中 國 文學 の 理 念
〔五〕
一詩の謁刺性について一
仁 枝 忠
︺︺︑り㍉ーノ一二三四︹︹︹︹ 儒家の文學理念
道家の文學理念 古典主華 詩の絵情・含蓄
詩経の最初に孟春百六十画面出てみる。これは諸富の民俗 歌諸の詩歌であるが,毛詩の大序にこの風の義を謡いて言ふ,
關雌ハ后妃ノ徳ナリ。風ノ始メナリ。、天下ヲ風シテ夫婦 ヲ正ス所以ナリ。故二之ヲ郷人頓用ヒ,之ヲ邦画二心フ。
風ハ風ナリ。教ナリ。風以テ之ヲ動カシ,一回テ之ヲ化 ス。(中略)上ハ以テ下ヲ風化シ,下ハ以テ上ヲ風刺ス。
文ヲ主トシテ調諫ス。之ヲ言フ者罪無ク,之ヲ聞ク者以 テ戒ムルニ足ル。故二風ト日フ。
王者が出でて治まれば,治者被治者の聞に自ら善政を讃美す る詩が現はれ,そして其の詩漏出然面心を感動せしめるもの であるから,又必ず政教に功あるものとなる。若し政を失ひ,
人民に怨哀の感情がある時には,又自らその感情が表出せら れるものである。これが下民の上に封ずる誠刺となる。これ らの詩を媒介として政敏の是非を知り,政治の資とすること に依って理想的な肚會が現出すると云ふ。この風に正風と憂 風とがあって,道徳.にかなったものが正風で,詩を以て讃美
し風化したものを云ひ,攣風は道徳に戻った者に封し,詩を 以て調刺したものを言ふのである。朱子は國風の注に次の如
く風と名づけられた理由を敷術して言ふ,
風トハ民:族歌謡ノ詩ナリ。之ヲ風ト謂フ者ハ,其ノ上ノ 化ヲ被りテ言有リ。而シテ其ノ文又以テ入ヲ感ゼシムル ニ足ル。物ノ風ノ動クニ因ツテ以テ聲有リ。而シテ其ノ 聲又以テ物ヲ動カスニ足ルが如キヲ以テナリ 。是ヲ以テ 諸候之ヲ采リデ以テ天子二貢ス。天子ハ之ヲ受ケテ樂官 ココ
ニ列ス。於二以テ其ノ俗尚ノ美悪ヲ考ヘテ, 其ノ政治ノ 得失ヲ知ル。薔説二ご南ヲ正風ト爲スハ,之ヲ閨門郷窯 邦國二用ヒテ,而シテ天下ヲ化スル所以ナリ。十三國ヲ
スベ (ナラハスコ})
攣風ト爲スパ,則チ亦タ領テ幽界二面リ。時ヲ以テ難 ヲ存シ,観省二備ヘテ哨戒ヲ垂ルルノミ。
と云ふ 。攣風の起原に齢して,詩経の序には,
王道衷へ,禮義血シ,政教失ヒ,國政ヲ異ニシ,家俗ヲ 軸心スルニ至ツテ,而シテ攣風攣二心ル。
と云ふ。即ち周の美東以後を攣風魔王以後を攣雅と爲すの であるが,古血生女を以て,美詩の正に饗して攣と考へるの である。史記の周紀に「撚王ノ時,王道衷へ,詩人刺ヲ作 ル。」と見え,顔師古の注に「正道既二裏へ,怨刺ノ詩出置 テ作ル」とある。また漢書飼奴伝に「鶴王ノ時,王室途二品 へ戎狭交々侵シ,中止ヲ暴虐ス。中年其ノ苦シミヲ被り,詩 人始メテ疾ヲ作ル。疾ンデ之ヲ歌ヒテ日ク,『室靡ク家靡シ。
猿面ノ故ナリ。豊二日二戒メザランヤ。i瞼猛孔ダ棘ナリ』(小 雅采微の詩)などとあるのがこれである。詩経の詩には時代 によって,この讃美と調刺の両面があると考へられ,その目 的に依って詩を解することがあると考へられ,その目的に依 って詩を解することが一般に行はれるのである。文心証龍の 劇画に「蓋シ風雅ノ興ルヤ,志思憤ヲ蓄へ,而シテ情性ヲ吟 詠シテ以テ其ノ上ヲ調ス。此レ情ノ武儀シテ文ヲ造ルナリ」
とあるが,夢野の目的の爲に作詩せられたとするものであ る。詩経の小序の二三を墨げると,
凱風ハ孝子ヲ美スルナリ。
雄鮭ハ衛ノ宣公ヲ刺ルナリ。
簡分ハ賢ヲ用ピザルヲ刺ルナリ。
干施ハ善ヲ好ムヲ美スルナリ。
と云った次第で,この文の後に績けて,それぞれ,その美刺 あ理由が簡軍に示されてみる。即ち,
衛ノ淫風流行シ,七子有ル母ト錐モ,猶ホ其ノ室二安ン ズル能ハズ。故二七子能ク其ノ孝道ヲ盤シテ,以テ其ノ 母ノ心ヲ慰メテ,其ノ志ヲ成ズヲ美ズ。
淫鐵ニシテ國事ヲ憧ヘズ。軍旅激々起リ, 大夫久シク役 シ,男女ハ怨畷ス。國人之ヲ患ヘテ是ノ』詩ヲ.作ル。ゴ
一161一
津山高専紀要(第1巻 第3号)
衛ノ賢者三下二仕フ。皆以テ王者二承事スベキナリ。
衛ノ文公ノ臣子,多ク善ヲ好ム。賢者告グルニ善道ヲ以 テスルヲ樂シム。
これが永く中國の詩の傳統を形成してみるのである。詩経の 序の作者には古來異詮が多く,特に小序に就ては,『子夏或は 毛公の作と言はれ,澤文には後漢の三門仲の作と云ひ,王安 石の如きは作者臼ら作るとし,甚だしきに至っては,宋の鄭 樵・物質等は村野妾人の作なりと考へるなど,全く定説が無 く,朱煮は小序を信ぜず,その著詩維二三には,毛傳,鄭箋 その他この派の人達の注脚を削除してみるのであるが,なほ 美刺の存することを全的に否定してはをらないことは,その 注を下めば分ることである。その三三を論じては「皆一時ノ 賢人君子,時ぞ関ミ俗ヲ病ンデ爲ル所」(集二丁)と述べ,.
そして其の効用に就ては高くこれを認め,「善ヲ陳べ邪ヲ閉 ヅルノ意ハ,尤モ後世予言ノ士ノ,能ク三二及ブ所二回目。」
されば「詩ハ全ク颯舗ノ功二在リ」と蓮べてるるのである。
詩の大序には
先王是ヲ以テ夫婦ヲ縄シ,孝敬ヲ成シ,人倫ヲ厚クシ,
教化ヲ美シ,風俗ヲ移ス。.
・と詩の効用が説かれ,そして風については
嵐・ハ風ナリ。教ナリ。凡ソ風化ノ繋ル所ハ下風ナリ。
と論ぜられてるるのである。鄭箋に,
風化ハ風刺ナリ。二野ノ斥言セザルヲ謂フ。
とあり,孔頴達の正義に,
風トハ風ノ物ヲ動カスが若シ。故二之ヲ磐輸ト謂フ。斥 言セザルナリ。
と説明してみる。憎憎せずとは直言しないこと。娩iillに述べ ることである。そこで爲政老が詩に歌はれた美刺を聞いて,
自らの政治教育の善悪を知り,これを將來の参考にしょうと するのである。これが積極的に行はれるのが叡詩である。國 語の周語に,
召公目ク(lit略)民ノ「1ヲ防グハ,川ヲ防グヨリモ甚ダ シ。川墾リテ潰ユレバ,人ヲ傷クルコト必ズ多シ。民モ 亦タ之ノ如シ。是ノ故二川ヲ爲ムル者ハ,之ヲ決シテ導 カシム。民ヲ爲ムル者ハ,之ヲ宣べテ言ハシム。故二天 子ノ政ヲ聴クニ,公卿ヨリ列士二至ルマデハ詩ヲ献ジj 替ハ山ヲ献ジ,史ハ:書ヲ献ジ,師ハ箴シ,艘ハ賦シ,瞭 ハ蒲シ,百工ぐ諌〆,庶人ハ傳語払近臣ハ規ヲ壷シ,
親戚ハ補察シ,替史ハ教誰シ,誓粟ハ之ヲ修メシメ,而 ル後二王焉ヲ爵酌ス。是ヲ以テ事ハ行ハレテ悼ラズ。
と記してみる。この献詩は采詩のことと共に,存否の如何は ともかくとしても,詩の日的としての楓刺性が述べられたも
のであって,西周の采詩一戦騨の献詩一漢の賦へと,調 刺楓諌の精紳が傳へられたもので,注意すべきことである。
阜昭の注に「詩ヲ献ジテ以テ課スルナリ」とある。獄詩が美 の爲めのものでなく,課諌の日的を以てしたものであること は明かである。民の口を防ぐは川を防ぐよりも甚だしとし,
民をして言はしめんとする思想は,中國に於ては相野に叩く から存在し,左傳の「野人の譜」などはこれである。文心離 龍に「夫レ民ハ各々心有リ。惟ダロヲ墓グ勿レ。苦輿ノ原田 ヲ樗スル,三民ノ装鐸ヲ刺ル。眞言ハ詠ゼズ。短誹以テ調 ス、1なども亦これである。
朱子は集傳の序に,詩の井戸の精紳について言ふ,
詩ハ人心ノ物日感ジテ,言二形ハルルノ鯨ナリ。心ノ感 ズル四二邪正アリ。故二言二形ハルル所二是非アリ。惟 ダ聖人上二在レバ,則チ其ノ感ズル所ノ者ン・正シカラザ ルハナシ。而シテ其ノ開顕撃手テ教タル所.以ナリ。
と述べて;爲政者は積極的に人民の詐ら・ざる聲を詩に聞き,
風俗の是非,政治の得失を知り,それに封堕すべきだと言ふ のである。文心雛龍の類讃に,
夫レー嫡ヲ化侮スル,之ヲ風ト謂フ。四方ヲ風祀スル,
之ヲ雅ト謂フ。(中略)
風雅ノ人ヲ序スル,攣正ヲ蕪ヌ。
とある。誠に縄國の大業と謂ふべきである。孔子が詩縄三百 篇を編した所以は,この政治的日的のためであったと思はれ る。風即ち颯は,人民の側からすれば先に述べた如く譲喩で ある。白野天は「元微之二野フル書」に,.「美刺二野スル者,
之ヲ予州ノ詩ト謂フ」と明かに内容を示す語を以て呼んでゐ
・る。政治は治者被治者聞の問題であり,その關係が詩によっ て通ずることが出分れば,下民の畿言の機會の全く無かった 封建制の時代とすれば,一丁合理的な考へ方であるとしなけ ればならない。故に言ふ者は罪なしとせられるのである。
さて宋の章望粥は詩序の風と雅について云ふ,「風ト大小 雅ト,皆人君政事ノ得失ヲ道フ。美有リ。刺有り。」と論じて みるやうに,美刺は風のみならず雅にもこれがあって,例へ ば大雅の糧高に「吉甫諦ヲ作ル。其ノ詩孔ダ碩ナリ。其ノ風 靡ク好シ。以テrtlfa二野ル」とある。これは讃美である。例 へば同じく大雅の桑柔を考へてみよう。これは小序に刺虫と
してみるもので,朱子も亦た刺詩と考へてるる。小序には
「茜伯(良夫)属王ヲ刺ルナリ」とあり,朱傳に「奮説二半
.レ茜伯ノ属王ヲ刺リテ作ルト爲シ,春秋傳ニモ亦タ聖子良夫 ノ詩トロフ。則チ其ノ説是ナリ」と云ふ。その詩は,
苑彼桑弓 苑タル彼ノ桑柔
コ ヒト
其下侯旬 其ノ下侯レ旬シ
坪采其劉 疲此下民.
不タ参心電
算兄填分 倖彼昊天 寧不我i吟
仁枝 忠 申爾文学の渥念(五) 一寺の識刺且,こついて一
ト ノラナ
坪リ采リテ其レ劉ヒ ヤ し
此ノ下民ヲ痕マシム ダ
心ノ憂ヲ珍タズ
カナシミ マがマス ヒナ
倉 兄 填シ 悼タル彼ノ昊天
アハレ寧ゾ我ヲ衿マザルヤ (第一・章)
朱子の集侍に言ふ「桑ノ物タル,其ノ葉最モ盛ナリ。然ルニ 其ノ之ヲ采ルニ及ンデヤ,一朝ニシテ誰キ,黄落ノ漸ナシ。
故二取ツテ以テ問ノ盛時二比ス。葉ノ茂ル,其ノ蔭偏ネカラ ザル所無キが如シ。属王ノ善行暴虐二至ツテ,以テ其ノ成奨
ヲ敗り,王霊薄謝トシテ凋弊ス。桑ノ既二采ラレテ民其ノ陰 ヲ失ヒ,其ノ病ヲ受クルが如シ。故轍.子之ヲ9・ヘテ心隔働 タズ。逸聞ノ甚ダシクシテ病二至ル。途二天二號シテ之ヲ訴 フルナリ」と。
爲本瓦.と 爲し慰楽削 告爾憂血 譜面序曲 鼻面執熱 逝ネ:以濯 其何龍llx 載背広溺
ヅヅシミ
謀ヲ爲シ巷ヲ爲シ
マスマス禽L 〜兄 工轍鮒試適ラル
爾二憂憶ヲ吉グ 繭二序爵ヲ誰フ 誰力能ク蕪キヲ執りテ 逝イテ溜ヲ以テセザラシ 其レ何ゾ能ク淑クセン
ア トモ
.載チ胃ヒ及二溺ル (第五章)
孟子は「1 ,k能三熱。逝不以濯。」を解して「匡繍仁ヲ好メバ,
天下二敵無シ。今や天下二敵無涯ランコトヲ欲シテ,而モ仁 ヲ以テセズ。是レ猶ホ熱キヲ執りテ,以テ濯ガー ルガゴト シ」と誼き,更に「其何能よ。横皆及溺。」を「今ノ王タラ ント欲スル者,猶ホ七年ノ病二,三年ノ斐ヲ求ムルが如シ。
:葡モ畜ヘザルコトヲ爲サバ,終身憂辱シテ,以テ死亡二士ラ ン」と,主演を刺るの詩と賊してみる。
維此聖人 脳病百里 維彼愚人 覆狂以喜 重言不能 胡斯畏南
町レ此ノ聖人 ti]gヲ澹言ス 諺レ夜ノ愚人
カへ覆りテ狂シテ以テ喜ヅ 言ノ能ハザルニアラズ
胡ゾ斯レ弐レ忌メル (第十章)
朱傳に「聖人ハ幾先二三カニシテ,観テ言フ所ノ者,遠クシ テ三山ザル.ナ.シ。愚人ハ祠ノ將二至ラ.ントスルヲ知ラズ。而 モ反ツテ狂シテ以テ喜ブ。今,事ヲ用フル者,蓋シ此ノ如
シ。我レ言フ能ハザルニ非ザルナリ。此ノ如ク畏レ忌ムハ何 ゾヤ6.王暴虐ニシテ,人/牧テ諌メザルヲ言フナ.リ。」.とあ る。,又園語の周語に云ふ,「属王虐ニシテ,.國人王ヲ誘ル。
召三王.二三ゲテ「1フ,『民,命二三ヘズ』..ト,王怒ツテ衛巫 i葺デ・認ル者ヲ監セシメ,以テ告グレバ員llチ之ヲ紋ス。國 入致テ言フナシ」と。刺詩たることは誰しも異論はないであ らう。美と刺とは全く反回の概念であって,評・合せられるこ とはない筈であるが,實はこれを.美と考へるか刺と考へる か,或は別に隻刺、こ關係しないものであるかと云ふことは,
かなり主槻に依る所があるために,ばかな力澗題の存すると ころである。; 1へぼ李白の清平調三首は51Lfniに味ってみて,
鼠刺したものでもなけ才,ぼ,..副讃したものでもないお始め楊 弓姐ま乏を符て甚だ得惹であったが,.後に高力。卜Pこ.め詰 墾 以て刺詩としてt .e 、.r,t、に封して李白t識したのであるが,こ れはその好偏であろう。詩縄開巻の章の旧風の乙偉撫こついて も詮 f があり,二LIいこよ才.ば「馬把ノ慾ナリn風ノ始メナ リ。天下ヲ風シテ夫弓ヲ正ス所以ナリjとし,文言の二ご大姐 の徳を言ノ㌧たものと考へてるる.∴逆に誠刺と取るものも 多く,暫・齊・弊の三2ぐ予では,三才も刺㌃とし,濃書巻六 十の杜欽の語に,陥1『.こ婁鳴。關雅歎之」の注に,「李奇ロ ク,后夫人,鶏鳴テ玉ヲ偲ビテ君ノ所ヲ去ル。周ノ康王ハ然 ラズ。改二詩人歎ジテ之ヲ傷ム」と,周の走王の三朝を回っ た詩としてみる。これは魯詩の溌である。齊詩を承けた匡衡 は,「孔子詩ヲ論ズルニ,關雌ヲ以テ始メト爲ス。太上ノ者 ハ民ノ父母ナリ。后夫人ノ行ハ,天地ト俸クセズ。則チ祠1蜜 ノ統ヲ奉ジテ,萬物ノ宣ヲ理ムル無シ」と云ひ,(漢書巻八 十一)また後門膏のりF市記の注には,1{1詩章句を引いて「時 二大人,内,三二f汐。負人ハ其ノ J iヲ.見ル。三二關r⊥ヲ詠 ジテ,y父ノ容儀ヲ正スヲ説キ, T 1テ時ヲ刺ル」と∫ してみ るのである。その他毛1…で なと考へている葛寧・巻耳・鵠 巣・采藤・采荻・駿虞・嘩鳴・四牝等の諸篇と以て,魯・
齊・偉の三家は,何れも康王の時の刺詩と考へてるるの.であ る。この三家詩の皐派は,最も美刺の思想に依って詩胤毎澤 せんとするものである。この思想によって詩の効用償値を口 断ずる基準とすることも自然起って來るわけであるが,その 一二を墨げると,.Wの葛洪の抱三子に云ふ,.
古詩ハ過失ヲ刺ル。.故二三有リテ貴シ。今ノ三一虚答二 純ナリ。改二損有リテ蝿シ。
齊詩の系統を引く詩緯含神霧には,
詩ハ持ナリ。攻厚ノ教,自ラ其ノ,lt/・ヲ持シ,認刺ノ道.
以チ搾家ヲ.扶質ズベギモノニ在ルナリ。.
とあり,近くは濤の束濃め東塾讃書記には次の如く述べてみ
る,.
.鄭君ノ詩三下二云フ,.民ヲ動メ功ヲ憧ミ.,.昭カニ上帝二 事フ.レバ,則ヲ公証ヲ受ク.。宏1隔彼.ノ如シ。..若シ違ヒテ
一一P63 一
津山高専紀要(第1巻 第3号)
用ピザレバ,則チ劫殺セラル。大祠此ノ如シ。吉凶ノ由 .ル所ハ,憂娯ノ萌漸ナリ。昭昭トシテ斯二野リ。門主ノ 竪ト作ルニ足レバ,是二丁テ止ムト。澄案ズルニ,大序 二云フ,國史ハ得失遊ヲ明カニスト。小序ハ篇毎二二王 某公ヲ美シ,某王某公ヲ刺ルト言フ。鄭君ハ此ノ意二本 キテ以テ譜ヲ作ル。而シテ譜ノ序二於テ,大イニ豚ノ僻 ヲ放ツ。此レ乃チ三百篇ノ大義ナリ。此レ詩ハ大4二世 二丁有ル所以ヲ學ブナリ。
さて詩の目的或は起原を調刺にのみ蹄することが出來るで あらうか。これには勿論異論も頗る多い。孔子は論語に日ふ,
詩三百,一言以テ之ヲ蔽フ,日ク思邪ナシ。
詩経の詩人達は,総てが世道人心を稗盆し,風を移し俗を易 へ政治教育に資せんとする目的を以て歌ひ出したのではあ
るまい。一般的に言って,詩は元來消憂野饗に即するもの,、
言はば無目的に著せられるものである。即ち物に燭れ,事に 接して起る感情を,自然に而も率直に,下るところなく吐露 したまでであったと考へて,一慮間違ひはあるまい。「思邪 なし」とはこの意に外ならないと思ふ。旧風の中には淫齪の 作も齢くなぐ,小雅の中には怨声の詠も多い。しかしこれら は何れもありのままの心情が吐露せられてるると,孔子は見 てみるのであらう。毛詩の大序に「詩ハ志ノ之ク所ナリ。」
書経の聖典に「詩ハ志ヲ言フ。」また荘子の天下篇には「詩 ハ以テ志ヲ道フ。」或は司馬遷は史記に「詩ハ以て意ヲ遠ク ス。」朱烹は「盗嵯詠歎ノ鯨二蛮スル者」と言って,予め美 刺を目的として詩が作られるものでないと論じ,顧炎武の日 知録には詩の効用と本質の別を論じて云ふ,「作詩ノ旨ハ,舜 日ク,詩同志ヲ言フト。此レ詩ノ本ナリ。王制モ,大師二命 ジテ,詩ヲ陳べテ以テ今風ヲ観ルト。此レ詩ノ用ナリ。甲子 二三雅ヲ論ジテ日ク,今ノ政ヲ疾ミテ,以テ往ヲ思フ者,其 ノ言ニハ文有リ,其ノ野川ハ哀有リト。此レ詩ノ情ナリ。故 二三ハ王者ノ述ナリ。建安以下,骨梁二泊ル,所謂僻人ノ賦 ハ,麗ニシテ以テ淫,而シテ作詩ノ旨二三テ,之ヲ失フコト 遠シ。」或は「古人ノ詩ハ,詩有リテ後二題有リ。今人ノ詩 ハ,四丁リテ後引有リ,詩有リテ後題有ルハ,其ノ詩ハ情二 本ク。題有リテ後二三ルハ,、其ノ詩ハ二二絢フ。」と云ひ,
情の自然に基くのが古人の詩であるが,今入の詩は物に絢ひ たる爲に,予め題を定めて作られる。即ち目的に依って制作 し,効果を期待することがあるの意であらう。宋の黄徹の薯 渓詩話は,詩を論ずるに風教を以て本としているが,美刺を 以て詩を解することは,後漢の鄭玄より以後のことであっ て,美刺を詩の目的とすることは古意でないと論じ,「古人 ハ必ズシモ事ヲ指シ,情ヲ言ヒ,而ル後四戒セズ。其ノ剛柔
緩急,哀樂喜怒ノ間,風教其ノ中二存ス」と,詩の誠刺肇戒 の意は,その自然の効用であることをべ述てるる。王懸麟の 困學紀聞には,「葉氏云フ,漢世ノ文章,未ダ詩序ヲ.引ク三 三ラズ。魏ノ黄初四年ノ詔二云フ,曹ノ詩ハ君子ヲ遠ザケ小 人ヲ近ゾクルヲ刺ルト。蓋シ詩序ハ此二至ツテ始メテ行ハ ル。」と美刺の意は三國の時代より起ると爲し,皮錫瑞の脛 學通論には,「蓋シ詩ヲ作りテ古ヲ陳ブルヲ以テ,今ヲ剰ル 者ハ畢公ナリ。詩ヲ刷りテ定メ,経ノ首トナス者ハ孔子ナ
リ。畢公sアリテハ之ヲ見テ刺詩ト爲シ,孔子ニアリテハ,
之ヲ硯テ詩ヲ正スト爲ス」と論じ,陳奥の毛詩傳疏序には,
「孔子已二言シテ,乱言已二二へ,大道多岐,異端共二作ル。
又或ハ二君ヲ三二シ,正詩ヲ以テ刺詩ト爲シ,詩人ノ本志二 違フ。」と詩を敢て刺と解するのは三三に回ると述べ,顧炎 武は三王を刺る詩とせられている小雅の,楚茨・信南山・三 田・大田・謄二二 ・二三二三・桑弓・三三・魚藻・采款の 十二は「二二ラクハ然ラザラシ」と云ひ,作詩の動機や目的 と,効用三値に就て種種論議が行はれてるる。特にそれが文 學の根源として尊重せられる維書のことであるから,(〔三〕古 典主義の項参照)根本的問題であるだけに,議論を生ずるの である。然し論議はともかくとして,颯刺謁諌を目的として 詩を解し,或は制作の動機ともなったことは,中國に於ては 永い傳統として,詩論に於ても,作詩の實際面に於ても大き
く影響し來つたことは,動かすことの出來ない重要な事実で あったのである。從って詩の債値評論に於ても一種の基準と もなり,「風雅の意」「風人の旨」と評されるものは,詩中に この意を寓するものである。試に四三全書三目提要から二三 摯げてみよう。唐の李義山について,
時二感ジテ事ヲ傷ムハ,尚ホ頗ル風人ノ旨ヲ得タリ。
宋の韓碕について
溢:蓄既二項ク,胸臆ヲ三拝シテ,自然二風雅ノ遺ヲ得タ リ。
宋の高斯得について,
時ヲ欄ミ國ヲ憂フルノ念,一概二之ヲ二二託ス。自ラ白 氏颯喩ノ三二リ。
元の楊三門について,
風規雅謄,雍雍トシテ元肥ノ遺骨有リ。
元の盧i碕について,
其ノ古謄,亦タ抗爽ニシテ調スベク,詞ハ奇骨多ク,往 往ニシテ白張王ノ遺ヲ得タリ。・
元の野天游について,
慷慨ノ中,能ク情二襲シ禮義二止ル。身ハ末季二慮り,
倦倦然トシテ太平ヲ想見ス。猶ホ詩人忠厚ノ遺有リ。
仁枝 忠 中國文学の理念(五) 一門の講刺性について一 明の黄准について,
患難幽憂ノ日二當リ,和平温厚,怨ム所無シ。尤モ風人 ノ旨ヲ失ハズト謂フベシ。
明の鄭文康について,
其ノ詩意ハ勧懲ヲ主トシ,詞旨質直,而シテ温柔敦厚,
蕩然トシテ要ヲ据ルベシ。風人ノ遺タルヲ失ハズ。
などは風雅風人の旨を得たもの,即ち風規調刺の思想を有す るが故に,その償値を高く評価してみるのである。特に面白 いことには,唐の胡曽を評して,
唐人ノ中,未ダ傑出スト爲サザルモ,惟ダ其ノ興亡ヲ道 述シテ,意勘戒二丁ス。大旨風人二淳ラズト爲スノミ。
と評してみるなどは,一流の作家ではないが,勧戒の意ある が爲に,高く認められてよからうと言ふのである。如何に詩 に於ける二丁認諌が重要な内容であるかが,窺ひ知られるの
である。
詩経の詩に限らず,中國古代の詩が調刺を目的として作ら れた謹としては,尚書大州やや史記に見える殿の三仁箕子の
「饗秀ノ歌」がある。
嚢秀漸漸分 褒1秀デテ漸漸タリ 禾黍油油 禾黍 油油タリ 彼学童今 彼ノ陛下 不與我好号 我卜好目ラズ
これは毅の糸寸王を刺つたものであり,意林に引く「井二書ス」
は賦敏を戒めたものである。即ち 原泉滑滑 原泉 滑滑タルモ 連旱則絶 連旱スレバ則チ絶ユ 取事有常 事ヲ取ルコト常有レ 賦敏有節 賦敏節有レ
また左傳昭公十ご年に楚の右ヂ子革が,蜜王を調した語中に 見える詩に,
所招之倍倍 旧昭徳音 思我王度 式如玉 式如弓 形民之力 而無酔飽之心
など多く,左傳嚢公十四年に,
諦ス」とあり,杜注に「替盲ハ詩ヲ爲リテ以テ調刺スルナリ」
と見えるから,刺詩の起原は戦國時代といはず,相即古代に 遡ることが出來る。韻文ではないが,春秋は一字褒疑と云は れるが,これは一字の使用で褒慶の意を寓するものであるか
所招ノ惜倍タル
式テ徳音ヲ昭カニスルモノナリ 我が丁度ノ
式テ玉ノ如ク
式テ金ノ如クナランコトヲ思ヒ 民ノカニ形リテ
酔飽ノ心アルコト無カレ
「警ハ詩ヲ作り,エハ鯵諌ヲ
ら,詩の調刺にも通ずるものである。
さて特に三三の観念を理論化し積極化したものは,采詩の 官の存在である。禮記の王制に「大師二命ジ,詩ヲ陳ジテ以 テ民風ヲ観ル」とあるのがこれである。この存在に關しては かなり傳読的ではあるが,古書に散見し,且つ長い時代に,
多くの人達に信じられ,多大の影響を與へ來っている爲に,
一鷹この存在を認めたいのである。確かに理論的方面では存 在していたのである。これは諸國の民謡が美刺の観念に依っ て取上げられ,政治教育の参考にせられたと言ふのである。
漢書藝文志に「王者ハ風俗ヲ観,得失ヲ知り,自ラ正シキヲ 考フル所以ナリ」と述べてみる。澹浪詩話に「天下二七スベ キ人有レドモ,塵スベキノ言ナシ」と言ふ。全く政治的意志 の登表手段を持たなかった中國の古代杜會に於て,人民の性 情の誠より襲露した聲を詩歌に聞かんとする王者の良心は,
これを王道とも呼んでみるが,采詩の理論はここに日干す る。誠に味ふべき言である。
次に詩纏の編纂である。これにも異説があるが,三千開智 の詩歌が,孔子の手に依って三百鯨篇に下定せられたと云 ふ。「子ノ雅二言フ,詩書執禮,皆雅二言フナリ。」(述而)
「子日ク,小子何ゾ夫ノ詩ヲ學ブナキヤ。詩ハ以テ興スベク,
以テ観ルベク,以テ群スベク,以テ怨ムベク,越クシテハ父 二事へ,遠クシテハ君二三へ,多ク鳥獣草木ノ名ヲ識ル。」
(陽貨)「詩ヲ學バザレバ以テ言フナシ。」(季子)などと論語 にも見えるやうに,孔子の塾に干て重要な教科書となり,詩 の解繹についても三章取義して,政治教育を中心とする儒教 思想の申に取り入れ,子思・孟子・葡子を始め,後世儒家は 皆この傳統を織承し,一方では中國文學の古典主義的傾向と 相侯って,目的や動機が歪曲せられ,これが効果効用と混同 して論じられ,次第にこの傾向を助長して行った。そして美 詩の方は後世殆ど積極的に詩論の封構となることがなくなっ たが,これは理想たる古代の治世は來らず,七二は回れ,政 教は失はれ,眞の美詩に値する時代は來なかった爲であろう か,結局誠刺の詩が風人の旨として,詩の本質の如く考へら れるに至ったのである。そして美詩は實は途に善を言って實 を失った談僻となり終ったのである。これは君子の最:も恥づ べき所であった。三山老人語録に「近世ノ士人ノ上官二與フ ル詩ハ,諌群二非ザルハナシ。未ダ規勧ノ語有ルヲ聞カズ」
と云ふ。規勧の語を失い諌群となり終った詩について,心あ る人士は特に刺詩が強調せられることとなったのであら・うが,
三三が論ぜれる程,刺詩は作られなくなったのである。宮居 易は「采詩ノ官」に,「前王扇L亡ノ由ヲ監ミルナリ」の序を 附して,この事情を次の如く述べている。
一165一
采詩官
三等下半導人言 言者無罪七二誠 下流上通上下泰 周滅秦興至晴氏 十代采詩官不置 郊廟登歌讃君美 樂府艶詞悦君意 若求興論規刺言1 萬句千章無一字 不是章句無規刺 漸恐朝廷絶誠議 課臣杜口爲冗員 諌鼓高懸作虚器 一入負壊常端黙 百辟入門皆自媚 タ郎所賀皆徳音 春官毎奏唯詳瑞 君之堂号千里二 君之三分九重二 君耳唯聞堂上二 君眼不三門前事 貧吏三民無二二 旧臣二君無二二
津山高専:紀要(第1巻 第3号)
君不見二王乙亥末年 群臣有利三無利 (以下略)
これが眞の事惰であったのであらう。斯くして美刺は以て君 の意を迎ぺんとするものになったのである。これも刺詩の無 き世の故に,刺詩が重んぜられるに至った理由の一でもあら
う。
詩に限らず総ての文學作品は,如何なる場合にも作品の動 機と,受取る者との態度とは,必ずしも同一ではない。然し 制作の動機は如何にあれ,現實を反映するものであることに は異論はないから,采詩の意回する所は正しいと言はなけれ ばならない。皐陶の「元首明カナルカナ。股肱良イカナ。庶 事康ナルカナ」の歌を聞いては,舜の徳の昌なることが知ら れ,五子の洛柄に憂慰怨嵯した,「アア易ニカ蹄セン。予之 ヲ懐ヒ悲シム」の詩を聞く時には,順美三悪の意が言外に溢 れて,』夏干の荒敗が推察せられるのである。詩の大序に「治 世ノ音ハ安ラカニシテ以テ樂シム。其ノ政和スレバナリ。三 世ノ音ハ怨ミテ以テ怒ル6其ノ政乖ケバナリ。一封ノ蟹隈哀
三野ノ官
詩ヲ采リ歌ヲ聴イテ人言ヲ導ク 言フ者 罪無ク聞ク者 誠ム 下流 上二通ジテ上下泰シ 周滅ビ秦 興りテ陥二二至ルマデ 十代 采詩ノ官 置カズ
郊廟ノ登歌ハ君ノ美ヲ讃シ 樂府ノ艶詞ハ君ノ意ヲ憶バス 若シ興旧規刺ノ言ヲ求メバ 萬句 千章 一字 無シ 是レ章句 二三 無キナラズ 漸ク恐ル朝廷 正議ヲ絶ツヲ 謳臣 ロヲ二二テ冗員ト爲リ 諌鼓 高ク懸ツテ盧器ト作ル ー人 暖ヲ負ヒテ常二端黙 百辟 二二入ツテ皆 自ラ媚ブ タ郎 賀スル所 皆 徳音 二二 毎二奏スルハ唯ダ祥瑞 君ノ堂や千里 遠ク
君ノ門や九重 悶ズ 君ノ耳ハ唯ダ聞ク堂上ノ言 君ノ眼ハ見ズ門前ノ事 二二ハ民ヲ害シテ忌ム所無ク 好二君ヲ蔽ツテ畏ルル所無シ 君 見ズや属王 胡亥ノ末年
群臣 利 有ツテ君利 無シ
ニシテ以テ思フ。其ノ民困シメバナリ」とあるが,これこそ 采詩の目的であり,意義たるものであった。そして孔子が詩 経を編纂した目的でもあった。詩纒の風雅は殆ど名もなき庶 民の作である。これらの詠者たちは時の政治を悲しみ嘆きこ そすれ,決して始めより爲政者を調刺することをのみ目的と して作られたものではなかったであらう。剛柔緩急,喜怒哀 樂の間に,自ら誠教の資すべきものが存し,その自然で殊更 めいた鮎がない爲に,却って古詩の人を感ぜしめることが遠 く,人の心情に入ることが深いのであろう。しかしこれはあ くまで効用である。効用は作詩の後に現はれる償値たるもの である。然し一度言に嚢して詩となり,多くの人の誠調する 所となれば,効用は自ら附随する重要なる問題たらざるを得 ない。ここに文學の倫理性が起る。清の三徳潜は古詩源に序 して,「詩ハ理ヲ談ズルニ非ザルモ,亦鳥ンゾ理二悼ルベケ ンヤ。仲長二三ヲ述べテ云フ,五経二畔散シ,風雅ヲ滅棄ス ト。放恣問フベカラズ」と論じてみるのは,この意を言ふも のである。朱黒が「詩ハ須ラク是レ沈潜調講シテ,義理ヲ玩 味シ,滋味ヲ二三スベシ。方二盆スル所有ラン」と云ふとこ
ろも,この説を前提としての論である。孔子の云ふ「多ク鳥 獣草木ノ名ヲ識ル」も亦た効用である。
さて楚の屈原の離騒であるが,漢の王逸は離騒に救して言
ふ,
屈原ハ忠貞ヲ執履シテ議邪ヲ被り,i憂心三山シテ懸フル 所ヲ知ラズ。乃チ三山経ヲ作ル。離ハ別ナリ。騒ハ愁ナ リ。経ハ樫ナリ。放逐離別ヲ以テ中心愁思シ,猶ホ直穫 ヲ以テ君ヲ風諌スルヲ言フナリ。故二上ハ唐虞三后ノ制 ヲ述べ,下ハ桀紺罪澆ノ敗ヲ序シ,君ノ畳悟シテ正道二 反り,己ヲ還サンコトヲ翼フナリ。(中略)離騒ノ文ハ 詩二依リテ興ヲ取り,類ヲ引イテ讐喩ス。故二善鳥香草 ヲ以テ忠貞二配シ,悪禽息物以テ護1三二比シ,璽修美人 以テ君二娩シ,慾妃三女以テ賢臣二三へ,虻龍驚鳳以テ 君子二託シ,瓢風雲覧以テ小人ト爲ス。其ノ詞ハ温ニシ テ雅,其ノ義ハ絞ニシテ朗ナリ。凡百ノ君子,其ノ清高 ヲ慕ヒ,其ノ文采ヲ嘉シ,其ノ不遇ヲ哀シミ,其ノ志ヲ 閾マザルナシ。
これは司馬遷も同意見である。これも詩経三下の思想に通ず るもので,詩に依って興を取り,類を引いて讐を設けて.fOる のである。朱烹も楚譜注に,
其ノ情ヲ草木二二シ,意ヲ男女二丁シ,以テ遊観ノ適ヲ 極ムル者ハ攣風ノ流ナリ 。事ヲ叙シ,情ヲ陳ネ,今二丁 ジテ古ヲ懐ヒ,君臣ノ義ヲ忘レザル者ハ,攣雅ノ流ナリ.。
と述べ,文心雛龍の比興には
仁枝 忠 申國文学の理念(五) 一詩の調戦国について一 比ハ則チ憤ヲ畜ヘテ以テ言ヲ斥ス。興ハ書ヲ環ラシテ以
テ誠ヲ記ス。蓋シ時二随フノ義一ナラズ。故二詩人ノ志 ハご有り。
と比興の義を読明し,
楚裏ハ課ヲ信ジ,而シテ三三ノ忠烈ハ,詩二依ッテ騒ヲ 製シ,言風ハ比興ヲ蕪ネタリ。
と離騒を評し,同じく明詩には,
楚三三怨スルニ逮ンデハ,則チ離騒刺ト爲ル。
と云ひ,辮騒には准南王劉安の語を引いて言ふ,
國風ハ色ヲ好ンデ淫セズ。小雅ハ怨誹シテ齪レズ。離騒 ノ若キハ,之ヲ蕪ヌト謂フベシ。
更に
其レ二三ノ歌介ヲ陳べ,湯武ノ砥敬ヲ構スルハ七三ノ膿 ナリ。桀紺ノ狽披ヲ談リ,葬澆ノ顛隈ヲ傷ムハ,規調ノ 旨ナリ。虫し龍以テ君子二愉へ,雲寛以テ識邪二丁フルハ,
比興ノ義ナリ。一タビ顧ル毎二涕ヲ掩ヒ,君門ノ九重ヲ 歎ズルハ忠怨ノ譜ナリ。薙ノ四事ヲ観ルニ,風雅ト同ジ キ者ナリ。
と述べてみる。離騒の作者屈原は識に遇うて放逐せられた が,忠貞の志は訴うるに由なく,憂心煩憎し,國を憂ひ君を 案じ,自ら用ひられ容れられざることを歎じては,自然誠喩 の作も現はれるであらう。そして上は唐虞三代の制を救し,
下は桀紺翼澆の亡敗を序し,明を蔽はれた君が正道に立ち返 り,自分を召還して,理想を行はしめることを願ふ意を寓し てみるのである。王逸は,
屈原ハ忠ヲ履ンデ譜ヲ被り,三州愁思シ,濁り詩人ノ義 二依ツテ三二ヲ作り,上ハ以テ調刺シ,下ハ以テ自ラ慰 ム。
と述べてみる。ここに詩入とは詩経の詩の作者を指し,四壁 を以て調刺自慰の文學と解してみる。
さて離騒三百七十四句,二千四百鯨字中の末尾の数句を摘 記しよう。
遭吾道夫毘罷分 遭リテ吾レ夫レ毘嵜二道スレバ 路三遠以週流 路ハ三遠ニシテ以テ週流ス 揚雲寛之晦需分 雲門ヲ揚グルノ晦霜タリ 鳴玉鷺之轍徽 玉鷺ヲ鳴ラスノ轍嚇タリ 朝襲朝於天津分 朝二靭ヲ天津二三シ タ余至乎三極 タニ余レ西極ユ至ル
ツツシ ノ
鳳画三三承二分 鳳鳳 翼ミテ其レ族ヲ承セ 高翻翔之翼翼 高ク劒翔シテ翼翼タリ 忽吾行此流沙分 忽チ吾レ此レ流沙二行キ 遵赤水而容與 赤水二遵ヒテ容與ス
ハシ摩鮫龍以梁津山 三盆ヲ魔イテ以テ津二梁シ ツ
詔赤心使渉予 西皇二詔ゲテ予ヲ渉サシム 路脩遠以多難分 路ハ脩出向シテ以テ多難ナリ ア
騰塗輿使好目待 熱演ヲ騰ゲテ脛二二待タシム 路不周以左韓分 不周二路シテ以テ左韓シ 指西海三思期 西海ヲ指シテ期ト爲ス アツマ屯余三瀬千乗分 屯レル余が車ハ其レ千乗ナリ トトノ
青玉欲望並馳 三献ヲ齊ヘテ並ビ耳門 駕八龍之総覧分 八挺ノ望事タルヲ駕シ 載黒旗之軸壁 雲旗ノ委蛇タルヲ載ツ トド暫時而弼節号 志ヲ抑ヘテ節ヲ輯ムルモ 紳軽罪之遡翅 帥高ク馳セテ遡遡タリ 奏九歌早舞野分 九歌ヲ奏シテ紹ヲ舞ヒ シバラ即ロ照日雨雫樂 聯ク日ヲ假リテ以テ喩樂ス 陵陞皇之赫戯号 陞皇ノ赫戯二陵リ
忽臨戦夫菖郷 忽チ夫ノ奮郷ヲ国母スレバ 僕単音余馬懐分 僕夫ハ悲シミ余が馬ハ懐フ 蜷局顧而不行 蜷局トシテ顧ミテ行カズ 魁日 蹴二日ク
巳 哉國無人号 已ンヌルカナ國二人 無ク 掛目知分 我ヲ知ルコト莫シ 又何懐乎故都 又何ゾ故都ヲ懐ハン
既莫足寺運美甘分単二與二美政ヲ爲スニ足ル莫シ 吾將從彰成之旧居 吾レ將二極成ノ居ル所二三ハントス 屈原は忠直の心を以て君に事へんとすれども,常に邪悪の倭 人の妨害する所となり,加之,楚の窯人達も醜倭を親愛して,
忠直なる屈原を拳骨する次第を述べ,節を攣ぜざるもの我一 入のみであって,共に居るべきの入無く,嫉妬の倭人は遂に 屈原を放逐せしむるに至り,自らも故国たる楚國に滝留すべ からざることを悟り,西方⑱紳仙界に遊ばしめようとした。
一度は遠逝せんとして猶ほ君を棄て國を去るに忍びず,屈原 は絶望の外はなかった。ただ望む所は,飾売『吾が忠直なるこ とを知り,美政を醒して國を治安に致さんとするに在り。放 逐せられて,君を思い國を懐うの情は,去るに忍びず。留ら んと欲するも邪悪の人は吾を容れず,自らも故旧の傾覆を坐 視するに忍びず。嘗て殿の賢臣彰成の,君を詠めて聴かれず,
水に投じて死したが,吾も亦これに從はんと云ひ,終に泪羅 に投じで死んだのである。詞は誠に難解であるが,微詞を以 て颯蔑してみることは,震怒説く者の一致した意見である。
林西仲の楚僻燈に云ふ,
骨子全副ノ精神ハ,繕テ國ヲ憂へ民ヲ憂フルノ上二在
一 167 一
津山高専紀要(第1巻 第3号)
リ。云フ所ノ「皇輿ノ欺績ヲ恐レ,民生ノ多難ヲ哀ム」
ノ如キ,其ノ關切ノ意見ルベシ。誕ヲ被ルニ因ツテ三下 セラレテ後,純ラ是レ蕪人事ヲ用ヒ,以テ國事日二非,
民生日二遷ルヲ致ス。即チ自己ヲ哀ムハ,亦タ國ヲ憂へ 民ヲ憂フル所以ナリ。後段印二三フ,毘嵜二極三皇西 海野々西方一面二三リ。故郷ヲ見ルニ因ツテ途二婦 ル。絶テ東南北ノ三方ヲ提起セズ。明明二知ル,楚屡々 秦二野メラル。將來必ズ秦ノ併ト爲ランコトヲ。故二特 スミヤ
ニ道ヲ取りテ以テ形勢ヲ観,亟カニ錦ツテ楚ヲ覗ル。若 シ國中人有リ,與二善政ヲ爲サバ,或ハ闇々支フベカラ ント。蓋シ微詞ヲ以テ謁諌ス。而シテ懐旧ハ寛二置キテ 聞クフト岡キが若シ。此レ大史公ノ之ヲ終二丁ラズト謂 フ所以ナルカ。
次に賦について見よう。漢書藝文志に「孫三二十篇」とあ る。孫卿とは丁子である。今の葡子を見ると,禮・知・雲・
慧箴の賦五篇と成相五章の韻文が載録せられてるるが,爲政 者への戒館が述べられてをり,やはり離騒と共に,二三の颯 諫の淵源とも考へられるもので,或は言語比喩を用ひて時世 を論じてみるのは,詩の比興の旨に依ったものである。
漢賦に就て見よう。賦の意は敷である。事を敷陳し,誠諭 の意を寓して上の鑑戒の資とせんとするものである。漢書藝 文志に
春秋ノ後,周道寝壊シ,丁丁ノ歌詠ハ列國二行ハレズ。
詩ヲ學ブ士ハ,二三シテ布衣二丁目。而シテ賢人志ヲ失 フノ野作ル。大儒孫卿,及び楚ノ臣屈原,説ヲ離レ國ヲ 憂へ,皆賦ヲ作りテ以テ風ス。威弓隠古詩ノ義有リ。
と云ひ,摯虞の文章流別論にも,
前世ノ賦ヲ爲ル者,孫卿・屈原有リ。尚ホ頗ル古詩ノ義 有り。
と言ひ,漢の宣帝は漢書王褒傳に賦の意義を説いて,
賦ノ大ナル者ハ古詩ト義ヲ同クス。小ナル者ハ三門ニシ テ喜ブベシ。辟ヘバ女工二綺穀有リ。音引二丁衛有ルガ 如シ。今世ノ俗猶ホ此ヲ以テ耳目ヲ馬丁ス。譜ハ三二比 ス。尚ホ仁義風調,鳥獣草木多聞ノ観有リ。偶優博突ヨ リ賢ナルフト遠シ。
と論じ,文体明辮には云ふ,
上林・甘泉ハ其ノ鋪張ヲ側壁テ,終二調諫二子ス。而シ テ風ノ義未ダ混ビズ。雨二等ノ賦ハダ其ノ眩曜ヲ極メテ,
ソシ
終二折ルニ法度ヲ以テス。而シテ雅類ノ義未ダ混ビズ。
長門・自満目ノ賦ハ,情二丁ツテ義二嚢シ,物二二シテ 詞ヲ興ス。成和平群容ノ意有リ。而シテ比興ノ義臣ダ混 ビズ。故二詞人ノ賦ト難モ,君子猶ホ取ル有り。
班置も亦た.その爾都の賦の序に,
賦ハ古詩ノ流ニシテ,雅頗ノ亜ナリ。
或ハ以テ下情ヲ仔べ,而シテ調諭二通ズ。
と云ひ,丁丁を以て古詩即ち詩経の調諫の理念を纏承したも のとしてみる。楊雄も漢書楊四半に,・「賦ハ將二以テ風セン トスルナリ」と調諌主義を主張し,司馬相如は子虚・上林の 賦を作って最後に調諌の意を寓し,また「上書シテ猟ヲ諌 ム」の賦を武帝に奉った。漢書司馬相如傳賛の引く所に依れ ば,司馬遷は相如の賦を「相如ハ虚譜濫説多シト錐モ,然レ ドモ其ノ要ハ之ヲ節約二婦引ス。此レ詩ノ誠諌ト何ゾ異ラ ン」と評してみる。後漢書の張衡傳には,二京の賦を「班固 ノ雨都ノ賦二擬シテニ京ノ賦ヲ作り,因ツテ以テ調諌ス」と 言ふ。然しその實際について見る時は,修麗閃衙の辞に專ら で,所謂誠諭の義は失はれてるるのである。楊雄も「詩人ノ 賦ハ麗ニシテ以テ則有リ。辞人ノ賦ハ麗ニシテ以テ淫ナリ」
と悔悟してみる。
二代の詩を代表するものとして古詩一十九首がある。作者 については異説があって,ただ一人一時の作でないことは,
多くの人の認める所である。文選にただ古詩とのみあるのは 皆野と思はれる。僻は温籍,意は和厚にして,後世古今の淵 源として詩母とも構せられる。また五言の詩纒とも云はれ,
風下とも評せられてみる。三門とは國風声韻の意である。皆 狐臣・二丁の哀愁痛恨の情を表現してみる。微にして娩なる 三三の間に,調諭の意を深く藏してみる。温厚の至れるもの
と言ひ得るであらう。宋の晃補之は「詩ノ流レハ二二至ツテ 二丁ト爲リ,漢二至ツテ賦ト爲リ,其ノ後賦ハ復タ攣ジテ詩
ト爲ル」と言ふ。調刺思想の系譜も亦た同様である。
古詩一十九首(其一)
行行重行行 與君生別離 相去萬鯨里 各在天一涯 道路阻且長 會面安可知 胡馬依北風 越鳥巣南骨 相三日已遠 衣帯日已緩 浮雲蔽白日 骨子不顧返 思君門人老 歳月忽已晩
行キ行キテ重ネテ行キ行ク 君ト生キナガラ別離ス 相ヒ去ルコト萬蝕里 各々天ノー涯二三リ 道路ハ阻テテ且ツ長シ 會面安ンゾ知ルベケン 胡馬ハ北風二二リ 越鳥ハ南枝二巣クフ 相ヒ去ルコト日二已二三ク 衣帯ハ日二已二緩ナリ 浮雲 白日ヲ蔽ヒ 三子 門門セズ
君ヲ思ヘバ人ヲシテ老イシム 歳月 忽トシテ已二晩ル
仁枝 忠 中國文学の理念(五) 一詩の謁刺性について一 棄損勿復道 三三セラルルモ復タ道フナケン
努力加餐飯 努力シテ餐飯ヲ加ヘン
これは夫に棄回せられた妻が,猶ほ夫を思う情の切なるに擬 して,君に疏外せられた旧臣の情を詠じ,邪臣の天子の明を 二二していることを,白日と浮雲に比して調したものであ る。浮雲蔽白日を李善は,「二二ノ忠良ヲ毅ルニ喩フ」と注 してみる。
(其一十九)
明月何鮫絞 照我羅妹帷 憂愁不能燦 三衣起俳徊 客行難云樂 不如早旋闘 出戸濁彷裡 愁思當告誰 引領還入房 涙下零裳衣
明月 何ゾ絞鮫タル 我が羅躰帷ヲ照ラス 憂愁 課ヌル能ハズ
カが衣ヲ掩ゲテ起ツテ俳徊ス 客行ハ樂シト云フト錐モ 早ク旋錦センニハ如カズ 戸ヲ出デテ濁り彷僅シ 愁思 當二誰二告グベキ
クビ
領ヲ引イテ還タ房二入リ 涙下リテ裳衣ヲ露ホス
この詩も亦た棄妻の夫を思う情,或は朋友の闊絶を刺るもの であり,或は又前の詩と同様に,逐臣と君主との關係を調し たものであらう。三徳潜は古詩源の注に,
十九首ハ大正逐臣・棄妻・朋友闊絶・死生新古ノ感,中 間二或ハ寓言シ,或ハ顯言シ,反覆低徊シ,抑揚シテ壼 キズ。護者ヲシテ感ヲ悲シミテ端無ク,油然トシテ善ク 入ラシム。此レ軽風ノ遺ナリ。
と云ふ。青青河畔草,渉江采芙蓉,再再孤生竹,庭中有奇樹,
凛凛歳云暮,孟冬寒氣至,客從遠方來の諸篇は,何れも思婦 の情,人を懐うの詩であるが,夫婦の情愛を楓するもの,或 はこれに比興して君臣の間を誠するものもあるであらう。酉 北有高棲は,知音の稀なるを傷むが如くにして,孤臣の君を 怨慕したもの,避選牽牛星は,男女の間の相近くして,而も 情を達する能はざることを述べてみるが,沈徳潜は託興の詩
と言ってみる。即ち諏諭の意を寓するものであると考へてる るのであらう。之を要するに,古詩一十九首は淳雅斐然たる 辮藻と,悠遠敦厚なる比興認諭とは,風雅の遺音たるもので
ある。
また漢に章孟の「調諌の詩⊥がある。車孟は嘗て楚の元 王の傅となり,後にその子三王及び孫の王戊の三代の傳とな
った。王戊は荒淫にして政を顧みず,詩を以て調諌したのが これである。詞は質撲醇雅で,漢代四言の組と構せられ,後 の東方朔の誠子詩,章玄成の戒孫詩,曹植の責躬詩などは,
この詩の風度を追躍したものである。.
一 169 一
丁目警保平野麟娯斗出獣苗置鍮徳俊恢信夫髪王察平声欝欝響胴怪聞子土輝輝近枯王思平町逸國颯略戦守年租是是悠子鳥稼以欝乎匪是是千旦我事下戸顯削我坦坦令天下群靡盲判我斯匪岡其其 前町思惟纏事軍馬放此此革命弘親圃諌喩訂何不貌欲彼此嵯之不休穆押明憲避其嵯不思其彌彌 ︵如不不以等軸犬駅務忽蒸我所所惟唯制辞如曾即追鰻等等漢曾以穆照明執正掃手掲匪嗣彌彌 章孟
如何ゾ我が王ハ
守リ保ンゼンコトヲ思ハズ 泳ヲ履ンデ
以テ祀考ヲ縫ガンコトヲ惟ハザル 邦事ヲ是レ巖シ
逸遊ヲ是:レ娯シミ 犬馬ノ悠悠タル 是レ放チ是レ騙ル 此ノ鳥獣ヲ務メテ ユルガセ
此ノ稼苗ヲ忽ニス
らポ 蒸室ハ以テ麗シク 我が王ハ以テ喩シム 弘ムル所ハ徳二匪ズ 親シム所ハ俊二匪ズ オホイ
珊々圃ヲ是レ恢ニシ 唯々諌ヲ是レ信ズ 喩喩タル詔夫 謂汐田ル黄髪アリ 如何ゾ我が王ハ 曾テ是ヲ察セザル カ目
印脚下臣ヲ貌ンジテ ホシンママ
欲ヲ追ヒ逸ヲ 縦ニシ アナ
彼ノ甲骨ヲ鰻ドリ 此ノ削瓢ヲ輕ンズ 嵯嵯 我が王制 漢ノ睦親ナリ 曾テ夙夜シテ 以テ令聞ヲ休クセズ 穆穆タル天子ハ 下土ヲ照臨ス 明明タル群隣邦
憲ヲ執りテ顧ミルコトナシ
トホ
避キヲ正スハ近キ由りス
アヤフ タノ
殆イカナ其レ薙レヲ枯ムコト 嵯嵯 我が王ハ
禺ヅ斯レヲ思ハザル 思フニ匪ズ監ミルニ匪ズ 嗣イデ其レ則ル岡クバ 彌彌タリ其ノ逸 彌彌タリ其ノ國
丁丁匪丁 丁墜三三 謄惟我王 時下不練 興三三顛 敦三下過 追思黄二 三穆以覇 歳月其租 年其逮嵩 於赫君子 庶顯肥後 我王如何 曾不回覧
泳ヲ致スハ霜二三ズや 墜ヲ致スハ鰻二匪ズや 惟レ我が王ヲ謄ルニ
コ ナ
時レ練レザルハ靡シ 國ヲ興シ顛ヲ救フハ 敦力過ヲ悔ユルニ違ハン 黄牛ヲ追思シテ
秦穆ハ以テ覇タリ 歳月ハ其レ祖キ 年ハ其レ喬二逮ブ
マア於 三四ル君子
コヒネが 後二顯ハレンコトヲ庶フ 我が三一如何ヅ
曾テ斯レヲ覧ザル
津山高専紀要(第1巻第3号)
文心雛龍に「漢初ノ四三ハ,章孟首メテ唱フ。匡諫ノ義ハ,
軌ヲ痴人二縫グ」(明詩)とあり,竹林詩話には「章孟ノ四言 ハ,誹りテ齪セズ。小雅ノ流風ナリ」と評してみる。文心雛 龍には信じて漢の詩を評して,
古詩ノ離別,樂府ノ長城ハ,詞ハ怨ミ旨ハ深ク,而シテ 復タ比興ヲ兼ネタリ。陳思ノ黄雀,公幹ノ青松ハ,格ハ 剛二高目勤二,而シテ並ビニ調色二長ズ。
と論じてみる。「詩人口調刺ス」と云ふ所以のものである。ま た張衡に「四位ノ詩」がある。左にその第一首を墨げよう。
我所思分在太山 欲往從之梁歩難
側身四望涕霊翰
美人贈判金錯刀 何以報之英慶避 道遠莫致碕遣遙 何爲懐憂心煩労
我が思フ所ハ太山二在り
往イテ之二面ハント欲スルモ梁父 難ナリ
身ヲ側テテ東望スレバ涕 翰ヲ霊ホ
ス
美人我二三ル金錯ノ刀 何ヲ以テ之二報ピン英環瑠
道遠クシテ致スナク碕リテ迫遙ス
ナンスレ門門ゾ憂ヲ懐イテ心煩榮スル 梁歩を丁丁の小人,英環瑠を忠誠に比し,邪臣の君側に在る を調してみる。漢の時代は,漸く儒教が政治學,帝王學の中 心的地位を獲得した時代であると共に、形式的ではあったが,
積極的に颯刺誠諌の思想が,文學の目的として文學論の表面 に推し出されることになったのである。
魏の曹子建には「七歩の詩」がある。世読の文學篇に依れ ば,「文帝嘗テ東三王ヲシテ,七歩ノ中二詩ヲ作ラム」とあ
り,子建は七歩の中に作詩して門下に示した。即ち 煮豆燃豆箕 豆ヲ煮ルニ豆箕ヲ燃ヤス 豆在釜中泣 豆ハ釜中二在ツテ泣ク
本是同根生 本是レ同根ヨリ生ズ 相煎三太急 相ヒ煎ル何ゾ太ダ急ナル
豆と豆箕とを以て,兄の門下を回した。「帝深ク漸色有リ」
と見える。又風人の言と言ふべきであらう』、
唐に入って盧照鄭に七言長篇の「長安古意」がある。繁榮 した長安の状を爲し,
寂寂蓼蓼揚子居 寂寂 蓼蓼タリ揚子ノ居 年年歳歳一・床書 年年 歳歳 一床ノ書 濁有南山桂花畿 濁り南山桂花ノ畿ク有り ツ 飛來飛去襲人裾 飛ビ來リ飛ビ去ツテ人ノ裾二襲ク
と楊雄に託して,長安の輕浮な流俗を颯刺してみる。劉廷芝 の「公子行」は豪華な公子の行樂漁色を調刺し,「白頭ヲ悲 シム翁二代ル」には,
宛韓蛾眉能幾時 宛縛タル蛾眉 能ク幾時ゾ「
須輿鶴髪齪如綜 須庚ニシテ鶴髪 齪レテ綜ノ如シ 但高古來歌舞地 但ダ看ヨ古來 歌舞ノ地
乱心黄昏鳥雀悲 惟ダ黄昏 鳥山ノ悲シム有ルノミ と言って,洛陽城中の紅顔子の流連淫荒を試してみるなどは,
長安古意と意を同じくするものである。
安緑山の齪以後,人民の困窮億甚だしく,詩人は漢に捕し て時世を颯刺した詩を作ってみる。特に職謝を調した作と..
庶民の報いられない螢働を悲しんだ詠が目立って多くなった ことは,詩の全盛を誇る無代にあって,極めて注目すべき傾 向と思はれるのである。試みにその山盛を墨げてみやう。何 れも人口に瞼漏してみるものである。
封花 花開蝶満枝 花謝蝶還稀 唯有菖巣燕 主人貧亦闘 傷田家
二月費新糸糸
五月耀新穀 三三眼前瘡 剣却心頭肉 翼婦
昨日到城郭 蹄來涙満巾 遍身綺羅者 不是養三人 閥回 想鶏日當午
二二
花 開イテ蝶 枝二満ツ 花謝シテ蝶還タ稀ナリ 唯ダ奮巣ノ燕有リ 主人 貧ナレドモ亦タ麟ル 最夷中
二月 新締ヲ費リ
五月新穀ヲ耀ル 眼前ノ瘡ヲ讐シ得テ 剣却ス心頭ノ肉 無名氏 昨日 ;城郭二三リ 錦來 涙 巾二満ツ 遍身 綺羅ノ二 三レ螢ヲ養フ人ナラズ 李紳
ス禾ヲ鋤イテ日 午二當ル