではなかったか。というのも、織姫に つ い て は「 常 に 恋 す る は   空 に は 織 たなばた 女 流 よばひぼし 星 ( 後 略 )」 と『 梁 塵 秘 抄』三三四番歌に、常時恋をしているものの代表として挙げられて いるからである。   異国からの漂着 ──揺られ来る「胡竹の竹」   紫檀の性質について『日本大百科全 書 )(( ( 』では、辺材は白色で心材 は新しいものは鮮紅色だが、のちに暗紫紅色になり、材質は緻密で 堅いと説明される。チーク材より約三割重くて二倍の堅さがあると いう。このように紫檀は紅色系統といった色彩的特徴を備えている と と も に、 堅 固 で 重 量 感 が あ る と い う 点 で、 「 胡 竹 の 竹 」 と 材 質 の 面でも対照的な存在であると言える。   なぜ「紫檀赤木」ではなく「胡竹の竹」が寄るとされたのか。竹 は「ふす、 節 ふし 、むなし、よ」などを通して嘆きや恨み言を連想させ る一方で、色が変わらぬものの象徴として、末永い世を祈り、言祝 ぐといった祝賀の気分を表現する手段として取り上げられる場合も ある。例えば「紅葉する草木にも似ぬ竹のみぞかはらぬもののため しなりける」 (貫之集・第三・二七七。 『古今和歌六帖』では第三句

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成蹊國文 第五十一号 (2018) 目「 竹 の は ぞ 」〔 第 六・ 四 一 一 九 〕) や、 「 白 しらゆき 雪 は 降 ふ り 隠 かく せ ど も 千 ち 代 よ までに竹の 緑 みどり は 変 かは らざりけり」 (拾遺集・雑賀・一一七七・貫之) 、 「 君 きみ 訪 と はで 幾 いく よ 経 へ ぬらん色 変 か へぬ竹の 古 ふるね 根 の 生 お い (ひ) かはるまで」 (拾遺 集・雑賀・一一九四)など、色が変わらないという竹の性質と重ね 合 わ せ て 慶 賀 の 心 情 を 表 現 し て い る。 『 新 古 今 和 歌 集 』 に お い て も やはり「年ごとにおいそふ竹のよゝをへてかはらぬ色をたれとかは み ん 」( 賀 歌・ 七 一 五・ 貫 之 ) の よ う に、 何 代 た っ た と し て も 変 ら ぬ緑色をして栄え続ける、すなわち永続性の象徴として受容されて きた。   ま た、 「 草 木 で は な い 竹 」 と い う 表 現 に 着 目 し た「 木 に も あ ら ず 草 に も あ ら ぬ 竹 の よ の 端 はし に わ が 身 は な り ぬ べ ら 也 (なり) 」( 古 今 集・ 雑 下・九五九)を踏まえた「木にもあらぬ竹の 下 したね 根 のうきふしにむな し き よ ゝ を ま づ や さ と ら む 」( 『 拾 遺 愚 草 』・ 二 七 七 二 ) の よ う な 歌 もみられる。興味深いのは『道助法親王家五十首』の「木にもあら ぬ ま が き の 竹 は 冬 草 の 霜 に つ れ な き 色 か と ぞ み る 」( 七 一 六 ) や、 「 木 に も あ ら ず 草 に も あ ら ぬ く れ 竹 は 霜 は お け ど も 色 は か は ら ず 」 ( 七 二 二 ) の よ う な「 木 で は な い、 竹 」 と い う 表 現 を 用 い な が ら 「色」について詠まれる歌である。色を変えないという竹の特性は、 あえて木と対比して強調することによって、より鮮やかに印象づけ られることになる。   外来の竹である「胡竹」については既に指摘されるように、その 響きから「こちらに来る」という意が含まれ る )(( ( 。本稿では深く立ち 入らないが、笛の譜の 唱 しょうが 歌 に関連するとされる「たんなたりや(た ん な り り や )」 と い う 表 現 に は、 相 手 が こ ち ら に や っ て 来 る 際 の 期 待 感 や 嬉 し さ が 含 ま れ て い る の で は な か ろ う か。 『 六 百 番 歌 合 』 の 「 う ら や ま し わ が り こ ち く と 笛 の 音 ね を 頼 たの む る 中 の 人 は 聞 (きく) ら ん 」( 恋 九・一〇八七・季経)のように、羨ましくなる ほ どの、待つ側の浮 き立つような弾む気持ちが想像される。   従 来、 『 六 百 番 歌 合 』 の「 は る 〴〵 と 浪 路 ぢ 分 (わけ) 来 く る 笛 竹 を わ が 恋 (こひづま) 妻 と 思 は ま し か ば 」( 恋 九・ 一 〇 九 〇・ 中 宮 権 大 夫〔 家 房 〕) に ついての判詞に「 『浪 路 ぢ 分 来 く る笛竹を』といへる、 『 多 おほ くの浪をこそ は 分 (わけ) 来 こ し か 』 な ど 云 (いふ) 郢 (えいきょく) 曲 の 心 に や 」 と あ る こ と か ら、 『 古 今 目 録抄』料紙今 様 )(( ( の「もろこし た (唐) う なる ふ (笛竹) ゑたけ は   いかてか こ (此処) ゝ ま ては ゆ (揺) られ こ (来) し   ことよき か (風) せ に さ (誘) そ はれて   お (多) ほ くの な (波) み をこそ わ (分) け こ (来) しか」との関連性が指摘されてきた。   こ こ で 注 目 さ れ る の は、 俊 恵 の『 林 葉 和 歌 集 』 に「 依 恋 赴 遠 路 」 として「はるばると波ぢを分けてこゆるぎの急ぐと君はしらずや有 る ら ん 」( 第 五・ 恋・ 八 六 五 ) と い う 歌 が 存 在 す る こ と で あ る。 恋 の た め に 遠 路 は る ば る 赴 く と い う モ チ ー フ が「 こ ゆ る ぎ 」「 急 ぐ 」 とともに詠み込まれている。 「こゆるぎ」は、 『宴曲集』巻第三「名 所恋」のうちに「こゆるぎの   いそぎて我やゆかまし」と歌われる ように、行動を起こすことを示す表現であり、運動性や躍動感を伴 う。 そ も そ も こ ゆ る ぎ の「 こ ゆ 」「 こ ゆ る 」 の 響 き に は、 ⑴ 時 間 ( 月 日、 年 な ど )、 ⑵ 空 間( 関 な ど )、 ⑶ 量 や 質 な ど の 水 準( 思 い な ど ) が「 越 ゆ・ 超 ゆ 」 と い う 意 味 が 重 ね ら れ、 「 は る ば る と 」 と いったイメージとも容易に結びつく。

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  先述の『古今目録抄』料紙今様における「 ふ (笛竹) ゑたけ 」が「 ゆ (揺) られ こ (来) し 」 と あ る の と 同 様 に、 『 古 今 目 録 抄 』 料 紙 今 様 に み ら れ る「 こ ひそのはまに」の歌においても、紫檀赤木は「揺られ」来ないで胡 竹 の 竹 の み「 ゆ ら れ き て 」 と、 「 ゆ ら れ 」 と い う 表 現 が 繰 り 返 し 用 い ら れ て い る。 そ も そ も「 よ ろ き( こ よ る ぎ・ こ ゆ る ぎ )」 の 響 き は「 ゆ ら れ 」 に も 通 ず る も の で あ る。 推 測 の 域 を 出 な い が、 「 よ ろ き( こ よ る ぎ・ こ ゆ る ぎ )」 と い う 名 の 地 な の に「 木 は ゆ ら れ こ な い で 」 と い う 気 持 ち も 込 め ら れ て い る の か も し れ な い。 「 揺 ら れ く るイメージ」や「外来のものが流れ寄るイメージ」は、こゆるぎや 大磯小磯の地に元来胚胎するものであったから、そうした渡来性が この歌にも影響しているであろうことは指摘できる。   こゆるぎや大磯地域と隣接する「唐が原」の存在も、この地域に お け る 異 国 的 な 要 素 を 説 明 す る た め の 証 左 と な ろ う。 『 能 因 歌 枕 ( 廣 本 )(( ( )』 の「 相 模 國 」 に は「 こ ゆ る ぎ の 礒 」「 ゆ る ぎ の 浦 」 の ほ か に「 も ろ こ し の 原 」 の 名 も 挙 げ ら れ る。 『 更 級 日 記 』 に も「 も ろ こ しが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二・三日ゆ く )(( ( 」と記され て い る。 こ の 描 写 に つ い て は 福 家 俊 幸 氏 に よ っ て「 も ろ こ し が 原 」 が通過に二、三日を要する長い海岸線とは考えにくいため、 「『もろ こし』という遙か彼方の地にある異国のイメージが実態を超えた広 大な地に形象化していたのであろう」と推察されてい る )(( ( 。先に挙げ た『古今目録抄』料紙今様の「もろこし た (唐) う なる ふ (笛竹) ゑたけ 」がはる ばると多くの波を分けて辿り着くイメージとも重なり合う。しかも 既に述べた『延慶本平家物語』や『源平盛衰記』の道行には大磯、 小磯、唐が原と記されており、緊密な関係性を示してもいる。   以前拙稿で触れたように、大磯地域は中世の縁起類においても漂 着 や 渡 来 の 地 と し て 重 視 さ れ て い た。 『 走 湯 山 縁 起 』 に は「 相 模 國 唐 濱 礒 部 海 漕 (濱歟) 」 に 出 現 し た 鏡 は、 神 功 皇 后 と 契 約 を 交 わ し た 高 麗 国の神人で日本を鎮護するために渡来したとある。また『箱根権現 縁 起 』 に は「 い そ ぎ 」 波 羅 奈 国( 本 文 で は「 し ら な い こ く 」 と 誤 記)を出た中将たち一行が「くわんとうさがみのくにお ほ いそ」に 上陸したと記される。 『神道集』 「二所権現ノ事」と同様の筋を持つ この『箱根権現縁起』は十四世紀初めのころの制作であると推定さ れてい る )(( ( 。   こゆるぎや大磯小磯は、その動きのある風景や交通の要衝として の性質を基盤に、 「ゆるぎ」 「急ぎ」といった言葉とともに、心だけ でなく人や事物の揺れや移動を表現することを可能にした地であっ た。 結びに   以上のように古来、相模国のよろぎ、こゆるぎとして著名であっ た地が大磯小磯としても着目されるようになったことが、三四七番 歌の成立の背景にあろう。流行を取り入れることに敏感であったと される今様において、小磯の地名が目新しいものとして受容された 可能性は大いにある。   そして小磯の浜を恋の比喩として掲げたうえで、その恋の状態や 状況を分かりやすく表現するための手段として紫檀赤木や胡竹を取

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成蹊國文 第五十一号 (2018) り上げたと推察される。赤色系統の色彩を備える紫檀赤木が、貴重 で堅固、重厚であるのと対照的に、竹は色が変わらず、軽やかで移 動しやすい印象を与える。しかも小磯には「急ぎ」行動するという 意 も 含 ま れ る。 「 胡 竹 の 竹 の み 」 の「 の み 」 に は 軽 く 他 と 比 較 し て あるものを特に強調する意味があり、そのように解釈したい。   従って、三四七番の歌意は次のようになるのではないか。   「 恋 」 の 名 を 持 つ 相 模 国 の 小 磯 の 浜、 そ こ に は 紫 檀 赤 木 と い っ た 赤く染めるような重たい高級木材は来ないで、こちらに来るという 軽やかな胡竹の竹がとりわけ吹かれ寄って来て、たんなたりやとい う波の音のように浮き立つ気持ちになる。   当該歌は、色彩や質感の対比を効果的に用いながら、動きがあっ て進展する見込みのある恋を肯定的に表現した今様かと推察される。 引用文献   特に注記のない和歌の引用は『新編国歌大観』に拠る。 『古代歌謡集』 (『風 俗 歌 』) 、『 愚 管 抄 』『 御 伽 草 子 』『 江 戸 笑 話 集 』( 『 き の ふ は け ふ の 物 語 』) は 日 本 古 典 文 学 大 系( 以 下、 「 大 系 」 と 称 す )、 『 今 昔 物 語 集 』『 古 今 和 歌 集 』 『 後 撰 和 歌 集 』『 拾 遺 和 歌 集 』『 後 拾 遺 和 歌 集 』『 千 載 和 歌 集 』『 新 古 今 和 歌 集 』『 六 百 番 歌 合 』『 宝 物 集   閑 居 友   比 良 山 古 人 霊 託 』『 中 世 日 記 紀 行 集 』 (『 海 道 記 』『 竹 む き が 記 』) は 新 日 本 古 典 文 学 大 系( 「 新 大 系 」) に 拠 っ た。 また、 『源氏物語』 『落窪物語   堤中納言物語』 『大鏡』は新編日本古典文学 全集( 「新全集」 )、 『太平記』は新潮日本古典集成( 「集成」 )に拠った。   注 1   『神楽歌   催馬楽   梁塵秘抄   閑吟集』新編日本古典文学全集   臼田甚 五 郎   新 間 進 一   外 村 南 都 子   徳 江 元 正 校 注・ 訳   小 学 館   二 〇 〇 六 年 ( 二 〇 〇 〇 年 第 一 版 第 一 刷 )。 以 降 の『 梁 塵 秘 抄 』 の 引 用 は 特 に 注 記 の な い 限 り、 こ の 書 に 拠 る。 な お 四 五 七 番 の「 波 も 聞 け 小 こいそ 磯 も 語 れ 松 も 見 よ (後略) 」の「小磯」には本稿では言及しない。   2   「 順 徳 院 と 今 様 」『 明 月 記 研 究 』 七 号   明 月 記 研 究 会   二 〇 〇 二 年 十 二 月   3   外村南都子校注・訳   ほ るぷ出版   一九八六年   4   吉原栄徳   おうふう   二〇〇八年   5   『日本歌学大系   別巻三』久曽神昇編   風間書房   一九八九年(一九六 四年初版)   6   片桐洋一編   和泉書院   二〇一三年   7   『藻塩草   本文篇』大阪俳文学研究会編   和泉書院   一九七九年   8   『 梁 塵 秘 抄 口 伝 集 』( 馬 場 光 子 全 訳 注   講 談 社   二 〇 一 〇 年 ) 所 収。 植 木朝子「消えゆく声への焦燥─『梁塵秘抄口伝集』から─」 (『日本文学』 第五五巻七号   二〇〇六年)参照。   9   「後白河院北面下臈─院の行動力を支えるもの─」大阪城南女子短期大 学 研 究 紀 要   一 九 七 六 年 十 一 月。 『 増 補 史 料 大 成   山 槐 記   二 』( 臨 川 書 店   一 九 六 五 年 ) の 安 元 元 年 八 月 十 一、 十 二 日 条 に「 相 模 守 業 房 」 の 名 がみえる。   10  『安居院唱導集   上巻』永井義憲   清水宥聖編   角川書店   一九七九年 (一九七二年初版) 。『鑑賞日本古典文学   第十五巻   歌謡 Ⅱ 』新間進一   志田延義編   角川書店   一九九二年(一九七七年初版)   11  「 相 模 国 と 三 浦 氏 」『 三 浦 一 族 研 究 』 第 二 号   三 浦 一 族 研 究 会   一 九 九 八年五月   12  『 新訂 増補 國史大系   吾妻鏡前篇』 黑板勝美   国史大系編集會編   吉川弘文館   一九六四年。以降の『吾妻鏡』の引用はこの書に拠る。   13  『天理圖書館善本叢書和書之部第二巻   和名類聚抄   三寶類字集』天理 圖 書 館 善 本 叢 書 和 書 之 部 編 集 委 員 会 編   八 木 書 店   一 九 七 二 年( 一 九 七 一年第一刷)   14  『古今集注』は『日本歌学大系   別巻四』久曽神昇編   風間書房   一九 九 二 年( 一 九 八 〇 年 初 版 )、 『 拾 遺 采 葉 抄 』 は『 萬 葉 學 叢 刊 中 世 編 』 萬 葉

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集 叢 書 第 十 輯   佐 佐 木 信 綱 編   臨 川 書 店   一 九 七 二 年( 古 今 書 院   一 九 二八年) 。   15  『名所方角抄』は、早稲田大学図書館蔵   古典籍総合データベース参照 (「 御 浦 」 の「 よ ろ ぎ 」「 こ よ ろ ぎ 」 に つ い て の 説 明 部 分 )。 『 東 国 陣 道 記 』 の引用は『衆妙集』 (古典文庫第二七〇冊   土田将雄編   一九六九年)に 拠る。   16  『上田秋成全集』第二   杉浦書店   一九八七年   17  万葉集には「 相 サ ガ ム ヂ ノ 模治乃   余 ヨ ロ ギ ノ ハ マ ノ 呂伎能波麻乃   麻 マ ナ 奈 古 ゴ ナ ス 奈須   兒 コ ラ ハ カ ナ シ 良 波 可 奈 之 久 ク   於 オ モ ハ ル ル カ 毛 波 流 留 可 毛 モ 」( 巻 十 四・ 三 三 七 二、 『 萬 葉 集 注 釋   巻 第 十 四 』 澤 潟 久 孝   中 央 公 論 社   一 九 九 〇 年〔 一 九 六 五 年 初 版 〕) 、 風 俗 歌 に は 「 小 こ よ 餘 綾 ろぎ の   磯 いそ 立 た ちならし   磯 いそ ならし   菜 な 摘 つ む 少 めざし 女   濡 ぬ らすな   濡 ぬ らすな   沖 おき に 居 を れ   居 を れ   波 なみ や   濡 ぬ ろ 濡 ぬ ろ も   君 きみ が 食 め す べ き   食 め す べ き 菜 な を し 摘 つ み   摘 つ みてばや」 (「こよるぎ」 )、 「 玉 たま 垂 だ れの   小 をがめ 瓶 を 中 なか に 据 す ゑて   主 あるじ はも    や   魚 さか 求 なま き に   魚 さかなと 取 り に   こ ゆ る ぎ の   磯 いそ の 若 わか 藻 め   刈 か り 上 あ げ に 」 (「 玉 (たまだ) 垂 れ」 )とある。   18  『早歌全詞集』外村久江   外村南都子校注   三弥井書店   一九九三年。 以降の早歌の引用もこの書に拠る。   19  『月詣和歌集の校本とその基礎的研究』杉山重行   新典社   一九八七年   20  『和歌文学大系二一   山家集・聞書集・残集』西澤美仁   宇津木言行   久保田淳   明治書院   二〇〇三年   21  歌の引用は『図書寮叢刊   資賢集   遺塵和歌集』 (宮内庁書陵部   一九 七 七 年 )。 錺 武 彦「 高 階 宗 成 の 東 海 道 下 向 ─『 遺 塵 和 歌 集 』 の 長 歌 を め ぐって─」 『国文学研究』一五七   早稲田大学国文学会   二〇〇九年三月   22  『群書類従』第十一輯   塙保己一   続群書類従完成会   一九八七年(一 九三二年発行)   23  引用は『校訂延慶本平家物語』 。前者の例は第五巻   松尾葦江編   汲古 書 院   二 〇 〇 四 年。 後 者 の 例 は 第 十 一 巻   高 山 利 弘   久 保 勇   原 田 敦 史 編   汲古書院   二〇〇九年。   24  『新定源平盛衰記』水原一   新人物往来社。一~二例目(第三巻   一九 八九年) 、三例目(第四巻   一九九〇年) 、四例目(第六巻   一九九一年)   25  高橋貞一校注   講談社   二〇〇五年(一九七二年第一刷) 。高野本にも 「 小 コイソ 磯 大 磯 の 浦 々」 の 名 が み え る( 『 屋 代 本 高 野 本 対 照 平 家 物 語 三 』 麻 原 美子   春田宣   松尾葦江編   新典社   一九九三年) 。   26  西尾光一校注   岩波書店   一九七八年(一九七〇年第一刷)   27   『妙本寺本曾我物語』角川源義   角川書店   一九六九年   28   榎克朗校注   二〇一一年(一九七九年発行)   29  植 木 朝 子 編 訳   筑 摩 書 房   二 〇 一 四 年。 な お『 梁 塵 秘 抄   信 仰 と 愛 欲 の歌謡』 (秦恒平   日本放送出版協会   一九七八年)では「小磯は『恋ひ そ 』 で『 そ 』 は 禁 止 の 意 味 だ が、 こ こ で は 反 語 的 に 聴 こ え も し ま す 」 と している。   30  林巨樹   安藤千鶴子編   大修館書店   二〇一七年   31  古語辞典類の ほ か、参照した文法書は次の通り。浜田敦「中世の文法」 (『日本文法講座 3   文法史』明治書院   一九五七年) 。湯澤幸吉郎『文語 文 法 詳 説 』( 右 文 書 院   一 九 五 九 年 )。 龝 田 定 樹「 終 助 詞 」( 『 古 典 語 現 代 語助詞助動詞詳説』松村明編   學燈社   一九七六年〔一九六九年初版〕 )。 岩 井 良 雄『 日 本 語 法 史   鎌 倉 時 代 編 』( 笠 間 書 院   一 九 七 一 年 )。 原 栄 一 「古文における禁止の表現」 (『国文法講座』第三巻   山口明穂編   明治書 院   一九八七年) 。以降の諸氏に関する引用も、ここに挙げた書に拠る。   32  「 禁 止 表 現 形 式 の 変 遷 ─「 な ─ 」・ 「 な ─ そ 」・ 「 ─ な 」 に つ い て ─ 」『 国 文 学 研 究 』 第 四 八 号   早 稲 田 大 学 国 文 学 会   一 九 七 二 年 十 月。 以 降 の 細 川氏に関する引用もこの論文に拠る。   33  細 川 英 雄 氏 は「 禁 止 の 意 の 所 在 に 関 し て『 不 』 の 判 定 に 問 題 も 残 る 」 こ と に 触 れ て い る。 な お『 古 事 類 苑 』 が 引 用 す る『 大 鏡 』 か ら の「 さ ら さ ら ○ さらさらハさ なノ誤ナラン お ぼ し め し そ と せ い し 給 ふ に 」( 帝 王 部 二 十 三 皇 太 子 下 ) の場合も分類⑴が適用できる。この表現に対して志田延義氏は「 『さらさ ら』が『な』に代わっている感じもする」と述べる( 『梁塵秘抄評解〔改 訂版〕 』有精堂出版   一九七三年〔一九五四年発行〕 )。ただ、國史大系所 収『 大 鏡 』( 黑 板 勝 美 編   吉 川 弘 文 館   一 九 六 六 年 )「 師 尹 」 に は「 さ お ぼ し め す べ き そ 」、 ま た『 大 鏡 全 評 釈 』( 保 坂 弘 司   學 燈 社   一 九 七 九 年)や大系、新全集、集成などでは「さ 思 おぼ し 召 め すべきぞ」とある。

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成蹊國文 第五十一号 (2018)   34  中田祝夫編   勉誠社   一九七一年。 『室町時代言語の研究』に「極めて まれに左例の如く、 『ソ』のみで、禁止の意を表すことがある」として引 用されている(湯澤幸吉郎   風間書房   一九八一年) 。   35  細川氏は、 「─そ」の発生理由の一つとしてこれらの例を挙げる。前項 ⑴ 三 例 目 も こ れ に 含 ま れ る。 ま た『 今 昔 物 語 集 』 に お け る「 痛 ク ナ 不 は 早 や メ ソ、 〻 いたくなはやめ 〻 ソ 」( 巻 第 二 十 八 ノ 第 二 ) の 繰 り 返 し 部 分 を「 不 は 早 や メ ソ 」 と と っ て「 そ 」 の 単 独 用 法 の 例 と す る 説 が あ る が、 そ の 場 合 で も ⑵ が 適 用 される。   36  二度目の「散りそよ」は反復という性質上、 「な」がなくとも通じると 考えられたのであろう。 『梁塵秘抄』における禁止表現については、田中 司 郎 氏 の「 『 梁 塵 秘 抄 』・ 『 閑 吟 集 』・ 『 神 楽 歌 』・ 『 催 馬 楽 』 の 禁 止 表 現 ─ 「な…そ」 「…な」 「…そ」─」 (『宮崎女子短期大学紀要』第一九号   一九 九三年三月)参照。   37  『 校 訂 延 慶 本 平 家 物 語( 十 二 )』 松 尾 葦 江   清 水 由 美 子 編   汲 古 書 院   二〇〇八年   38  田 中 司 郎 氏 に よ れ ば こ の 表 現 は「 さ の み な さ け な ふ り す て そ 」 と す る 本もあるというが、 「 情 なさけ 」に「な」の音が入っているのでこの分類に含め た( 「『 御 伽 草 子 』 の 禁 止 表 現 ─「 な … そ 」「 … な 」 に つ い て ─ 」『 宮 崎 女 子短期大学紀要』第一八号   一九九二年三月) 。   39  糸賀きみ江校注   二〇〇五年(一九七九年発行)   40  佐伯梅友   小松英雄 ほ か編   三省堂   二〇〇六年(一九八〇年初版)   41  『とりかへばや物語(二)全訳注』桑原博史   講談社   一九九六年(一 九 七 八 年 第 一 刷 )。 な お 新 大 系 や 新 全 集 で は「 つ ら さ 」 の 部 分 を「 つ ら ら ゝ 」とする。   42  『 角 川 新 版 古 語 辞 典 』( 久 松 潜 一   佐 藤 謙 三 編   角 川 書 店   一 九 八 九 年 〔 一 九 五 八 年 初 版 〕) に よ る 引 用 で は 五 句 目「 身 を ば 忘 れ そ 」 と な っ て お り、 原 栄 一 氏 前 掲 論 文 で も こ の 例 が 引 用 さ れ る。 志 田 氏 前 掲 書( 33) に おいても「恋ひそ」が禁止の意を示すことの説明として引用される。   43  松村明   山口明穂   和田利政   二〇一五年。その他、 「袖ぬれて別れは すとも唐衣ゆくとは言ひそきたりとをみむ」 (後撰和歌集)として湯澤氏 前掲書に引用される表現は、新大系では四句目「ゆくとな 言 い ひそ」 (巻一 九・離別羇旅・一三二八) 、『宗于集』 (曽布川知子編   静岡大学教養部国 文学研究室   一九八四年)でも「ないひそ」の形をとる。   44  『新定源平盛衰記』第三巻(前掲書 24)。『新訂源平盛衰記』第貳巻   大 町 桂 月   至 誠 堂 書 店   一 九 一 一 年。 『 源 平 盛 衰 記( 四 )』 美 濃 部 重 克   松 尾葦江校注   三弥井書店   一九九四年   45  「禁止表現法史」 (『国語国文』第五巻第十號   京都帝國大學國文學會編   一九三五年九月) 。他に、氏の論考について言及する細川氏前掲論文や、 湯澤氏前掲書でも引用される。   46  講談社   一九五二年   47  『 新 定 源 平 盛 衰 記 』 第 二 巻   一 九 八 八 年。 『 新 訂 源 平 盛 衰 記 』 第 壹 巻   一九一三年(一九一一年発行) 。『源平盛衰記(二) 』松尾葦江校注   一九 九三年   48  『 藤 原 定 家 全 歌 集( 上 )』 久 保 田 淳 校 訂・ 訳   筑 摩 書 房   二 〇 一 七 年 ( 河 出 書 房 新 社   一 九 八 五 年 )。 以 降 の『 拾 遺 愚 草 』 の 引 用 も こ の 書 に 拠 る。   49  『群書類従』第十九輯   塙保己一   続群書類従完成会   平文社   一九八 七年(一九三二年発行)   50  「中世海上交易品に見る色材─アジア海域を取り巻く国々と赤の色につ いて─」 『紀要』第五二集   郡山女子大学   二〇一六年三月   51  相賀徹夫   小学館   一九八八年(一九八六年初版第一刷)   52  従 来 指 摘 さ れ て き た 胡 竹 と 名 笛 説 話 と の 関 連 性 に つ い て は、 植 木 朝 子 氏 に よ る 論 考 が あ る( 「『 古 今 目 録 抄 』 料 紙 今 様「 管 弦 」 の 歌 小 考 ─ 今 様 の一側面をめぐって─」 『國學院雑誌』第一一〇巻第十一号   二〇〇九年、 「『梁塵秘抄』に見る流行と聞き手への意識~文学的観点から~」 『藝能史 研究』第二一〇号   藝能史研究會   二〇一五年七月) 。   53  『続日本歌謡集成   巻一   中古篇』新間進一編   東京堂出版   一九八九 年(一九六四年初版)   54  『日本歌学大系   第壹巻』佐佐木信綱   風間書房   一九九一年(一九五 八年)

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  55  『更級日記   全訳注』関根慶子   講談社   二〇一五年   56  『更級日記全注釈』角川学芸出版   二〇一五年   57  櫻 井 衣 里 子「 真 名 本『 曽 我 物 語 』 研 究 ─ 大 磯 の「 虎 」 発 生 に 関 す る 一 考 察 ─ 」( 『 國 文 』 第 九 五 号   お 茶 の 水 女 子 大 学 国 語 国 文 学 会   二 〇 〇 一 年 八 月 )。 『 走 湯 山 縁 起 』( 『 群 書 類 従 』 第 二 輯 )。 『 続 々 日 本 絵 巻 大 成   箱 根権現縁起   誉田宗庿縁起』小松茂美編   中央公論社   一九九五年 (しんむら・えりこ   本学非常勤講師)

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