第3章 生涯学習と美術教育
第2節 生涯学習につなぐ美術教育
前節では生涯学習に取り組む人たちの姿から、彼らにとって、美術教育とはど のような存在であったのかを見てきた。理論的には、美術教育が生涯学習を担う
とさえいえるものであったにもかかわらず、現実的には、美術教育は彼らにとっ て、それほど重要な位覆を占めているものではなかった。しかし、全く関与して いないということではなく、間接的には重要な意味を有していたといえよう。こ こでは、生涯学習に対する学校教育の役割を確認し、そのことから、生涯学習に つながりうる美術教育像を考察したい。
L自律的学習能力の必要性
生涯学習とは、表面的には、たとえば絵の描き方を教わるというように、何か のH的のため学んでいるように見えるが、その真義は、自己実現のための学習と いうことができる。自己実現とは生に由来する内発的な動機によって行われるも のである。そして、それを継続させるには、自律的に学習に取り紐む姿勢、ある いは能力が必要となる。この意味で、他律的に営まれる学習は、生涯学習とはい えないのである。
生涯学習時代における学校の果たす役割は、この自律的学習能力を育成するこ とにあるということができる。ところが、現実の学校教育は他律的側面が多く、
自律的学習能力を育成しているとはいいがたい。むしろ、そのことを阻害してい る感さえある。要するに、学校という観点から見れば、まだ生涯学習時代は始まっ ていないとさえいえよう。
前節でも触れたように、賞罰などの外的な動機づけは、学習そのものに持って いた興味を失わせる結果を開くといわれている。学校内において、その最も大き な賞罰は「テスト」であり、 「得点」であり、 「偏差値」であるといえよう。ま た、外的な評価が、向上心を損なうということについても触れたが、同様に最も 大きな外的評価とは、「内申書」といえよう。これらによってなされる子どもた ちの「選別」が、やりたい学問より行ける学校を、やりたい仕事より入れる会社 を選ぶような、消極的、かつ受動的な態度を、彼らにとらせることになるのであ る。これは単なる進路選択の問題ではなく、彼らが自らの生を押し殺すことに他
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ならない。このような子どもたちが、学習に好意を抱き続けることができるかを 考えるとき、学校の犯している罪の深さを感じずにはいられない。
では、学校教育が自律的学習能力を育成する場になるためにはどのようなこと が求められなければならないのであろうか。スケガー(R.Skager)がそのことに対
して示した八つの原則は、以下の通りである。
①学習場面のフレキシビリティ ②学習者による選択の奨励 ③援助活動としての教育 ④自己評価者としての学習者
⑤学習場面における民主的な人間関係 ⑥内発的動機づけの重視
⑦表現可能な教育目標の設定 ⑧学校外での学習活動との連携
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2.スケガーの8原則より
スケガーの八つの原則は、開放講座に求めようとしてきたものに通ずるもので あり、実際に「美術好き」の受講者たちが示してくれた姿でもある。そのことか
ら、これらの原則が生涯学習につながることに間違いはないといえる。したがっ て、これらの原則は、これからの美術教育がどうあるべきなのかを示すものでも あり、自ずと授業改善のポイントを指し示すものともなろう。
原則のそれぞれに即し、 {・震学習につなぐ美術教育というものを見つめ直して みたい。
①学習場面のフレキシビリティ
ここにおける学習場面とは、学轡の時間、場所、形態や方法、内容などを含ん だものである。このことは、学校の時間割という存在を無視しなければ、これを 達成することはできないというものではない。逆に、その中においても充分可能 なものである。アンケートの結果を見ても、「美術好き(ここでは、知・情・意 の調和がとれた子どもという意味)」をつくれるか否かは、小学校低学年頃まで が最も重要だということがいえる。これは、発達の段階という意味の他に、指導 の形態においても重要だといえよう。
今まで見てきたように、美術とは、人格の部分的な能力や要素ではなかった。
むしろ、人格の基底を成すものであった。中学校や高等学校では教科の枠がある。
このことの是非はさておき、他の教科の中に踏み込んでいきにくいという事情が ある。それに対し、幼稚園や小学校では、一一・一一入の教師が子どもたちの全活動を見 渡すことができる。美の根源である子どもたちの生を様々な姿で掴むことができ るのである。したがって、そのときどきに応じて、子どもたちを美の世界に導く ことが可能なのである。先に、人の心を揺さぶるものが本物の芸術であると述べ た。心を揺さぶるものは子どもたちの生活の中のそこかしこに存在しよう。その 蓄積こそが、「子どもたちの芸術」を生み患すカとなるのである。図工の時間と は、それを造形として表す時間に過ぎないのである。これと同様に、知も、徳も、
体でさえも、そのときどきに応じた対応が重要となろう。
では、中学校や高等学校では教科の枠に収まっていてよいというのだろうか。
「美術」の教師は、このことを理由に、美術という牙城に閉じこもってはならな い。美術教育は、美術という橋と、教育という橋によって周りの全てにつながっ
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ているものである。 「美術」の時間だけでは見えてこない、様々な子どもたちの 姿を、この橋を通して探っていかなければならない。そのことによって初めて、
学習場面のフレキシビリティが可能となるのである。
開放講座の受講者の批判を待つまでもなく、「美術」においては型にはまった 授業は最も避けなければならないものである。それぞれの個に応じた柔軟性こそ、
美術教育の命といえるのである。
②学習者による選択の奨励
学校教育において、その全てを子どもたちの選択に委ねることは不可能である。
自己実現をするにも「材料」や「道具」が必要となるからだ。それらについては、
選択という言葉は馴染まない。ただ、現状を見直すと、全ての子どもたちに、必 ず受け渡していかなければならないもの(これを「基礎・基本」ということがで きよう)と、そうでないものとが混在しているように思える。まず、それらを区 別し、精選することから始めなければならない。
「美術」についてこのことを検討してみると、「材料」にあたるのは、筆やハ サミを持つこと、粘土に触ることなどがそれといえる。つまり、体験である。
「道具」にあたるのは、それらの使い方、扱い方ということができる。これは、
経験といえよう。これらについては、結果(作品)は様々な形をとったとしても、
その求めるところは一一こ帰することの出来るものである。ハサミで、花を切り抜 いても魚を切り抜いても何ら問題はなく、むしろそれは奨励されるべきものであ る。また、このような体験や経験を通して、子どもたちが多くの選択肢を持つこ とによって、選択課題ということも可能となろう。ところで、この選択課題なる ものを取り上げると、必ず評価に対する問題が論じられる。同じ条件でなければ 比較できないということがよく指摘されるが、美術の評価(あるいは芸術的価値)
まヒの正しい理解に立てば、この指摘は金く的をはずしたものといわざるをえない。
学習者による選択が奨励されなければ、それはもはや美術ではないとさえいえる
のである。
一方、「美術」を選択肢の一・つとすることなどは論外である。
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③援助活動としての教育
美術は、そもそも主体的な取り組みである。したがって美術教育は、外に日標 を掲げてこれに向かわすような性格のものではない。そのことはすなわち、すで にそれ自体、生涯学習の…つなのである。『生涯学習概論』(佐々木生野編福村出 版1992年)では、生涯学習における指導者の役割について次のように述べてい
る。
生涯学習における指導者の一般的役割は、「人びとの生涯学習を効果的な ものにするために必要な援助を行うこと」ということができる。さらにこの 場合「援助」とは、人びとが求める学皆の内容について、直接、知識や技術 を伝達することだけでなぐ、学習を可能になるための施設、機会、資料等の 提供という行為、すなわち間接的な学習支援をも含むものである。
さて、これを「美術」に当てはめてみよう。美術の表現や鑑賞において主役は あくまで子どもたちである。そして、教師はあくまで援助者、つまりある時には
演毘家であり、ある時には裏方なのである。授業は、あくまで一一一一一つの表現の場、
つまり舞台にしか過ぎないのである。学校という空間は、時としてこの大原則を 忘れさせてしまうことがあるが、本来「美術」とは、このような援助活動として の教育を具体化させたものでなければならないのである。
④自己評価者としての学習者
芸術的価値とは、「ものさし」 (客観的基準)によって測れるものではなく、
視覚性の内に見開かれていく生の自覚に照らして評価されるものであった。この 雄の自覚、つまり美は、生きるという共通の地盤によって普遍性を有するもので ある。しかし、各人が見1:1け美は同一とはいえず、その個人によって見出される
しかないのである。つまり、芸術的評価とは、普遍妥当性を有するものでなけれ ばならないが、それぞれの個人に帰するものだといえる。「美術」において、ま ず侮よりも必要とされるものは、子ども自身による評価である。しかし、これは あくまで独善と区別されなければならない。その区別に示唆を与えることが、教 師の務めだといえよう。
美や自分というものを測る「ものさし」が、仮にあるとするなら、それは、教 室にいる他の子どもたちの生であり、教師の生であろう。 「美術」の授業は、そ れぞれの生の交流する場であり、お互いの生から学びあう場でなければならない。
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