琉球・来間島の家族慣行と祭祀組織
─「法的慣行」としての「伝承」とその解釈的構成─(その2)林 研 三
4.祭祀組織-ブナカとヤーマスウガン
(1)「島建て伝承」とブナカ 八重山諸島では沖縄本島に比して一集落に複数の御嶽がある場合 が多いことはつとに指摘されてきたが、当地でも「東の御嶽(アガ リヌウタキ)」、「西の御嶽(イリヌウタキ)」、「井戸の御嶽 (カァヌウタキ)」という三つの御嶽がある。本島では女性の神役 はユタと呼ばれることが多いが、ここではツカサ、ユーザス、ニガ ンムマ、ムスムマ、サラムタギ、アイジューグナ、ンツムトゥ、 トゥムンマなどがあげられる。これらのうち最初のツカサとユーザ スが重要な地位を占めており、ツカサは「東の御嶽」を、ユーザス は「西の御嶽」を管理すると言われている。 「東の御嶽」にはティンガナス、「西の御嶽」にはタカガンとい う神がいるとされ、前者は「一番偉い神」、後者は「人の一生をみ ている神」であるとは、ツカサを経験したSA女(1912年生まれ)の説 明であった。これら以外にも多くの神々が当地では確認されている ことは指摘されてきた(1)。SA女によれば、御嶽にこもるのは年 3回であり、それぞれ3日間こもるという。1日目の午後から御嶽 に行き、線香をあげ神様の名前を呼び、「皆が元気であるように、 はじめに 1.来間島の概況 2.世帯と婚姻 (1)世帯類型と世帯の状況 (2)婚姻と転出入世帯 3.親族関係の事例(以上本誌 25 巻1号) 4.祭祀組織-ブナカとヤーマスウガン 5.若干の分析 おわりに豊作になるようにとウートート(お祈り)する」。御嶽にこもるの はツカサとトゥマンマ以外では、アイジューグナなど3人程である が、神役以外の者が直接御嶽に関与することはない。つまり、ヤマ ニンズウや氏子等の御嶽に関して居住者から構成される祭祀組織は 見られない。 当地での居住者を構成員とする祭祀組織はブナカと呼ばれてい る。スムリャーブナカ、ウフヤーブナカ、ヤーマシャーブナカの3 ブナカであり、旧来の居住者(戸)はこの3ブナカのいずれかに属 している。ブナカがどういう組織であるかは、当地の「島建て伝 承」とも関連している。この「島建て伝承」にはいくつかのパター ンがあるが、おおむね下記のような伝承である。 「宮古島の川満に喜佐真按司という強い頭が住んでいた。彼は子どもがいな かったが、やがて一人の女の子に恵まれた。やがてこの子が娘になったある日、 海辺の岩にたっていた。そのとき太陽からでた矢のような光が娘をつかまえ、そ の娘は妊娠した。3年後に娘は三つの卵を産み、その三ヶ月後その卵から3人の 男の子が生まれた。 この男の子(三兄弟)は大飯くらいで、このままでは自分たちの食べ物がなく なり困ると思った按司は与那覇の勢頭豊見親に3兄弟をやったという。しかし、 勢頭豊見親もあまりの大食いにあきれて、川満の按司に3兄弟を返した。そし て、二人で相談して、3人を来間に行かせることにした。 来間には90歳になるおばあさんが一人ですんでいた。来間には昔は千人もの 人々が住んでいたが、神様のありがたさを忘れて、東のウタキの祭りをしなく なった。そうすると、その頃から赤牛が現れるようになり、村人をさらっていく ようになった。そのおばあさんの娘もさらわれ、今ではおばあさん一人になって しまったという。 3兄弟はおばあさんに赤牛のでるところに連れて行ってもらい、3人で協力し て赤牛と戦った。逃げた赤牛を追いかけていくと、そこに美しい娘がいた。その 赤牛は神様の化身で、娘はその門番をしていた。その娘に案内を頼んで神様(赤 牛)に会い、3兄弟は村人を帰してくれるように頼んだ。神様は祭りをしなく
なったから村人をさらったと言い、祭りを復活すれば昔通りにすると約束した。 しかし、村人達は目に鉛を入れたのでもう役に立たないから、娘を連れて来間 島に帰るように神様から言われた。その娘はおばあさんの子どもで、おばあさん は大変喜んだ。3兄弟の長男がこの娘を嫁にして、次男はその子の上の娘を、三 男は下の娘と結婚し、来間の土地を三つに分けた。それ以降毎年豊年祭を行い、 来間の島も栄えるようになった。」(2) この3兄弟の末裔が現在の3ブナカのヤーモトとされ、スム リャーブナカが「長男筋」、ウプヤーブナカが「次男筋」、ヤーマ シャーブナカが「三男筋」とされている。3ブナカは毎年旧暦9月 の甲午の日とその翌日にヤーマスウガンと呼ばれる行事を遂行して いるが、これが上記の「復活した祭」に該当する。牛島巌は「ヤー マスのヤーは、屋敷のこと、‥‥子孫繁栄の祭りである」と述べて いたが(3)、今回の調査でも「ヤーマスはヤー(家)を増やす」と いう意味ではないかという声も聞かれた。 ブナカという言葉の意味については当地の者にとっても不明であ るが、3ブナカのヤーモトの現世帯主はそれぞれNS氏、STe氏、 USe氏であることは確認されており、ヤーマスウガンに時にはその ヤーモトの屋敷(家屋)に各ブナカの構成員が参集し、それぞれの ブナカ単位での儀礼を行っている。 スムリャー・ウプヤー・ヤーマシャーの意味もさほど明らかでは ないが、スムリャーは「下(スムゥ)におりる(リヤー)」、ウプ ヤーは「大きな(ウプ)家」、ヤーマシャーは「ヤーマスをすると ころ」であるとの説明もなされていた。スムリャーについての説明 での「下におりる」とは、そのヤーモトの家屋から「下におりる と」来間ガー(井戸・泉)があるので、そのことと関連しているの かもしれない。1957年頃に当地を調査した植松明石も「長男といわ れるスムリヤアは戦争でこわされ、また家族も衰えてここに住んで はいないが、島の主といわれ『かあのうたき』に最も近く、つまり かつての唯一の水源地であった井戸に近く、宮古本島を眺める便利
な遠見台のそばでもあり、その伝承される地位にふさわしい場所で ある」(4)と記している。 また、伝承上の3兄弟が3ブナカの始祖にあたるわけであるが、 「3ブナカは三つの系統であり、三つのサニであるが、3兄弟であ るので結局は一つのサニになる」とも言われている。ここでのサニ は「系統」を示す語彙となり、同じ血縁を意味する当地のヒキ(5) との差異が問われるかもしれない。ともあれ、まず最初に下記に現 世帯主者が所属するブナカを示しておこう。 世帯番号 世帯主 ブナカ 世帯番号 世帯主 ブナカ 01 OU ウプヤー 46 SKZ ヤーマシャー 02 IT スムリャー 47 MKa ヤーマシャー 03 TA スムリャ 48 USe ヤーマシャー 04 BS ウプヤー 49 YMi スムリャー 05 US ヤーマシャー 50 KSi ウプヤー 06 NM スムリャー 51 OK スムリャー 07 OY スムリャー 52 GMi ヤーマシャー 08 OS スムリャー 53 KZe ヤーマシャー 09 KK スムリャー 54 n 10 OK スムリャー 55 n 11 SK ウプヤー 56 KEi スムリャー 12 OSi スムリャー 57 BHi ウプヤー 13 OZ スムリャー 58 SKo ヤーマシャー 14 OT スムリャー 59 n 15 GK ヤーマシャー 60 NTa ヤーマシャー 16 KK ウプヤー 61 SJ ウプヤー 17 SK ヤーマシャー 62 SSe ヤーマシャー 18 IM ウプヤー 63 GZen スムリャー 19 NR ウプヤー 64 SMo スムリャー 20 不在 65 KEI スムリャー 21 USa ヤーマシャー 66 TTi スムリャー 22 US ヤーマシャー 67 KKa スムリャー 23 ST ヤーマシャー 68 n 24 KT ウプヤー 69 STO ヤーマシャー 25 TT ヤーマシャー 70 KKi スムリャー 26 NK ヤーマシャー 71 KA スムリャー 27 SK ヤーマシャー 72 GKA スムリャー
28 BE ウプヤー 73 Fko スムリャー 29 NTo ヤーマシャー 74 SKi ウプヤー 30 不在 75 SSi ウプヤー 31 UYo ヤーマシャー 76 IKe スムリャー 32 n 77 STo ウプヤー 33 SKa ヤーマシャー 78 SMi ウプヤー 34 STu ヤーマシャー 79 SG ウプヤー 35 NM ヤーマシャー 80 不在 36 SI ヤーマシャー 81 Oto ウプヤー 37 KHa スムリャー 82 KSy スムリャー 38 NKi ヤーマシャー 83 不在 39 STe ウプヤー 84 不在 40 KKI スムリャー 85 不在 41 NS スムリャー 86 YTu スムリャー 42 n 87 STa ウプヤー 43 n 88 STo ウプヤー 44 BMa ウプヤー 89 NYo ヤーマシャー 45 SKa ウプヤー 表(12)ブナカの構成
(n は日本本土出身者、no.22 は no.23 と同居、no.88 は当地出身であり当地でペンショ ン経営しているが、住居は旧平良市内のため上記の73戸には含めていない。「不在」 は住民票上は居住しているが、現住していない者、あるいは現住について未確認の 者。世帯番号と世帯主は便宜上付したもの) 表(12)には計89世帯を掲載しておいたが、これら以外にも日本 本土出身者の世帯が2世帯確認されている。この2世帯と上記の表 (12)の7世帯(世帯主をnと表記)は本土出身世帯であり、その うち6世帯は日常的には不在である。また表(12)のなかの1世帯 は平良市にも住居があり、世帯番号22と23は親子であり同居してい る。世帯番号4と66も実際は同居(事実婚)しているとされてい た。 このブナカへの所属様式は一見するとおおむね父系的な血縁関係 にそっているように見え、「本分家関係」にある場合も、それが父 系的血縁関係にそっている場合は同じブナカに属する場合が多い。 しかし、各ブナカのすべての構成員(戸)が父系的血縁関係や何ら かの系譜関係によってつながっているわけではないし、3ブナカの
構成戸は集落のなかにそれぞれ散在しているので、ブナカが地縁集 団を構成しているともいえない。しかし、後述する転入者の事例や ヤーマスウガンでのそれぞれのブナカでのマスピャーという儀礼 が、ブナカの所属を確定する重要な契機となっていることは見逃せ ないであろう。 (2)ブナカへの所属と婚出者・転入者 ブナカ所属で留意される一つの点は婚出者の扱いである。婚出者 はおおむね相手の配偶者の父の属するブナカに属するものと見なさ れているが、これはブナカを世帯単位での所属集団と見た場合であ り、これがどの程度の規範性を有しているかは微妙な問題をはらん でいるように思われる。例えば、既述のような「事実婚」夫婦の場 合、一方の配偶者の属するブナカのヤーモトではそれぞれの所属す るブナカは異なるとされていたが、当事者(妻)は「結婚したら相 手のブナカになる」と述べており、若干の曖昧さが見られる。 植松明石もこの点については、「嫁はヤアマスの時婚家のブナカ に出席する。聟養子の場合は女方のブナカに入るわけだが、その子 は両方のブナカにマスピアを出すという。ただし父方のブナカには 一回である。また神名によって母方のブナカを拝むこともあるとい う」(6)としている。聟養子の場合でも子は父方のブナカが関与す ることや「神名によって母方のブナカを拝む」ということは、嫁や 聟養子が相手方のブナカに入ったとしても、生まれてきた子のブナ カについては、少なくとマスピアーといわれる儀礼の段階では両属 的ということになろう。今回の調査においても、母方のブナカに ウートートー(お祈り)するのは「気持ちの問題だ」と言われてい た。 次に転入者の場合を見てみよう。前述のように当地への転入者は 少なくなかったが、彼らはブナカに所属しているのか、所属してい るとすれば、それはどのようにして決められたのであろうか。下記 に若干の事例をあげることにしたいが、その場合、最近の世帯単
位、あるいは単身での日本本土からの転入と、それ以外の転入の場 合を分けて考えてみる。まず最初に後者の転入例を示そう。 (事例13)のAは宮古本島の上野村出身で当地出身者Bとは島外 で知り合い結婚し、約20年前に夫婦で当地に戻ってきた。Bの生家 はすでに転出しているが、生家(実父)がスムリャーブナカで (事例 13):(S)はスムリャーブナカ (分) A ▲=●B (S) △ (S) (Bの生家・転出) ●=△ (S) △=● (S) ( 事例 14):(Y)はヤーマシャーブナカ C△=○ △ F△ G △=○ △ (U) ▲=● D (Y) △ ○=△ (Y)転出 E ▲=● (Y) (事例 15):(Y)はヤーマシャーブナカ、 (U)はウプヤーブナカ C△=○ △ F△ G △=○ △ (U) ▲=● D (Y) △ ○=△ (Y)転出 E ▲=● (Y)
あったので、Aもスムリャーブナカに所属することになった。(事 例14)のCも島外の出身者であったが、その妻は当地出身であり生 家(後に転出)がヤーマシャーブナカであった。Cの子Dも一時他 出していたが約10年前に戻ってきているが、母親の生家と同じヤー マシャーブナカに属している。 (事例15)ではEの母の父Gとその兄Fは下地町上地の出身で 「ツカイビト」として当地の「ヤーマシャーブナカの家で働いてい た」。その後Gはウプヤーブナカの女性と結婚したが、その「働い ていたところから財産を分けてもらった」という。G夫婦には息子 がいないので、娘に婿養子をとったが、その娘夫婦の子が現在のE であり、Eはウプヤーブナカではなくヤーマシャーブナカに属して いる。 さらに前章(本誌25巻1号参照)での(事例3)・(事例4)も転入 者の事例であった。その(事例3)でのAは島外から転入し、当地 出身のBと結婚したが、Bの父がウプヤーブナカであったので、A やその子もウプヤーブナカに属することになった。しかし(事例 4)でのA・Bは夫婦での転入であり、その子Cの妻(Eの母)の 父はヤーマシャーブナカであったと推測されるが、現在の世帯主E はスムリャーブナカに属している。 これらの(事例4)や(事例15)からは、転入者の属するブナカ が必ずしも当地出身者である配偶者のブナカであるとは限らず、 「財産分与」を受けた者のブナカに属する傾向を読み取ることも可 能かもしれない。しかし、この傾向は前章の表(11)での農地分与 による「本分家関係」の場合(NO.24)、「本家」(表(12)の世帯番 号41)と「分家」(同世帯番号87)のそれぞれの所属ブナカがスムリヤ ーブナカとウプヤーブナカであるという事例とは矛盾してくる。 次に最近の日本本土からの転入者の事例をみることにしたい。転 入者A(男性・1969年生まれ )は単身で1996年に転入し、借家に 居住していた(2004年9月現在では前年9月の台風で家屋が崩壊し たので転出している)。彼の話では「ブナカの祭に一度だけ参加
したに過ぎないので、自分では入っているとは言えないと思う」 と述べていた。転入者B(女性・1970年生まれ・2000年に転入)も「昨年 (2002年)は祭の踊りに参加したが、今年は参加するかどうか決め ていない、多分参加しないだろう」と述べており、ブナカへの所属 意識はさほど強くないようである。 これに対して1999年に世帯(夫婦と子)で転入したC(妻 1964年 生まれ)は「転入してから、STさん(日本本土出身者で当地に婚入・女 性)と知り合いになり、STさんに誘われたこともあり、こちらか ら『入れて下さい』と言った。ウプヤーブナカにしたのは本土から の人が多かったから」であるという。転入者D(女性 1965年生まれ) は現在2人の子とともに当地で生活しているが、ブナカへの所属に ついては「ムラから割り当てがある」と述べていた。さらに、2002 年頃に転入したE夫婦の場合は、その妻がスムリャーブナカのヤー モトであるNS氏の妻と「仲がよかった」ので、現在はスムリャー ブナカに属している。 これらに対して、ウプヤーブナカのヤーモトは、転入者Aはヤー マシャーブナカに、CとDはウプヤーブナカに属していると説明し ていたが、転入者Bについては言及していなかった。C・Dやもう 一人の転入世帯主F(1954年生まれ、夫婦と子での転入)のウプヤーブナ カへの所属、さらにかつての当地外在住者のブナカへの加入につい ては、以下のような説明をしていた。 (Ⅰ)「昨年『祭を一緒にやらないか』と声をかけたので、彼ら も参加するようになった。Cの夫とFはマスピャーでブナ カの一員になった。Dは女性のためマスピャーには呼ばな かったが、祭の時の『下働き』をしたのでブナカの一員と して認めた。」 (Ⅱ)「かつてIKという名前の人物が来間にいた。彼の娘の夫 の名はTHで、宮古本島に住んでいた。TH自身はブナカ に加わる資格はなかったが、彼が『是非に』と言うので、 マスピャーによってウプヤーブナカに入った」
この(Ⅰ)の説明によると、ブナカの一員と血縁関係がないCの 夫とFは、マスピャーという儀礼を経てブナカに帰属した。女性で あるDについてはその加入の指標が若干曖昧であり、そのことがD 自身の「割り当て」という受け身的な説明を導き出しているのかも しれない。同様のことは(Ⅱ)の説明によってもうかがわれる。さ らに(Ⅱ)では、Cの夫やFと異なり、当地に居住していないTHで あってもマスピャーを行うことによってブナカの一員になり得るこ とになろう。しかし、この場合もTHの妻が当地出身であり、その ことがブナカ所属を希望した理由の一つであることは推測されよ う。 ともあれ、(Ⅰ)と(Ⅱ)の説明からは、ブナカ加入にはヤーマ スウガンでのマスピャーの有する意味が小さくないことが示唆され てこよう。しかしながら、他方でどのブナカに帰属しているかとい う問題は、日常生活のなかでは住民(構成員)の間でさほど問題に なることはない。つまり、ブナカの構成員性が婚姻規制や居住規 制、あるいは他の何らかの日常的な規制や構成員間の相互依存関係 に関与しているようには思われない。 ある男性は「現在は平良市に出ているが、ヤーマスに行く限りは ブナカの一員であると認められている」と言っていたが、ブナカの 構成員性が顕在化し、且つ新たな構成員を承認する時空間が、各ブ ナカのヤーモトで行われる毎年1回のヤーマスウガンである。そこ で、次にはこのヤーマスウガンの様子を、マスピャーの行われる日 を中心に述べよう。 (3)ヤーマスウガン 前述のように、来間の「島建て伝説」において言及されている 「豊年祭」がヤーマスウガンと呼ばれる行事であり、これは毎年旧 暦8月の甲午の日に開始される。往時はその日から3日間続いたと も言われているが、現在は2日間のみである。この最初の日はダツ マツと呼ばれ、「子供の健康祈願、すくすくと育つようにというウ
ガン」であり、既述のマスピャーもこの日に行われる。2日目がヤ ーマスと呼ばれ、各ブナカや各郷友会(平良郷友会など)単位での 踊りが挙行される。2日目の最後は当地のザーと呼ばれる「雨乞い 座」に全ての踊り手が集まるが、このことは三つのブナカが合体す るということを表していると説明された。 このヤーマスウガンは、一方では既述の御嶽にツカサ等がこもる ウガンとは関連しないと言われている。しかし、実際には御嶽にこ もっていたツカサ等が当日の朝に出てくることによってヤーマスウ ガンが開始され、ツカサが出てこないと開始されないとも言われて いる。 ヤーマスウガンについてはすでにいくつかの報告書もあるが、本 稿では筆者が参与観察できた2003年のヤ-マシャーブナカでのヤー マスウガン(1日目)の経過を中心にして記述していく7)。 2003年は新暦の9月18日にヤーマスウガンが行われた。ヤーマ シャーブナカのヤーモトでは午前8時頃に開始された。当該家の家 4 3 2 1 ○ ○ ○ ○ (サス) 1 △ ▲ ▲ ↓ ↓ 2 ○ ○ 3 △ △ ○ 窓 窓 4 △ (女性) 板 の 間 5 5 △ ×→ ×→ (男性) ↓ ← 玄関 (板の間) 窓 図(1)ヤーマスウガン(ヤーマシャーブナカ)の会場 (---→は座順を示す。×はポーチャ、▲はサス、→は人の向きを示す。△・○ に付した数字は年齢順を示す。
屋内での会場では下記の図のような配置で男女がほぼ年齢順に、男 は右回り、女は左回りに着席していた。この会場の内外には外部の 見学者も散見された。 このブナカでの2003年のサスと呼ばれる役職者はUS氏(当地在 住)とSI氏(平良市在であるが、当地に家屋はある)であった。 サスは構成員(男)の年齢順に1年で一人づつ交代していくが、最 近は「人がいないので」2年で交代するという。サスと高齢の出席 者(当地在住者)はおおむね着物を着用している。この時の最高齢 者は当地外に在住している者であり、次にNK氏(1925年生まれ)、 GM氏(1928年生まれ)、SK氏(1929年生まれ)が続いた。女性の最 高齢者で図(1)の「1○」に着席していたのは元ツカサのSA女 (1912年生まれ)であった。この当日の朝まで「東の御嶽」と「西の 御嶽」にこもって祈っていたツカサとユージャスと呼ばれる女神役 も、それぞれのブナカのヤーモトに集まる。図中のポーチャとは、 ヤーマスウガン全体の「運営責任者」に該当し、各ブナカで選出し ているが、このブナカでは比較的若い男性2名からなり、当日の会 計も担当するという(8)。 当日は午前8時頃から、最初に出席者全員でヤーマスウガンの祈 りをする。すなわち、サス2人が「祈りの歌」であるユウノスの最 初の一節を歌うと、次に全員がそれに続いて、「エーヤカ、エーヤ カ」というはやし言葉を唱和する(9)。サスが一節歌い、唱和する ごとに、男の最高齢者からはじまり出席者一人一人にサスやポーチ ャがンツ(神酒)をついで回る。これをサラピャーと言うが、右回 りに全員についで回ると、その後再度サスがユウノスを歌い、最後 にサスの2人が盃と神酒を入れた器をもって踊りながらその場から 退場する。 その後マスムイが行われる。これは昨年のヤーマスウガンから今 年のそれまでに生まれた子を祝う儀礼である。その対象となる子 はこのブナカ構成員の血縁関係者である。従って、構成員の娘の子 も含まれる。ポーチャが「誰それの息子、あるいは娘の子」と紹介
— 157 — し、その親が出席者に泡盛をついで回り、魚缶(往時は刺身)等を 配る。親が出席できない場合は当地在住のその血縁関係者が代理を つとめる。この時のマスムイは7名について行われたが、そのうち の2例について以下の図(2)に示しておこう。 (世帯番号23)のAの姉は那覇市に婚出していたが、その孫が誕 生したので、Aが代理者となってマスムイを行った。(世帯番号 38)のBの息子は八重山(石垣島)に他出しているが、その子が生 まれたので同じくマスムイを行った。この事例でも知れるように、 マスムイは当地在住者でなくとも、さらには父系的血縁関係がなく とも、すなわち母系的血縁関係者であっても、そのブナカでのマス ムイ対象者となる。従って、あるブナカ構成員の子がそのブナカで マスムイをするとともに、その母親の父が属する別のブナカで再度 マスムイをすることも可能であり、それは「気持ちの」問題である とは、当地在住の女性の言葉である(10)。 また、1戸(1世帯主)で2人の子(孫)のマスムイを同時に行 うことはないとされている。そのような場合は、「親戚の家で一方 の子(孫)のマスムイをやってもらう」という。このことの意味す るところは不明であるが、マスムイを行う者が必ずしもその子の親 や親の親である必要はないことは(世帯番号23)の事例からも知れ (世帯番号38) (世帯番号 23) ▲A (那覇に婚出)○⇒△ B ▲=● □ △=○(八重山在) → ■ ■ (マスムイ対象者) (マスムイ対象者) 図(2)2003 年ヤーマシャーブナカでのマスムイ対象者
るところである。他方で、他出した子の子のマスムイの場合、他出 した子が男の場合は「酒と刺身」、女の場合は「酒のみ」を出すと も言われており、ここに幾分かの男女間の差異化がはかられている と見ることも可能かもしれない。 このマスムイに次いでマスピャーが行われる。これもポーチャに よって紹介され、その父親が泡盛を出席者についで回り、魚缶(往 時は刺身)を配る。この時マスピャーをしたのは1名のみであっ た。マスムイは男の子でも女の子でもなされるが、マスピャーにつ いては成人男性に限定されおり、これをなすことによって各ブナカ の正式な構成員と見なされることになる。 マスピャーがすむと、出席者は三々五々帰るが、その間に島外の 夫婦であるが、「子どもがはやくほしい」と願う夫婦が訪れ、出席 者に挨拶し、やはり泡盛をついで回る。2003年のヤーマシャーでの ヤーマスウガンでも1組の島外の夫婦が会場を訪れていた。 このヤーマスウガンにかかる経費はポーチャが徴収する。その 金額はヤーマスウガンの4,5日前に各ブナカで構成員を集めて決 める。ヤーモトとポーチャを除く各構成員間の均等割であるとい う。 1日目の儀礼はこれで終了するが、今回のサスの一人や出席者の 最高齢者が当地外在住者であることから推測できるように、このブ ナカの構成員性は当地在住如何にこだわらない。他出しても当該者 がこれに出席する意思があれば、ブナカはそれを拒むことはないの である。それどころか、上記の子どもを望む夫婦のように構成員と の血縁関係がない島外者であっても、さらには「単なる見学者」で あっても、ヤーマスウガンの会場に座し、参加することは可能で あった。
5.若干の分析
本節では以上の論述を踏まえて、若干の分析を行いたい。来間島での家族・親族を記述するなかで、注目される点の一つはその居住 世帯の流動性ではなかろうか。この流動性は単なる転出入の多さを 意味するだけではない。この転出世帯・転入世帯の多さはそれだけ 旧来からの定住世帯の相対的少なさを意味することになるが、さら に一度転出した者がその10年、20年後の戻ってくる例も少なくない のである。これらを含めた過去1、2世代での「分家」世帯やそれ 以外の分出世帯を合算すると現住世帯の4割以上にあたることは留 意されるべき現象であろう。 このような居住世帯の流動性、特に最近の転入者や「戻ってく る」者の存在は、既述のごとく(本誌25巻1号参照)来間大橋の完成 が少なからず影響していることは否めないない。スムリャーブナカ のヤーモトの現世帯主(1942年生まれ)も、30歳の頃に他出し、来間 大橋完成後に帰島している。 帰島者の場合は、確かに転出前の屋敷(家屋)が残っている場合 もあるが、そうでない場合や全くの転入者は当地での空屋を利用し ている。転出者がいるから空屋が存在し、それ故に転入も可能とな るとは言えるであろうが、それ以前にそういった転入者を受け入れ る土壌が当地にあったとは言えまいか。戦前からの当地への転入者 (戦前の多良間島からの流入等)の存在はその一つの証左となるで あろうが、それ以上にブナカの存在が大きな影響を与えていると言 えるのではないか。ここには地縁集団ではないブナカの「両面的」 な性格が関係していると思われる。 すなわち、一方では当地居住者(世帯)を3ブナカのいずれかに 分属させる傾向が強く、最近の転入者であっても比較的長期にわた って居住している者(世帯)の場合は、各ブナカへの所属を強く勧 め、且つ当事者の意向にかかわらず所属しているものと見なしがち である。つまり、来間島内居住者(世帯)は何れかのブナカに組み 入れられることによって、対外的な封鎖性は達成されているが、対 内的に3ブナカの何れに所属するかに関しては、厳格な指標がある わけではない。
他方では、転出等により当地に居住していない者であってもブナ カの構成員であることには変わらず、非居住がヤーマスウガンでの 参集に障害になることはない。前述のヤーマシャーブナカでのよう に、各地の構成員はヤーマスウガン時には各ヤーモトに集まってく る。そして、その年齢によっては非居住者であっても最高位の座順 に位置したり、サスを担うこともあり、この点では対外的な開放性 がみられる。この開放性と先の封鎖性が相反することなく、各ヤー マスの屋敷(家屋)でのヤーマスウガンは行われている。 ヤーマスウガンは日常的には潜在化しているブナカが顕在化する 時空間であり、そこにおいて構成員性の確認とマスムイやマスピャ ーといった新生児や新構成員に関する「通過儀礼」が挙行されるこ とになる。このマスピャーが男に限定されていることは、前章での ウプヤーブナカでの転入者の組み入れについての(Ⅰ)の説明から 明らかである。他方でそれに先立つマスムイでは、その対象者の性 別にはこだわらず、そのうえ構成員との間に父系的血縁関係がなく とも対象者になりえた。さらに、このヤーマスウガンのサラピャー の場への参集には島外者でも、また居住者と何の関係もない者でも 可能であった。つまり、ヤーマスウガンのなかでの最初のサラピ ャー、その後のマスムイ、およびマスピャーは、同一日に同一場所 で行われるが、その対象者が参集者、新生児、新構成員と限定され ていく儀礼過程であるとも言えよう。 この過程は対外的な開放性によって参集者を包摂した後の「絞り 込み」になるが、実際には当該儀礼を行うことによって、むしろそ の対象を創設していくのであり、その意味では当該儀礼は「構成的 規則」(11)ということもできる。すなわち、最初のサラピャーはい わば最初の「開かれた儀礼」でありブナカ構成員やその関係者に拘 泥しておらず、参集した全員にンツ(神酒)を回すことによって、 ヤーモトの家屋内のその部屋がヤーマスウガンの場として設定され る。その場の開放性はそれ以後の儀礼が同じ場で行われることに よって継続されることになる。
次のマスムイはブナカ構成員の子又は子の子(孫)を対象とする 儀礼であり、ブナカ構成員による構成員の子孫の紹介としての様相 を帯びているが、その紹介による「ブナカの子」の創出である。既 述のように、この子や孫は当地在住如何は問わず、必ずしも親や親 の親による紹介とは限らないうえに、植松明石が指摘していたよう に複数のブナカでのマスムイもあり得る。サラピャーへの参与がい わば地縁、血縁ともに不問であるとすれば、マスムイは地縁は問わ ないが血縁を前提としている。しかし、その血縁関係は3ブナカの いずれかの構成員との血縁関係でも許容されていた。つまり、マス ムイは3ブナカという「一つのまとまり」(後述参照)と新たに生 まれてきた子の「つながり」を創設する儀礼であった。 マスピャー対象者はこのマスムイ対象者のなかでさらに限定され たブナカ構成員を創り出す儀礼であるが、ここでは上記のように転 入者をも含むこともあった。この現象を最近の変化と捉えることも 可能かもしれないが、本稿ではむしろブナカがもつ開放性のあらわ れとして捉えたい。すなわち、先のヤーマスウガンの場としての開 放性は、ブナカの構成員性が転出後であってもその場への参集によ って認知・確認されるという開放性である。こういった対外的な開 放性は構成員性の指標の伸展を伴うが、このことはブナカの本来的 な性格ではなかろうか。 すなわち、血縁や地縁を契機とする構成員性はブナカにとっては 二次的なことであり、重要なことはサラピャーからはじまる儀礼で あり、3ブナカの相互関係ではかろうか。既述の「3ブナカは三つ の系統であり、三つのサニであるが、3兄弟であるので結局は一つ のサニになる」との言説に表れているのは、ブナカの始祖としての 3兄弟は一つという観念である。これは3兄弟の相互関係、「存 在の相互性」を示し、3兄弟は「お互いの存在にとって本来的な 人々」(12)ということになり、ここに「一つのまとまり」が観念さ れていることになる。 こういった兄弟関係は既述の「島建て伝承」に由来するが、その
伝承によれば、3兄弟こそはこの島に来住した「最初の転入者」で あった。彼らの来住前に居住していた元の住民である在来者はほ ぼ消滅し、その後の住民はこれらの兄弟の子孫ということになる のだが、そのうちの長男の妻は在来者の娘であり、次三男の妻もそ の娘の娘であった。つまり、3兄弟の末裔は3兄弟のサニだけでな く、母方からは在来者のヒキを継承していることになるが、そもそ も3兄弟自身が転入者であり(13)、彼らからブナカが生まれてきて いるとすれば、ブナカはその初期の段階で転入者を受け入れる、あ るいは「異種混交」という対外的開放性を有していたことになろう (14)。そうであれば、先の「一つのまとまり」は転入者と在来者が 融合した「まとまり」でもあるということになる。 既述のように、最近の転入者を除く当地在住のヤーの間では過去 2、3世代での直接の分家(パズリファ)や親族関係以外は確認さ れていない。しかし、前稿(25巻1号)でのコーホート別の通婚圏の 推移からは、それ以前の世代における村内婚率の高さや各ヤー間の 親族関係の錯綜が想定され、ウチュザやカタイと呼ばれる関係が多 重に形成されていたと思われる。そうであれば、過去2、3世代以 前の親族関係は順次忘却され、新たな親族関係が生み出されていく ことが繰り返されていたのであろう。 そういうなかで、3ブナカの3ヤーモトが現在まで継承されてき たのは、毎年ヤーマスウガンがそのヤーモトで行われてきたことが 大きい。ヤーモトの確定がその儀礼を行う場を用意し、そこでの儀 礼遂行が毎年ヤーモトを確定、ブナカを構築するという相互関係が みられるのだ。 そして、当該儀礼が上記のように構成員性の確認と新たな構成員 の創設をもたらし、2日目のザーでの踊りにも象徴されている3ブ ナカの合体、すなわち「一つのまとまり」を創り出していたとすれ ば、3ブナカのヤーモトの始祖の続柄、特に次・三男の区別はさほ ど重要ではなく、時としてそれが入れかわることもあり得るという ことになろう(15)。
注目されるべきことは、ヤーモトの一つが一時期島外に転出して いたが、その間もヤーマスウガンは継続されていたことである。ヤ ーマスウガンの時にはそのヤーモトの当主も島に戻り、その屋敷 (家屋)で儀礼が行われていたのであるが、このことは毎年旧暦の 8月申午の日に当地のヤーモトに参集し、ヤーマスウガンさえ行え ばブナカは存続できるということになる。よって、ヤーマスウガン 以外の様々な日常生活の変化(住民の流動性や親族関係の展開・消 滅など)にもかかわらず、ブナカは継続することができたのであ る。 このようにブナカの継続態様を考えると、ブナカは確かに日常的 な地縁集団ではないが、ヤーマスウガンの行われる場であるヤーモ トの家屋(屋敷)は来間島において存続してきたのであるから、そ の点でヤーマスウガンとヤーモトは来間島という「場」と密接に結 びついていることになる。この結びつきによって転入者をもヤーモ トに呼び、ヤーマスウガンに参集させる傾向を生む。来間島やヤー モトが「ともに集う場」(16)となっており、「集う」という行為を前提 としてブナカ構成員にな・る・という「doingな関係」が見られる(17)。 転出者の場合は島内に親族が居住し続けている場合や自らの屋敷 (家屋)がそのまま存続している場合もあるので、各ヤーでの冠婚 葬祭時にも帰島することもあり得る。また、現在では島外に居住地 がありながら、既述のようにほぼ毎日島内の畑に通っている者もい た。しかし、ヤーマスウガンでの転出者の帰島はこういった場合と は異なり、それぞれのヤーモトへの参集という形での回帰である。 居住者と同様にヤーモトに参集し、ヤーマスウガンに参加すること が求められているのであり、既述のようにその参加によってその場 でブナカ構成員性が創設・確認される。しかし、この構成員性がヤ ーマスウガン以外の日常生活で作用することはほとんどないのであ るから、ブナカはそういった場や時間においてのみ顕在化するとい うことになる。 このようなブナカの存在と各ブナカでの構成員間の親族関係はど
う関連するのであろうか。再三言及したが、ブナカの3ヤーモトと 他のヤーとの系譜関係は不明であるが、3ヤーモト以外のヤーの本 分家関係や血縁関係がその所属するブナカを決めるに際して無関係 であったわけではない。また、マスムイ対象者は当該ブナカ構成員 と全く親族関係がない者ではなかったことにも注意することが必要 である。すなわち、彼(女)らはその構成員とはなにがしかの血縁 関係を有しているのである。この父系に拘泥しない血縁関係は当地 のヒキという語彙でも示されていたが、そういったヒキに関わる者 のなかでマスムイ、マスピャー対象者が順次絞られていった。しか し、この「絞り込み」とは別に、既述の転入者はマスピャーを経る ことによって構成員になり得た。そうであれば、この「絞り込み」 はブナカの構成員性とは別次元での現象ということになる。 この「絞り込み」は、構成員の双系的血縁関係者から父系的血縁 関係者への「絞り込み」であった。こういった「絞り込み」は父系 的なイデオロギーを形成していくことになる。当地の具体的に認識 され、アクショングループとして機能する親族関係がおおむね2、 3世代ごとに生成と忘却をくり返すなかでは、これは当該のヤーの いわば観念的な系譜(家筋)の形成をもたらそう。そのような系譜 (家筋)の彫塑は観念的、父系的である故に3ブナカの3兄弟、そ の末裔である3ヤーモトという伝承とも結びつきやすい。そして、 それが伝承と結びつく故に、日常生活の変化に影響されにくいこと になる。 従って、このことが逆にマスムイとマスピャーの差異化を益々増 進し、日常生活の変化を甘受するマスムイ対象者とそれを甘受しな いマスピャー対象者を分離する。前者についてはその変化に柔軟な 対応をなすゆえに、「気持ちの問題」次第で母方のブナカのマスム イにも参集することにもなる。そして、こういった前者の対応に よって、後者では日常生活の影響は遮断され、結果として父系的関 係は維持されやすくなる。ブナカ構成員間の親族関係に父系的傾斜 が見られるのは、こういったマスムイとマスピャーという二段階の
儀礼がある故であると思われるが、この点においてブナカの存在と その構成員の親族関係の相貌との関連性が見られるのである。
おわりに
本稿では来間島での家族・親族関係を概観し、最近の転出入やパ ズリファと呼ばれる分家の多さ、おおよそ2、3世代ごとに転変す る親族関係や通婚圏の推移、戦前の転入者の存在、ブナカのあり様 等をみてきた。これらからはかつての当地での錯綜する親族関係と ともに、外部に対して開かれた土壌、そしてそういった土壌の醸成 とも関係するであろうブナカの存在を指摘することができる。 ブナカは当地の「島建て伝承」に由来するが、その伝承では当地 の始祖とされる3兄弟自身が「最初の転入者」であった。その転入 者とそれ以前の在来者の娘との婚姻から現在の当地の住民が生まれ たのである。このことは転入者が転入者として存続してきたのでは なく、在来者と結びつき、子孫を生みだしてきたことを示してい る。つまり、外からのヒキや「血」を排斥することなく、受容しつ つ自家薬籠化してきたのであり、外部に開かれつつも、外部の「異 物」を内部に組み入れ、溶解し封鎖するというブナカの「両面性」 を示していることになろう。そして、このブナカはヤーマスウガン において顕在化する。「島建て伝承」がブナカの存続を担保し、そ のブナカは島外からの転入者の加入を許容しつつ、年一回顕在化す るが、その限りでブナカは来間社会を成り立たせているのである。 そうであれば、この伝承を来間社会での「法的慣行」としてとり 上げることも可能ではなかろうか。「法的慣行」とは「所謂『生き た法律』に相當するものであるから、元來固定不動の形に於て存在 するものではなくして、現實の生活と共に流動的に生きて」いる が、同時に「社會諸關係を現實に規律し成り立たせている法規範で ある」(18)。流動的な社会に対しては柔軟な対応が必要であるが、 その柔軟な対応のなかで継続的に「社會關係を現實に規律し成り立たせ」るためには、その流動性に対応する「新たな行動形態」を創 出していくことが必要である(19)。 住民の転出入が続くなかで、ヤーマスウガンを遂行することが、 転入者を組み入れたブナカを、そしてその限りでの来間社会を毎年 創出してきたのである。現在の来間社会に在住することとブナカ構 成員であることが等置されるわけではないが、前者は後者の部分集 合になることによって、ヤーマスウガンでの儀礼、特に新生児を紹 介するマスムイと新たな構成員を創り出すマスピャーが、ブナカ構 成員である当地居住者間の生成・消滅する親族関係に一定の影響を 与えてきた。 当地での過去2、3世代を限度とする親族認識に比すれば、3ブ ナカの3ヤーモトは揺らぐことなく継続してきた。3ヤーモトは伝 承上は3兄弟から始まっているので「一つのサニ」であるとの言説 も聞かれた。3ヤーモトは父系的血縁関係によって連なるが、各ブ ナカは3ヤーモトとそこからの父系的なパズリファで形成されてき たわけではない。各ブナカでの2、3のヤーの間での系譜関係が見 られたとしても、それが各ヤーモトに収斂しているわけではないの である。 3ヤーモトの3始祖以外では、前稿(本誌25巻1号)での共同作業 事例やウチュザやサニ、ダニなどの親族語彙の用法からうかがわれ るように、双系的親族関係が状況に応じて顕現してきている。確か に、マスピャーというブナカ構成員の創出行為では父系的イデオロ ギーが特筆されるが、そういった儀礼や始祖の3兄弟という伝承以 外においては、つまり日常生活のレベルでは父系に拘泥しないので あるから、何らかの系譜関係はそのレベルでは形成されにくい。 それ故に、日常生活やその変動は双系的親族関係で対応し、当地 のダニのような民俗語彙の用法の揺らぎも見られることになる。そ の一方では、3ヤーモトでのヤーマスウガンという伝承や儀礼は日 常生活とは切り離され、その影響があったとしてもマスムイという 緩衝帯において吸収されるので、次の段階でのマスピャーでの父系
的関係、ブナカ構成員での父系的傾斜が創出されやすくなったと言 えよう。 ヤーマスウガンでの儀礼が象徴するのは3ブナカの一体性であ る。この一体性は確かに儀礼上のものであるが、この一体性がヤー マスウガン時には来間社会にも及ぶ。つまり、ヤーマスウガン以外 での日常生活では他の社会的・経済的要因等による流動性を帯び ることはあり得たが、毎年のヤーマスウガン時にブナカ構成員が島 外からも参集することは、その時だけは来間島という「ともに集う 場」において3ブナカと来間社会が合致していることを意味する。 そうであれば、当地の「島建て伝承」やそれを背景とするヤーマス ウガンは、ブナカを媒介として「一つのまとまり」を年に一度構 築・創出するという形で来間社会に箍をはめ、その意味で来間社会 を成り立たせている「法的慣行」と言えよう。 このように来間社会を理解できるとすれば、このレベルではヤー や家族は来間社会の構成単位とはなりにくいということになろう。 勿論、日常生活のレベルでは各個人はどこかのヤーに属しているこ とが多いが、ヤーマスウガン時はそれとは異なったレベルでの空間 を出現せしめ、個人、「ブナカ」(20)、来間社会を相互関係に組み込 んでいる。各個人はその時、その場に集うことによって「ブナカ」 に組み込まれることによって来間社会を成り立たせているのであ り、そこではヤーや家族への各個人の分属の比重は軽くなろう。従 って、転入、婚姻による所属するブナカやその変化に関しては、幾 分曖昧な指標や応答が生じることにもなる。 今後の来間社会の行方についての容易な予測は控えたいが、転出 だけでなく転入、あるいは一度転出した者の帰島等が見られること は指摘してきた。こういった現象がブナカの存続には直接影響を与 えてこなかったとしても、本稿ではほとんど言及しなかった「東の 御嶽」と「西の御嶽」等での行事やその神役の継承についてはどう であろうか。御嶽での祈り(ウートート)は年1回ではないし、当 地では多くの神々が何人もの神役によってまつられている。この御
嶽や神役に関する考察、あるいは御嶽とブナカの関係を明らかにす ることによって来間社会の様相がより鮮明になると思われるが、こ れらついては今後の課題としておきたい。 (1)森謙二「来間社会の二元的構造とブナカ」『沖縄における近代法の形成と現 代における法的諸問題』(科学研究費補助基盤研究(A) 研究成果報告書 課題番号13302001)、328 頁 (2)この伝説の内容は「ヤーマス御願のはじまり」『下地-2001年下地町勢要 覧』(下地町役場企画課)8頁~9頁を要約したものである。しかし、当地に は以下のような、もう一つの別の種類の「島建て伝承」がある。 「昔宮古島兵乱の時に、川満村生まれの男くちやけという者と其の妹てだ まつという二人は、戦いのため村落を打ち落とされ、兄のくちやけは来間 島に泳ぎ渡り、村の後方にある岡の上に登って火を立てて合図をして居た 所、妹てだまつは、大嶽という嶺に上って南方を見た所が来間島に煙が立 ち上って、人の住居があるように思われたので,島に泳ぎ渡った所、はか らずも兄くちやけに遇い喜びましたが、何分にも無人の小さい島で食糧や 水もなく困っておりましたが、或日後の山に登り飲料水を求めましたが、 一羽の雀が翅をぬらして飛び立ってきたのを見て、峯の麓に水のあること を知り、それから二人は夫婦になって村繁栄したと言伝しております。」 (大林太良「琉球神話と周囲諸民族神話との比較」『沖縄の民族学的研究 -民俗社会と世界像-』日本民族学会編 1973、p.327~p.328より引用) (3)牛島巌「琉球宮古諸島の祭祀構造研究の問題点-来間島の祭祀組織を中心に-」 (『史潮』106号、1969)、馬淵東一・小川徹編『沖縄文化論叢 第三巻 民俗編 Ⅱ』(平凡社 1971)所収、335頁 (4)植松明石「先島の御嶽をめぐって」(『民俗学会報』24、1962)馬淵東一・ 小川徹編 前掲書所収、318頁 (5)ヒキに関して比嘉政夫は「《ヒキ》は本来(血を引く、系統を引く)という ことばと無関係ではないと考えられるが、現在は、血縁または血縁以外の単 なる個人間のつながりを意味する(略)ことから、父系血縁のことまで広い 意味用法をもっている。/また《ヒキ》は血縁、非血縁のつながりという 概念だけでなく、それによって構成される集団を意味することがある」比 嘉政夫『沖縄の門中と村落祭祀』(三一書房 1983、22頁)としているが、 本稿では前段の「血縁」の意味で用いる。 (6)植松明石前掲論文 319頁 (7)ヤーマスウガンについての報告は少なくない。波照間永吉は「来間島のヤー マスィプナカは旧歴九月、初辰の日から末の日までの四日間にわたって行わ れる、一年の豊穣感謝と来る年の豊穣祈願の祭儀である」とし、1日目の 夜に「アガイヌウタキ(東の御嶽)」と「イイヌウタキ(西の御嶽)」で各
5人の神女(「ツィカサ」、「ユ ージャス」以下の計10人)が夜籠りをする ことからはじまると記している(波照間永吉『南島祭祀歌謡の研究』砂子書 房 1999、441頁)。沖縄国際大学小熊研究室の『みんぞく 第6号 宮古 郡下地町来間島調査報告書』(1992)では、「ヤーマス御願は、ツカサとユ ージャスという女司祭者が、島の東西にある御嶽で、5人づつ(計10人)で お籠りすることからはじま」(同120頁)り、「祭りは3日間」(同119頁) とされている。これらに対して、前掲の植松末論文や牛島論文では2日間と している。 (8)スムリャーブナカでは、名前を書いたコヨリを盆にのせ、その盆を振って落 ちたコヨリの回数によって、当該年のポーチャを決めているという。 (9)波照間前掲書460頁以下には、1988年の現地調査時に採取したされる、この 時の歌詞が掲載されているので、その一部を引用しておこう。 「きゅーぬ ぴぃぬ 今日の日の くがにびぃざ にがまい 黄金日を願い給い ぴゆい とぅり 日撰り<吉日>を取って いらびぃとぅり うしゃぐでい 選び取って差し上げよう ユナウーリャカ ユナウーリャカ エイ ヤカ エイ ヤカ やすぃつぃぬすぃ 屋敷主 ゆぱうにや にがまい 四方根を願い給い やうかまや 家お竈<神名>を みるまいや にがまい ミルマイを願い給い 」 (10)同日に行われたウプヤーブナカでは5名のマスピャーが行われ、その名前を 記した半紙を会場に掲示していた。 (11)サールは規則を「統制的規則」と「構成的規則」に区別し、前者は「既存の 行動形態をそれに先行して、またそれとは独立にそれを統制する」が、後者 は「たんに統制するだけでなく、新たな行動形態を創造(create)したり、 定義したりするものである。たとえば、フットボールやチェスの規則は、フ ットボールやチェスの競技を統制するのみではなく、いわば、そのような ゲームを行う可能性そのものを創造する」(サール『言語行為』坂本百大・ 土屋俊訳 勁草書房 1986、58頁)としている。サールの「構成的規則」を 引用している浜本満によれば、「『Xすることをもって、Yとする』という 形で言い替えられるような規則である。‥例えば『結婚する(Y)際には婚 姻届を出さ(X)ねばならない』というのは典型的な構成的規則の表現であ る」とする(浜本満『秩序の方法』弘文堂 2001、138~139頁)。 (12)Marshall Sahlins, “What Kinship Is-And Is Not”(The University of Chicago
Press, 2013), p.2
(13)前注の(2)で引用したもう一つの「島建て伝承」においても、最初の兄妹 は川満村出身という転入者であった。この伝承では来間島にはそれまでは住
んでいる者はおらず、転入者のヒキが継続されることになる。本文に引用し た伝承とのもう一つの共通点は、川満村出身ということであるが、このこと によって始祖を川満村に求めるという志向は見られない。むしろ、ヤーマス ウガンでは始祖よりも牛島前掲論文も指摘しているように子孫繁栄に力点が おかれており、「ヤー(家)を増すための祈願」であるので、島外者であっ ても「子供がはやくほしい」という夫婦も参加を希望し、かつそれを許容し ていたという解釈もあり得るように思われるが、詳細は別途検討したい。 (14)伝承でこのように設定されていることは、「来間の祭祀的世界は異なった 系統に属する文化が幾重にも重層化していること」(森謙二前掲論文、323 頁)とも通じるのかもしれない。 (15)植松明石前掲論文では、次男筋がヤーマシャーブナカ、三男筋がウプヤーブ ナカとされており、現在とは逆である。植松明石が調査した1961年から約50 年が経過しているが、この間にこの逆転があったとすれば、それは伝承の 変化として把握すべき問題となる。この点について渡辺欣雄は「民俗的知識 の動態的把握」という視角から、儀礼等の関する「民俗的知識」は「伝達さ れるべき知識は、やはり伝達する/伝達されるべき当事者間で判断・選択さ れているといわざるをえない」(渡辺欣雄『民俗知識論の課題』 凱風社 1990 、45頁)とし、その「判断・選択」の結果としての変化をどう把握す るかという点について述べている。 (16)小池誠は「場としての家」を論じるには、その前提となる家屋を「ともに集 う場」と して捉えるべきだとしている(小池誠「『家族』なるものの揺ら ぎ」『比較家族史研究』23号 2008、76頁)。本稿での「ともに集う場」と いう言葉は小池論文に示唆をうけたものである。 (17)D.M.シュナイダーによると、ミクロネシア・ヤップ島での母の夫とその子 の名称で あるcitmangenとfakは、相互の庇護と依存の関係によって、前者 が年老いた場合には転 換し、庇護を受け、依存する側の者(母の夫)がfak と、庇護を与えるようになる側(子) がcitmangenと呼ばれるようになると 述べているが、これも行為遂行によって誰が citmangenとfakとなるかが決 まる「doingな関係」であろう。D.M.Schneider , “A Critique of the Study of KINSHIP”(The University of Michigan Press,1984), p.30
(18)末弘厳太郎「調査方針等に關する覺書」『中国農村慣行調査 第一巻』(岩 波書店 1952)22、23頁 (19)この点で「法的慣行」はサールの「構成的規則」(サール前掲書)とも相通 じる一側面を有していると解釈することも許されよう。 (20)ここでの「ブナカ」は3ブナカではなく、3ブナカの一体性を前提としたブ ナカ自体を意味している。