ト一
王昭君は砂漠を越えて旬奴に向かう途上︑琵琶を弾じて思いを慰めた︒呼韓邪単干に嫁して一男を生み︑ついで次帝との間に二女を産んだ︒墓は厚和にあって青塚と呼び︑いつも青草が絶えなかったといわれる︒ その後王昭君のことは﹁文選﹂に記され︑詩︑雅曲︑絵画の題材となった︒わが国には古く雅楽曲が伝来し︑平安の世に貞保親王が尺八の譜とし︑能楽にも哀話が採用された︒ 本県では鹿島郡に王昭君の伝説がある︒いつか神栖町を訪ねた時︑奥 春草はインドに遊び︑アメリカに渡り︑さらにヨーロッパを巡り︑見聞を広め︑技法を体得した︒日本画を描く五浦の画家たちは東西古今に目を向け︑誠に気宇広大であった︒東晋末の画聖顧榿之が﹁伝神写照は正に阿堵の中にあり﹂と言った名言も理解していたものと考えられるのである︒穿議蘇謹饗
﹄一 磁雛響糠麟驚鼻 浄濃霧鑛 .麹 紙︐ 寸︑導嬉鴨欝・舞騒雛 無 手に荘重な五重の塔が立ち︑右手に本堂があった︒この寺は海の守護神で龍神を祭り︑平安時代に妙達上人の開いた霊場であると伝える︒時間の関係で名画は拝見できなかった︒終戦後間もない頃︑インドネシアのスカルノ大統領がこの名画を巨万の金で買い取ろうとして果たせなかった︒スカルノはこの絵画の歴史的背景を知っていたのであろうか︒炉 臣 聾 君鋤 ㍊