ベルクソン哲学の全体像素描
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(2) の空間である。時間を外部化するなら、時間は眼前に置かれて空間化されてしまう。もはや、生き られる時間ではない。生きられる時間は三次元空間に対する第四の次元なのではなく、そうではな くて空間の手前に位置する(9)。われわれは空間の手前で、内面において生きている。しかるにわれわ れ脊椎動物が生き続けるために主に用いるのは、外部に向かう知性である。知性認識とは実践的な 、、 認識たる行為知であり、その対象は通常、外部に置かれた諸々の事物―〈それ〉―と当の諸事物 、、 の互いに関係する場たる具体的(具象的)な空間―〈そこ〉―である。いわゆる外部空間は〈そ こ〉の一種である。われわれ人間が認識対象を事物と空間とに変容しているのである。一方で知性 の認識対象は眼前の〈そこ〉に在る。当の対象は、認識主体から〈隔たり〉(10)を介して外部の領域 たる〈そこ〉に置かれており、存在論的な相対性が成立している。 〈そこ〉のことはまた、超越論的 な場と解してもよい。 「精神の眼 oculi mentis 」 (MM, 36)というデカルトの表現に象徴されるよ うに、知性認識は視覚認識と同様、自らと対象との間に〈隔たり〉を必要とする。視覚によって「見 る voir 」ことに象徴されるように、知性的に理解し、「見て取る voir 」のに必要な〈隔たり〉で ある。高等脊椎動物たるわれわれ人間における日常の認識はもちろんのこと、自然科学にせよ社会 科学にせよ、生き続けるための学問は知性認識を宗とする(11)。 「思想 pensée 」なるものも―「哲 学」とは違って―、知性的な認識内容の表現と規定することができるだろう(12)。そうした認識の対 象のうちには、人間も、身体・物体、さらには自然科学的な意味での物質あるいはその抽象物も入 りうる。そして自己も。知性認識においては、自己も〈そこ〉に置かれる。知性による自己認識であ 、、 る。他方でまた、事物なるものは知性的な認識者に相対的な認識者「にとって」の対象であり、そ 、、 うした対象は認識論的に相対的である。自己も「思惟する事物 res congitans 」と見なされる。い わゆる自然法則も諸事物間の空間的な関係にほかならない。人間も、身体・物体も事物の一種と見 なされる(13)。さらに、物質は究極においては空間と見なされる。幾何学的空間とは、以下に記すよ うに、具体的な空間の抽象化の極みであり、デカルトにおいては物質即延長となる。これに対して、 いのち. いのち. 物質性なき純粋な 生 は事物ではない。 生 そのものは外部の空間には存立しない。各人の内面の感 いのち. 性の領域に在っては、生 はむしろ「流動 flux (fluidité/fluide) 」 (EC, 187,249-51,336-7, DS, 102, cf. DS, 178, etc.)であり、それ自体が時間である。絶対の領域である。こうした内面という領域の 、、、、、 哲学的確立こそ、デカルトの功績に帰されることだろう。デカルトの謂う「エゴ ego 」たる自己― 〈私〉―は内面に存する。〈私〉は「事物」ではない。「思惟する事物」ではないのである。 しかるにそうなると今度は、内面と外部という二つの領域が哲学において、互いに関係しえない いのち. いのち. ことになりかねない。 生 に固有な内面という領域を発見したとて今度は、 生 と物質性との関係が いのち. 不明となる。 生 と物質性という二元を関係づけるには、二元に共通の領域が必要だからである。そ の領域の発見は、ベルクソンに俟たねばならなかった。すなわち、外部空間においてはこの二元を 互いに関係づけることは不可能である。当の関係は内面において発見されなければならない。物質 いのち. 性も 生 と同様、空間世界の外に、内面に存する。物質性も時間的な存在である。両者は内面におい て関係づけられ、かつ感性的に感得され、認識される、と。そうした時間的な物質性こそが「イマ ージュ」であり、 「張り緩み」である。かくしてデカルトは「張り緩み」たる知性のその内面におけ る身体性に、つまりその物質性に気づかず、内面の十分な解明には到らなかった。ただし、外部へ 、、、 と向かう知性とその受容との内面における関係の解明には成功している。 『情念論』を参照するなら、 「諸々の内面の情動 émotion intérieure 」 (PA §147-8)とは内面の感性的な認識たる生けるコギト のことであり、しかも自己の知性作用の受用を意味している。内面は空間ではない。内面がすでに 92.
(3) 〈そこ〉に在って、 〈そこ〉において自己感得が成立するのではない。そうではなくて、内面性がそ 、、 の自己感得において、自己感得と共に成立する。 〈ここ〉の発生である。物質や物体が自己感得する ことはない。物質世界には〈ここ〉はない。空間世界における物質も物体も、相互に外部的な関係 を有するのみである。延長とは、空間とは、相互不可侵入性の図式のことなのである。 内面と外部は、ベルクソンに従って、 〈水平〉方向に四つの領域に細分することができる(14)。仮設 的な第一領域が「純粋知覚 perception pure 」と「純粋記憶 souvenir pur 」とから成るのに対し て、相互外部性の図式―たとえば幾何学的空間たる抽象的な空間―を第四領域に位置づけてみた い。この二つの領域に対して、第二領域と第三領域においては、 〈ここ〉が現存している。一方で〈こ こ〉は外部たる〈そこ〉と対峙的な関係を有している。第三領域における対峙的外部性である。 〈こ こ〉からは〈そこ〉の眺望 perspective が開け、 〈そこ〉においては、具体的な空間が成立している。 第三領域の具体的空間と第四領域の抽象的空間とは連続的ではなく、 〈ここ〉の有無に応じて決定的 に異なる。他方で反対に、 〈ここ〉そのものたる内面においては時間的な関係が、しかも二重に成立 いのち. している。第二領域である。第二領域においては 生 のもたらす方向を持った相互浸透の関係だけで なく、当の相互浸透関係についての直観―デカルトの『規則論』に謂う「直視 intuitus 」ではな くて、ベルクソンの謂う「直観 intuition 」(15)―たる生けるコギトが成立している。角度を変えて 言うなら、第二領域が内面の感性の、時間的な絶対の領域で、第三領域と第四領域とが外部の知性 の、空間的な相対の領域である。 ところで、デカルト哲学を受容する時代の趨勢は、近代科学的な第四領域の物質概念の方向に存 していた。そうした〈水平〉方向の知の展開に対して、知の転換の兆しをベルクソン哲学に、なか いのち. でも生物進化の末に到り着いた現在の後に来るべき― 生 の歴程上の―〈未来〉の方面に見て取る いのち. ことができる。すなわち、ベルクソン哲学の革新性はなるほど、人間の内面における 生 と物質性と し. の時間的な規定―肯定的な「張り緊め」と否定的な「張り緩み」という規定―に存している。第 いのち. 二領域における〈水平〉方向の内面化と外部化、内面へと向かう 生 と、その反対の外部へと、空間 世界へと向かう物質性である。しかしそれだけではなく、あるいは、それだからこそ当の革新性は いのち. むしろ、 〈未来〉における純粋な 生 への〈垂直〉方面の「上昇」に向かう。そうした革新性はいずれ にせよ、空間性なき時間性の領域の発見を起点にしている。その点ではハイデガーの『存在と時間』 は〈将来〉へと、だからまた再現表象の世界へと、空間世界へと〈水平〉に向かっており、それに対 いのち. してむしろ、道元の謂う「有時」-「有」と「時」を存在と時間という意味に読む-が純粋な「 生 la vie 」の方面へと〈垂直〉に向かっていることだろう。ベルクソンは『物質と記憶』においてす いのち. でにもう-存在論的な二元説に留まるとはいえ-「物質性」を人間の内面における 生 に対する否 いのち. 定的なものとして見出し、 生 のみから成る存在論的な一元説に近づいていた(16)。 以上のように高等脊椎動物たるわれわれは―人文科学でさえ、歴史学や文化学、文学も、そして いのち. いのち. 思想も―、生 の研究を目論んだとて、当の 生 を学問の得意とする場たる空間に移してしまう。生 、、、、 いのち -物を初めとする 生 の外部への現れにほかならない。認識者にとって成立する相対の領域である。 、、 、、 いのち 内面の自己たる 生 を外部化して認識せんとするわけである。脊椎動物たるわれわれは自己を認識せ んとして知性を働かせ、内面に存する自己を変容させてしまう。知性による自己認識であり、哲学 的な意味における〈反省〉である。 〈ここ〉は〈そこ〉に置き直され、内面は外部における「事物 res 」 の一種たる「内部」と成る。外部性しか認めない存在論的・認識論的な一元説である。かくして、自 己を認識せんとする哲学の困難は、研究者自身が高等脊椎動物たることに因由する。内面を扱う哲 93.
(4) 学は、学問でありながらも知性認識を脱し、感性の領域に定位しなければならない。生き続けるた めではない学問、思弁である(17)。事物と事物との知性的関係は、たとえば音楽の―ベルクソンなら « tension » を語根とする幾つかの語(18)で表現される―感性的な流れに還元されねばなるまい。空 間ならびに事物は、脊椎動物に特有の製作物なのである。ではそうした製作は、またその際の外部 化はいかにして為されるのか。感性たる内面の領域においてわれわれは、身体の「身構え attitude 」 (19)を見出す。 「身構え」そのものは内面において情感的に知られる。内面知である。たとえばわれわ. れは、眼の前の鉛筆なり箸なりを将に手に取らんとして「身構え」る。 「身構え」とは身体習慣の活 、、、、、、、、、、 性化であり、外部の空間中の行為の形姿を取る以前に、しかもすでに行為に向かって活性化してい 、、、、 る生ける身体のことである。なるほど最終的にはたとえば、 「現働的な行いに情感的状態は到り着く l’acte auquel l’état affectif aboutit 」(MM,12)。しかし生ける身体は、その「身構え」において、 すでに或る特定のリズムの色合い(20)を帯びつつも、未だ空間中の行為に到ってはおらず、しかも物 質性・身体性たる外部化-空間化と事物化-の働きを担っている。 「張り緩み détente 」である。 生ける身体は空間と事物(物体)とについて、その「扱い方(対処の仕方)を知っている savoir 」。 具体的で―文字どおり「体」を「具」えた―実践的な身体的認識、身体知である。少なくとも脊 椎動物においては、 「身構え」を介して内面の〈私〉と外部の空間世界とが「交差 recoupement 」 (21)する。帰するところ、内面と外部とが、流動と事物とが、時間と空間とが「交差」する。自然科. 学や社会科学、そして人文科学も、そうした学問が扱っている「生命現象」とは、せいぜいこうし いのち. た「交差」地点における 生 (第三領域)であり、その普遍化(第四領域)にほかならない。そうし た学問の認識は、内面における時間のうちの「媒介なしの将来 l’avenir immédiat 」 (MM, 153) ―「身構え」に宿っている〈今〉における〈将来〉―を介して内面の生ける身体が外部化し、空間 化することで成立するにすぎない。時間上の〈将来〉が空間上の〈そこ〉と成る。空間の開けている 、、、 のがいつでも―背後の空間をも含めて―前方に、となる所以である。知性認識とは「身構え」の、 身体知の展開なのである。かくしてベルクソン哲学においては、時間化のなかで、内面化と外部化・ 、、、、、、 いのち 空間化との関係が内面において問われることになる。生 そのものと生ける身体―身体性―たる物 質性との関係である。二元は内面において調停されることになる。 いのち. 一、 生 の歴程における四つの階梯 いのち. 生 が展開して歴程を経るには自らとは別の働きが必要だったのだろう。それがこの地球上では物 いのち. し. 質性ないし身体性である。 「 生 la vie 」たる「張り緊め」と「物質性(身体性) la matérialité 」 し. たる「張り緩み」との二元となる(22)。ベルクソン二元説である。「張り緩み」がなければ、「張り緊 いのち. め」たる 生 は、いわば内破してしまうことだろう。ただし、地球上で生きて活動し、生活している いのち. われわれ人間には空想だにしえないが、当の別の元が「物質性(身体性)」以外であっても、生 の展 いのち. 開は可能なのかもしれない。さて地球上においては、 生 の歴程は過去、現在、未来に亘って三つな いのち. し. いし四つの階梯を経由する。 〈垂直〉の「上昇」というこの構図においてはまず、生 が当の「張り緊 め」の働きをもって、物質性・身体性たる「張り緩み」と交わることで生-物が誕生し、生物進化の 階梯( 『創造的進化』参照。なお cf. ES, 22)を「上昇」する(過去) 。その後、生物進化の結果たる 生物=文化の階梯( 『道徳と宗教の二源泉』参照。以下『二源泉』と略)と生物=個人(個体)の階 梯( 『物質と記憶』参照)―この二つの階梯は、実際上は区別できないのだが、その内容に応じて 94.
(5) いのち. 区別したい-とを遍歴する(現在) 。そして最後に純粋な 生 の階梯(『二源泉』における神秘説参 いのち. し. いのち. 照)を目差し、純粋な 生 へと帰還せんとする(未来)。 「張り緊め」たる 生 は、生物誕生の際だけで はなく、その後も時間を産み出しつつ常に働いている。なかでも小論においては、生物=個人(個 体)の階梯を中心に検討したい。個人における「持続の厚み épaisseur de durée 」 (MM, 31,72,73,. cf. 30-1,53,62,66-7,71,152-3, etc.)から成る「私の現在 mon présent 」(MM, 152,153,156)たる いのち. 〈現在〉-私の内面たる 生 の場-が主題になる。第二領域である(23)。 〈現在〉たる内面の生ける 時間は〈私〉の「直観」に与えられる。内面知である。それゆえに「現在」は「私の」ものとなり、 「私の現在」となる。ベルクソンの謂う「直観」とは、そうした内面の感得のことにほかならない。 それはまた、デカルトの謂う不可疑なる本源のコギト-神が「欺瞞者 deceptor 」だとしても、欺 くことのできない究極の知-のことである。これに対して外部の空間(第三領域)は知性によって いのち. 認識される。内面たる 生 の場という領域は、外部たる〈そこ〉 (外部世界・空間世界・知覚世界・対 いのち. 象世界・表象世界・行為世界・文化世界・意味世界・生活世界(24))に対立し、そうした 生 の場にお いて、事態そのものたる生ける時間とその感得たるコギトとが成立している。ただし時間的な物質 性・身体性それ自体も内面に見出される。そうした物質性・身体性は、否定的とはいえ、単に無力 いのち. な受動ではない。むしろ物質性・身体性は 生 たる精神性に対して〈抵抗〉する。そうした〈抵抗〉 が精神性に対する物質性・身体性の異質性を示している。生きているわれわれの内面における異質 いのち. 性である。内面においては、 生 の働きと同時に、それに対する物質性・身体性のその〈抵抗〉も感 得され、 〈抵抗〉の感情が発生している。 〈抵抗〉の感情も一種の認識である。つまり「直観」とは、 いのち. 生 と物質性・身体性の両者の内面における感得のことである。そして一方で、内面における物質性・ 身体性から外部が導かれる。他方で、内面はベルクソンの記す「神秘的直観 intuition mystique 」 (DS, 268,272-3,281,338)―他性に関わる「直観」―に通じる場でもある(25)。 いのち. 生 の歴程全体について簡単に確認しておこう。まず生物進化の階梯の以前を、生物が出現する以 いのち. 前を思い描いてみるなら、生 と物質性という二元がそれぞれ単独に想定される。生物の生物たる所 くぼ. 以である内面の時間という一種の凹みが未だ成立していない。その際の物質世界のことを物質の〈領 界〉と呼んでみたい。 「世界」ならびに「外部」という語の多義性を避けるためである。物質の〈領 界〉には認識者たる生物が未だ現存していない以上、当の〈領界〉は空間世界のように認識の対象 と成ってはいない。したがって「外部」でさえない。凹みを成す「行為中心 centre d’action 」(下 記の引用A)なき等質的で茫洋たる物質の〈領界〉において成立しているのはせいぜい、作用-反 作用の関係のみであろう。 「純粋知覚 perception pure 」たる物質性である。そうした物質の〈領界〉 いのち. に他方の元たる 生 が現出してくる。二元が「融合 confondre 」して原生生物が誕生する。その際 いのち. の 生 は原-直観(本能)と、さらには原-知性とも融合している。原生生物において、 「純粋知覚」は 、、 いのち し 原-知性として、 生 の働きたる「張り緊め」に対する〈抵抗〉と成る。 「張り緩み」であり、融合ゆ 、、、、 、、、、 いのち し えの〈抵抗〉である。 「純粋知覚」は「われわれの」 生 たる「張り緊め」と融合して「われわれの純 、、 粋知覚 notre perception pure 」 (MM,72,71, cf. MM, 30-1)と成るわけである。生物における物質 性たる「張り緩み」である。単細胞生物の「単」に象徴されるように、 「感取―運動的 sensori-moteur 」 し. 関係において、外界からのいわゆる刺激の感取と身体運動とは、さらには「張り緊め」と「張り緩 み」とは、内面化と外部化とは当の凹みにおいて一体になっている。同時に、原-直観は「われわれ 、、 の純粋知覚」と融合しつつも区別され、内面における直観と成る(26)。ベルクソン二元説において「知 いのち. 覚 perception 」は、デカルト以来の伝統に反して、精神( 生 )の側ではなくて、身体(物質)の 95.
(6) 側に置かれ、記憶と対立する。そして知性も知覚の一種として、身体(物質)の側に置かれ、外部認 し. いのち. 識を宗とする。そうした「張り緩み」に対する「張り緊め」たる 生 の〈疎隔作用〉によって、始源 の「記憶力 mémoire 」によって凹みが発生するわけである。生物は世界に対して、凹みにおいて し. 「身構え」る。生物進化の起点である。 「張り緩み」と「張り緊め」とは、内面の領域において、外 、、 部化と内面化という働きの方向たるかぎりにおいて互いに対立している。それは内面における物質 physique と形而上 méta-physique. (27)の精神( cf.. MM, 3)との対立、『物質と記憶 Matière et. mémoire 』の書名たる「物質と記憶力 matière et mémoire 」との対立(28)の一面である。実際、内 いのち. 面と外部との発生が 生 の凹みに基づく以上、生物は物質の〈領界〉から後退し、その分だけ、内面 に在って認識する者と外部に在って認識される世界との間に〈隔たり〉が生じている。存在論的相 対性の発生である。 〈領界〉から後退することは、〈隔て〉つつ対象世界を立てることでもある。そ うやって物質の〈領界〉のほうは、当の内面たる凹みを中心にして、実在世界と空間世界(対象世 界)とに分岐する。 「事象」そのものたる実在世界とその「再現表象」たる空間世界との分岐である。 これを〈分岐説〉と呼んでおこう。 「領界」の語も含めるなら、 「世界」 (ないし「外部」)という語に 、、 、、 、、 は三義が在りうるわけである。 〈分岐説〉によれば、実在世界と空間世界は物質の〈領界〉の変容と 解される(29)。生物が受用する実在世界の側からの作用は、行為として空間世界へと返される。実在 世界における純粋知覚が日常的な知覚へ展開されてゆくという〈知覚の系列〉である。そしてベル 、、、、、 クソンが「イマージュ」と呼ぶものは、その多義性にもかかわらず本来的には、 「実在論者 réaliste が事象 chose と呼ぶ」実在世界から「観念論者 idéaliste が再現表象 représentation と呼ぶ」(30) 空間世界への「途上」たる凹みに位置している。すなわち「物質とは、われわれに言わせれば、 『イ マージュ』の綜体のこと un ensemble d’ « images » 」であり、そして「イマージュ」とは「 『事象〕』 、、 と〔その〕 『再現表象』との途上に位置する現存 une existence située à mi-chemin entre la « chose » et la « représentation » 」 (MM, 1)のことである(31)。「途上」とはまた、 「精神と物質〔身体〕と し. の交点 le point d’intersection entre l’esprit et la matière 」 (MM, 5)、 「張り緊め」と「張り緩み」 との交点でもある。ベルクソンの謂う「イマージュ」とは、凹みにおいて行為を展開せんとしてい る「身構え」のことなのである。『物質と記憶』の第一章冒頭においては、「外部世界の実在性や観 念性に関する諸々の議論」については、 「何一つ識ってはいない振りをする feindre 」 (MM, 11)な どと記されているが、実は「イマージュ」は、その本義において、内面の物質性を意味しおり、本源 に存する当の「イマージュ」から物質の「実在性」や「観念性」が導出されてくるわけである。ベル クソンは「イマージュ」をもって、物質とは「実在」か「観念」かという「論争」に対する「共通の 土俵 un terrain commun 」 (MM, 21)を提示しているのである。かくしてベルクソンにおいて知 覚は、生物=個人(個体)の階梯における〈水平〉方向の外部に関わる。起点に存していた作用-反 作用の関係(純粋知覚)における反作用は、凹みの発生のゆえに、作用が発してくると解される実 在世界へと直には返されず、その代替とも言うべき空間世界へと向かうことになる。今の場合、物 質の〈領界〉における反作用 récation は、内面たる凹みを介した生物の行為 action と成る。空間 世界とは、行為の成立する場のことであり、したがってまたそれは、脊椎動物にあっては、知性認 識の成立する場、 「再現-表象 re-présenter 」された世界であるかぎりでの対象世界、認識する者 、、、、 にとっての世界、第三領域のことである。知性認識は行為の準備たる「身構え」を起点としている。 一方では、相互外部性―認識論的相対性―が発生している。 「再現表象」においては、生物―脊 椎動物―の利害関心に応じて純粋知覚たる作用に陰影が施され、利害に関わらない陰の部分の引き 96.
(7) 算によって「事物 chose 」なるものが成立する。 「身構え」に応じた〈事物化〉である。引き算たる 「縮減の途 voie de diminution 」 (MM, 32-34)であり、それによって全体を成す純粋知覚から認 識者に、当の認識者の利害関心の対象たる「事物」がもたらされる。 〈事物化〉によって、無用な部 分が隠され、利害関心のある側面だけが物質の〈領界〉から浮き出てくるわけである。鉛筆なり箸 なりを将に手に取らんとしている「身構え」に応じて、鉛筆なり箸なりが浮き出てくる。身体知に 応じて成立する事物なるものは、認識者に依存する認識論的に相対的な対象である。他方では、対 峙的外部性―存在論的相対性―が発生している。そして認識する者と認識される世界との間のこ うした〈隔たり〉のゆえに、デカルトの懐疑が成立する。対象世界(表象世界)は認識者によって 「投射」され、外部化された世界にすぎない。もし対象世界しか認めないなら全面的な〈投射説〉 となる(32)。なお小論においてはとりあえず、 「投射」と「対象化」とを以下のように区別しておきた い。 「投射」は「対象化」の前提である。 「投射 projection/projeter 」とは、われわれが対象世界 、 (空間世界)という場を、そうした領域を実在世界の「代理として眼前に-投げる pro-jacere 」こ 、 、、 とであり、 「対象化」とは、 「投射」の際に〈事物化〉を行い、そうやって当の場に事物を置くこと、 、、 事物たる「対象 objet 」を「眼の前に-投げる ob-jacere 」ことである。こうして空間―〈そこ〉 、、 ―において諸事物―諸々の〈それ〉―が存立することになる。してみると、脊椎動物の進化とは、 いのち. いのち. 生 の〈疎隔作用〉の拡充を意味していることだろう。進化すればするほど 生 の凹みが深くなり、知. 性認識における認識者と対象世界との間の〈隔たり〉が大きくなり、時間的にも空間的にも遠くを 見通すことになるだろう(33)。 このように生物進化の階梯を「上昇」するに応じて、一方では生物=文化の階梯がもたらされる。 脊椎動物においても、節足動物に準じて、いわば準-本能に基づいて―いっそう精確には、脊椎動 物における或る意味で進化した本能(34)たる「絆関係を宗とする社会的自我 moi social 」 (DS, 810,65-6)に基づいて―、 「集団 groupe (groupement) 」(35)(DS, 27,55,99-100,283,302, etc.)が 形成される。そうした「自我」が外部化して知性と「交差」 (第一の交差(36))し、 「閉じている絆関 係たる社会 une société close 」が発生する。事実上の現在である。他方では、現在―理論上の現 在たる生物=個人(個体)の階梯―に到る。この階梯の内面においては「個体的(個人的)自我 moi individuel 」 (DS, 8-10)が成立している。もっともそれが外部化されるなら、第三領域の知性にお いては、後述のように、一種の社会性も導入される。人間が生きて生活してゆくに当たって必要な 知性の社会性である。つまり生物=文化の階梯において成立している「閉じている絆関係たる社会」 が、様々な社会制度をも含めた集団の社会性を表現しているのに対して、生物=個人(個体)の階 梯において外部へと向かう知性(第三領域)は、各個人における社会性を体現してもいる。いわば 文化の外延と内包である。集団たる「社会 société 」なるものを各個人の側から見るなら、個人(個 体)の集まりたる「絆関係 société 」となる。各人において「獲得されたもの l’acquis 」 (DS, 292) から成る文化である。文化は個人(個体)の行動様式に現れている(37)。生物=個人(個体)の階梯を 中心としつつ、各階梯を少し覘いてみよう。 二、生物=個人(個体)の階梯 1:内面の浅い領域 高等脊椎動物の生物=個人(個体)の階梯において、 『物質と記憶』の示している四つの領域を確 認してゆきたい。 〈水平〉方向の区分である。なかでも知性の領域(第三・第四領域)と感性の領域 97.
(8) いのち. (第二領域)との間の相違は顕著である。 生 の〈疎隔作用〉が介在しているか否かに、したがって 認識における〈隔たり〉の有無に対応しているからである。存在論的な相対性と絶対性である。四 つの領域をまず概観しておこう。第一領域は内奥の「純粋記憶 souvenir pur 」たる内面の深い領 いのち. 域(第二次的な内面)に存する 生 と「純粋知覚 perception pure 」たる実在世界における純粋な物 質性とから成る。ただし「純粋記憶」も「純粋知覚」も、それとしては、すなわち文字どおり「純 粋」なままでは認識されえない。意識外である(38)。これに対して、内面の浅い領域(第一次的な内 面)たる第二領域が感性の領域―存在論的にも認識論的にも絶対の領域―であって、 「持続の厚み」 とそれを〈隔たり〉なしに感得する直観たるコギトとから成る。同じ過去でも、第一領域の「純粋 記憶」が内面の深い領域に沈下してしまっているのに対して、内面の浅い領域たる第二領域におい て「持続の厚み」を成す流動は沈下しておらず、心身関係が成立している。 「純粋記憶」が第二次的 な記憶を構成しているのに対して、こちらの「持続の厚み」が第一次的な記憶であり、知覚と記憶 いのち. との、 〈物質性 la matérialité 〉と〈 生 la vie 〉との、 「物質と記憶力」との融合から成る〈現在〉 いのち. である。既述のように、 「純粋知覚」たる物質性と「われわれ」たる 生 との融合から成る「われわれ の純粋知覚」にほかならない。この場合、「記憶」ないし「記憶内容」たる « souvenir » と「記憶 いのち. し. 力」ないし「記憶作用」たる « mémoire » とは区別されなければならない。 生 が「張り緊め」たる ..... 「記憶力」として「張り緩み」たる「物質性」を綜合することで「現在の記憶 souvenir du présent 」 (ES, 137, cf. 112-4,119,130-2,135-6, MM, 76)が成立し、文字どおり「生-物」と成る。それに対 して第三領域と第四領域は知性の領域―存在論的にも認識論的にも相対的な領域―であって、 〈隔 たり〉を介した知性的な認識作用とその対象とから成る。第三領域は、われわれの日常生活におい て見出される諸々の物体 corps ―「事物」―から成る外部の空間世界、知覚世界である。外部知 覚が成立している。 〈今〉 〈ここ〉と外部世界たる〈そこ〉との間の〈隔たり〉のゆえに存在論的相対 性が発生しており、内面の流動は当の〈そこ〉にもたらされるなら、認識論的に相対的な事物たる 、、 、、、、 〈それ〉と成る。 〈事物化〉である。事物は認識するわれわれにとって存立するにすぎない。われわ れの身体習慣の―いっそう精確には、活性化されている身体習慣たる「身構え」の―反映である。 文化的な世界が存立している。文化的な世界であるから、互いに「異」なる様々な世界(異文化世 界)が在りうる。その際の認識作用が、感覚や想像をも含んだ―つまり「純粋」でない―広義の 知性である。これに対して第四領域の世界は―第一領域の「純粋知覚」にいささかは類似している かもしれないのだが―自然科学的な意味での物質 matière の、さらにはいっそう厳密には、幾何 学的な延長の、あるいは論理の世界、物質世界たる思惟世界にほかならない。〈今〉〈ここ〉のない 〈上空飛翔〉による認識の世界である(39)。その際の認識作用が、 「純粋」であるかぎりでの「純粋知 性 intelligence pure 」にほかならない。かくしてわれわれは、純粋知覚(第一領域) 、われわれの 純粋知覚(第二領域) 、実践的知覚たる日常的な知覚(第三領域) 、それに純粋に知性的な認識たる 物質の認識(第四領域)を加えて、四つの領域を跨ぐ〈知覚の系列〉を得る。なお、いわゆる感覚は 一方では第三領域の知性作用を前提しており、他方ではまた第二領域の感性をも含んでいる。なお また、自己を第三領域、第四領域において、すなわち知性的に認識せんとするなら、認識者たる自 己が認識対象の位置に置かれ、 〈隔たり〉を介した〈反省〉たる自己認識が生じる。内面の内部化で ある。これに対して第二領域は〈反省〉以前の領域であり、あくまでも内面たる生ける〈ここ〉に留 まる。世界―知覚世界と思惟世界―の外である。 こうした「内面」と「内部」との相違について少しまとめておきたい。 「外部」ないし「世界」と 98.
(9) いう語がしばしば二義的に用いられるのに似て、「内面」と「内部」との相違の曖昧な場合―それ は「内」の語の二義性であり、時間と空間との相違でもあるわけだが―が多いからである。ベルク ソン哲学の根幹に関わる問題である。 『創造的進化』によれば、脊椎動物の得意とする知性認識は外 部の認識―空間認識―であり、空間とは対峙的外部性と相互外部性とから成る外部性の図式のこ とにほかならない。存在論的には無媒介性が、認識論的には相互浸透が否定される。なるほど、知 性も〈私〉の知性である以上、知性作用自身は内面において「無媒介 immédiat 」に感取され(40)、 認識されている。生ける知性である。これに対して、当の知性作用をもってわれわれが認識するの は自らと対峙する外部であり、したがって知性作用自身は本来的には知性的な認識の対象にはなら ない。それゆえ知性認識を宗とするわれわれ脊椎動物には―本能たる直観認識を宗とする節足動物 とはおそらく違って―、内面であるかぎりでの内面の、真性の内面の認識は困難―〈難思議〉― である。それを〈不可思議〉として不可能と取り違えると、人間に可能な認識は知性認識のみとな る。認識作用としては、外部認識しか認めない立場である。外部という領域しか認めないなら、存 在論的一元説―存在論的相対性たる対峙的外部性の思想―となる。認識対象に関しては、諸事物 とその関係のみから成る認識論的一元説―認識論的に相対的な事物間の相互外部性の思想―とな る(41)。しかるに、それでも生ける知性をも含めて、自己の内面を知性によって認識せんとするなら、 真性の内面は外部化されてしまう。 〈反省〉の対象たる「内部」である。知性によって内面は「内部」 に変換され、 〈隔たり〉を介して認識されるわけである。すなわち凹みを成している内面の〈私〉を 知性によって認識せんとするなら、当の〈私〉は〈反省〉されて「外部」の〈そこ〉に置かれる(cf. MM,11) 。 〈今〉 〈ここ〉が〈そこ〉の一部にされてしまう。第二領域が第三領域に飲み込まれる。 〈私〉 についての、自己についての対峙的外部性である。 〈ここ〉に存する自己を指差してみればよい。 〈こ 、、 こ〉を指差すなら、指差された〈ここ〉は〈そこ〉と成る。知性認識は、指差す場合と同様―〈こ こ〉と〈そこ〉との間の―〈隔たり〉を必要とする。自己は対象化されて世界の内に置かれる。指 差された「内面」の自己は「外部」化され、外部の世界において「外部」と並置される「内部」に変 容する。知性の認識対象たる外部世界がさらに「外部」と「内部」とに割り振られたわけである(42)。 パスカルの言う「自己愛 amour-propre 」における「自己」とは、このように対象化された「自己」 のことである(43)。そうした認識対象は、たとえ自己であっても、原理上、認識する者たりえない。 かくして仮に「二元説」を主張するにせよ、 「外部」の世界と「内部」の自己とから成るかぎりは、 、、、、、、、、 外部空間における二元説にすぎない。存在論的一元説の一種たる空間一元説である。 〈そこ〉たる外 部の領域のみが是認される。認識対象としては〈そこ〉たる空間世界と〈そこ〉に存在する諸々の 〈それ〉たる相互に外部的な諸事物しか認めないので、認識論的一元説でもある。 〈私〉もそうした 〈それ〉の一つとされる。存在するもの ens と事物 res とが同一視される(44)。そうなると、事物 ならざる相互浸透する内面の流動は認識不可能と見なされる。 「私は存在する Ego sum 」の流動的 、、 に「存在する」 「私」は「思惟する事物 res cogitans 」たる「事物」となってしまう(45)。ただしそ のように内面から外部へと脱出・脱-立 ex-stase するだけなら、〈今〉〈ここ〉に在る内面の〈私〉 は、必ずしも全面的に否定されるわけではない。そもそも外部をさらに「外部」と「内部」とにわれ われが区分しうるのは、 「内部」なるものの特異性を、したがって帰するところ内面なるものをすで に知っているからなのである。内面が全面的に否定されるなら、 「内部」が内面の外部化たる以上、 「内部」なるものさえも成立しえない。 「内部」とは内面のいわば部分的な否定なのである。かくし て、 〈今〉 〈ここ〉において認識している〈私〉自身は、存在論的一元説たるかぎり、そのままでは認 99.
(10) 、、、 識されず、それでいてしかも密かに残存する。内面は半ば否定されるが、その否定は「半ば」に留 パースペクティヴ. まる。認識されるのは、 〈そこ〉たる認識空間の 眺 望 から成る世界のみとなる。そうしたなかで 自己を認識せんとするなら、当の認識されぬ内面の〈私〉は残存しつつ反省され、外部化、対象化、 「内部」化されて二重化することになる。今度はヘーゲル思想であり、二一世紀のわれわれ現代の 思想もその傾きを強く有している。そしてさらに、半ば否定された当の「内面」を全面的に―した がって「内部」さえも―否定するなら、認識する側の知性は自らの在り処たる〈今〉 〈ここ〉を失 パースペクティヴ. う。認識空間の 眺 望 も失い、 〈上空飛翔〉することになる。第四領域の知である。すなわち、 〈こ こ〉は諸々の〈そこ〉の一つとして空間中に置かれ、 〈今〉は時間直線上の単なる一点と成る。時間 は空間と同じ領域に置かれる。三次空間に対する第四の次元である。時間も空間的に表現される。 たとえば「過去」はグラフ上、今、現在の左側に、 「未来」は右側に在る、と。時間直線上に複数の 〈今〉 〈ここ〉が並置される。時間はいわば「客観的」な枠組と見なされる。 〈今〉 〈ここ〉から成る 内面の〈私〉に見出される一回性が否定されている。そうなれば今度は、時間直線上の複数の〈私〉 と他者一般とは同等になる。認識者一般が成立する。あるいは「予定表」が出来上がる。時間はま ったく流れない。伝統的な自然科学を一例とするいわゆる「客観的」な認識という理念の成立であ る。近代以降の多くの哲学研究者はおそらく、近代科学における物質・物体についての行為的な認 識-脊椎動物の得意とする知性認識-の成功に引きずられ、内面をも対象世界のうちに置いて「内 部」化してしまい、内面における無媒介の認識を忘却した。 〈隔たり〉なき認識を不可能と見なすな ら、対象世界と当の〈そこ〉における認識対象たる〈それ〉のみを承認することになる。存在論的か つ認識論的一元説である。 さて、これまで概観てしてきた四つの領域を個別に少し取り上げてみよう。まず内面の浅い領域 たる第二領域から。空間性を欠いた時間の領域である。この領域において「持続の厚み」は、一つ ..... の同じ「利害関心」の下に在って過去に沈下してしまってはいない「現在の記憶」を成している。 し. 第一次的な記憶である。「張り緩み」たる物質性・身体性が始源の「記憶力」によって「張り緊め」 られ、時間化されて〈現在〉が発生する。持続は空間の外に、空間の手前に現存しており、したがっ てまたわれわれは当の〈現在〉を、予定表のごとく、空間的な点や線をもって表現することもでき ない。 「縮約 contraction 」 (MM, 31,74,76, et ES, 17, etc.)という当の始源の「記憶力」の働き― 「物質性 matérialité 」に対する「精神性 spiritualité 」 (EC, 202,213) (あるいは「心性 mentalité 」 いのち. (DS, 110,181) )―によって、第一領域の物質性から成る物質の〈領界〉に 生 の凹みがもたらさ れる。発生しているのは「凝縮によって体を具えた知覚 perception concrète 」 (MM, 31)(46)、各 人の内面の浅い領域に位置する「われわれの純粋知覚」である。 「張り緩み」を「凝縮することによ し. って体を具え concréter/con-crescere 」せしめるのが、 「張り緊め」たる始源の「記憶力」である。 それ自体としては「瞬間的 instant 」で現存することのない純粋な物質性たる「純粋知覚」が、 「張 し. り緊め」られて「持続の厚み」を具えるわけである。 「純粋知覚」が「現在の持続 durée présente 」 (MM, 280) 」を具えることになる。第二領域たる内面性の発生である。 「われわれの」ものとなっ 、、、、、、、、、 ているその「われわれの純粋知覚は、実際、いかに束の間のものであれ、ある一定の持続の厚みを 占めている occuper une certaine épaisseur de durée」 (MM, 72, cf. 53,62-3,66-7,152-3)。空間の 手前に存する「時間契機 moment 」である。そうやって生ける身体たる「行為中心 centre d’action 」 、、、、、、 ―凹み―を有する生-物が誕生する。「張り緊め」たる「記憶力の努力 effort de la mémoire 」 し. (MM, 31, cf. 91)が、 「張り緊め」の「努力」たる「われわれ」の側の能動性が働いて「私の現在」 100.
(11) 、、 いのち が発生する。その際、生 と物質性は共に内面の働きにおいて捉えられている(47)。 「持続の厚み」は、 いのち. し. 生 の働きたる「張り緊め」によって、当の「努力」に〈抵抗〉する身体・物体の働きたる「張り緩. み」が、物質性がいわば取り集められ、 「縮約」されて産み出されるわけである。かくして一方で、 そうした「持続」が内面において直観に与えられる。当の「努力」が、努力の感情において与えられ るわけである。内面の直観とは一種の認識であり、情感的な自己感得たるこうした努力の感情のこ とである。コギトとはデカルトの『情念論』に謂う「内面の情動 émotion intérieure 」 (PA §§1478)たる「知的 intellectuel 」な情動(48)にほかならない。認識たらぬ情感はない。時間的な流動たる 〈私〉の内面は〈今〉 〈ここ〉-「持続の厚み」を具えた〈現在〉-に現存し、非〈反省〉的な直 接知たる直観に与えられている。空間が存在せずとも〈私〉は「存在」する。懐疑不可能で、懐疑の 後に残る直観知たる「私は存在する Ego sum 」である。そうした〈私〉は、 「現在の持続」たる「運 動性 mobilité 」 (MM, 213-6,219,234, EC, 109-11,129,164, DS, 56,288, etc.)から成る。他方で、 し. いのち. 「張り緊め」によってもたらされる持続の分だけ、 生 の〈疎隔作用〉の分だけ、内面は物質の〈領 界〉から後退し、その分だけ外部性もまた同時に前方に発生する。当の〈領界〉において、 〈私〉と し. 〈将来〉の行為の成就される場たる外部の空間世界との間の〈隔たり〉が「張り緊め」によって開 かれるからである。第一次的な記憶は、過去に沈下していないだけに、 〈今〉 〈ここ〉と空間たる〈そ いのち. こ〉との〈隔たり〉-対峙的外部性-が、 生 の〈疎隔作用〉による「縮約」の分だけ開かれる。 だから逆に、 「持続の厚み」から成る運動性そのものは、空間世界の外に、空間世界の手前に在って、 外部の空間世界へと-いわば〈水平〉に-向かうわけである。空間的な〈そこ〉とは、行為の成 就される時間的な〈将来〉の表現なのである。身体性たる「張り緩み」が、空間世界へと向かうこう した外部化の働きを担っている。かくして第二領域の内面たる〈現在〉を成している「行為中心」 においては、 〈将来〉へと向かう運動する生ける身体-身体習慣に裏打ちされながらも未だ空間中 の行為には到らず、しかも、将に行為せんとしている身体-たる「張り緩み」が、行為の「身構え attitude 」として活性化し、かつ直観をもって感得されている。 「身構え」たるイマージュには時間 が宿っている。内面において感得されているのは未遂の行為であるかぎりでの「運動 mouvement 」 、、、、、、 たる「運動性 mobilité 」である。かくしてすでに記したように、凹みたる生ける内面においてわれ し. われは、 〈水平〉に二つの方向を見出す。これを〈二方向説〉と呼んでおこう。 「張り緊め」たる精神 し. の内面化の方向と、 「張り緩み」たる身体・物質の外部化の方向である。 「張り緩み」は「張り緊め」 に対して反対方向にあって、 〈抵抗〉となっている。内面化とは、この場合、外部に向かって弓を張 り絞るイメージである(cf. ES, 15) 。こうして凹みたる内面が、時間が、運動性が、 「時間契機」が 発生する。 « momentum » の語源-それは « movimentum » であって、「時間契機 moment 」 と「運動 mouvement 」とは語源を同じくする-からも推察できるように、 「時間契機」とは「運 動」の「時間契機」なのである。 横倒しのY字型の図形( )を用いて、以上を簡単に整理しておきたい(図示なるものには危険が 潜んでおり、またそうした整理は〈上空飛翔〉によるわけだが)。上述の〈知覚の系列〉を含めて、 とりあえず三つの系列が指摘できる。第一に、実在世界(第一領域)と思惟世界(第四領域)とを二 つの頂点とし、 「現在の持続」を成す内面の浅い領域(第二領域)を底とするV字型の図形を横倒し にしてみよう(<) 。 「投射」された対象世界(第三領域)はV字の底と思惟世界との間に置かれる。 「投射 projection 」には反射の意味を加えることもできる。知性の領域たる対象の領域(第三領域 と第四領域)とは、内面の浅い領域を反射面にした実在世界の反射であり、内面の内部化とは別の 101.
(12) 意味で反省(反射)された世界である(49)。われわれは実在世界を「純粋知覚」と解し、それを起点 として展開される〈知覚の系列〉たる第一の系列を得る。そして〈投射説〉とその批判との対立は、 この〈知覚の系列〉をもって次のように説明できる。すなわち、 「われわれの純粋知覚」を起点に採 って、 〈知覚の系列〉の後半部のみを採用するなら、反射なしの投射となる。実在世界を認めない〈投 射説〉である。なおその際に、内面性を一切否定するなら、投射された世界(表象世界)しか認めな い存在論的一元説たる相対説となる。またその際、第三領域に関しては、 〈そこ〉において存立する のは事物なので、認識論的一元説たる相対説ともなる。それに対して、実在世界たる「純粋知覚」 をも採用してそれを起点に置くなら、 〈投射説〉批判となる。そして今度は、このV字図形に純粋記 憶(内面の深い領域)を書き加えるなら、尻尾が付いて横倒しのY字図形( )が復元される。そう しておいてさらに今度は、V字部分の底(内面の浅い領域)から対象の領域への「投射」の線を消 すなら、Y字図形は一つの直線となり、 「純粋記憶」、 「現在の持続」 、 「純粋知覚」の三者から成る第 二の系列が得られる。ベルクソン二元説である。 「現在の持続」たる「われわれの純粋知覚」におい て「純粋記憶」と「純粋知覚」という二元が融合する。この観点を保持しつつ今度は、元の横倒しの Y字図形に戻るなら、 「純粋記憶」たる第二次的な記憶および「純粋知覚」たる実在世界という二元 (第一領域)から、 「現在の持続」 (第二領域)を通過して、 「実践的知覚」から成る対象世界(第三 領域)へ、さらには「純粋知性認識」たる思惟世界(第四領域)へと移行することになる。第三の系 列である。こうして四つの領域の全体が復元される。 「実践的知覚」においては、対象世界たる外部 空間の方向に、対峙的外部性をもって、存在論的な〈隔たり〉を介した認識が成立している。ベル クソンの謂う「意識的知覚 perception consciente 」 (MM, 27-31,35,74, etc.)である。 かくしてベルクソンは、生-物の発生を考慮しつつ〈投射説〉を批判することになる。内面を起 、、 点にした「投射」たる外部化のみをもって世界の存立を説明しようとするからである。 「見た目にも明らかなのに何故、人は以下のように〔〈投射説〉を〕言い張るのか。私は、私の 意識的自我 mon moi conscient から私の身体 mon corps へ、次いで私の身体から他の諸物体 、、、、、、 les autres corps (50)へ進む、と。これに対して実際は、私は一足飛びに d’emblée 物質世界一般 、、、、、、、、 le monde matériel en général のうちに自らを置き、それから、まさに私の身体と呼ばれる行 、、、 為中心 centre d’action を漸進的に限界づけ progressivement limiter 、かつ、それ〔=私の身 体たる行為中心〕をそのようにして他のすべてのもの〔=諸物体〕から区別してゆくのである」 (MM, 46-7, cf. 62-3)(51)-引用A 生物発生の場面を考慮しつつ、内面から外部知覚へという〈投射説〉の〈方向〉は退けられる。内面 の「意識的自我」から世界の「中心」を成す「私の身体」へ、さらに「意識的自我」を有する「私の 身体」の「投射」する「諸物体」から成る「世界」へと、 〈今〉 〈ここ〉を起点にして〈それ〉の存す る〈そこ〉へと進むのではない、と。ベルクソン自身は、反対の〈方向〉を採用する(52)。〈投射説〉 批判である。生物の登場以前の場たる「物質世界一般」が、物質の〈領界〉が起点に置かれる。物質 性に関してベルクソンは、第一領域から第四領域へと展開せんとしているわけである。 「知覚」は外 いのち. 部化の方向にあって、既述のように基本的な対立軸は知覚と 生 との間に立てられている。まず「純 粋知覚」においては、作用は即座にそのまま返される。次いで当の物質の〈領界〉に生物が登場す いのち. る。一方の元たる純粋な 生 が、もう一方の元たる物質性と出会い、生-物となって現出し、現存す 102.
(13) る。そのようにして、 〈領界〉からは世界だけではなく、生物たる凹みが発生してくる。〈分岐説〉 に言うように、生物と物質世界との間に、内面と外部との間に〈隔たり〉が発生する。 しかしながら、事態はそれほど簡単ではない。幾つかの問題(53)が生じている。第一に、世界の実 在に関する存在論的な問題、いわゆる〈世界の客観性〉の問題がある。以下のような議論が成立す るだろう。物質の〈領界〉が実在世界と空間世界とに分岐するわけだから、 〈世界の客観性〉を教え てくれるのは、 〈分岐〉以前の物質の〈領界〉か、あるいは〈分岐〉以後の実在世界かのどちらかで ある。ところで一方で、引用Aにおける「物質世界一般」とは第一領域の物質性から成る物質の〈領 界〉のことだと解される。しかるに、当の〈領界〉においては、生物たる認識者が未だ現存していな い。なるほど「物質世界一般」がすでに存在し、その「物質世界一般」に生物が出現するということ はありうる。しかし生物の出現することそのことによって、当の「物質世界一般」が変容してしま う。内面の成立が生物の条件だからである。生物が生物であるかぎり、その経験は持続を前提して いるからである。内面たる凹みを有する当の認識者が現存するときにはすでにもう、内面化と外部 化とが発生しており、物質の〈領界〉は実在世界と空間世界とに〈分岐〉し、変貌してしまってい る。したがって、生物には物質の〈領界〉は直接には与えられない。 「純粋知覚」たる第一領域の認 識は成立しないのである。上記の引用Aに対応するベルクソンの説明によれば、当の〈領界〉にお 、、 いて成立しているはずの「純粋知覚」は、 「私の知覚を、純粋状態で、つまり私の記憶力から孤立さ 、、 せる Ma perception, à l’état pur, et isolée de ma mémoire 」 (MM, 62)なら成立するにすぎない。 「純粋知覚」は「理論 théorie 」にすぎず、われわれの経験には与えられないのである(MM, 59)。 この場合、引用Aのベルクソンは、いわば第三者の立場に身を置いて、認識が原理上成立しない「物 質世界一般」について単に主張しているにすぎないことになる(54)。しかるに他方で、 〈分岐〉以後の 実在世界に関してはこうなる。神秘的直観は別に措くとして、われわれ人間において世界認識の役 割を担っているのは知性である。ところが知性的に認識されるのは空間世界たる物質世界であり、 凹みを介して「再現された表象 représentation 」にほかならない。外部の空間世界とは〈投射〉さ れた「再現-表象」の世界のことである。われわれの知性は、そのように外部化された対象世界を 〈隔たり〉を介して認識している。存在論的相対性である。われわれの知性にとっては、 「再現」さ れることのない実在世界は不明である。実在世界は、それだけでは夢の世界と区別できない。デカ 、、、 ルトの提示する夢の懐疑が成立する。さらにまた内面の直観も、それ自身は凹みを介した認識では 、、 いのち ないが、生 の凹みは前提となる。したがって知性知であろうと内面知であろうと、われわれの知が、 認識が成立するには凹みが必要である。かくして〈世界の客観性〉の問題が生じている。他性の不 可知に関しては、四つの問題が見出されるが、そのうちの第一の問題である。認識されるものすべ ては〈私〉の認識対象にすぎず、世界の他性が不明である、と。実在世界は異他的なものとして開 示されなければならない(55)。その点ではまた、他の人間たる他者についても同型の存在論的な問題 が生じる。他性の不可知に関する第二の問題である。かくしてわれわれは独我説に出会う。全面的 な〈投射説〉は独我説を導く。 しかしながら観点を変えるなら、凹みは対象世界と対峙する人間の自由を保証してもいる。 「行為 中心」と行為対象との間の時間的な〈隔たり〉が、すなわち行為の未遂性が行為の自由を保証する。 〈そこ〉に存する事物が、あるいは実在世界における何ものかが意志に対して行為をいかに強く促 しても、 〈そこ〉たる〈将来〉が〈ここ〉との〈隔たり〉を有している以上、行為しないことは常に できる。行為するかしないかという自由は常にわれわれの下に在る。発動の自由である。自由の成 103.
(14) 立する場は、空間世界の手前に存する「時間契機」なのである。デカルトの規定に従うなら、 「魂の 能動 action de l’âme 」 (PA §§17-20, 41, etc.)たる意志作用は何よりもまず、対象認識において対 象世界を、空間世界を立てる役割を、 〈そこ〉を開く役割を担っている。本源の意志作用である。 「張 いのち. り緩み」は意志作用の一種である。凹みをもたらす 生 の〈疎隔作用〉によって物質の〈領界〉から 後退する分だけ、意志によって実在世界を取り戻さんとするわけである。 「身構え」には意志が宿っ ている。しかるに、実在世界を取り戻さんとしても、われわれ脊椎動物には対象世界しか与えられ ない。まさしく意志が〈そこ〉を開くからである。外部化は意志の働きが担っている。逆に、デカル トの懐疑が可能なのは、そうした意志の役割のゆえである。すなわち通常は、物質の〈領界〉から いのち. し. 後退する 生 の働きたる「張り緊め」と対象世界を立てる意志の働きたる「張り緩み」とは融合して 、、 いるが、意志は、世界を取り戻さんとする自らの当の働きを中断する―その働きの「途上」で止め る―ことができる。 〈そこ〉についての懐疑は常に可能である。帰するところ、上述の弓を張り絞 るイメージを用いるなら、意志は対象世界を〈投射〉する働きである。もう少し精確に言うなら、 対象世界を立てるのは、意志に裏打ちされた想像作用―「能動的」と呼ぶことのできる想像作用― にほかならない。空間世界それ自体が「再現表象」の世界たる所以である。そして知性は、そうし た空間世界を認識する。この点では意志作用は、当の〈隔たり〉を介して対象世界を認識する知性 作用と一対になっている。認識における意志の働きである。そしてデカルトによればこの対におい ては、意志作用が「魂の能動」であるのに対して、知性作用そのものは「魂の受動 passion de l’âme 」 (PA §§17-20, 28,41, etc.)と解される。それに対してコギトは、こうした初発的な段階―「途上」 ―における意志作用と知性作用の感得である。知性作用を支えている意志作用は内面において直観 され、情感的に自己感得されている(PA §19) 。同じ「魂の受動」でも、コギトは知性作用よりも一 段階内奥に位置する認識たる純粋受動であり、 「無媒介 immédiat 」の自己感得、生ける「魂」の自 己感得である。意志作用との関係においては、そもそもコギトが受動でなければ、意志を意志すべ く無限背進に陥る。逆に意志の感得が無ければ、単なる盲目の意志となる(56)。それでいてしかもコ ギトとは、意志たる「自由 libertas 」のその「行使 uti 」でもある。いったい何が起こっているの か。 、、、、、 「 『第二省察』においては、自らの固有の自由を行使しつつ、いささかなりとも現存を懐疑しう るものはすべて現存しないと想定する精神 mens quae, propria libertate utens, supponit ea omnia non existere de quorum existentia vel minimum potest dubitare は、自分自身がその 際に現存しないことはありえないことに気づく animadvertere fieri non posse quin ipsa interim existat 」(Ⅶ,12…傍点筆者)(57)-引用B 意志作用の自己感得たる情感が当の意志に対する推進力にほかならない。 「自由の行使」である。意 志作用という自己の能動作用を内面において受用する受動たる情感、その情感が意志を実効化して いる。 「張り緩み」を作動せしめているのは、内面の情感なのである。意志を〈隔たり〉なしに感受 するその感受が当の意志を作動せしめている。デカルトは『情念論』において「知的な喜び joie intellectuelle 」 (PA §§91,147) 「知的な悲しみ tristesse intellectuelle 」 (PA §§92-3)などの「内 面の情動 émotion intérieure 」 (PA §§147-8)たる「純粋に」 (PA §91)―外部世界に関わる知性 的・身体的な「張り緩み」の意味ではなく、身体に関わらないという意味で―「知的」な情動を挙 104.
(15) げている。意志の感受たるコギトが同時に当の意志の「行使」なのである。 「行使」しているのは、 懐疑のなかで「現存」の確証される「精神」―働きであるかぎりでの「精神」―である。「精神」 の本源的な規定と解される。コギトとは第二領域における意志の自己触発 auto-affection のことに ほかならない。自己の auto 情感 affection である。こうした自己関係たる自己触発においてこそ 自己性が成立する。だから意志は強制されえない(cf. PA §41)。この場合、もし仮に行うべきこと がただ一つで、複数の選択肢が成立しておらずとも、したがってまた、そのうちの何れに決定する かという際のいわゆる選択の自由-〈決定の不在 absens de détermination 〉-が成立しておら ずとも、発動の自由-〈強制の不在 absence de contrainte 〉-は成立する(cf. MM, 11-2)(58)。 三、生物=個人(個体)の階梯2;他の領域 生ける内面たる第二領域を起点に、理論上の現在たる生物=個人(個体)の階梯において〈水平〉 に、二つの方向を認めることができる。一方には第三領域、第四領域の空間世界の方向が存する。 他方には、第一領域のうちの〈過去〉たる個人の記憶の方向もある。実際上は〈私〉には、第二次的 な記憶たる「純粋記憶」も随伴している(MM, 30-1,76,79-80) 。 「純粋記憶」は〈過去〉に沈下して しまっており、もはや第一次的な記憶から成る「私の現在」ではない。もはや「直観」されず、おそ らくは人間に特有な記憶である(MM, 87)。精神的ないわゆる「再認 reconnaissance 」―ベルク ソンの用語によるなら「張り向けの注意による再認 reconnaissance attentive 」 (MM, 107,128, cf. 107)―は、こうした記憶の想起によって為される。知性作用の一種である。 「純粋記憶」は想起さ れて外部化し、第三領域の空間世界の知覚に混入する。 「複合的な知覚 perception complexe 」 (MM, し. 31)の発生である。 「張り緊め」と「張り緩み」との融合を第一次的な融合とするなら、記憶と知覚 との二元の融合の一種、第二次的な融合である。以下では、第三領域の空間世界を中心に置いて検 討してみたい。 し. 第一領域の物質の〈領界〉たる純粋知覚が第二領域において「張り緊め」られるなら、その分だ け〈将来〉が発生し、純粋知覚は外部化されることになるのであった。第三領域の空間世界たる知 いのち. 覚世界の発生である。生-物には、その物質性たる生ける身体には、第二領域において、 生 の〈疎 隔作用〉をいわば挽回する働きが宿っているのであった。 〈将来〉へと向かう「身構え」は、通常は 当の〈将来〉において外部化して空間中の行為と成るに到る。その際、行為の手前において、当の 「身構え」に応じて、日常的な知覚が成立する。文化的な「見え」の世界が存立する。第二領域から 第三領域への移行である。そうした移行の経緯を明確にするための準備としてまず、ベルクソンに よる観念説と実在説に対する批判を瞥見しておきたい。われわれは、 「実在論者が事象と呼ぶ」実在 世界(第一領域)から、凹みたる生ける内面(第二領域)を経て、 「観念論者が再現表象 représentation と呼ぶ」空間世界(第三領域)へと移行する〈知覚の系列〉を指摘した。しかしながらベルクソンに よれば、元来は「それ自体で現存するイマージュ une image qui existe en soi 」たる第二領域の「物 、 、、 質」に対して、 「観念説と実在説 l’idéalisme et le réalisme はその現存とその見えとの間に解離 la dissociation … entre son existence et son apparence を施した」(MM,2)。第一領域から第三領域 への移行ではなく、第二領域の「イマージュ」を起点に採って為される「物質」の「現存」とその 「見え」との間の「解離」である。この場合、観念説と実在説とは、 「と et 」をもって併記されて いることからわかるように、同罪である。あるいはベルクソンは、 「精神」と「物質」とから成る「二 105.
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