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(1)

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1

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論 一 ー

i g g t t   9 9

t g t ,  

近代・アイデンテイティ ・公共圏

ーチャールズ・テイラーのハーバーマス批判に寄せた見解の素描一

池 端

1 2 3 4 5  

はじめに

近代~ はどういうことで,どうあるべきか アイデンテイティー一近代文化をどう評価すべきか

公共圏—自由な社会とはどういうもので, その存立条件とは何か お わ り に

は じ め に

個人や集団の利益・権利に先立つ政治共同体の存在をまず想定し,共通 善にもとづく法のあり方,政治のあり方を志向する共同体主義者と呼ばれ 自由社会の典型であるアメリカ社会の主に政治的・社会的

(1) 

自由社会の正当性に揺さぶりをかけている。

上げるチャールズ・テイラー

( C .T a y l o r )

もその一人であると理解されて る論者たちが,

な病理を指摘し,

いる。

自由主義を支持する日本の論者によって,

(2) 

自由主義の再構成のための指針を与えたり,自由主義に合致した主体論の しかし, テイラーの議論は,

ここで取り ︱

︱四

(2)

近 代 ・ ア イ デ ン テ イ テ ィ ・ 公 共 圏 ( 池 端 )

ヒントを提供したりと,むしろ自由主義の理論化に寄与する面が多い。そ のことは,自由主義対テイラーの理論という対立軸が,自由主義対共同体 主 義 と い う 対 立 軸 以 上 に 諒 っ た も の で あ る こ と を 示 唆 す る よ う に 思 わ れ る。本稿の一つの目的は,テイラーの理論の全体像の不十分な理解という 現段階にあって,すこしでもテイラーの見解を明確に理解し,テイラーの 見解が自由主義の再評価にとってどれほど重要な示唆をもつものであるか

を確認するものである。

ところで,私がはじめてテイラーに関心を寄せたのは,かつて,「表現の 自由」の現代的展開の一つと考えられる「マス・メディアヘのアクセス権」

の法的承認をめぐる議論を検討した際,バーリン (I.

B e r l i n )

の消極的自由 の概念を批判するテイラーの論文を読んだときであった。その後,幸い,

彼の論文あるいは著書がいくつか日本でも翻訳され,彼の考えを紹介する

(7) 

優れた論文が出て,一人で読むことによって生じる誤読の危険もかなり薄 まった。

ただ,テイラーの専攻は,もちろん哲学であり, しかも非常に広範囲に

(R) 

わたった人文・社会科学の各分野で発言をしており,著作も多い。その全 体を理解することは,私の現在の能力を越えるものである。そこで,ここ

では,私の専攻である憲法・情報法との関係で非常に重要な論客であるハ

(9) 

ーバーマス (J.

Habermas)

の問題提起に対応して,テイラーがどのような 見解を述べているかという非常に焦点を狭めた形で,テイラーの考えを覗 きみるだけであるが,私が選んだ議論は,ハーバーマスとテイラーの双方 の問題関心の広さを反映しており,合理性論,近代文化論,自由社会論の

3点である。

近代―—一合理的とはどういうことで,どうあるべきか 本稿がとりあげるテイラーの論文のうち,もっともハーバーマス批判に

(!OJ 

値する内容が盛られているのがここで扱う「言語と社会」と題する論文で

17‑1‑113 (香法'97) ‑ 120  ‑

(3)

ある。この論文において,テイラーは,ハーバーマスの主著『コミュニケ

(II) 

ーション的行為の理論』をつぎの

2

点において高く評価した。

1

に,それが社会理論の言語哲学的な転換を行ったことである。対話 の構造についての言語哲学の成果を応用し,人間の行為の構造が対話の構 造に類似することに着目した社会理論の構築である。第

2

に,それは,後 期資本主義における政治的な危機の新しい理解を可能にする基礎を提供し たことである。我々は,社会生活の対話構造におけるシステム論の知的な レベルでの抑圧とともに,ある程度まで利害関係者の見えないところで機 能し,さまざまな社会装置を操縦することによってその目的を達成するこ

とのできる経済市場または官僚国家のような体系的な統合方式に有利な相 互理解に達するプロセスという事実レベルでの抑圧に直面している。

そこで,まず,テイラーは,ハーバーマスの社会理論の言語哲学的転換 の部分を主要な構成要素に分解してみせ,それらの分解された要素のそれ ぞれの意義を確定したうえで,それらの要素の論理必然的な再構築(つま

りテイラーの考える社会理論)を手がかりにして,ハーバーマスの社会理 論が前提とするその他の要素(手続論的倫理学と

3

つの妥当性の領域の厳 格な区分と言語の開示機能の限定)によって,ハーバーマス理論の持つ前 述した理論的な成果や現代の政治状況の分析の正しさを減じてしまうこと

を明らかにする。

テイラーは社会理論の言語哲学的転換の部分の構成要素を最終的に 3つ の命題に要約した。第

1

に,社会とその構成員である個人との関係におい て社会が始原性をもつこと,第

2

に,構造と実践あるいはシステムと行為 は互いにどちらかに還元されるものではなく,しかも相互補完関係にある こと,第3に,実践(あるいは行為)は,「私」視点と「我々」視点の両極 を持つ複雑な構造をしていること,である。

以上の 3つの命題はさらに詳しく 4つのアプローチとして説明される。

1

の命題は,原理的なアプローチと呼ばれる。言語

( l a n g u a g e )

と対話

( d i s c o u r s e )

の関係は,個人と社会の関係とアナロジーで考えられる。言語

(4)

近代・アイデンテイティ・公共圏(池端)

能力は,我々が対話という場面に当事者として参加することなしには修得 できない。かなり話せるようになったとき,今度は新たな意味の言語つま り造語を作ることもできる。しかしそれは,あくまでも対話という場で他 者の理解能力を前提として成り立つものである。そのことを社会理論に応 用するならば,個人は,社会が成立しているところに後から入り,そこで の人生の目的・規範・慣習を教えられ誰かがすでに歩んだ道を進んでいく

うちに,次第に自分らしい人生を生きるようになる。したがってロック(].

Locke)

やホッブズ

( T .Hobbes)

のような個人の算術的な集合を社会と考 える原子論的な社会理論は採用できないことになる。

第2の命題は,二つのアプローチとして説明されている。その一つは「構 造と実践の相互補完関係」アプローチである。これは,言語構造(ラング)

と発話行為(バロール)の関係が,社会構造(システム)とその実践(行 為)との関係に応用できるということである。つまり,発話行為は文法な どの言語コード(ラング)を常に前提にして始めて意味を伝達する。しか し,まったくコードをなぞっているわけでなく,常に多少コードから逸脱 してもいる。また,逆に,コードは,決してそれ自体で存在するのではな く,発話行為を常に介さない限り意味をなさないが,しかし,その一つの 発話行為の逸脱によってそのコードが書き換えられるわけでもない。つま り,発話行為と言語構造は,相互に他の存在を前提とし,相互に還元でき ないものである。

これを社会理論に応用すると,実践が社会構造をそのままなぞらずに多 少逸脱=革新するのであり,実践は決して社会構造に還元されず,社会構 造とそこでの個人の実践との関係を理解する場合に,主客二元論に基づく 社会構造の規範の内面化論を採用することは不適切となる。つまり,社会 構造は,つねにそこでの行為者の視点の説明も含めてその意味がはじめて 確定する。ここに社会理論の解釈論的地平が開かれる。

ではなぜ,実践は構造の逸脱=革新をもたらすのか。第2の命題を説明 するためのもう一つのアプローチがそれを説明する。つまり,「背景となる

17‑1‑111 (香法'97) ―‑122~

(5)

知識」アプローチがそれである。言語構造(ラング)と発話行為(パロー ル)が相互に還元でない理由は,パロールの意味はラングだけに依拠して いないからである。つまり,どんな発話行為の意味も明示的な言語コード を指し示すとともに,その背景となる知識をも指し示す。

これを社会理論に応用するならば,背景となる知識がまさに社会構造の 逸脱=革新の根拠である。したがって,当事者でない観察者の視点からの 構造の説明は,常につぎのような意味で仮説的な正しさにとどまる。つま り,背景となる知識は,観察者の定式化の視点からは捉えられず,当事者 が観察者と同じように自分自身をよく理解していることを前提とするかぎ

り,観察者の定式化による説明は,正しいということになる。それゆえ,

定式化の精緻さに長けたコンピューター・モデルによる社会の説明が必ず 失敗する理由は,定式化・数量化できず,人間の直観のようなものでしか 捉えられない背景となる知識がつねに存在するからである。

第 3の命題は,「『私』視点と『我々』視点の相互補完関係」アプローチ によって説明される。対話の構造の理解は,実践の構造の理解に応用でき る。

対話は,その当事者の「私」視点の単なる集積ではなく,「我々」にとっ ての発話である。つまり,「我々」視点の始原性がここにある。対話におい て「我々」視点は,「私」視点を要求し,「私」視点も「我々」視点がない

と機能しない。

このことは,社会行為の特殊性の理解に役立つ。コードは実践において 行使され,革新される。実践は対話を模倣する。そのため,実践は,「我々」

視点から行動し,そのルールに従い,その儀式を遂行し,その規範を適用 する。これに従わない場合に「我々」視点は危険にさらされる。そのとき,

「私」視点と「我々」視点が相互に正しい関係にない。この修繕のために 合理性の理論が必要となる。ハーバーマスの合理的相互理解達成という考

えが登場する意義がここにある。ハーバーマスによれば,理性とは,まさ に「我々」視点の亀裂を修繕する方法で,相互理解に達するプロセスの完

(6)

近代・アイデンティティ・公共圏(池端)

0

成ということになる。

以上がハーバーマスの行った言語哲学的転換の継ぎ目に添った構成要素 の分解とそれら社会理論上の意義の整理であった。テイラーは,先にも述 べたように,ハーバーマスの理論が論理的にも規範的にも有益で実り多い 視点を開発したが,一つのひどい弱みがあり,それが理論の価値を損なっ ていると理解する。その弱みとは,合理的相互理解達成という考えを展開 する際に,合理性・妥当性についての単なる形式的倫理学を利用している

ことである。

形式的倫理学に従えば,「よく生きる」とは人生のその内容ではなく,実 現すべき生きる形式の問題であり,何が正しいかを決定するためにはその 問題に相応しい決定の手続の完成を持って合理的と考える。それに対して,

テイラーが,合理的な相互達成という考えを展開するためにパラダイムを 提供すると理解するのが実体論的倫理学である。これによれば,「よく生き る」とは何かを理解することから出発し,何が正しいかを決定するもので ある。

形式的倫理学の最大の問題点は,テイラーによれば,彼の表現でいう「強 い評価」によってしか答えられない質問には答えられないという点である。

たとえばなぜ人は合理的に行動しなければならないのかとか,生態系をめ ぐる環境問題もそれに入る。しかしハーバーマスからすればそのような問 題は手続論的倫理学で答えられる道徳の問題ではなく,人類の健康に関す る臨床的な問題である。だが,テイラーは,その二つの問題の区別は非常 に難しく,そのような区別が通常の道徳観からかけ離れていると指摘し,

道徳の問題を広く捉え,そのような根本問題には対話状況の構造から引き 出せるような論証的な倫理学では十分に正当化できないと批判する。

テイラーによれば,ハーバーマスの手続論的倫理学を正当化するものは,

突き詰めれば実体論的倫理学に属し,「人間は話す動物である」という事実 命題に依拠する。その命題が我々の生きる共通の指針となっていることが 手続論的倫理学に我々を従わせる理由である。テイラーは,その命題が近

17~1 109 (香法'97) 124~

(7)

代的な理解の枠組みの中で,つぎのように完全に再解釈される必要がある とする。つまり,「人間は自分自身の道徳的状態をそれについての歪みをも たずに話し出すことができる」という事実命題である。つまり,言語は,

複雑な道徳性を開示する働きがあり,単に達成されるべき相互理解を可能 にするために役立つだけなのではない。別の言い方をすれば, どんな歪み もないときに我々の状態が何であるかを言語が開示できる限度においてだ け,言語は相互理解を可能にするのである。

それゆえ,ハーバーマスとは異なり,テイラーは,実体論的倫理学の検 討を避けることのできない生活の底辺での「合理性」の検討にまで足を踏 み入れ,「理にかなった

( r e a s o n a b l e n e s s )

」という次元までおりて行く。そ こにおいて達成される合理性には,近代社会の進歩と一般に考えられてき た,三つの妥当性の領域(真理・正しさ•本当の自分らしさ)の特殊化自 体が通用しないと理解する。ハーバーマスは,この三つの領域の特殊化を ウェーバーからそのまま借用し,その結果,手続論的倫理学を採用するこ

とになったとテイラーは指摘する。

テイラーの分析からすれば,現代社会の合理性の問題は,無意味な機構 が無意味な経験を作っているという政治・経済的シーンだけの問題ではな く,科学・正義(道徳)・芸術の三つの領域が純化され,相互浸透性がなく なっていること自体,現実のシステムやそこでの行為者をみる目を歪めて いるということになる。なぜなら,そこでは,言語の現実開示機能が第三 の領域,つまり芸術の分野に限られた役割を与えられ,もっばら自我の理 解や自我の表出(表象)に使われ,規範的な決定に寄与しないと考えられ ているからである。しかし我々は常に何が我々の道徳的目的で,それが正 しいかどうかを判断するときに同時に,その目的を表現し,人としてある べき自分自身の理解を表現している。

要するに,対話の構造から社会・行為をとらえ直す社会理論の言語哲学 的転換がもつ我々に与えた希望は,単に合理的相互理解達成という言語機 能を駆使した「我々」視点の修繕の方ではなく,むしろ現実開示という言

0

(8)

近代・アイデンテイティ・公共圏(池端)

語機能であり,後者こそが社会変革の鍵である。というのも,言語によっ て現実の我々の行為をはっきりと表現することが,システムのコードに依 拠しているだけだと思われがちな行為が,暗黙的な背景にも依拠しており,

その行為の指し示す背景の革新的な意味を我々は手に入れることができる からである。つまり,行為は決してシステムに還元されず,システムの変 革にはシステムをその行為者の意図とともにはっきりと描写する必要があ る。そのとき,三つの領域は,けっして独立したものでなく,相互に絡み 合っている。それでも,我々はその複雑な作業をすることによって,それ

ぞれの妥当性に到達するのである。

アイデンテイティ~代文化をどう評価すぺきか

テイラーはハーバーマスの還暦祝いに編まれた書物『啓蒙という未完の プロジェクトに対する哲学による調停』に「内面性と近代文化」と題する

(12) 

論文を寄せ,そこで,具体的には,近代的自我の歴史的な形成過程をたど るという作業を通して近代文化の捉え方,評価の仕方について論じている。

それゆえ,この論文はすでに上梓されているテイラーの主著『自我の起源:

(13) 

近代のアイデンテイティの形成』の要約にもなっている。

テイラーは,「内面性と近代文化」のはじめの方で,近代という時代の二 通りの捉え方を提示する。一つは「文化的な」捉え方である。近代は,西 洋文明の歴史において,他の文明とは異なる独自の文化の発展形態である

と理解する。その結果,異文化間には翻訳不可能な実践や文化装置がまま あることを認める。もう一つは,「脱文化的な」捉え方である。近代とはあ る能力の開花を前提とし,それは,適切な条件を待ち受けており,西洋で

はじめに開花し,いずれその条件が整えばどんな伝統文化も経験する一過 七 程である。近代は,「理性の成長」のような知的なパラダイムの観点から規

定されることもあれば,「社会の流動性」「中央集権化」「産業化」のような 社会的な観点からも規定される。したがって,どの文化も,近代の特徴を

17~1 107 (香法'97) ‑ 126 ‑

(9)

K I i , J  

表す社会改革の洗礼を受ける近代文化の一類型になり,近代は,その社会 改革の洗礼後の最終的な到達点としての文化の姿を指すものではない。

この

2

世紀の間,近代の「脱文化的な」理解が優勢であった。たとえば,

文化中立的な社会発展論(デュルケーム

( E .Durkheim), 

トックヴィル

( A . de T o c q u e v i l l ) )

や社会が合理化の方向に徐々にではあるが確実に向かっ

ていると指摘したウェーバー

(M.Weber), 

さらに,その亜流である「妥当 性の三つの圏」への特殊化を重視するハーバーマスもこの「脱文化的な」

立場から近代を捉えている。

しかし,この脱文化的な立場にはもう一つの潮流があり,それは,近代 の積極面ではなく,消極面を捉えたものである。近代は,何ものかを理解 できるようにしたと同時に,それと引き替えに,何ものかを喪失した,衰 退させたものである。たとえば,「地平の喪失」「ルーツの喪失」「壊れやす い理性の力に無限定な威信を与える自信過剰」「人生に英雄的な次元を求め ない放縦をとるに足らないと理解すること」などが近代を規定する特徴で ある。

テイラーは「脱文化的」と「文化的」のどちらが正しい捉え方か検討す る。

西洋文明あるいはキリスト教国の文明はこの近代へと向かう長い過渡期 を生き抜いてきたが,その間に彼らは党派的にならざるをえなかった。っ まり,文化についてごく自然に直接的な評価をくだす説明をしてきた。そ して,他の文化を未開,野蛮と判断してきた。つまり,それは,他の文化 と比較し自国の文化を特殊とはみず,自文化が普遍的であり,文化間での 比較が可能であるという「脱文化的な」捉え方の採用である。現代は「文

化的な」捉え方を採用しやすい時代になっており,それが西欧文明の近年 一 の偉大な成果であると評価できるが,現代でも,「脱文化的な」党派的な執

着から直接的な評価をくだす説明に,多くの人が満足を覚える。

党派的になる理由があることをテイラーも認めるが,文化を理解する場 合には,両者の捉え方が必要であると判断する。「文化的な」捉え方だけに

~"事

(10)

近代 ・ アイ デ ン ティ テ ィ・ 公 共 圏 (池 端)

依存すると,近代の改革のいくつもの重要な側面(我々の生活負担の軽減 など)を無視することになる。近代科学やその応用技術は,いずれすべて の社会に浸透するものである。また,「脱文化的な」捉え方だけでもうまく 行かない。価値と事実の分離や,宗教的実践の衰退から生じた真理として の「科学」という認識,つまり,ある文化(西欧)の人,自然,社会,善 の理解の組み合わせとの密接な共存の中で成長した「科学」という認識は,

近代のより深い理解を提供する。すなわち,一方だけでは西欧近代を歪め て理解することになる。

その他に純粋な「脱文化的な」捉え方では,つぎのような問題が生じる。

たとえば,「宗教的な実践の衰退」のような,近代的なものを啓蒙運動とい う一つのパッケージに入れて理解してしまう。また,科学と宗教について の理解と絡み合った近代の文化概念の組み合わせをうまく説明できず,そ れが近代の改革の一部であると理解せずに,永久普遍なものとして理解す ること,その例がここで扱う「近代の内面性」の型である。また,どの文 化も「世俗化」や「アイデンテイティの原子論的な型の成長」を経験する と思ってしまう。西欧のものとそれ以外のものがどのように異なり,西洋 以外のところでは近代の普遍的な特徴がどのように統合されるのかは,西 欧のアイデンテイティを理解しなければ,わからない。さらに重要なこと

に, もっぱら「脱文化的な」捉え方は,社会科学のもっとも重要な任務に 不向きである。世界の別の地域で作られている別の選択可能な近代の全体

を理解できず,最後には,西欧の型をその他のすべての人に投影し,自分 のしていることにまった<気づかないように宣告された自民族中心主義の 牢獄に閉じこもることになる。

そこで,テイラーは近代のアイデンテイティの一面,つまり内面性また

は自我の持つ我々にとっての意味を探求する。そのために,内面性や自我 五 についての「文化的な」説明を提示する。つまり,プラトン

( P l a t o )

から始

まり,ストア学派

( S t o i c i s m ), 

アウグスティヌス

( A u g u s t i n e ) ,

新 ス ト ア 学 派

( n e o ‑ S t o i c i s m ), 

ロック (J.

Locke), 

デカルト (R.

D e s c a r t e s )  , 

モンテ

17~1 105 (香法'97) ~128

(11)

ーニュ

( M .E .  de Montaigne)

と続く,内面性や自我の歴史的展開を,人間 の善の特有の概念やそれに対応する人間の行為を説明するその時代時代の 概念と結びつける。それによると,内面性や自我という近代の発想は,人 間の卓越さ

( e x c e l l e n c e )

や自己充実

( f u l l f i l m e n t )

についての考え方と結び ついており,それらの考え方は,徹底的な反省と切っても切れない諸活動 を特権化する。つまり,一方で,現実不参画の立場からの自己対象化ある いは自己統制を特権化し,他方で,さまざまな形態での自己探求を特権化 する。この両者の折り返し点にモンテーニュがおり,後者は,

1 8

世紀末か ら始まるロマン主義の時代以降,枝分かれし,個人の自己充実,芸術的独 創性,創造的な想像力という今日の我々のアイデンテイティの特徴をあら わす観念と深く入り組むようになった。

このように,西洋近代を,文化中立的な機能の結果としてみずに,その まわりで形成された特有の諸文化の組み合わせであるとみるならば,それ は,我々が西洋近代を一つの異なった観点からみていることになる。この 観点からは,それ以外の視点からみて影に隠れていた事柄が明白になる。

近代の内面性は,単純な現象ではなく,少なくとも二重の現象である。近 代の自己探求する自我は,いくつかの点で,自己統制する自我と争ってい る。それゆえ,一方では,自己統制の自我が,科学の一般的な範疇で我々 を捉えようとし,他方では,自己探求の自我が,我々の特殊性に表現をみ つけることを可能にする。言い換えれば,客観化する統制に賛成する者と,

客観化する統制が,我々の特殊性,我々の内なる自然,外界の自然に対し て我々の反応をふさぎ,黙らせようとするときに強要する犠牲に抵抗する ことに賛成する者との間に,我々の文明における一つの戦闘がある。つま り,西欧文明自体にある内的葛藤は,近代を支持する者とその批判者の間 の戦闘と同一化が可能である。これは,「脱文化的な」捉え方の視点からみ た,近代の積極面と消極面の主張者に対応する。それゆえ,テイラーによ れば,二つの陣営は,その対立よりも結びつきと類似性が眼に付き,近代 の内面性の型としての二つの陣営に共通するルーツや親類関係が強調され

0

(12)

近代・アイデンテイティ・公共圏(池端)

る。

近代に賛成するにせよ,反対するにせよ,世界的な規模の下で近代の評 それ自体あまり説得的ではなく,傲慢の一つの印であ 価を考えることは,

る。「我々の文化についてのより洗練され円熟した見解は,その党派的な諸 見解が無視し引ぎ離す,

つきがあることを示す。

競争相手同志の精神的な見地の間により深い結び とりわけ, それらの党派的な脱文化的な理解は,

この近代のアイデンテイティが我々にとってどんなに不可避であるか,近 代のアイデンテイティにもっとも徹底的に反対すると思われている者でさ

えも, そのアイデンテイティがどれほど多く含まれてるかを評価すること に失敗している。 しかし, 同時に, そのことは,現実への不参画の立場か らの統制という観点からのみ近代のアイデンテイティを定義する,留保な しに党派的な近代の支持者たちが, 自分たちのアイデンテイティに何が含 まれているかについての十分な理解からほど遠いことを示す。」

( 1 0 8

頁)

我々の西洋の近代のさらなる理解は,世界の地域で発展しているオルタ ーナティブな近代を認めることを我々により可能にし,偽りの普遍性とい う歪んだ碁盤の目から, それらのオルターナティブな近代を解放し,我々 の自民族中心主義の牢獄から我々を解放する。

公共圏――—自由な社会とはどういうもので,

その存立条件とは何か

(]4) 

テイラーの論文「自由主義の政治と公共圏」は, 「市場経済」 とともに,

「市民社会」 の主要な形態の一翼たる 「公共圏」を詳しく取り上げ, 自由 社会とはどういうもので, その条件とは何かを探求している。

1 0

三 その際,公共圏の説明において,

1 8

世紀の西欧の近代的公共圏,公衆の

(15) 

の成立を説明したハーバーマスの『公共圏の構造転換』

意見(世論)

1 8

世紀アメリカ植民地時代の「手紙の共和国」 つまり「公共圏」を説明した

(16) 

マイケル・ワーナー

(M.¥ V a r n e r )

の『共和国の手紙』から多くの示唆を受

17‑1‑103 (香法'97) ‑ 130  ‑

(13)

けている。

テイラーは,自由社会を,「平等の原理に基礎づけられた諸権利と調和し た形で,自由と自己統治という善を最大化する試みである」と簡潔に定義

したのちに,西欧自由社会の起源的モデルをまず取り上げる。

西欧の自由主義的伝統における自由は,「市民社会」という社会形態の発 展に基礎づけられてきた。「市民社会」の発展段階として,非政治的な問題 に役立つ多くの自由な結社が存在する「市民社会」から,社会が単独でそ の超政治的な行為によって社会全体を保全するモードを産み出すという

「強い意味での市民社会」へと発展してきた。この「市民社会」の超政治 性と世俗性は,歴史上の他の文明に存在したどの社会とも異なる。テイラ ーは「市民社会」の超政治性と世俗性という抽象的議論にさらに肉付けす

るために,公共圏の発生について詳しく説明する。

公共圏とは,社会の構成員たちが共通の関心事を議論するために,さま ざまなメディアを通してまたは直接対面して会うことができ,その関心事 についての共通のマインドを形成できる「共同の空間

(commons p a c e )

」 である。それは公衆の意見(世論)を形成する。しかし,公衆の意見は,

人類の意見とは別のものである。人類の意見は,無反省で,議論や批評に よって媒介されず,どの世代でも受動的に教え込まれるのに対して,公衆 の意見は,反省の産物であり,議論から生じ,議論の参加という活動によ って産み出された良心を反映する。その決定的な違いは単に受動的と批判 的の違いではなく,意見形成過程の相違である。

人類の意見は,両親や年長者からどこにいても後世に伝えられるのに対 して,公衆の意見は,それを抱く人々の心の中で苦心してつくられ,議論 の対決を通じて共通のマインドに至る。前者は同じ社会化過程によって形

成されるすべての人に同じものが保持されるのに対して,後者は我々が明 〇 確化という共同行為によって我々の信念を念入りに作りあげた結果,同じ

見解を分け持つのである。ただし,その議論から導かれた意見は,公衆の 意見だと一般に「みなされる」必要があるという点で人類の意見とさらに

(14)

近 代 ・ ア イ デ ン テ イ テ ィ ・ 公 共 圏 ( 池 端 )

混同されやすい。

また公共圏の発生の社会的条件には多数の独立しだ情報源から流通する 印刷物の存在があげられるが,「印刷資本主義」は,近代の公共圏が始動す るための十分条件ではなく,不可欠な共通の理解が生まれるような適切な 文化的なコンテストに置かれる必要があった。また公共圏は,特定の議題 を議論するための特定の場を必要としないメタ・トピカルな性質をもつ。

1 8

世紀における公共圏の機能の新しさは,権力機関に対する外部からの チェック機能であり,そこから統治機構の原理としての「公開性の原則」

が生まれる。また公共圏の特徴の新しさは,権力によらずとも機能する超 政治性では不十分であり,次のような複数の意味での徹底的な世俗性を具 備する点である。つまり,宗教的な権威から,共同体の伝統的及び権威的 な法から,そして神聖な時間と永遠という多元的な時間からの解放である。

最後の世俗性は,異教的(冒漬的)時間概念の採用,つまり,時間を時の 垂直的断面の集積と捉える近代特有の想像力を意味する。

もちろん自由社会は理念型のまま実現されたわけではない。しかしそれ でもなおそれ自身の力学で機能してきたことをどう理解するかという問題 が生じる。この問題は,自由社会の存立条件を考える視点を提供する。そ の解答は

2

つ用意されている。

1

つは,「個人の自由」への権力の干渉を排 除してきたこと,つまりその「超政治性」が自由社会の存立条件である。

もう

l

つは,「自由」と「自己統治」の関係を菫視する視点,つまりトック ヴィルそしてテイラーの立場でもあるが,自由と自己統治を調整してきた ある程度の「超政治性」がよかったと考える。

後者の立場からは当然自由社会の存立条件として民主的決定過程の質に 関心が向けられることになる。だが真に民主的決定が行われているかの判

〇 断は非常に難しい。たとえば,人民が事実を述べるだけでなく,理想・願 望も表現しているか,それが自発的に行った表現か,熟考のすえの表現か は判断が難しい。そこで判断基準を変える試みとして,満場一致だけを民 主的な決定と考える人民の客観的利益を想定するルソー的な考えや,はじ

17  1~101 (香法'97) 132  ‑

(15)

めから人民の中に多様な利益が存在することを想定する功利的な考えが主 張されるが,それらは,どちらも自己理解から引き出された民主的決定の 理想と実際の民主的決定の結果を引き較べるだけであり,民主的決定のプ

ロセスを重視しない。

テイラーの共同体主義の立場からすれば,つぎの 3つが民主的決定であ るかどうかの条件である。つまり,第

1

に,政治共同体の同じ目的を分け

持っている一員であるという自己理解•他者理解の存在である。ここにお

いて,共同体との関係での自己理解が民主的決定の条件とリンクされてい る。第

2

に,あるゆる個人や団体に聴聞の機会を与え,その結果生じた討 論が現実政治に影響を与えることである。聴聞の意義は,誰でも自分の見 解についての政府の考えを聞かされることによって,政治共同体での自分 の位置を確認でき,否定的なものであれ自己の存在に一定の承認を与えら れることである。また,民主的決定の結論とともにプロセスを重要するこ とのあらわれでもある。第 3に,その討論の結論が多数派の選好と一致す ることである。自由社会の直面する危機はまさにこれらの条件の失敗に係 わる。

1

の条件に関して,政治からの一般市民の疎外感が古くから言われて おり,大きな社会の中央集権化された官僚政治がその一因であると言われ ている。その処方箋としてトックヴィルは脱中央集権化(地方分権化)を あげており,それが現在でも有効であるが,現在では,さらに,第

2

の条 件に関連して,地域政治の議論を活性化するために地方のマス・メディア の公共圏としての役割の重要さも指摘できる。さらに,政党や社会運動の 内部の議論が小さな公共圏の役割を果たすべきである。つまり,

1 8

世紀の 公共圏と今日のあるべき公共圏の違いは, (1)入れ子状の多元的な公共圏が 存在すること, (2)政治システムと公共圏の境界を緩め相互に人や思想が行 き来できるようにすること, (3)公共圏に番犬機能だけでない,公論拡大機 能も期待することである。

3

の条件との関係で,テイラーは,現代民主政治で進行している「政

00 

(16)

近 代 ・ ア イ デ ン テ ィ テ ィ ・ 公 共 圏 ( 池 端 )

九九

治的破砕

( p o l i t i c a lfragmentation)

」という現象を分析している。人民の 排除感から政治共同体の分裂という事態が進行している。労働者の感じる 排除感は階級闘争を産み,福祉政策の対応が重要となり,女性の感じる排 除感からフェミニズム運動が生じ,その承認・聴聞が必要となる。現在で はさらにこの排除感に対する一つの対応として政治的破砕がある。これは,

全体としての社会の諸問題に真剣に取り組むために計画された多面性のあ るプログラムに背後で支える政治的支持者の多数派の連携の解体であり,

どんな犠牲を払ってでも自分の縄張りを守ると決意した政治的支持者をそ れぞれが結集する狭い目的のための運動(キャンペーン)の寄せ集めへと 解体することである。この破砕のもと,人々は共同体のどんな善も呪文の ようにしか感じない。破砕は全体的な主張の失敗→その無力の実感→党派 の活動→その威力の実感→全体的な主張の経験の欠如→共感の欠如→全体 的な主張の失敗→と悪循環する。

アメリカ社会は,この政治的破砕の道をたどり,別の形式にたどり着い た。それは,「権利の支配」である。アメリカの政治生活は,司法闘争と特 殊利益政治からなる。前者のスタイルの特徴は,争点解決の難しさ(権利 の衝突はどちらかの一方的な勝ちか負けである)であり,後者は,多くの 国民に犠牲を強いる法案の成立を不可能にする。この政治問題の司法審査 による解決や単一争点政治は,「敵対的な精神」の反映である。

テイラーはこの破砕にどう戦うかの一般的な処方箋はないと考える。成 功した全体の共同の行動の経験が重要であり,その達成感によって自信を 取り戻す以外にない。多少の助言となるのは,前述した政治共同体の亀裂 を修復するときに欠かせない,地方分権化に伴う地域公共圏での議論の経 験の重要さである。さらに互いに関連した争点についての広い連携が形成 される経路としての政党ー選挙システムと,既存の党派を通じては同じ影 曹力を持ち得ない大多数の人々のための政治の効能への道を提供する入れ 子状の公共圏のネットワークの二者の共存が必要である。人と思想が社会 運動と政党の間を自由に行き来する開かれた未開拓の領域が必要になる。

17‑1 ‑99 (香法'97) ‑ 134 

(17)

これらが自由社会に必要な政治である。

最後に,テイラーは,つぎのようなまとめを行っている。

自由社会を一つの概念で特徴づけたいという誘惑は分かるが,自由社会 のゴールは,多元的であり,それゆえ,常に市民の不満・離反というリス クを覚悟しなければならない。自由主義的な政治が民主的意思決定の条件 に関わるのであり,公共圏は,政治の領域を限定するだけでなく,民主政 治の討論のための場でもある。それゆえ,西欧外の自由主義体制の展開の 理解のためには,特殊西欧的な基礎に過度に敏感に焦点を集中すべきでは なく,我々の中心となる関心は,平等という条件のもとで,自由と自己統 治を促す政治生活がどのように発展し促進されるかを知ることであり,そ のとき,いくつかの公共圏が必要とされるが,それは

1 8

世紀モデルから一 層かけはなれたものになるであろう。我々はむしろ民主的決定のための経 路を開く新しい形式に敏感でなければならない。ここで行ったような民主 的決定が最終的に何であるかについての考えを持つならば,その新しい形 式を見つけるための助けになるであろう。

5  お わ り に

ハーバーマスの問題提起に対応したテイラーの議論(合理性論・近代文 化論・自由社会論)を垣間みた。最後に,憲法・情報法に関連して,指針 ないし方向性を示唆する箇所をいくつかとりあげ,本稿のまとめとした。

2

では,「生活世界」よりも「システム」を優位に置く現代社会を改造す るという大きな課題のもと,合理性論が問題となっていた。ハーバーマス は,官僚国家や市場経済が依拠する「合理性」のその否定的な面をえぐり だし,対話の構造自体の持つ本来的な「合理性」を回復する道を模索して いた。しかし,このような社会改造のためには,テイラーの分析によれば,

ハーバーマスの理論のいくつかの諸前提を組み替える必要がある。ハーバ ーマスの理論は,「生活世界」の実践理性(「理にかなった」

( r e a s o n a b l e ‑

九八

(18)

近代・アイデンティティ・公共圏(池端)

九 七

n e s s ) )

にまで降り立った実体論的倫理学を前提とせず,非常に限られた善

(または正義)の問題だけを対象とする手続論的倫理学を採用し,合理性 の

3

つの圏の相互関係を無視し,そのうえ言語の現実開示機能の活用を合 理性の一つの圏である「本当の自分らしさ

( a u t h e n t i c i t y )

」を追求する芸術 に押し込め,その結果,合理的な相互理解到達以上にさらに基本的な「倫 理原理としての合理性」にたどり着けないと判断する。

この議論は法の解釈者のあるべき姿を示唆しているように思われる。た とえば,ある裁判官が政治的な領域に限った表現の自由の意義という抽象 的で一面的な理由で表現行為を規制する法律を違憲であると判断したとし てもまった<説得力を欠き,合理的とはいえない。その表現行為がなされ た時の多面的な状況やそれを規制した時の多面的な状況を明確に表現する ことによってはじめてその抽象的で一面的な理由も説得力をもち,その表 現行為や規制に対する裁判官の個人的な本心を核とする理由説明はさらに 説得力を増強する。

3の近代文化論では,テイラーは,近代のアイデンテイティの形成過程 の研究によって,近代文化が,「科学的合理性志向の近代文化」と対抗する

「自己充実や想像力や独創性を重視する文化」もそのうちに含むことを 我々に知らせた。この相対立する近代文化の二つの特徴は,近代のアイデ ンテイティの二重性に対応する。そのことは,日本国憲法が個人の尊重を 根本原理とするといっても,その解釈の可能性が広く,個人の中で自己コ ントロール(個人の自律)としばしば対立する自己充実や自己表現,その ための自己探求という価値も,個人の尊重から導き出される価値であるこ

とを示唆する。

4

の自由社会論において,テイラーがとくに強調したのは,自由社会を 一つの究極の目的によって説明しようとする強い誘惑に対する戒めであっ た。自由社会の存立の鍵を握るのは,むしろ自由と自己統治のバランスで あるというテイラーの立場からすれば,「民主的決定の条件」が自由社会の 重要な検討課題となり,テイラーが詳しく説明した公共圏の問題が重要に

17‑1 ‑97 (香法'97) 136 

(19)

なる。テイラーによれば,真の民主的決定のためには,公共圏の拡大が不 可欠であり,マス・メディアには政府の番犬機能だけでなく,公論拡大機 能も期待され,現在の高度情報社会を牽引する電子通信技術・情報伝達機 器の発達のもと,マルチ・メディアのハイパー・スペース内で,マス・メ

ディアが主導する公論空間の実験が具体性を持つことになる。

また,テイラーは,複数の小さな公共圏の入れ子状態である全体として の公共圏に言及し,現在の大きな社会の政治システムである代議制の機能 不全を解消するためには,地方分権化とともにそれに対応する地域のマ ス・メディアが,地域公共圏として入れ子状の公共圏に組み込まれ,地方 政治についての活発な議論をすることを期待する。さらに,政党や社会運 動の内部の議論自体が「小さな公共圏」の役を演じなければ,一般市民の 政治からの疎外は解消されず,さらには,政党と社会運動を媒介する新た な公共圏が現在の自由社会の政治には必要であると主張していた。以上の ように,テイラーは自由社会の存立条件について有意義な提案を行ってい た。

(1)  日本の憲法学において,共同体主義に基づく憲法学の可能性を示唆するものに,

松井茂記「国民主権原理と憲法学」『社会変動のなかの法』(岩波講座・社会科学の 方法・第VI (1993) 1 ‑47頁があり,それとは対照的に,これまでの憲法学以上に 個人の自由・自律に対する繊細な議論・解釈を展開するものに,長谷部恭男「国家 権 力 の 限 界 と 人 権 」 『 講 座 ・ 憲 法 学 第3巻 権 利 の 保 障 』 (1994)43‑74頁がある。

(2)  施光恒「人格成長の希薄理論:リベラリズムの規範的基礎の哲学的探究」『法学政 治学論究』第27(1995)655‑697頁,同上「自省的主体性の存在条件としての Self

‑Esteem: リベラルな国家における共同体的諸価値の意義と位置づけ」『法学政治学 論 究 』 第29(1996)347‑389頁。

(3)  井上達夫「共同体論:その諸相と射程」日本法哲学会編『現代における<個人一 共同体一国家>』有斐閣(1989)7‑23頁,同上「共同体の要求と法の限界」『千葉大学 法学論集』 (1989)121‑171頁。

(4)  森村進「リベラリズムと共同体主義」桂木隆夫・森村進編『法哲学的思考』平凡 (1989)7‑39頁 の 追 記(38‑39頁)は共同体主義とリベラリズムの対立自体カテゴリ

九六

(20)

近代・アイデンテイティ・公共圏(池端)

九五

ーミスティクで実りないものであると指摘し,「個人の選択を尊重しないタイプの共 同体主義」(マッキンタイアだけ)に批判対象を限定している。

(5)  C. Taylor, What's Wrong with Negative Liberty,  in A. Ryan ed.,  The Idea 

c i f  

Freedom : Essays in Honour of Isaiah Berlin, Oxford Univ. Press (1979).  これ についての拙稿は「『積極的自由』としての表現の自由:バーリンの二つの自由概念 をめぐって」『六甲台論集』第36巻 第 1号(1989)87‑108

(6)  C. テイラー著・渡辺義雄訳『ヘーゲルと近代社会』岩波書店(1981),

c .  

テイラー・

J. ハーバーマス他著• 佐々木毅・辻康夫・向山恭一訳『マルチカルチュラリズム』

岩波書店(1996),C. テイラー著・鈴木朝生訳「衝突の解釈学」『思想』 No.794(1990)  94‑107 C.テイラー著•田中智彦訳「アトミズム」『現代思想』 Vol. 22 No. 5 (1994)  193‑215頁。また, C.テイラーのインタヴューとして岩崎稔・辻内鏡人訳「多文化 主義・承認・ヘーゲル」『思想』 No.865 (1996) 4‑27

(7)  藤原保信「目的論の復権」『政治哲学の復権』新評論(1979)52‑91頁,同上「目的 論の復権」『政治哲学の復権』新評論(1979)52‑91頁,同上「公共性の再構築に向け て」『20世紀社会科学のバラダイム』(岩波講座・社会科学の方法・第II (1993)  289‑318頁,同上『自由主義の再検討』岩波新書(1993), 田中智彦「チャールズ・テ イラーの人間観:道徳現象学の観点から」『早稲田政治公法研究』第 46(1994)109 

‑138頁,同上「テイラー:自己解釈的主体と自由の社会的条件」藤原保信・飯島昇 蔵編『西洋政治思想史・II』新評論(1995)463‑4 78頁,同上「アイデンテイティの現 象学:チャールズ・テイラーにおける個人主義の基礎」『早稲田政治公法研究』第50 (1995)215‑239頁,テイラーの全体論的個人主義について,石前禎幸「共同体論的

リベラリズムの可能性」『法律論叢』第 68巻 第3・4・5合 併 号(1996)335‑367 (8)  テイラーのこれまでの著作を知るためには, J.Tully ed., Philosophy in  an age 

of Pluralism : The philosophy of Charles  Taylor in  question, Cambridge Univ.  Press (1994)の最後に掲載されている著作目録が便利である。

(9)  ハーバーマスの公共圏論に依拠し,近代的公共圏の下地を提供した「文芸的公共 圏」の役割を電子メディアのネットワークに期待するものに,干川剛史「自己・コ

ミュニケーション・アイデンテイティ:現代社会における自己形成と共同性構成の 問題」『現代社会理論研究』第2(1992)69‑77 同上「メディア・ネットワーク・

公共性:ハーバーマスにおけるメディアと公共性」『徳島大学教養部紀要』(人文・

社会科学)第28巻(最終巻) (1993) 149‑161頁,同上「生活世界の植民地化と抵抗 の潜在力:ハーバーマスと新しい社会運動」佐藤慶幸・那須壽編著『危機と再生の 社会理論』マルジュ社(1993)177‑193頁,同上「電子メディアとコミュニケーション 的行為:コンピューター媒介的コミュニケーションに関するコミュニケーション的 行為論の観点からの考察」『徳島大学社会科学研究』第 7(1994)287‑305頁 , 同 上

「自律的公共性への構造転換に向けて:市民社会の基盤としてのメディア・ネット

17‑1 ‑95 (香法'97) ‑ 138 

(21)

ワークの可能性」『社会学評論』Vol.45, No. 389(1994)332‑345頁。また,近代的公 共圏の一元的理解を批判し,多元的な理解の必要を主張するものに,阿部潔「公共 圏議論の今日的課題:ハーバーマスの公共性議論の批判的な検討にもとづく多元的 公共爛把握の必要性を中心に」東京大学社会情報研究所編『社会情報と情報環境』

東京大学出版会(1994)379‑399頁。その他に.ジェームズ・カラン「マス・メディア と民主主義:再評価」(阿部潔訳)

J .  

カラン •M. グリヴィッチ編・児島和人・相田 敏彦監訳『マス・メディアと社会:新たな理論的潮流』勁草書房 (1995)127‑188 花田達朗「公共圏とマスメディアのアムビヴァレンツ:ハーバーマスにおける非決 定論」『メディアと情報化の社会学』(岩波講座・現代社会学・第22 (1996) 133 

‑155頁は,マス・メディアの役割との関係で公共圏論が扱われている。ナショナリ ズムについての最近のハーバーマスの見解に

J .

ハーバーマス著・住野由紀子訳「シ ティズンシップと国民的アイデンティティ:ヨーロッパの将来について考える」『思 Vol.867 (1996) 184‑204頁。もっとも最近の重要な業績として H.ルフェーブル の空間論の観点から,ハーバーマスの公共圏論を批判的に検討するものに,花田達 朗「情報化時代における公共空間の可能性」『情報と法』(岩波講座・現代の法・第 10 (1997)27‑50

(10)  C. Taylor, Language and Society,  in A. Honneth and H. Joas eds.,  Commu‑

nicative Action : Essays on Jurgen Habermas's  The Theory of Communicative  Action,  The MIT Press (1991), pp. 23‑35. 

(11)  J.  Habermas, Theoe des  kommunikativen  Handelns (Band  I• II), Suhr‑ kamp Verlag (1981).  邦訳書として,河上・フーブリヒト・平井訳 rコミュニケー

ション的行為の理論(上)』未来社 (1985),藤原・岩倉・徳永•平野・山口訳『コミ ュニケーション的行為の理論(中)』未来社(1986),丸山・丸山・厚東・森田・馬場・

脇訳『コミュニケーション的行為の理論(下)』未来社(1987)

U2)  C. Taylor, Inwardness  and the  Culture  of  Modernity, in  A. Honneth, T. 

McCarthy, C. Offe, and A. Wellmer eds. (trans.  by William Rehg), Philosophi‑ cal Inte entionsin the  Unfinished Project of Enlightenment, The MIT Press  (1992), pp 87‑110.  この問題に関係するハーバーマス論文の訳として,

J .

ハーバー マス著・三島憲一訳「近代:未完成のプロジェクト」『思想』No.696(1982)88‑107

(この巻はハーバーマスの特集)と

J .

ハーバーマス著・吉岡洋訳「近代:未完のプ ロジェクト」ハル・フォスター編・室井尚•吉岡洋訳『反美学:ポストモダン諸相』

勁草書房(1987)17‑39頁がある。

U3)  C. Taylor, Sources of the Self : The Making of the Modern Identity,  Harvard  Univ. Press (1989). 

C. Taylor, Leberal Politics and Public Sphere, in Philosophical Arguments,  Harvard Univ. Press (1995). pp 257‑287. 

九四

(22)

近代・アイデンテイティ・公共圏(池端)

(15)  ドイツ語の原著はすでに 1962年に出版されている。英語訳として 1989年によう やく出版された

J .

Habermas,  The  Structural  Transformation  of  the  Public  Sphere:  An Inquiry,  into  a Category  of Bourgeois  Society (trans.  by Thomas  Burger),  The MIT (1989)があり,日本語訳としては 1973年にすでに出版されてい

る細谷貞雄『公共性の構造転換J:未来社(1973)がある。新たな版の序文を加えた 1990 年新版(J.Habermas,  Struktzmrandel  der Qfj tlichkeit: Untersuchungen l(

einer Kategorie der biirgerlichen Gesellschaft,  Suhrkamp Verlag (1990).) の翻訳 として細谷貞雄・山田正行訳『[第2版]公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリ ーについての探求』末来社(1994)がある。

(16)  M. Warner, T.  Lettersof tlw Republic : Plicationand the lblicSphere in  Eighteenth‑Centmy America, Harvard Univ.  Press (1990). 

参考文献

• 安丸良夫「近代日本の思想構造」『新しい歴史学のために』第 76(1962)1‑11

• 森際康友・桂木隆史編著『人間的秩序:法における個と普遍』木鐸社(1987)

・中岡成文『ハーバーマス:コ 、ュニケーンヨ/汀為』講談社(1996)

・蓮宵重彦・山内昌之編「文明の衝突か,共存か』東京大学出版会(1995)

宮本敬子「愛の動機: The Ballad of the Sad Cafeにおけるアイデンティティ探求 のテーマ」『論集』(四国学院大学)(特集:人間と社会)第 71(1989)127‑146

• D. デイドロ著• 本田喜代治・平岡昇訳『ラモーの甥』岩波文庫(1969)

• J .   J .  

ルソー著•平岡昇訳「学問・芸術論」『世界の名著ルソー 30 』中央公論社 (1966)

5996

¥V. サイファー著・河村錠一郎訳『現代文学と美術における自我の喪失』河出書房新 (1988)

・ J .  

H. プラム著・鈴木利章訳『過去の終焉:現代歴史学への提言』法律文化社(1975)

• L. トリリング著・野島秀勝訳 u・<誠実>とくほんもの>:近代自我の確立と崩壊』

法政大学出版会(1989(Lionel  Trilling,  Sincerity  and Authenticity,  Harcourt  Brace Javanovich(l971).)。

阿部良雄『シャルル・ボードレール:現代性の成立』河出書房新社(1995)

17‑‑1~93 (香法'97) ·~140~

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