廬山慧遠の教学について
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中国人仏教者としての自覚
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魏
藝
WEI Yi
要旨 : 本稿は、修行実践という視点から、慧遠の著した書物及び彼の伝記資 料などを用いて、慧遠の教学に関する三点について検討を行うものであ る。一つは沙門としての自覚である。慧遠が提唱した仏教は、戒・定・ 慧の三学に基づく実践と世俗的な教化を行うものであり、自利と利他の 完成を目指すものである。二つに、「神不滅」を基調とした「心・意・ 識」論である。「有情」=含識である衆生は涅槃に入ると理解されてい た。すなわち、慧遠が提唱した素朴な「有情」「無情」説こそ、後世の 無情(非情)非成仏説の原初形態となったのである。三つに、慧遠の信 仰対象である。主に宋代以後、慧遠は浄土教の祖であると認められてい る。しかし、慧遠の仏像前での集会活動を見ると、必ずしも特定の一仏 ではなく、釈迦仏・阿弥陀仏・大智通勝仏あるいは他の名号を有する仏 等をも信仰対象としていた。 以上の三点より、慧遠は当時における仏教受容の現状を踏まえた理論 を確実に構築しており、そういう意味においては彼も中国仏教の骨組み を作ったといえる。 キーワード :廬山慧遠 三学 神不滅 有情成仏 弥陀信仰 一、はじめに 廬山慧遠 (三 三 四 ― 四 一 六) の 功 績は、 中 国 の 伝統的な老荘 ・ 儒 教思 想と イ ン ド か ら伝 来した仏 教思想を融合しながら、 仏 教の優 位 性を主張 した ことにある 1 。 そ の 結 果、 仏教 は六朝 の 士大夫 に 受容さ れ 、 そ し て 中 国社会 に 根づ い た 。 中 国 の 伝 統思想と仏教思想を融合す る た め 、 慧遠 は 二 つ の 理 論を 提唱し て い る 。 一 つ は 「明報応論」 「三 報論」 に 見 ら れ る ような因 果 応 報 、 いわゆる業 報 思 想 2 である。 もう 一 つ は 「 形 尽 而 神 不 滅 論」 ( 『 沙門不敬王者論』 に 収 録) で あ る 。 後者 に お い て 、 慧 遠 は 「神」 という 概 念 を 用 い て 、 輪 廻 を 繰 り 返 す 、 あるいは 涅 槃 に 入 る ( ま た 浄 土 に生まれるか 3 )主 体 を は っ き り さ せ た の で あ る 。 こ れ は 神 滅 と 神 不 滅 の 論争が 六 朝時代 に 盛行し て い く こ と に つ な が る 4 。 ま た、 当 時 の仏 教 信 仰 者は 「 仏 陀と は何か」 および 「 い か に仏 陀 ( 聖人) と な る か」 と い う二 つの 問 題 に き わ め て 関 心 を 示 し た と 言 わ れ る 5 。 し た が っ て 、 出家者と し ての 慧 遠 も 、 この二 つ の 問 題に 注 目 していた と 見 てよいで あ ろ う 。 従来の研究では、廬山慧遠の浄土思想・禅思想・般若思想などについ て論及するものがほとんどである 6 。念仏であろうと禅であろうと、いず れの観点からみても、慧遠は後世の中国仏教に多大なる影響を与えてい る。ところが、「廬山慧遠の教学」という総括的な言葉を使用すること 自体が避けられているのも事実である。その原因としては、「文句は繁 積にして、諸学は尋ね難し」(大正五五・ 一一〇中)として鳩摩羅什 (三四四 ― 四一三、あるいは三五〇 ― 四〇九)訳『大智度論』の煩瑣な 文言を削略簡潔にした『大智論抄』(二〇巻)が散逸していること、現 存している慧遠の著書が短いものばかりであること、彼の思想を体系的 にまとめた著作が存在していないこと、など様々な点が挙げられる。 本稿は、修行実践という視点から、慧遠の自筆の書物及び彼の伝記魏 藝 WEI Yi 16 資料などを用いて、慧遠の教学について検討を行うものである。以下、 「沙門としての自覚」 、「神不滅論に基づく中国仏教の展開」、「慧遠 の信仰対象」という三つの項目に基づきながら、中国仏教における慧遠 の全体像の解明をはかりたいと考えている。なお、先行研究の細かな問 題点などについては、項目ごとにそれぞれ論じているので、「はじめ に」においては本小論の問題意識を提示するにとどめた。 二、沙門としての自覚 本章では、慧遠の書物及び慧遠教団の実践活動から次の二点を検討す る。一点目は、戒・定・慧の三学に基づく仏道修行を目指したことにつ いて、二点目は、自利と利他の実践を両立させたということである。こ の二点は中国僧侶としての慧遠の基本的な立場であったと考えられる。 慧遠の生涯を教学的な観点から二分すれば、三八一年に師の道安 (三一二 ― 三八五)と別れて後、自らの思想を独自に打ち出した時期 と、鳩摩羅什との問答( 『大乗大義章』 )から多分な影響を受けた時期 (問答を終える四〇九年以後)とになろう。慧遠と羅什が問答を行う以 前においては、「三報論」(三九四)「明報応論」(四〇一)『沙門不 敬王者論』(四〇四)の撰述と念仏結社の設立が主な活動であり、慧遠 と羅什の問答後では、『仏影銘』(四一三)の執筆が行われている。先 行研究では、慧遠の仏教は般若学と禅観実践の二つの基盤にしたもので あるとよく言われる 7 。あるいは、実践面においては禅思想を強調してい るとも指摘されている 8 。しかし、慧遠の仏教は、このような禅定や智慧 という個別的な側面から強調されるべきものではなく、中国僧(沙門) としての総合的な視点から評価しなければならないと筆者は考えてい る。そこで、「仏道を歩む沙門(行者) 」という視点にたち、慧遠の著 作や慧遠伝などの資料を用いて、彼の生涯にわたる戒・定・慧の三学に 基づく実践について検討を行う。 ま ず 、 戒 学 に つ い て 見 る と 、 「 遠 法 師 与 桓 太 尉 料 簡 沙 門 書 」 (四〇三、『弘明集』所収)には次のように述べられている。(傍線や 番号は筆者。以下同様) 経教所開凡有三科、一者禅思入微、二者諷味遺典、三者興建福業、 三科誠異、皆以律行為本。 (大正五二・八五中) 仏教の教えには、禅定、経典諷味、福業興建という三科があるが、い ずれも律行、すなわち戒律を守ることを根本とすると説かれている。諷 味遺典は、経典を諷誦し、その意味を味わうことであるから、経典を研 鑽すると理解してもよい 9 。福業興建は福楽をもたらす善行を行うことで ある。 当時の権力者である桓玄(三六九 ― 四〇四)は、非行が目立つ沙門に 厳しく対応する政策を実行した。それに対して、慧遠は上掲した文章を 著し、沙門としての行いを教導・教誡したのである。すなわち、慧遠は 沙門にふさわしい行い(仏教の教えに適った行い)は、戒学・定学・経 典研鑽・福業であるとし、これらを沙門としての行いの根幹に据えてい たことが知られるのである。 また、慧遠に関する伝記資料においても、慧遠が律行(戒学)を重要 視していた記述が多々見られる。すなわち、『出三蔵記集』「慧遠伝」 には、 初経流江東多有未備。禅法無聞律蔵残闕。遠大存教本憤慨道欠、乃 命弟子法浄等遠尋衆経。…中略…所以禅法経戒皆出廬山幾且百巻。
初関中訳出十誦、所余一分未竟、而弗若多羅亡、遠常慨其未備、及 聞曇摩流支入秦、乃遣書祈請。令於関中更出余分、故十誦一部具足 無闕。 (大正五五・一一〇上) とある。漢地に伝えた禅経と律蔵が不十分であるから、慧遠は弟子の法 浄(生没不詳)などを遣わして経典を求め、また曇摩流支(三九九 ― 四一六)に対して『十誦律』を全巻にわたり訳出してほしいと願い出 た。これは慧遠が戒学と定学を重要視していたという一証にある。 慧遠は律蔵を重要視するばかりか、自ら僧尼節度・法社節度を制定し たことも注目される。これについて『出三蔵記集』には、 法社節度序釈慧遠 外寺僧節度序釈慧遠 節度序釈慧遠 比丘尼節度序釈慧遠 右法論第七帙戒蔵集八巻 (大正五五・八四上) とある。念仏結社には在俗の信者もいたから、おそらく「法社節度」は 出家者・在家者が共に守るルールであったと考えられる。これも慧遠が 戒学を確実に実践していた証拠である。 さ ら に 、 慧 遠 が 戒 を 重 視 し た こ と は 、 弟 子 の 劉 遺 民 ( 三 五 二 ― 四 一 〇 ) に 送 っ た 手 紙 か ら も 知 る こ と が で き る 。 「 与 劉 遺 民 書 」 (四〇九、『広弘明集』所収)には次のように記されている。 君諸人並為如来賢弟子也、策名神府為日已久。徒積懐遠之興、而乏因 籍之資。以此永年、豈所以励其宿心哉。意謂六斎日、宜簡絶常務専心 空門。然後津寄之情篤、来生之計深矣。 (大正五二・三〇四中) この文で注目すべきは、六斎日 10 の修行と来生とが結びつけられている ことである。しかも、「与劉遺民書」(四〇九)以前に翻訳されている 羅什訳『大智度論』(四〇五年訳)では、六斎日、持戒、来生を次のよ うに示す。 仏言、三事必得報果不虚。布施得大富、①持戒生好処、修定得解 脱。若単行尸羅得生好処。…中略… 問曰。②白衣居家唯此五戒、更有余法耶。 答曰。有一日戒、六斎日持功徳無量。若十二月一日至十五日、受持 此戒其福甚多。 (大正二五・一五九中) 傍線部①では、持戒によって好ましいところに生まれることと、禅定 によって解脱することが説かれている。傍線部②などでは、在家者は六 斎日に持戒すると無量の功徳が受けられるという。 以上をもって「与劉遺民書」の内容を確認すると、慧遠は在家者であ る劉遺民に対して、六斎日の修行を行うことで来生には好ましいところ に生まれると述べていたのであるから、これは前掲の『大智度論』の本 文と内容的によく合致している。また、「与桓太尉論料簡沙門書」に述 べた三科の興建福業の内容と、「六斎日の持戒は福が多い」とする点が 共通している。したがって、慧遠が戒律を重視していたことは明白であ り、『高僧伝』にはその他にも、臨終の前に慧遠が戒律を厳守していた という記述も見られ 11 。以上のように慧遠が律行すなわち戒学を重要視し ながら仏道を実践していたことが知られるのである。 次に定学と慧学であるが、これは禅定と、それによって獲得される智 慧のことである。これについて「念仏三昧詩集序」(四〇二)「廬山出 方便禅経統序」(四一一)などには、定と慧との緊密な関わりが述べら
魏 藝 WEI Yi 18 れる。まず「念仏三昧詩集序」である。 夫称三昧者何、専思寂想之謂也。思専則志一不分。想寂則気虚神 朗、気虚則智恬其照、神朗則無幽不徹。…中略…猶或若夫尸居坐忘 冥懐至極智落宇宙而闇蹈大方者哉。 (大正五二・三五一中) これによると、慧遠は三昧とは「専思想寂之謂」であると定義する。 ここには「気虚神朗」や「智恬其照」などのような道教や老荘思想の用 語が見られる 12 が、要するに、身心を統一させることができれば、智慧の はたらきはすべての物事に通達すると述べているのである。 さらに、慧遠は智慧と密接に関わる禅定を如来と関連させて述べてい る。「念仏三昧詩集序」には、 又諸三昧、其名甚衆、功高易進念仏為先。何者①窮玄極寂尊号如 来、体神合変応不以方。故令入斯定者。昧然忘知。即所縁以成鑒。 明則内照交映而万像生焉。非耳目之所至。…中略…於是②覩夫淵凝 虚鏡之体。則悟霊根湛一清明自然。…中略…以茲而観、③一覿之 感、乃発久習之流覆、割昏俗之重迷。 (大正五二・三五一中) とある。傍線部①では、如来とは玄と寂のきわまった尊きものであり、 霊妙なはたらきを体得した如来は衆生の願いに随い変化するため、現れ るすがたは定まっていないと説く。次いで傍線部②では、虚なるすがた の本体を見れば、霊根(妙物なる神)は湛一にして清らかで自然である という。さらに傍線部③では、一たび如来の応現を感ずれば、久しく習 い慣れてきた煩悩の覆いをはらい、昏い俗なる重迷を断つことができる と説くのである。 これは、後の『大乗大義章』(四〇七 ― 四〇九)に見られる「問所縁 之仏、為是真法身仏、為変化身乎」と、「経説念仏三昧見仏…中略…専 則成定、定則見仏」と関連していると思われる。いずれにしても慧遠が 仏道実践における「見仏開悟」についての疑問を問いかけたことは明ら かである。よって、「念仏三昧詩集序」は禅定と智慧との関連性を示す と考えられる。 次いで、「廬山出修方便禅経統序」(四一一)に見られる禅定と智慧 の緊密性についても確認しておきたい。 夫①三業之興以禅智為宗、雖精麁異分而階藉有方。…中略…②禅非 智無以窮其寂、智非禅無以深其照。則禅智之要照寂之謂、其相済 也。照不離寂、寂不離照。感則倶遊、応必同趣。功玄於在用、交養 於万法、其妙物也。 (大正五五・六五中) 傍線部①では、三業を興すにあたって禅定と智慧とを根本とする旨が 述べられ、傍線部②では禅は智でないので寂を極めることができない、 智は禅でないので照を深めることができないといい、禅智の要、照寂の 謂われを考えれば、この両者は互いに相互補完の関係にあると述べてい る。要するに、定学 13 と慧学との密接な関係を示しているのである。 慧遠が慧学(智慧・般若)について述べたものとしては、『大智度 論』に関連するものがほとんどである。『出三蔵記集』には、慧遠が 『大智論抄』(別名『般若経問論集』、『要論』 14 )を撰述したと記され ているが、残念ながら『大智論抄』二〇巻は現存していない。したがっ て、慧遠における慧学については「大智論抄序」(四〇六以後)という 短い序文から読み取るしかない。
発軫中衢啓惑智門、以無当為実無照為宗。無当則神凝於所趣、無照 則智寂於所行。寂以行智則群邪革慮、是非息焉。神以凝趣則二諦同 軌、玄轍一也。 (大正五五・七五下) 傍線部には、智慧のはたらきによって諸々のよこしまな惑いを改めれ ば是と非の対立はなくなり、精神統一すれば、二諦 15 は同じ道となり、神 妙なる真理は一となることが示されている。 そ れ に、 慧遠が学習し た経典は決し て般若経典だ け で は な い 。 「阿毘 曇心論序」 や 「三法 度 序 」など の序 文 も 作 成 し て い る 。 さ らに、 鳩 摩 羅 什 と の 仏教教義 に 関 す る 問答集 『 大乗大義章』 に よ る と 、 慧 遠 は 『維摩 経』 16 『法華経』 17 『般舟三 昧経』 18 など の経 典 を 研 鑽 した ことが知 られる。 慧遠が ど の よ うな経典を重視し た か と い う問題 に 関し て結論を出す こ と は難し い が、 彼が上述した経典 ・ 論 書を全般 的に取り扱 っ たと見 て よ さ そうである。 以上のことから、慧遠と門下の弟子達は、戒・定・慧の三学に基づい た仏道を実践していたことが知られる。加えて、「念仏三昧詩集序」 (四〇二)↓「与桓大尉論料簡沙門書」(四〇三)↓「大智論抄序」、 『十誦律』の訳出を要請、劉遺民に書簡を与える(四〇九)↓「廬山出 修行方便禅経統序」(四一一)、このような順序で見ても、慧遠は道安 の門下から離れた後も、戒・定・慧の三学を基調としていることが明ら かである。 ところで、慧遠の仏道実践を確認する上で見過ごすことの出来ない問 題がもう一つある。それは慧遠の「沙門たる身分」に関しての自己認識 である。従来、王法と仏法、儒教と仏教、あるいは儒仏道三教論争など に関する研究 19 では、『沙門不敬王者論』『出三蔵記集』『高僧伝』など を用いて、仏教と王権を常に結び付けて論じられてきた。例えば、道安 の「不依国主則法事難立」(大正五五・一〇八上)という発言は中国仏 教の現状を表明し、仏法は王法に付属するもの 20 と理解されている。そこ で以下、道安とは異なる沙門のあり方を説く『沙門不敬王者論』(大正 五二『弘明集』所収)を中心としながら、慧遠における沙門観について 確認したい。まず注目したいのは「遠法師答」である。 仏経所明凡有二科、①一者処俗弘教、二者出家修道。処俗則奉上 之礼、尊親之敬、忠孝之義、表於経文、在三之訓彰于聖典、斯与 王制同命有若符契。…中略…②出家則是方外之賓、迹絶於物、其 為教也。…中略…道之与俗反者也。是故②凡在出家、皆隠居以求 其志、変俗以達其道。 (大正五二・八三下) 慧遠 の 見 解 に よ れ ば、 在 家 と 出 家と は 別 々 の 役 割 が あ る と 考え ら れ る 。 こ れ に つ い て 傍線部① に は 、 在 家者 は 世 俗 に あ っ て 仏 教を 弘 め る 役 割 を果た し 、 沙 門は出 家 し て 仏 道 を実 践 す る役 割 を 果たすと述 べ られ て い る 。 傍線部② に よ る と 、 出 家 は 世俗 か ら 離 れ て 出 世間 の も の と な り 、 行 いも 世 俗 と 断 ち 切 る と いう 。 そ し て 、 世 に 出 な い ように 隠 れ 住 ん で 志 を 求め 、 俗 人と は 異 な る 修行 の 道 を 達 成し な け れ ば な ら な い と 述 べ て い る 。 以上の文章は当時の支配者である桓玄に対して述べたもので 21 、これは 伝統的な中国思想を学び、かつ仏教思想を数十年学んだ後に示された慧 遠の見解といえる 22 。ここで慧遠は、世俗と異なる出家の志を求めて道を 歩むものこそが沙門であると強調している。 また、類似する表現が慧遠の他の文献にも見られる。すなわち、『沙 門不敬王者論』の第二小論「出家」には、 【ア】出家則是方外之賓、迹絶於物、其為教也。患累縁於有身、
魏 藝 WEI Yi 20 不存身以息患。知生生由於禀化、不順化以求宗。求宗不由於順 化、則不重運通之資。息患不由於存身、則不貴厚生之益。此理之 与形乖、道之与俗反者也。 (大正五二・三〇中) と述べられている。これは前掲の桓玄に送った返信とほぼ同内容であ る。ここに見られる「生生」は、『易・繋辞上』の「生生之謂易」から の影響であり、その意味は次々と生ずるさまをいう。なお、「生生」と いう語は、伝統的に「道」を形容して「生生不息」とも言われる。ま た、前掲の本文に見られる「厚生」という語は、身心を養う長寿を保つ こと、あるいは民の生活を厚くするとか、あるいはまた養生という意味 がある 23 。いずれの意味を取っても、「生」を重要視している伝統的な中 国思想 24 (道教・儒教)といってよかろう。すなわち、これらの言葉は世 俗的な考え方を示したもので、方内について述べたものである。その前 提となるものが、患病であり、生死であった。このような世俗的な患や 生などを終えることが、まさしく出家者の志に他ならない。そこが仏道 と世俗との異なるところである。仏教徒である慧遠は、中国の伝統思想 である「生生不息」と仏教の根本思想である「生生息」(=涅槃、輪廻 転生を息む)との相違を理解した上で、これを伝えようとした。そし て、「生生と身」は、後に『大乗大義章』において質問する「凡夫身と 法身」の問題へと進展していくのである。 それは後述するとして、慧遠は他でも出家の役割を述べている。 【イ】是故凡在出家。…中略…故能拯溺俗於沈流、抜幽根於重劫、 遠通三乗之津、広開天人之路。如令一夫全徳、則道洽六親沢流天 下。 (大正五二・三〇中) 慧遠は出家者となることで生死流転の流れに溺れる世俗の人々を拯い あげ、きわめて長い時間積み重ねた煩悩の根を抜いて、遠く三乗に通じ る渡し場を通り、天界・人界の路を広く開くことができると述べてい る。そのあり方を慧遠は、例えば一人が徳を全うすれば、その道(教 え)は六親眷属にまであまねく及び、その恩沢は世の中に流布するよう なものであるとする。これを見ると、慧遠は「世俗の人々を教化して救 済するという道を負うのが沙門である」と、仏道的観点より強調してい ることが知られるのである。 さらに、『沙門不敬王者論』の最後にも、慧遠独自の見解が示され る。すなわち、 【ウ】夫称沙門者何耶。謂其能発蒙俗之幽昏、啓化表之玄路、方将 以兼忘之道与天下同往。…中略…衆賓於是始悟冥塗以開轍為功、息 心以浄畢為道。 (大正五二・三二中) とある。ここでは慧遠自らが「沙門とは何者であろうか」と自問してい る。そして自ら答えて次のようにいう。「沙門とは自らを凡俗の迷いか ら解き放ち、超越的な世界 25 を啓く存在であり、物(実法)と我(実我) の両方を忘却することで、世間の人々と同じく超越の世界に行くのであ る」と答えている。 纏めると、上掲した資料【ウ】の「沙門」と「息心」 26 は共に仏教僧を 指した言葉である。【ア】の「沙門の志」は世俗と異なる道(輪廻転生 からの脱出)を求めるという自利の表現に他ならない。そして、【イ】 は世俗の人々を教化して救済する道を負う利他を意味している。つま り、【ウ】は自利と利他の融合であり、最後には沙門も世俗の人々も共 に同じく超越した世界に行くと主張するのである。これこそ、慧遠にお
ける沙門としての自己認識であり、慧遠の仏道観であったと考えられ る。 このように見てくると、慧遠は「方外之賓」である沙門にとって最も 重要なことは、王者に礼拝することではなく、沙門としての「道」に置 いていたことが知られる。さらにいえば、自らの求道と他人の救済を強 く説く点は、明らかに大乗仏教において説かれる菩薩の自利利他を意識 している。よって、慧遠はさらには教団の指導者として、自らの「教 化」を展開するのである。この点について一つの例がある。『弘明集』 所収「三報論 ― 因俗人疑善悪無現験作 ― 」(三九四)と『沙門袒服論』 (四〇七)の二つの論書がそれである。 「三 報 論 」 の 副 題 を見 る と 、 当 時 、 在 家 者 の 中 に 善 悪 の 行 い が 招く報 いに ついて は 証 拠 が な い と 疑 う 人 が いる こ と が 記 さ れ て お り 、 このこ と は 当時、 因 果応報 の 道理 を 説 く仏教を信じ て い な い 者が 存在し て い た こ と を裏 付け る。 さ ら に、 「三報 論 」 の 最 後 に は次 の よ う に 述 べ られ て い る。 則知有①方外之賓、服膺妙法洗心玄門。一詣之感超登上位、如斯倫 匹宿殃雖積、功不在治理自安消、非三報之所及。因茲而言、②仏経 所以越名教絶九流者、豈不以疏神達要陶鋳霊府窮原尽化鏡万像於無 像者也。 (大正五二・三四下) 傍線部①には、沙門は仏道を歩み、一つの感応によって超越的な位 (菩薩位)に登るが、それは三報の及ぶところではないと述べられてい る。次に、傍線部②には仏教経典が他の道教・儒教などの教えを超える 理由として、「疏」をもって神が要に達し、霊府(神のとどまる場所) を造りあげ、源を極めて化を尽くすなどと述べられている。ここでは、 出世間を強調しながら、仏教の教えを他の伝統的な教えより優れたもの として理解していることが知られる。 また、慧遠は沙門の礼制についても論じている。 是故世尊①以袒服篤其誠而閑其邪、使名実有当敬慢不雑。②然後開 出要之路、導真性於久迷、令淹世之賢不自絶於無分、希進之流不惑 塗而旋歩。於是服膺聖門者、咸履正思順異跡同軌。 (大正五二・三二下) 要 す る に 、 ① 袒 服 に よ っ て 修 行 の 誠 心を専 ら にし て邪な心をふ せぎ 、 沙門 の 名 称と 沙門 の 実 質と を相応 さ せ る 。 ②出世間 の 道を 開き、 長 き迷 い か ら 真 性 を 導 き 出 し 、 世 俗にとどまる 者 が 〔 仏 教 と つ ながる 〕 機 縁 を 求 め 、 官 職 に つき たい 人 々 が 迷 い 歩 むこと が ないよ う にさ せる 。 仏 教 に 帰依す る 人 々 は 、 み な 正 し い 思 い に 順 っ て 、 異 な る 足 跡 の 者 で あ っ て も 軌 が 同 じ に なると 述 べ て い る 。 以 上は 慧 遠 が 沙 門の役 割 を 述 べ て い るも の と見 て よ い。 こ の よ う に、 慧 遠 は、 沙 門 とし て の ① 「 自 利 」 と ② 「 利 他 」 の役 割 を 述 べ ながら 、 出 世 間 性 を 主 張 し て い る の である 。 そ の 対 象 は 、 文通 の 相 手 で あ る 桓玄 で あ り、 ま た は 沙 門が 王者を 礼 拝す べ き で あ る と 主 張 す る 人 々 で あ り 、 そ し て 慧 遠 門下 の 出 家者 ・ 在 家者 た ち で あ っ た 。 換 言 すれば、 こ れ ま で 紹 介 し て き た 慧遠 の 多 く の 発 言 は、 沙門 慧遠 に とっ て の 「 教 化 」 、 あ る い は 「 勧 化 」 で あった と い え よ う 。 こ れ は 、 後 世 の仏 教における 僧 侶の あり 方に つ い て、 模 範 を 提 供 し たと考 え られる 。 これまでの議論を纏めておくと、慧遠が提唱した仏教とは、戒・定・ 慧の三学と福業という四つである。注目すべきは、福業を興建すること で、これこそ慧遠の「教化」に他ならない。要するに、慧遠の仏教は、 戒・定・慧の三学に基づきながら、世俗への教化を行うものであったと 考えられるのである。
魏 藝 WEI Yi 22 三、神不滅論に基づく中国仏教の展開 後世によく議論されている「無情非成仏説」 27 の起源は、いまだ明らか になっていない。本章では、この萌芽を慧遠の「神不滅論」に求めるこ とができるか否かについて検討してみたい。キーワードとしては、心、 識、神、情、霊である。 仏道実践において重要視されるのは「心」 28 である。そこで、慧遠の書 物に見られる「心」の用例を整理すると、およそ以下の通りとなる。 (1)衆邪革心、啓殊津之心( 「晋襄陽丈六金像讃序」 ) (2)心法之生、洗心浄慧擬跡聖門( 「阿毘曇心序」 ) (3) 〔業有三報〕受之無主必由于心、心無定司感事而応( 「三報論」 ) (4)理自得於心、而外物未悟( 「明報応論」 ) (5)乗仏理以御心( 「答王謐書」 ) (6)息心以浄畢為道( 『沙門不敬王者論』 ) (7)心不待慮智無所縁( 「大智論抄序」 ) (9)心無常規其変多方( 「廬山出修行方便禅経統序」 ) ( 10)四相与心法為因( 「次問四相並答」 ( 『 大乗大義章』一二問、以下 同) ( 11)前心非後心故、心心不相知( 「次問前識追憶後識」一六問) ( 12)〔住寿〕為寄之於心、為寄之於形( 「次問住寿並答」一八問) ま た 、 「 洗 心 」 ( 心 を 清 ら か に す る ) と い う 語 が 「 三 法 度 序 」 ( 三 九 一 ) 、 「 念 仏 三 昧 詩 集 序 」 ( 四 〇 二 ) 、 『 沙 門 袒 服 論 』 (四〇七) 、「廬山出修行方便禅経統序」(四一一)などで繰り返し用 いられている 29 。 ここでは、慧遠から南朝梁武帝(在位五〇二 ― 五四九)に至るまで、 「無情」が成仏の因を持っていないと考えられていたことを確認した い。先行研究に倣って三つの段階に分けてみよう 30 。一つは慧遠の著作に 見られる「神」について、二つは弟子の宗炳及び同時代の論争に見られ る成仏義について、三つは梁武帝の『神明成仏義』および同時代の文献 に見られる成仏義についてである。 さて、慧遠における「神」は、「神不滅論」(四〇四、『沙門不敬王 者論』に収録)に次のように述べられている。 夫神者何耶、①精極而為霊者也。精極則非卦象之所図。故聖人以妙 物而為言。…中略…神也者②円応無主妙尽無名。感物而動、仮数而 行。感物而非物故物化而不滅。…中略…③有情則可以物感、有識則 可以数求。…中略…則知化以情感神以化伝。情為化之母、神為情之 根。情有会初之道、神有冥移之功。 (大正五二・三一下) 慧遠は「神とは何か」と発し、次のように答える。すなわち、①精に して極めるものが「霊」者である。精にして極めるものは、〔易の〕卦 象などで図られるものではない。だから、聖人は妙物をもって名づけら れる。②神は円かに応じられ主なく妙にして尽きて名がない。外物を感 じて動き、仮数によって行う。物を感じるも物ではなく、したがって物 を変化しても滅びることではない。③情があれば物を感じることがで き、識があれば道理を求めることができる。〔生滅〕変化が情によって 感じられ、神が変化によって伝達する。情は生滅変化のもととなり、神 は情のもととなる。情は外物とまじわる道があり、神にはひそかにうつ るはたらきがある、と述べている。 これを見ると、慧遠は①神と霊の関係、②神の性質、③情・識と神の
関係の三点を示していることが知られる。最初の①神と霊の関係は、中 国の伝統的な思想である。以下の二つの用例を挙げてみよう。 【ⅰ】神霊者、天地之本、而為万物之始也。(西漢・劉向撰『説 苑・脩文』 ) 【ⅱ】陽之精気曰神、陰之精気曰霊。神霊者、品物之本也、而礼楽 仁義之祖也、而善否治乱所由興作也。(東漢・戴徳撰『大戴礼記』 「曽子天円」 ) 【ⅰ】によれば、神霊は天と地の本であり、あらゆる事物のみなもと である。【ⅱ】によれば、陰気は神であり、陽気は霊である。神霊はあ らゆるものの本であり、儀礼・音楽・仁愛・道徳規範の祖であり、善・ 非善・治世・乱世のおこるゆえんである。この二つのいずれの資料にお いても、複合語である「神霊」は世界生成の本であり 31 、派生する意味は 超越的な主宰者であるといってよいであろう。 また、霊は霊魂としても理解される。この場合、特に聖人の霊を指 す。これについては以下の用例がある。慧遠の「晋襄陽丈六金像讃序 ― 因釈和上立丈六像作 ― 」(三六七)に、 ①昔衆祐降霊、出自天竺。託化王宮、興于上国。②顕迹重冥、開闢 神路。明暉宇宙、光宅大千。万流澄源、円映無主。覚道虚凝、湛焉 遺照。③於是乗変化以動物、而衆邪革心。硅神歩以感時、而群疑同 釈。④法輪玄運、三乗並轍。 (大正五二・一九八中) とある。この文章にや四つの要点がある。①仏伝と関わる仏陀観 32 による 仏陀=聖人、②釈迦仏の応現は迹としての衆生を教化するためのもので あるという感応思想、③釈迦仏の応現を感じれば疑いを晴らすことが出 来るという見仏開悟、④法輪を転じて一乗に帰せしむ三乗帰一の思想で ある。その中で「霊」に注目すれば、①の「降霊」は仏陀の「降霊入 胎」を指すと考えられるから、この場合の霊は聖人の霊魂を意味してい るといってよいであろう。 続いて、慧遠は世俗世界の万物を以下のように分類している。『沙門 不敬王者論』には、 ①凡在有方同禀生於大化、雖群品万殊精麁異貫、統極而言、有霊与 無霊耳。②有霊則有情於化、無霊則無情於化。無情於化、化畢而生 尽。生不由情、故形朽而化滅。有情於化、感物而動、動必以情、故 其生不絶。生不絶則其化弥広而形弥積、情弥滞而累弥深、其為患 也。焉可勝言哉。是故③経称泥 洹 不変以化尽為宅。三界流動以罪苦 為場。化尽則因縁永息、流動則受苦無窮。…中略…是故反本求宗 者、不以生累其神。…中略…則神可冥、冥神絶境、故謂之泥 洹 、泥 洹 之名、豈虚搆也哉。 (大正五二・三〇下) とある。①によると、あらゆる決まりがある世界に存在するものは、同 じく大化 33 より生をうける。群品(衆生) 34 はさまざまに異なっているが、 精と粗とを二分化して、有霊と無霊である。②は有霊と無霊の「生」を 説明している。有霊はすなわち生滅変化において有情、無霊はすなわち 生滅変化において無情である。変化において情がなければ、変化がおわ ると生ずることが途絶える。〔無情が〕生ずることは情によらない、だ から形が朽ちれば生滅変化も滅びる(一生のみ) 。生滅変化における有
魏 藝 WEI Yi 24 情は、外物を感じて心のはたらきを行い、はたらきは必ず情(心の精神 活動)によるので、生から生までの生滅変化(輪廻転生)は絶えない。 輪廻転生がとまらないとその変化はいよいよ広くなり、転生するすが た・かたちもだんだん多くなる。情はますます滞り、累はますます深く なり、苦しみとなる。③では、経に「涅槃不変」とあるのは生滅変化が 尽きることを意味し、三界の輪廻は罪と苦の場所であると説く。変化を 尽くすと因縁も永く息み、輪廻を繰り返すと苦しみがきわまりがない。 このゆえに、本(生をうけること)に反して宗を求める者は、生を以て 神に縛られない。そうして神は静かになり、超越の境地に静まる、これ を涅槃と名付ける。涅槃がどうしていつわりのものといえようか、と述 べている。 以上のように、輪廻と涅槃を対として考えれば、有情は情があるから こそ、煩悩を生じ、三界での輪廻転生もあり 35 、煩悩を滅して涅槃に入る 霊(精なる神)がある。対して、無情は情がないので、一生のみだから 輪廻転生もせず、当然煩悩を滅する涅槃に入ることも出来ない。要する に、無情は涅槃(成仏)の対象とならないのである。 慧遠が用いる有情・無情の分類はすでに中国の伝統思想に見られるも ので、決して仏教特有の思想ではない。東漢・王充(二七 ― 九七?)撰 『論衡』「道虚」には、次のように述べられている。 ①世或以老子之道為可以度世、恬淡無欲、養精愛気。夫人以精神為 寿命、精神不傷、則寿命長而不死。成事、老子行之、踰百度世、為 真人矣。 ②夫恬淡少欲、孰与鳥獣。鳥獣亦老而死。鳥獣含情欲、有与人相類 者矣、未足以言。草木之生何情欲、而春生秋死乎。夫草木無欲、寿 不踰 歲 。人多情欲、寿至於百。此無情欲者反夭、有情欲者寿也。夫 如是、老子之術、以恬淡無欲、延寿度世者、復虚也。 36 ①では道教的な聖人観を示しており、欲望をおさめて執着しないこと で精神を養い、長寿不死を得る道が示されている。一方の②には、現実 主義者である王充が「道術を身に付けて長生不死を願う養生術」を批判 する箇所である 37 。このような王充の『論衡』に現れる思想は、六朝士大 夫において一般的な常識であったと考えられる。六朝思想の研究に関し ては、ここで詳述することは避けるが 38 、一点だけ述べておきたいのは、 「有情」は鳥獣や人のように情を持った類であり、「無情」は草木のよ うな情を持たない類を指すということである。このように見れば、沙門 礼拝に対する反論書とみなされる「神不滅論」に用いられる用語も、当 時の慧遠教団及び沙門礼拝論を展開する人々にとって共通の理解があっ たといってよいであろう。要するに、「神」が情・識と密接にかかわ り、その根本となるのは心のはたらきであるということである。そして 注目すべきは、無情は輪廻もしないし、涅槃もないということである。 ところで四一六年に慧遠は死去する。その約二十年後、弟子の宗炳 (三七五 ― 四四三)が慧遠の神不滅論を継承し、『明仏論』(四三五) を著したことはよく知られている。これは本論に関わる第二期、宗炳 及び同時代の仏教者における論争期のことである。まず時代背景を簡 単に説明すると、関係する人物は慧琳(? ― 四三三 ― 四八七?) 、何承 天(三七〇 ― 四四七) 、顔延之(三八四 ― 四五六) 、謝霊運(三八五 ― 四三三)などである。慧琳が『白黒論』 39 (又名『均善論』 )を著し、白 学の儒教・道教などと黒学の仏教を挙げ、儒教・道教・仏教それぞれの 長所を示しながら儒仏一致の議論を展開した。その中には、仏教に対す る否定や疑問などが見られる。次いで、何承天が『達性論』を著し、神
不滅を批判し、輪廻をも否定する理論を展開した。『白黒論』を宗炳に 送ったところ、宗炳は「答何衡陽書」と「又答何衡陽書」という何承天 に対する反論書を製作した。謝霊運もまた『白黒論』に関連する『弁宗 論』を著した。 これらの論争に関する詳細な検討は別論 40 に譲るとして、ここで強 調したい点は、前述の第一期・神不滅論争の継続と見なされる『明 仏論』・『達性論』・『弁宗論』など 41 に示される心・識・神の内容 が慧遠の思想を受けているという点である。周知の通り、四三六年に は慧観(三六八? ― 四三八、あるいは? ― 四四六)・慧厳(三六三 ― 四四三)・謝霊運などによって、曇無讖(三八五 ― 四四三)訳北本『大 般涅槃経』(四〇巻、四二一年訳)と法顕将来の『大般泥 洹 経』(六 巻、四一八年訳)が統合・再治され、南本『大般涅槃経』(三六巻)が 完成する。これによって南朝仏教では涅槃研究が盛んになったといわれ るが、ときを同じくして宗炳によって不滅の「神」と常住の「法身」が 結びつけられたのである 42 。 宗炳の説く「神」は「輪廻の主体」と「法身」の二義を含んだものと いわれる。『明仏論』には次のように述べられている。 精神不滅、人可成仏。心作万有、諸法皆空。 (大正五二・九中) 宗炳は、精なる神は滅びることがないので人は成仏できるという。ま た、心によって〔天地の間に存在する〕あらゆる事物が作られ、諸法は みな空であるといい、諸法と空性の関係を力説する。 ①今称一陰一陽謂陰陽不測之謂神者。蓋謂至無為道陰陽両渾。故曰 一陰一陽也。自道而降便入精神。常有於陰陽之表、非二儀所究、故 曰陰陽不測耳。君平之説一生二謂神明是也。…則②文稷之霊不可謂 之滅矣。斎三日必見所為斎者。寧可以常人之不見而断。…今以不滅 之神含知尭之識。…中略…③夫洪範庶徴休咎之応、皆由心来。逮白 虹貫日太白入昴、寒谷生黍崩城隕霜之類、皆発自人情。…中略…然 ②群生之神夫極雖斉、而随縁遷流成麁妙之識。而与本不滅矣。…中 略…又云。③心為法本心作天堂、心作地獄、義由此也。是以清心潔 情必妙生英麗之境、濁情滓行永悖於三塗之域。 (大正五二・一〇上一一上) 傍線部①は、前掲した資料【ⅱ】神霊が世界を生成するもとであると いう記述と一致している。傍線部②は、中国の伝統的な儒教祭祀儀礼を 例として、文王などの先聖の「霊」が滅びることのないさまをあらわ し、聖人の「霊」を祀る対象を述べたものである。一般人に「霊」が見 えないとしても、神が滅びたと判断することはできないという。不滅な る神には聖人と同じような識(認識作用)があり、群生における神の極 みは斉しくあるが、縁にしたがって麁・妙の識が分かれるのであって、 その根本的なものが滅びることはないと説く。傍線部③は、自然界に生 ずる白い虹が太陽を貫き、太白星が東方に沈み、谷に黍が生じ、城が崩 れ、霜が降りるなどの災い現象は、心のはたらきより起こると説くもの である。したがって、心によって天堂も地獄も作られ、心を清らかにす れば必ずすぐれて美しい境に生まれ、心と行いが汚されれば永遠に三途 の世界に落ちることになるという。 ④夫生之起也、皆由情兆。…中略… ⑤識能澄不滅之本。禀日損之學、損之又損。必至無爲、無欲欲情、 唯神獨映則無當於生矣。無生則無身、無身而有神、法身之謂也。
魏 藝 WEI Yi 26 (大正五二・一〇下) 傍線部④は、「生」が起こるのは、心のはたらきによるからである。 この点は「有情於化、其生不絶」と説く慧遠の見解と一致している。傍 線部⑤は、識は不滅の本(神)を澄ませることができ、肉体がなくても 「神」があり、これを法身というのであると述べている。以上、宗炳の 見解をまとめてみると、以下の三点となろう。 ア、法身観。成仏後の神は法身(仏陀の常住性)である。 イ、仏陀観。仏陀と聖人を同一視し、最極の精なる「神」を「霊」 とする。 ウ、行者の心。人の心によって世俗世界のあらゆる事物が作られ、 人の感によって自然における災いが招く。人には認識作用があ り、仏道を歩み見仏聞法して成仏することが可能である。 慧遠から宗炳までは一貫して「神不滅論」が基調として説かれてお り、「仏陀観」「粗・精という神の二分説」「心・識の仏教」という点 では、ほぼ見解が一致していると考えられる。 次に第二期における宗炳以外の人物にも注目してみよう。顔延之の 『釈何衡陽達性論』 43 には以下のように述べられている。 然①総庶類同号衆生、亦含識之名。…中略…又知大制生死同之栄 落。類諸区有誠亦宜然。然神理存没儻異於枯 荄 変謝。就同草木便当 煙尽。而復云②三后昇遐精霊在天、若精霊必在、果異於草木。 (大正五二・二二中) 要するに、聖人には精なる霊があるが草木にはなく、人や聖人の生死 と草木の栄枯は異なるものであると述べているのである。したがって、 顔延之の説く衆生は認識作用を有する類のみを指し、草木などは一生の みの存在で、涅槃の対象とならないと見ていたことが知られる。宗炳は 草木非成仏説を明言していなかったが、慧遠にせよ宗炳にせよ修行者の 立場に立っての仏道実践を奨励し、後述するように修行者の心によって 結果の報いのあることを強調していた。この点は南朝の仏教信仰者に共 有されたものである。 宗炳の時代がおわり、その後に中国仏教に大きな影響をもたらすの は、梁武帝の『神明成仏義』である。先学の指摘にもあるように、これ をもって神不滅についての論争は終息していく 44 。この『神明成仏義』に よって、「心・意・識」を中心とした成仏義が確立され、如来蔵思想に 基づく理論が展開したと見なされている 45 。ここでは、心・識・意におけ る成仏の因、そして「土石無心」に関する言及に注目したい。 『神明成仏義』は、「心・意・識」の関係性をより明確に解釈してい る。すなわち、 【1】識者心也。故成実論云心意識体一而異名、心既信矣将何疑乎。 (大正五二・五四中) と述べている。『成実論』を引用し 46 、「心・意・識」の三者の関係性は 「体が一であり、名が異なる」という。次に精なる神が妙果に帰するあ り方について、 【2】何者源神明以不断為精、精神必帰妙果。 臣績曰。神而有尽寧謂神乎。故経云吾見死者形壊体化而神不滅。随
行善悪。禍福自追。此即不滅断之義也。若化同草木則豈精乎。以其 不断故終帰妙極。憑心此地則触理皆明、明於衆理何行不成、信解之 宗此之謂也。 (大正五二・五四中) と述べる。これを見ると明らかなように、南朝にかけて「神」は善悪な どの行いの報い、福禍を帰す主体と見なされ、精なる神は妙果に至ると 肯定的に述べられていることが知られる。そして、続いて成仏の主体に ついての問答を展開する。 【3】若心用心於攀縁、前識必異後者、斯則与境倶往、誰成仏乎。 臣績曰。夫心随境動是其外用。後雖続前終非実論、故知神識之性湛 然不移、湛然不移故終帰於妙果也。 これを見ると、神識には湛然として移ろわない本性があり、成仏の主 体こそが神識であると理解していたことがわかる。 【4】経云①心為正因終成仏果。 臣績曰略語①仏因其義有二、一曰縁因、二曰正因。縁者万善是也、 正者神識是也。万善有助発之功故曰縁因神識是其正本、故曰正因。 既云終成仏果斯験不断明矣。 又言。若無明転則変成明、案此経意理如可求。何者夫①心為用本、 本一而用殊。…中略…一本之性不移。一本者、即無明神明也。 臣績曰②神明本闇即故以無明為因。 尋無明之称非太虚之目、土石無情豈無明之謂。 臣績曰。夫別了善悪匪心不知、明審是非、匪情莫識。太虚無情故不 明愚智。③土石無心寧弁解惑。故知解惑存乎有心、愚智在乎有識、 既謂無明則義在矣。 (大正五二・五四中) ここで注目したいのは、①成仏の因には縁因(善の行い)と正因(神 識)の二つがあるということ、②神は無明の闇の中にあるから無明を もって縁因とするということ、③土石は心がないので解惑もないことの 三点である。換言すれば、成仏の正因は神識であり、万善のみならず無 明も縁因となり、心があることによって解脱や煩悩があり、識があるこ とによって愚も智もあるということになろう。要するに、心があってこ そ成仏が可能であると考えていたことが知られるのである。 このように見てくると、心があるからこそ識があり、無明から明への 転換ができるのであり、「草木無情」「土石無心」の類は成仏できない という理論は、すでに南朝において一般化していたといってよいであろ う。ここでは詳しい検討を行わないが、南朝僧である僧柔(四三一 ― 四九四)、智蔵(四五八 ― 五二二)なども心識と仏性を持ち込み、成仏 論を展開していることが見られる 47 。 以上の用例から、『神明成仏義』↓『明仏論』『釈何衡陽達性論』↓ 『沙門不敬王者論』と逆に遡っていくと、すでに『沙門不敬王者論』の 段階において、「有情」=含識である衆生は涅槃に入ると理解されてい た。「無情非成仏説」の萌芽的なものが慧遠の著作の中にあるといえ る。すなわち、慧遠が提唱した素朴的な「有情」「無情」説こそ、後世 の無情非成仏説の原初形態となっていたのである。 四、慧遠の信仰対象 廬山慧遠 の 浄 土観 (と く に 阿弥陀仏) に つ い て は 、 こ れ ま で 様 々 な 検 討が行わ れ て い る 48 。仏 道 実 践 と い う 視 点 に 立 て ば 、慧 遠 は 僧 俗 百 二 十 三
魏 藝 WEI Yi 28 人 と 共に 、 無 量 寿 仏 像 の前で 、 「 共 期 西 方 」 の 誓いを 立 てた ことが 有 名 である 。 これ をも っ て 慧 遠 は 中 国 浄 土 教 の始 祖 と 位 置 付 け られ ており 、 そ の ような評 価は南 宋 宗 暁 ( 一 一 五 一 ― 一一 二 四 ) 撰 『 楽 邦 文 類 』 、 志 磐 (? ― 一二 五 八 ― 一二 六 九 ― ?) 撰 『 仏祖統紀』 の 記述 に 基 づ い て い る。 宋代以後 の 浄 土教 は い ずれ も廬山慧遠を高く評価す る の で あ る 。 し か し な が ら 、 慧 遠 に 阿 弥 陀 仏 と い う 特 定 の 信 仰 対 象 が あ った か ど う か につ い ては 慎 重 にならね ば な ら な い。 これ を 検 討 す るのが 本 章の目 的 で あ る 。 まずは以下の『出三蔵記集』の内容に注目したい。 ①遠乃於精舎無量寿像前建斎立誓共期西方。其文曰、…中略…乃延 命②同志息心清信之士百有二十三人、集於廬山之陰般若台精舎阿弥 陀像前、率以香華敬 廌 而誓焉、②惟斯一会之衆、…中略…今幸以不 謀而僉心西境。…中略…然③其景績参差功不一、雖晨祈云同帰悠、 即我師友之眷、良可悲矣。是以慨焉、胥命整襟法堂、等施一心亭懐 幽極、誓茲同人倶遊絶域。 (大正五五・一〇九下 ― 一一〇上) ここは四〇二年、慧遠が廬山の般若台で行った念仏結社の実態を記し たものである。要点を述べれば以下の三点となる。①阿弥陀仏像の前で 共に誓いを立てて西方願生を期した。②同じ志を持つ出家者・在家者の 百二十三人が無量寿仏の前に集まった。③この集会に参加した人々は機 根や修行のレベルが異なるけれども、姿勢を正しくして、皆と共に超絶 な域へ行こうと願う、ということである。 ま た 、慧 遠 の 『 仏 影 銘 』 ( 四 一 三 ) に よ れ ば 、彼 は 晩 年 に な っ て 廬 山 の 仏 影 台の前でも 類 似の集 会 を 開 くことがわかる 。 こ の 「 仏 影 」 に つ い て は 、 『大智度論』 初品 「十方菩薩来釈論第十五 」 に 次 の よ う に 述 べ ら れ ている 。 〔法身常放光明常説法…中略…如是衆生心清浄則見仏…中略〕復次 如釈迦牟尼仏在閻浮提中生在迦毘羅国、多遊行東天竺六大城、有時 飛到南天竺億耳居士舎受供養、有時暫来北天竺月氏国、降阿波羅竜 王。又至月氏国西、降女羅刹。仏在彼石窟中一宿、于今仏影猶在。 有人就内看之則不見、出孔遥観光相、如仏有時。 (大正二五・一二六中) 傍線部の大意を示せば、閻浮提中の迦毘羅国で生まれた釈迦仏が、東 天竺・南天竺・北天竺、あるいは月氏国などに行って億耳居士や龍王・ 女羅刹を教化するというものである。その際、石窟の中に一宿した釈迦 仏の残した仏影が現存し、まさしく仏がこの世にいる時と同じようであ ると述べられている。波線部の「法身が常に説法し、衆生の心が清浄で あれば、見仏できると関連させて考えれば、仏影が明らかに釈迦仏法身 の現れと見なされていることが推測される。衆生の心と見仏との関係も 明示されていて興味深い。 慧遠には『大智度論』を簡潔にまとめた『大智論抄』なる著作(散 逸)があり、かつ『仏影銘』を著していることに鑑みると、慧遠が「仏 影」に相当な関心を払っていたことが分かる。すなわち、『仏影銘』に は、 遠昔尋先師奉侍歴載、…中略…遇西域沙門輒餐遊方之説、故知有仏 影、而伝者尚未暁然。及在此山値 罽 賓禅師南国律学道士、与昔聞既 同。 (大正五二・一九八上) とある。その昔、慧遠は道安の門下にあり、西域の沙門から様々な伝説 を聞き、仏影があることを知ったとある。伝の内容については定かでは
ないが、廬山で 罽 賓禅師・南国律学道士 49 と出会ったことを述べているの であろう。そして慧遠は仏影を図像化 50 して、釈迦仏像とするのである。 『仏影銘』には以下のようにある。 ①今之聞道者、咸 聖体於曠代之外、不悟霊応之在茲。徒知円化之 非形、而動止方其跡、豈不誣哉。…中略…然後②験神道無方触像而 寄、百慮所会非一時之感、於是悟徹其誠応深其位、③将援同契発其 真趣、故与夫随喜之賢、図而銘焉。 (大正五二・一九八上) その大意は以下の三点である。①今の仏教信仰者はみな聖体(入滅し た釈迦仏)を模倣しているものの、釈迦仏の応現がここにあることを知 らない。②仏教の教化には定まったあり方はなく、多様な仏のすがたを とって現れる。③同じ求道の目的を抱く者をたすけ、真道に発趣し、同 じく仏道に帰依する人々と共に仏影を描いて銘文を著すと述べている。 また、銘文の最後にある奥書には、次のようにある。 晋義熙八年歳在壬子五月一日、①共立此台擬像本山、因即以寄誠。 …中略…道俗欣之感遺跡以悦心。於是情以本応事忘其労。于時揮翰 之賓、僉焉同詠。咸思好遠猷。託相異聞。②庶来賢之重軌、故備時 人於影集大通之会、③誠悲現所期、至於佇襟遐慨固已超夫神境矣。 (大正五二・一九八中) 傍線部① で は 、 四 一 二 年 の 五 月 一 日 、 皆 で 「 仏影台」 を 立 て 、 そ の 様子 をイ ン ド の本 山 51 に凝らえ て い る こ とを示 す 。 道 ・ 俗 の信 仰 者 たち は そ の 仏影を 描 い た こ と を よ ろ こ び 、 そ こ に 仏 の 遺 跡を 感 じ 取 っ て 心 か ら 悦 ぶ と述 べ ら れ て い る 。 ま た、 傍 線 部 ② で は 将 来 の 仏 教 信 仰 者 であ る賢 者た ちに も 同 じ よ う な よろこ び を 味 わ せ たいと 思 い 、 そのた め に 私 た ち のよ う な ものが 仏 影 の 前 に 集 ま るこ とは 大 通 覆 講 を 模 している という 。 次 い で 、 傍線部③ で は 誠 に 仏 の 慈悲 の 現 れ を 期待 し 、 そ れ に よ っ て 必 ず 彼 の 仏が開 い た神な る ( 超 越的な) 境 地 に 達 す る だ ろ うと述 べ ら れ て い る。 仏影台での集会を『法華経』「大通覆講」に擬らえているのは興味深 い。つまり、大通覆講で語られる釈迦仏は時間的・空間的に超越する仏 (法身)と考えられているのであり、詳細な検討は今後の課題とする が、「晋襄陽丈六金像讃序」に示される釈迦仏像への讃嘆文からして も、ここに慧遠の法身理解があったといってよいであろう。また、『仏 影銘』には釈迦仏の霊応があって、衆生の機根に応じて諸々の仏のすが たが現れるという指摘もなされている。このように見れば、慧遠が釈迦 仏と多種多様な仏(阿弥陀仏・大智通勝仏)をどのように関連づけてい たのかが理解できるであろう。 そのほか、慧遠の時代には諸仏諸菩薩への讃嘆文や銘文が多く見ら れる。道宣(五九六 ― 六六七)撰『広弘明集』一五巻には、支道林 (三一四 ― 三三六)の「釈迦文仏像讃」「阿弥陀仏像讃」、謝霊運の 「仏影銘」、謝霊運と従弟恵連(三九七 ― 四三三)の「無量寿讃」、殷 晋安 52 (? ― 四一一 ― ?)「文殊像讃」など 53 が現存している。慧遠自筆の 書物には弥陀とその浄土に関する直接的な描写や言及があまり見られな いが、『大乗大義章』第十一問「次問念仏三昧並答」には、念仏三昧に よって見仏することが述べられている。これは慧遠の禅定実践と見仏と を関連させたものであり、行者と信仰対象である仏との直接的な結びつ きをあらわしているといってよいであろう。 なお、宗炳の「答何承天書難白黒論」(四三二 ― 四三五)には、神と 無量寿仏の信仰を関連づけた、次のような文章が見られる。
魏 藝 WEI Yi 30 夫神光霊変及無量之寿、皆由誠信幽奇、故将生乎仏土親映光明其寿 無量耳。 (大正五二・一八下) すなわち、宗炳は「無量寿仏土に生じる」ことを意識している。これ は、一言で宗炳の弥陀信仰が窺えるものといってよいであろう。 ま た 、 謝 霊 運 と 恵 連 の 「無量寿讃」 に は 、 次 の よ う に 述 べ ら れ て い る 。 法蔵長王宮、懐道出国城。①願言四十八、弘誓拯群生。②浄土一何 妙、来者皆清英。頽年欲安寄、乗化必晨征。 (大正五二・二〇〇上) 傍線部①は、法蔵菩薩が四十八願を立て、衆生を救うと弘く誓ったこ とを述べる箇所である。②は、弥陀浄土が妙であること、来るものがみ な精英であることが述べられている。明らかに四十八願系の浄土信仰を あらわしている。このように、阿弥陀仏の弘願によって衆生が救済され ることは、一般の在家信仰者の詩文によっても窺えるのである。謝霊運 と慧遠に直接的な関係があったことから考えると、慧遠教団及びその周 辺に弥陀浄土信仰を意識していると考えられる。四〇二年の「僉心西 境」「倶遊絶域」という誓願文や四一三年の仏影の前での「超夫神境」 という銘文を見ると、慧遠にも弥陀浄土への願生のあったことが知られ るのである。これは、後世の阿弥陀仏のみに頼り、弥陀浄土へ往生する 信仰とは異なる。 以上のように、慧遠は特に釈迦仏と弥陀仏に対する信仰があったと考 えられるが、決して慧遠は釈迦や弥陀以外の諸仏への信仰を否定してい たわけではない。そのため、慧遠はそれぞれの能力に応じて現れる仏の すがたを容認していたと考えられる。涅槃を獲得することも、弥陀浄土 に願生を願うことも、それらはすべて輪廻から脱することにつながるの である。慧遠の役割は自身のもとに集まる様々な機根の人々を「教化」 「勧化」することにあったからである。初期中国仏教における弥陀信仰 の様相に関しては、より詳細な考察が必要であるため、今後の課題とし たい。 五、むすび 以上、 中 国人仏 教 者と し て の 廬 山慧遠 の 教学 に つ い て 検 討 し て き た 。 経典解釈 に 関 す る 注釈書 が 少 な い と い っ て も 、 戒 ・ 定 ・ 慧 の 三 学 に 基 づ く 仏道 を 勧 め 、 自利 と 利 他 の 行を 実践 し た 沙門 と し て の 慧 遠 の 上 に 、 中国 僧 侶 の あ り 方 が 確 実 に 反 映 さ れ て い た こ と が 明 ら か に なった の で は な か ろ う か 。 後世 に お け る 教相判釈 は 、 い わ ゆ る 釈迦仏 が 生 涯 に わ た っ て 説 いた 経 典 を 形 式 ・ 内 容 ・ 順 序 か ら 分 類 し 、 体 系 づ け る こと を 目 的 と し た も の で あ る 。 無論、 慧 遠 に は 教相判釈 の 提示 は 見 ら れ な い が 、 彼 は 当時 における 仏 教 受 容 の現 状 を 踏 ま えた理 論 を 確 実に 構 築 し て おり 、 そ うい う意味 に お い て は 彼も中国 仏 教 の 骨 組み を作 っ た と い っ て よ い で あ ろ う 。 情を心のはたらきとして捉え、そして神が心(意・識)に持ち込ま れ、神不滅論の基調の上にたった慧遠は、「無情」「有情」を分類し、 無情(草木土石類)が輪廻あるいは涅槃の対象とはならないと指摘す る。『大乗大義章』において羅什は「仏有不可思議神力教化、能令草木 説法往来」(大正四五・一三四上)と説いたが、慧遠は晩年の著作『仏 影銘』に「妙尋法身之応、…中略…有情同順」(大正五二・一九七下) と論じた。したがって、慧遠の仏教は実践の立場であり、有情の立場で あるため、無情を議論の対象とはしなかったのである。なお、神不滅論 争が終息する頃になると、成仏の因を分析する際に、明確に土石無心で
あるから成仏の因がないと論じるようになっていく。のちに「一切衆生 悉有仏性」と説く『大般涅槃経』の研究が盛んになるにしたがって、こ れに気づいた後世の人師達 54 は、「理」の立場から無情も成仏可能である という新たな解釈を提唱していくことになるが、それよりも一足早く、 慧遠が神という概念に注目し、『沙門不敬王者論』において、有情・無 情を分類していることは特に注目すべきところである。 宋代以後、慧遠が浄土教の祖であると公認されていくが、慧遠の仏像 前での集会活動から見ると、特定の一仏ではなく、釈迦仏・阿弥陀仏・ 大智通勝仏あるいは他の名号を有する仏なども信仰対象であったに違い ない。 慧遠教学の一本の筋は心に関わる「神」であり、不滅の神が輪廻・涅 槃・浄土に生まれるという理論が形成され、これが広く受容されること で中国仏教を展開する基盤が築かれたと言える。 なお、筆者は廬山慧遠の法身理解と初期中国における唯心仏教の展 開、南朝の敦煌文献羽二七一『不知名題仏経義記』に記述される「浄土 義」などを検討することによって南朝仏教の実態を明らかにすることが できると考えているが、これは今後の研究課題としたい。 1小林正美[一九九三]『六朝仏教思想の研究』(創文社)を参照。 2六朝における中国の業思想はインドの業理論と中国古来の業理論を融合させた ものであるといわれる。雲井昭善[一九七九]『業思想研究』(平楽寺書店) を参照。 3慧遠の自筆の書物に神と浄土について明確な記述が見られなかったが、「神 不滅論争」に関する文献『宗居士炳答何承天書難白黒論』 ( 『弘明集』所収) に慧遠の弟子宗炳の「勤西方法事」という記述がある。その中に、「神」と 「無量之寿」とを結びつけて、浄土に生まれる主体が神であると述べている。 村田みお[二〇〇九]「仏教図像と山水書 ― 廬山慧遠「仏影銘」と宗炳「書山 水序」をめぐって ― 」(京都大学中国哲学史研究室編『中国思想史研究』に収 録)を参照。 4ひとの魂(神)が死後も存続するか否かについて、仏教者と他の思想家の間で 論争が行われた。仏教側は神の常住性を主張し、業の代わりに「神」を用いて 輪廻の主体とみなした。詳しくは、中嶋隆蔵[一九八五]『六朝思想の研究』 (平楽寺書店) 、伊藤隆寿[一九九二]『中国仏教の批判的研究』(大蔵出 版) 、小林正美[一九九三]などを参照。 5落合俊典[一九八四]は、中国文化の根源たる「聖人とは何か」と「いかに 聖人となるか」の問題を仏教経典に説かれる真理より究明しようと指摘してい る。( 「南朝前半期における教相判釈の成立について」 、福永光司編『中国中 世の主宗教と文化』(京都大学人文科学研究所)所収。 6先行研究としては、木村英一[一九六二]『慧遠研究』〈研究篇〉(創文社) などがある。 7塚本善隆[一九六二]「中国初期仏教史上における慧遠」 ( 『慧遠研究』〈研 究篇〉所収) 、三四 ― 三五頁。 8安藤俊雄[一九六二]「廬山慧遠の禅思想」 ( 『慧遠研究』〈研究篇〉所収) では、慧遠の大小乗禅観に関して論述されている。 9『高僧伝』によれば、慧遠は「義解」僧に属している。義解とは経典などの意 義や内容などを解釈すること、また、教義などをよく了解することである。諷 味遺典とは経典を研鑽することであると理解してよい。 10『魔訶般若波羅蜜経』(羅什訳、四〇六年)若六斎日、月八日二十三日十四日 二十九日十五日三十日。 (大正八・ 三一〇下)。『大智度論』復次此六斎日、 悪鬼害人悩乱一切。若所在丘聚郡県国邑。有持斎受戒行善人者、以此因縁悪鬼 遠去、住処安隠、以是故六日持斎受戒得福増多。 (大正二五・ 一六〇上) 。 六 斎日の持戒は福が多いと説かれる。 11『高僧伝』以晋義熙十二年八月初動散、至六日困篤。大徳耆年皆稽 顙 請飲 豉 酒、不許。又請飲米汁不許、又請以蜜和水為漿、乃命律師令披巻尋文得飲与 不、巻未半而終。 (大正五〇・三六一中) 。
魏 藝 WEI Yi 32 12福永光司[一九六二]「慧遠と老荘思想 ― 慧遠と僧肇 ― 」 ( 『慧遠研究』〈研 究篇〉所収、後に『魏晋思想史研究』に収録(岩波書店、二〇〇五年) )を参 照。 13『高僧伝』 遠 創造精舎…中略…復於寺内別置禅林。 ( 大正五〇 ・ 三 五八中) 。 慧 遠が精舎を作る際に坐禅修行のため の道場を設けていたことが記されている。 14『出三蔵記集』般若経問論集二〇巻〈即大智論抄或云要論或云略論或云釈 論〉 、右一部凡二十卷。廬山沙門釈慧遠。以論文繁積学者難究故略要抄出。 (大正五五・三八上)。 15『大智度論』仏法中有二諦、一者世諦、二者第一義諦。 ( 大正二五・ 三三六 中) 。宗炳「答何承天書難白黒論」仏教所謂本無者、非謂衆縁和合者皆空 也。垂蔭輪奐処物自可有耳、故謂之有諦。性本無矣、故謂之無諦。 (大正 五二・一八上) 。 16「次重問法身並答」謂法性生身妙行所成、毘摩羅詰経善権品云、如来身者、法 化所成。 (大正四五・一二三上 ― 中) 。 17「次問法身仏尽本習並答」若如法華経説、羅漢究竟、与菩薩同。(大正 四五・一三〇下)。 「次問羅漢受決為仏」来答称、法華経説、羅漢受記為仏。 (大正四五・ 一三三 上) 。 『出三蔵記集』に「妙法蓮華経序釈慧遠」という記述があるので、慧遠が羅什 訳『法華経』を研鑽したことは明白である。 18「次問念仏三昧並答」念仏三昧、般舟経念仏章中説。 (大正四五・ 一三四 中) 。 19久保田量遠[一九三一] 『 中国儒道仏三教史論』(国書刊行会) 、 村上嘉実 [一九七四]『六朝思想史研究』(平楽寺書店)などがある。 20村上嘉実[一九六二]は、宗教団体も政治圏外に立つことができず、権力と妥 協し、その庇護の下に存立を計るのが賢明の策とされていたと指摘している。 ( 「廬山慧遠の方外思想」、〈研究篇〉所収)。 21『弘明集』廬山慧遠法師答桓玄書沙門不應敬王者書並桓玄書二首。 ( 大正 五二・八三下) 。 「遠法師答」は桓玄からの書簡に対する返信である。 22小林正美[一九九三]は、慧遠は儒教における帝王の政治活動と仏教における 出家者の宗教活動を同一視しながら、人民を教化し救済する目的は同じである と指摘している。 23厚生 :①使人民生活充裕。『書・大禹謨』正徳、利用、厚生、惟和。②謂重 視養生以保長寿。三国・魏思想家 康『答難養生論』祇足以災身、非所以厚生 也。 ( 『漢語大詞典』 、九二二頁) 。 24王充『論衡』 「 道虚 」有血脈之類、無有不生、生無不死。以其生、故知其死 也。天地不生、故不死。陰陽不生、故不死。死者、生之效。生者、死之驗 也。夫有始者必有終、有終者必有始。唯無終始者、乃長生不死。(山田勝 美[一九七六]『論衡』「道虚二十四」( 『新釈漢文大系』六八巻、明治書 院) 。道教の生死観を表し、「長老不死」を求める目的である。 25玄路 :道家用語、謂昇天之路。 ( 『漢語大詞典』、巻二、 二 〇六四頁) 。 ここで は超越的な世界に達する道を指す。 26『広弘明集』 : 精進者為沙門、漢言息心。出范曄後漢書。 ( 大正五二・ 九九 中) 。 27非情成仏非成仏に関する議論が仏性論争の一環としてよく知られる。南宋宗暁 (一一五二 ― 一一二四)編『四明尊者教行録』に「再答日本国十問」 、第三問 「非情草木成仏非成仏疑」とある。日本・中国仏教の共通課題であったといっ てもよい。ほか、珍海(一〇九一 ― 一一五二)記『大乗正観略私記』、珍海撰 『三論玄疏文義要』にも同趣旨の文が見られる。 28中村元[一九八四]は、心はわれわれの精神作用であって、何かの機縁によっ て自覚され、意識の対象となると定義した。また、伊東倫厚[一九八四]「中 国古代における心及びそれに連なる諸概念」を参照。(中村元編『心』(平楽 寺書店) 。 29「三法度序」禅思入微者、 挹 清流而洗心。 (大正五五・七三上) 。 「念仏三昧詩集序」洗心法堂。 (大正五二・三五一下) 。 『沙門袒服論』背華俗以洗心。 (大正五二・三二下) 。 「廬山出方便禅経統序」是故洗心静乱者、以之研慮。 (大正五五・六五下) 。