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15世紀カスティーリャにおけるユダヤ人政策

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15世紀カスティーリャにおけるユダヤ人政策

柿 邦   夫

The Policy toward也e Jews in Fifteenth-Century Castile

Kunio Hayashi 19 1391年カスティーリャ全土を席持した反ユダヤ人暴動に際して,迫害を免れるために多くのユダ ヤ人がキリスト教に改宗した。改宗ユダヤ人(コンペルソ)の多くはスペイン人キリスト教社会に 融合することなく,両者は対立し,ときにコンペルソに対する暴動も起った。このためカトリック 両王は1480年異端審問制を設立し,ユダヤ教を信仰しているコンペルソ(フダイサンテ)を異端 者として処罰することによって,コンペルソ問題の解決を図った1)0 それでは改宗しなかったユダヤ人に対して,王権は如何なる政策をとっていったのであろうか。 本稿で, 15世紀におけるユダヤ人政策の展開を明らかにしてみたい。 1)以上については次の拙稿を参照。 「15世紀前半カステイ-リャにおけるコンペルソ問題」 『歴史学研究』 461号1978年; 「カステイ-リャにおける異端審問制の成立」 『鹿児島大学教育学部研究紀要 人文社 会学編』第31巻, 1979年; 「カステイ-リャにおける異端審問制の初期的展開」 同,第32巻, 1980 年。 Ⅰ まず1391年の反ユダヤ人暴動への王権の対応から見ていこう。 1391年6月16日,エンリーケ3世(在位1390-1406)の名で,セピーリャとコルドバで起って いるユダヤ人迫害に関する報告に基づき,ブルゴス市当局に対して,同市のユダヤ人を保護し,略 奪・殺致・強制的改宗を未然に防ぎ,迫害者は処罰するよう指示された1)。このように王権はユダ ヤ人迫害を抑止する姿勢を示したが,その甲斐なく暴動は全国に波及し,ユダヤ人居住区(alja-mas, juderias)は甚大な損害を被った。これは2つの事実から知られる。 第1は,シナゴーグの被った変化である1391年セピーリャ市当局は, 2つのシナゴーグを教会 として寄贈し2㌧ 1403年クエンカのシナゴーグも教会に変化している3) 1415年バレンシアのシナ ゴーグは司教から信心会に贈与され4㌧ サモラ(Zamora)のシナゴーグは王権によって同地の修 道院に贈与された5).レオン司教区内のシスネロス(Cisneros)のシナゴーグも教会に変えられた らしい6)。以上のようにユダヤ人の信仰の中心を成すシナゴーグが消滅している事例が見られる。 第2は,ユダヤ人の負担した租税に関する事実である 1392年王権は,マドリードの修道院が ユダヤ人の租税から得ていた収入を,同地のアルカバーラ(販売税)から与えるよう命じている8)0

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20 15世紀カスティーリャにおけるユダヤ人政策 1397年には,トレードの修道院がユダヤ人の租税から得ていた収入を,別の財源から得るよう指示 されている 1408年には,王権は或る高官がトレード,マドリード,アルカラ-デ-エナ-レス のユダヤ人居住区の租税から得ていた収入の補償を示している10)。また1412年には,王権はバリ ャドリードのユダヤ人の租税から同地の修道院が得ていた収入を,市の他の収入から得るよう命じ ており11)同様の命令は,同年のバレンシアの修道院に関する王令12)にも見られる。以上の事例 ● は,担税者たるユダヤ人が殺戟・改宗・逃亡などで減少したため,租税徴収が不可能となった事実 を示している。 以上の2つの事実から,ユダヤ人居住区が大きな被害をうけたことが明らかとなるが,暴動終熔 級,王権は如何なる対応を示したであろうか。これについては2つの対応が挙げられる。 第,1は,迫害に対する調査・処罰である1395年王権は,セピーリャの2つの地区に対して,シ ナゴーグ破壊の理由・命令者についてトレード司教に説明するよう命じている13)同年カルモーナ (Carmona)市当局は,王権の命令をうけてシナゴーグ破壊について報告を行なっており14) ′ 1396年にはエシ- (Ecija)の聖職者たちはトレード大司教の照会をうけて,フェラン・マルティ ネスのシナゴーグ破壊命令には従わなかった旨の回答を寄せている 1398年,王権はトレTドの 役人に対して,ユダヤ人居住区略奪の犯人・盗品の買い手の調査を命じている16)このようにユダ ヤ人居住区破壊についての調査を命じた王権は,報告をうけて罰金を課したようである1396年王 権がコルドバからの罰金減額の請願を認めていること17)セピーリャで罰金支払のための賦課の徴 収請負がなされていること18),がこれを窺わせる。 第2は,ユダヤ人保護である1392年7月20日王権はブルゴス市当局に対して,改宗を望まぬ ユダヤ人が居住区に戻ることを許すよう命じ,彼らへの攻撃を禁じ,更に租税を免除しており19) 7月30日には居住区帰還を望むユダヤ人が強制的に改宗させられるのを許さないよう命じてい る20) 1401年には,ユダヤ人を不法に投獄して罰金を取立てるなどの迫害を加えていたサアダン (Sahagiin)の修道院長に対して, 2度に亘ってこれを禁じている21)。また同修道院長には,反ユ ダヤ人的説教を行なった説教師の監禁を命じたことが1403年の史料22)から判る。 以上の対応から,王権はユダヤ人迫害を容認せず,ユダヤ人保護の姿勢を貫いていることが判明 する。 しかし王権は一方で,反ユダヤ人暴動の再発を防ぐにはそれのみでは不十分であり,ユダヤ人側 にも規制を加える必要があることを認識したに違いない1405年マドリードのコルテスでの請願を うけて次のような規制を定めた23)。 第1は,高利取得の禁止である。以前の高利取得禁止法令を改めて確認した上で,元金の名目で 多額の利子が取られる形で作成されることが多いという理由で借用証の作成を禁じ,また裁判官 の面前で実際より多い借金額の陳述をユダヤ人がキリスト教徒に強いている場合があるが,かかる 陳述は無効であり,裁判官はこれについて判決を下さないよう命じている。ここでは高利禁止の命 令だけでなく,それを防ぐ具体的な方策が講じられているのが注目される。そして現在まで未払の

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林     邦  夫     〔研究紀要 第33巻〕  21 借金については,半額のみを支払い,残り半分は高利と見徹して免除することが命じられた。 第2は,ユダヤ人の裁判上の特権の問題である。キリスト教徒はすべての民刑事裁判において, ユダヤ人の証人なしで,ユダヤ人に対してキリスト教徒に対するのと同様に証言し得るとされ,ユ ダヤ人の特権が革止された。 第3は,ユダヤ人マークの問題で,ユダヤ人は丸い朱色の布で作ったマークをつけるよう命じら た。 以上の措置で王権は,ユダヤ人に規制を加えることによって彼らへのキリスト教徒の敵意を緩和 し,またユダヤ人を区別することによってキリスト教徒との接触を少なくし,暴動の再発を防止せ んとした,といえよう。 ユダヤ人規制は, 1406年12月以後のフアン2世(在位1406-1454)の摂政期に入ると増々厳し くなっていった。 1408年にはユダヤ人が徴税請負人・収税吏となることを禁じ,違反したユダヤ 人のみでなく,ユダヤ人をかかる業務につかせたキリスト教徒も処罰される,とした24) 1411年ム ルシアの市参事会は,ユダヤ人改宗運動で有名などセンチ-フェレ-の示唆をうけて,ユダヤ人の 居住区外での居住・仕事場や店舗の所有の禁止,キリスト教徒への投薬・治療の禁止,キリスト教 徒との同居の禁止などを内容とする条例25)を作成し,王権の承認を得た26) 1412年1月2日には, やはりビセンテ・フェレ-の働きかけで摂政王母カタリーナが命じて作成させた24条から成る勅 令27)がバ))ヤド7)-ドで発布された.これは一連のユダヤ人規制の集大成ともいえるものであり, 以下詳しく内容を見ていきたい。 この勅令は6つの範噂に分類できると考えられる。すなわち. (1)居住, (2)職業. (3)日常生 宿. (4)特権. (5)宗教. (6)施行細則,である。以下,重要でない(6) (第22.-24条)を除く 5つについて順次列挙してみよう。 (1)ユダヤ人は, 1つの出入口しかない都市内の閉鎖的区域に住み(第1条),他の都市へ移住 してはならず(第16条),いかなる領主もユダヤ人を受入れてはならない(第17条)。移住したユ ダヤ人の財産は没収され,身柄は国王の虜となる(第23条)0 (2)以下の事柄の禁止-香料商人,薬剤師,外科医,医師となること,キリスト教徒に食料 品を売ること(第2条),徴税請負人,収税吏,家令,両替商,仲買商となること(第5条),居住 区内にキリスト教徒に飲食物を売る市場をもつこと(第6条),キリスト教徒を顧客とする獣医, 馬鍛冶,大工,仕立師となること(第20条),キリスト教徒に売るための池・糖蜜・米を運ぶ馬匹 となること(第21条)0 (3)以下の事柄の禁止-キリスト教徒との共同飲食,キリスト教徒の葬儀・結婚式・埋葬へ の参加,キリスト教徒の教父母となること,キリスト教徒を召使・乳母・耕夫・野菜栽培人・牧夫 として雇傭すること(第4条),武器の携帯(第5条),病人のキリスト教徒に薬・糖蜜を与えるこ と,キリスト教徒との共同入浴,香辛料や焼いたパンなどをキリスト教徒に与えること(第10条), キリスト教徒女性の居住区内への立入(第11条),ユダヤ人がドン(Don)の敬称をつけて呼ばれ

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22      15世紀カステイ-リャにおけるユダヤ人政策 ること(第12条),髭を剃刀や鉄で切ること,頭髪を短かくすること(第18条),耕作・ブドウ栽 培・家などの建築のためにキリスト教徒を雇傭すること(第19条)。その他,服装に関する規定と して,ユダヤ人の男は1パルモ以上の長さの長頭巾を被ってはならず,肩かけではなく外套を着用 し,ユダヤ人マークをつけ(第13条),女は頭巾や首飾りリボンのない足首までの長さのあるマン トを着る(第14条),高価な毛織物の衣服を着てはならない(第15条)0 (4)ユダヤ人の間の訴訟を裁くユダヤ人裁判官をもってはならず,かかる訴訟も都市のアルカ ルデが裁く(第7条),国王の許可なくして居住区内で課税を行なわないよう命ずる(第8 ・ 9 秦)0 (5)改宗を望むユダヤ人の改宗を妨害してはならない(第3粂)0 以上列挙した諸条は,如何なる目的で作成されたのであろうか。 (1)は,第16 17条で移住を禁ずることによってユダヤ人を現在居住する都市に緊縛し,更に 第1条で都市内部のユダヤ人居住区に封じ込めることを意図したものであり,ユダヤ人の分離・隔 離,キリスト教徒との接触の極小化を目指したものといえよう。 (2)のうち,第2 6ォ21条は,ユダヤ人がキリスト教徒に危害を加え得る状況を避けることを 図り,第5条は,ユダヤ人が経済的にキリスト教徒を搾取することを防ごうとしたものだと思われ る。第20条は,キリスト教徒との接触の極小化が主な目的であろうが,かかる目的は(2)の他の すべての条文にも含まれている,といえよう。 (3)のうち,第5.10-11条は. (2)の第2 6ォ21条と同じ目的をもつ,と考えられる。第4 条の前半は,キリスト教徒とユダヤ人との社交を禁じ,同条後半と第19条は,ユダヤ人がキリス ト教徒の雇主という優位な立場に立つことを防ごうとしたものであり,何れも両者の接触の極小化 という共通の目標をもっている,といえる。次に第12条は,第15条とともに,地位・財産のある ユダヤ人がそれを誇示し,そのために彼らへの敵意が昂まることを防ぐ意図をもっているのではな いか,と思われる。第13*14条,とりわけ第18条の目的は理解し難い面があるが,おそらく外観 からユダヤ人の識別を可能にして,偶然的接触の危険を避けようとしたものだ,と推測される。 (4)はユダヤ人居住区の裁判・財政自治特権を剥奪し,居住区をより強力に王権の統制下に置く ことを狙ったものといえ, (5)は,改宗を望むユダヤ人に対する他のユダヤ人からの妨害を除去せ んとしたものである。 以上, 5つの範噂に分けてバリャドリード勅令を検討してきたが,この勅令は全体としてどのよ うに性格づけられるのであろうか。 勅令の前文には,キリスト教徒が異教徒と接触することによって誤ちに陥らないように方策を講 じ,かかる事態が生ずる機会をなくすことはキリスト教君主の義務である,という内容の一節があ る。既述のように,条文の多くがキリスト教徒とユダヤ人の接触の極小化を図っていることをこれ と考え合わせると,この勅令の目的が,両者の接触の機会を極小化し,キリスト教徒がユダヤ人か ら悪しき影響を被り,宗教的過誤に陥ることを防ぐことであった,という推測が成立とう。その

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林    邦  夫     〔研究紀要 第33巻〕 23 際, 『フアン2世年代記』によれば,改宗運動の推進者ビセンチ=フェレ-が「ユダヤ人とキリス ト教徒との絶え間ない交わりから,大きな害悪が,とりわけ新たに我らの聖なる信仰に改宗した者 たちに対して生じているので,ユダヤ人を分離するように」とカタリーナとフェルナンド(フアン 2世の叔父)の2人の摂政に働きかけた,という事実28)を考えると,ユダヤ人がコンペルソと接 触して,彼らをユダヤ教に引戻す危険が最も強く念頭に置かれていた,とも考えられる。しかし条 文の中で直接に宗教に関わるのは第3条のみであり,勅令は全体として見ると遥かに多岐な側面を 含んでおり,勅令の目的を宗教問題に収欲させて捉えるのは困難である,といわざるを得ない。 この勅令の根底には,ユダヤ人はキリスト教徒に危害を加える虞れのある危険な存在である,と いうユダヤ人観があるように思われる。そしてその危険性は宗教的なもののみでなく,より広い社 会的なものであり,かかる危険からキリスト教徒を保護するためには,ユダヤ人をできる限り彼ら から離しておくに如くはない。またこれによってキリスト教徒がユダヤ人から圧迫をうけることが 少なくなればユダヤ人-の敵意も減退し,反ユダヤ人暴動の起る危険も減少する。このようにユダ ヤ人を分離して,キリスト教徒との接触を極小化することによってユダヤ人問題を解決せんとする のが,この勅令の冒槙であった,といえるのではあるまいか。 パリャドリード勅令公布後の1412年7月17臥 摂政フェルナンド(1412年6月28日アラゴン 王フェルナンド1世となっている)の命令で,シフエンテス(Cifuentes)においてこれと類似の 勅令29)が発せられた。この勅令はバリャドリード勅令よりも形式的に整っているが,内容的には 以下のような差異がある。 第1に,第1条の居住区への移住期限が後者では居住区指定から8日以内となっていたのが, 1 年以内に改められている.第2に,第2条のうちのキリスト教徒への食料販売禁止が,一定の食物 に関しては許されている。第3に,第6条が削除され,逆に居住区内での販売を許す内容が第2条 に付加えられている。第4に,第4条のキリスト教徒の雇傭禁止は,同居・共同飲食をしないとい う条件で撤回されている。第5に,第7詛8 9条が削除され,その代りに刑事裁判に限って裁判 自治権を剥奪した条文が置かれている。第6に,第16条は移住の自由を認めた条文に変更され, それに伴い,第17*23条が削除されている。第7に,第20条の職業が仕立師のみになっている。 以上から,シフエンテス勅令はバリャドリード勅令に比して総体的に見て穏和なものとなってい る,といえよう。かかる性格は勅令の前文に見られる基本姿勢に基づく,と考えられる。ここでは バリャドリード勅令の前文と同様にユダヤ人の悪影響が指摘されているが,その他に,ユダヤ人に 対する暴動が起って国王が守るべき王国の正義が損なわれる虞れがあり,余の治世においてユダヤ 人が保護されることを望むが故にこの勅令を制定した,と述べられている。それ故,この勅令の目 指すユダヤ人とキリスト教徒との接触の極小化は,後者を前者の悪影響から守るのみでなく,前者 を後者の迫害から庇護するという目的をももっていた,と考えられる。 所でこの2つの勅令は如何なる関係にあるのであろうか。バリャドリード勅令はシフエンテス勅 令にとって代わられたのであろうか。ここで注目すべきは両勅令の作成命令者が,前者はカタリー

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24      15世紀カスティーリャにおけるユダヤ人政策 ナ,後者はフェルナンドと異なっていることである。エンリーケ3世の遺言によって王妃カタリー ナと王弟フェルナンドがフアン2世の摂政となったが,その際王国北部をカタリーナが,南部をフ ェルナンドが担当するという分割統治方式がとられた。かかる事情を考えると,バ])ヤド7)-ド勅 令は王国北部のみに,シフエンテス勅令は南部のみに効力をもったといってよいのではなかろう か。事実1412年3月のムルシア市参事会宛のフェルナンドの書翰30)は,バリャドリード勅令は彼 の統治区域では停止し,彼の認めた法令のみが有効である,と明言している。従ってシフエンテス 勅令はバリャドリード勅令にとって代わったのではなく,王国内部で適用区域の異なる2つの勅令 が併用されていた,と考えられる。 このように1412年の段階で,王国のユダヤ人政策は,両摂政間の対立を反映して分裂していた。 しかし両勅令は,ユダヤ人の分離によってユダヤ人問題の解決を図るという基本方針においては一 致している。王権は1391年から20年以上を経て,漸くユダヤ人分離というユダヤ人政策の基本路 線を定めた,といえよう。

1)この指示の原文は, F. Baer, DieJuden im christlichen Spanien, 2 Bde., Berlin, 1929-1936, II 〔以 下, Judenと略記〕, no. 248; F. Cantera Burgos, Alvar Garcia de Santa Maria. Historia de la juderia de Burgos y de sus conversos mas egregios, Madrid, 1952, p. 53, n. 46.

2) Juden, no. 249.

3) E. Mitre Fernandez, ``Los judios y la Corona de Castilla en el transito al siglo XV", Cuadernos de Historic 3, 1969, p. 354.

4) P. Leon Tello, "Los judios de Palencia", Publicaciones de la Institucion iTello Tellez de Mene-se珍, 25, 1967, Doc. VIII (p. 54).

5) 1416年の文書(Juden, no. 284)から判る。

6) 1417年のバレンシア司教への対立教皇ベネディクトゥス13世の命令書(Juden, no. 285)は,シスネロ スの住民のシナゴーグを教会に変えるようにという要望を充たすよう命じている。

7)ユダヤ人は<cabeza de pecho≫ と呼ばれる人頭税と, ≪servicio y medio servicio≫ と呼ばれる上納 金を負担していた。

8) L. Suarez Fernandez, ``Problema politicos en la minoridad de Enrique III , Hispania, 12, 1952, Ape. doc. II (pp. 222-224).

9) P. Leon Tello, Judios de Toledo,.2 tomos, Madrid, 1979, I, Col. doc. 41 (pp. 431-434). 10) Juden, no. 272.

ll) Juden, no. 276.

12) Le6n Tello, art. cit., Doc. VII (pp. 52-53). 13) Juden, no. 256.

Juden, no. 257.

15) J. Amador de los Rios, Historia social, politica y religiosa de los jndtos de Espafia y Portugal, Madrid, 1960 ed. (l.a ed., 1875-1876), pp. 961-963.

16) Leon Tello, Judios de Toledo, I, Col. doc. 44 (pp. 439-441).

17) R. Ramirez de Avellano, "Matanza de judios en Cordoba. 1391.", Boletin de la Real Academia de la Historia 〔以下, BRAHと略記〕, 38, 1901, Doc. I (pp. 303-305).

18) R. Carande, Sevilla, fortaleza y mercado, Sevilla, 19752, p. 166. 19) Juden, no. 253.

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林    邦  夫     〔研究紀要 第33巻〕 25

20) Juden, no. 254.

21) J. Rodriguez Fernandez, Lasjuderias de la provineia de Leon, Leon, 1976, Ape. doc. 39 (pp.

370-374).

22) Ibid., Ape. doc. 40 (pp. 375-376).

23) Cortes de los antiguos reinos de Leon y Castilla, 7 tomos, Madrid, 1861-1903 〔以下, Cortesと略記〕,

II, pp. 544-554.

24) Juden, no. 273; Leon Tello, Judios de Toledo, I, Col. doc. 48 (pp. 443-446).

25) J. Torres Fontes, ``Moros, judios y conversos en la regencia de Don Fernando de

Ante-quera", Cuadernos de Historia de Espa殆*, 31, 1960, Ape. II (pp. 93-95). 26) Ibid., Ape. Ill (pp. 95-97).

27)原文は Amador de los Rios, op. cit., pp. 965-970:Juden, no. 275.なお, この勅令はユダヤ人の みでなくモーロ人をも対象としており, 15世紀の他の勅令もこうしたものが多いが,以下煩雑となるので いちいち註記しない。

28) F. Perez de Guzman, Cronica deJuan II% en BAE, t. LXVIII, a丘0 1411, cap. XXII (p. 340)

29) Juden, no. 275の脚証にバリャド7)-ド勅令と対比する形で示されている。 30) Torres Fontes, art. cit., pp. 77-78.

ⅠⅠ 1412年の2つの勅令によるユダヤ人分離政策は, 1412年, 1413年の文書1)がそれぞれセビゴア とバリャドリードのユダヤ人が新たに居住区に指定された区域に移住した事実を示していることか 明らかなように,順調に進捗していったものと推測される。かかる状況でユダヤ人にとって比較的 平穏な時期が続いた1406年コルドバでの反ユダヤ人暴動2)以後は, 1449年になるまで,ユダヤ 人に対する暴動は少なくとも史料には現われてこない1432年にバリャドリードで王国のユダヤ人 代表者会議が開かれたことは3),この時期にユダヤ人社会の再建も着実に進行していたことを示し ている。 しかし1412年の2つの勅令の作成命令者であったフェルナンドが1416年に,カタリーナが1418 年に投し, 1418年3月からフアン2世の親政が始まると,ユダヤ人分離の原則は次第に弛緩して いったものと推測される。 1428年ビトリアの市参事会が,ユダヤ人マークの着用,祝祭日のユダヤ人の労働禁止などを命じ ていることは4),かかる弛緩への対応と解釈される。 1436年トレード大司教管区巡察便の報告は, ユダヤ人がキリスト教徒を農夫・羊飼として雇傭し,食事を伴にしていること,ユダヤ人の医師・ 大工がキリスト教徒の同伴なしに女子修道院に入っていることなどがブリウエガ(Brihuega)で 見られると述べており5),トレード大司教はこれに対する対応策を示している6)0 かかる弛緩は何故起ったのであろうか1437年の王令は7),父エンリーケ3世と余は,ユダヤ人 マークやユダヤ居住区に関する勅令を発したが,ユダヤ人からの請願をうけてこれらのいくつかを 廃止した。その後再びこの勅令を守るよう命じたが,いくつかの都市ではユダヤ人がキリスト教徒 と雑居し,マークを着けずに歩いているという報告があった,と述べている。ここには王権の首尾 一貫性を欠いた姿勢が看取でき,かかる姿勢が分離の原則の弛緩を助長したのだ,と考えられる.

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26       15世紀カステイ-リャにおけるユダヤ人政策 蕃         山 -L ・ -      ・ ー 1 -、                           ∴ 1                     着       小 ↑ ・ 1 -              し ・ ・ ・ ・ ・ 、 J こ       い -                        ・     ︰ ・ ・ -1                       ト       -            -                          1 ・ かかる分離政策の形骸化の進行の中で,教皇エウゲニウス4世は1442年にカスティーリャのユ ダヤ人に対する規制を内容とする教書を発した。これはバリャドリード勅令の第1.2サ4ォ5サ7 10条と殆んど等しい内容や,更に高利取得禁止をも含んでいる8)。王権は, 1443年4月6日アレバ ロ(Ar6valo)勅令9)を布告してこれに応じた. この勅令は前文において次のように述べる。ユダヤ人に対して暴動を起し,その身体・財産に危 害を加えた者があり,またある所では国王の許可なしにユダヤ人にとって極めて屈辱的な条例を施 行しており,このままではユダヤ人はキリスト教徒社会から完全に排除されてしまう。かかる動き はエウゲニウス4世の教書を口実としてなされているが,この教書も,教会法や王国法も,ユダヤ 人がキリスト教徒の間で平穏に生活することを禁じていない。またユダヤ人の身体その他に危害を 加えることは,慣習法も王国法も許してはいない。 ここに見られるのは,明確なユダヤ人保護の姿勢である。 次に主文について見ていくが,その主な内容は, (1)職業, (2)居住・日常生活, (3)保護,に 分類できる。順次見ていきたい。 (1)ここではユダヤ人はキリスト教徒を圧迫・支配し得るような職業(裁判官,徴税請負人, 収税吏,家令など)には就けないが,肉体労働の卑購な職業(大工,石工,靴職人,革探し職人, 仕立師,寵職人,陶器職人など)には就ける,として明確な基準を示しているのが特徴的である。 またキリスト教徒との商品取引・売買・交換は禁じられていない,と明言しているのが注目され る。 (2)ここでは居住区内居住命令,服装規定,マーク着用命令,共同飲食・共同入浴・同居・キ リスト教徒の乳母や召使いの雇傭などの禁止,といった従来の規制を踏襲している。 (3)はこの勅令の中の最も特徴的な部分である。まずユダヤ人の殺傷・逮捕・拘禁その他故な くしてユダヤ人に不法に損害を加えることは禁じられている,と述べてユダヤ人とその財産の保護 を命じ,今後国王の許可なくしてユダヤ人に関する法令を定めてはならず,現にあるものは吟味の 上,国王が沙汰するまで停止する,としている。国王はかかるユダヤ人保護の理由として, 「ユダ ヤ人は余に固有のものであり,王室に帰属する。」からだ,といっている。つまりユダヤ人は国王 に直属し,ユダヤ人に関する事柄は国王の専断事項である,というのである。ここには,都市当 局,民衆,国王役人などが国王の権限を侵して慈恵的に反ユダヤ法を作成したりしてユダヤ人を迫 害しているのを阻止せんとする王権の姿勢が鮮明に表われている。 以上の検討から,アレバロ勅令は従来の規制の一部を踏襲しながらも,ユダヤ人保護を強く前面 に押出している点で特徴的である,といえよう。 アレバロ勅令でユダヤ人政策を明確化して以来,フアン2世のユダヤ人政策は変化していない。 これは以下の諸王令から明らかである。すなわち,ユダヤ人は王族・王室会議と高等法院の成員の みに接待義務を負うとした1447年の王令10)或るフランシスコ会士がユダヤ人に対して民衆を煽 動しているのでユダヤ人を保護すべLというセピーリャへの1450年の王令11)ユダヤ人やその居

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卦       33︰ハ召怠り叫が     堅:朗,FISf .I,-林     邦  夫     〔研究紀要 第33巻〕 27 住区の利益を担うような法令・条例の作成を禁じた王令が守られていないというトレードのユダヤ 人の訴えをうけて,ユダヤ人を王権の保護下に置き,彼らに危害を加えることを禁じた1452年の 王令12)シナゴーグの所有,カテドラルのための寄付の免除などをミランダ=デ-エプロ(Mi-randa de Ebro)のユダヤ人に認めた王令13)であり,ユダヤ人保護の姿勢が一貫している。 フアン2世の王権のユダヤ人政策は次の王権にどう受継がれていくのであろうか。次にこれを見 ていこう。 1) Juden, nos. 278, 281.

2) Amador de los Rios, op, cit., p. 491. 3) Juden, no. 287.

4) J. Valdeon Baruque, "Notas sobre judios de Vitoria en la primera mitad del siglo XV Sefarad, 32, 1972, Ape. doc. 3 (pp. 374-375).

5) F. Cantera Burgos y C. Carrete Parrondo, ``Las juderias medievales en la provincia de Guadalajara", Sefarad, 33, 1973, p. 22.

6) Juden, no. 289. 7) Juden, no. 290. 8) Juden, no. 295.

9)原文は Amador de los Rios, op. cit., pp. 992-995. 10) Judent no. 299.

ll) Juden, no. 306.

Leon Tello, Judios de Toledo, I, Col. doc. 54 (pp. 459-463). 13) Juden, no. 310. ⅠⅠⅠ エンリーケ4世(在位1454-1474)時代のユダヤ人政策の基調はユダヤ人保護であり,フアン2 世時代のユダヤ人政策をそのまま継承した,といってよい。例えば,ユダヤ人からシナゴーグや墓 地を取上げることを禁じた王令1)は,ユダヤ人に対する新たな規定を設けないこと,ユダヤ人を国 王の保護の下に置くことを明言している。また1462年のトレードのコルテスでは,ユダヤ人は高 利的でない契約をキリスト教徒と結び得るし,それに関して裁判官の債務証明判決やキリスト教徒 の債務陳述を口頭または文書で受取り得る,として, 1405年のコルテスでの高利取得禁止の具体的 措置を事実上撤廃した2)0 しかしアレバロ勅令以来,王権の保護下でユダヤ人がかっての状態を回復していくにつれて,辛 リスト教徒との乳蝶が昂まっていったものと思われる。それは以下の2つの事実から推測される。 第1は,反ユダヤ人暴動の勃発である 1449年にはレオンでユダヤ人居住区の襲撃・略奪があ り, 1453年にはパンコルポ(Pancorbo)でユダヤ人居住区への侵入・略奪があり,これを訴えた ユダヤ人をアルカルデが殴打した1461年にはメディナ-デル-カンポでユダヤ人商人が攻撃さ れ, 1463年トロサ(Tolosa)では住民が免除されていると考えていた租税を徴収しようとしたユ ダヤ人徴税人が殺害された1468年セプルベダ(Septilveda)ではユダヤ人が宗教儀式でキリスト

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28       15世紀カステイ-リャにおけるユダヤ人政喪 教徒を殺害したとしてユダヤ人虐殺が起った3)0 第2は,都市当局によるユダヤ人規制の動きである1447年バレンシアでは,ユダヤ人が日曜・ 祝祭日に公然と戸口で仕事をすることが禁じられ 1450年クラベ-ラ(Talavera)ではユダヤ 人は正午まではパンを買ってほならないとされた 1453年ハロではユダヤ人によるキリスト教徒 の土地の購入が禁じられた 1456年クラベ-ラではユダヤ人マーク着用が命じられ7), 1464年ギ プスコア地方ではユダヤ人がマークを着けずにこの地方に入ることを禁じた8)0 以上のようなアレバロ勅令以後のユダヤ人への敵意の昂まりは,エンリーケ4世治世後半には反 王権派貴族の反乱とも結びついていった。 1464年12月ビリェ-ナ侯を中心とする反王権派貴族は,国王に要求を提出したが,この中にユ ダヤ人に関する項目9)も含まれており,そこではユダヤ人がマークを着けずに歩いていること,辛 リスト教徒の乳母・召使いを雇っていること,高利によってキリスト教徒を破滅させていることな どが訴えられ,ユダヤ人の懲戒・処罰が要求されている。かかる要求の根底にはユダヤ人が王国で 優位を占めることへの危悦があると思われる。それは「王国においてキリスト教徒の奴隷・従僕た るべきユダヤ人が,高位の公職・権力・支配権によってその主人となっている」という一節から明 らかである。 反乱貴族の要求は5人の裁定人の審議に委ねられ,その結果1465年1月には129条から成る仲 裁裁定10)が国王の名で発布された。この内ユダヤ人関係の条項を内容から, (1)職業・経済活動, (2)居住. (3)日常生活, (4)宗教,に分類し,以下順次列挙してみよう11) (1)以下の事柄の禁止-日曜・祝祭日における公然たる労働(第101条),裁判権・公職の 保有,キリスト教徒への食料品販売(第104条),キリスト教徒への調薬(第106条),一定額以上 の土地の所有(第110条),十字架・聖杯などを担保にとること(第111条),キリスト教徒から借 用証や掛売・掛買の契約書をとること(第112条,関連条項第113 116 117条),キリスト教徒 の訴訟代理人となること(第114条)0 (2)ユダヤ人はキリスト教徒とは別な区域に居住せねばならず,まだそうしていない場合は2 月1日から1年以内にそうするよう命ずる(第98条,関連条項第99条)。王国外への移住は禁じ る(第119条)0 (3)胸に色のついた布地のマークを着けることを命ず(第100条)。以下の事柄の禁止-辛 リスト教徒が奉公人としてユダヤ人の家に同居すること(第102条),キリスト受難日前日の木曜 日正午から土曜日夜明けまでの外出(第105条),キ])スト教徒との共同飲食丁共同入浴(第106 秦),キリスト教徒奴隷の保有(第108条),絹織物,金銀糸織物,真珠の着用(第118条)0 (4)ユダヤ人がキリスト教徒に対して改宗勧誘を行なった場合は,世俗裁判官は彼を厳罰に処 すべし(第7条)。シナゴーグの増築・新築,宗教的行列を禁じる(第109条)。キリスト教徒を呪 うために聖餅・聖油を入手したユダヤ人に対しては,異端審問と同様な裁判を行なうべし(第123 秦)0

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林    邦 夫     〔研究紀要 第33巻〕 29 以上の条文をアレバロ勅令と比較してみよう。前者の第98 100 102 103 104 106条の条文 は,ほぼ同じ内容が後者にも含まれている。しかし類似はここまでであり,全体的基調は大きく異 なっている,といえる。既述のように後者は規制を含みながらもユダヤ人保護の色彩が濃厚である のに対して,前者にはそれが皆無であり,規制一色に塗り潰されているといって差支えない。従っ て仲裁裁定はアレバロ勅令以来顕著となったユダヤ人保護の方向を逆転せしめ, 1412年の時点にま で回帰しようとする性格をもっていた,と要約できよう。 しかし仲裁裁定は,エンリーケ4世が内容に不満を抱き無効にしてしまったため法的効力をもた ぬままに終り,その後の治世はユダヤ人問題に関しては見るべき変化がなく経過した。次にカトリ ック両王時代のユダヤ人政策を見ていこう。 1) Juden, no. 314. 2) Cortes, III, pp. 716-718.

3)以上の反ユダヤ人暴動について一般的には, A. MacKay, ``Popular Movements and Pogroms in Fifteenth-Century Castile", Past and Present, 55, 1972, p. 35; M. Kriegel, "La prise d'une decision: Pexpulsion des juifs d'Espagne en 1492 , Revne historique, 260, 1978, p. 74 を,レ オンについては Cantera Burgos, ``Juderias medievales de la provincia de Leon", Archivos leoneses, 28, 1974, pp. 125-126,パンコプロについては, T. Lopez Mata, ``Moreria y juderia", BRAH, 129, 1951, pp. 375-376,トロ-サについては, Cantera Burgos, ``Las juderias medieva-les en el Pais Vasco", Sefarad, 31, 1971, p. 271,セプルベダについては, Diego de Colmena-res, Historia de la insigne ciudad de Segovia y compendio de las histonas de Castilla, nueva ed.,ll, Segovia, 1970, p. 82を参照。

4) Leon Tello, art. at., p. 22.

5) F. Fita, ``Documentos anteriores al siglo XVI, sacados de los archivos de Talavera , BRAH, 2, 1882, p. 317.

6) N. Hergueta, "La juderia de Haro en el siglo XV", BRAH, 26, 1895, doc. 1 (pp. 468-469). 7) Fita, art. cit., p. 319.

8) Cantera Burgos, "Las juderias medievales en el Pais Vasco , p. 271. 9)原文は CODOIN, XIV, pp. 373-374.

10)原文は Memorias de Don Enrique IV de Castilla, II, Madrid, 1835-1913, pp. 355-479.

ll)仲裁裁定の中のユダヤ人関係の条文は24条あり,その他第16条の聖職者に関する規定の中にユダヤ人 に関する条文が含まれている(ユダヤ人との共同飲食の禁止)。ここでは24条のうち重要でない第10・ 115条を除く22条についてみる。 ⅠⅤ カトリック両王時代のユダヤ人政策は1483年に画期を迎えるので,ここではまず1482年までの ユダヤ人関係の王令を検討していきたい。 この時期のユダヤ人関係王令を通覧すると,主な内容は, (1)居住, (2)貸借・高札(3)追 象(4)ユダヤ人の諸負担,の4つに分類できる。以下順次見ていこう。 (1)居住については1412年以来の居住区内居住の原則を踏襲している。例えば1477年ソリア

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30      15世紀カステイ-リャにおけるユダヤ人政策 (Soria)に対し, 1478年にはカセレスに対して,ユダヤ人を居住区内に居住せしめるよう命じら れている1)。居住に関する王権の基本姿勢は1480年のトレードのコルテスにおいて明らかにされ た2)。ここで王権は,ユダヤ人とキリスト教徒との雑居から大きな不都合が生じているとして雑居 を禁じ,ユダヤ人が別個の居住区をもつよう命じて,これを2年以内に実施すること,とした。こ の王令から判断すると,居住区内居住の原則が次第に弛緩してきたことが窺われ,王権は改めてこ の原則を確認し,その徹底化を図ったものと思われる。 (2)貸借・高利に関する王権の対応は1476年のマドリガルのコルテスで表明された3)。ここで 王権は2つの命令を下している。 第1に,借金・債務契約が実際にはなされなかったとキリスト教徒が申立てた場合は,ユダヤ人 はそれが実際になされたことを証明せねばならず,証明できない場合にはかかる借金・債務契約は 無効であるとした。これがキリスト教徒に有利な措置であることはいうまでもない。 第2に,トレードのコルテス(1464年)の法令を無効とし,高利防止のため,ユダヤ人はキリス ト教徒との借金・債務契約に関して,支払誓約や教会裁判官による債務証明判決を受けてはなら ず,公証人もかかる誓約・判決を証明してほならないとした。これによって1405年のコルテスで の厳しい高利防止措置が復活した,といえよう。 しかし以上の法令によって貸借・高利をめぐる紛争がなくなった訳ではなく,その後もユダヤ人 とキリスト教徒の双方からこれに関する訴えがなされたことが王令から確認できる。 例えば前者からの訴えとしては,アビラの市参事会や住民がマドリカルの法令を口実として, 利子のみか元金までも返済しないという訴え(1477年),コルーニヤ-デルニコンデ(Coru丘adel Conde)の債務者が高利を含んでいると称して借金を支払おうとしないという訴え(1480年)など があり4㌧ 後者からの訴えとしては,ヒ一夕(Hita)のユダヤ人から誓約の上で借りた借金の高利 の支払を教会裁判所に訴えられて困っているという訴え(1480年),借金が高利のため実際に借り た額の2倍になっているというサモラ(Zamora)の住民の訴え(1480年)などがある5)0 かかる訴えをうけて出された王令は,高利を厳禁するとともに,高利を含まぬ債務については返 済を命じており,王権の均衡のとれた対応を明らかにしている。 (3)王権はユダヤ人の迫害に対してはユダヤ人保護の立場を貫いている。例えば, 1475年の王 令6)は,ビルバオ市当局がメディナ-デル-ポマール(Medina del Pomar)のユダヤ人がビル バオで商品を買入れることを禁じたのに対して,かかる禁令の撤回を命じている。また1477年の 王令7)は,トゥルヒ-リョ(Trujillo)の騎士やその従者がユダヤ人に馬小屋の掃除や瓶の洗浄を 行なわせたり,その他意志に反して損害を加えているが,かかることのなきよう命じるとともに, 「すべてのユダヤ人は余のものであり,余の保護の下にあり,彼らを庇護することは余の責務であ る」として,ユダヤ人保護の姿勢を明確に表明している1478年には,セピーリャの住民がユダヤ 人に危害を加える虞れがあるという訴えをうけて,彼らを殺傷・拘束しないよう命じている8)。更 に1479年にはアビラでユダヤ人の裁判自治権が侵されているのでかかることのなきよう命じ9),

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林    邦  夫     〔研究紀要 第33巻〕 31 1480年にはユダヤ人が食料品を購入できる曜日を制限していたサマランカに対してかかる制限の廃 止を命じている10) (4)ユダヤ人の負担についての王令は. (a)租税, (b)夜警義務. (c)役人接待義務,の3種 に分類できる。順次見ていこう。 (a) 1477年の王令11)は,ユダヤ人は固有の租税を負担しているので,それ以上キリスト教徒 が負担している租税を課さないよう命じたフアン2世の王令を掲げてこの原則を確認し,都市当局 や国王役人がユダヤ人に不当な租税負担を強制することを禁じている。アルファロ(Alfaro)への 1475年の王令,ウエテ(Huete)への1476年の王令,パルデラス(Valderas)への1483年の王 令12)は,何れもかかる原則に立っている。 (b)アビラがユダヤ人に対して城塞夜警義務(人員・費用の供出)を課しているが,これが大 きな負担となっているので,今後はかかることのなきよう1475年に命じられているが13) 1480年 にも同じくアビラに対して同様の命令がなされている14)ァルファロへの1477年の王令15)も同様 な内容である。 (C)役人がユダヤ人から宿舎・衣服・敷布などの提供を強要しているが,ユダヤ人にはかかる 義務のないことが,フアン2世やエンリーケ4世の王令を確認する形で,カトリック両王によって も承認されている。かかる種類の王令として, 1477年のブルゴス宛のもの, 1480年のレオン宛のも wサME の,同年のサモラ宛のもの16)がある。また宮廷の置かれた都市のユダヤ人には,宮廷の宿直に与 えられる奉仕金以外の負担は課せられないという1479年の王令17)もこれに含められよう。 以上, 4点に亘って検討を加えてきたが,この時期のユダヤ人政策はどのように特色づけられる であろうか(1)では1412年以来の政策を踏襲して,居住区内での居住の強制が堅持されており, (2)では高利を防止するための厳しい規定が設けられている (3)ではユダヤ人迫害を禁じ. (4 では不当な負担を禁じてユダヤ人保護の姿勢を見せている。このように要約すると,カトリック両 王の政策は,ユダヤ人への規制と保護がバランスをとって組合わされたものだといえよう。つまり それは,ユダヤ人のキリスト教徒の何れにも偏することなく,両者の調停を目指したものだ,とい えるのである。

1) L. Su&rez Fernandez, Documentos acerca de la expulsion de los judios, Valladolid, 1964 〔以下, Documentosと略記〕, nos. 25, 29.

2) Cortes, IV, pp. 149-151.

3) Cortes, IV, pp. 102-104.なお,このコルテスではその他に,ユダヤ人の刑事裁判権剥奪LIbid., pp. 94-95),マーク着用義務,高価な衣服の着用禁止{Ibid., pp. 10ト102)といった措置がとられている. 4) Documentos, nos. 36, 51.類似のものとして, ibid., nos. ll, 53.

5) Cantera Burgos, "La juderia de Hita", Sefarad, 32, 1972, Ape. Ill (pp. 298-299) ; Docurnentos, no. 57,類似のものとしてibid., no. 44.

6) Docutnentos, no. 2.

7) Docurnentos, no. 18.なおトゥルヒ-I)ヨではピサロなる者が仲間とともにユダヤ人を迫害しており,こ れを抑えるための王令 bid., nos. 9, 10)が出されている.

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32      15世紀カステイ-リャにおけるユダヤ人政策

8) Documentos, no. 33.セピーリャへの同日付の王令{Ibid., no. 34)は,ユダヤ人が正当な権利によって 所有している土地・家屋を奪おうとする者たちに,これを禁じており,同年オカーニャ(Oca免a)にも 同様の命令が出されている Leon Tello, Judios de Toledo, I. Col. doc. 63 (pp. 483-484).

9) Documentos, no. 38.アビラについてのその他のユダヤ人保護王令として, Leon Tello, Judios de Avila, Avila, 1963, docs. VIII (pp. 50-521), XIV (pp. 62-64)を参照.

10) Documentos, no. 55. ll) Documentos, no. 23. 12) Documentos, no. 5, 14, 56.

13) Docurnentos, no. 6; Leon Tello, Judios de Avila, doc. V (pp. 45-47). 14) Documentos, no. 54. 15) Documentos, no. 16. 16) Docurnentos, nos. 17, 49, 50. 17) Documentos, no. 21. Ⅴ カトリック両王のユダヤ人政策は1483年に転機を迎える 1483年1月1日セピーリャの異端審 問官は,ユダヤ人が30日以内にセピーリャ大司教区外へ退去するよう命じた1)。これがセピーリャ 大司教区のみならず,アンダルシーア全域に及ぶものであったことは,後述の1492年の追放令か ら明らかである1483年の追放令は異端審問官の名で出されているが,彼らの上奏をうけて王権が 許可を与えたものと考えられ,王権のユダヤ人政策の一環と見倣してよい,と思われる。 アンダルシーアからのユダヤ人追放が実際に如何になされたかに関して詳細は不明だが,へレ ス-デ=ラ=フロンテ-ラについてはやや詳しい様子が分っている 1483年1月4日,追放令を知っ たへレスのユダヤ人代表が市参事会を訪ずれ,当地が追放の対象地域となっているか否かを確認 し,もしなっていれば期日の延期を願い出るように申入れた。そこで市の代表が異端審問官と会見 し,へレスが対象地域となっていることを確認し,延期を申出たが拒否された旨の報告を1月21 日に市参事会に提出した。その後おそらく王権との折衝があったらしく, 1484年1月7日のへレス 宛の王令は, 6カ月間の追放令の停止を命じているが,その後の経過は不明である2)0 このように偶々知られる事例からは,追放令の実施が必ずしも円滑になされなかったことが窺わ れるが, 1483年以来アンダルシーア地方の都市宛のユダヤ人関係王令が見られないことから推し て,多少の遅滞はあったにせよ,追放は実施されたものと考えられる。 さて, 1483年の追放令以後,ユダヤ人政策は如何なる展開を見せるのであろうか。王令を通覧す ると,この時期も以前と同様に. (1)居住, (2)貸借・高利, (3)迫害, (4)ユダヤ人の諸負担, に関するものが殆どを占めている。順次見ていこう。 (1)居住については従来通り居住区内居住の原則が受継がれているが,これが必ずしも守られ ていなかったことは,下記の王令から窺える1491年王権はプラセンシア(Plasencia)のコレヒ ドールに対して,居住区外に出てキリスト教徒の問に住んでいるユダヤ人がいるが,彼らが居住区 へ戻るよう取計らうことを命じており3),同様の命令は,コラル-デ-アルマゲ-ル(Corral de

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林    邦  夫     〔研究紀要 第33巻〕 33 Almaguer, 1483年),バダホス(1485年),ソリア(1489年)に対しても出されている4)0 所で居住区に関しては,ユダヤ人,キリスト教徒の双方から苦情が訴えられていることが王令か ら知られる。前者からは,居住区が狭い(アビラ5),レオン6)),居住区内の賃借しているキリスト 教徒の家の家賃が高い(カセレス7),バダホス8)),居住区に指定された地域にユダヤ人が入りきれ ない(プラセンシア9)),居住区内にあったキリスト教徒の家と居住区外のユダヤ人の家との交換が 不利になされた(バレンシア10)¥ といった訴えがある。後者からは,ユダヤ人に有利な区域が居住 区に割当てられた(プラセンシア11)バレンシア12)> といった訴えがある。 以上のトラブルの他に,居住区の設定そのものが順調になされなかった事例もある。例えばログ ロニョでは1488年2月の時点でまだ居住区が定まっておらず,候補地選定作業の続行が命じられ ており13)ボンフェラダ(Ponferrada)の市参事会は居住区が設定されていないためユダヤ人が キリスト教徒と雑居していると訴えている14)ォレンセ(Orense)のユダヤ人からはキリスト教 徒が居住区域から立退こうとしないという訴えがなされている15) 以上から,ユダヤ人政策の根幹を成す居住区内居住の原則は必ずしも円滑に遂行されていなかっ たことが判明する。 (2) 1485年の王令16)から次の事実が知られる。すなわち,王国のユダヤ人の代表セネオル (Abraham Seneor)が高利に関する示談を成立させることに成功し,それまでになされた貸借 'についてはそれが高利を含むか否かの調査・審理を行なわないことになったが,これが守られてい ないというユダヤ人代表からの訴えで再度王権が調査の禁止を命じたこと,である。この示談によ って貸借をめぐるそれまでの争いに一応の終止符が打たれたことになるが,その後,高利に関する 王令を帯びた者が悠意的にキリスト教徒の債務を無効にしているというユダヤ人代表の訴え(1485 年),高利を含むとしてキリスト教徒が負債を支払わないというサラマンカのユダヤ人の訴え(1486 年),ブルゴス地方の町々のユダヤ人が高利を取っているという訴え(1491年)があったことが王 令から知られる17)ように,貸借・高利をめぐる紛争は依然として続いていた,といえる。 (3)ユダヤ人迫害はこの時期には数多く見られ,顕著な特徴となっている。以下,迫害をいく つかのパターンに分けて見ていこう。 第1に,生活物資購入制限がある。ソリアでは城内に住むユダヤ人への食料供給禁止が決めら れ18)セゴビアではユダヤ人に対して魚や肉の購入の日時を制限し19)ブルゴスではキリスト教徒 の窯でユダヤ人にパンを供給することが禁じられ20)y メディナ-デル-カンポでは居住区での薪炭・ 焼いたパンの販売を禁じている21) 第2に,身体・財産への危害がある。セピーリャでは追放されたユダヤ人の財産が略奪され,ト ウルヒ-リョではユダヤ人やその家-の投石がなされ,ビトリアでは投石・罵言・シナゴーグへの 侵入・暴行があった 1479年の王令23'は,いくつかの都市でユダヤ人に対して人々を煽動し, 強制的にユダヤ人のシナゴーグ・所有地・墓地を奪ったり,所有物を盗むなどの害悪を加え,不正 な条例を作っていると述べて,これを禁じている。

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34       15世紀カステイ-リャにおけるユダヤ人政策 第3に,ユダヤ人の居住禁止がある。パルメセ-ダ(Valmeseda)では1483年に反ユダヤ人暴 動が起き,市参事会はユダヤ人の定住を禁じた。1486年に再び暴動が起き,ユダヤ人は市外へ避難 し,同年3月の王令はユダヤ人の受入れと保護を市参事会に命じたが服さず,1488年に同様の命令 が繰返された。その後ユダヤ人と市当局との折衝があり,前者の同意の下にユダヤ人はパルメセ-ダに居住できないという条例が作られた24)またクエンカではユダヤ人の居住と3日以上の滞在が 慣習として禁じられていた25)。 第4に,その他として,居住する土ダヤ人の人数の制限(ブルゴス),ユダヤ人仕立師の仕事を 市内のみに制限した条例(ビトリア),ユダヤ人所有の駿馬の強制的徴用(ビトリア),ユダヤ人の 宿泊禁止(ビルバオ),ユダヤ人の日没後の外出禁止(トゥルヒ-リョ)などがある26)。 以上のような現実の迫害の他に,ユダヤ人が不穏な情勢を察して王権に保護を訴え,それをうけ て王令が出されているのもこの時期の特徴である。 例えばプラセンシアの住民が「憎悪と遺恨と敵意のために,ユダヤ人を殺傷したり,彼らの身 体・財産を捕えたり,奪ったりするのではないかと恐れ,心配している」というユダヤ人の訴えを うけて,王権はユダヤ人を保護下に置き,彼らに上の如き危害を加えないよう命じている27)。セゴ ビア,コルナゴ(Cornago),オレンセ,サモラなどの各地からも不穏な動静を伝えるユダヤ人の 訴えが寄せられており28)jユダヤ人-の敵意の昂まりが窺える。 かかる情勢は1490 91年の所謂「ラ-グアルディアの聖なる御子(SantoNinodelaGuar-dia)事件」によって拍車をかけられたと推測される。これは5人のユダヤ人と6人のコンペルソ が共謀してキリスト教徒の子供を礎殺したとして処刑された事件である。この事件については実在 説と虚構説とがあるが29)ともかくもこれがキリスト教徒の敵意を煽り立てたことは否定できな い。アビラでは,この事件の裁判の影響で人々が騒擾を起し,1人のユダヤ人を石で打ち殺したた めユダヤ人が不安を感じて保護を求め,王権は1491年の王令30)で例によって彼らをその保護下に 置いている。 (4)ユダヤ人からの請願をうけて王権は下記のような不当な負担をユダヤ人に課すことを禁じ た王令を出している。すなわち,通行税徴収(パルバデイリョ-デ-メルカードBarbadillode Mercado,1484年3、1)),アルカバーラの賦課(セゴビア,1484年321),グラナダ戦費の割当(全国, 1486年33)クラベ-ラ,1490年34)バダホス,1491年35)N )>祝祭日のための負担(ソリア,1488 年36)),宿舎の提供(レオン,1485年37)バダホス,1491年38)¥などである。 以上,4点に亘って1483年以後のユダヤ人政策を見てきたが,注目すべきは,ユダヤ人への迫 害やその兆候が目立つこと,及びその他の問題も依然として解消していないこと,である。かかる 状況の中で1492年3月31日,カトリック両王はスペイン王国全土からのユダヤ人の追放を命じた のである。 この追放令39)の内容は次の通りである。悪しきキリスト教徒の存在はユダヤ人との接触が原因 であるので,トレードのコルテスでユダヤ人の分離居住を命じ,更に異端審問を実施したところユ

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と け r l コ , † 林    邦 夫     〔研究紀要 第33巻〕 35 ダヤ人との接触のもたらす大きな害悪が明らかとなった。そこでアンダルシーアからのユダヤ人の 追放を命じ,これによって王国の他の都市のユダヤ人がキリスト教徒へ悪影響を及ぼすことを放棄 するだろうと考えたが,結局,異端審問もこの追放も全体的方法としては不十分であることが判明 した。それ故,本書状によって王国内のすべてのユダヤ人が本年7月末日までに王国から退去する う命じ,この命令に従わなかった場合には,死罪・財産没収に処する。 7月末日まではユダヤ人は 王権の保護の下にあり,動産・不動産を自由に処分できる。ユダヤ人は退去に際して,王国の法で 禁じられている金・銀・正貨その他を除くすべての財産を搬出できるものとする。 以上の追放令によって1492年7月末日をもって,形式的には王国内にユダヤ人は存在しないこ とになり,ユダヤ人問題は一応の最終的結着を迎えたことになるのである。 さて,ここで1391年以来のユダヤ人政策を概括しておこう 1391年の反ユダヤ人暴動の後,エ ンリーケ3世王権はユダヤ人保護の姿勢を示したが,規制の必要をも認識し, 1405年には高利の禁 止などの措置をとった。フアン2世摂政期になるとユダヤ人規制の動きが昂まり, 1412年にはバリ ャドリード勅令が出され,居住区内居住の強制を中核とする厳しい規制がしかれた。バリャドリー ド勅令は規制一色のものであったが,王国の南部ではユダヤ人保護をも顧慮したより穏和なシフエ ンテス勅令が行なわれていた1418年以後の親政期には規制の弛緩が進行し, 1443年のアレバロ勅 令はユダヤ人保護を強く前面に押出したものであり,かかる政策はエンリーケ4世によってそのま ま継承されていった。カトリック両王はこのように保護に傾きすぎたユダヤ政策を,規制と保護の バランスのとれたユダヤ人政策へと転換させて問題の解決を図ったが奏効せず, 1483年にはアンダ ルシーアからのユダヤ人追放を実施したが,他の地方ではユダヤ人問題が激化していき,終に1492 年スペイン全土からのユダヤ人追放を実施した。 それでは1492年のユダヤ人追放の行なわれた原因はどのように考えられるのであろうか。 ′負後 にこの問題について検討してみたい。 1)この命令の原文は現存しないが,セピーT)ヤのユダヤ人徴税吏の会計報告にこの事実が記載されyuden, no. 337),また同時代の年代記作者によっても記されている(H. Sancho de Sopranis, "Contnbu-cion a la historia de la juderia de Jerez de la Frontera", Sefarad, ll, 1951, p. 365)c また 1484年の王令(Documentos, no. 69)の中のユダヤ人の請願もかかる事実を述べている。

2)以上については, Fita, "La Inquisicion en Jerez de la Frontera'% BRAH, 15, 1889; Sancho de Sopranis, art. cit.; Id., "Los conversos y la Inquisicion primitiva en Jerez de la Frontera , Archivo iberoamericano. 4, 1944を参照.

3) Documentos, no. 149.

4) Documentos, nos. 63, 89, 133.

5) Leon Tello, Judios de Avila, doc. XXII (pp. 76-77). (1486#0 6) Docurnentos, no. 110. (1488;

7) Docurnentos, no. 148. (1491#0

8) S. H. Haliczer, "The Castilian Urban Patriciate and the Jewish Expulsions of 1480-92" AHR, 78, 1973, p. 52. (1490*E)

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36 15世紀カステイ-リャにおけるユダヤ人政策

10) Leon Tello, art. cit., doc. XV. (pp. 76-77). (1484年)これに対してキリスト教徒側が不当な言掛り であるとして王権に訴えているIbid., doc. XXI (pp. 88-89). (1489年)

ll) Docurnentos, no. 155. (1491 ^) 12) Haliczer, art. cit., p. 53. (1491^)

13) Documentos, no. 107.

14) Docurnentos, no. 112. (1488」fO 15) Documentos, no. 126. (1489^)

16) Documentos, no. 90.

17) Docurnentos, nos. 93, 99, 162. 18) Documentos, no. 71. (1484」p)

19) Documentos, nos. 118 (1488年), 124 (1489年)

20) Cantera Burgos, Alvar Garcia, p. 42; Lopez Mata, art. cit, p. 378. (1488*」) 21) Documentos, no. 130. (1489^p)

22) Docurnentos, nos. 75 (1484年), 103 (1487年), 114 (1488年).

23) Documentos, no. 74.

24)以上は, Cantera Burgos, ``Las juderias medievales en el Pais Vasco", pp. 308-309; Docu-mentos, nos. 97, 120, 121, 123を参照.

25) Docurnentos, no. 65. (1483年)ユダヤ人側はかかる慣習はないと訴えているIbid., no. 136. (1489年) 26) Docurnentos, nos. 96 (1486^), 115 (14884」), 117 (1488^)., 142 (1490」f), 144 (1490^).

27) Docurnentos, no. 158. (1491 ^J

28) Docurnentos, nos. 83 (1485年), 100 (1487年), 125 (1489年), 159 (1491年).

29)実在説に立つのは,メネンデス=イ=ペラーヨ(M. Men占ndez y Pelayo, Historia de los heterodoxos espanoles, 2 tomoa 〔BAC, tomos 150-151〕, Madrid, 1956, I, p. 642),ロペス=マルティネス(N・ Lopez Martinez, Los judaizantes castellanos y la Inquisition en tiempo de Isabel la Catolica, Bur-gos, 1954, pp. 194-199),虚構説は,ロエブ(I. Loeb, ``La Saint Enfant de la Guardia , Rev. d'etudes juives, 15, 1887),ロス(Cecil Roth, A History of the Marranos, New York, 19744, p. 52), ベ-ア(F. Baer, A History of the Jews in Christian Spain, 2 vols., Philadelphia, 1966, II, p. 421)などのユダヤ人史家とリー(H. Ch. Lea, Chapters from the Religious History of Spain, 1890 rep. New York, 1967, p. 457)が主張している。カーロ=バローハは起り得たことだ,として前説に近 い立場をとるJ. Caro Baroja, Los judios en la Espa殆a moderna y conternpordnea, 3 tomos,

Ma-drid, 19782, I, p. 188.なお,この事件の史料としては,ユダヤ人の1人に関する審問記録が現存してお り,フィータによって活字化されている Fita, ``La verdad sobre el martinio del Santo Ni丘o de La Guardia, o sea proceso y quema del judio Juce Franco", BRAH, ll, 1887.

30) Docurnentos, no. 170.

31) Docutnentos, no. 66. (1484^) 32) Documentos, no. 73. (1484年)

33) Documentos, no. 95. (14864p)

34) Leon Tello, Judios de Toledo, I, Col. doc. 81 (pp. 529-531).

35) Documentos, no. 154.なお,ユダヤ人のグラナダ戦費の負担について一般的に, M. A. Ladero Quesa-da, Castilla y la conquista del Remo de GranaQuesa-da, Valladolid, 1967, pp. 221-223 を参照.

36) Documentos, no. 108.

37) Cantera Burgos, ``Juderias medievales de la provincia de L色on", p. 126. 38) Documentos, no. 153.

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林    邦   夫     〔研究紀要 算33巻〕 37 ⅤⅠ ユダヤ人追放の原因については今日まで様々な議論がなされてきている。以下ではこれらの議論 を検討していき,最後に私なりの考えを述べてみたいと思う。 従来の議論は,大別して, 〔1〕王権主導説(追放決定における王権の主導性を認める考え)と, 〔2〕王権従属説(王権が特定の階層の利害に従属して追放を実施したとする考え)の2つに分類で き, 〔1〕は更に王権の動機をどう捉えるかという観点から. (1)財政的動機説, (2)宗教的動機 読. (3)政治的動機説に, 〔2〕は特定の階層の種類から. (4)貴族説. (5)都市支配層説. (6)氏 衆説に分けられるよう・に思う。以下,順次見ていきたい。 (1)これはネタニヤフの説であり,その議論の大要は次の通りである。王権は1480年のトレ ードのコルテス以来,封建貴族に対抗して中央集権化を推進するために都市の支持を必要とした。 都市民はユダヤ人に敵意を抱いており,王権は都市の支持を得るために反ユダヤ主義に同調せざる を得なくなった。都市民のユダヤ人への敵意は宗教的なものではなく,社会・経済・政治的なもの であり,従って彼らの狙いはユダヤ人の改宗ではなく,その絶滅乃至追放であった。グラナダ戦争 のため財政的窮乏に陥っていた王権は,ユダヤ人追放実施という都市の要求-の譲歩を,むしろ積 極的に利用しようと図った。すなわちユダヤ人追放から財政的利益を獲得しようとしたのであ る1)0 以上の説は,以下の3つの理由から支持し難いと考えられる。第1に,都市の要求に同調したと ( いう点であるが,これは後の(5)で述べる理由から同意できない。第2に,王権が追放から財政的 利益を引出そうとしたとは思えない。追放に際しては多くの改宗者が出ており2),彼らは当然スペ インに留まり財産を所有し続けている。また追放令は国外への財産の搬出を許している3)。更にシ ナゴーグ・墓地などのユダヤ人共有財産は王権の所有に帰したことが多かったと推測されるが,そ れらは王権から教会・修道院・都市などに恵与されることが多かった。例えば,カラオラのシナゴ ーグは同地の大聖堂に,レオンのシナゴーグは同地の修道院に,バレンシアのシナゴーグは同市 に,アビラのユダヤ人墓地は同地の修道院に贈与されている4)。第3に,グラナダ陥落で戦費の支 出が止み,収入源となる新たな領土が加わった時点で,何故敢えて追放によって収入を得る必要が あったのか,説明困難である。 (2)宗教的動機を重視する論者は多いが,それぞれ微妙なニュアンスの差がある。しかし敢え て大きく括ってみると. (a)コンペルソのユダヤ人の悪影響のみを原因として挙げる説と. (b)そ れを中心としながらも,ユダヤ人の同化・改宗が不可能だという王権の認識を追放の前提としてつ け加える説,とに分けられるように思う。 (a)に属するのは,まず反ユダヤ主義的立場の鮮明なロペス-マルティネスであり,彼は「フダ イサンテの密かな精神的指導者は公然たるユダヤ教徒である」として,追放はユダヤ人の改宗勧誘 からキリスト教を防衛するためとなされた,と主張している5)。彼の説はカーロ-バロー-によっ

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て踏襲されている6).ロペス-マルティネスほど護教諭的色彩は強くないが,ヒルガ-スやクリ-38       15世紀カステイ-リャにおけるユダヤ人政策 ゲルといった最近の論者も(a)に属するといえる。前者は,あらゆる障害に対抗してスペインの 宗教的一体性を貫徹せんとする国王の決意の表現が異端審問制であり,ユダヤ人追放であったと し7),後者は後述の(4), (5), (6)にあたる諸説を批判した上で,王権にユダヤ人追放に踏切らせ たのはコンペルソの背教という別な論理であったとして,ユダヤ人の存在がコンペルソに与えた悪 影響の除去が追放の目的であった,と主張している8)0 (b)に属する論者としてリーは,異端審問制の活動でフダイサンテの存在が確証されたために漸 次的改宗が信仰統一をもたらすという見込みが崩れたことが追放をもたらし喪と述べ9㌧ ベ-アは 追放の目的はキリスト教徒が同化できなかった異質の人種的要素を政治体から切除することであっ たとし10)ドミンゲス-オルティスは追放を促した一因として,ユダヤ人が同化困難な民族である という確信を挙げている11) (b)の説に見られる改宗・同化という要素について述べると,既に見たように王権の基本政策は 程度の差はあれ,一貫してユダヤ人のキリスト教社会からの分離なのであり,その改宗・同化など は初めから王権の政策には殆ど含まれていなかったと解すべきであり,追放の動機としてかかる要 素を考慮するのは誤りではないか,と考える。 以上の点を除けば, (a), (b)に共通する基本的論点,すなわちコンペルソへのユダヤ人の悪影響 の除去のために追放がなされたという議論は,説得性をもっているといえる。この議論の最大の強 味は,既述の1492年追放令そのものの中でかかる理由づけがなされていることである。また国王フ ェルナンドのアランダ(Aranda)伯宛書翰12)が, 「そこから少なからぬ損害が余らに生ずるが, 余らの領土において余らのすべてのカによって聖なるカトリックの教えが繁栄し,高揚することを 望んで」追放を行なった,と述べていることも有力な論拠となる。しかし(2)は,ユダヤ人とキリ スト教徒との葛藤・対立という事実を,ほぼ全く視野に入れていない点で一面的であるように思わ れる。 (3)に属する論者として,アスコ-ナとスアレス=フェルナンデスを挙げ得る。 前者は(1)のような考え方に対して王権を弁護することに力点を置いているが,追放の原因とし ては, 「追放令は高度な国家理性によって命じられた。国王が新たな国家の中核に位置づけつつあ った王権の至上性は,同化されない社会団体の存在を許容できなかった」と述べ13㌧ 追放を王権に よる中央集権化の過程の中に位置づけている。 後者は王権のユダヤ人政策を改宗によるユダヤ人の統合であったとし, 1412年のバリャドリー ド勅令もユダヤ人を惨めな状態に追込んで改宗を促すものであったと解釈する。しかし改宗が進展 しないどころか,ユダヤ人の存在が信仰の破壊をもたらすことが判ったとき,信仰の一体性の強制 ・維持のためにとった政策が,異端審問制の設立であり,ユダヤ人追放であった,とする14)以上 までは. (2)の(b)の説と同様であるといってよいが,彼の場合はこれが政治的視点と結びつく。 すなわち,かつて国王は先祖から受継いだ権力(potestas)の保持者としてその本来の臣民(キリ スト教徒)とは別な人々(ユダヤ人,モーロ人)をも王国内に存在せしめることができた。しかし

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林     邦  夫 〔研究紀要 第33巻〕  39 トラスクマラ朝とくにフアン1世(在位1379-1390)以来,国王,王国,領土,社会との間の一体 化が進んだ。この社会の基本的徴表は宗教と法であり,ユダヤ人を王国内に存在せしめるためには その改宗が不可欠となったが,ユダヤ人が強大であったために改宗を強制できず,追放せざるを得 なかった,というのである15) 以上の両者の説は追放の背景となった大きな状況を理解するうえでは示唆的で有益だが,追放と いう具体的政策の説明としては大雑把にすぎる,という印象をうける。 (4)はカメンの説である。彼は「追放は,最も広義に解釈すれば,封建貴族が国家内で彼らの 優位を脅かす中間層を除去せんとする試みであったJという16)彼の主張は,ブルジョアジー-中 間層(-ユダヤ人)と封建勢力-貴族との敵対という図式を機械的に適用したものであり,大雑把 にすぎ,実証性に欠けるといえる。第1に,下層の職人も多かったユダヤ人を中間層と一義的に規 定するのは問題がある。第2に,カトリック両王時代に貴族が反ユダヤ人の立場に立っていたとい うのは実証的根拠がない。第3に,貴族は国王と同様にむしろユダヤ人を行財政面で利用してお り17)敵対する理由は見出し難い。 (5)はハリツァーの説であり,その大意は次の通りである。カトリック両王は封建貴族と対抗 するために,またグラナダ戦費などの戦費を賄うために都市の支持が必要となり,都市への依存を 強めた。都市の寡頭支配層は,都市内部で彼らの支配に服さない自治団体を形成していたユダヤ人 の独立的地位を廃止せんとして国王に圧力をかけたが,これには寡頭支配層の中で多くを占めてい たコンペルソが,彼らへの敵意をユダヤ人に転嫁せんとする狙いも働いていた。国王は都市の助力 を必要としていたために不本意ながら追放に踏切った18) 以上の-リツァー説には次のような難点が指摘できよう。第1に,王権が都市へ依存していたと いうなら,グラナダ戦争が終結し,都市への依存の必要度が減少した時点で何故追放がなされたの か,説明しにくい。第2に,コンペルソによる都市支配の論拠として利用されているのはマルケ ス-どリャヌエバの論文19)であるが,この論文でかかる事実が実証されているのはアンダルシーア の諸都市,トレード,ブルゴスのみである。ところが既に見たように, 1483年以後反ユダヤ主義が 昂まっていたのはむしろこれ以外の都市であった。それ故,反ユダヤ主義が昂まった都市の支配層 がコンペルソであったとはまだ実証されていない。第3に,カトリック両王はコレヒドールを通じ て都市への支配を強めたとするのが通説的理解であり20)都市から不本意な政策を強いられる程, 王権の立場が弱かったとは考え難い。 (6)メネンデス-イエペラーヨは,民衆の反ユダヤ主義を強調し,追放は暴動の脅威からユダ ヤ人を救う唯一の方法であったとした21)同様にサンチェス-アルポルノースは,追放を行なわな かった場合は虐殺が起ったであろうとして,追放を正当化する22)両者の念頭にはおそらく,王権 の行為を厳しく批判したアマドール-デ-ロス-リオスの主張23)があったものと想像されるが, ともかくも両者は追放の責任を専ら民衆に押しつけて追放はユダヤ人の保護のためであった,とす る。民衆の反ユダヤ人暴動の脅威があったことは事実としても,かかる解釈は慈意的であるといわ

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