1世紀のユダヤ世界におけるサマリア人観
著者
大宮 有博
雑誌名
神学研究
号
58
ページ
25-36
発行年
2011-03-20
URL
http://hdl.handle.net/10236/7811
はじめに
ルカ文書の示すキリスト教宣教の枠組みにおいて、サマリア人宣教(使8:4-25)は 重要な転換点になっている(1)。ルカ文書において「神の民」はイスラエルから教会に 置きかえられたと主張するコンツェルマンやヘンヒェンは、サマリア人宣教はユダヤ 人宣教から異邦人宣教への過渡的段階であると考える(2)。それに対して、ルカ文書に おいて「神の民」は未だイスラエルを意味しているとするイェルヴェルは、サマリア 人はユダヤ人に内包されていると主張する(3)。この問題にアプローチするにあたって、 1 世紀のユダヤ世界のサマリア人観を検討することは有効である。また、当時のユダ ヤ人の持つサマリア人観を解明することは、第二神殿崩壊直後のユダヤ人アイデン ティティーの形成を考察するための重要な手がかりとなる。 本論の課題は、第二神殿崩壊前後のユダヤ人がサマリア人をどのように認識してい たかを、1 世紀前後のユダヤ文献――ヨセフスの『古代誌』、外典・偽典、ラビ文献― ―を史料にして検討することにある。まず、これらの文献の著者が、ユダヤ人のアイ デンティティーの枠のなかにサマリア人を置いていたかという点を検討する。次に、 新約聖書に見られるようなサマリア人に対するユダヤ人の敵意に注目する(ex. ヨハ 4:9)。このような敵意が、実際にはどのように顕在化したかを検討する。 ( 1 ) 大宮有博「ルカ文書におけるサマリア人」『新約学研究』第 38 号(2010 年)、5-20 頁を参照。 ( 2 ) ハンス・コンツェルマン『時の中心』新教出版社、1965 年、243-250, 274-282 頁など。E. Haenchen,The Acts of the Apostles: A Commentary (trans. R. McL. Wilson; Philadelphia: Westminster, 1971), 98-103 et.al.
( 3 ) J. Jervell, "The Lost Sheep of the House of Israel: The Understanding of the Samaritans in Luke-Acts," in Luke
and the People of God. A New Look at Luke-Acts (Minneapolis: Augsburg, 1972), 113-32. ちなみに、イェル
ヴェルはキリスト教の宣教者はユダヤ人と「神を畏れる者」(シナゴーグに連なる異邦人)に対して のみ福音を伝えたと主張する。彼によると、ユダヤ人は福音をめぐって分裂し、福音を受け入れたユ ダヤ人こそが「復興のイスラエル」であるとルカ文書は描いている。Cf. J. Jervell, "The Divided People of God: The Restoration of Israel and Salvation for the Gentiles." in Luke and the People of God: A New Look
at Luke-Acts [Minneapolis: Augsburg, 1972], 41-74.
1.ヨセフス『古代誌』
『古代誌』にはサマリア人についての記事が散見される。しかし、ヨセフスはサマリ ア人の起源や生活にまで精通しておらず、おそらくユダヤ人がサマリア人に対して持 つイメージを反映させて記事を書いたと推察される(4)。したがって我々は『古代誌』 を、サマリア人とユダヤ人の関係史の史料としてではなく、1 世紀のユダヤ世界のサ マリア人観を知る手がかりとして用いる。本節では二つの点が問題となる。まず、ヨ セフスがサマリア人をユダヤ人と認めていたのかが問題となる(5)。次に、ヨセフスの 書物には反サマリア的傾向が認められるのかが問題となる(6)。 1.1. アッシリアによる北王国の滅亡と異民族の移住 ヨセフスは、『古代誌』9 巻の終わり(9.277-290)で、列王記下 17 章を史料にして 北王国の滅亡と異民族の移住について報告し、その事件をサマリア人の起源とする説 明を試みる。ヨセフスによる史料改変の手は、主に次の三点である。まず、列王記下 17 章では北王国の全住民が連行されたとは明言されていないのに対して、ヨセフス は、北王国の領土からイスラエルの全住民が連れ去られ、ペルシアのクタ人に入れ替 えられたとする(7)。次に、異民族の移住について、列王記ではいくつかの民族名が列 挙されているのに対して、ヨセフスはクタ人のみを挙げる(8)。重要な第三の手は、彼 ( 4 ) R. J. コギンズ「ヨセフスとサマリヤ人」L. H. フェルトマン編『ヨセフス研究 2 ヨセフスとキリスト 教』山本書店、1985 年、116 頁。なお、『古代誌』の年代設定については『古代誌』20.267 に、本書 の執筆を「ドミティアヌス帝の13 年」とする記事があるので、本書執筆を 93-94 年とする。( 5 ) エガーは、ヨセフスがサマリア人をユダヤ人と認めていたと主張する(Rita Egger, "Josephus," in A
Companion to Samaritan Studies [eds. A. D. Crown and R. Pummer; Tübingen: Mohr, 1993], 139)。エガーは、
『古代誌』12.7-10; 18.85-89 と『戦記』3.307-315 を根拠に挙げる。コギンズも、ヨセフスが「ユダヤ 教のさらに広いスペクトルの中の宗教グループ」と認めていたとする。コギンズのこの主張の根拠
は、ローマ時代の言及に限られている(コギンズ、「ヨセフスとサマリヤ人」107 頁)。ヴァン・デ
ア・ホルストは、ヨセフスがサマリア人を「真の改宗者」として描いたと主張する(P. W. Van der
Horst, "Anti-Samaritan Propaganda in Early Judaism," in Persuasion and Dissuasion in Early Christianity,
An-cient Judaism, and Hellenism [eds. Willem van der Horst, Maarten J. J. Menken, Joop F. M. Smit, Geert Van
Oyen; Leuven: Peeters, 2003], 28)。
( 6 ) コギンズやコーヘンなど多くの研究者がヨセフスの反サマリア的傾向を認めているが、エガーやヴァ
ン・デア・ホルストはそれを認めない。cf. R. J. コギンズ『サマリヤ人とユダヤ人 サマリヤ人の宗 教的起源再考』教文館、1980 年、31 頁。S. J. D. Cohen, Josephus in Galilee and Rome: His Vita and
Devel-opment as a Historian (Leiden: Brill, 1979), 149; Egger, “Josephus,” 139; Van der Horst, “Anti-Samaritan,” 29.
( 7 ) 「ホシェアの 9 年、アッシリアの王はサマリアを占領し、イスラエル人をアッシリアに連れて行き、ゴザ
ン川近くのアレとアボル、メデスの山々に彼らを住まわせた。」という列王記下17:6LXX の報告を、ヨセ
フスは「…イスラエル人の王国を徹底して滅ぼした。そして、すべての民(pa,nta to.n lao,n)をメディアと
ペルシアに移した。彼らとともに王ホセアも生きたまま連れていかれた。」(『古代誌』9.278)としている。 ( 8 ) 列王記下 17:24LXX では、「アッシリアの王は、バビロンからクタの人々を、またアイから、アイマト と、セファルワイムから人々を連れて来た。」を、ヨセフスは、「クタから別の民を連れ来て(ペルシア には同じ名前の川がある)、彼らをサマリアとイスラエル人の土地に住まわせた。こうしてイスラエル 人の10 部族は、彼らの父祖たちがエジプトを出立し、ヨシュアの指揮下にこの地を占領してから 947 年後にユダヤの地から出て行ったことになる。」(279)ヨセフスがクタ人のみを挙げたのは、後述する ようにヨセフスの時代、クタ人がサマリア人に対する蔑称として用いられたことによる(本論n.22)。
らの現状についての報告である。移住した民が自分たちの宗教を持ち込んだために、 神は彼らに災いをもたらした(9)。そこで、彼らはアッシリア王にイスラエルの祭司を 戻してもらい、ヤハウェへの祭儀を始めた。ところが、列王記は移住民が自分たちの 慣習を捨てなかったので、「今日に至るまで」ヤハウェ宗教と彼らの慣習が混在してい ると非難する(17:34)。それに対して、ヨセフスは「私たちと同じ慣習を今も守って いる」と述べる(9.290)(10)。ヨセフスによれば、サマリア人は血統上は外国人である が、今は「熱心に(ユダヤ人の)神に奉仕」している。つまり、ヨセフスの目から見 て、サマリア人は真の「改宗者」(prosh,lutoj)なのである(11)。「改宗者」とは、割礼 を受け、犠牲を捧げることで完全なユダヤ人になった外国人のことを言う。例えば、 ヨハネ・ヒルカノスが前2 世紀にイドゥマヤを侵略した際、彼はイドゥマヤ人に強制 的に割礼を授け、律法を守らせた(12)。こういった「改宗者」は、1 世紀のユダヤ世界 ではめずらしくはなかったし(13)、田舎者のように見られたではあろうが、彼らを排除 する慣習や法はヨセフスの時代(1 世紀)にはなかったと考えられる(14)。 ところで、9.290 の前半まで反サマリア人的感情は見られないものの(15)、9.290 後半 には次のような言葉がある。 彼らはユダヤ人が繁栄しているのを見れば、自分たちはヨセフの子孫であるから、 われわれとは本来結びついている、とぬかしてわれわれを同族扱いするが、ひと たび困難な状況に置かれたわれわれを見ると態度を豹変させ、われわれとはいっ さい関係がなく、われわれが彼らに友好を求めたり、種族関係を云々するのはもっ てのほかだと主張し、自分たちは他民族の移住者だと宣言する。(秦剛平訳) ( 9 ) 「彼らは主を畏れなかったので、主は彼らの間に獅子を送り込み、獅子は彼らの何人かを殺した。」 (王下17:25LXX)が、『古代誌』9.288-290 によると、「クタ人の各部族はそれぞれの神をサマリアへ 持ち込み、彼らの土地の慣習にしたがって神を礼拝した」が、神の怒りを買って疫病(loimo,j)をも たらされたとある。 (10) この箇所でヨセフスはサマリア人を「へブル人がクタ人と呼び、ギリシア人がサマリア人と呼ぶこの 人たち」と呼んでいる。 (11) Van der Horst, “Anti-Samaritan,” 28. (12) 『古代誌』13.257, 318; 15.253-254.
また、ユダヤ人が外国人に宣教をする場合もあった。詳しくは、S. McKnight, A Light among the
Gen-tiles: Jewish Missionary Activity in the Second Temple Period (Minneapolis: Fortress, 1991) を参照。
(13) 例えばマタ 23:15; 使 2:11; 6:5; 13:43.
(14) 1 世紀ユダヤ世界のユダヤの民族の境界線について研究するコーヘンは、割礼を受け、律法と祭儀を 遵守するイドゥマヤ人は、1 世紀においては、辺境地の民とは見られていたが、「半ユダヤ人」とみ
るユダヤ人も一部にいたものの、一般的には完全なユダヤ人と見られていたと考える。S. J. D. Cohen,
"Was Herod Jewish?" in The Beginnings of Jewishness: Boundaries, Varieties, Uncertainties (Berkeley: Univer-sity of California Press,1999), 13-24.
(15) コギンズは、このテクストを「列王記下 17 章の反サマリア的解釈」としている(コギンズ『サマリ
ヤ人とユダヤ人』、31 頁、『ヨセフスとサマリヤ人』、92 頁)。しかし、コギンズは、9.290 後半の紋切
り型の言い回しに注目するあまり、9.290 前半の「私たちと同じ慣習を今も守っている」という言及
これに似た言い回しが『古代誌』にしばしば見られる(16)。この箇所では前後の文脈 を乱して、この言い回しが出てくる。この言い回しはヨセフス自身の見解というより も、当時のユダヤ人の一般的なサマリア人に対する偏見を反映している。ヨセフスは、 サマリア人を「改宗者」と認める一方で、〈サマリア人=日和見主義者〉とするユダヤ 人の持つ見方に縛られているのである。 1.2. ペルシア時代の対立 ヨセフスは、捕囚からの帰還民とサマリア人の間に起きたエルサレム神殿再建をめ ぐる対立の記事(『古代誌』9.84-116)を、エズラ記 4:1-5 を史料にして構成した。ヤ ハウェ宗教の純粋性を目指した帰還民が、民族的・宗教的純粋性の疑わしい残留民か らの協力の申し出を断ったのは、歴代誌史家の目には当然のことである。エズラは協 力を申し出た人々を、「ユダとベニヤミンを苦しめる者」(4:1)、「その地の住民」 (4:4; o` lao.j th/j gh/j)とあいまいな呼び方をする。ところが、ヨセフスはそれをサマ リア人と名指しする(11.84)。『古代誌』において注目すべき点は、ユダヤ人は、サ マリア人が神殿の建設に参加することを認めなかったが、彼らが神殿完成後に祭儀に 参加することは認めたことである(17)。すなわち、サマリア人はエルサレムの祭儀か ら排除されていないことになる。 ヨセフスはエズラ4:4-5 に基づいて、神殿建設の協力を拒まれたサマリア人が、今 度は建設の妨害を企てたと述べる(11.85-88)。しかし、このテクストの主眼は、ク ロスの神殿建設許可状がこのことをきっかけにして発見されたことである(11.97 以 下)。 コギンズの言うように、確かにユダヤ人の寛大さに対してサマリア人の狭量さが際 立つ(18)。しかし、この記事の主眼は、あくまでサマリア人を神殿の祭儀から排除しな いユダヤ人の寛大さに置かれている(19)。 1.3. ヘレニズム時代の対立 『古代誌』のサマリア人についての記述は、ヘレニズム時代に集中する。ユダヤ人 をアレクサンダー大王が厚遇した際にサマリア人も同じ厚遇を求めたとする記事 (『古代誌』11.302-347)と、アンティオコス 4 世・エピファネスがユダヤ人を圧政し た際には自分たちがユダヤ人ではないと主張したとする記事(『古代誌』12.257-64) (16) 『古代誌』11.341; 12.257。これらの言葉には、サマリア人の「性質」(fu,sij) という鍵言葉が出てくる。 (17) 「彼らは彼らがそこで礼拝はできるが、唯一つ共にできることは、もし望むならば、他の人々と共に、 神を拝むために神殿に来ることである」(11.87)。 (18) コギンズ『ヨセフスとサマリヤ人』、94 頁。
(19) F. Dexinger, "Limits of Tolerance in Judaism: The Samaritan Example," in Jewish and Christian Self-Definition (Aspects of Judaism in the Graeco-Roman Period, vol. 2; ed. E. P. Sanders. London: SCM, 1981), 94 に同意。
は、9.290 後半部の言葉の敷衍である。 『古代誌』11.302-347 はゲリジム山神殿の非正統性とサマリア人の日和見主義とい う二つのテーマを内包するが、その眼目はゲリジム山神殿に対する批判である。ヨセ フスは、ゲリジム山神殿の建設の経緯から、正統ではない祭司がこの神殿で祭儀を 行っていると述べる(302-325)(20)。すなわち、この神殿の祭司は、ユダヤ人の純粋性 を守らずに外国人の女性と結婚したためにエルサレムから追放された祭司たちであ る。注目すべき点は、ヨセフスのゲリジム山神殿批判は、エルサレム神殿の排他的中 心主義によるものではないということである(21)。彼が問題にしたのは、ユダヤ人の 目から見てその資格のない祭司たちが、ゲリジム山神殿で祭司職に就いていることで ある。 『古代誌』11.326-345 は、アレクサンダー大王がエルサレム神殿で犠牲を捧げたこ と、律法遵守と第7 年目の貢納免除がユダヤ人に認められたこと、そして、そのこと を聞いたサマリア人が同じ特権を求めたことを報告している。アレクサンダー大王が エルサレムの神殿で犠牲を捧げたのは、大祭司の祭服を着た者が夢の中で彼にアジア 征服を予言したからである。このやりとりは、エルサレムの正統な祭司職の権威を強 調している。サマリア人がユダヤ人と同じ特権を求めたことについて、9.290 後半部 が引用されている(11.341)。 『古代誌』11.302-347 の一連のテクストを、ヨセフスはサマリア人批判で締めくく る(『古代誌』11.346-347)。この箇所によると、汚れた食物を口にしたり、安息日に 律法を破ったりしたために、エルサレムを追放された者が、「シケム人」のところに 集まって来たのである(22)。 ところで『古代誌』12.257-264 は、アンティオコス 4 世・エピファネスがユダヤ人 (20) ゲリジム山神殿の建設の経緯は次のとおり。ペルシアの総督サンバラテが自分の娘ニカソーを大祭司 ヤドアの弟マナセと結婚させた。このことにユダヤ人が激しく反発したので、マナセは祭壇に近づけ なくなった。そこでサンバラテはこの娘婿にゲリジム山に神殿を建てる約束をした。そのため、「異 国の女と結婚した者たちはマナセの所へ逃げ込んだ」(312)。そして、アレクサンダー大王がペルシ アを打倒すると、サンバラテはアレクサンダー大王に寝返り、大王の同意を得てゲリジム山に神殿を 建設した(324)。なお、ゲリジム山の神殿建設については『古代誌』11.324 に一言あるのみである。 それに対して、ハスモン朝のヨハネ・ヒルカノス1 世による破壊については『古代誌』13.275-283 (cf.『戦記』1.63)に詳しい記述がある。 (21) この記事に、そのようなことは暗示すらされていない。また、過去に、史料に残るものだけでもエレ ファンタインにもレオントーンポリスにもユダヤ人の神殿が存在していた。エレファンタインのユダ ヤ人が神殿建設のためにサマリアのサンバラトに宛てた書簡によると、彼らはエルサレム神殿の権力 ともサマリアの政権とも結びつきがあったことがわかる。B. Porten, J. Joel Farber, Cary J. Martin, and Gunter Vittmann, eds. The Elephantine Papyri in English: Three Millennia of Cross- Cultural Continuity and
Change. Documenta Et Monumenta Orientis Antiquis Volume 22. Leiden: E. J. Brill, 1996, 139-144, B19
(Cowley 30).
(22)「シケムのシドン人」(この箇所の他に 11.344; 12.258)あるいは「シケム人」、「クタ人」とサマリア
人が呼ばれるのは、彼らの異邦人性を揶揄する蔑称と推定できる。詳しい議論については田中穂積 「「ヨセフス『ユダヤ古代誌』一二・二五八―二六四について――サマリア人の請願書とアンティオコ
を弾圧した時に、先にユダヤ人であると主張し彼らと同じ特権を得たサマリア人が、 それを打ち消したという記事である。すなわち、サマリア人は書簡を送り、自分たち はもともと移住民であると主張し、ユダヤ人が命がけで拒絶したヘレニズム化の受容 の証として、ゲリジム山神殿をゼウス・ヘレニオスに捧げたのである(23)。12.257 は 9.290 後半部の言葉を言い換えている。これらのことから、11.302-347 と 12.257-264 は、 日和見主義をサマリア人の性質とする9.290 後半部の言葉を敷衍していると言える。 1.4. ローマ時代の対立 ローマ時代の記述になると、サマリア人を日和見主義とする記事はなくなる。この 時代のサマリア人についての記述は以下の三箇所である。 まず、『古代誌』13.74-79 には、アレクサンドリアにおいて、エルサレムとゲリジ ム山のどちらの神殿が正統かを、ユダヤ人とサマリア人が王の前でディベートし、サ マリア人が負けたことが報告されている(24)。次に、『古代誌』18.85-89 には、ピラ トゥスによるゲリジム山でのサマリア人の虐殺事件が述べられている。この記事の主 眼はピラトゥスの悪行とローマがこの彼の悪行を正しく裁いたことに置かれている。 さらに、『古代誌』20.118-136(cf.『戦記』2.233-246)にはサマリア人とガリラヤ人 の間で起きた騒乱が報告されているが、この記事の主眼もローマの正しい裁定に置か れている。この二つの事件はヨセフスと同時代に起きたものであるが、ヨセフスはサ マリア人に対する敵意を見せず、冷静に彼らを見ている。 【小括】ヨセフスにとって、サマリア人はイドゥマヤ人と同じ意味での「改宗者」で あり、ユダヤ人の枠の隅にぎりぎり入る。『古代誌』には反サマリア的傾向は見られ ず、むしろヨセフスは冷静にサマリア人を見ている。しかし、ヨセフスはサマリア人 を日和見主義と断定する言葉を繰り返すことで、サマリア人に対するユダヤ人の見方 を歴史の叙述によって補強したのである。
2.外典・偽典
ここで検討する『ベン・シラの知恵』50:25-26 は、ユダヤ人のサマリア人に対する 敵意を示す最古の言及である。また、『預言者イザヤの殉教と昇天』と『エレミヤ余 録』は、いずれも1 世紀後半にユダヤ人によって書かれ、キリスト者の間に流布した とされるものである。これらの偽典のどの部分がユダヤ人筆者によるもので、どの部 (23) 二マカ 6:2 にも、このことを示す記事があるが、随分と改変が見られる。 (24) 『古代誌』12.7-9 の記述は、この事件の前提を提供している。アレクサンドリアのユダヤ人はエルサ レム神殿のみを唯一の聖なる場所であるのでそこに犠牲を送ろうと望んだのに対して、「シケム人」 はゲリジム山に送ることを望んだ。分がキリスト者の手なのかを見分けるのはほぼ不可能である。しかし、キリスト教が ユダヤ教のなかで胎動する時代、サマリア人がユダヤ人の間でどのように認識されて いたかを知る手がかりにはなる。 2.1. 『ベン・シラの知恵』 『ベン・シラの知恵』50:25-26 は、サマリア人に対する非難と確認できる最古の言 葉である(190BCE 頃の著作)。この言葉は、神殿を補修した「オニアの子、大祭司 シモン」(25)を称賛する歌(50:1-24)と締め括りの言葉(50:27-29)の間に、一見して 文脈を乱すように挿入されている。しかし、シモンの偉業を際立たせるために、三つ の民に対する非難を付け足したと考えると、文脈にあてはまらなくもない。 ここで列挙されている三つの民とは、「セイルの山地に住む者たち」(26)、ペリシテ 人、そして「シケムに住む人々」である。「セイルの山地に住む者たち」とはエドム 人(=イドゥマヤ人LXX)のことである。彼らは前 587 年のユダ滅亡時にバビロニ アに加担し、捕囚民の帰還後も敵対行為を続けた(27)。また、ペリシテ人は、旧約聖 書では定番のイスラエルの敵であるが、アレクサンダー大王の東征以後は積極的にヘ レニズム化した(28)。 この箇所で非難されるのは、「シケムに住む人々」すなわちサマリア人である。彼 らは、民族(e;qnoj)ではないとされ、「愚かな群衆」(o` lao.j o` mwro,j)と呼ばれてい る。「彼らは民族でない」とは、ユダヤ人の目には、サマリア人が外国人ではないが、 同じユダヤ人にも含まれない、境界線上のあいまいな存在として映ることを示してい る。また、ユダヤ人がサマリア人を「愚かな群衆」と呼ぶ理由がここからは見て取れ ないが、おそらくゲリジム山神殿の建設とヘレニズムの積極的受容が背景にあると考 えられる。 ところで、シケムを「馬鹿者の町」と呼ぶ言葉が『レビの遺訓』7:2 にもある。こ こではシケム人がアブラハムの娘を凌辱したとする創世記34 章の出来事を挙げて、 その地がヤコブの子らに与えられたと述べている。サマリアをシケムと呼ぶのは、創 世記34 章の出来事を暗示した呼び方である。ヨセフスもシケムを「ユダヤ人の背教 者」の住む地としている(ヨセフス『古代誌』11.340)。このようにして見ると、サ (25) 「オニアスの子シモン」が 1 世(前 290-275? 年)を指しているのか、あるいはその孫で著者と同時代 の2 世(前 220-198 年)を指しているのかで議論されている。後者を指しているとする立場がより有 力である。村岡崇光「ベン・シラの知恵」『聖書外典・偽典 2』教文館、1992 年、496 頁。J. D.
Purvis, "Ben Sir and the Foolish People of Shechem," JNES 24 (1965): 90.
(26) 七十人訳では、「セイルの山地に住む人々」が「サマリアの山地に住む人々」となっているが、「これ
は誤写あるいは反サマリア資料の故意の付加」と見るべきである(コギンズ『サマリヤ人とユダヤ 人』、129-130 頁)。
(27) 詩 137:7; イザ 34 章 ; オバ 10-15 ; エゼ 35-36 章 ; 哀 4:21; マラ 1:2-5 ; ユディ 7:8-18 など。 (28) P. W. Skehan, A. A. DiLella, The Wisdom of Ben Sir (AB; New York: Doubleady, 1987), 558.
マリアを指してシケムと呼び、「愚か者」「馬鹿者」と罵るのは、ユダヤ人がサマリア 人を悪く言うときについ口に出る言い回しと推察する。 2.2. 『預言者イザヤの殉教と昇天』(29) 本書では、イザヤの敵としてサマリア出身の偽預言者バルキラが登場する。悪魔的 存在ベリアーの手下であるバルキラは、イザヤとその仲間を見つけ出し、偽証をもっ て告発した(30)。また、イザヤが鋸で挽かれている時、彼を転向させようとした( 5:1-16)。このバルキラは、サマリア出身であるが、アッシリアによる北王国占領前にエ ルサレムに逃げてきたので、純粋なイスラエル人である(31)。しかし、この偽預言者 バルキラと使徒言行録の魔術師シモン(使8:9-24)をオーバーラップさせると、サマ リアは神に背く者の地というネガティブなイメージが、ユダヤ人の間にあったとも考 えられる。 2.3.『エレミヤ余録』(32) 『エレミヤ余録』8 章には、サマリア人の起源について次のような説明がされてい る。バビロンからの帰還の途上、ヨルダン川を渡る直前、エレミヤは主の教えに従っ て帰還民に「神を望む者は、バビロンの業を打ち捨てよ」と言って(8:2, 4)、バビロ ンで異邦人と結婚したユダヤ人に相手と別れるように命じた(8:3)。異邦人と結婚し ている者の半数がこの命令に従った。従わなかった者は、ヨルダン川を渡りエルサレ ムまで行くが、エレミヤに入城を拒絶されたため、バビロンに引き返した。しかし、 そこでも拒絶されたため、サマリアに行き自分たちの町を建てた。 エズラ=ネヘミヤが結婚による民族の混淆を禁止したのと同じ観点が、ここには反 映されている(33)。この物語において、聖なる地を他から分けるヨルダン川を渡る前 に、異邦人と結婚したユダヤ人の入国拒否が宣言された。そして、聖の中核であるエ (29) 『預言者イザヤの殉教と昇天』は、イザヤの殉教について述べる前半部分(1-5 章)がユダヤ教に属 し、昇天について述べる後半部分(6-11 章)はキリスト教に属しているとするのが一般的である。前 半部分はおそらく1 世紀後半に書かれた(村山崇光「イザヤの殉教と昇天」『聖書外典偽典 別巻 補遺II』教文館、1982 年、172 頁)。ロストは本書の原型は前 2 世紀頃にヘブライ語で成立していた とする(レオンハルト・ロスト『旧約外典偽典概説 付クムラン写本概説』教文館、1972 年、168 頁)。 (30) バルキラの偽証は、イザヤがユダとエルサレムが外国の支配下に置かれるとか、自分がモーセより上 であると言ったというものである(3:6-9)。 (31) 「アッシリヤ王シャマネセルが来襲し、サマリヤを占拠して九部族をメデアの領域とゴザンの流域に 拉致したとき、この者は、まだ青年であった。彼はユダ王ヒゼキヤの治世下にエルサレムに逃げてき た」(3:2-3a・村山訳)。 (32) 『エレミヤ余録』は、最初から 9:10 まではバビロニアへの強制連行とそこからの帰還までを扱い、 9:10 以降はキリストの到来を予言する。後 70 年から 100 年の頃の間に書かれたとされている。この 書がユダヤ人キリスト者によって書かれたのか、あるいはユダヤ人に書かれたものかについて研究者 の間で一致は見られない。Cf. G. W. E. Nickelsburg, Jewish Literature between the Bible and the Mishnah (Philadelphia: Fortress, 1981), 316.
ルサレムに入ることは拒絶された。サマリア人は、民族間結婚によって混淆した民で あり、聖なる地に住んではいけないのに住んでいる「汚れた人々」として示されてい る。
3.ラビ文献
ラビ文献には、「クタ人」(kutim)の蔑称でサマリア人が頻繁に登場する。とりわ け、『タルムード』小篇「クティーム」は、サマリア人とユダヤ人の関係についての 規定集である。 m.Ros Has. 2:2 には、神殿がまだ存在していた頃に、サマリア人がユダヤ人の暦の 伝達を妨害しようとしたことが暗示されている。これによると、この事件前までは、 エルサレムで新月が確認されたことは、烽火によってディアスポラに伝えられてい た。しかし、この事件後、証人によって伝えられるようになった。サマリア人はユダ ヤ人とは異なる暦を持っていたため、ユダヤ人の暦の伝達を妨害したと考えられ る(34)。祭儀と密接に関連する暦についての議論は、まさにユダヤ内部の議論である (cf. m.Ros Has. 1:3)。例えば、クムラン宗団が形成されたのは、エルサレム神殿体制 とは暦について異なる見解を持っていたからであると考えられるが、彼らはユダヤの アイデンティティーの外に追放されていない(35)。サマリア人の妨害は、エルサレム の体制とクムラン宗団の対立と同じ様に、異なる宗教間の対立ではなく、同じ宗教ア イデンティティー内部の分裂なのである――いわば、『内ゲバ』――。 唯一の神殿での唯一の神への祭儀を重視するラビにとって、ゲリジム山を聖なる場 所とするサマリア人の考えは許容できるものではなかった。例えば、2 世紀初期に書 かれたとされる「断食の書」(Megillat Ta'anit 22)は、「ゲリジムの日」の断食を禁じ ている(36)。この日は、ヨハネ・ヒルカノスがゲリジム山神殿を破壊した日である。 また、m. Ber. 8:8 の食後のぶどう酒の祈りの規定では、サマリア人が祈る時は、完全 に終わるまで「アーメン」と言ってはいけないとされている。サマリア人が祈りの最 後にゲリジム山神殿の再建を祈願することを疑っていたからである(37)。サマリア人 もユダヤ人と同じように安息日や食物規定を守るが、エルサレム神殿に対する尊重を 欠くと言うラビの言葉も残っている(m. Ned. 3:10)。後に b.'Abod.Zar. 26b において、 (34) 長窪専三訳「ローシュ・ハ・シャナー」、長窪専三・石川耕一郎訳『ミシュナ II モエード』教文館、 2005 年、337 頁(註 69)。閏月の数え方が違った。 (35) 詳しくは、土岐健治『はじめての死海写本』講談社、2003 年、181-194 頁を参照せよ。(36) J. A. Fitzmyer and D. J. Harrington, A Manual of Palestinian Aramaic Texts (Rome: Pontificio Istituto Biblico, 1994), 186.
(37) 石川耕一郎訳「ベラホート」石川耕一郎・三好迪訳『ミシュナ I ゼライーム』教文館、2003 年、31 頁(註66)。
サマリア人の割礼は禁じられているが、これは彼らが割礼をゲリジム山で行ったから である。 ところで、ゲリジム山を聖なる場所とする考え方以外は、サマリア人の信仰に問題 はないとする見解が示される箇所もある。例えば、ラビ・アキバの言葉として、サマ リア人は心からの改宗者であって、「獅子の改宗者」ではないとする弁護の言葉が見 られる(38)。また、ラビ・シメオン・ベン・ガマリエルの言葉として、サマリア人が イスラエル人よりも几帳面に律法を守っていることを褒める言葉も見られる(39)。 しかし清浄のルールでは、サマリア人がユダヤ人と同じ規定に従っているかが常に 疑われる。m. Nidd. 7:5 には、次のような言葉がある。「これは原則である。サマリア 人が疑われていることについて、彼らは信用されない。」m. Nidd. 4:1 には、サマリア 人の女性は幼少時から生理の血で常に汚れているという事実無根の前提を基に、サマ リア人の男は生理中の女性と交わるので、清浄規定に則るならば、彼らは神殿に入る べきではないと教えている。 差別意識は一般的に、結婚と食事の交わりの制限に如実に示される。初期ユダヤ教 の清浄規定としてしばしば引き合いに出されるm.Qidd. 4:3 では、母親がユダヤ人か わからない者、両親がユダヤ人かわからない者とともに、サマリア人との結婚が禁止 されている(cf. b. Qidd.75a-76a)。 食事の交わりについては、当初は明確に禁止されていなかった。例えば、先に挙げ たサマリア人との祈りについての規定(m. Ber. 8:8)は、ユダヤ人とサマリア人がと もに食事をし、ぶどう酒を飲む場面を想定しているからである(cf. m. Ber. 7:1)。し かし、m. Seb. 8:10 では「サマリア人のパンを食べる者は豚の肉を食べるような者だ」 と言う言葉もある。シフマンによると、ユダヤ人は2 世紀中頃まではサマリア人に よって封をされたぶどう酒を飲むことを許されていたのだが、3-5 世紀頃になるとそ れも禁じられた(40)。2 世紀のある時期まではユダヤ人とサマリア人の食事の交わり は完全に断たれてはいなかったのではないだろうか。 2 世紀頃のラビたちは、サマリア人にはイスラエル人としての地位がないとしてい たが、かと言って異邦人であるとも考えていなかった。例えばm. Demai 5:9 にある十 分の一規定には、イスラエル人・サマリア人・異邦人という区分が示されている。ま た、m. Demai 6:1 の述べる土地の借用規定には、イスラエル人から借りる場合と、サ マリア人からの場合と、異邦人からの場合が分けられている。ヴァン・デア・ホルス
(38) y.Git. 43c; b.Qidd. 75c; b.Sanh.85b; b.Nid.56b. 「獅子の改宗者」とは、列王記下 17 章に北王国の領地に 移住した民が獅子の災いの故に改宗したことから、うわべだけの改宗をした者を揶揄する呼び方であ
る。例えばb.Yebam. 24b には、配偶者のために改宗した者を「獅子の改宗者」と呼ぶ。
(39) m.Ber. 7:1; y.Ber. 11b; b.Qidd. 76a; b. Ber. 47b; t. Ter. 4:14.
(40) L. H. Schiffman, "Rabbinic Literature," in A Companion to Samaritan Studies (eds. A. D. Crown and R. Pummer; Tübingen: J.C.B. Mohr, 1993), 199. Cf. y.Aobd.Zar. 5:4 (44d); b.Abod.Zar. 31a-b.
トは、サマリア人がイスラエルの外に異邦人として置かれるようになった時期を、2 世紀以後としている(41)。 以上のことから、1-2 世紀においてユダヤ人はサマリア人を、血縁上のつながりに かけるものの、ユダヤ内部の分離グループか「改宗者」に近い存在として扱っていた と考えられる(42)。ユダヤ人がサマリア人を異邦人として扱うようになったのは、2 世 紀以後のことである(43)。
むすび
ここまでの検討を総括する。まず、第二神殿時代が終わりを告げた頃のユダヤ人 が、サマリア人を自分たちのアイデンティティーの枠のなかに置いていたかという点 についてである。本論で検討した文献の著者は、サマリア人をユダヤ人のアイデン ティティーの同心円内の周縁部に置いている。『ベン・シラの知恵』(前2 世紀頃) は、サマリア人を「愚かな者ども」と罵りながらも、「民とは言えない」として、異 邦人の一民族としてではなく、ユダヤ人のサブグループとして見ている。また、ヨセ フス(1 世紀頃)は彼らを、血縁的にはユダヤ人ではないが、自分たちと同じ律法と 祭儀を遵守するという点で「改宗者」という見方を暗示する。ユダヤ人の目から見 て、この「改宗者」はユダヤ人の境界線上に立つあいまいな存在と言える。他方で、 『エレミヤ余録』には、サマリア人を「混淆の民」の末裔であり、聖なる地であるヨ ルダン川の西側に住むには本来ふさわしくないという見解が示されている。ラビ文献 のなかには、サマリア人を律法を忠実に守ると評価する言葉もあるが、異邦人と同一 視する言葉も見られるようになる。 ユダヤ人にとって、血縁上の純粋性に欠けていたとしても、同じ律法と祭儀を守り ながらヨルダン川西岸に住むサマリア人は、同じユダヤのアイデンティティーに包含 できる存在であった。サマリア人がエルサレムではなくゲリジム山を聖なる場所とし たことは、確かにユダヤ人の怒りを招いたであろう。とはいうものの、エルサレム神 殿の記憶が鮮やかなうちは――恐らく後1 世紀末頃まで――、サマリア人はユダヤ人 のアイデンティティーから排除されることはなかった。 しかし、エルサレム神殿の記憶が薄れるにつれて徐々に、ユダヤ人はサマリア人を ユダヤ人のアイデンティティーの外に排除しようとした。神殿というアイデンティ ティーの核を失ったユダヤ人は、血縁上の純粋性を新しいユダヤ人のアイデンティ(41) Van der Horst, “Anti-Samaritan,” 41.
(42) L. Schiffman, “Rabbinic Literature,” 198 に同意。 (43) Van der Horst, “Anti-Samaritan,” 41.
ティーの徴とした。その際に、サマリア人はユダヤ人の正統性を決定するにあたって のコントラストな存在――すなわち、ユダヤ人はこうではないということを示す存在 ――となった。 次に、サマリア人に対するユダヤ人の敵意についてである。本論で検討した文献の 著者は、サマリア人を異種混淆の民であり、外から政治勢力や文化に対して日和見な 態度をとると述べる。ヨセフスは彼らの日和見主義を非難し、『エレミヤ余録』はサ マリアに住む人々を民族の純粋性のない人々と描く。ラビたちは、当初はサマリア人 が律法を遵守していることを認めていたが、1 世紀末前後から次第にサマリア人が律 法を遵守していないとする考えを強め、ユダヤ人に彼らとの接触を避けるように勧め るようになった。 サマリア人が異種混淆の民であることや、外からの文化をしばしば受け入れたこと を強調するのは、後1 世紀の文献である。このころのユダヤ人にとって、非ユダヤ人 との結婚や外の文化の受容は自分たちの問題であった。サマリア人に対する非難は、 サマリア人をユダヤ人のアイデンティティーから排除することが目的ではなく、神殿 崩壊後の自分たちのアイデンティティー形成のための反面教師とすることが第一の目 的であった。サマリア人が明確にユダヤ人のアイデンティティーの枠外に置かれるよ うになったのは、ユダヤ人のアイデンティティーがラビによって固められて以降と言 える。