八三
―
﹁自然の創造主の言語説﹂を手掛かりにして︵18 世紀におけるアナロギア論争の一局面
1
―
︶竹中真也
はじめに
古来︑神はさまざまな仕方で語られてきた︒ギリシアの神話においては︑神々の恋愛︑欲望︑愛欲︑嫉妬︑復讐︑知恵︑策略などが︑じつに鮮やかに描かれている︒ギガントマキア︑エウロペの略奪︑パリスの審判︑トロイア戦争など︑これらの物語を一読するだけでも︑神々における心の動きが︑人間の経験に照らして︑手に取るように感じられるだろう︒それでは︑キリスト教の神はどうか︒いささか事情が異なると思われる︒事実︑キリスト教における神は全知・全能・最善であり︑この神に比肩する者など一切いない︒まさに神は超越者であり︑われわれとは異なる在り方をしているのである︒それでは︑このような超越者における知恵や知識や善を︑われわれ有限な存在者はいかにして知ることができるのであろうか︒
本稿は︑
がってこのバークリの議論を手掛かりにすれば︑ てバークリは︑神の存在を独自の仕方で論証するだけでなく︑神の属性に関するわれわれの認識にも言及する︒した あたって︑ここではバークリ中期の護教的著作﹃アルシフロン﹄における第四対話を取り上げよう︒この対話におい 18世紀におけるアイルランドでの論争を踏まえて︑この問いにわずかながら答えてみたい︒そうするに
18世紀における︑神という超越者とわれわれとの関係についてひ
八四
とつの観点を与えることができるのである︒まずは︑バークリの議論を見る前に︑本稿の問題と関連する歴史的背景を踏まえておこう︒
一 問題の所在
―
歴史的背景から︵2︶
キリスト教の神を認める人にとって︑神に知恵や知識や善が存することは明白である︒しかし︑この知恵や知識や善性がいかなるものか︑それらをいかにしてわれわれが知るのかはけっして容易な問題ではない︒蓄積ある難問である︒事実︑神が存在し知恵があることを︑人間と同じ意味で﹁字義通りに︵
literally
︶﹂理解するとしよう︒このとき︑神が人間と同じ仕方で存在し知恵あることになる︒とすれば︑その場合︑神の人に対する絶対的な超越性が損なわれてしまうだろう︒それでは︑神における知恵や知識や善を︑われわれと同じ仕方ではなく﹁比喩的に︵metaphorically
︶﹂理解するならどうか︒この場合には︑神における知恵や知識や善が比喩なので︑神に知恵や知識や善性があるのかが︑それほど明白ではなくなる︒ちょうど﹁山笑う﹂という比喩において︑山がじっさいに笑うわけではないのと同様に︑神そのものと知恵や知識や善との関係が不明瞭になる︒このように︑神についての述語を﹁字義通りに﹂に解するにせよ﹁比喩的に﹂に解するにせよ︑いずれにしても︑問題が生じる︒そこで︑これらとは別の道が中世以来︑模索されてきた︒それが︑神についての述語を﹁類比的に︵analogically
︶﹂解する道である︒18世
紀のアイルランドにおいても︑神における知恵︑知識︑善性をいかにして理解するのかをめぐる論争があった︒それは︑はじめにウィリアム・キングによって︑次にピーター・ブラウンによって展開されたのである︒
キングによれば︵
がいかなるものかを知ることもできなければ︑それらと被造世界がいかにして関係するのかも知ることができない︵ 3︑神はこの世界を超越して存在している︒したがってわれわれは︑神の能力や知恵や知識や善︶
しかしながら︑それにもかかわらず︑キングは奇妙なことを口にする︒すなわち︑神の創造した世界と︑世界を創造 キングに言わせれば︑神における能力や知恵や知識や善は﹁字義通り﹂ではなく﹁比喩的﹂に理解されねばならない︒ 4︒︶
18世紀におけるアナロギア論争の一局面︵竹中︶八五 いと主張するのである︒もちろん︑こうしたキングの議論は︑すでに指摘されているように︵ する能力との因果関係は︑われわれが事物を製作する場合と類比関係にあり︑しかも︑この類比が比喩にとどまらな
ある︒ 前提からして﹁不可知論﹂である︒キングは︑神の超越性を強調するあまり︑神の立場をも危うくしてしまったので して明確ではない︒かりにキングの主張が成り立つなら︑それは神人同型説になるだろう︒そもそも︑彼の議論は︑ の世界創造を理解できると言うが︑この類比ないし比較は︑比喩とどこが異なるのか︒キングの議論においてはけっ
by way of analogy and comparison D P 8
している︒キングは結果から﹁類比や比較という手段によって︵︶﹂︵︶神 5︑比喩と類比を混同︶こうしたキングのあいまいな議論に対して︑ピーター・ブラウンはキリスト教の伝統的な議論を援用して︑比喩と類比を明確に区別する︵
できる︒したがって︑この抽象的観念であれば︑人間にも神にも知恵や知識を適用できるのである︒ 体ではなく魂に依存する︒しかるに︑われわれはこれらに関して不完全性を切り離した抽象的観念を形成することが これに対して︑類比の場合︑神と人間のあいだには真に類似関係が成り立つ︒ブラウンによれば︑知恵や知識は︑肉 る︒荒れた海を怒りの比喩にするとしても海と怒りが別であるのと同様に︑神と手や眼や喜びには類似関係はない︒ 動状態をもたないので︑それらに関わる表現
―
﹁神の御手﹂︑﹁神の御眼﹂︑﹁神が喜ぶ﹂など―
はすべて比喩であpassion
6︶︒すなわち︑ブラウンに言わせれば︑神は身体やそれに由来する情念︵︶という受 ブラウンは比喩を類比から分離しており︑キングが陥ったような不可知論を回避している︒この点で︑ブラウンの議論はキングのそれよりも優れていると評価できる︒しかしバークリは︑ブラウンの議論について精通していたものの︑それに賛同することができない︒ブラウンは類比の適用の対象を︑知恵や善についての抽象的観念とした︒なるほどそれらに基づくのであれば︑神の属性について理解することができるという主張にはキングよりも説得力がある︒しかし︑具体的ないし個別的事物から切り離された知恵そのもの︑善そのものは︑バークリに言わせれば︑形成することなどできない︒すでに︑﹃人知原理論﹄において言われていたように︑幸福︑正義︑徳の抽象一般的な観念は不可能である︵Cf
.PHK 100
︶︒つまりバークリはブラウンのような抽象理論を受け入れることができないのであり︑八六
その類比の議論も受け入れられないのである︒それでは︑バークリは︑いかにして神の知恵や知識や善について説明しようとするのか︒以下において︑バークリの議論を見ることにしよう︒議論の中心となるのは︑﹃アルシフロン﹄第四対話である︒
二 デザイン論証
二
アルシフロンの無神論 - 一
第四対話の主題は神の存在と属性である︒第四対話は︑ダイオン︵この対話篇の中立的な若き報告者︶が早朝の観想から得たある不安について論じるところから始まる︒すなわちダイオンは最初に︑神の存在に確信をもてず悲嘆に暮れていると言う︒というのも︑人間の生活の基盤は自然世界にあるのに︑もし神が不在であれば︑その自然世界が無政府状態になるからである︒ダイオンに言わせれば︑自然世界が人間生活の基盤であるだけに︑自然における無政府状態は市民生活におけるそれより︑いっそうたちが悪いのであり︑それゆえに彼はおびえていると告白するのである︒この発言を受けて︑自由思想家アルシフロンは神についての所見を述べるのであるが︑それはダイオンの期待に反して︑無神論的である︒すなわち︑神の﹁宇宙論的な証明﹂﹁存在論的な証明﹂﹁権威からの証明﹂﹁有用性からの証明﹂という︑従来の神の存在証明に納得していない︑とアルシフロンは言う︒彼に言わせれば︑神の観念はじつのところ︑闇夜の恐怖から生じる妄想︑あるいは︑キリスト教教育によって植え付けられた偏見にすぎない︒アルシフロンはこう述べて︑無神論的な立場を表明する︒しかも︑アルシフロンは立て続けに︑非物質的な魂の存在をも否定する︒アルシフロンによれば︑感覚的な知覚とは︑外部の対象が身体のうちの動物精気という微細な粒子に刺激を与えることであり︑非物質的な魂など関与しない︒このようなアルシフロンの立場は︑当時の自由思想家による︑唯物論的で︑感覚と理性のみを重んじる風潮を代表していると言うことができる︒こうした自由思想を受けて︑今度は︑バークリの代弁者たるユーフレイナーが反論しはじめるのである︒
18世紀におけるアナロギア論争の一局面︵竹中︶八七 二
ユーフレイナーの反論 - 二
反論のきっかけは︑アルシフロンの動物精気説についての説明である︒アルシフロンは︑﹁それら︹動物精気︺は伝令であり︑神経のうちであちこち走って︑魂と外的な対象のあいだの連絡を保持している﹂と口を滑らしてしまう︒しかしながら︑この説明は不用意であろう︒事実︑ユーフレイナーはすかさず︑あなたの言う﹁魂﹂とはいかなるものかと問いかけ︑それを反論の糸口とする︒もちろんアルシフロンは﹁魂﹂を︑﹁脳に内在するとらえがたい部分︑すなわち精気の希薄な繊細な構造﹂と述べ︑唯物論的な姿勢を維持しようとする︒しかし︑ユーフレイナーは︑巧みに︑その﹁希薄な繊細な構造﹂を﹁思考や活動の原理﹂︵
ALC 4. 3
︶と言い換えてよいかと尋ね︑アルシフロンから同意を得る︒それから︑その原理が感官に知覚されなくとも存在しうることも︑アルシフロンに認めさせる︒ここでこの言い換えはじつに巧妙である︒というのも︑﹁原理﹂という言葉が︑物質的なものにとどまらず︑非物質的なものをも含意しうるからである︒こうした巧妙な誘導ののち︑ユーフレイナーは﹁動物精気﹂の存在をどのようにして導き出したのかと詰めよる︒ユーフレイナー もしわたしがあなたの考えを正しく理解しているのなら︑あなたは︹感官で知覚可能な︺動物的な能力や運動から動物精気の存在を推論し︑︹知覚可能な︺理性的な活動から理性的な魂の存在を推論している︒そうではないのか︒アルシフロン そうだ︒ユーフレイナー してみると︑感官に知覚されえない事物の存在は︑結果や記号︑つまりは感じ取れるしるし︵
tokens
︶から推論されうるのだろう︒アルシフロン そうだ︒ユーフレイナー アルシフロン︑教えてくれ︒魂は︑現実の人と影との間の︑︹あるいは︺生きている人間と死体との間の主要な区別をなすものではないのか︒八八 アルシフロン そうだと認めよう︒ユーフレイナー してみると︑例えば︑あなたが個々の思考する個体︑すなわち生きている現実の人間であることを知るのは︑ほかならぬ︑あなたが魂をもつということが推論されうる確かな記号︹身体︺によるのか︒アルシフロン そうだ︒ユーフレイナー 教えてくれ︒感官によって直接的に適切に知覚されるすべての働きは︑運動に還元できるのか︒アルシフロン そうだ︒ユーフレイナー してみると︑運動から︑あなたは動者すなわち原因︵あるいは合理的な目的を意図していると思われるようなもの︶を推論するのか︒アルシフロン まさしくそのとおりだ︒
ここで︑ユーフレイナーはアルシフロンと以下の合意点を見出す︒すなわち︑感覚できる結果から︑感覚できない原因を推論することは正当である︒しかるに︑影や死者には魂がないが︑生きている人間には魂がある︒また知覚することができるすべての活動は﹁運動﹂に還元できる︒したがって︑生きている人間において感覚できる﹁運動﹂からは︑その﹁動者すなわち原因︵あるいは合理的な目的を意図していると思われるようなもの︶﹂つまりは﹁魂﹂を推論することができる︒こうした合意点を前提として︑ユーフレイナーは︑神の存在へと論を展開する︒
それにしても︑︹他者の身体の運動から他者の魂が存在することを知るのと︺まったく同じ仕方で︑次のようなことがわたしには考えられる︒つまりわたしは︑不可視の神を肉体の目で見ることはできない︒しかし︑不可視の神を示唆し指示し論証するような記号やしるし︵
tokens
︶︑結果や働きを︑もっとも厳密な意味で見ているし︑わたしのすべての感官によって知覚しているのだ︒そしてそのことは︑感官によって知覚されるある他の記号︹身18世紀におけるアナロギア論争の一局面︵竹中︶八九
ALC 4. 5.
号を︑いつでも至る所で知覚している︵︶︒ な組織化された身体の運動によってのみ確信しているが︑他方でわたしは︑神の存在を明らかに示す可感的な記 だ︒わたしはあなたの魂︑精神︑思考する原理の存在を︑わずかな記号や結果によって︑つまりはひとつの小さ 体の運動︺が︑あなたの魂︑精神︑思考する原理の存在をわたしに示唆するのと同じほど確実に明白にそうなの すなわち︑生きている身体が運動しているなら︑その運動を引き起こすものがある︒それはわれわれ人間が理解できるかぎり﹁魂︑精神︑思考する原理﹂と呼ぶものである︒しかるに︑自然世界はどうであろうか︒植物や動物のあるいは人間の手ひとつとっても︑そこには人がみずからの手で作り上げられないほど見事な有機的構造がある︒つまり自然の所産や結果には﹁目的や意図という目に見える統一﹂︵ALC 4. 5.
︶︑﹁相互の関連︑影響︑従属︑効用﹂︵ALC 4. 5.
︶をいたるところに観察することができる︒そうだとすれば︑これらのことからして︑自然世界を創造し巧みに管理し運営し続けている精神があるはずだ︵この証明に納得しかねる様子をとりつつ︑次のように再反論する︒ 採用する論証にほかならないからである︒しかし︑それでもアルシフロンはこの論証に納得しない︒アルシフロンは︑ と評価できる︒とはいえこの論証は︑バークリ独自のものではけっしてない︒それは理神論者たちであっても同様に
Ar gument from Design
自然世界における﹁目的や意図﹂に基づいて神の存在を証明するので︑﹁デザイン論証︵︶﹂ 7︒こうして︑ユーフレイナーは神の存在と属性を証明する︒これは︑︶はじめは︑ある個別的な構造︑形︑運動は思考する理性的な魂を︑もっとも確実に証明すると思った︒けれども︑少し注意すると︑こうしたもの︹すなわち個別的な構造︑形︑運動︺が理性︑知識︑知恵となんら必然的に結合していないことを確信した︒つまり︑それらのものが生きている魂︹の存在︺を確実に証明するのを認めるとしても︑それら︹個別的な構造︑形︑運動︺が思考する理性的な魂 444444444を確実に証明することはできないと確信したのだ︒したがって︑考え直して︑この点を詳細に吟味してみると︑別の人格がわたしに話しかけることほど︑その
九〇
︹人格の︺存在をわたしに確信させるものはないということをわたしは見出した︒︵
ALC 4. 6.
傍点の強調は竹中による︶つまり︑アルシフロンによると︑肉体における﹁ある個別的な構造︑形︑運動﹂は︑生きている魂を示唆しうるとはいえ︑理性︑知識︑知恵と必然的に結びついているわけではない︒なるほどある肉体的な構造︑形︑運動は︑それを背後で動かしている魂の存在を暗示する︒しかしそれは理性︑知識︑知恵までも表示しているわけではない︒もし﹁ある個別的な構造︑形︑運動﹂の背後に理性 00︑知識 00︑知恵ある 0000魂が存在することを示そうとするなら︑まさに言語活動︵
logos
︶こそそうするのにふさわしい︒したがって自然世界を創造し運営する魂が理性︵logos
︶ひいては知識や知恵をもつと論じたいなら︑人間による適切な言語活動と同様なことが︑自然においても見出されねばならない︒このときにこそ︑運動を生み出す魂にとどまらずに︑まさに﹁思考する理性的な魂﹂が自然世界の背後に存在すると認められる︒アルシフロンはこのように言う︵Cf
.ALC 4. 7.
ない︑と高をくくるアルシフロンの底意を読み取ることもできるだろう︵︶︒ 8︒もちろんここには︑われわれが神の語る言語を聞き取ることなど︶こうして︑アルシフロンは自らの勝利を確信する︒しかし︑アルシフロンからの再反論に対して︑ユーフレイナーは︑彼の予想をくつがえして︑自然において知覚される感官の対象がじつのところ言語である 000という﹁自然の創造主の言語﹂説で切り返す︵
9︒それでは︑この﹁自然の創造主の言語﹂説とはいかなるものであろうか︒︶
三 自然の創造主の言語説
三
視覚の対象は言語である - 一
ユーフレイナーは︑自然の創造主の言語説を論じるにあたって︑はじめに視覚における距離の認知から議論しはじめる︒まず︑ユーフレイナーはアルシフロンと共通の前提を設定する︒それは﹁距離とは︑眼へとまっすぐ向かう線
18世紀におけるアナロギア論争の一局面︵竹中︶九一 動量を知ることができるか︒ユーフレイナーは次のような想定からはじめる︒ せれば︑筋肉の運動は触覚の対象に分類される︒それでは︑視覚に与えられる明るさや色から︑いかにして筋肉の運
ALC 4. 8.
接的に知覚されない﹂︵︶︒そもそも距離とは目標までに必要な筋肉の運動の量であって︑バークリに言わ しかし︑そうなると︑眼には一点しか与えられていないことになるのであり︑したがって︑﹁距離は眼によって直 当時の光学に基づいており︑アルシフロンはこのことに同意する︒ ないことである︒事実︑距離を眼に向かう直線とするなら︑眼底に至る一点しか視覚には与えられていない︒これはALC 4. 8. ALC 4. 8.
で﹂︵︶あり︑﹁その線はその状況において︑眼底のある一点以上に投影することができ﹂︵︶ ユーフレイナー この距離が何であるのかを見出すために︑同じ対象が︑眼からさまざまな距離に置かれて現われるときに︑いかなる変化がありうるのかを調べよう︒さて︑ある対象が眼からまっすぐな線上で︑いっそうますます遠くに離れて持ち去られるとき︑その眼に見える現われはさらにより小さく︑よりぼんやりとしてくるのを︑わたしは経験によって見出す︒そして︑現われのこうした変化は︑比例的で普遍的であるので︑それ︹現われの変化︺は︑われわれがそれによってさまざまな程度の距離を把握するものだと私には思われる︒アルシフロン このことになんら異論はない︒ユーフレイナー けれども︑小ささやぼやけは︑それら自身の本性上︑より大きな長さの距離︹筋肉の運動量︺と必然的にまったく結びついていないと考えられる︒アルシフロン そうだと認めよう︒ユーフレイナー それでは︑それら︹小ささやぼやけ︺は経験から以外に︑距離を示唆することができない︑ということにならないだろうか︒アルシフロン そうだ︒九二 ユーフレイナー すなわち︑わたしたちは︑距離を直接的にではなく︑︹小ささやぼやけという︺記号の仲介によって知覚するのだ︒そしてその記号は距離にまったく類似しておらず︑それとまったく必然的に結合していない︒それは言葉が事物を示唆するように︑繰り返される経験からそれ︹距離︺を示唆しているだけなのだ︒
すなわち︑眼に現われるものの小ささやぼやけの変化は︑距離の変化と比例的に対応している︒ある色や形がますます小さくなりぼやければ︑それにおうじて︑ますます距離も大きくなる︒しかるに︑視覚の対象と触覚の対象
―
明るさや色と筋肉の運動と―
は似ているわけではないだろう︒しかも︑あるぼやけに対して︑ある筋肉の運動が必ず結びつくわけでもない︒視覚の調子が悪ければ︑別のぼやけが生じるからである︒そうだとすれば︑これらの関係は︑類似でも必然的結合によるのでもない︒むしろ︑これらの対応は︑バークリに言わせれば︑ちょうど﹁言葉が事物を示唆する﹂関係と同様である︒例えば熱い事物があるときに︑それを﹁熱い﹂という言葉を与えるのは﹁任意﹂であって︑﹁冷たい﹂でも構わない︒もちろんわれわれは話が通じるように語ろうと思うなら言語の慣用に従うべきである︒しかし︑名前は任意に設定されているのであり︑あるものを別の名前で呼ぶこともできる︒こうした言語の任意の設定と同様なことが︑バークリによれば︑視覚と距離との関係にも妥当しており︑視覚の対象は︑おのれと類似してもいなければ必然的に結合しているのでもないものを表示している︒このかぎりで︑視覚の対象は言語と同じ機能を果たしているのである︒ユーフレイナーは以上のことをまとめて次のように論じている︒概して︑視覚の固有な対象は︑いろいろな度合いと程度をもった明るさと色であると思われる︒そして︑それらすべては︑はてしなく多様になり︑はてしなく組み合わされるので︑距離︑形︑位置︑大きさ︑さまざまな触覚で知覚できる性質を私たちに示唆し表わす︑驚くほど適合した言語を形成している︒それは︑ちょうど言葉が︑それによって表される事物を示唆するのと同じように︑外見︹類似︺によってでも︑また必然的な結び付きを推
18世紀におけるアナロギア論争の一局面︵竹中︶九三
ALC 4. 10.
論することによってでもなく︑神が任意に課すことによって︑そうなのだ︒︵︶︒視覚の観念は﹁いろいろな度合いと程度をもった明るさと色﹂を有し︑それらは﹁はてしなく多様であり︑はてしなく組み合わされるので︑距離︑形︑位置︑大きさ︑さまざまな触覚で知覚できる性質を私たちに示唆し表わす﹂ことができる︒ちょうどアルファベットがその組み合わせによってさまざまな事物を表示するのと同様にして︑視覚の観念はさまざまな種類や組み合わせによって︑距離にとどまらずに︑触覚における形︑位置︑大きさ︑対象を示唆する︒例えば﹁水が熱せられていたが︑徐々に冷めていく﹂という表現に対応して︑実際の水がそうなるとする︒それと同じように︑視覚の対象の小ささやぼやけが変化するのに対応して︑距離も変化するのである︒いずれの場合にせよ︑両者のあいだには任意の関係が成立している︒このような示唆の関係に基づくかぎりで︑視覚の対象は︑﹁視覚の言語﹂︵
ALC 4. 11.
︶とも呼ぶことができるのである︵10︒︶
しかし︑視覚を言語と呼べるなら︑他の感官の対象も言語と呼べないか︒事実︑聴覚や嗅覚の対象も︑離れたところにある対象にとって言語となりうるかもしれない︒ある音は馬車の到来や出発を知らせ︑ある匂いは︑のちに移動すれば知覚できるであろう食べ物がいかなるものかを教える︒味も︑食したものが身体に害悪となるかどうかを知らせている︒したがって︑視覚以外の感官の対象にも言語的関係が見出されるではないか︒こうした予想される反論に対して︑バークリは︑言語と記号とのあいだに区別をもうけることによって︑視覚のみが言語たりうることを論じるのである︒
記号の分節︑組み合わせ︑多様性︑豊かさ︑広範で一般的な効用︑そして容易な適用こそが︵これらすべては︑視覚のうちに一般に見出されるが︶︑言語の真の性質を構成している︒他の感官もたしかに記号たりうる︒けれども︑こうした記号は︑分節化されてない音と同様に︑言語であると考えられる資格をもたないのである︒︵
ALC
.九四
4. 12.
︶ 言語には﹁記号の分節︑組み合わせ︑多様性︑豊かさ︑広範で一般的な効用︑そして容易な適用﹂がある︒バークリによれば︑これらを見出せるのは視覚の対象のみである︒したがって視覚の対象を言語とみなすのである︒もちろんこれは他の感官の対象の記号性を否定するものではない︒これらの対象における記号関係をも認めておくほうが︑神の﹁任意﹂の設定がより多く証拠立てられ︑バークリの議論をより強固にするからである︒バークリは視覚の対象が他の対象よりもさまざまな点において優れているとして︑視覚に重きを置いている︒このことは︑﹃視覚新論﹄が﹃アルシフロン﹄の付録とされたことにも端的に表われていると言えるだろう︒三
「視覚の言語」の表示するものの射程 - 二
それでは︑﹁視覚の言語﹂は︑言語行為論的に言えば︑いかなる発話媒介行為をもつのか︒ユーフレイナーがみずからの意見を披露したのちに︑アルシフロンはそれを本気で信じているのかとユーフレイナーに問いかける︒このとき︑ユーフレイナーはさきほどの視覚の言語説をさらに敷衍し︑かつみずからの立場を要約して︑次のように論じている︒
これこそ︑本当に真にわたしの見解だ︒そして︑もしあなたが自己矛盾を犯さず︑言語に関するあなた自身の定義を忠実に守るのなら︑それはあなたの意見でもあるはずだ︒なぜなら︑あなたは次のことを否定できないのだから︒つまり︑自然の偉大な動者あるいは創造者はつねに︑任意の記号を感覚に介在させることによって︑人間の眼にみずからを打ち明ける︒この記号が任意だというのは︑それらによって表示される事物とまったく類似しておらず結合してもいないからだ︒この創造者は︑それらを組み合わせ配列することで︑性質︑時間︑場所という点で異なるはてしない多様な対象を示唆し明示し︑そしてそうすることによって︑人々に︹空間的に︺近い現