獨協大学外国語学部フランス語学科・図書館共催展示
響きあう音・色・言葉
―ベル・エポックの音楽・絵画・文学―
獨協大学図書館
1 階エントランス 展示コーナー
2016 年 5 月 23 日(月)〜6 月 17 日(金)
フランス語学科では、6 月 12 日(日)に「フランス音楽と文学の出会い」と題したコンサートを開催いた します。これに関連して、同時代の絵画作品を紹介し、作曲家や文学者と画家との交流に光を当てます。 フランス語で「美しい時代」を表すベル・エポック(Belle Époque)とは、19 世紀末から第一次大戦前 夜、芸術の都パリを中心に文化が爛熟した平和な時代を差します。ヨーロッパの偉大な才能がフランスに 集まったこの時期、音楽、絵画、文学は、国境を超えて影響を与え合い、豊かな実りを結びました。 1867 年以来定期的に開催されたパリ万国博覧会(1878 年、1889 年、1900 年)は、科学技術の進歩を 高らかに称賛し、フランスの国力を世界に示しました。また技術の進歩は人々の生活にも大きな変化をも たらします。鉄道の発達によってレジャーや旅行が人々の生活に取り入れられ、夜のパリは明るいイリュ ミネーションで照らされるようになります。こうした華やかなイメージの反面、一部の芸術家たちの間で は、近代文明に対する懐疑や反発が広がっていました。こうした世紀末の退廃的雰囲気、反近代の姿勢が ベル・エポックのもうひとつの顔をかたちづくっていることも忘れてはならないでしょう。 芸術の分野では自然主義への反動として象徴主義が興隆し、眼に見える世界を忠実に描くのではなく、 内的世界や抽象的な観念を象徴的、暗示的に描き出すことを目指しました。文学ではマラルメ、ユイスマ ンス、ヴェルレーヌ、エドガー・アラン・ポーが、絵画ではギュスターヴ・モロー、ピュヴィ・ド・シャ ヴァンヌ、ルドン、ナビ派、ラファエル前派などがこうした潮流の中心となります。また、この時代の芸 術の特徴として、音楽、絵画、文学の諸芸術がジャンルを超えて影響を与え合っていたことが挙げられま す。作家ユイスマンスは同時代の象徴主義絵画に触発され、世紀末的雰囲気の色濃い小説『さかしま』(1884) のなかで、主人公の館を飾るものとしてギュスターヴ・モローやルドンの絵画作品を登場させています。 マラルメは、マネ、ホイッスラー、ルドンをはじめ多くの画家と交流し、彼らに自らの作品集の挿絵制作 を依頼しました。ルドンは文学作品に深い興味を抱いており、マラルメ、ポー、ボードレールなど文学作 品に基づく作品を数多く残しています。作曲家クロード・ドビュッシーもボードレールやマラルメの詩を もとに作曲しました。 この展示では、「半獣神の午後―マラルメ、マネ、ドビュッシー」「ホイッスラーとラファエル前派」「ド ビュッシーと東洋趣味」「ルドン―無意識の中に眠る幻想美」「総合芸術誌『ラ・ルヴュ・ブランシュ(La Revue blanche)』」「ナビ派」という 6 つのテーマで絵画を中心に芸術家たちの交流を紹介します。『半獣神の午後(
L’après-midi d’un faune)』
マラルメ、マネ、ドビュッシー
○ステファヌ・マラルメ(1842-1898)『半獣神の午後(L’après-midi d’un faune)』
(1876)
とエドゥアール・マネ (1832-1883)
1876 年にマラルメは、長年温めていた半獣神をテーマにした作品を完成させ、パリの出版社 Alphonse Derenne から刊行するが、刊行にあたって、親しい友人の画家マネに挿絵を依頼した。「手漉きの紙に、 特別に鋳たエルゼヴィル活字で、手で印刷された・・・紅と黒の二色木版刷りは、ヨーロッパで初めて日 本版画を模倣したものである。[中略]これほどの贅沢はここ数年フランスでは絶えてなかった」(柏倉、『マ ラルメの火曜会』、p.22)とマラルメが解説するとおり、限定 195 部の豪華本であった。出版にあたって マラルメは細部にまで自ら眼を配り、一冊一冊に赤インクで番号と献呈相手の名前を書き込んだ。 本学図書館「鈴木信太郎文庫」には、1876 年 A. Derenne 出版の初版(195 番中の 105 番)をはじめ、2 版(1887 年、限定 500 部)、3 版(1887 年)が所蔵されている。今回展示するのは、初版を細部にいた るまで精巧に再現したレプリカである。○ クロード・ドビュッシー (1862-1918)
象徴主義文学に関心のあったドビュッシーは、ボードレールの『悪の華』のなかの五篇をもとにした『ボ ードレールの五つの詩』(1890)、ロセッティの詩から着想を得た『選ばれし乙女』(1893)ヴェルレーヌ の詩による歌曲などを作曲している。彼は若い頃からマラルメの詩にひかれており、1884 年には『あら はれ』をもとに作曲し、『半獣神の午後』(第3 版 1887 年)も読んでいたが、二人が実際に出会うのは 1891 年のことだった。たちまち意気投合し、ドビュッシーはマラルメ自宅で開催される火曜会の常連となる。 その後間もなく、ドビュッシーはマラルメの『半獣神の午後』をもとに、『牧神の午後への前奏曲(Préludeà L’après-midi d’un faune)』 を発表した(1894 年)。初演に先立ち、自宅でマラルメに弾いて聞かせる
と、マラルメは「私はこれほどのものを期待していなかった!この音楽は私の詩の感情を深めている。そ して、色彩を使ったよりもはるかに劇的な詩の書き割りになっている」と感激したという。(柏倉、『マラ ルメの火曜会』、p.166-167) 1912 年、バレエ・リュス(ロシア・バレエ)の奇才、ニジンスキーがドビュッ シーの音楽に振り付けしてバレエ『牧神の午後』を創作、自ら牧神を演じ、芸 術家たちのコラボレーションに新たな一ページを付け加えた。 レオン・バクスト バレエ『牧神の午後』プログラム表紙 牧神(半獣神)に扮するニジンスキー
ホイッスラーとラファエロ前派
○ ジェームズ・マクニール・ホイッスラー(1834-1903)とマラルメ
諸芸術家と交流が盛んだったことで知られるフランスの詩人マラルメだが、画家ホ イッスラーもその一人だ。ホイッスラーは 1834 年にアメリカで生まれ、パリで美 術を学びロンドンとパリを活動の拠点とした19 世紀後半に活躍した画家である。 1888 年 6 月 13 日にモネの紹介でホイッスラーとマラルメは出会い、文通などを通 して親しい間柄になっていく。1892 年、マラルメは自身の詩集である『詩と散文』 の口絵に自分の肖像を銅版画で制作することをホイッスラーに依頼し、ホイッスラ ーはこれに応える形で何度も失敗を重ねながら作品を完成させた。 ジェームズ・マクニール・ホイッスラー《マラルメの肖像》1892 年○ ホイッスラー《母の肖像》(1871)
ホイッスラーの代表作で、彼の母親を描いた作品。当初は色調を強調するために《黒と灰色のアレンジメ ント 第一番》というタイトルが付けられ、画廊やアカデミー展覧会に展示された。その後母の死後にパ リのサロンに再出品される際に《母の肖像》と名称を改めた。この作品はフランス国家買い上げとなるが、 その際にフランス政府に口添えしたのがマラルメであった。マラルメの働きのおかげで、作品はリュクサ ンブール美術館に収蔵されることになった。これは現存作家として最大の名誉であった。この時は格別感 謝の言葉が添えられた手紙がホイッスラーからマラルメへ送られた。○ ホイッスラー《黒と金色のノクターン:落下する花火》(1875)
ホイッスラーは《白のシンフォニー》や《灰色のアレンジメント》など音楽用語を用いた作品を多く制作 している。《黒と金色のノクターン:落下する花火》は連作《ノクターン》の一つで、1877 年の展覧会へ 出品すると、美術評論家ジョン・ラスキン氏によって「絵具壺の中身をぶちまけただけ。」と酷評された。 明確な主題や物語性を持つ事が重要とされていた当時の芸術に対し、ホイッスラーは特定の場所や事物を 描く事を否定し、色彩と形の組み合わせによって生み出される感覚的な美を追求しようとしたのである。 しかし1890 年代までには、こうしたホイッスラーの表現方法も世間に受け入れられていく。中でも作曲 家ドッビュシーは、《ノクターン》の賛美者であり、自身も交響曲『ノクターン』を制作する。双方の作 品の直接的な影響ははっきりとは分かっていないが、この作品以前に構想を練っていたヴァイオリンとオ ーケストラのための《ノクターン》についてドビュッシーが友人のイザイに宛てた手紙にはこう綴られて いる。「《ノクターン》は、例えば絵画でなら、さしずめ灰色のエチュードといった、唯一つの色彩が与え うる様々な配置の探求というわけだ。」1900〜1901 年の交響曲『ノクターン』の初演時には、批評家達に 高く評価される。「通常の意味での主題はない。」(アルフレッド・ブリュノー『フィガロ紙』)「捉えどこ ろがなく、まるで掴まえられないかのよう。」(シャルル・ジョリー)「この音楽は、私の最も鋭敏な感覚を要約してくれる。」(サン=マルソー=ヴェルデュラン夫人) 交響曲『ノクターン』の、主題の欠如、 聴衆の感覚に訴えかける表現。そこにドビュッシーがホイッスラーの影響を少なからず受けていたことが 窺える。
○ ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-1882)《祝福されし乙女》1871 年
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティはイギリスで活躍した画家・詩人で、19 世紀後半の象徴主義美術の先 駆とされるラファエル前派の一員である。この作品は1871 年に彼の後援者ウィリアム・グレイアムの特 別注文により、ロセッティ自身の詩を素材にした絵画だ。地上にいる恋人を慕い、彼が天国へ来るのを、 身を乗り出して待ちわびている天上の乙女が描かれている。彼女の下には天使が3 人、周りには再会を果 たした恋人たちが抱き合っている。死や天国で永遠に結ばれる恋人たちという主題は、ヴィクトリア朝半 ばの人たちが抱いていた天国の安らぎという理想に対する反抗の現れである。 題材となった詩『祝福されし乙女』は1850 年に初投稿され、ロセッティが亡くなる 1882 年まで何度 も改訂された作品だ。彼の創作活動の出発点であり、帰着点であると言える。 その当時、象徴派の作品を多く読んでいたフランスの作曲家ドビュッシーはこの詩に魅せられ、アルト 独唱と女声合唱、管弦楽のためのカンタータ『選ばれし乙女』を完成させた。1893 年の初演を見た画家 のルドンは称賛の意を込めてドビュッシーにリトグラフを贈り、またドニによるリトグラフ挿絵付きの豪 華版楽譜が出版された。 モーリス・ドニ《選ばれし乙女》1893 年ドビュッシーと東洋趣味
○ 万国博覧会
この時代、パリで定期的に開催された万国博覧会は、西欧以外の文化(アフリカ、アジア、南アメリカ など)を大量に紹介し、芸術家たちに大きな刺激を与えた。日本は1867 年のパリ万博に正式に参加する が、これは日本の文化や美術工芸品が幅広い人々に知られるきっかけとなり、やがてヨーロッパでジャ ポニスム(日本趣味)の流行をひきおこす。1878 年の万博の際にはジャポニスムの熱狂は頂点に達して いた。また、この時代の特徴として、これまで絵画や彫刻などよりも格の低いものとされてきた装飾芸 術への関心の高まりが挙げられるが、自国の美術産業振興を促す産業博である万国博覧会も、こうした 流れに大きな役割を果たした。○ エミール・ガレ(1846-1904)とアール・ヌーヴォー、ジャポニスム
新しい装飾芸術の様式として、花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線による装飾様式アール・ ヌーヴォーがヨーロッパ中に広まった。その代表的な作家がガラス芸術家のエミール・ガレである。 ガレは1876 年万博に出品した陶器で受賞、1889 年の万博には大量の作品を出品し、陶器部門でグ ランプリ、家具部門で銀賞を受賞し、国際的な評価を得た。1900 年の万博ではガレの作品がひとつ の目玉となった。 彼は植物などの自然を愛し、同じように自然を描く日本美術から影響を受け、北斎漫画からモチー フを得た花器《鯉文花器》(1878)を制作した。酸化コバルトで薄青色に色を付けたガラスに、エ ナメル絵具で描かれた鯉が泳いでいる。作品は 1878 年のパリ万博に出品された。また、彼は「北 斎の影響力は世界にも通用する」と日本美術を評価している。○ クロード・ドビュッシーとアール・ヌーヴォー、ジャポニスム
美術を愛し、芸術家との交流も多かったドビュッシーであるが、新時代の装飾様式アール・ヌーヴ ォーを高く評価し、また同時代の知識人同様、東洋の美術にも強い関心を持っていた。ドビュッシ ーは、パリでアール・ヌーヴォー様式の家具や工芸品、東洋の美術工芸品を扱う大美術商ジークフ リート・ビングの画廊の常連だった。ドビュッシーの家はアール・ヌーヴォー様式のランプや仏像、 漆塗りの板、浮世絵版画、東洋の陶磁器などで飾られており、交友のあった詩人ピエール・ルイス はドビュッシー邸を「アール・ヌーヴォー・アラベスクの部屋」と呼んだ。彼はそこでインスピレ ーションを受け、作曲したといわれている。○ 北斎とドビュッシー
同時代の知識人や芸術家同様、ドビュッシーは浮世絵版画を所有していたが、そのうちの一点が葛飾北 斎《冨嶽三十六景「神奈川沖浪裏」》である。ドビュッシーはこの作品を模倣した版画(作者不詳)を1905 年に出版した交響詩『海』の楽譜の表紙に使用している。ドビュッシーのジャポニスムへの傾倒を これほどまで顕著に示す例はほかにないだろう。当時、この浮世絵はドビュッシーのみならずパリの芸 術家に大きな影響を与えた。ドビュッシーが北斎の波から直接インスピレーションを得て『海』を作曲 したかは不明であるが、いずれにせよ、同時代の芸術家たちと共通する趣味嗜好をドビュッシーも持っ ていたことがわかる。
○ ガムラン音楽とドビュッシー
フランス革命の百周年記念として大々的に開催された1889 年のパリ万博で、ドビュッシーが最も感銘を 受けたのはインドネシアのガムラン音楽である。一定のテンポで刻み、きちんとした楽譜がある西洋音楽 とは全く異なり、ガムラン音楽はだれかが音を鳴らし始めるとそれに呼応するように奏でていく。ドビュ ッシーはこれに衝撃を受け、のちの作曲に大きく影響を受けた。特にピアノ曲『版画』第1 曲「塔」では ガムラン音楽を直接取り入れ、東洋の音楽を独自に表現している。 フランスを代表する作曲家クロード・ドビュッシーを紹介する際に、枕詞のように「印象派」といわれる。 曲名が『月の光』『海』『水の反映』など自然を題材にしたものが有名であるため、「自然」を表現する作 曲家という印象も受けるだろう。しかし、それは彼の音楽のほんの一部であり、ワーグナーや教会音楽、 ガムラン、または絵画や詩、美術工芸品、東洋の文化など、さまざまなものからインスピレーションを得 ていたのだ。オディロン・ルドン―無意識の中に眠る幻想美―
○ マラルメとルドンの出会い - 象徴主義
象徴主義は1880 年代後半にフランスで起こった反自然主義的な芸術運動である。フランスの詩人アルベ ール・オーリエ(1865-1892)は象徴主義について、「芸術作品の必須条件は、①理念的であること、② 象徴的であること、③総合的であること、④主観的であること、⑤(以上の帰結として)装飾的であること」 と定義した。つまり象徴主義とは、主観を強調し人間の内面世界を象徴的に表現しようとする立場のこと である。起源については、マラルメをはじめとする詩人らが詩語の音楽性を重視し、語音の響きによって 内的観念を象徴させようとする運動から始まり、のちに絵画の世界までその見解が広まった。 マラルメとルドンの出会いは象徴主義の歴史上重要な出来事として扱われるが、それは詩人と画家という 違った立場ではあったものの、両者が共感するものと追求するもの、精神の有り方や資質において非常に 似通っていたという事実に起因する。両者は、混沌とした意識の世界から湧き上がるものを“暗示”させよ うとしていた点で共通していた。物を描く(形容する)のではなく、それ自体が生み出す効果の表現を追求 し、鑑賞者の感性と思考を極限まで引き出そうとしたのである。目に見えない世界の中にこそ、両者の芸術の共通したテーマが存在したと言える。マラルメは、ルドンから贈られた石版画に芸術家としての自身 の姿を見ている。〈実在しないことを知りながら“神秘”を追い求めてやまず、己の明晰さのゆえに絶望の 喪服をまとう道士〉を描いたその作品は、いまだかつて誰も到達したことのない詩境を求めて苦悩する自 身の姿と重なり、マラルメはその本質をよく理解していた。 互いの資質をよく理解し、追い求めた芸術性を高め合える間柄であったマラルメとルドンの存在は、象徴 主義の概念をさらなる深みへと導いた重要な役割を担っていたと言えるだろう。
○ ルドン《笑う蜘蛛》(1881)
フランスの小説家ユイスマンスが1884 年に発表した小説『さかしま』に取り上げられた作品。不気味な 微笑みと個体を色づける「黒色」は人間の心に潜む欲望や嫉妬の念を表しており、蜘蛛という生物の姿を 借りて具現化されている。マラルメとルドンを結び付けるきっかけとなった作品でもあり、これを機に両 者は親交を深めていく。○ ルドン《キュクロプス》(1914)
神話に登場する一つ目の巨人キュクロプスを描いたルドンの代表作。元来「醜悪で凶暴な生物」として描 かれてきた巨人の眼差しは、哀しみと慈愛に満ちている。母に捨てられたという過去を持つルドンの女性 に対する複雑な感情が、グロテスクな題材と柔らかな色彩表現の共生という形で見事に表現されている作 品である。自然と同化した女性の姿には、また同時に男尊女卑に似た 19 世紀における女性観が反映され ている。○『骰子
と う し一擲
い っ て き』
ルドンがその挿画を手がけたマラルメ最後の作品。1897 年 5 月に国際誌『コスモポリス』で発表され、 この詩の印刷に適した活字を求めて印刷屋を訪ね歩いたというほどマルラメの活字組みへのこだわりが 凝縮された作品である。マラルメは白い紙面に形と大きさの違う活字で印刷される詩の本文と、黒い背景 に白い線で描かれたルドンの四枚の挿画の対照の妙を夢見たが、1898 年、彼自身の突然の死により叶う ことはなかった。総合芸術誌『ラ・ルヴュ・ブランシュ(
La Revue blanche)』
○『ラ・ルヴュ・ブランシュ(
La Revue blanche)』(1889-1903)
文学、絵画や音楽などの幅広い分野を取り扱ういわば総合芸術誌で、諸芸術交流の場ともなっていた。始 まりはリエージュ出身のオーギュスト・ジュノムとその友人ジョエ・ホッグ、そしてパリから来たシャル ルとポール・ルクレルクの文学愛好者4 人がベルギー東部リエージュに集結した時である。象徴主義文学が全盛を迎えようとしていた当時、マラルメの詩が当時の雑誌に掲載され、彼らの文学に対する興味をさ らに掻き立てていた。4 人の文学熱はいつしか自分たちの雑誌を作ろうという所までいき、ナタンソン兄 弟の財政面の協力もあり1889 年 12 月に創刊した。印刷はベルギー・リエージュで行い、雑誌の発行所は パリにあるルクレルク兄弟の家の近くに置くことになった。1891 年からはナタンソン兄弟の兄アレクサン ドルが経営面で支え、弟のタデは評論を寄稿することになり実質出版人が2 人になった。 ○
『ラ・ルヴュ・ブランシュ(
La Revue blanche)』とドビュッシー
クロード・ドビュッシーも『ラ・ルヴュ・ブランシュ(La Revue blanche)』に記事を寄せた芸術家の一 人だった。彼は1901 年に、「クローシュ氏との語らい」という音楽評論を寄稿している。ドビュッシーと ムッシュー・クローシュという男性が対談する、という内容だが、実はムッシュー・クローシュというの はドビュッシーのペンネームであり、この対談ももちろん架空のものである。ドビュッシーは、それまで の音楽とは全く違う革新的なスタイルの音楽家であり、しばしば皮肉の意味を込めて「印象派(または象 徴主義 )の作曲家」と呼ばれることもあった。それを受け、この「対談」で彼は自分の分身であるクロ ーシュ氏に「レッテルを貼られることは問題ではない」という主旨の発言をさせており、彼を揶揄する人々 がいても、自分の思うように音楽を作るという態度を表している。この記事からは、○○主義・○○派とい った既存のスタイルにとらわれない、ドビュッシーの音楽に対するスタンスが読み取れる。○ タデ・ナタンソン(1868-1951)、ミシア(1872-1950)と芸術家たち
『ラ・ルヴュ・ブランシュ(La Revue blanche)』の発行人にして編集長のタデ・ナタンソンは、フラン スを中心に活躍し、妻のミシアと共に芸術家などを支援するサロン活動に力を注いでいた。このため夫妻 はパリ中の知識人や、画家などの芸術家と交流があった。なかでもマラルメとは実生活でも交流を深め、 マラルメは多くの文章をこの雑誌に寄稿することとなった。La Revue blanche は彼らの眼鏡にかなった芸 術家を称賛し、内容の充実化を図るため、毎号オリジナルの版画を掲載した。この中に、彼らのサロンに 出入りし特に親交のあった画家ボナールとロートレックがいる。彼らはそれぞれLa Revue blanche の表 紙を描いており、ロートレックはその表紙をミシアの肖像で飾るなど、ナタンソン夫妻との親交をより深 めた。ロートレックはこの絵で、優雅に着飾ってスケートを楽しむ ミシアの姿を描いた。本作のために、二点の油彩習作が残されてい る。ナタンソンの妻ミシアは世紀末芸術のミューズともいうべき存 在であった。ロートレックほか、ルドン、ボナール、ヴュイヤール、 ヴァロットン、ルノワールなど同時代の錚々たる画家たちが彼女の 肖像画を残している。また、ミシアはナタンソンとの結婚前ガブリ エル・フォーレ(1845-1924)からピアノを習い、偉大なピアニス トとして将来を嘱望されてもいた。 ヴァロットン《ミシア》1898 年ナビ派
○ ナビ派
画家ゴーガンの指導を受け、自然の色を目に見えるままにカンバスに乗せた風景画《護符》(1888)を描 いたポール・セリュジエ(1864-1927)と、彼に共感した画家仲間によって結成されたグループ。モーリ ス・ドニ(1870-1943)は作品に関して「1枚の絵は、本質的には一定の秩序で集められた色彩による平 坦な面である」という言葉を残している。セリュジエやドニの主張した絵画の平面性を指標としてカトリ ック的な神秘主義や象徴主義を表現の軸とし、絵画に限らず舞台装飾や『ラ・ルヴュ・ブランシュ(La revue blanche)』誌のポスター、挿し絵など多様な場で活動した。「ナビ」とはヘブライ語で「預言者」を意味 する。主なメンバーに、モーリス・ドニ、ボナール、ランソン、マイヨール、ヴァロットンらが挙げられ る。1890 年代に毎年展覧会を開くなど活発に活動していたが、1900 年頃には自然に解散する形となった。 美術界と交流のあった音楽家ドビュッシーもナビ派と接触しており、影響関係にあった。「印象主義」と 評されたドビュッシーと、写実ではなく内的世界の表現を掲げ抽象や象徴絵画を扱うナビ派が、世紀末と いう時代において影響を与えあい、呼応するような作品を制作していたといえる。○ フェリックス・ヴァロットン(1865-1925)《楽器シリーズ》
《楽器シリーズ》でモデルとなったのはヴァロットンの友人の音楽家たちで、いずれも親密な室内空間が 舞台となっている。このことからも、音楽と視覚芸術の接近が伺える。 彼の木版画は新聞、雑誌の挿絵として多くが用いられ、1890 年代にはパリで大きな評判を得て、ヨーロ ッパだけでなく大西洋にまで彼の名が知られることとなった。木版画の作風はナビ派の画家であるゴーガ ン、ベルナール、さらには日本の浮世絵からも影響を受けていると言われている。彼がハーフトーンのな い白と黒の並置や、ダイナミックな人物表現を用いた独創的な版画を制作するようになってからは、その 手法を油彩作品にも応用するようになる。○ モーリス・ドニ(1870-1943)《イヴォンヌ・ルロールの 3 つの肖像》(1897)
この作品には三人の女性が描かれているが、三人とも同一人物である。モデルであるイヴォンヌ・ルロー ルはドニとドビュッシーの共通の友人である画家アンリ・ルロールの娘である。 真ん中のイヴォンヌは純白のローブを身にまとって乙女の輝きを表している。そして左のイヴォンヌは身 をかがめて花を摘み最盛期を表していて、右のイヴォンヌは喪を表す菫色のローブに身を包んで花を床に 投げ捨てていて黄昏を表している。このような三位一体という宗教形式にのっとったポジションはイヴォ ンヌを女性の理想として表現している。 また、1894 年にドビュッシーはイヴォンヌにピアノ曲『映像』を贈っている。このことからドビュッシ ーもまたイヴォンヌに魅了されており、彼女が創作のイマジネーションを与える存在であったことがうか がえる。参考文献
柏倉康夫『マラルメの火曜会 世紀末パリの芸術家たち』丸善ブックス、1994 年 Mallarmé, Stéphane, Correspondance Mallarmé-Whistler, A.G. Nizet, 1964 トム・プリドー 『ホイッスラー』タイムライフブックス、1977 年 小野文子(監)『ホイッスラー展』図録、横浜美術館、2004 年 アンドレア・ローズ『ラファエロ前派』谷田博幸(訳)西村書店、1994 年 デイビッド・ロジャーズ『ロセッティ』湊典子(訳)西村書店、2001 年 アリシア・クレイグ・ファクソン『ロセッティ画集』河村錠一郎・占部敏子(訳)リブロポート1993 年 『ドビュッシー、音楽と美術―印象派と象徴派のあいだで』展図版、日本経済新聞社 2012 年 フランソワ・ルシュール『伝記クロード・ドビュッシー』笠羽映子(訳)音楽之友社、2003 年 フランソワ・ルシュール『ドビュッシー書簡集』笠羽映子(訳)音楽之友社、1999 年 『世界美術大全集第24 巻 世紀末と象徴主義』小学館、1996 年 山本敦子『もっと知りたいルドン』東京美術、2011 年 ステファヌ・マラルメ『骰子一擲』秋山澄夫(訳)、思潮社、1991 年 柏倉康夫「マラルメとルドン」『みづゑ』1979 年 7 月号、102-111 頁 レナータ・ネグリ『ボナールとナビ派』若桑みどり(訳)平凡社、1974 年 アーサー・ゴールド、ロバート・フィッツデイル『ミシア』鈴木主税(訳)草思社、1985 年
展示作品
マネ《マラルメの肖像》1876 年 マラルメ『半獣神の午後』1876 年 マネによる挿絵 ホイッスラー《母の肖像》1871 年 ホイッスラー《黒と金色のノクターン:落下する花火》1875 年 ロセッティ《祝福されし乙女》1871 年エミール・ガレ《鯉文花器》1878 年 葛飾北斎《魚濫観音》『北斎漫画』第十三編 オディロン・ルドン《笑う蜘蛛》1881 年 オディロン・ルドン《キュクロプス》1914 年 マラルメ詩集『骰子の一擲は決して偶然を廃棄することなからん(骰子と う し一擲いってき)』 ルドン『骰子と う し一擲いってき』のための石版画
ポール・セリュジエ《護符》1888 年 フェリックス・ヴァロットン《フルート<楽器>II》 1896 年
モーリス・ドニ《イヴォンヌ・ルロールの3 つの肖像》 1897 年
トゥールーズ=ロートレック『ラ・ルヴュ・ブランシュ(La Revue blanche)』 表紙 1895 年 ピエール・ボナール『ラ・ルヴュ・ブランシュ(La Revue blanche)』 表紙 1894 年
響きあう音・色・言葉 ―ベル・エポックの音楽・絵画・文学― 展示・解説:フランス語学科 阿部明日香ゼミ 「ホイッスラーとラファエル前派」 小林 美貴 堀 千絵美 三浦 健太朗 「ドビュッシーと東洋趣味」 鈴木 結貴 東城 駿也 松本 虹歩 「ルドン―無意識の中に眠る幻想美―」 千脇 佑太 谷津 みらの 荒川 瑞希 「総合芸術誌『ラ・ルヴュ・ブランシュ(La Revue blanche)』」 相澤 凪悠 石水 結香 大熊 優美 関 千尋 「ナビ派」 鍬形 七海 芹澤 利太 涌井 金一郎