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美術教育の理念と生涯学習

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Academic year: 2021

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(1)美術教育の理念と生涯学習. 教科・領域教育専攻 芸術系コース. M95702K 石田 陽介.

(2) 目 次. はじめに・……………………………・……・…………・・……・………1. 第1章 美術教育の理念と生涯学習の理念…………………………4 策1節 美術教育の理念…………・・…. ・・・・… 4. 一 一 一 一 一 一 i 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一. 1.なぜいま美術教育の理念なのか…………. ・一・一・一一一・一一・一… 4. 2.井島勉を読む……・…………・…・…………. ・・・….・.鱒9・…。・・●…t. 3.『美術教育の理念』より………・・………・. ・。・・t・・・…押・。・・。・・…。. 4.『美術教育の理念』が教えること………. .”.””.”一一一一一・一. 〔1>「美術教育は主観的事実」と捉えると…. ・・り・・・…. (21「美は客観的属性」と捉えると… …・…・. 第2節 生涯学習の理念…………・. T. U. P4. @の・14. ..”...”t一・. P6. “.””””.…・・・・・・・…一・一・・・・・…. 1.なぜいま生涯学習なのか……………・. 一・…一・一・一・一・一・…・一・・. Q0. 2.今日的生涯教育論の成立………・……. 一一一・・一…一・一一・・一・一・一. Q2. 3.ラングランにみる生涯教育とは……・. 一一一一・一一一一・一・・一一・一. Q3. 4.ラングラン以降の生涯教育…………・. 一・一・…. (1}ジュサップ……………・…・……………. ・・…. @一・… 一・・・・… 一… 26. @一・一・・・・・… 一26. (2)ハッテンス……………………………・・. ・…一・一・・一…一・. (3}フォール報告書・………………・………. ・・師…. (4}リカレソト教育・…・…………・…・・……. ”..“””.・・b一・一. 5.生涯教育とはイ可か…・……。…・………・. Q0. Q6. @。・・・… 鱒・・。27. Q8. 一・一・一・一・・一一・一・一一・・…. 第3節 生涯学習における美術教育の意味と役割・. R0. 一一・一・・一・・・…. 一一. R1. 2.アンケート調査より・………・…………………………・・…・. ・一一. R5. 3.生涯学習に対する美術教育の役割……………・…・………. 一一. R9. 1.美術教育の理念と生涯学習の理念より・………………・… (1>ラングランの「生涯教育の特性一一・eejより…………31 (2)「フォール報告書」より……・…・………・・……・…∴・33. R1.

(3) 第2章 美術教育と生涯学習の接点∼欄放講劉に取り組んで∼………41 第1節 「開放講座」とは……………… 1.なぜ「開放講座」なのか………………・……・ 2.「高等学校開放講座」とは…………・・………. 3京都府における開放講座………………・……. 第:2節. 「菟道高校開放講座」の実践…. 1.菟道高校開放講座 実施計画……・・……・・…. 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一. 一 一 “ 一 一 t t i − t 一 一 一 一. …一 S1. 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一. 鱒… S2. 一一 一 一 t 一 一 一 t 一 一 一 i 一 一. 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一. 一 一 一 一 一 一 一 一 t t i 一 一 一 一. G二三の性格……・…・………………・…・……・・…・. ・一一・一. (2}講座の形態・………………・……・…・………・…・・. 騨一6…. (3購座の内容………・………・・……・………………. ・一一一・. 2.二道高校開放講座 実践記録………………・. S 1.. S4. ・・…. − t 一 一 一 一 一 一 一 一 一. 一・…・・. S6. S6. 一…. @50 T. 1. t − t 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一. 一一”一一. T2. ・第二期………………・………・・………・………・・. 陰い・●・晒阜. T4. ・鱒…. ・・一…一・. S6. ・第一期………………・・………・………・………… ・第三期………………・・卿……・一………・・’…一・. 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一. ・・・…. @52. @鱒57. 3.菟道高校開放講座 第…回アンケートより・. i一 一 . 一 一 一 . . . 一 . 一 一. ・一・一. T9. 4菟道高校開放講座 第二回アンケートより・. 一 一 . “ . . . . . . . 一 .. ・・一一. U3. 5.三道高校開放講座を終えて………………・…. の ‘ o 鴫 ● ● 噛 ■ 麟 亀覇 鳳 ● 輪. ・・一一. U6. 第3章 生涯学習と美術教育……・…………・………………………・70 第1節 美術教育が生涯学習から学ぶこと…・……………. ・鱒・。・・。. V0. L蒐道高校開放講座におけるアンケート調査より……………70 2.アンケートに見る美術教育像………・・……・…………・・……・76. 3.「美術好き」が教えてくれること………・………・・…………77. 第2節生涯学習につなぐ美術教育………・……………… 一一・… W0 1.自律的学習能力の必要性一……・……・…・………・………・・…80. 2.スケガーの8原則より……・s…・…・…・一一…………・…一82. 3.美術教育を生涯学習につなぐとは……一…一・……………88. おわりに・………………・・……・・…………・………・………・・………91. 主な参考文献………………・・…………・…………・……………’●…93. 参考資料.

(4) はじめに 現在、教育界において「美術」(注1>は大変な危機に瀕している。カリキュラム. の編成の度に単位は減らされ、高等学校の「芸術」(注2)においては、3単位で終. 了というところが増えている。表面上は3単位でも実質はそれ以下ということさ えある。. では、何故その様な扱いがなされるのか。 様々な要因が考えられるであろうが、大きな一.”aつの理由に、われわれ「美術」. の教師自身が、「美術」をほんとうに教育に必要なものと捉えて取り組んできた か、言い換えれば、理念を持って日々の教育実践に取り組んできたか、というこ とがあげられる。確かに、美術は教えてきたであろう。しかし、それは「美術」、. つまり「美術を通した教育」になっていたのだろうか。周囲からの「美術」に対 する見方は、概ね「息抜きの時間」 「趣味の時間」というようなものであろう。 その様なものなら授業でやる必要はないということになるのは当然の結果である。. では、学校において必要な教育とはいったい何なのか。受験に必要なものだか. ら「勉強」をするのか。答えはNOである。一個の人間を形成するために教育と いうものが必要なのであり、それを構成する要素として必要だからこそ、それぞ れの教科の存在意義があるのである。つまり、人として生きていく力を培うのが 学校教育の使命なのである。卒業してからも、いや、卒業してからこそ、その力 を発揮するものが、本来学校教育に求められるべきものなのだ。教育の原点に立 ち返り、生涯に通じる教育とは何かを見つめなおすことが、今こそ必要なときで ある。. 本研究は、教育の原点に立ち返る鍵を、生涯学習の現実、実際の姿の中に探ろ うとするものである。そして、そこには美術教育のあるべき姿も、自ずと見えて くるであろう。. ’. ところで、生涯学習と美術という言葉を並べると、「美術など社会教育に任せ、. 学校でやらなくてよい。」と取られるかもしれない。しかし、これは、美術教育 と、趣味としての美術や、専門家の仕事としての美術とが混同されているために 起こることである。あくまで美術教育の視点から、生涯にわたる人間の生きる力 に美術がどのような働きを持つかを検証し、いきる力を育てる「美術」のあり方 を問うものである。. 一1一.

(5) さて、現在、特に教育界において用いられている「生涯学習」という言葉は、 1965年のユネスコ第三回成人教育推進国際委員会において提唱された「生涯教育」. にその端を発している。以来、わが国においても各種審議会での論議を経て、. 1990年いわゆる「生涯学習振興法」が施行されるに至った。これを受け、国や各 自治体においても生涯学習の振興のための様々な取り組みがなされているととも に、それらが「新しい学力観」に色濃く反映されていることは周知のとおりであ る。. しかし今日では、一口に生涯学習といっても、その考え方や捉え方は一様では なくなってきており、またその内容も、多種多様広範囲にわたっている。生涯学 習についての先行研究も、現在では、その量、質ともに充実しており、ここでは 琵涯学習そのものを研究の申心に据えるつもりはない。私自身の立場から、つま り、私自身が京都府の高等学校において教壇に立つ身として、学校教育における 美術、つまり美術教育と生涯学習の「接点」を基にこの論を進めていきたいと考 えている。. その「接点」として、現在、生涯学習の一一環として、多くの学校で取り組まれ. ている「開放講座」に着目した。京都府で行われている開放講座は、成人一般を 対象に、府立学校における教職員の専門知識と教育施設を活用し、府民の学習需 要にこたえることをその趣旨としている。これを、学校の側から見ると、次のよ うな意味を持つといえる。. そのag一一の意味は、社会に開かれた学校を目指すことといえる。このことは、 単に外部との交流を図るにとどまらず、教師が社会との接点を阿りということで、. 教育を学校という閉ざされた空間から解放し、社会に通じる教育を模索すること でもある。. 第二の意味としては、生涯にわたって学び続ける力を肌で感じるということで ある。 「開放講座」の受講者Xつまり成入は、子どもたちの未来の姿である。子 どもたちの将来像を目の当たりにすることにより、子どもたちの未来のために、 いま学校教育た何が必要なのかを知ることとなるであろう。. これらの観点を念頭に置き、生涯学習という観点から、普通教育における「美 術」の存在意義を、あらためて問い直していきたい。. 一2一.

(6) (注1)「美術」は、小学校における図画工作科、中学校における美術科、および. 高等学校における芸術科の中の選択科目としての美術・工芸を合わせた、普通教 育における美術教育の総称という意味で用いている。したがって、高等学校の美 術科や高等教育における美術教育は含まれないものである。括弧のないものは、 一般的な意味での美術を指す。なお、以下本論文中のものについても同様である。. (注2)「芸術」は、高等学校の芸術科の意味で用いている。括弧のないものは、 …般的な意味での芸術を指す。なお、以下本論文中のものについても同様である。. 一3一.

(7) 第1章 美術教育の理念と生涯学習の理念. 第1節 美術教育の理念 しなぜいま美術教育の理念なのか 21世紀を目前に控えた現在、美術教育も日々その性質を変えているし、また、 時代のニーズに応え、変わらなければならない側面を有していることも事実であ る。しかし、美術教育がなしうること、また、美術教育だからできることを、現 在のような変化の著しい時代だからこそ、改めて振り返る必要がある。美術教育 は時代とともに変わり、その理念もその時代の要請に応える形で変遷してきた。. これは美術教育に限らず、教育そのものも、そのように歴史の中で振り画されて きた事実がある。時にそれは大きな悲劇につながった。そのような事実を忘れる ことなく、人間存在にとって教育とは何なのか、そして入間存在にとっての美術 教育とは何なのかを見つめ直し、いつの時代にも通じる普遍的な美術教育の理念 を確立しておかなければならない。. このことは、なにも目解しいことでもなく、すでに多くの先達が行ってきたと ころである。そして、こころある美術教育家はその実践に努めてきた。第:二次世. 界大戦の敗戦を機に、人間教育のための美術教育を唱えてすでに50年の歳月が流 れようとしている。しかし、美術教育にとっての現状は、その理想とするところ がらは、はなはだ遠いところに置:かれていると言わざるをえない。. では、何故そのような事実が厳然として存在するのか。書うまでもなくその一 つの理由は現代社会の抱える病理現象、つまり、受験体制の弊害である。受験に 必要のない科目である限りこの事実は変えようもない。学歴社会に懊を打ち込ま ない限りはこれを解消することはできないであろう。もっとも、この懊として生 涯学習社会の理念というものが取り上げられるようになったことも銘干しておか なければならないが、これについては次節に委ねる。ここでは、われわれ美衛教 育に携わる者の立場として、われわれ自身の問題、つまり、「美術」の教師がほ んとうに美術教育の理念を持って教育に従事していたのか、またそもそも美術教 育の理念とはどのようなものであるべきなのかを問い直してみたい。. 一4一.

(8) 2.井島勉を読む. 美術教育の理念ということを語るとき、美学者井島勉は大きな示唆をわれわれ に与えてくれる。氏は文学博士で、京都大学在職中は文学部教授として教鞭をとっ. た。教育学者ではないが、美学の立場から本質的に美術教育を見つめ、当時の美 術教育界に多大なる影響を与えた。その代表的な著書である『美術教育の理念』 (光生館196g年)をひもとき、氏の考えを基軸に美術教育の理念について整理を. してみたい。本書の初版は1969年出版であるが、その基となる論考は主に昭和 20年代から30年代のものである。しかし、その中で語られている状況は現在の それとほとんど変わりがない。戦後、美術教育が抱えてきた諸問題はその本質に おいて大きな変化がなく、ある意味においては一貫していると言うことができる のであろう。そのことはまた、氏の理念が今日にも通ずることの証にもなり得る。. 本書における氏の基本姿勢は、「まえがき」に著されており、以下のように要 約することができる。. 美術教育の正道は美術の本質に基づいて樹立されねばならない。正しい芸 術活動が、たんなる知的活動とすりかえられたり、まちがった教育的圧力に 押しゆがめられたり、社会的偏見に屈したりすると、美術教育はたちどころ にその独特の生命を喪失してしまう。美術の問題は、まず美術自身をして語 らしめねばならぬが、美術教育の問題といえどもその例外ではない。この意 味においては、美園教育に関する美学からの発言も、:重大な意義を担うべき である。. われわれ美術教育の現場に立つ者は、概して制作を中心に学んできた者が多い。. 各自の専門にしてきた分野の技術についてはそれぞれに秀でており、ある意味で は・一一Ptの「技術屋」といえる。ものをつくることを子どもたちに「教える」こと. には、あまり苦労を感じないであろうが、「育てる」ということについてはどう であろうか。確固たる信念を持って取り組んでいるといえるのであろうか。. われわれは、ものをつくることを通じて子どもたちに何を与え、子どもたちの 何を伸ばすのが。本書は美学の立場から、その「何」にあたる部分、つまり、美 術教育の本質へと、われわれを導いてくれるものである。. 一5一.

(9) 3.『美術教育の理念』 より. ここでは、『美衛教育の理創の序章、および、原理篇について、本書の構成 にそって、その内容を要約し、氏の説くところの「美術教育の理念」について概 観していく。論旨を曲解せぬよう注意したが、言葉不足については否めないとこ ろである。. なお、これよりの章立て、および営門等(太字にて表記)については本書のも のである。. 序章 美術教育に関する外と内(本論》. この章では、本書が轡かれた当時の芸術教育に「暗雲が低迷している」要因に ついて述べられているが、その内容について、次の三点をあげている。 まず一点圏は、外部的要因の第一一一一一として、芸術教育の本質に関する認識不足を. 指摘している。つまり、「人間形成としての芸術教育」という言葉に唱われてい る「人間」像とはどのようなものであり、そして、芸術教育がいかにしてその形 成に関わり得るかということに関する認識が浅かったというのである。. 新しい社会が求める人間像とは、平和と自由を念願する人類の新しい世界観・ 入間観に立脚する自由入間である。そのような人間の形成のためには、人間の自 宙と創造精神を開発する芸術教育が、中心的・基礎的な位置に置かれなければな らないのである。. 二点臼としては、外部的事情の第二として、道徳教育・科学技術教育の現代的 性格と課題、および、それらとの関連における芸術教育の役割について、検討が なされているかということを指摘している。. 新しい冒本が目指すものは、深い人開愛と人聞的自覚に根ざした道徳であり、 正確な合理的知識と創造的意想に支えられた科学技術でなければならない。これ らはともに、人間性を地盤iとする逞しい創造精神が不可欠である。したがって、. これらの振興のためには、並行して芸術教育の振興も図られなければならないの である。. 三点目は、内部的問題として、美術教育者自身の美術教育に対する原理的理解 の不足を指摘している。. 芸術的現象は、何らかの主観性との関連を脱しきれないものであるために、芸 術活動において尊ばれるべき独創性(普遍的)と主観性(個人的)の混同が起こ. 一6一.

(10) りやすい。そのことが美術教育の原理に主観的独善的解釈をもたらすことになる。 しかし、美術教育の原理とは、普遍的な妥当性を有するものでなければならない。. 芸術は特別な人だけのものではなく、すべての人間のもの、芸術教育はあらゆる 人間のためのものでなければならないのである。. では、なぜ芸術や芸術教育にこのような無理解が生じるのであろうか。そのこ とについて、以下の点を指摘している。. 古来より、美的、芸術的教養は、特定の境遇や才能や関心だけに与えられた特 権的・趣味的・娯楽的教養と考えられてきた。また、芸術家は特別な人種と見な されてきたし、今なお、そう見なされていることが多い。そのような風潮が、芸 術教育の、内に独善を、外に無理解を招いているというのである。芸術の真義に 立脚すれば、このことは芸術教育ばかりでなく、新しい人間像にとっても、新し い人類社会にとってもはなはだ憂慮すべき事柄なのである。. このような当時の暗雲は本質的に今日のそれと変わりないばかりか、ますます 大きくなっているといわざるをえない。. 原理編. 第竃章芸術敦育の地盤と目標 この章では、まず、美とはそもそも何なのか、また、芸術とはどういうことを 意味するのかという、芸術教育の地盤が述べられている。次に、それらを受け、. その地盤に立って何を求めるのかということ、つまり芸術教育の目標について述 べられている。美術教育の理念の中核となる部分であるので、詳しく見ていくこ とにする。. 1 美について そもそも美とは、対象の客観的な属性や、個人の域を脱しないような主観的な 事実ではない。ここでは、美そのものの実質について述べるために、視覚に訴え る美が独自に有する普遍的原理を「視覚性」という言葉を用いて説明を行ってい る。. 形式的な側面でいえば、「視覚性」とは「見ること」であるに過ぎない。しか し、この「見ること」を「視覚性」と呼ぶには、知的判断を完結させるような知 的態度の見方ではなく、視覚表象と主観の関係に基づいて、美的判断を形成させ るような美的態度が必要となる。しかし、美はあくまでも、見なければ捉えられ. 一7一.

(11) ないものなのである。. 「視覚性」の内容的側面からは、まず、美の成立する場として美的直観という ことについて考察している。直観とは、人間と環境との合一の一つであるが、概 念や意志に媒介された間接的合一(知識的生活・行為的生活など)とは異なり、. 何ものにも媒介されない直接的な合一のことを意味する。しかし美的直観は、あ る種の普遍性を持ち、見ることのできる外界を前提するという点で、まったく個 人的な感覚的直観や、ひたすら内部に神を求める宗教的直観などとは区別された ものである。このような美的直:観に生きるとき、人間は一切の客観的拘束や、主. 観的な恣意や本能などから解き放たれ、真に自由な人間となることができるので ある。. 美の成立とは、このような美的直観の中で、真に自由な解放された生が成立す ることなのである。「視覚性」とは、このような生の一つの方式ということがで きるのである。ここにいう生とは、生命と生活と人生をつらぬく人間の根元的な 実存性のことである。つまり、われわれは美意識の内部に、このような実存性に めぐりあうことができるのである。. 美の普遍性については、次のように述べられている。美の与える愉しさや感動 は、人間が生きていることのよろこびや感動である。pa一一の対象において各人が. 見出す美は同一ではないが、生きている入間は生きているという共通の普遍的自 覚をそなえている。それゆえに、個性的たらざるをえない美が普遍的たり得るの である。. 2 芸術について 芸術とは、それぞれの美が持つ表象性の実現であり、造形芸術、すなわち美術 の場合は、「視覚性」を実現(客体化)することである。「視覚性」の原理から 芸術(美術)には、次のようなことがいえる。. まず、芸術は「見られるものJへの方向、すなわち、何らかのリアリズム的動 向を含んでいる。しかし、芸術において尊:重されるべきリアリティは、客観的リ. アリティではなく、芸術的に表現していくほかもなき主体的な生へのリアリティ である。目的実現(技術的達成)より、自己表現の過程が重要なのである。. また、芸術の創造性は、「視覚性」において発揮される。生の自覚とは内面的 な作用ではなく、外において自覚される内である。内に生を自覚することと、外. 一8一.

(12) に色と形を形成すること、両者は同一のものである。そして、芸術作品は、「視 覚性」の実現であり、生の視覚的なる表現である。つまり、それは偶然的に生成 されたものではなく、必然的構成なのである。その必然性の影が「作風」といえ よう。生は自然的、社会的、歴史的な環境への関連にほかならず、それゆえ.に、 個々の作風は歴史や社会の作風の一一…4面を持ち、一一nJ方では自然美の個性的原理(デ. フォルメ)を見せるのである。 芸術の独創性もまた、「視覚性」の独創性、つまり生の独創性に基づいている。. 独創的な生も「視覚性」も、何ものかに捕らわれたものであってはならない。そ れとは逆に、恣意や独善は、一一種の捕らわれた姿ということができよう。何もの にも捕らわれない、自1,llな自己の生を回復すればするほど、より高く独創的とな りうる。それと同時に、純粋な「視覚性」に徹しようとする他の多くの人’々を、. その中に生かすこともできるのである。つまり、芸術の独創性は、同時にその普 遍性でもあらねばならない。. 3 芸術教育について そもそも、芸術性と教:早事は二律背反性を有している。芸術教育には、他の教 育分野と同じ方法が適用できない一一・・一・一種の特殊性があるのだ。したがって、芸術の. 特質に固有な、独自の教育方法が考えられなければならない。前出の美と芸術の 要点は、芸術教育の地盤であったが、同時にその目標でもある。つまり、芸術教 育は、解放された生、すなわち自由な人間性が有する純粋な「視覚性」を地盤と し、「視覚性」における解放された生、すなわち自由な入間性を開発することを もって目標とするべきものといえる。あらかじめ想定された成果に向かって誘導 したり強制することは芸術教育の真義を誤るものである。. 4 芸術教育の意義. ’. 芸術は、知情意未分の立場における人間性そのものの直接的な形成的自覚であ る。つまり、知と情と意とがそこから由来するような根源的で全人間的な生の、 一.+一. ツの実現方式といえる。したがって、芸術(情操)は知識(英知)と道徳(意. 志〉の対立する他の領域というばかりでなく、むしろ前段階的な位置を占めるも のである。芸術教育は特殊なものではなく、真に人間的なる人間の開発と養成を 意図し、自由な人間的自覚の表現を目標とするものである。したがって、美育は. 一9一.

(13) 知育、徳育に先んじた前段階を演じなければならない。. 一方、芸術表現には、感性・知性・徳性などと分化以前の人問性の全体が必要 である。これは、逆にいえば、芸術教育を通じて真の人丁丁を育成することもで きるということである。正しい芸術教育の目標は人間そのものの開発にあるとい える。. 芸術は本質的に、現実的な人間の生を地盤として成立するものである。このこ とは、科学・宗教・道徳などの人間生活の諸分野との内面的な有機的関連の中に、. 芸術が形作られるということを意味する。つまり、芸術によって代表される自由 な人問平生が、入商d)陛下や入商4)道徳を営むことができるのである。このよう. に、芸術と現実的人間生活の関係においても、芸術と芸術教育の地位は重大なの である。. このように、芸術教育の重要性は、芸術本来の意味内容によって確認されるも のであって、それに結びつく外部的効用性によって評価決定されるべきものでは ない。. 第2章 美術教育の諸問題 第1章(門衛教育の地盤と目標)で見てきたように、芸術教育は自由な人閲性その. ものを地盤とし、同時にこの地盤の育成が目標となるものであった。この第2章 においては、そのことを達成するために、美術教育者には、どのような資質が必 要なのか、また、指導・評価に際してはどのようなことが求められなければなら ないかについて述べられている。ここで述べられていることについては、後に詳 しく検討されるべき部分を多く含んでいるので、特に要点のみをあげるにとどめ る。. 1 美術教育者の資格について. a 美学的見識 美術教育者の仕事は、一定公式を適用しにくい「芸衛」に関するものでありな がら、目的意識的に何らかの基準を予想する「教育」に関する事柄である。した がって、彼らは客観的な美学的見識を有していなければならない。学習者の実態 せんめい. や教案、教材など、個々の現象の中にある美学的意味を關明することが重要であ る。心理学・教育学・社会学などと混同したり、知能教育の組織の申に美術を組. 一10一.

(14) み込むようなことは、美術本来の意味と使命を損なうことになる。ただし、それ らとの有機的な関係は、美術教育の独善に陥らないようにするという意味におい ては充分留意しておかなければならない。. b 芸術的感覚 芸術上のあらゆる事実は、直観的に杷捉され、つくりだされるものである。子 どもたちの芸術活動を教育するためにも、芸講教育に関する美学的考究の正確さ のためにも、正しい芸術感覚(直:観的把捉)が美術教育者には必要である。芸術. 感覚とは、入間の生の自覚に帰着するものである。したがって、特殊な才能など ではなく、すべての人々に期待することができるものである。人間は誰しも、一 ロナばく. 切の繋縛を絶って純粋な「視覚性」の立場に立つ限り、それぞれの芸術的感覚を 開発することができるのである。. c 教育される者の生の理解 芸術の源は、各人の生に発するものである。子どもたちはそれぞれの段階にお いて一個の完結した人間として生きている。そこにこそ、彼らの独自な芸術が営 まれる地盤が存在するのである。したがって、美術教育者は、彼らの生の真実を 熟知しておかなければならない。美術教育の究極目標は、人間形成にある。その ためには、直接的に子どもたちの生に触れ、彼らを観察し、そして彼らの生を理 解することに努めなければならない。子どもたちと共に生きる愛情を最も要求さ れるのが美術教育である。. 2 制作指導について まず、指導者自身が技術指導と制作指導を明確に区別し、技術指導によって子 どもたちの自由な芸術性の発現を妨げられないように、その時期や方法に充分注 :意しなければならない。. 幼年期・小学校低学年は、自他や知と情、言語と造形などの区別の最も未分化 な段階である。これらの子どもたちは、それぞれに主観的な想念を託して造形す る。したがって、彼らに自他の区別や対象の意識を強要したり、造形上の法則な どで彼らの絵を律するようなことは、大きな過ちといえる。. 少年期を進むにつれ、造形性と言語性が別れ、色彩や形態の意識も分化しはじ める。しかしこの頃は、意識しはじめた自他の分化が十分に宥和しないまま画面 に現れる時期である。しかし、これも彼らにとっての真実として、是認されなけ. 一11一.

(15) ればならない。. 3 鑑賞指導について 作品に関する知識の指導は知的鑑賞指導でしかない。美術教育の本道は、直接 的な美的意識の開発に寄与しうる、美的鑑賞指導でなければならない。. 自然の美を見出すこと、芸術作品を制作すること、それを鑑賞すること。これ ら全ては、座の自覚を内容とする創造的な「視覚性」を共通の原理としている。. 鑑賞は、知識的な認識作用や対象を映しとる受容作用ではなく、美的直観がそう であったように、一つの自発的な創造作用であり、「追制作」なのである。つま り、 「見る」ことの内に沈潜しながら自らの生を自覚することである。. 鑑賞指導とは、子どもたちの生の実態に即して、彼らが見出し得ると考えられ る美について、適切な指導・助言を行うことである。したがって、低学年の子ど もに、自他の文化や時代の距離を意識させることは、知識性が芸術性を歪めるこ とになる。高学年では知的解釈の要求がおこってくるが、やはりここでも直観的 な鑑賞を地盤とし、作品の美を中核としたものでなければならない。中学校にお いては、美術史的観点が増大するであろうが、美衛そのものの歴史性に注目する ことから幽発するものでなければならない。. 4 評価について 芸術的価値は、視覚性の内に見開かれていく生の自覚に照らして評価されるも のである。生の自覚とは、一面では二等の自覚であるが、同時に普遍的な人問下 生の自覚である。それゆえに、評価も評価の規準も、個人的であると同時に普遍 的となりえるのである。. 子どもたちの絵の評価は、個々の作品を指導者が直接に鑑賞し、その美的鑑賞 の中に照らし出されるもの、すなわち、子どもたちがいかに自由に、いかに豊富 に、それぞれの生を表現的に自覚したかということを規準として、評価されるほ かに途はないものである。作品とは制作の全過程の固定した姿である。したがっ て、評価の目標となるものは、「作られたもの(作品)」より「作ること(制作)」. でなければならない。あえてこのような困難に堪えるのでなければ、美術教育者 の資格はないといえる。. 制作指導も、鑑賞指導も、評価も、その指針は、教えられる者の生の実態に規. 一12一.

(16) 準を見出すこと以外にない。それが、一切の強制や抑圧を排して、専ら自由な創 造性を発展せしめる途でもある。美術教育の要諦はあらゆる種類の抑圧から解放 して自由な生に帰すことである。決してfi標や規則を掲げてこれに向かわせるこ とではない。. 一13一.

(17) 4.『美術教育の理創が教えること 前項において井島氏の「美術教育の理念」について、その全体像を概観したわ けであるが、当時の美術教育の危機の要因は、外の無理解、内の独善ということ になるであろう。このことは、つまるところ、美の本質に対する正しい理解がな されていないことに起因する。これは、今日の美術教育界の現状においても、本 質的には何ら変わることはない。外の無理解は、内の独善の帰結といえるので、. ここでは、「美術」の教師自身のほうに目を向け、氏の指摘された問題点を基に 美術教育の現状について整理をしてみる。 美の本質について誤った見方としては、次の二つが考えられる。一としては、. 美を主観的事実と捉える見方、二としては、美を客観的な属性として捉える見方 である。この二つについて、それぞれ考察を加えてみたい。. (1)「美は主観的事実」と捉えると…. 美を主観的事実と捉えると、美の判断は、各個人がそれぞれの美意識において するべきもので、他人の干渉などを受けるものではないということになる。この ことを是認するならば、美や芸術は教えることはできないものということになる。 個人の美意識や芸術観は、そのままの形で他の個人に移し代えることはできない。. この意味においては、教えることができないものであるということは可能である が、美の本質的理解に立てば、これは大きな誤ηを有している。 では、このような美の捉え方が、「美術」の教師にどのような態度を生じさせ、. そのことが美術教育に対してどのような誤解を生じさせる結果となっているのだ ろうか。以下そのことについて見ていこう。. まず、この「美を主観的事実と捉える」ということは、教師自身に、主観に由 来する芸術的信念と、自身の個人的な「好み」との履き違えを起させるであろう。 制作や鑑賞、評価においても自分の価値:基準で行われることになる。いわゆる、 かにく 独善的な態度に陥り、他者からの干渉を許さない、頑なな態度になる。人間関係. が閉鎖的になり、孤立した状態を生むことにもつながろう。芸町家は、孤高なる ものであるといわれる。本来、「美術」の教師は、芸術的感覚を要するという意 味で、芸術家的な側面を持ち合わせている(このことは、専門家、あるいは作家 としての芸術家であるということを意味するものではない〉。したがって、孤高 なることに憧憬の念を抱き、そうありたいと願う傾向もないとはいえないであろ. 一ll. tl一.

(18) う。しかし、孤高なることと、孤立とはまったく異なったものである。孤立とは、. 自分の殻に閉じこもることであり、それは外の無理解を招くことにしかつながら ない。「美術」の教師は芸術家である前に、教育者なのであるから、本来孤立と はなじまないものなのである。もっとも、芸術が美学的な妥当性を有していたよ うに、美術教育にも普遍性は存在する。したがって、その意味でも美術教育者は 孤立と無縁な存在なのである。. この態度は、結果として、芸術は特別な人の、特別な能力による、特別な表現 で、特別な人にしか理解できないものという誤解を生じさせることになる。言い 換えると、芸術には持って生まれた才能と、普通の人には習得不可能な技術が必 要であり、生活とはかけ離れた存在で、ごく限られた一部の人のためだけのもの、. ということになるのである。時代を変えうるような「特別な芸術」には、特別な 努力を要したであろう。しかし、それをもって「芸術は特別」なものであるとい うことにはならないのである。美の原理からいえば、芸術はすべての人間のもの であり、すべての人間のための芸術であった。だからこそ美術教育が存在するの である。. しかしながら、このような誤解を正すことなく、むしろこれを良しとしている 教師もいないわけではない。残念ながら、このような内の一部の無理解が、あた かも美術教育全体がそうであるかのごとく、外に無理解を生んでいるのである。. 彼らは、授業において放任を良しとするか、もしくは自分の(間違った)信念を 押しつけるような態度をとることであろう。芸術は精神の解放を原理としたこと からもわかるように、押しつけの授業はまったく論外といわざるをえない。…方、. 放任も精神の解放とはまったく意を異にするものである。美を感じとるために、. …切の束縛を絶ち、猛の表出に立ちはだかる障害を排除することが、ここでいう 解放ということである。芸術の名の下に、すべてが許されるわけでは決してない。. また、…方でこの「特別な芸術」という考え方は、子どもたちの中にいわゆる 豆画伯を、消極的には待つ姿勢をとらせるであろうし、積極的な姿としては豆画 伯の養成につながるであろう。放任の中においても、偶発的に大人の造形感覚や 美意識に通じる作品が現れることがある。それをあたかも天才のなせる業と捉え、. もてはやすようなことは厳に慎まなければならない。逆に大人の芸術観を子ども に押しつけ、大人びた作品を求める姿勢も同様に慎まなければならない。子ども には、子どもの生の実態に即した子どもの芸術が求められなければならないので. 一1 5一.

(19) ある。このことは、展覧会やコンクールにおいて「賞」を求める姿勢につながる であろう。射幸心をあおるようなそれらのあり方にも問題があるが、それに躍ら されるようなことは、教育者としてあってはならないことである。. このような、豆画伯養成という姿勢は、高等学校段階においては芸術家予備群 養成へとつながるであろう。つまり、高等学校の一般の「美術」において、芸術 系大学の受験を目指すような技術的、あるいは方法論的な授業展開を図られたと するなら、その授業は悲劇的なものといわざるをえない。芸術科の存在理由を世 に問うために「受験に対応する授業」を唱うのは芸術教育の真義を大きく逸脱す るものである。高等学校の「芸術科(美衛)」は、専門の教科として独立する高 等学校の「美術科」とはまったく異なるものであるし、ましてや、芸術大学進学 受験対策講座では決してないのである。. しかし、この混同は残念なことに、学校の外だけではなく内部においても見ら れるのである。正しい美の理解に立てば、すべての人間は、生きているという共 通の地盤において美を共有することができる。一見複雑そうに思われる美の原理 だが、美の普遍性はごく単純なものなのである。このことを、まず「美術」の教 師が確認し、美術教育の実践にあたらなければならない。そして、すべての人間 のための芸術ということを、「美術」の教師を含め、すべての教育者が再度確認 しなければならない。. (2)「美は客観的属性」と捉えると…. 美を客観的属性と捉えると、美の判断は、個人それぞれに任されるものではな く、ものにはそれぞれすでに美しさが付随しているということになる。事実、人 間が美しいと感じることには、ある種の共通性がある。美しい絵、美しい身体、. 美しい風景というものが実際にあるのだから、客観的に捉えることのできる美し いものが存在し、また、そのもの自身が美であるということになる。黄金比や、 カノン.のように美の典型、あるいは標準が存在するというような考え方も、ある 意味ではこれ忙含まれよう。. このことは、一見、美術は特別な入のためのものという誤解を払うためには、 有効であるようにも思われる。しかし、人々を一つの型にはめ込むという結果を 伴い、美の本質とは相矛盾するものであるし、当然のことながら、美術教育の理 念とも相容れないものである。しかも、この美なるもの、あるいは、美の典型や. 一1 6一.

(20) 標準は、指導者の誤った理解から生じる独善によって準備されたものであり、こ の意味で、二重の過ちを犯していることになるのである。このことは結果として、. 美術教育に「知識の対象としての美術(芸術)」を招くこととなるであろう。. 「表現」の領域で一例をあげてみよう。造形要素やデザイン理論は、美のため に、正しくは、美の理解を助けるために編み出されたものであるが、教師があた かもそれを理解させることだけで、子どもたちに美を理解させたと思ってしまう ようなことなどがそれである。つまり、「デザイン」(注3)分野の教材などで行わ. れるような、基礎練習や、パターンの学習をさせることだけで、あたかも目標が 達成したかのように錯覚し、美の持つ本来の意味に迫ることのない、また、それ を活用する機会が与えられないような悲劇的な授業を生むζとになるのである。. それらは、あくまで目的達成の手段であり、決して目標ではない。技術習得の末 にできた「結果(記録〉」と制作(表現)活動から生まれた「作品」とは決して 同じものではなく、厳密に区別されなければならないのである。. このことはまた同時に、教師に、ひいては子どもたちにも、マニュアルに依存 する姿勢を生じさせる。したがって、機に応じた柔軟な対応を基本とする、創造 的な授業を阻害することになる。子どもたちがそうであるように、授業もまた生 き物であることを忘れてはならない。. このような指導態度は、押しつけ型、強制型に陥りやすく、課題による締め付 けが横行することにつながる。これは、束縛からの解放という美術教育の原理に 反するのみならず、主体的に学ぶという今日の教育観とも相反するものである。 作品を提出させることと、作品を完成する喜びを味わわせることは、根本的にまっ たく異なったものである。 一一方、 「知識の対象としての美術」は、「鑑賞」や美的価値判断においては、. 有名なもの、本に扱われているもの、あるいは、今日では、マスコミに取り上げ られているものが、価値あるもの、美なるものと履き違えるという形で現れよう。. 美術作晶の取引価格をもって、芸術的価値を判断するような伝統的な誤謬も、根 は同じところに存在するのかも知れない。これは逆にいうと、有名でないもの、. 値段のないものは価値がないということである。例えば、学校においては、友だ ちの作品にいたずらをしたり、ぞんざいに扱うような態度として、つまり、価値 のないものなどは大切にしないというような形で現れるであろう。しかし、この 延長線をたどると、相手の存在、あるいは生を否定するということにつながるの. 一17一.

(21) である。単純な誤解として見過ごせない要素を含んでいることを銘記しなければ ならない。. 他方においては、画一的な評価、つまり、評価の「ものさし」を求める態度に つながる。多くは造形原理や造形要素などにそれを求めることになるであろう。. しかし、それでは作品の方にしか目は向けられず、子どもたちの生の実態が埋も れてしまうことになる。また、評価と評定の混同は論外と、しても、評価に客観的 整合性を求めようとして、統計学的手法を単純に用いることも大きな過ちを招く。. その基本となる判断、つまり、各因子の数値化は、主観的で曖昧な人間の冒が行っ ているのである。計算がいくら厳密でも、それは決して正しい評価になりえない。 評定の算出には、便宜上この手法を用いることも多いであろうが、同じ理由から、. 正しい相対関係にもなりえない。美術には美術独自の評価方法が準備されなけれ ばならないのである。要するに、表現されたもの(作品)を情報(数値)として 捉え、科学的数式に当てはめて分析・考証することは,美や生を理解する一つの きっかけを与えることはあっても、美やそれが由来する根源的な生というものを 理解したことにはならないということである。もっとも、このことは美術教育に 限らず、教育すべてにわたっても同じことがいえよう。. ところで、r教育公務員は、その職務を遂行するために、絶えず研究と修養に 努めなければならない。」(教育公務員特例法第19条〉とある。法律によ「って示され. るまでもなく、教育者は、それぞれに、自己研鎭を積まなければならない。美術 の教師とて例外ではなく、まず何よりも先に、教育者としての研鐙を怠ってはな らない。それと同時に芸術的な感覚を鈍らさぬようにも努めなければならない。. このことは、制作をしなければならないということを意味するのではない。制作 には、それ相当の時間を必要とする。今日の教師の現状からすれば、制作にまわ す時間的余裕など皆無に等しい。だからといって、芸徳的感覚を磨くことが不可 能ということにはならない。芸術の真義を理解すれば、制作というかたちでなく とも、そしてたとえわずかな時間しかなくとも、その錬磨は可能なのである。一 つには、鑑賞という方法もあろうが、観点を変えてみれば、子どもたちの生とい うすばらしい芸術(の根源)に日々触れているのだから、できない理由はなにも ないはずなのである。. これは、子どもたちに対する見方を変えるきっかけにもなるであろうし、袋小 路に入り込んだ教育上の諸問題を解決する、新しい糸口を見つけることにもつな. 一18一.

(22) がるであろう。 「美術」の教師は生の理解という点で、他の教師の先進的立場に なりうるし、またそうあらねばならない。そうでなければ、美術教育者の存在も、 美術教育の存在すらも意味を持たなくなるのである。外に理解を求めようとして、. 美を客観的属性と捉えてはならないし、美術に付随する有用性をもって「美術」. の存在意義にしてもならない。美術教育の存在意義は、美術そのものの中に求め られるべきものなのであり、また、芸術教育についても同じことがいえるのであ る。その意味では、子どもたちの生を理解すると同時に、教師自身自分の生を確 かめることが、美術教育の原点といえるのである。. (注3)「デザイン」:ここでは、中学校の美術や、高等学校の美術・工芸のデザ イン分野の教材という意味で用いており、デザイン全体を包括するものではない。. 一19一.

(23) 第2節 生涯学習の理念. 1.なぜいま生涯学習なのか 前節において、美術教育の危機的状況とその要因について述べてきた。それは、. 主として教科としての危機を意味するが、では、他の教科や、それを含んだ学校 教育自身については安泰といえるのであろうか。まず、教育界の現在のほうに目 を向けてみたいと思う。. あらためていうまでもなく、学校教育は、現在、大きな転換期を迎えている。. そのひとつの要因は、高度情報化社会をはじめとする社会全体の構造変革にある といえる。先の大戦後、豊かさを求め(物質的な豊かさであるが)われわれがひ たすら突き進んできた工業化の道は、世界に類を見ない経済発展を日本にもたら した。しかし、今日では、新しい情報化の波にもまれ、戦後歩んできた日本の産 業構造も変革を余儀なくされている。それは、たんなる体制の変革というより、. むしろ、価値体系の変容というほうがふさわしい。旧態依然の教育観では、もは や、新しい世界や未来を展望することは不可能となっている。. 一方、教育界の内部に目を転じてみても、後進国が先進国に追いつこうとする 社会に多く見られる学歴偏重主義によって、種々の教育問題が生じてきた。受験 戦争、校内暴力、落ちこぼれ、いじめ、登校拒否、等々、数え上げれば際限がな い。これらをすべて、教育界自身のことを問わずに、学歴偏重に結びつけるのは 早計であろうが、無関係とは決していえないのである。教育の問題でありながら、. もはや、教育界のみの努力によって、それらを解消することは不可能な状況に至っ. ている。教育そのもの、特に学校教育そのもののあり方を問い直す時期を迎えて いるといえる。. 外の変革に応じるためにもS、内の袋小路から抜け出すためにも、新しい教育観 が求められなければならない。そこに新しい光を与えるのが「生涯学習」である。 そして、この’ u症涯学習」という考え方は、すでに「新しい学力観」に色濃く反. 映されていることは周知のとおりである。しかし現実的には、その理念までが正 しく理解されているかについては疑わしいところがある。 社会全体が生涯学習の理念を理解し、この新しい価値観を受け入れ、 「学習社. 会」の形成を成し遂げたとき、われわれは学歴社会の呪縛から解き放たれるであ. 一20一.

(24) ろう。しかし、生涯学習という言葉を誤って用いるとするなら、「生涯にわたり、. 教育(むしろ訓練〉を強いられる社会」を招くことになるであろう。制度面や評 価の面が先行すると、その理念が置き去りにされ、本来の姿を失うことになりか ねない。何よりも大切なことは、教育に携わるもの自らがまず「生涯学習」を理 解することである。そして、「学習社会」を形成しうる「生涯学習人」の育成に 努めることである。. 本節では、生涯学習および学習社会の基本的理念について、ラングランの生涯 教育論を軸に今日の生涯学習論に影響を与えた種々の生涯学習論について見てい くことにする。. ところで、今日では生涯学習と生涯教育は学習と教育の本質的な差異をふまえ、. 異なった意味で用いられている。その違いを1987年の臨時教育審議会四次答申 は次のようにみており、これ以降も基本的にはこのように捉えられている。 生涯学習は、学校教育の基盤の上に各人の自発的意志に基づき、必要に応じて、. 自己に適した手段・方法を自らの責任において自由に選択し、生涯を通じて行わ れるものである。. 生涯教育は、このような生涯学習を支援、援助したり、振興を図り、基盤を整 備するといった作用である。. しかし、生涯学習の成立の過程を述べるとき、当初は生涯教育(永久教育、継 続教育とも呼ばれた)という言葉しか用いていなかったことや、両者の区別を厳 密にしていなかったという事情などから、ここでは、主として生涯教育という言 葉を用いている。. 一21一.

(25) 2.今日的生涯教育論の成立. 一ロに生涯教育といっても、その意味内容は多岐にわたり、その考え方、捉え 方も一様ではない。古くは、聖人・君子の説いた古典的な生涯教育論や、1789 年にコンドルセ(M.Condorcet)がフランス革命直後の国民議会に提出した教育法案. などもその源流と見なすこともできよう。しかし、今日的な意味で語られる生涯 教育は、第二次世界大戦後に成立したものと見なすのが一般的である。戦後、成 人教育に関する国際会議が多数開催されたが、特に、1949年デンマークのエル シノア、および、1960年カナダのモントリオールで開催された成人教育国際会 議は意義深く、生涯教育の視点に立った成人教育や、教育一般の改革を進めるた めの様々な提言を行っている。このような世界的動向と、時代的背景が相まって、 1965年第三回成人教育推進国際委員会会議にラングラン(P.Lengrand)が提出した. 「ワーキングペーパー」の生涯教育論が登場することになるのである。これを機 に生涯教育は広く一一一」般に知られるところとなった。. では、何が生涯教育を成立させ、また、全世界的に広がらせていったのか。当 時の時代背景から、それらを見てみよう。. その第一は、社会経済的な要請によるものである。技術革新による急激な社会 構造の変化は、産業・経済はもとより、家庭生活や、就労形態、女性の社会進出 など、日常のすべてを…変させた。それらの変化に対応し、また、自らも新たな る価値を創造してゆく能力を培うため、絶えざる学習が必要となったのである。. 第二に、人問的要請によるものである。上記の社会構造の変化は、一方で家事 労働をも含んだ労働時間の短縮を可能にした。また、長寿化、少子化、核家族化 などの影響で、自由時間が増大することとなった。そのような状況下で、精神の 内面を充実し、一己実現を図る欲求を充たすためには、明らかに、絶えざる学習 が必要となったのである。. 第三に、新しい教育原理どしての要請である。当時すでに学校内において、今 日に見られるような様々な教育問題が生起していた。また、家庭教育や社会教育 の世界にも多くの歪みが生じていた。このような状況下で、生涯教育は教育改革 の新しい基本原理として冷々に受容されたのである。. 一22一.

(26) 3.ラングランにみる生涯教育とは. ラングランによれば、生涯教育の理念は、個人の生まれてから死ぬまでの生涯 にわたる教育(水平的次元)と、個人および社会全体の教育(垂直的次元)の統 合(integration)にあるという。この統合こそが彼の生涯教育の基本理念といえる。. 書い換えれば、人々の生涯にわたる学習を総合的・体系的に援助するために、あ らゆる教育機能や教育機会を有機的に関連づけることが生涯教育であるというこ とができる。. これは教育の捉え方を、今までは学校中心の制度に重点を置いていたのに対し、. 学習者を中心とした人間の諸活動全体とみていることになる。そして教育の方法 も、旧来の知識伝授、教授型から、文化・社会的な活性化へと転換するものであ る。これにより、生活の教育化、教育の生活化が図られ、学校は、「学び方を学 ぶ」場になるというのである。. 次に、彼の生涯教育の特性を1972年秋にユネスコ本部で開かれた「生涯教育 に関するシンポジウム」で彼が提出した生涯教育の特性…覧に見てみよう。彼は、. 当時の教育システムと生涯教育を次のように対比させている。 〈一一一eeの見方:○現在(当時〉の教育システムは…ゆ生涯教育は…〉. ①教育を人生の一時期(青年期)に限定している。 ⇒教育を全生涯にわたるものとみる。 ②知識の習得に集中していて抽象的である。 ==1・・. m的・情緒的・審美的・職業的・政治的・身体的といった多面的な人間に、全. 体として具体的にかかわりをもとうとしている。. ③職業教育と一般教育、定型的な教育とインフォーマルな教育、学校教育と学校 外教育、文化と教育など、さまざまな教育を分離・隔絶している。 ・P人格の全体的・有機的な発達を考慮:して、さまざまな教育の間の連携もしくは 統合を意図している。. ④集積された既知の情報を次の世代に啓示することが教育の目的であるとする知 識観にたっている。 →知識や理性や人格は生成(ある状態から他の状態へ変わること)しているという弁償法. 的な見解に立脚している。だから、人間は探求を続けながら教育活動を展開して いる時間的な存在であるとみている。. 一23一.

(27) ⑤教育的な規制、外部からの強制を加えることによって、既成の文化価値を習得 させることに重点を置いている。 z・b一. lひとりがもっている個性や独自性や自分自身の持ち味に従いながら、自発. 的・自主的に発達し成長し続けることを重視している。 ⑥教育を文化遺産を伝授する手段とみなしている。. ⇒絶えざる自己発達の過程そのものが教育であり、教育は成長の手段であるとみ なしているQ ⑦教育は選別の道具になっている。 →・. 「熟な時期の一回限りの選別は無益かつ有害であると考え、人間が持っている. 資質を、…生涯にわたる成長のそれぞれの段階で、余すところなく開花させよう と念願している。. ⑧教育というものを、学校、大学、技術専門学校など、故意に分離させられてい る分野に限定している。. ⇒教育というものを、仲間関係、家族、職場、教会、政党、労働組合、クラブな ど、人々の実際生活とかかわりあるさまざまな環境や状況の中にまで拡大させて 考えている。. ⑨図書:館や講演や学校や大学制度など、教育の媒体となるものや、訓練に一淀の 階梯を設けている。. ⇒教育の機会を選択するにあたっては、所与の環境の中に利用可能な媒体がある かどうかということ、および個人や社会の能力にそれが適応しているかどうかと いうことが唯一の決め手であるとみている。 ⑩教育は社会の中のごく一部の人、つまり教師によって行われると考えている。. ゆときにより、状況の違いに応じて、社会全体が教育の機会を提供するものであ るとみている。. このように、理念と特性を概観することにより、ラングランが求めようとした 生涯教育の姿が浮かび上がってくるといえる。しかし、1965年当時においては、 まだ、生涯教育は、彼自身も言うように、実体のあるものには至っておらず、あ る種のアイディアに過ぎなかった。したがって、教育についての従来の考え方を 変えていくことのほうに力点があったといえる。彼らは、「ワーキングペーパー」. の中で五つの目標を掲げているが、その五番目の目標である「従来の教育につい. 一24一.

(28) ての考え方を根本的に改め、教育本来の姿に戻すため、この理念の浸透に努める。」 (日本生涯教育学会編 r4纏学糊事劇. 東:京審籍 1gg4年 p20>という言葉に、当時. の状況が色濃く反映されているといえる。. 一25一.

(29) 4.ラングラン以降の生涯教育. 今日の生涯学習に影響を与えたものは、ラングランの他にも多数あるが、ここ では代表的なものを、「学習社会」を中心に、それぞれの生涯学習論について述 べてみる。. (1)ジュサップ. 1967年イギリスのオックスフォードで開催された「継続教育シンポジウム」 においてジュサッブ(F.WJessup)は、生涯学習という言葉を多く用いた。これは、. 自分の教育には自分自身が責任を持つべきであるということを、その基本に据え ていることを意味する。また、生涯学曹を「人々の態度や種々の関係や社会組織 などの中に反映される社会の気質であり、質である。」と捉えている。これは、 教育をシステムから学習者のほうへ目を向けたと同時に、学習が気質や体質となっ. ているような社会、つまり、学習社会(学習社会という言葉は用いていない)の 実現を目指そうとしたということができよう。. (2>ハッテンス. 「学習社会」という用語は、ハッテンス(R.M.Hutchlns)の著書『学習社会』(The. Learning Society♪に、その端を発する。彼は、学習社会を次のように定義してい る。. 「すべての成人男女に、いつでも定時制の成人教育を提供するだけでなく、学 ぶこと、何かを成し遂げること、人聞になることを目的とし、あらゆる制度がそ の目的の実現を志向するように価値の転換に成功した社会」(前掲牲涯学習四則 p.78). 彼は、この理念の源流をアテナイに見出している。. 「…アテナイでは教育は、特定の時間、特定の場所で生涯の特定の時期に行わ. れる隔離された活動ではなかった。それは、社会のN的であった。都市が人間を 教育した。アデナイ人はパイディァすなわち文化によって教育された。」(同上 p7g)と述べている。つまり、教育の目的を、職業のためではなく、人間的に なることに置くように価値が転換しなくては、学習社会が実現したとはいえない のである。. 彼は、未来社会を労働から解放された余暇社会と展塑した。そのような社会に. 一26一.

(30) おいて人類ははじめて「賢く、楽しく、善く生きる」といった「人生の真の価値」. の実現のために時間を使うことができるようになると考えた。また、教育は「人 声の真の価値の実現のための教育」に転換されなければならないと考えたのであ る。. 彼の学習社会論は、楽観的立場に立ったものであったが、よい職業の獲得や人 材の養成のための教育という、当時の経済成長政策に連動した教育政策に対する アンチテーゼとして、これを提起したのである。. (3)フォール報告書. ユネスコは、1971年に「教育開発国際委員会」を設置した。翌年、同委員会 は「ラーニング・トゥ・ピー」(Learning to Be)と題する報告書を公刊した。これ. は一般に、フォール報告書と呼ばれ、ハッテンスの学習社会の思想を受けついだ ものとなっている。 この報告書は、今日の入間像を「分割された入間(mati divided)」、すなわち. 「社会の階級分裂、仕車からの疎外や仕事の性格の断片化、筋肉労働と知的労働. との人為的対立、もろもろのイデオロギーの危機的状況、これまで認められてき た神話の崩壊、肉体と精神との、もしくは物質的価値と精神的価値との分裂」 (前掲r生涯学習事典』 p.79)などによって四方八方から分割された人間と捉えて いる。一一一一i方、学習社会における人間像を「完全なる人間(the complete man)」、す. なわち身体的・知的・情緒的・倫理的統合が達成された人間と捉え、このような 人間の形成こそ教育の基本的目標でなければならないとしている。また、学習の 慮的は、 「存在(being)」であり、「生存(survive)」であり、「進化(evolve)」でな. ければならないとしている。そして、フロム(E.Fromm》の「人問の全生涯が、自. 己自身を生み出していく過程にほかならない。真実われわれは死ぬ時においての み完全に生まれるのである」桐上p.80)という言葉を引用していることからも、 T◎Have(持つ)という存在様式から、 To Be(ある)という存在様式への転換を 提起しているといえる。. フロムによれば、「持つ様式」とは、財産、知識、社会的地位、権力などを所 有することに専念する様式であり、「ある様式」とは、自己の能力を能動的に発 揮し、生きることの喜びを確信できるような様式である。また、「ある」という ことは、何にも制約されず、変化を恐れず、絶えず成長することであり、それは. 一27一.

(31) 固定した型や態度ではなく、流動する過程である。他者との関係においては、与 え、分かち合い、関心をともにすることである。Learning to Bcというのは「あ る様式」のための学習のことといえる。 この報告書に代表される、ユネスコの生涯教育に対するこの段階での捉え方は、 あくまで「思想」または「原理」として捉えている。それは、ユネスコが「平和」. という理念を掲げる理想主義的な組織という性格からくるものといえる。発展段 階の異なる諸国を加盟国とする異質集団であるため、制度や構造のあり方を具体 的に示すことはできないのである。後に開催された総会等において具体的な方策 も示してはいるが、あくまで例示であり、各国の実状にあわせて取り組むべきも のとなっている。しかし、現代の教育に対する一一一般通念、つまり、教育を教える 側から教えられる側へのtttt・’方通行的教授活動として捉える教育観を改めるうえで、. 重要な問題提起になったことには間違いがない。. (4>リカレソト教育. ユネスコの原理的な生涯教育の捉え方に対し、学習社会実現のための具体的方. 策を示したものの一つに、1970年代にOECD(経済協力開発機構〉の提唱し たリカレソト教育がある。OECDは、教育を意図的な人間形成作用であり、他 の活動から一定程度の引退と距離を必要とするものと捉えている。したがって、 永久教育、継続教育、生涯教育という概念の矛盾を指摘している。 リカレソト教;育とは、教育、つまり、意図的で組織的な人間形成作用を、生涯. 学習のプロセスのなかに、一回ではなく、何回も繰り返せるようにさせることで ある。入生の教育期、労働期をそれぞれもっと自由に細分して、教育期と労働期 を何回も循:環(recurrent)させようとするものである。. リカレソト教育の特色は、時代を直視し、具体化が行∫能な方策にまで言及して. いるところにあるが、急激な変革を迫る提案というより、長期の教育計画のため. の戦略提示といえよう。これは、OECDが先進工業国を加盟国とする同質集団 であり、それらの抱える具体的な問題の骨接解決を臼標とする現実的な組織とい う性格からくるものといえる。また、組織の独自性を前面に打ち出した結果とも いえ、あくまで、経済・社会政策の一環として時代的要請に応じた教育のあり方 を追求している。したがって、労働重視の教育論となっており、「労働に役立つ ように方向づけられた教育論」ともいわれたりしている。しかし、この点ばかり. 一28一.

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