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︿論説﹀
超 実 定 法 性 と 法 理 念 論
1自然法的なものとは何かー
松岡誠
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一︑はじめに
二︑現代自然法論と超実定法性
1超実定法性2自然法的なもの
3形而上学なき自然法‑目に見える自然法1
4現代実定法論の可能性
5第三の道三︑超実定法性的法理念の展開
1性格旧法学上の自然法
2機能11書かれた自然法
3構造11事物の本性Dコーイングの見解釧ラートブルフの見解
4価値11人間の本性b人間の能力朗人間性
四︑おわりに
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一︑はじめに
かつてゲーテは﹃ファウスト﹄の中で︑﹁法律なんていうものは永遠な病気のように遺伝して行く﹂(高橋健二訳︑
角川文庫)とメフィストに語らせた︒おそらくゲーテにとって︑法とはいつの間にか蔓延し︑人間の自由な精神を害
ヘヘヘヘヘへし︑また人間社会の忌むべき所産として受けとめられていたのかもしれない︒あるいはゲーテと同時代の作家シラー
も同様の見方を﹃群盗﹄で語っている︒すなわち主人公力ールは﹁法律とは何だ︑荒鷲のように飛び翔けろうとする
ものを︑堕落の底へ誘い込んで︑かたつむりのようにはらばわせるのだ﹂(久保栄訳︑岩波文庫)と︒
︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ( 1 )
こうして文学者の見る法は︑人間の精神や人間の本来的な生き方にも反するようなものであって︑またそこに物語が生じる︒たとえば無実の罪に苦しむダンテス(デュマ﹃モンテ・クリスト伯﹄)や殺人におののくラスコーリニコフ
(ドストエフスキー﹃罪と罰﹄)等の登場である︒しかしドイツ三大喜劇の一つ︑クライスト﹃こわれがめ﹄のヒロイン︑
エーフェの言葉ほど滑稽なものはない︒すなわち﹁裁判官ってあの人のことですの?自分こそ罪人で︑法廷に引き
ヘへ出されて裁判をされなくちゃならない人ですわ﹂(手塚富雄訳︑岩波文庫)と︒まさしくそれは︑法の世界特有の欺隔
ヘヘへの仮面をみごとに見抜いたのであった︒それゆえに裁判官こそ︑シェークスピア﹃ヴェニスの商人﹄に登場するポー
ヘヘヘヘヘシアのような正義の女神であらねばならないのだ︒
そこで作家は︑法律の内にはびこる不正を俊敏にも直観し︑それと法の外にある正義との間で揺れ動く人間精神の
ヘヘへ葛藤を描写するのであって︑ここに法の内と外という二つの世界の相剋が作品に表わされるのである︒作家にとって
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへは︑法律の世界こそ現実そのものであって︑それを洞察する目はどこか他のところにあるのかもしれない︒そして作
ヘへ家のそのような視点は︑法を深く考察する者にとってもとりわけ不可欠であろうし︑あるいはまたそれは法をめぐる
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二つの世界のアンチノミーについて︑かつてラートブルフが指摘した問題であった︒すなわち﹁存在と当為︑実定法ヘヘヘヘヘヘへと自然法︑正統法と革命法︑自由と秩序︑正義と衝平︑法と恩赦﹂である︒そこでは︑世俗における法(実定法秩序)
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへに対して世俗を超える法(超実定法秩序)が相争っており︑それゆえ法において超実定法的な諸問題(中でも超実定法
性)を考察することは︑また人間精神や人間性の回復にとって意義あることと思われるのである︒
(1)拙稿﹁文学者の見る法﹂阿南成一編﹃新法学入門‑技術文明社会と法1﹄三七頁以下参照︒
(2)ラートブルフ﹃法哲学入門﹄(著作集第四巻)野田良之・阿南成一訳一八四頁参照︒
二︑現代自然法論と超実定法性
1超実定法性
ヘヘヘヘへ自然法の性格の中で︑超実定法性はその中心をなしてきた︒超実定法性があるために︑自然法は﹁法律を超える
( 1 ) ・ ・
法﹂といわれ︑また実定法の基準とされ︑さらに実定法に根拠を与える理念と解されてきた︒そして︑そのため﹁自然法と実定法﹂という二極的な対立関係が生じる︒この対立によって︑法の哲学は大きく二種に分断され︑歴史的に
も相容れない対照的な法思想が展開されてきた︒すなわち自然法論と法実証主義であって︑それぞれ他方を否定し合
い︑自然法論は普遍性や不変性を︑また法実証主義は個別性や可変性を強調して︑両者固有の法理を構築してきたの
であった︒
ヘヘへけれども︑超実定法性という性格は果たして自明なのであろうか?︑また自然法と実定法についても︑果たして明
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確な区別が現代法において可能なのであろうか?︑という疑問が生じる︒まして︑﹁実定法に内在する自然法﹂というような現代的な自然法論では︑超実定法性を単に形式的な分類理由として﹁自然法と実定法﹂の分岐点に置くだけ
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ヘヘへでは不充分であろう︒それに自然法や実定法の理念の問題についても︑このような現代的自然法論では︑より実質的
ヘヘヘヘヘへで内容的な価値性が検討されることによって︑むしろ性格が鮮明になると思われる︒それゆえ﹁形式的には実定法で
ヘヘヘヘへも内容的には自然法である﹂というような法命題があるとするならば︑その際︑その法命題の内容的吟味によって︑
それの超実定法性が判断されることになるのであって︑従来のように実定法に規定されていない命題をのみ考慮する
のでは︑今日では決して充分に超実定法性を説明していることにはならない︒と同時に﹁自然法と実定法﹂について
も︑今日では二極対立的ではなく︑むしろ両者は相補的な関連の中でそれぞれの特徴を有しているのであって︑両者
ヘヘヘヘへの形式的な領域の確定よりも︑両者の内容的な価値の相違に留意すべきなのであ'る︒
2自然法的なもの
また現代自然法論において︑伝統的意味で﹁自然法﹂の名を冠するような法命題の認識については非常に困難にな
っているらしい︒従来︑たしかに自然法の形而上学的根拠づけについては幾多の考究があるが︑現代自然法論にあっ
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘへては﹁法学上の自然法﹂に考察の重点が移ってきており︑むしろ非形而上学的自然法論が提唱されているのである︒
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへしたがって︑今日では自然法という名称が使用される場合︑自然法的なものとか自然法的な性格(自然法性)という
ヘヘヘヘヘヘヘへような意味で理解されることが望ましいと思われる︒そしてそのような自然法的な法命題を実際の歴史的法制度の中
で把握することが現代自然法論の課題となるのである︒それゆえ︑かつて﹁自然法﹂とか﹁自然法的なもの﹂とかい
われたような法の精神・理念・原則とはどのようなものであったのか︑またそれらが具体的にどのような法命題とし
て表わされた(あるいは現に表わされている)のかについて︑法思想史や法史学の検討から︑さらに現今の法や政治に
おける思想・制度をも考察する必要がある︒
ヘヘヘヘヘヘヘヘへということは思想や制度に現われた自然法的命題を観察し記述することであって︑それはまた自然法の機能的側面
を探究することによって︑実際の法原則や法命題において﹁自然法的なもの﹂が有する意義に目が向けられるのであ
る︒もっとも伝統的自然法論が現代自然法論にトミズム的な形而上学を要求する限り︑それの一般的な説得性を確保
することは難しいであろう・それゆえ自妖描法論に残された現代的麓は・このよ・つな機能的側面の諸考察にあるが︑
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘへそのためには実定法化された自然法について考えられねばならない︒今日では︑かつて自然法といわれた規範の多く
ヘヘヘヘヘヘへが実定化された︒それは自然法の成文化であって︑書かれた自然法ともいえよう︒そして書かれた自然法とはどのよ
うな法命題であるのかについて探究することは︑すぐれて現代的な自然法論なのである︒
3形而上学なき自然法
‑目に見える自然法
ヘヘヘへさらに自然法の考察に関しては︑その存在をめぐる問題とその機能をめぐる問題とに区別して探究することも一つ
の方法であろう︒たとえば井上茂著﹃自然法の機能‑思想史的考察1﹄では︑前者を﹁自然法の確認の問題﹂とし︑
また後者を﹁自然法の意味の問題﹂として把握されており︑自然法にとっては後者のような機能の考察こそ重要であ
る旨述べられて境・あるいは・自然法の存在については百然法とは何か﹂を考える奢論の領域で︑他方自然法
ヘヘへの機能については﹁自然法の働き﹂を考える現象論の領域で扱われる問題とも言えるかもしれない︒そして自然法を
ヘヘヘへ存在面からのみならず︑むしろ機能面から帰納的にアプローチするような方法が現代自然法論の発展にとって不可欠
であると思われる︒
たしかに従来自然法論といえば︑自然法の存在根拠や基本性格の解明にややもすると傾きがちであったし︑とりわ
ヘヘへけ自然法を形而上学から帰結して演繹的に考察するやり方がもっぱらであった︒そうではなく︑実際に自然法もしく
ヘへは静鰹法師かか伽と呼ばれるような諸々の思想や制度を︑現実社会であるいは歴史の中で記述することは決して不可
能ではない・このことはまた法史学者コーイ途が提唱した﹁形而上学なき自然法﹂の見方でもあった︒古代より
﹁正義の構造﹂が不変的であることをコーイングは法史学からの結果とし︑そして﹁社会秩序にとって︑立法者が看