• 検索結果がありません。

― ― 学校音楽科教育の目的観・教材観の変遷と課題

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "― ― 学校音楽科教育の目的観・教材観の変遷と課題"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

《はじめに》

 1872(明治 5 )年,日本に「学制」が施行された。小学校の教科目中に「唱歌」と書かれ てはいたが,「当分之ヲ欠く事ヲ得」として実施は見送られた。伊澤修二による『小学唱歌』

(全三編)の初編の出版とともに日本の学校音楽(唱歌)科教育が開始されたのは「学制」施 行から 9 年後の1881(明治14)年であった。以来,現在まで140年近い歳月が流れたことにな る。当初より,音楽が子どもたちの生育にいかに役立つものかが当然のように喧伝され,教 科の目的とされた。戦争期を経て,戦後の日本の音楽科教育は音楽を手段として扱うのでは なく,音楽それ自体の良さや価値を子どもたちに伝えることを目的として再出発した。その 目的を強く謳った1947(昭和22)年の第一次『学習指導要領音楽(科)編』(試案)である。

それからさらに70年余りが経過した。本論では,日本の学校音楽科教育の目的の変遷をたど りながら,現在の音楽科教育の課題について考えてみたい。

《『小学唱歌集』(全三編)における教科の目的》

 日本の近代学校音楽科教育はどのような教材観をもって出発したのだろうか。

 我が国最初の音楽科教科書は,1881(明治14)から1881(明治17)年にかけて文部省より 刊行された『小学唱歌集』(全三編)である(1)。当時は「音楽」という教科名はなく,「唱歌」

であった。

 作成作業を中心的に担ったのは伊澤修二(2)である。師範教育視察のために赴いたアメリカボ ストンから1878(明治11)年に帰国した伊澤は,音楽取調掛としてアメリカ人ルーサー・ホ ワイティング・メーソンの助けを借りながら音楽教科書の作成に取り組んだ。その結果刊行 されたのが上記の唱歌集である。「初編」の冒頭の「緒言」には以下のように書かれている。

*信州大学名誉教授

キーワード:唱歌,外国曲の訳詞,学習指導要領

学校音楽科教育の目的観・教材観の変遷と課題

History and Transition of Japanese School Music Education

―Focusing on the Purpose of Education and Teaching Materials―

中山裕一郎

Yuichiro Nakayama

〈研究ノート〉

(2)

1 )『小学唱歌集』初編・緒言

 凡ソ教育ノ要ハ德育智育體育ノ三者ニ在リ而シテ小學ニ在リテハ最モ宜ク德性ヲ涵養 スルヲ以テ要トスヘシ今夫レ音樂ノ物タル性情ニ本ツキ人心ヲ正シ風化ヲ助クルノ妙用 アリ故ニ古ヨリ明君賢相特ニ之ヲ振興シ之ヲ家國ニ播サント欲セシ者和漢歐米ノ史冊歴々 徴スヘシ曩ニ我政府ノ始テ學制ヲ頒ツニ方リテヤ已ニ唱歌ヲ普通學科中ニ掲ケテ一般必 須ノ科已タルヲ示シ其教則綱領ヲ定ムルニ至リテハ亦之ヲ小學各等科ニ加ヘテ其必ス學 ハサル可カラサルヲ示セリ然シテ之ヲ學校ニ實施スルニ及ンテハ必ス歌曲其當ヲ得聲音 其正ヲ得テ能ク教育ノ真理ニ悖ラサルヲ要スレハ此レ其事タル固ヨリ容易ニ擧行スヘキ ニ非ス我省此ニ見ル所アリ客年特ニ音樂取調掛ヲ設ケ……(以下略)

 要するに,音楽が子どもたちの「特性の涵養」つまり徳育にきわめて有用であり,「人心ヲ 正シ風化ヲ助クル」(人の心を正しく導き変えていく)ために最適であること。古今東西そし て和漢欧米の「名君賢相」(指導者たち)はその音楽の持つ力を利用したこと。それゆえこの 唱歌集を編纂したと述べている。この「初編」の刊行は明治14年(実際は翌15年)だが,す でに明治 5 年の「学制」の中に,唱歌は小学校の教科目として示されていた。教材や指導法 の見通しもない中,「但シ,当分之ヲ欠クコトヲ得」(当分は実施しなくてもよい)と書かれ ることにより,その実施は見送られたままであった。その実施を留学中のアメリカから目賀 田種太郎と連名で文部省に進言し,帰国後,音楽取調掛の初代掛長としての任にあたった伊 澤としては,このように唱歌(音楽)教育の有用性を喧伝しようとするのはやむを得なかっ たとも言える。

 では,具体的にどのような教材が作成され,子どもたちによって歌われたのだろうか。

2 )『小学唱歌集』(初編,第二編,第三編)収録曲一覧

 「初編」33曲,「第二編」16曲,「第三編」42曲,全三編に収録された全91曲の曲名は下記の 通りである。これらの楽曲の多くは L. W. メーソンがアメリカから資料として持ってきた多 くの何冊もの Song Book から採られている。しかしながら,メロディーはほぼそのまま採用 しても,当時の著名な国文学者たちが担当した歌詞には大きな改変が加えられている。それ は訳詞とは言えない大きな改変である。

《収録曲一覧》

〈初編〉

第一曲 「かをれ」 第二曲 「春山」

第三曲 「あがれ」 第四曲 「いはへ」

第五曲 「千代に」 第六曲 「和歌の浦」

第七曲 「春は花見」 第八曲 「鴬」

(3)

第九曲 「野辺に」 第十曲 「春風」

第十一曲 「桜紅葉」 第十二曲 「花さく春」

第十三曲 「見わたせば」 第十四曲 「松の木蔭」

第十五曲 「春のやよひ」 第十六曲 「わが日の本」

第十七曲 「蝶々」 第十八曲 「うつくしき」

第十九曲 「閨の板戸」 第二十曲 「蛍」

第二十一曲 「若紫」 第二十二曲 「ねむれよ子」

第二十三曲 「君が代」 第二十四曲 「思ひいづれば」

第二十五曲 「薫りにしらるゝ」 第二十六曲 「隅田川」

第二十七曲 「富士山(ふじのやま)」 第二十八曲 「おぼろ」

第二十九曲 「雨露」 第三十曲 「玉の宮居」

第三十一曲 「大和撫子」 第三十二曲 「五常の歌」

第三十三曲 「五倫の歌」

〈第二編〉

第三十四曲 「鳥の声」 第三十五曲 「霞か雲か」

第三十六曲 「年たつけさ」 第三十七曲 「かすめる空」

第三十八曲 「燕」 第三十九曲 「鏡なす」

第四十曲 「岩もる水」 第四十一曲 「岸の桜」

第四十二曲 「遊猟」 第四十三曲 「みたにの奥」

第四十四曲 「皇御国(すめらみくに)」 第四十五曲 「栄行く御代」

第四十六曲 「五日の風」 第四十七曲 「天津日嗣」

第四十八曲 「太平の曲」 第四十九曲 「みてらの鐘の音」

〈第三編〉

第五十曲 「やよ御民」 第五十一曲 「春の夜」

第五十二曲 「なみ風」 第五十三曲 「あふげば尊し」

第五十四曲 「雲」 第五十五曲 「寧楽(なら)の都」

第五十六曲 「才女」 第五十七曲 「母のおもひ」

第五十八曲 「めぐれる車」 第五十九曲 「墳墓」

第六十曲  「秋の夕暮」 第六十一曲 「古戦場」

第六十二曲 「秋草」 第六十三曲 「富士筑波」

第六十四曲 「園生の梅」 第六十五曲 「橘」

第六十六曲 「四季の月」 第六十七曲 「白蓮白菊」

第六十八曲 「学び」 第六十九曲 「小枝」

第七十曲 「船子」 第七十一曲 「鷹狩」

第七十二曲 「小船」 第七十三曲 「誠は人の道」

第七十四曲 「千里のみち」 第七十五曲 「春の野」

第七十六曲 「瑞穂」 第七十七曲 「楽しわれ」

第七十八曲 「菊」 第七十九曲 「忠臣」

第八十曲 「千草の花」 第八十一曲 「きのふけふ」

(4)

第八十二曲 「頭の雪」 第八十三曲 「さけ花よ」

第八十四曲 「高嶺」 第八十五曲 「四(よつ)の時」

第八十六曲 「花月」 第八十七曲 「治まる御代」

第八十八曲 「祝へ吾君を」 第八十九曲 「花鳥」

第九十曲 「心は玉」 第九十一曲 「招魂祭」

 全91曲の歌詞を大きく下記の 4 つのカテゴリーに分類出来る。数字は91曲中の曲目数であ りパーセンテージを示す。

①花鳥風月を歌った教材(日本の四季の移り変わりや自然の美しさを歌ったもの)

……40曲(44%)

②天皇或いは天皇制に関する教材(天皇の御代の素晴らしさを歌いその繁栄を願うもの)

……25曲(27%)

③ 教育的・教訓的な教材(歴史上の著名な先人を褒め称え子どもたちにもかく在れと奮励努

力を促すもの) ……16曲(18%)

④その他(史実などをおもに歌ったもの) ……10曲(11%)

(*パーセンテージの数値は小数点下 2 桁を四捨五入したもの)

①「花鳥風月を歌った教材」楽曲例(譜例 1 )

 ここに分類される歌はもっとも多く,全体の44%を占めている。〈初編〉冒頭の第 1 曲「か をれ」,第二曲「春山」,第三曲「あがれ」はいずれも日本の四季や自然の美しさを歌った曲 である。同じ〈初編〉の第十三曲「見わたせば」も同様だが,楽譜からも分かるように,こ れは現在の「むすんでひらいて」である。「蝶々」は「ちょうちょ ちょうちょ 菜の葉にと まれ……」と歌われる「ちょうちょう」である。ただ「蝶々」も,歌い込まれている歌詞の 内容は,現在のものと大きく異なる。個々の例について次に述べてみたい。

(譜例 1 )

(5)

1 .見わたせば あおやなぎ 花桜こきまぜて   みやこには みちもせに 春の錦をぞ

  さほひめの おりなして ふるあめに そめにける 2 .みわたせば やまべには をのへにもふもとにも   うすきこき もみぢ葉の あきの錦をぞ

  たつたびめ おりかけて つゆ霜に さらしける

 「見わたせば」は,1 番の歌詞で春の景色の美しさをたたえ,2 番では秋の紅葉の美しさを 歌っている。メロディーはフランス啓蒙主義の思想家J.J.ルソー(J.J. Rousseau 1712- 1778)作曲のオペレッタ「村の占い師」(LE DEVIN DU VILLAGE)の中で歌われた曲「グ リーンヴィル」(主よ我々がここを去るとき,ご加護をお授け下さい。我々の心を喜びと平安 で満たして下さい。……)である。日本では讃美歌として歌われ,また軍歌「戦闘歌」とし ても別の歌詞をつけられ歌われた。「むすんでひらいて」の曲名で動作をつけながら歌われる ようになったのは戦後で,歌詞の作者は不詳である(3)。 9 世紀初頭にアメリカでも歌われてい る。ともかく,原詩とはまったく異なった歌詞がつけられていることがわかる。

②「天皇或いは天皇制に関わる教材」楽曲例(譜例 2 )

 ここに分類される楽曲例として,「初編」第17曲「てふてふ」を挙げることが出来る。楽譜 から分かるように,メロディーは現在も歌われている「ちょうちょう」である。

(譜例 2 )

1 .てふてふてふてふ 菜の葉にとまれ   2 .おきよおきよ ねぐらの雀   菜の葉にあいたら 桜にとまれ      朝日の光の さしこぬさきに   桜の花の 栄ゆる御代に         ねぐらをいでて こずえにとまり   とまれよあそべ あそべよとまれ     あそべよすずめ うたえよすずめ

(6)

 歌われている歌詞とは異なっている。先ず 1 番の 3 行目にある歌詞「桜の花の 栄ゆる御 代に」の部分は,現在では「桜の花の 花から花へ」と歌われる。「桜」は天皇による治世の 象徴であり,「栄ゆる御代」にあって「とまれよあそべ。あそべよとまれ。」と臣民(国民)

は安心して日々を過ごしなさいと歌われる。 2 番になるといきなり巣の中の雀に仮託して子 どもたちに早起きを奨励する教訓的な歌詞となる。 3 )の「教育的・教訓的な歌詞」に分類 してもいい歌だが, 2 番はほとんど歌われなかったので,ここでは②に分類した。一番を野 村秋足,二番を稲垣千頴が作詞している。この歌のメロディ-は長い間スペイン民謡とされ てきたが,安田の研究(4)などにより,現在ではドイツ民謡或いはドイツの古い童謡と表記され るようになった。フランツ・ヴィーデマン(Franz Wiedemann, 1821~1882)によるとされ る歌詞は「Hänschen klein」(訳:「幼いハンス」)という原題を有し,放浪の旅に出た幼いハ ンスが遍歴をへて故郷の母の元に戻るという内容である。日本語の歌詞はそれとはまったく 異なったものとなっている。

 既述の通り,天皇による治世を言祝ぎその繁栄を祈る歌は全91曲中25曲(27%)もあるが,

その多くが「てふてふ」のように花鳥風月を歌う歌詞の中に包摂するかのようにその本来の 意図(天皇或いは天皇制への言及)を歌い込んでいる。他に〈初編〉では第28曲「おぼろ」,

第29曲「雨露」,第30曲「玉の宮居」が,〈第 2 編〉では第36曲「年たつけさ」,「みたにの奥」

が,〈第 3 編〉では第63曲「富士筑波」,第69曲「小枝」,第85曲「「四(よつ)の時」などが ある。

③「教育的・教訓的な教材」楽曲例(譜例 3 )

 冒頭部のアウフタクトがないものの,第三巻に収録された第五十六曲「才女」のメロディー は,スコットランドの民衆歌曲として知られる「アニー・ローリー」である。里見義によっ て作詞されたこの「才女」は,『源氏物語』の作者紫式部と『枕草子』の作者清少納言を取り 上げ,その秀でた業績を称揚し,子どもたちにもかく在れと歌っている。

(譜例 3 )

(7)

(歌詞)

1 .かきながせる 筆のあやに    2 .まきあげたる 小簾(おす)のひまに   そめしむらさき 世々あせず    君のこころも しら雪や

  ゆかりのいろ ことばのはな    蘆山(ろさん)の峯 遺愛のかね   たぐいもあらじ そのいさお    めにみるごとき その風情

 原曲の「アニー・ローリー」(Annie Laurie)は,ウィリアム・ダグラス(William Douglas 1672? ~1748)の詩に,スコットランドの女性音楽家ジョン・ダグラス・スコット夫人(Alic- ia Scott)が曲を付したものである。アニー・ローリーは実在の女性で,スコットランド中に 知られた美しい女性だったといわれる。詩は,1700年ごろにウィリアム・ダグラスによって 書かれたとされる。ダグラスはアニー・ローリーに結婚を申し込んだが,歳の差や彼女がま だ若すぎること,政治的な立場の相違などで,アニーの父親から強く反対され,その恋は成 就しなかった。原詩は恋する女性アニー・ローリーへの限りない憧憬と失恋の痛みを歌った 歌である。恋の歌が「才女」の歌詞によって全く別の教育的・教訓的な歌に変えられてしまっ ている。

 同様の楽曲をもう一曲挙げる。〈第三編〉所載の「花鳥」である(譜例 4 )。楽譜からも分 かるように,メロディーは世界的に流布し愛好者も多いヴェルナーの「野ばら」である。

(譜例 4 )

(歌詞)

1 .山ぎはしらみて 雀はなきぬ

  はや疾くおきいで 書(ふみ)よめわが子   書よめ吾子 ふみよむひまには 花鳥めでよ

2 .書よむひまには 花鳥めでよ

(8)

   鳥なき花咲 たのしみつきず

   楽しみつきず 天地(あめつち)ひらけし 始めもかくぞ

 近藤朔風の訳詞により「わらべは見たり 野中のバラ……」と歌われる「野ばら」(Heiden- röslein)」の原詩はドイツの文豪ゲーテによる。ゲーテの歌詞にある「わらべ」は少年であ り,野に咲く「バラ」は若い女性を象徴している。男女の恋のさや当てが原詩のテーマであ る。「花鳥」の歌詞はゲーテによる原詩とは大きく異なり,早起きして勉強に精を出し,花鳥 を楽しみ心を豊かにしなさいと言う教育的・訓育的な歌詞である。

 他にも,同じ第三巻に収録された第七十三曲「誠は人の道」(里見義作詞)は「一 まこと は人の 道ぞかし つゆな そむきそ 其みちに  二 こゝろは神の たまものぞ 露な けがしそ そのたまを。」と歌われるが,原曲はモーツアルトのオペラ『魔笛』(1791)中の パパゲーノのアリア「恋人か女房か」(

Ein Mädchen oder Weibchen

)という楽しくも滑稽 な詩であり楽曲である。これらの原曲の改変・改作作業は,その割り切り方において,見事 と言う他ない。そこにあるのは音楽作品への畏敬や憧憬ではなく,教化の手段として扱おう とする姿勢である。

《戦後学校音楽科教育と『学習指導要領・音楽編(試案)』(1947)》

 第二次世界大戦での敗戦によって,戦後日本の教育は大きく変貌した。1941(昭和16)年 より日本の尋常小学校は国民学校と名称を変え,「唱歌科」は国民学校芸能科音楽となる。芸 能科音楽の精神は「皇国の道の修練」であるとし,次のように述べられている。

 われわれは,悠久の昔から,われわれの祖先が修練し創造してきた歴史的国民的な芸 能文化のうちに養はれ育てられてゐる。そこには,祖先がわれわれに遣した伝統的な物 の見方,感じ方,考へ方があり,遺訓があり,道風があり,道がある。さうして,それ 等のものの帰結するところは,芸能文化の面を通しての皇運の扶翼といふことにある。

それが,皇国の道である。われわれは,この皇国の道に於いて現に生かされてゐると共 に,将来,ますますこれを発揚して行かねばならないのである。即ち芸術技能を修練す4 4 4 4 4 4 4 4 ることを通してこの皇国の道に参じ,自分に於いて皇国の道を自証し,皇国の道に於い4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 て自分を自覚し,皇国の道の使徒としてこれを紹述し,これを顯彰し,以つて国運の発4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 展に貢献して行かねばならないのである4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。(傍点,中山)

 第二次世界大戦における敗戦によって日本の学校音楽科教育は大きく変わるが,それを象 徴するのが1947(昭和22)年に出された第一次『学習指導要領(試案)』である。「憲法」そし て「教育基本法」などの新たな法令を踏まえて文部科学省によってつくられた『学習指導要 領』は,その「序文」において,これまでの教育が中央集権的で画一的であったとし,戦後

(9)

教育ではそうではなく「下の方からみんなの力」で作り上げようと述べている。文部行政の 大きな転換である。これがお題目だけでなく,行政側が本当にその方向で教育改革を進めよ うとしていたことは,要領に付せられた「試案」の文字からもうかがうことが出来る。行政 側が「試案」とした意味は,これが上意下達の従わせるためのものではなく,あくまでも参 考にすべき「手引き」として捉えていたからである。そこには,戦前・戦中の教育によって日 本が戦争への道へ突き進んで行ってしまったことへの反省の意が込められていた。同要領の 本文には各教科ごとにその教科の目的,指導すべき分野やその範囲について記述されている。

 「音楽編」の「まえがき」には次のように書かれている。

まえがき

一 芸術としての音楽の本質

  音楽は,音を素材とする時間的芸術である。音楽では,素材となる音に,まず,生命 が与えられる。即ち,音のリズミカルな運動が起こされて,ここに,音楽的な生命の 躍動が始まるのである。リズミカルな運動は,発展して旋律的な要素の導入となり,

旋律的な動きは,必然的に和声の肉附けを生む。(以下略)

 まるで音楽美学の書籍や論文を読むような気持ちにさせられる,音楽の本質を説明しよう とする文章である。「まえがき」は次の言葉で結ばれる。

 このようにして生まれた音楽は,人間と同じように生きている。そして音楽独自のこ とばで,その楽想を語るのである。独自の言葉は何かというに,それは,音そのもので あり,音の運動である。しかも,それらは,世界でただ一つの普遍語である。

 つづく「二 音楽の特異性と音楽教育」でも,音楽は音そのものを素材とした時間芸術で あることが念を押すように述べ,音楽或いは音楽教育がそれ以外の要素によって律せられる ものではないと述べる。同じ『学習指導要領』には戦後音楽科教育の目指すべき目標につい ても書かれている。

第一章 音楽教育の目標

一 音楽美の理解・感得を行い,これによって高い美的情操と豊かな人間性とを養う。

二 音楽に関する知識及び技術を習得させる。

三 音楽における創造力を養う(旋律や曲を作ること)。

四 音楽における表現力を養う(歌うことと楽器をひくこと)。

五 楽譜を読む力及び書く力を養う。

六 音楽における鑑賞力を養う。

(10)

 音楽教育は情操教育である,という原則は今も昔も少しも変わっていない。しかし,

その意味の取り方は従来必ずしも正しい方向にあったとはいえない。音楽教育が情操教  育であるという意味は,目標の一に掲げたように,音楽美の理解・感得によって高い美  的情操と豊かな人間性を養うことである。従来の考え方のうちには音楽教育を情操教育  の手段として取り扱う傾きがはなはだ強かった。即ち,情操を教育するために音楽教育  を行うという考え方である。しかし,音楽は本来芸術であるから,目的であって手段と  なり得るものではない。芸術を手段とする考え方は,芸術の本質を解しないものである。

(以下,略)

 「目標」の冒頭「一 音楽美の理解・感得を行い……」及び「二」項以下の音楽科の活動領 域を示した記述は,現在から見ればごく当たり前のことである。しかしながら,それまでの 国民学校(1940~1945年)における教育そして音楽科教育は,戦争遂行のため「国民的情操 の涵養」や「国民的道徳の醇化」実現のための手段であった。それを否定し,音楽教育の目 的は,音楽それ自体を理解し感じ取ることを教科の目的としたのである。活動領域にしても,

歌唱の他に器楽や鑑賞の活動領域も含まれ,新たに「旋律や曲をつくること」といった創作 活動すら領域として掲げられている。現在の音楽科学習領域のすべてを網羅している。しか も,創作活動こそが他のすべての学習活動の基礎となり得るとさえ他の箇所で強調している。

これは,この第一次『学習指導要領』の作成に調査官として中心的に関わったのが諸井三郎 という当時の日本を代表する作曲家であったことにもよるであろう。その点を考えるなら,

「音楽美の理解・感得」を目的の冒頭に掲げることは画期的であった。無論,「音楽美の理解・

感得を行い」の後に,「これによって高い美的情操と豊かな人間性4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4とを養う」(傍点,筆者)

という表現がつづくが,「まえがき」から読み進めるなら,音楽科教育の目的をあくまでも音 楽そのものに置こうとしていることが分かる。一方,第一次『学習指導要領(試案)』の作成 に中心的な役割を果たした諸井三郎は,第二次以降の指導要領の作成には関わっていない。

第二次『学習指導要領』の出された1956(昭和31)年に彼個人の名で出版した著書の中で次 のように述べ,「情操」という文言を用いたことは望ましくはなかったと述べている(6)

 音楽教育は情操教育であることは間違いないことなのですが,しかしそれが余りに簡 単な表現であるために,かえって本当の意味が見失われるのです。私たちは情操教育の 手段として取扱われていた音楽教育を本来の立場に立戻らせるべく,これを解放しなけ ればならないのです。そのために私は情操教育という言葉を用いることを好まないので4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 す。それよりも芸術教育という言葉を用いる方が誤解を生じないのではないかと思いま4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。(傍点,中山)

 この文章は,諸井自身が示した音楽科教育の目標やあり方を否定するかのような動きがあ

(11)

り,その動きを指導要領の作成から退いた諸井が察知したからではないだろうか。諸井の文 章から 2 年後の1958(昭和33)年,『学習指導要領』は 2 度目の改訂がなされる。第三次『学 習指導要領』からは「試案」の文字が消え,いわゆる「基準」の時代を迎える。それまで実 施されることのなかった「道徳」が復活することになる。

《『学習指導要領』の変質~「試案」から「基準」へ~》

 1958(昭和33)年 3 月15日付けで「小学校・中学校教育課程の改善について」という答申 が教育課程審議会会長日高第四郎から文部大臣松永東に宛てて提出された。この答申の中で,

小学校中学校ともに「教育課程の改訂方針」として,教育課程は「教科」,「道徳」,「特別教 育活動」および「学校行事その他」を含むものとされている。さらに同年 7 月31日には文部 省初等中等局長が,近々公表される第三次『学習指導要領』各教科改定案の概要について新 聞紙上において説明している。 9 つの改訂の要点が挙げられているが,冒頭には「一,道徳 教育を徹底すること」とあり,第 5 項目目には「五,情操の陶冶,身体の健康安全の指導を 充実すること。音楽や図画工作,美術の教育を通して,美的情操を豊かにし,日常生活にう4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 るおいをもたせるように考慮した4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。」(傍点,中山)と説明している。

 これらを受けて,同年10月 1 日付けで第三次『学習指導要領』が出される。第一次,第二 次に付せられていた「試案」の 2 文字は消え,「手引き」としての同要領は『官報』に告示さ れることにより強制力のある「基準」となる。『学習指導要領』はそれまでの「試案」から

「基準」へと,その性格を大きく変えることになる(7)

 また,それまで排除されていた「道徳」がここにおいて正式に復活を遂げることになる。

さらに教育課程については,それまでの経験重視や問題解決型のあり方から教育内容の配列 を重視した系統学習の方向へ大きく転じることになる。学習内容を丸ごと受け入れ,そこか らその全体を構成している要素の学習へ入る学び方をやめ,いわゆる要素連合主義へ舵を切っ たことである。同要領の特徴を整理すると,次の三点となるであろう。

  1 ) これまで「試案」であった学習指導要領が法的基準性と拘束性をもつものになったこ と。

  2 )道徳が教科と並ぶ一領域として指導要領に明示されたこと。

  3 )経験主義的な問題解決学習にかわって系統学習が中心となったこと。

 音楽科に関しては,鑑賞と歌唱の学習教材として,新たに必修の「共通教材」が設定され た。たとえば第一学年用の鑑賞教材は「おもちゃの兵隊」(イエッセル),「森のかじや」(ミ ヒアエリス),「ガボット」(ゴセック)の 3 曲が。歌唱教材には「かたつむり」「月」「日の 丸」の 3 曲が指定されることになる。歌唱教材の 3 曲はいずれも文部省唱歌である。「共通教 材」は現在の『学習指導要領』に至っている(鑑賞共通教材は1989(平成元)年の第 6 次『学

(12)

習指導要領』まで曲目が示されるが,それ以降は明記されなくなった)。

 さらに,教育課程が系統学習の方向を選択する中で,音楽科の学習にも大きな影響があっ た。いわゆる要素連合主義である。音楽を丸ごと学び,そこから個々の構成要素やを学ぶと いうのではなく,小学校であれば学びの要素を全 6 学年にばらばらに散らし, 6 年終了時に それらがあたかも有機体のように一つにまとまり意味を持つという考え方である。

 音楽科に関してはもう一つ変化があった。戦後姿を消していた「君が代」が音楽科教科書 の中に復活したことである。

 第三次『学習指導要領』が出された 8 年後の1966(昭和41)年,音楽学者で音楽評論家の 丹羽正明が『音楽芸術』誌上で興味深い発言をおこなっている。「芸術不在の音楽教育の現状 と音楽教育者の不在」と題する論文で丹羽は自身の子ども時代を振り返り,次のように述べ る。

 学校で,音楽の時間といえば〈唱歌〉に決まっていた。私どもの子供の頃にくらべる と,いまの義務教育課程における音楽の授業は,格段の進歩を示している。「歌唱」「器 楽」「創作」「鑑賞」と,音楽実践活動の全領域にわたり,まんべんなく配慮がなされて いて,ぬかりがない。(中略)では,現在の音楽教育は,一部関係者が誇るように,それ ほど立派な内容をもつものかどうか。私は,その根本的な姿勢の点で,大きな疑問を抱 いている。いま行われている小・中学校の音楽教育は,文部省告示による学習指導要領 によって規制されている。これはなかなか詳細を極めたもので,低学年から高学年に行 くに従って,段階的に音楽能力が伸ばされて行くように,指導の目標と内容が列挙して ある。それは,楽典を各学年にばらまいて配分したような,非常に具体的な事項を述べ た部分と,一方,きわめて抽象的な,一種の精神訓話的な部分とから成り立っている4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4(8)

(傍点,中山)

 丹羽の言う「精神訓話的な部分」とは何のことなのだろうか?第一次及び第二次『学習指 導要領』では音楽そのものを音楽教育の目的とし,精神訓話を含め何かの「手段」として音 楽教育が行われることを否定した。すでに半世紀近い前の論文であるが,音楽教育が「精神 訓話」のための手段となったと丹羽は述べる。「精神訓話的」価値が芸術的な価値に優先され てしまうと,音楽芸術の面におけるさまざまな特質や良さが否定されてしまう。丹羽の史的 からさらに半世紀を経た現在はどうなのだろうか?

《おわりに》

 筆者は,以前勤務していた大学で教員免許更新講習会の講師を務めたことがある。講義の 中でアメリカ民謡の「思い出のダンバートンドラム」(日本語訳詞/加藤登紀子)を歌った。

さらに,この歌について,現職の教員である受講生たちと討論した。 7 番まである歌詞の 1

(13)

番は次の通りである。

ダンバートンドラム 聞いていると 思い出すあの日のこと

ジョニーがはじめて 私にくちづけをした あの日のこと(以下略)

  2 番の歌詞は「夏の日 畑には 麦の穂が風に揺れて 太鼓の鳴り響く音を 聞いていた あの夜のこと」とつづき,ある夜,ジョニーが跪いてこの歌の主人公をやさしく見つめ,彼 女はジョニーの腕に抱かれる。若い 2 人は教会で結婚式を挙げ,遠くへ旅に出る。ジョニー は栗色の髪をした素敵な男の子で,私はまだ幼い少女だった。ダンバートンの太鼓の音を聞 いているとその頃のことを思い出すという青春時代を回想する美しい歌である。しかし, 1 番の歌詞の中には「くちづけ」という言葉が出てくる。 4 番の歌詞には「(ジョニーの)腕に 抱かれて」という表現も出てくる。講習会では全員でこの歌を歌ったあと,「どうですか,い い歌でしょう?この歌は1970年代に出版された『おんがく ぐーん(9)』という教材集の中の歌 集に収録されている歌で,小・中学生をおもに対象とした歌の一つです。」と説明すると,教 室からは驚きの声があがる。「くちづけ」や「腕に抱かれて」という歌詞が教室向きではない という意見や感想が受講者たちから出された。だが,この歌の歌詞は,そんなに問題となる ような歌詞なのだろうか?

 また昨年,幼児と若い母親たちの会の講師を担当したことがある。その中で私が取り上げ た歌は「ひとくい土人のサムサム」(谷川俊太郎/作詞:林光/作曲)だった。腹を空かせた サムサムは甕の中の亀の子を平らげ,次に友達のカムカムを食べてしまう。そしてまだ空腹 が満たされないサムサムは,最後には「やせっぽちの自分」を食べ,「誰もいなくなった」で 終わるシュールな歌である。若い母親たちの反応はけっして良いものではなかった。無論,

現在では「土人」という言葉は使用されない。反応の中心は残酷な歌詞であり,わが子には とても聞かせられないというものであった。友達を食べてしまうのだから。

 恋の歌,愛の歌に対する言葉上のストイック姿勢,そしてファンタジーにつながるシュー ルな表現へのためらい。一方で,子どもたちの歌の中に大きな広がりを見せてきているのは

「Believe」(杉本竜一作詞/作曲)に代表されるような「やさしさ」を歌った歌である。 1 番 の歌詞は次のように始まる。

たとえば君が 傷ついて くじけそうに なった時は かならずぼくが そばにいて

ささえてあげるよ その肩を(以下略)

 大学における音楽科教育法などの授業の初回で,楽譜なしで歌える歌を何か歌おうと提案

(14)

すると,学生側から必ず出てくる歌の一つがこの歌である。歌詞は優しさに溢れた曲である。

「この歌を歌うと,泣き出したくなる」という学生もいる。「Believe」に限らず,学校の音楽 科教材の中には,励まし合いや支え合いといった,これに類した歌詞の歌は多い。「やさし さ」や「助け合い」といった心情をはぐくむことは大切である。しかし,日本の音楽科教育 のたどった歴史を踏まえながら,それは芸術教育としての音楽科教育の役割なのかどうか,

自立した音楽教育とは何かについて,あらためて議論の俎上に乗せてもよいのではないだろ うか。

( 1 )初編の出版年は1881(明治14)年となっているが,実際は翌1882(明治15)年である。

( 2 )伊澤修二(1851~1917) 信州伊那高遠出身の日本の教育者,文部官僚。近代日本の音 楽教育,吃音矯正の分野で活躍した。

( 3 )この曲の由来は海老沢敏『むすんでひらいて考』(岩波書店,1986年)に詳しい。

( 4 )安田寛『「唱歌」という奇跡 十二の物語』文春新書,文芸春秋,2003年,p.51

( 5 )文部省『国民学校「初等科音楽 四」(教師用)』,1942年

( 6 )諸井三郎『芸術教育叢書 1  音楽』近代生活社,1956年,pp.129~130

( 7 )『学習指導要領』が法的強制力を有するか否かについては議論の分かれる部分もある。

たとえば1970年~1979年には日本教育法学会初代会長を務めた有倉遼吉は,「国の行政権 力が,法規の形式で定めることは決して妥当とはいえない,教育課程の基準を強制する ことは,その作成主体がいかなるものであるとを問わず,教育の本質と相容れない。教 育基本法と教育の本質を価値判断の基準として考えた場合,このように論断せざるをえ ないのである」と述べている。(有倉遼吉,「教育の国家基準」教育法規研究会編『学習 指導要領の法的批判』勁草書房,1970年,pp.9-10)。

( 8 )丹羽正明「芸術不在の音楽教育の現状と音楽教育者の重要性」『音楽芸術』第24巻第 3 号,1966年 2 月

( 9 )林光他編『ほるぷ教育体系・音楽・小学生編・おんがくぐーん!おんがくのほん』,ほ るぷ出版,1974年

参照

関連したドキュメント

 音楽は古くから親しまれ,私たちの生活に密着したも

女子の STEM 教育参加に否定的に影響し、女子は、継続して STEM

目標を、子どもと教師のオリエンテーションでいくつかの文節に分け」、学習課題としている。例

・学校教育法においては、上記の規定を踏まえ、義務教育の目標(第 21 条) 、小学 校の目的(第 29 条)及び目標(第 30 条)

副校長の配置については、全体を統括する校長1名、小学校の教育課程(前期課

「1.地域の音楽家・音楽団体ネットワークの運用」については、公式 LINE 等 SNS

大学で理科教育を研究していたが「現場で子ども

C =>/ 法において式 %3;( のように閾値を設定し て原音付加を行ない,雑音抑圧音声を聞いてみたところ あまり音質の改善がなかった.図 ;