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離別詩の一つの源泉

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(1)

(一 )

「蘇武李陵詩」あるいは單に「蘇李詩」と稱される一群の詩がある。敗軍の將となってそのまま匈奴に仕えた李陵。

の使

となって匈奴に使いし、そのまま北

の (バイカル湖)

に十數年に亘って抑留された蘇武。昭

の始元六年(

八一年)、

と匈奴との和義が

たって、李陵は置酒して蘇武を り、蘇武の歸國が叶うに當 し、「域を

壹たび別るれば長へに ひととこし にする人、

徑 えん」と惜別の思いを吐露して、

里兮度砂

里を徑り砂 わた

路窮 爲君將兮奮匈奴君が將と爲り匈奴に奮う を度る 兮矢 摧路窮

して矢

老母已死老母已に死す 摧だけ と歌い、 らん 雖欲報恩將安歸恩に報いんと欲するも將た安にか歸 いづく

を流しながら蘇武と訣別した(『

も、七言を基本に「兮」字を この李陵の歌は、眞實彼自身の作か否かは問わないとして 。)廣蘇建列傳」 書』卷五四「李 は、 んだこのいわゆる楚歌の形式

のこの時期の抒

詩の形態として最も

ものであり、しかも後 和感のない の班固の『(三二九二)

書』に り、先の楚歌とは 一方、本稿が取り上げる蘇李詩は、整然とした五言詩であ ものとなっている。 に收められていることも、この歌の十分の古さを保證する

質なる形式を

っている。しかも確 できる蘇李詩の初出が、梁の『文

』まで下ることも

52

蘇武李陵詩考

離別詩の一つの源泉

松原

(2)

が必 である。『

書』

は、形式においても、また 引の李陵歌と、いわゆる蘇李詩と らくは 立時期についても、

なる事にある作品として取り

う必 なお本稿は、蘇李詩の眞僞を があるだろう。

またその じようとするものではない。

立時期の考察を目

の關心は、蘇李詩が一體いつから、またどの とするものでもない。ここで

晉南北 度において魏

期の離別詩の形

に影

を與えたのかを確

とにある。從って、その確 するこ に必 の な限りにおいて、蘇李詩 蘇李詩の 立に關わる事を整理することになる。

立に關わる

究は、今日に至るまで繼續

表され、それを後人の僞作と見るもの、李陵とは無關係に (1) に發 立した詩篇が李陵(また蘇武)の名の下に傳承(偽託)されたと見るもの、さらには李陵と蘇武の眞作と見るもの (2)等、その見解も多岐に渡る。本稿では、筆

が最も穩當と考える

欽立「

詩別 ( 蘇李詩」僞第一)(同『

魏六 陝西人民出版 文學論集』

、一九八四年)の見解に、原則として從いたい。

いわゆる蘇李詩を記

した確 できる初出文獻は『文

であり、卷二九 』 時不再至・嘉會 收の李陵「與蘇武三首」(初句はそれぞれ良 再

・携手上河梁)と蘇武「詩四首」(初句は それぞれ骨肉

枝 ・ 鵠一 別・結髮爲夫妻・燭燭晨明

の)

合七首である。その後、北宋の韓元吉の原篇とされる『古文

』に「(現行本卷八)

の 別詩」八首、蘇武「答詩」「別李陵」

合十首が見える。また

欽立の考證に據れば、『古文

篇であり、ここにさらに『文 卷八の孔融「雜詩三首」も代には李陵詩と目されていた詩 』 』李善

!や『北堂書鈔』に

引の二篇の殘句を加えて、現在確

となる。以下、蘇李詩についての できる蘇李詩は、二二篇

欽立の書誌

①「蘇武詩」は、梁代に「李陵詩」から 點に整理する。 見解を、三 李陵詩に對する言 "出した るが、蘇武詩への言 #は、すでに宋齊時代より散見され

#は梁に至って初めて現れる(『文 みを取り上げて、蘇武詩には言 顯『南齊書』文學傳論や、江淹「雜體詩」では李陵詩の 。しかも梁代においても、蕭子』卷二九「蘇武詩四首」)

なって「李陵の詩集」から 事實は、「李陵の詩集」が先に存在し、蘇武詩は梁代に #しない。こうした であり、その一つの證據として、その後も "出したことを示唆するもの

$しば兩

混亂が の

%こっている。例として、『文

して收める「骨肉 』では蘇武詩と 枝 」詩は、『初學記』卷十八では

蘇武李陵詩考(松原)

53

(3)

李陵「

には「結髮不相見」の句が含まれるが、これは『文 蘇武詩」に作る。また江淹「雜體詩」擬李陵詩

ある。このような混亂の存在は、宋齊以 が蘇武詩として收める「結髮爲夫妻」詩に擬したもので 』 李陵詩と未分 には蘇武詩が の 蘇軾は「正齊梁小兒 ②「李陵詩」は、後人の僞作ではない。 態にあったことを窺わせている。

擬作、決非西

人」(「答劉

曹書」『蘇東坡集・後集』卷九)として僞作

かし意圖された僞作であれば、李陵の經 を唱える。し のないように作るのが作法である。しかるに李陵詩の と努めて矛盾

容は雜多で相互に矛盾することが多く、一人一時の制作ではないことは明白であり、僞作の意圖を

は、③「李陵詩」後 できない。 (3) めることは 末期に、交州

民の體驗の中から

「李陵詩」は、後 立した。

末期に戰亂を

に移動するム北部) けて交州(現ベトナ 晨明 民の體驗を反映している。「燭燭 」詩には「山

を「中州」と稱するのは後 中州」の句があるが、「中原」

の後 期に特 またその「山 である。

」、

び「日南」(『古文

』李陵「

別詩」 の語にの「有鳥西南飛」詩)

「山を指し、 目すれば、「日南」は交州

」は交州に至る

筆 の經路を指す。

は、

は後 欽立の①②の見解に贊同する。また③について 末期の

立については

當と考え、「交州 (4)

は、後 作」については判断を保留したい。かくして蘇李詩について 民の制 末期の無名氏の手に

た作品群、とする (5) る、李陵の名の下に傳えられ 識をもって本稿の基本

(なお な立場とする。

欽立の見解に據れば、宋齊以

て、特に必 在せず、總て李陵詩と呼ぶべきことになるが、本稿では慣例に從っ は蘇武詩と称するものは存 がない限り「蘇李詩」の稱を用いることにする)。

(二 ) 「 蘇李詩」の發見

蘇李詩を最初に記

した文獻は、『文

その存在について言 』である。しかし したものは、それ以

『文 にもあった。

!集の時点から

"百年遡った顏

#之の「庭誥」(『太

$御覽』卷五八六

「庭誥」の 引)である。

立は、元嘉十一年以後の七年(四三四)

推定される。『宋書』卷七三「顏 %と

#之傳」に據れば、「(顏)

#之與仲(車)

&世素不協、屏居里巷、不豫人

閑居無事、爲庭誥之文」とある。その顏 %七載。……

#之の屏居とは、右 中國詩文論叢第二十一集

54

(4)

記の七年

のことである(曹

衡・劉 『南北

文學 人民文學出版 年史』

「庭誥」は、李陵詩についてのように記す。 、二〇〇〇年)。 李陵衆作、總雜不

其善篇、有足悲 、元是假託、非盡陵制。至(李)

之は、この「庭誥」執筆の時點(四四〇年以

でに「李陵衆作」と稱する作品群の存在を )で、す おかつ相互に雜駁で不統一な 知しており、な 顏 詩が多く含まれていることを指摘している。 容の故に、李陵に假託された 之を發端として、それ以

、李陵詩に關する言

實に

加している。この事實は却って、顏

之以 陵詩が殆ど には、李 するであろう。假に李陵詩がこれ以 目されることもなく放置されていたことを意味

にも れば、そこに信じられた 行していたとす 時代の

の故に、また李陵という 立という際立った古さ 關する言 名な人物の故に、必ずや李陵詩に が繰り 作もあったと見るのが自然である。しかしその痕跡が (6) され、またその詩を典故とした詩篇の制

い、このことは李陵詩が世に埋もれていたことの保證となる くな だろう。換言すれば、顏

れ、ようやく文人たちの 之の時期に至って李陵詩は發見さ 目を集め始めたのである。

・劉

徒、屬辭無方。至 『文心雕龍』明詩篇:孝武愛文、柏梁列韻、嚴馬之

、三百余篇、

章國采、亦云

備。而辭人翰、莫見五言。

!以李陵・班

"

・鍾 代也。 (7) #見疑後

$『詩品』總論:

李陵、始

言才骨、 ・蕭子顯『南齊書』文學傳論:少卿離辭、五(李陵の字) 五言之目。 (8)

%與爭

&

(9)。・裴子野「雕蟲論」:其五言爲家、則蘇 自出。曹劉

風力、潘陸固其枝 '其 (

)

このような經

*を見ると、劉宋の顏

た李陵詩に關する言(また蘇武詩) 之において初めて現れ は、南齊から梁代には 實に わけ『文心雕龍』のような綿密な 加し、もはや特殊な發言ではなくなっている。とり

+を備えた體系

李陵詩を取り上げて論じていることは、特に ,作が ものではなく、すでに多くの人に すなわち當時すでに、李陵詩に關する知識が一部の好事家の 目に値する。

知せられた、またそれ故

蘇武李陵詩考(松原)

55

(5)

に當然論ずべき對象として

また『南齊書』のような 熟していたことを示している。

上げてるのも、同樣である。 威を志向する史書が李陵詩を取り

するに、劉宋の顏

に發見された李陵詩は、齊梁時期になると「五言の 之の時期 位置づけられ(鍾 」と 、源泉な古典としての地位を)

確立してゆく 第に

。またその一方において、「

(顏 古典」に對してその眞僞に懷疑な見解が提示されるのも 然出現した源泉 之・劉 )、ことさら

に とすべきものではない。蘇李詩 威を め、また反對にその

威を否定する意見も含めて、

するに、蘇李詩の出現はこの時代に

の念をもって

られたのである。 え

(三 ) 蘇武詩の實作に對する影

「蘇李詩」が詩人たちの實作に影

しくこの齊梁時期にこそ始まると推測して相 を與えたとすれば、正

「蘇李詩」( ない。

たのは、『文 欽立の數え方で二二首)の中で最もよく讀まれ 』の後世における壓倒な

卷二七 行性を考えれば、

ことは 收の李陵「與蘇武詩三首」と蘇武「詩四首」である いない。しかも『文

』の の作品 集そのものが、當時 價(その中には眞僞

定や、

行性という名の

價を含 を根據としている以上、ここにむ)

收の七篇は、『文

』 集に先立つ一時期(梁

詩」の享受 期、遡れば南齊期まで)の「蘇李 いま便宜に、中でも特に広汎に享受されたと 況を多面に反映していると考えて良かろう。

何に典故として魏晉南北 について、「携手上河梁」詩それが如(「與蘇武詩三首」其一) 斷される

期の詩に影

てみたい。 を與えたかを檢討し 中國詩文論叢第二十一集

56

*「携手上河梁」詩が目されるのは、

なおほぼ同樣の事 目の詩篇であったことが裏付けられるからである。中の 河當時の詩人には蘇李詩があって、「賦得携應詔詩」手上梁 江總また賦得體の詩にも陳、に用いられているからでる。 詩中の「河梁」の語がこの詩を典據に、齊梁以後の多くの詩 ぎに論ずるように、

が「

!鵠一 其二 "別」詩(「蘇武詩四首」

)についても言える。すなわち詩中の「 #

ばしばその後の詩に用いられ、しかも陳、阮卓「賦得 !鵠」の語はし

!鵠一

"別詩」も存在している。蘇李詩に關わる賦得體詩は、

立『先秦 欽

$魏晉南北

この劉刪詩は、蘇武詩を 以外には、陳、劉刪「賦得蘇武詩」があるのみだが、しかし 詩』に據れば、この江總と阮卓の二篇

「 を念頭に置く賦得體詩ではない。つまり「携手上河梁」詩と %然と意識するのみで、特定の詩篇

!鵠一

"別」詩が、その

行性ないしは知名度という點で

(6)

「携手上河梁」詩は、

のようである。

携手上河梁手を携えて河梁に上る

子 何之

子 徘徊蹊路側徘徊す蹊路の側 れに何くにか之く いづく

不能辭

行人 として辭する能はず 久留行人久しく留まり

安知非日 各言長相思各の長く相ひ思うを言う く 安 いづくんぞ日

弦 に非ざるを知らんや 自有時弦

努力崇明努力して明 自ら時有り おのづか

を崇めよ たか

首以爲期

「河梁」の語がこの詩では、 首以て期と爲さん あふとき

正しく蘇李兩 目の語となる。「河梁」は、

の離別の場

である。しかもこの語は、

くは他ならぬこの詩を典據として、齊梁以後の多くの離別詩 ら に用いられることになる。

①牽牛織女遙相

牽牛織女遙かに相ひ

假余 河陽に歸る歸るを思うの引歸河陽②思歸引 (魏、曹丕「燕歌行二首」其一) 梁に限らる河ありてか獨り何の辜爾爾獨何辜限河梁 つみなんじ む 鴻鶴高飛

余に

飛 を假し鴻鶴とともに高く

③瞻言媚天 (西晉、石崇「思歸引」) 望我舊館心悦康我が舊館を望みて心は悦康す 經芒阜濟河梁芒阜を經て河梁を濟り わた せん 瞻 て言へらく天

幽期濟河梁幽期河梁を濟らんと 媚しく うつく

箱從

箱 に從がひ 綺闕 章

(劉宋、孝武 章を闕く 劉駿「七夕詩二首」其一)

以上の劉 とする三篇には、李陵「携手上河梁」詩の「河梁」の影

七夕傳 をまだ見出だすことはできない。①③は、

を詠じたものであり、「河梁」は、牽牛と織女とを

蘇武李陵詩考(松原)

57

蘇李詩中に特別の位置を占めていたことを示している。し

「 鵠一 別」詩は、蘇李詩の影

「携手上河梁」詩ほどに有效ではない。何故ならば、「 を測る尺度として、

せ持つ作例が存在するため の語は、この詩(後漢末期)以上に古く、しかも規範性も併 鵠」

、この詩を典據としたか否かの

定がはなはだ困

だからである。

(7)

は、李陵詩とは無關係に、一義 てる銀河に架かる梁を指している。つまりこれらの「河梁」

には七夕傳

と に由來する語 また②は、石崇が官を辭して河陽( 斷される。

業に歸る時の制作であり、「芒阜(北 河の北岸)にある別 を濟るというときの「河梁」は、文字 」を越え、「河梁」山)

り、

李陵詩とは無關係の用法と確して良かろう。 ときの渡しを意味している。こうしてこの三例の「河梁」は、 河を北に濟る

ところが南齊以

「携手上河梁」詩の影 になると、この語の大部分の用例に、

がめられるようになる。

④徘徊將

愛徘徊愛する

衿袖三春 梁惜別在河別れを惜しみて河梁に在り を將ゐ ひき

衿袖三春に

(王融「蕭 江山千里長江山千里に長し たり

⑤東風柳線長東風柳線長く 議西上夜集詩」) 上河梁

を 未盡樽 りて河梁に上る 酒未だ樽

の酒を盡くさざるに 妾

已千行妾の

(范雲「 已に千行

梁故人河 ⑥新知關山別新知關山に別れ 別詩」)

故人河梁に

爲余 置此一函書此の一函の書を置きて る 雲

余の爲に雲

( せよ

均「別

復た馬を驅る車を驅り驅車復驅馬 亦た名を爭い利を爭い爭利亦爭名 紛紛渭橋下紛紛たり渭橋の下 軫たり河梁の上上軫梁⑦軫軫河 しん 侯故章詩」) 訪蓬蒿人

誰憐寂寞 ぞ蓬蒿の人を訪ねんや

誰か寂寞の

(王 を憐れまんや

孺「

盈盈 ⑧鬱鬱陌上桑鬱鬱たり陌上の桑 日登高詩」) 傍女盈盈たり えい

傍の女 君上河梁君を

拭 りて河梁に上り 不能語

故人⑨故人形影滅形影滅し (王臺卿「陌上桑四首」其一) を拭ひて語る能はず ぬぐ 中國詩文論叢第二十一集

58

(8)

書兩倶

書兩つながら倶に

懸想關山 遙看塞北雲遙かに看る塞北の雲 ゆ

懸かに想ふ關山の

子河梁上

( 應將蘇武別應に蘇武と別れんとす 子河梁の上に

⑩開窗對高掌窗を開きて高掌に對し 信「擬詠懷詩二十七首」其十)

坐 河梁

坐して河梁を

( 鍾聲徹建章鍾聲建章に徹る とほ 歌聞長樂歌長樂を聞き む

⑪薛君一狐白薛君は一狐白 信「登州中新閣詩」) 侯 侯は を ふ 關日欲

關日

披 れんと欲し

渡河梁

( を披いて河梁を渡る はら

信「郊行値

野燎村田 梁時駕出河時に駕して河梁を出づ ⑫鳳吹臨伊水鳳吹伊水に臨み 詩」)

野燎村田

江秋岸荻 く

江秋岸荻

ばむ (徐陵「新亭

⑬奉使窮沙 別應令詩」)

使いを奉じて砂

を窮め 上河梁

を ひて河梁に上る ぬぐ 天山

らひて天山

思歸 く

路長歸るを思ひて

梁⑭河 (劉刪「賦得蘇武詩」) 路長し 隴頭河梁に隴頭を

徂年 分手路悠悠手を分かてば路悠悠 み 電徂年

くこと電の いなづま

別日欲 く

秋別日秋と

らんと欲す

鵠飛飛

鵠飛び飛びて

く 山去去愁

蓬首臥 梁⑮自君上河君の河梁に上りし自り (江總「別袁昌州詩二首」其一) 山去り去りて愁ふ

蓬首

⑯ )(陳少女「寄夫詩」 妾の九廻の腸を慰めん慰妾九廻腸 安得一樽酒安んぞ一樽の酒を得て いづく に臥す

!未和親

憂國不憂身國を憂ひて身を憂へず !未だ和親せず

蘇武李陵詩考(松原)

59

(9)

握手河梁上手を握る河梁の上窮涯北 濱涯を窮む北

(楊素「出塞二首」其二) の濱り ほと

南齊から隋に至るこれら十三篇を

覽するとき、離別の詩

が多くを占めていることが分かる(④⑤⑥⑫⑭⑮)。また樂府であっても、男

な用語ではない。河のあるところでは、日常 であり、それ自體は、離別との固有の關係を持つような特殊 河に架かった橋梁のことは、「河梁」と言うべきであろう。 しろ至って自然なこと(⑦⑩⑪)、むいた詩が存在するのは もっともその一方に、離別とは無關係に「河梁」の語を用 中の大部分を占めている。 こうした離別の主題と関わる詩はすべて十篇、それは十三篇 陵李離武別た蘇の故事に直接取材したものもある(⑨⑬⑯)。の 題とするものもある。ま(⑧)

新 のである。かくしてそれは、渭水に架かる橋梁となり(⑦)、 に存在するも

の高樓から

まれる橋梁となり、郊外に(⑩)

に んで

。それ故ここで(⑪) られたときに友人たちと凍えながら渡った橋梁となる

の語が、このように普 目しなければならないのは、「河梁」

の景

く中に現れうるにも拘わ らず、しかし實際には離別の詩に集中して現れるという極端

向である。この事實は、その背後に共

もう一點。顏 陵「携手上河梁」詩に他ならないであろう。 れていることを意味しており、その典據とは、ほぼ確實に李 の典據が意識さ 之「庭誥」に

融「蕭 世紀遲れて、實作(④王 議西上夜集詩」は南齊の永明八年

李陵詩の影 490の制作)の分野でも が顯在 しているという時

差に

この 目したい。

世紀の遲れは、客

な知識としてのみ

たものが、實作を 識されてい して血肉

するのに

した時 因みにこの王融詩と略ぼ時を同じくして劉 である。

に李陵詩が言 『文心雕龍』

この周到で體系 されたことも、もとより偶然ではあるまい。

作においては、言

すべき作

の と作品

擇は、恣意

で偶然 が、實作の場に影 なもの、ではあり得ない。李陵詩 を與えるほどに詩人の中に

う李陵詩享受の深 するとい が、『文心雕龍』の李陵詩に關する言

を催したと考えることができよう。

(四 ) 「 蘇李詩」の實作に對する

體 影

南齊以

の影 の詩の實作に、また特に離別詩のそれに、李陵詩 が

んでいることは、

!で確 した。

"ぎに論ずべ 中國詩文論叢第二十一集 60

(10)

きは、影

の 史 そのとき留意すべきは、いわゆる蘇李詩の提示する世界が、 體相が如何なるものであったかである。

「眞相」(第一

、つまり朔參照)

を や再會を期しがたい悲痛で切 臺にした、もは 況を一 した離別と、必ずしもその ところで離別の史 おいても多くの矛盾を含んでいることである。 させていないことである。また加えて、詩篇相互に

「眞相」と、蘇李詩が

盾は、地理 く世界との矛 關係・人

いま先ず、地理 關係など、その方面は多岐に渡る。

な矛盾點を確

してみよう。『文

』 の七篇の「蘇李詩」に就いてみれば、 收

涼とした朔

に相應しくない景物が、少なからず詠み の離別

・携手上河梁、 まれている。

・臨河 何之。(李陵「與蘇武詩三首」其二)

・仰觀江 長纓、念子悵悠悠。(李陵「與蘇武詩三首」其三)

流、仰

雲 。……山

(蘇武「詩四首」其四) 中州、相去悠且長。

で取り上げた「河梁河にかかった梁」は、もとより朔 の離別に相應しいものではない。まして「臨河

いう豐かな水を 長纓」と える河のイメージがそれと無

このような矛盾を 言うまでもない。 であるのは

明するために文

五臣 の一人李

翰 此詩」と は、李陵「與蘇武詩三首」の題下に「武將使匈奴、故(蘇)

し、離別の地點を長安に比定して、蘇武が使

!

として匈奴に赴くときに、友人の李陵が長安で彼を

ときの作と解釋する。すなわち「河梁」「臨河 "別した 渭水(廣義には 長纓」は、

理 #を指すと見るのである。これは、地河水系)

な矛盾を解

の解釋も「仰觀江 $するための苟且の解釋ではある。しかしこ 流……山

中州」については完

綻せざるをえない。「江 %に破

「山り、 」は、蜀中の河川を言うものであ 矛盾は、こうした地理關係ばかりではなく、離別の當事 理である。 」に至っては、なおさら長安とは遠く隔たった地

!

相互の人

&關係にも

・骨肉 'んでいる。

枝 (。結交亦相因。四

は血「骨肉」 ・結髮爲夫妻。恩愛兩不疑。(蘇武「詩四首」其二) (蘇武「詩四首」其一) 皆兄弟。誰爲行路人。

を 密な兩 似つかわしくない。また「結髮爲夫妻」は、それを如何に親 提とする表現であり、蘇李の關係には

!の譬喩と解釋しようとしても、男性同士の、しかも と匈奴との紛爭を況とする兩

!の政治 は、不似合なものである。 な離別を言うに

蘇武李陵詩考(松原)

61

(11)

以上は矛盾の

と史 出したものを例示したが、總じて、蘇李詩

眞相との懸

の言 は余りにも大きい。李陵詩に對する最初

となった顏

之が、すでに「總雜不

非盡(李)陵制」としているのは、正しく公 、元是假託、

べきである の論と言う

蘇李詩の描く世界は、史

そこに集められた詩篇相互にも多くの矛盾を 眞相と矛盾するばかりではなく、

じられ、享受されたときには、その雜駁さも却って豐かな多 雜駁な離別詩の集合體である。しかしそれが蘇李の眞作と信 えた、多樣で 樣 として活きてくる。もし假に、蘇李詩が朔

での切

た離別という史 し

眞相を一元

らば、 に反映した作品群であったな な江南の自然風土と、優

な修辭

洗 離別詩は、劉宋の鮑照によって、その後に繼承される基本 の制作と殆ど接點を持ち得なかったであろう。 時の南朝の文學風土の中に置かれたとき、詩人たちの離別詩 を競う當

樣式が形

される

。離別が、詩の重

題の一つとして

離別詩には「蘇李詩」の明らかな痕跡を確 知されるのは、鮑照以後のことと考えて良い。その鮑照の

ないが することはでき

、恰もこの時期を境にその詩が人々の耳目を惹き始め たことは、離別詩の形

に對して、積極

らしたと見ることができるだろう。 な觸媒效果をもた が齊梁以後の離別詩に ぎに、「蘇李詩」

ぼした影

を、

第一に、また最も重 たい。 單に整理しておき な影 立していない新しい は、離別というまだ傳統の確 題に、古典

な據り

は 威(蘇李詩

ば、魏晉時期に、離別詩は寄 を提供したことである。繰りせの作と信じられた!)

!や公讌に遲れて、ようやく

"

#し始めた

題に て離別詩は基本 $ぎなかった。その後、劉宋の鮑照に至っ 樣式を形

なお、その分野の孤立した先驅 しつつあったが、彼自身は當時 作家に

て南齊以後、離別の $ぎなかった。そし 題の下に多くの作品が

とき %積され始めた

、彼らの眼 &

學傳論)と に「離辭離別の詩」(蕭子顯『南齊書』文 離別という '括される多數の蘇李詩が俄かに出現したことは、

題の定

(を促し、離別詩の制作を促す積極

刺激となったに な 第二に、離別と閨怨との關係を積極 )いない。

ある。蘇武「詩四首」其二の「結髮爲夫妻」詩 に取り持ったことで を控えての夫 は、夫の出征 *

+の離別を詠じた詩篇である。南齊以

,、離別

發想と接

-するが、そのとき夫

+の離別を

題と 中國詩文論叢第二十一集

62

(12)

するこの蘇武詩の存在は、優れた

示となったであろう。

別詩

東風柳線長東風柳線長く 別詩范雲 上河梁

を 未盡樽 りて河梁に上る 酒未だ樽

妾 の酒を盡くさざるに 已千行妾の

已に千行

この詩は、

と妾との離別を

「上河梁」の用語は、上 題とする閨怨詩である。

その中に閨怨 影を最も明瞭に示す證據である。ただしいわゆる蘇李詩が のように李陵「携手上河梁」詩の の 怨詩と接點を持つこともなく、結果として「上河梁」の用語 詩篇を含まなかったとすれば、范雲のこの閨 また とは確かであろう。 かけるとき、「結髮爲夫妻」詩がその影の仲立ちをしたこ 用もあり得なかったはずである。蘇李詩が閨怨詩に働き

の詩も、

詩とほぼ同樣の事

にある。

陌上桑四首其一陌上桑王臺卿鬱鬱陌上桑鬱鬱たり陌上の桑 盈盈

傍女盈盈たり

傍の女 君上河梁君を

拭 りて河梁に上り 不能語

を拭ひて語る能はず

この二篇の閨怨

離別詩は、閨怨詩の

加えたものである。すなわち、傳統 史に新しい試みを な閨怨詩は、離別から

に久しい時

が經 した する怨 況を設定して、女性の男性に對 二篇が、離別のただ中に の思いを抒べるのが基本である。それに対してこの

を想定して良かろう「結髮爲夫妻」詩の影 を見ないものである。この閨怨詩の新しい趣向には、蘇武 況を設定しているのは、從來類例

(五 ) 結語

期における離別詩の形

と 作業である。何故ならば、蘇李詩が蘇武李陵の離別詩の眞作 なる形でそこに影を與えたかを檢討することは、不可缺の を考えるとき、蘇武詩が如何 識されるところでは、

中期の

言詩の嚆矢という文學史 立という古さと、五 價とが相俟って、源泉

としての な古典

いて、魏晉以 威を持ったはずだからであり、またその限りにお

の離別詩の形

にも大きな影を與えたこと

蘇武李陵詩考(松原)

63

(13)

を想定しなければならないからである。蘇李詩の

體 な影 できる。第一は、用語 は、差し當たり二つに分けることが 元での影

詩に、離別の地點としてしばしば「河梁」が である。南齊以後の離別

なるのは、端 ばれることに 考えられる。また同樣に「 に、李陵「携手上河梁」詩を踏まえた結果と

鵠」が離別の象

ることにも、蘇武「 として定す 鵠一

別」詩が一定の影

ろで、從來はそれぞれ るだろう。第二は、蘇武「結髮爲夫妻」詩が仲介となるとこ を与えてい なる の接 題としてあった離別と閨怨と が、實現されたことである。齊梁期以

に男女の性愛に對する關心が深まる中で、閨怨との接 、詩文學一般 現した離別詩は、一 を實 もっとも、蘇李詩のより重 の發展の手掛かりを得たことになる。

で本質

な影 う比較 は、離別とい 新しい

題に、古典

離別という な根據を與えたこと、つまり 題の 熟と定に積極

詩が與えた影 あろう。しかしその點を考慮に入れたとしても、しかし蘇李 な刺激となったことで

は、やはり限定

始めたのが劉宋の中期であり(顏 ばならない。すなわち蘇李詩の存在が詩人たちの意識に上り なものであったとしなけれ 作に影 、離別詩の實之「庭誥」) が

び始めたのはさらに下って南齊時期を待たなけ ればならなかった。一方、離別詩は、魏晉以來の

て、劉宋の鮑照に至って略ぼ基本 期を經

な樣式を形

すなわちこれ以後に發生した蘇李詩の影 していた。

詩の形 は、もはや、離別 に一義

な重 性を持つことはなかったからである。

(1)「蘇李詩」の

立に關わる從來の

究を いるのは、「蘇李詩文 領よく整理して 僞」(劉

古 『中古文學文獻學』江蘇 出版 ることを否定した上で、 、一九九七年)である。ここでは蘇李の眞作であ

ことなく、①後 立時期については特に結論を記す 末の靈

・獻 兩晉交替の時期の三 の時期、②曹魏の時期、③ に整理している。なお後

本稿ではさしあたり、①の するように、

をる

!欽立の

"

(2)蘇武李陵詩を眞作と見る最 える立場にある。 を穩當と考 の 於李陵《與蘇武詩》 果は、章培恆・劉駿「關

《答蘇武書》

眞僞問題」(『復旦學報』

(3) 會科學、一九九八年第三輯)

魏以 る例は他にもある。例えば、『文 #の無名氏の詩群が、特定個人の名の下に傳承され

(4)早稻田大學の古屋昭弘氏の される詩篇の多くは、「枚乘詩」として傳えられていた。 』に「古詩十九首」と稱

$示に據れば、「

鵠一 詩(『文 別」

』蘇武詩)と「童童孤生柳」詩(『古文

%』「

&別 中國詩文論叢第二十一集 64

(14)

詩」)の押韻について、魏晉に先立つ古い時期の特

ているとのことである。 を備え 體 には、

でに押韻しにくく、齊梁時期にはなおさらその傾向が 「依・悲・歸・揮・飛(魏晉の脂部)」とは、魏晉時期にはす 懷・哀・摧(魏晉の皆部。部の名称は丁邦新に拠る)」と の韻字「徊・乖・

また後 まる。

の韻字「泥・懷(魏晉の皆部)」と「衣・

ようになったことを裏付ける重要な 梁時期ににわかに注目される斉、が「蘇李の離別」事実は、 ともに『文選』に初出していることは興味深い。つまりこの 異なる成立の経緯を持つ蘇李詩と蘇李往復書簡が、とは言え、 」であるのと、事情が異なる。なって蘇李に比定した「偽託 点で、蘇李詩が、すでに存在していた詩篇の作者をその後に 」である。このに符合するように作為された明らかな「偽作 )」は、後人によって史実(『文選』四一題作「答蘇武書一首」 「李陵重報書「漢蘇武報李陵書」「漢李陵与蘇武書」書簡 に載せる三篇の蘇李往復「人部・別下」三一『芸文類聚』(5) 肌・悲・遲(魏晉の脂部)」についても同樣である。 ・・

にこれら書簡についての言及や引用が見られないこと、等。 に富むなど、前漢時期の文体とは異質であること、③『漢書』 跡があること、②修辞的には四字句を多用し、また対偶表現 の伝える史実とよく符合するばかりか、表現にも踏襲した形 なお蘇李往復書簡が偽作とされる根拠として、①『漢書』 況証拠となるだろう。 (6)『文

については、すでに西晉、陸機の「擬古詩十二首」以後、 』に「古詩十九首」として收められる無名氏の古詩

擬詩が作られている。(7)『文心雕龍』の

立は、

『詩品』の(8) (四九八)ないしは中興二年(五〇二)とされる。 では南齊の末期、永泰元年 立は、梁の天監(五一三)以後の數年

(9)蕭子顯は大同元年(五三五)に卒しており、『南齊書』の 。

立はこれ以

。なお梁の大

元年(五二七)以後に

る裴子野「雕蟲論」と蕭統『文 立す の る。この點を考慮すれば、李陵のみを取り上げる『南齊書』 』は蘇李の二人を取り上げ 立は、兩

( よりも早い可能性が高い。

10)「雕蟲論」は、李陵のみならず蘇武にも言

することで

目される。なおこの序の末尾に、「梁鴻 裴子野論曰」とある。裴子野が鴻臚卿となったのは、梁の大

であり、「雕蟲論」の 元年(五二七)

立はこれ以

李陵の詩を となる。これが蘇武と する『文

』 立(大

二年

後)と相い

後する時期であることは、偶然ではあるまい。(

11)南北

後期から隋

へと、一般

眞を作とみる立場が地 なレベルでは、「蘇李詩」

( 悶」。是吾師五に「李陵蘇武其十二首」 杜甫を解として、例く。一ゆて得「 12)「

鵠一 別。千里

雙況飛龍。 徘徊。胡馬失其羣。思心常依依。何 臨當乖。幸有絃歌曲。可以喩中懷。

爲 子

蘇武李陵詩考(松原)

65

(15)

吟。

一何悲。絲竹

聲。慷

心愴以摧。欲展 有餘哀。長歌正激烈。中 曲。念子不得歸。俛仰

傷心。

揮。願爲雙鵠。 不不可 子倶

( 飛。」

13)「烏孫公

細君」(『

書』西域傳)に、「吾家嫁我兮天一方、

託 國兮烏孫王。廬爲室兮旃爲墻、以肉爲

常土思兮心 兮酪爲漿。居 傷、爲鵠兮

故 」。また「鵠歌」(

劉向『列女傳』卷四)に、「鵠之早寡兮、七年不雙。 、 獨宿兮、不與衆同。夜 頸 何傷……」。この二篇に見える「鵠」は離別の象 悲鳴、想其故雄。天命早寡兮、獨宿

他ならず、この點で「鵠一 に にし、しかも 別」詩の「鵠」と含意を一 いる(本稿では、蘇李詩は後 立時期を考えると、この二篇の方が先行して

末期の

立とする

( 解に從う)。 欽立の見 14) 欽立「

詩別 ( 固非一人一時之作、詩、此 僞第一)蘇李詩」に、「夫此組別 其籠雜之

『古文 容、自足默識。而 』之標題「

別」、則尤甚吟味」つまり『古文

に言う「 』

別」とは「離別詩の

( 離別詩の雜集であったことを示唆している。 されることになるものが、當初はその實、無名氏の手になる 李陵・蘇武の名を明記していないのは、後世「蘇李詩」と稱 」のことであり、ここに 15)參照:「六

期における離別詩の形

離別詩の發見」(『中國詩文論叢』第九集、一九九〇年) (上)鮑照による (

『鮑參軍集振倫 16)鮑照「與荀中書別」詩の「暫無鶴翅、安得久相從」に錢

』(上 古 出版、一九八〇年)が

て「蘇武古詩:願爲雙鵠、 し 子倶

飛」の典據を

套 は、從いがたい。「鵠(しばしば鶴と混同)」が離別の常 !げるの

"譬喩となるのは、後

末期の「蘇李詩」

立以 傳統である。なお からの

( 12參照。

17)參照:「六

期における離別詩の形

( 一九九一年) る離別詩の競作を手掛かりとして」(『中國詩文論叢』第十集、 (中)永明期におけ 18)「結髮爲夫妻、恩愛兩不疑。歡

#在今夕、燕婉

夫懷 $良時。征

%路、

&

、場歎手一長握有期。未、相見 '夜何其。參戰役。行辭從此去去、辰皆已沒在

(爲生別

)。努力愛春

*、莫

( +歡樂時。生當復來歸、死當長相思。」 19)離別と閨怨との接

だん。すなわち男性同士の離別を ,は、從來にない新しい形の離別詩を生

である。擬現の離別詩の出種新する表現えて たる哀傷に纏綿の性と離別した女男性らず、その哀傷を、わ 題とする詩であるにも拘

16 第五、六 -.論文の /を參照。

[附記]冨谷至『ゴビに生きた男たち李陵と蘇武』(白帝社、一九九四年)に拠れば、李陵をもって悲劇の英雄と見る「李 中國詩文論叢第二十一集

66

(16)

陵悲話」は、三国を経て、劉宋時期にほぼ形成された。同書の所説を、三条の史料に即して要約する。①西晉末の劉

之室、二主得失縣 ②漢武用虚罔之言、滅李陵之家、劉主拒憲司所執、宥黄權 劇の英雄」とする評価が萌芽している。 。獲、されず」漢武に明ここには、「武帝=暴君」「李陵=悲 はら 寄反って罪を信忠りて匈奴の庭に在り。(陵)期を騫り、 やどあやま 李昔惟漢武不見明忠信反獲罪、在匈奴庭。寄騫期、 むかし の「惟昔李に、二八)(『文選』「扶風歌」

る。こう述べる裴松之において、①の劉 信じて李陵の家族を処刑した漢武の横暴さと、雲泥の差であ 魏の曹操に寝返った黄權の家族を宥した。これは虚罔の言を る劉宋、裴松之の注)。劉備は、司直の主張を退けて、 遠矣。(『三国志』蜀書「黄權伝」に対す

③四〇五年、敦煌を支配する西涼国の李 確化されている。 の主張はさらに明 東晋は李遅れて四一八年、 舎人の黄始と梁興間を東晋に遣わして臣事の意向を表明し、 (字は玄盛)は、 の子の西涼王李

引き続き西涼王李 (『晋書』八七「李玄盛伝」)またその後、劉宋の武帝劉祐は、 を冊封した を冊封した(『宋書』九八「

西涼の李 の末から宋にかけて、はるか西陲の敦煌から臣下の礼をとる 胡」)東晋 ては貴重な存在だった。この隴西李氏に属する李 父子、それは華北奪回を願う江南の流寓王朝にとっ

父子 てその李玄盛(李 て果たせない夢をかえてくれる英雄と映ったであろう。そし の存在、そこで踴躍する隴西の李氏は、南朝の漢人たちにとっ これらの史料を踏まえつつ、冨谷氏は結論付ける。「西涼 は、李陵の末裔に当たるのである。

得たことになる。 料を材強補な有力在化すると論じたことは、ここに顕期から 蘇ではあるまい。本稿において、が劉宋の時武李陵詩の影響 以嘉十一年(四三四)後の七年間)と一致しているのは偶然 及恰も李陵詩に初めて言した顔延之「庭誥」の成立時期(元 たかを論じているが、された劉宋の時期が、示その結論として 立しで成低どの点下と対しながら応様に進行し、どの時 にある漢武帝の評価の方一冨谷氏は、李陵の英雄化が 七)頁 あり、は五立その成世紀南朝宋の時代であった」(同書二五 くられていく。それが李陵悲話でづの、悲劇の英雄として形 とによって、李陵に対してその人々の見方もより想像的なも 又語り伝えられてきたもの、ここに英雄李玄盛が出現したこ などで読み、『漢書』南朝の人たちは、李陵のことは、た。 匈奴と挑んでいった漢の飛将軍李広、その孫李陵の子孫であっ の字)はかつて漢の武帝時代、あの強敵

蘇武李陵詩考(松原)

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参照

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