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18世紀におけるアナロギア論争の一局面

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Academic year: 2021

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(1)

八三

﹁自然の創造主の言語説﹂を手掛かりにして

18 世紀におけるアナロギア論争の一局面

1

竹中真也

  来︑た︒ギは︑愛︑望︑欲︑妬︑讐︑知恵︑策略などが︑じつに鮮やかに描かれている︒ギガントマキア︑エウロペの略奪︑パリスの審判︑トロイア戦争など︑これらの物語を一読するだけでも︑神々における心の動きが︑人間の経験に照らして︑手に取るように感じられるだろう︒それでは︑キリスト教の神はどうか︒いささか事情が異なると思われる︒事実︑キリスト教における神は全知・全能・最善であり︑この神に比肩する者など一切いない︒まさに神は超越者であり︑われわれとは異なる在り方をしているのである︒それでは︑このような超越者における知恵や知識や善を︑われわれ有限な存在者はいかにして知ることができるのであろうか︒

稿は︑

バーば︑ てバークリは︑神の存在を独自の仕方で論証するだけでなく︑神の属性に関するわれわれの認識にも言及する︒した あたって︑ここではバークリ中期の護教的著作﹃アルシフロン﹄における第四対話を取り上げよう︒この対話におい 18て︑い︒そ

18る︑

(2)

八四

とつの観点を与えることができるのである︒まずは︑バークリの議論を見る前に︑本稿の問題と関連する歴史的背景を踏まえておこう︒

問題の所在

歴史的背景から

2︶

キリスト教の神を認める人にとって︑神に知恵や知識や善が存することは明白である︒しかし︑この知恵や知識や善性がいかなるものか︑それらをいかにしてわれわれが知るのかはけっして容易な問題ではない︒蓄積ある難問である︒事実︑存在知恵を︑人間意味﹁字義通

literally

︶﹂理解う︒こき︑神が人間と同じ仕方で存在し知恵あることになる︒とすれば︑その場合︑神の人に対する絶対的な超越性が損なわれう︒そは︑知恵知識を︑仕方﹁比喩的

metaphorically

︶﹂理解か︒こ場合は︑知恵知識比喩で︑知恵知識善性が︑明白る︒ち﹁山笑う﹂比喩て︑同様に︑神そのものと知恵や知識や善との関係が不明瞭になる︒このように︑神についての述語を﹁字義通りに﹂に解するにせよ﹁比喩的に﹂に解するにせよ︑いずれにしても︑問題が生じる︒そこで︑これらとは別の道が中世以来︑模索さた︒そが︑

analogically

︶﹂る︒

18

いても︑神における知恵︑知識︑善性をいかにして理解するのかをめぐる論争があった︒それは︑はじめにウィリアム・キングによって︑次にピーター・ブラウンによって展開されたのである︒

ば︑被造世界関係 3る︒しは︑

しかしながら︑それにもかかわらず︑キングは奇妙なことを口にする︒すなわち︑神の創造した世界と︑世界を創造 ば︑能力知恵知識﹁字義通り﹂﹁比喩的﹂理解い︒ 4

(3)

18世紀におけるアナロギア論争の一局面︵竹中︶八五 る︒もん︑は︑ する能力との因果関係は︑われわれが事物を製作する場合と類比関係にあり︑しかも︑この類比が比喩にとどまらな

ある︒ 前提からして﹁不可知論﹂である︒キングは︑神の超越性を強調するあまり︑神の立場をも危うくしてしまったので い︒から︑う︒そも︑は︑ の世界創造を理解できると言うが︑この類比ないし比較は︑比喩とどこが異なるのか︒キングの議論においてはけっ

by way of analogy and comparison D P 8

る︒キ︶﹂ 5

こうしたキングのあいまいな議論に対して︑ピーター・ブラウンはキリスト教の伝統的な議論を援用して︑比喩と

できる︒したがって︑この抽象的観念であれば︑人間にも神にも知恵や知識を適用できるのである︒ 体ではなく魂に依存する︒しかるに︑われわれはこれらに関して不完全性を切り離した抽象的観念を形成することが これに対して︑類比の場合︑神と人間のあいだには真に類似関係が成り立つ︒ブラウンによれば︑知恵や知識は︑肉 る︒荒に︑い︒ 動状態をもたないので︑それらに関わる表現

﹁神の御手﹂︑﹁神の御眼﹂︑﹁神が喜ぶ﹂など

はすべて比喩であ

passion

6︶︒すち︑ば︑ ブラウンは比喩を類比から分離しており︑キングが陥ったような不可知論を回避している︒この点で︑ブラウンの議論はキングのそれよりも優れていると評価できる︒しかしバークリは︑ブラウンの議論について精通していたものの︑それに賛同することができない︒ブラウンは類比の適用の対象を︑知恵や善についての抽象的観念とした︒なるば︑属性理解主張説得力る︒しかし︑具体的ないし個別的事物から切り離された知恵そのもの︑善そのものは︑バークリに言わせれば︑形成するい︒すに︑に︑福︑義︑

Cf

.

PHK 100

︶︒つバーり︑

(4)

八六

その類比の議論も受け入れられないのである︒それでは︑バークリは︑いかにして神の知恵や知識や善について説明か︒以て︑バーう︒議は︑第四対話である︒

デザイン論証

  アルシフロンの無神論 - 一

第四対話の主題は神の存在と属性である︒第四対話は︑ダイオン︵この対話篇の中立的な若き報告者︶が早朝の観想から得たある不安について論じるところから始まる︒すなわちダイオンは最初に︑神の存在に確信をもてず悲嘆に暮れていると言う︒というのも︑人間の生活の基盤は自然世界にあるのに︑もし神が不在であれば︑その自然世界が無政府状態になるからである︒ダイオンに言わせれば︑自然世界が人間生活の基盤であるだけに︑自然における無政府状態は市民生活におけるそれより︑いっそうたちが悪いのであり︑それゆえに彼はおびえていると告白するのである︒この発言を受けて︑自由思想家アルシフロンは神についての所見を述べるのであるが︑それはダイオンの期待にて︑る︒すち︑﹂﹁﹂﹁﹂﹁証明﹂という︑従来の神の存在証明に納得していない︑とアルシフロンは言う︒彼に言わせれば︑神の観念はじつのところ︑闇夜の恐怖から生じる妄想︑あるいは︑キリスト教教育によって植え付けられた偏見にすぎない︒アルシフロンはこう述べて︑無神論的な立場を表明する︒しかも︑アルシフロンは立て続けに︑非物質的な魂の存在をも否定する︒アルシフロンによれば︑感覚的な知覚とは︑外部の対象が身体のうちの動物精気という微細な粒子に刺激を与えることであり︑非物質的な魂など関与しない︒このようなアルシフロンの立場は︑当時の自由思想家による︑唯物で︑る︒こて︑は︑バークリの代弁者たるユーフレイナーが反論しはじめるのである︒

(5)

18世紀におけるアナロギア論争の一局面︵竹中︶八七

  ユーフレイナーの反論 - 二

は︑る︒アは︑伝令り︑神経走って︑外的対象連絡保持る﹂う︒しかしながら︑この説明は不用意であろう︒事実︑ユーフレイナーはすかさず︑あなたの言う﹁魂﹂とはいかなるもけ︑る︒もを︑分︑すなわち精気の希薄な繊細な構造﹂と述べ︑唯物論的な姿勢を維持しようとする︒しかし︑ユーフレイナーは︑巧みに︑﹂︵

ALC 4. 3

ら同意を得る︒それから︑その原理が感官に知覚されなくとも存在しうることも︑アルシフロンに認めさせる︒ここる︒とも︑が︑ず︑ものをも含意しうるからである︒こうした巧妙な誘導ののち︑ユーフレイナーは﹁動物精気﹂の存在をどのようにして導き出したのかと詰めよる︒

ユーフレイナー もしわたしがあなたの考えを正しく理解しているのなら︑あなたは︹感官で知覚可能な︺動物し︑存在を推論している︒そうではないのか︒アルシフロン   そうだ︒ユーフレイナー と︑は︑号︑

tokens

︶から推論されうるのだろう︒アルシフロン   そうだ︒ユーフレイナー ン︑れ︒魂は︑の︑体との間の主要な区別をなすものではないのか︒

(6)

八八 アルシフロン   そうだと認めよう︒ユーフレイナー してみると︑例えば︑あなたが個々の思考する個体︑すなわち生きている現実の人間であるこは︑ぬ︑によるのか︒アルシフロン   そうだ︒ユーナー  れ︒感官直接的適切知覚は︑運動還元か︒アルシフロン   そうだ︒ユーフレイナー してみると︑運動から︑あなたは動者すなわち原因︵あるいは合理的な目的を意図していると思われるようなもの︶を推論するのか︒アルシフロン   まさしくそのとおりだ︒

ここで︑ユーフレイナーはアルシフロンと以下の合意点を見出す︒すなわち︑感覚できる結果から︑感覚できない原因を推論することは正当である︒しかるに︑影や死者には魂がないが︑生きている人間には魂がある︒また知覚することができるすべての活動は﹁運動﹂に還元できる︒したがって︑生きている人間において感覚できる﹁運動﹂かは︑︶﹂推論することができる︒こうした合意点を前提として︑ユーフレイナーは︑神の存在へと論を展開する︒

も︑で︑ことがわたしには考えられる︒つまりわたしは︑不可視の神を肉体の目で見ることはできない︒しかし︑不可視示唆指示論証記号

tokens

︶︑結果を︑厳密意味し︑感官知覚だ︒そは︑感官知覚記号︹身

(7)

18世紀におけるアナロギア論争の一局面︵竹中︶八九

ALC 4. 5.

号を︑いつでも至る所で知覚している︵︶︒ な組織化された身体の運動によってのみ確信しているが︑他方でわたしは︑神の存在を明らかに示す可感的な記 だ︒わたしはあなたの魂︑精神︑思考する原理の存在を︑わずかな記号や結果によって︑つまりはひとつの小さ 体の運動︺が︑あなたの魂︑精神︑思考する原理の存在をわたしに示唆するのと同じほど確実に明白にそうなの すなわち︑生きている身体が運動しているなら︑その運動を引き起こすものがある︒それはわれわれ人間が理解できるかぎり﹁魂︑精神︑思考する原理﹂と呼ぶものである︒しかるに︑自然世界はどうであろうか︒植物や動物のあるいは人間の手ひとつとっても︑そこには人がみずからの手で作り上げられないほど見事な有機的構造がある︒つま自然所産結果﹁目的意図統一﹂

ALC 4. 5.

︶︑﹁相互関連︑影響︑従属︑効用﹂

ALC 4. 5.

る︒そば︑て︑

この証明に納得しかねる様子をとりつつ︑次のように再反論する︒ 採用論証る︒しし︑論証納得い︒アは︑ と評価できる︒とはいえこの論証は︑バークリ独自のものではけっしてない︒それは理神論者たちであっても同様に

Ar gument from Design

で︑︶﹂ 7︒こて︑ユーナーる︒こは︑

は︑個別的構造︑形︑運動思考理性的を︑確実証明思った︒けも︑少し注意すると︑こうしたもの︹すなわち個別的な構造︑形︑運動︺が理性︑知識︑知恵となんら必然的に結合していないことを確信した︒つまり︑それらのものが生きている魂︹の存在︺を確実に証明するのを認めるとしても︑それら︹個別的な構造︑形︑運動︺が思考する理性的な魂 444444444を確実に証明することはできないと確信したのだ︒したがって︑考え直して︑この点を詳細に吟味してみると︑別の人格がわたしに話しかけることほど︑その

(8)

九〇

た︒

ALC 4. 6.

調中による︶

つまり︑アルシフロンによると︑肉体における﹁ある個別的な構造︑形︑運動﹂は︑生きている魂を示唆しうるとはいえ︑理性︑知識︑知恵と必然的に結びついているわけではない︒なるほどある肉体的な構造︑形︑運動は︑それを背後で動かしている魂の存在を暗示する︒しかしそれは理性︑知識︑知恵までも表示しているわけではない︒もし造︑形︑ 00 00 0000ら︑

logos

い︒し

logos

知恵ら︑人間適切言語活動同様が︑自然見出い︒このときにこそ︑運動を生み出す魂にとどまらずに︑まさに﹁思考する理性的な魂﹂が自然世界の背後に存在するとる︒ア

Cf

.

ALC 4. 7.

ない︑と高をくくるアルシフロンの底意を読み取ることもできるだろう︵︶︒ 8︒もは︑

こうして︑アルシフロンは自らの勝利を確信する︒しかし︑アルシフロンからの再反論に対して︑ユーフレイナーは︑彼の予想をくつがえして︑自然において知覚される感官の対象がじつのところ言語である 000という﹁自然の創造主の言語﹂説で切り返す

9︒それでは︑この﹁自然の創造主の言語﹂説とはいかなるものであろうか︒

自然の創造主の言語説

  視覚の対象は言語である - 一

ユーフレイナーは︑自然の創造主の言語説を論じるにあたって︑はじめに視覚における距離の認知から議論しはじめる︒まず︑ユーフレイナーはアルシフロンと共通の前提を設定する︒それは﹁距離とは︑眼へとまっすぐ向かう線

(9)

18世紀におけるアナロギア論争の一局面︵竹中︶九一 動量を知ることができるか︒ユーフレイナーは次のような想定からはじめる︒ せれば︑筋肉の運動は触覚の対象に分類される︒それでは︑視覚に与えられる明るさや色から︑いかにして筋肉の運

ALC 4. 8.

﹂︵︶︒そて︑バー し︑と︑り︑て︑ 当時の光学に基づいており︑アルシフロンはこのことに同意する︒ ないことである︒事実︑距離を眼に向かう直線とするなら︑眼底に至る一点しか視覚には与えられていない︒これは

ALC 4. 8. ALC 4. 8.

﹂︵り︑て︑﹂︵ ユーフレイナー この距離が何であるのかを見出すために︑同じ対象が︑眼からさまざまな距離に置かれて現われるときに︑いかなる変化がありうるのかを調べよう︒さて︑ある対象が眼からまっすぐな線上で︑いっそうますます遠くに離れて持ち去られるとき︑その眼に見える現われはさらにより小さく︑よりぼんやりとしてくるのを︑わたしは経験によって見出す︒そして︑現われのこうした変化は︑比例的で普遍的であるので︑それ︹現われの変化︺は︑われわれがそれによってさまざまな程度の距離を把握するものだと私には思われる︒アルシフロン   このことになんら異論はない︒ユーフレイナー も︑は︑上︑と必然的にまったく結びついていないと考えられる︒アルシフロン   そうだと認めよう︒ユーフレイナー それでは︑それら︹小ささやぼやけ︺は経験から以外に︑距離を示唆することができない︑ということにならないだろうか︒アルシフロン   そうだ︒

(10)

九二 ユーフレイナー ち︑は︑く︑よって知覚するのだ︒そしてその記号は距離にまったく類似しておらず︑それとまったく必然結合い︒そ言葉事物示唆に︑経験︹距離︺を示唆しているだけなのだ︒

すなわち︑眼に現われるものの小ささやぼやけの変化は︑距離の変化と比例的に対応している︒ある色や形がますます小さくなりぼやければ︑それにおうじて︑ますます距離も大きくなる︒しかるに︑視覚の対象と触覚の対象

明るさや色と筋肉の運動と

は似ているわけではないだろう︒しかも︑あるぼやけに対して︑ある筋肉の運動が必ず結びつくわけでもない︒視覚の調子が悪ければ︑別のぼやけが生じるからである︒そうだとすれば︑これらの関係は︑類似でも必然的結合によるのでもない︒むしろ︑これらの対応は︑バークリに言わせれば︑ちょうど﹁言葉が事る︒例に︑て︑い︒もである︒しかし︑名前は任意に設定されているのであり︑あるものを別の名前で呼ぶこともできる︒こうした言語の任意の設定と同様なことが︑バークリによれば︑視覚と距離との関係にも妥当しており︑視覚の対象は︑おのれと類似してもいなければ必然的に結合しているのでもないものを表示している︒このかぎりで︑視覚の対象は言語と同じ機能を果たしているのである︒ユーフレイナーは以上のことをまとめて次のように論じている︒

概して︑視覚の固有な対象は︑いろいろな度合いと程度をもった明るさと色であると思われる︒そして︑それらすべては︑はてしなく多様になり︑はてしなく組み合わされるので︑距離︑形︑位置︑大きさ︑さまざまな触覚す︑る︒そは︑が︑それによって表される事物を示唆するのと同じように︑外見︹類似︺によってでも︑また必然的な結び付きを推

(11)

18世紀におけるアナロギア論争の一局面︵竹中︶九三

ALC 4. 10.

論することによってでもなく︑神が任意に課すことによって︑そうなのだ︒︶︒

視覚の観念は﹁いろいろな度合いと程度をもった明るさと色﹂を有し︑それらは﹁はてしなく多様であり︑はてしなく組み合わされるので︑距離︑形︑位置︑大きさ︑さまざまな触覚で知覚できる性質を私たちに示唆し表わす﹂ことができる︒ちょうどアルファベットがその組み合わせによってさまざまな事物を表示するのと同様にして︑視覚の観念はさまざまな種類や組み合わせによって︑距離にとどまらずに︑触覚における形︑位置︑大きさ︑対象を示唆する︒例えば﹁水が熱せられていたが︑徐々に冷めていく﹂という表現に対応して︑実際の水がそうなるとする︒それと同じように︑視覚の対象の小ささやぼやけが変化するのに対応して︑距離も変化するのである︒いずれの場合にせよ︑る︒こで︑は︑の言語﹂

ALC 4. 11.

︶とも呼ぶことができるのである

10

しかし︑視覚を言語と呼べるなら︑他の感官の対象も言語と呼べないか︒事実︑聴覚や嗅覚の対象も︑離れたところにある対象にとって言語となりうるかもしれない︒ある音は馬車の到来や出発を知らせ︑ある匂いは︑のちに移動すれば知覚できるであろう食べ物がいかなるものかを教える︒味も︑食したものが身体に害悪となるかどうかを知らせている︒したがって︑視覚以外の感官の対象にも言語的関係が見出されるではないか︒こうした予想される反論に対して︑バークリは︑言語と記号とのあいだに区別をもうけることによって︑視覚のみが言語たりうることを論じるのである︒

節︑せ︑性︑さ︑用︑は︑︶︑る︒他る︒けも︑記号は︑分節化同様に︑言語資格る︒

ALC

.

(12)

九四

4. 12.

言語には﹁記号の分節︑組み合わせ︑多様性︑豊かさ︑広範で一般的な効用︑そして容易な適用﹂がある︒バークリによれば︑これらを見出せるのは視覚の対象のみである︒したがって視覚の対象を言語とみなすのである︒もちろい︒こが︑神の﹁任意﹂の設定がより多く証拠立てられ︑バークリの議論をより強固にするからである︒バークリは視覚の対象対象て︑視覚る︒こは︑﹃視覚新論﹄﹃アルシフロン﹄の付録とされたことにも端的に表われていると言えるだろう︒

  「視覚の言語」の表示するものの射程 - 二

  は︑は︑ば︑か︒ユーナーからの意見を披露したのちに︑アルシフロンはそれを本気で信じているのかとユーフレイナーに問いかける︒このとき︑ユーフレイナーはさきほどの視覚の言語説をさらに敷衍し︑かつみずからの立場を要約して︑次のように論じている︒

これこそ︑本当に真にわたしの見解だ︒そして︑もしあなたが自己矛盾を犯さず︑言語に関するあなた自身の定義を忠実に守るのなら︑それはあなたの意見でもあるはずだ︒なぜなら︑あなたは次のことを否定できないのだから︒つまり︑自然の偉大な動者あるいは創造者はつねに︑任意の記号を感覚に介在させることによって︑人間の眼にみずからを打ち明ける︒この記号が任意だというのは︑それらによって表示される事物とまったく類似しておらず結合してもいないからだ︒この創造者は︑それらを組み合わせ配列することで︑性質︑時間︑場所という点で異なるてしない多様な対象を示唆し明示し︑そしてそうすることによって︑人々に︹空間的に︺近い現

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