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仏教文化研究所紀要54 003平田, 厚志「西本願寺初期「学寮」の取り崩しをめぐる政治的攻防について」

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個人研究

西本願寺初期

A且今

の取り崩しをめぐる政治的攻防について

士 山 は じ め じ 申 ん ・ 7 月感・西吟の教学論争を発端として西本願寺料航宗釘)(以下、本願寺良如ないしは良知と略称、稀に本門跡と呼称)と筆頭末寺輿正寺准す (以下、輿正寺准秀ないしは准秀と略称、稀に興門跡・脇門跡と呼称)との聞に発生した﹁出入り一件﹂の見どころは、何といっても﹁学寮﹂ の取り崩しをめぐるポリティクス(政治的駆け引き)の攻防戦にあったといっても過言ではない。その攻防の仕掛人は本山本願寺からの独立 H ﹁一派﹂取り立てを志向する准秀であったが、﹁学寮﹂創設の﹁違法﹂性を前面に押し立てての准秀の訴えを、﹁幕法﹂上からも尤もな訴えとし てそれを聞き容れる形で、﹁学寮﹂の取り崩しを良如に強く迫ったのが幕府関係者、﹁学寮﹂運営は幕藩制秩序順応型の教化者養成のための施設 であり、取り崩し要求は不当な言いがかりだとして、断固拒否する姿勢を頑なに貫き通そうとして抵抗したのが良知であったという対立構図に おいて、この三者のポリティクスをめぐる攻防戦と捉えることができる。とりわけ、この政治的攻防の中心的な役割を担った人物は、幕閣の意 かもんのかみなおお を託された井伊掃部頭直孝(﹁譜代﹂幕閣の長老で、初期家綱政権の相談役的存在。以下、井伊直孝ないしは直孝と略称)と西本願寺教団の当 該宗主・良如の二人であった。両者は個人的には一定の信頼関係を保持しながらも、直孝は仏教教団内の紛争が幕政の舞台に上訴された限り、 幕府権力の支配の論理に即した対応をせざるをえず、これに対して良如の方は、幕藩政権下の仏教教団として幕府権力に従属的に依存しながら も、大教団を束ねる宗主として、カリスマ的権威をもって教団的秩序を維持して行く立場にあったがゆえに、教団内での配下寺院の背本行動は 西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て 六 五

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西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て 六 六 決して見逃すことのできない背信行為と見倣したのであった。直孝は良知との信頼関係を全面に押し出してではあるが、老猫な政治的調停手腕 と幕府権力を後ろ楯に、剛・柔両面策を使い分けて説得に当たった。直孝の極め付けの説得策とは、先代親父直政が、徳川家康に対する一時期 の西本願寺の窮状に救いの手を差し伸べ、そのため前宗主・准知が浅からざる恩義を背負うことになったとする﹁由緒﹂問題をチラつかせ、且 つまたある種﹁密約﹂ともとれる言質を良知に与えることによって、心理的動揺を呼び起させることであった。この直孝の秘策が奏効したのか は と も か く 、 ついに良如から自発的に﹁学寮﹂施設を取り崩すとの同意を取り付げたのである。紛争の発端から収束までには数年を要したもの の、当初から想定していたと思われるシナリオ通りに、﹁内証﹂(本訴訟に持ち込ませないで、内々に処理すること)にて﹁一件﹂を落着させた。 本稿は、﹁学寮﹂取り崩しと、それに続く准秀・月感の処罰案をめぐるポリティクスとしての攻防戦の数カ月間を、主として直孝と良知との 遣 り 取 り に 特 化 し て 、 できるだけ詳細に跡付けることを目的としたものである。

興正寺准秀の﹁学寮﹂取り崩し要求

輿正寺准秀はどの時点で、本願寺﹁学寮﹂の取り崩し要求を画策したのであろうか。准秀が本山を攻撃し始めるのは、月感を全面的に擁護す る決意を固め、自らも独断で天満掛所に転居するという思い切った行動に出た承応二年(一六五三)十二月二十一日が大きな画期となるが、准 秀が本願寺﹁学寮﹂の﹁違法﹂性を前面に押し立てて、その取り崩しの要求を、興正寺と婚姻関係のある有力大名や公家を介して、幕府に訴え 始めたのは、承応三年ご六五四)三月下旬頃からではなかったかと推察される。すなわち、﹁承応閲締記﹄(以下、﹃閲婚記﹂と略称)によれ ば、﹁(承応三年)三月二十五日、輿正寺殿ハ、讃州へ御下候由ニ候、是ハ松平右京殿ハ、水戸中納言殿御嫡子ニテ、内縁在 v 之 ニ 付 、 { 掴 中 御 門 う S ょうたゅうよりしげ 弟之事御頼ミ、文江戸へ御訴訟ナドノ御相談ト也﹂(十九頁)という記事があり、准秀が姻戚関係にある讃岐高松藩主松平右京大夫頼重(准秀の 姉脅光院は水戸中納言徳川頼房の室、准秀の第六子随如は頼重の養子、准秀の孫で輿正寺第八世寂眠は、頼重の第四女慧勝院を要る)を頼って、 讃岐高松まで﹁相談﹂のために赴いていたことを伝えている。それが承応三年三月下句であったことに着目すれば、興正寺准秀の最大の後楯で ある頼重の毛並みの良さ(水戸徳川家初代徳川頼房の長男、家康の孫、秀忠は伯父、水戸徳川家第二代光園は弟)を頼りに、興正寺四国教線の 一大拠点である讃岐園の末寺・門下に対する本寺本願寺による直末化への強誘を阻止するためという第一の目的のほかに、もう一つは﹁江戸へ

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御訴訟ナドノ御相談﹂のためだったとする点に留意する必要があろう。准秀による幕府への﹁訴訟﹂が具体的に如何なる内容のものだったのか は一切不明だが(宗義・宗学論争に関しては幕府への訴訟に川}馴染まないて准秀が頼重と初)相談を終えて天満掛所に帰寺してから四カ月後の ゆ き い え や す み ち 七月下旬ごろから、本願寺良知とも関係の深い前関白九条幸家(良知義父)・前摂政二条康道(良知義兄)などの公家や京都所司代板倉周防守 { ロ } し げ む ね な お ま き か っ た か 重宗・禁中作事奉行永井信濃守尚政・幕府寺社奉行松平出雲守勝隆ら幕府役職者による、﹁学寮﹂の取り崩しにターゲットを絞った良知への説 得工作が本格化することを勘案すると(後述)、准秀が幕府への﹁御訴訟﹂について頼重と相談した内容とは、まさしく本願寺﹁学寮﹂の﹁違 法﹂性について、寺社奉行を通して幕閣に訴え、さらにはその取り崩しを、幕府を介して良如へ強く要求するための﹁相談﹂こそが、その内容 の核心そのものだったのではなかろうか。

公家・幕府関係者の﹁学寮﹂取り崩し要請と江戸での事情聴取

恐らくは准秀の天満引き飽りという異常事態を打開するためと、准秀の幕府への訴えを受けての動きと思われるが、本願寺・興正寺双方に縁 のある九条幸家・二条康道が七月十一日と二十四日の両日に、本願寺良如のもとに出向いている。また、天満の准秀のもとにも使者を遣わして いる。幸家・康道両公家の二度にわたる本願寺来訪は、興正寺准秀の京都帰寺の条件として、﹁学寮﹂の取り崩しが提案されたものの、良知の 不同意で、結局この両公家による説得は失敗に終わったようである。両公家の説得不調を見越してか、天満通い寺における﹁本寺之外ニ無之作 法﹂(法物・座配等の下付)の大胆な行為はもとより、西吟能化下の学寮運営やそれを支持する良如の姿勢は﹁開山以来之勧化ニ相違せり﹂と して、書付四か条から成る批判書 H ﹁安心相違之覚替を九条二一条家に提出(八月初句)するなど、興正寺准秀の本山挑発行動はますます加 速度を鴻しはじめたい'本願寺側としても准秀のこのような挑発行動を不聞に付することはできず、京都所司代に訴え出たのは勿論、下関治酔 き ょ う な か 杭 申 、 8 ょ う 杭 μ 、 ( M U V ( 初) 卿仲定・金光寺教思を江戸に派遣して、幕府寺社奉行に﹁今度寺社御奉行衆江以両使被申入口上之覚﹂(﹃異義相論﹄ 2 1 1 ) を 提 出 し た り 、 ﹁破安心相違之覚響を急逮作成して諸国下坊主・門末に配布するなどの対抗手段を取るなどしたために、両寺の対立はいよいよ深刻なものに な っ て い っ た 。 こうした事態を幕府としても静観・黙止しえず、幕府役職者を差し向けて、とくに良如の説得工作を試みた。﹃閲婚記﹄・﹃石川日記﹄などに 西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て /、 七

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西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て /'¥ J¥ よると、まず、八月二十四日、禁中作事奉行であった永井尚政を本願寺に遣わし、良如に面会を求めて、興正寺との和融を図るには本願寺側も コ ポ チ 一定の譲歩が必要として、良知に﹁学寮崩し﹂を迫ったが、﹁学寮御壊被 ν 候 儀 、 御 門 跡 様 無 ユ 御 同 心 円 不 = 相 調 -﹂ ( ﹃ 閲 婚 記 ﹂ 、 二 十 一 頁 ) し て 、 尚政はむなしく帰らざるをえなかったとある。 永井尚政による良知説得不調の報告を京都所司代から受けてのことと思われるが、幕府老中は、今度は幕府寺社奉行の松平出雲守勝隆を上洛 させ、本願寺へ乗り込ませた。 霜 月 十 一 日 、 江 戸 公 方 様 ヨ リ 禁 中 へ 、 為 エ 御 使 者 山 松 平 出 雲 守 殿 献 肝 腕 一 慨 は 醐 府 羽 一 階 御 上 洛 候 、 二 十 二 日 迄 、 御 逗 留 也 、 両 度 当 御 所 へ 御 出 被 ν 成 、 興 正 寺 殿 儀 、 御 扱 也 、 側 糊 ⋮ 搬 内 閣 悌 一 一

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学寮御クツシ候テ、興正寺殿御帰寺候ニト、色々被 ν仰候得共、其段者、今度法流ノ批判、何事モ非儀 ニ成申候問、御間分候様ニト、御理ニテ、此度モ不ニ相済日二十三日早朝、御下リ也、興正寺殿モ、此間当地ニ御逗留候、出雲殿江戸へ御 帰候ニ付、同日天満へ御下リ也(﹃閲購記﹂、二十二頁) 右の記述によると、松平勝隆は二度本願寺に出向き、また准秀にも上洛を申し付けて、何とか調停の成果を挙げようとした。勝隆の調停案は、 本願寺が先に﹁学寮﹂を崩すことに同意すれば、興正寺准秀には天満から帰寺することを約束させるというものであったが、書付四カ条 H ﹁ 安 心相違之覚書﹂の公家・武家への提出という准秀の行為は、本願寺側からして内容の﹁非儀﹂性もさることながら、本寺本願寺・良如宗主の外 聞を失わせかねない卑劣な仕打ちと受け止めた良如は、准秀への憤りを露にするばかりで、さすがの幕府寺社奉行も取り付く島もなく、何の成 果もなしに江戸へ引き返す他はなかった。 寺社奉行松平勝隆が江戸に帰って直ちに上司の年寄衆(老中)に、両門跡の対立が予想以上に深刻で、もはや京都所司代での﹁御取扱﹂では 調停不能なことの子細を報告したことを受けての決定と見られるが、十一月二十九日、所司代の使者が本願寺、次いで興正寺を来訪し、﹁内々 ノ一儀ニ付テ、江戸御家老衆ヨリ御門跡様御下向候テ、御訴訟候様ニト可=申成-問、急度其用意被 ν遊御待可 v 候 、 重 テ 一 左 右 従 = 御 老 中 -於 ユ 申来-者、三日四日之中、御発足可 ν然ノ由、被=仰越-候、則御心得被 ν 候 ﹂ ( ﹃ 閲 摘 記 ﹄ 、 二 十 二 頁 ) と 申 し 渡 し た 。 良 如 は 、 ついに江戸での訴

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訟対決のときが来たのだと覚悟し、江戸下向の準備を急がせ、出立の日を今日か明日かと待ち望みつつも、内心落ち着かない日々を過ごした。 しかし、それから四カ月半余りも所司代からの江戸下向命令はなく、ようやく江戸老中より江戸詰めして事情聴取のときを待てとの出頭命令が、 ち か い 仰 } 所司代板倉重宗・牧野親成連洲の折紙で良知のもとに届けられたのは、元号も改まった明暦元年(一六五五)四月十九日のことであった。良如 ま き の ぷ は当年三十五歳の上回織部正信を筆頭に、いずれも若年の家臣を引き連れて(実際、家臣がいずれも経験不足の若年であったことから、江戸で の幕府との交渉に支障をきたす)江戸へ向け出立したのは四月二十五日、江戸下着は五月六日のことであった。 良如は浅草浜町御駒で旅の疲れを癒す暇もなく、﹁兼と御懇意﹂(﹃異義相論﹂ 3 1 1、七七頁)にしていた井伊直孝をたよって、五月十五日付 の書状を送り、かっ上回織部を直孝の上屋敷に遣わして、訴訟に踏み切った本願寺の立場を長々と﹁口上之記﹂に認めて、直孝の理解を得ょう と し た 。 こ の ﹁ 口 上 之 記 ﹂ ( ﹁ 異 義 相 論 ﹂ 3 1 1 、七七

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八一頁)は、はじめに輿正寺准秀が本寺に無届で天満御坊に立ち退き、そのうえ直末寺 に法物・座配を下付して本山まがいの﹁新義﹂を企てるなど、本寺本願寺を蔑ろにする行為を﹁違法﹂として訴え、その経緯を綾々説明した後、 七カ条項にわたる具体的な背本行為を書き連ねて訴えている桁 v その中で准秀が本願寺の﹁学寮﹂打ち崩しを幕府に強く要求していることに対 しては、﹁学寮新義之由興正寺

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申触候、此義不儀之申ふんニ御座候、其上学寮之義、はや廿ヶ年ニ成申候、既大猷院様御代より当御代迄、別 儀無御座候処ニ、只今新義之様ニ申なし候、か様之ひかめる申ぷん、弥一派を可取立巧と相見へ申候、誠興正寺不儀之所存、可有御推量候﹂ ( ﹃ 異 義 相 論 ﹄ 同 右 、 八

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八一頁)と語殺を強めて反論し、﹁学寮﹂創建二十年も過ぎた今頃になって准秀が問題視するのは、間違いなく﹁一 派を可取立﹂との目論見があっての不純なる動機による訴えであると断罪している。 幕府の事情聴取を受けるためにそれぞれの宿所に滞在・待機していた両門跡に、寺社奉行松平勝隆から実際に呼び出しが係ったのは、五月二 十二日のことであった。中規模大名にも等しき大教団の宗主をいきなり奉行所(松平勝隆邸)に呼びつける無礼さに柳か不満を抱きつつも、良 如は待ちに待った本ご件﹂に対する弁明の絶好の機会当来と息張っていたのだが、無念にも一両日以来、急性の下痢に見舞われ出頭不能に陥 り、やむなく代理として家臣を出頭させることになった。良如の自筆かな消息(幕府との政治折衝のため浅草御坊に滞在中の良如が、江戸から 京都本山内事留守役や娘たちに宛た約三十通の私信) によると、巳の刻(午前九時頃) に呼び出され、午の刻(午前十一時

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午 後 一 時 頃 ) ま で 、 大かた聞き漏らしのないほどに﹁出入り﹂の詳細な経緯を聴取されたようであるが、勝隆の良知家臣たちへの振舞はおおむね懇ろな応対だった 西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て 九

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西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て 七

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つ興正寺准秀は本願寺への聴取の後、直に呼び出され、奉行から本人へ直接の聴取となったことは、奉行が本願寺とは本末関係にある ことを弁えた上での対応で、内心安堵したと、本山内事留守役に報告していあ r 良如のプライドの高さの一端を垣間見る思いであるが、それは ともかくとして、両寺から事情聴取したその日のうちに、勝隆は大老・老中に詳しく報告し、それに基づき幕閣会識がもたれたようである (﹃閲締記﹄三十六頁)。会議の様子は不明だが、良如代理として聴取を受けた本願寺家老下間宮内卿が当局の反応を聞き出そうとして、幕府旗 本内藤普斎宛の書状にたいする返書と見られる大老酒井讃岐守忠勝の害状に、﹁御書付之趣具奉得其意候、尤御幼君之節ニ候問、万端御慎之処、 専要ニ備にとあり、両門跡がこれ以上ヒ

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ト・アップして本訴訟に打って出ることを善しとしない幕閣の意思を暗に示したものといえよう。 ところが、良如の五月二十三日付直孝宛の書面から窺うと、﹁今度之仰出し末代まてのこり申御事候問﹂(八十二頁)とあることからも、大老 酒井讃岐守忠勝ら幕閣からの指示を受けた勝隆らは、恐らく本願寺家臣に対して厳しい口調で﹁学寮崩し﹂を強く迫ったようで、その報告を受 し た た けた良知は、急漣以下のような﹁口上記﹂を自筆で認め、直孝に提出した。誰であろうと﹁学寮崩し﹂の要求には断固拒否する意向だとの堅い 決意であることを表明した文言、すなわち﹁万一学寮之義、新義僻事之様ニ何れも御取沙汰ニおよひ候而ハ、拙僧非本意候問、学寮之事、幾重 も御断可申候、若学寮手をつけ候様ニと、各より御内証被何聞候而者、御異見用不申義も知何ニ候問、前かと御手前迄、拙僧所存之趣申達候問、 L た た 能 、 c 御 心 得 候 而 可 給 候 、 偏 頼 存 候 ﹂ ( ﹃ 異 義 相 論 ﹄ 3 1 2 、八十五頁)という文言で結ぼれていた。この﹁口上記﹂を敢て認めたのは、幕閣の中で 唯一頼りにしていた直孝には、何としてでも理解を得て置きたいと思ったためであろう。輿正寺准秀が﹁学寮崩し﹂を幕府に訴え出たことが、 良如からすれば、誹誘・中傷による不当な訴えで、本願寺﹁学寮﹂は、どの視点から見ても﹁新義之吟慨になるものでは決してないことを言を尽 くして弁明しようとしたのが、この﹁口上記﹂であったといえる。 しかしながら、﹁学寮之義、新義抑場之様ニ何れも御取沙汰﹂されることが﹁非本意﹂であると良如がいくら突っ張ってみても、本一件に対 た だ か っ して当時大老であった酒井讃岐守忠勝を筆頭とする幕閣たちの意思はすでに一致していたようで、問題は誰を﹁御取扱﹂方に据えて、如何なる 説得方法で﹁学寮崩し﹂の同意を良如から取り付けるか、そこに問題が絞られていた。

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井伊直孝の﹁御取扱﹂方、受諾の経緯

幕府寺社奉行が両門跡を個別に事情聴取したのは、五月二十二日の午前と午後のことであったが、その後、六月に入ってからの約一カ月間の うちには、表立っての大きな進展はなかった。この問、在府中の良知は崩していた体調も回復し、家臣を遣わして、﹁学寮崩し﹂不承知の申し 入れを、その都度重職者に行なっていた。しかし、幕府が今後どのような段取りで裁定作業を進めようとしているのか、測りかねており、唯々 { 織 子 ) ( 相 済 } ( 銭 湯 } ﹁ここほとのやうす、いまたあいすミ申さす、きのとくにて、﹂(六月二十八日付、本山内事役宛良如かな消息、﹁明暦元年 江戸ニて之御曹之留 五月九日﹂本願寺史料研究所保管文書)と、少々気がかりのうえ、苦痛に感じながら待機しておく他はなく、当方に有利な裁定が下るよう、淡 ( 貌 計 ) ( 存 } い期待を込めて﹁来月中にハ、何とそさいけうあるへきとそんする事候﹂(向上)、と六月下旬での心境を書き送っていた。 幕府の動きが慌ただしくなってきたのは、月が替わった七月初旬のことであった。明暦元年(一六五五)七月五日、酒井忠勝を筆頭とする幕 閣が江戸城御殿に参集し、本願寺・興正寺﹁出入り一件﹂についての﹁取扱方﹂(担当責任者)を井伊掃部頭直孝に一任する相談がなされたの である。この七月五日の﹁相談﹂は、翌六日以降の本﹁一件﹂収拾に向けての交渉の展開にとって、極めて重要な﹁相談﹂だったと恩われる。 ﹃異義相論﹄文書には五日の﹁相談﹂内容を詳しく窺う記事は見当らないが、幸いにも﹁明性寺襖裏貼文節 V と﹃肥後延寿寺月感騒動静に、 この日の会議内容を伝える次のような記事がある。二史料を併記して掲げ、検討してみよう。 ( 正 之 ) ( 直 孝 ) { 忠 秋 ) { 忠 勝 ) ( 信 網 ) ( 忠 清 )

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於御殿中、保科肥後守殿、井伊掃部頭殿、阿部豊後守殿、酒井讃岐守殿、松平伊豆守殿、酒井雅楽守殿、御会合ニ而、今度本願寺出入之儀、 { 徳 川 家 綱 } ( 准 如 ) 御示談之上、御幼君之折柄ニ候得ハ、井伊掃部頭殿、本願寺先門跡より少し由緒御座候問、御異見被成、御取扱可被成旨之儀ニ相極り候 ( ﹃ 明 性 寺 襖 裏 貼 文 書 ﹄ ) 科 倒於御殿中、保那肥後守殿・井伊掃部頭殿・酒井讃岐守殿・松平伊豆守殿・酒井雅楽殿・阿部豊後守殿、以上六人御会合有テ、御談合被成候 処ニ、肥後守殿被仰候ハ、今度本願寺出入之儀ハ、各と如何思召候哉難心得存候、先其子細ハ拙者式之存候ハ、為御意知何様トモ門跡へ被 仰付候時、天下之御事ナレハ、不能善悪領請イタサルへシ、然時ハ御三人ヲ始トシテ諸大名衆被存候ハ、サテハ公方様御若年之御事ナレハ、 西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て 七

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西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て 七 天下之作法ハ何モ老中口佳成様ニ被存候テハ如何ナラン、我慢偏執ノイタツラ者出来イタスへキ事ヲシラス、文門跡へ知何様トモ申付候時、 曽テ同心イタサレス候時ハ、上儀ヲ背ク科在之故、不能是非門跡ヲ流罪仕候時ハ、門跡之末家天下ニ満とテ在之、其上、法ノ為ニハ身命ヲ モオシマヌ宗門ノ由承候、然時ハ何クヨリ知何成儀出来可申ヲモ不存候、此両儀ヲ以テ存スルニ何トモ難心得候カ、各とイヵ、ト御申候時、 掃部頭殿被仰候ハ、御意尤至極ニ存候、乍然拙者儀ハ先門跡ヨリ少由緒御座候問、拙者参リ候テ知何様ニモ異見仕見可申候カ、如何ト御申 候時、御老中何モ大ニ御喜ニテ一口ノ御事ニテ候、サアラハ御苦労ナカラ御出有テ御異見奉頼候トテ、先一応ノ御談合ハ落著仕候(﹃肥後 延寿寺月感騒動記﹄以下、﹃月感騒動記﹄と略称、﹃大系真宗史料、文書記録編時、近世異義争論﹂、法競館刊、十五

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十六頁) 当時若年

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歳 ) の将軍家網を補佐していた六名の幕閣全員が顔を揃えた中での﹁相談﹂内容とは、要は将軍家網が未だ幼君であることに鑑 み、﹁御取扱﹂方に井伊直孝を充てることが﹁相談﹂され、直孝も結局は受諾したことにより、彼が紛争の円満収拾を完遂するまでの責任者に 委任されたようである。では何故、直孝に一任という扱いになったのか、右の史料に即して、その経緯を辿ってみたい。 まずは両寺相互の紛争を﹁示談﹂で処理しようとしたことについては、両門跡による本訴訟が幕府寺社奉行において繰り広げられる事態だれ は避けたいとする老中達の暗黙の了解があったからだと思われる。何故ならば、輿正寺准秀は水戸徳川家と深い繋がりのある讃岐高松藩主松平 頼重を最大の後楯にして、本願寺との訴訟を有利に持ち込みたいと画策していた形跡が窺える(一節で言及) 一方、上掲史料中の幕閣たちにと つては、﹁御幼君之折柄﹂、﹁公方様御若年之御事﹂のなかで、本コ件﹂が本訴訟扱いとなった場合、当該幕閣による集団指導体制に悪影響が 出ないとも限らないことを懸念したためではあるまいか。当時の集団指導体制の実情については﹁万治三年の堀田正信の領知返上事件や、この 時期に典型的にみられた旗本奴の無頼の行動は、松平定政と共通する点があり、譜代の不満が家綱の初政期において解決されていないことを推 察させる。それには、由井正雪の乱から別木庄左衛門の変にいたる牢人問題、承応

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万治年間の風水害、そして明暦の大火など、人為と自然を 織りまぜた変動のあいつぐ襲来に、幕閣の指導部は急激な政策変更をこころみる余裕もなかったことが理由としてあげられる。さらに、﹁第一 人者﹄不在の﹃公儀﹄にあって、前代の﹃公儀﹄をになった松平信網・阿部忠秋らが井伊直孝・保科正之・三家の協力をえて慎重な集団指導の { お ) 体制をとっていた。﹂と分析されている。こうした時期での大教団内の紛争を幕府に持ち込まれては、幕閣にとっては迷惑この上ない煩わしき

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難題であったに違いないロ 幕閣たちの想いは、七月五日の会合での保科正之の発言にいみじくも露呈していた。本件に対する正之の本音は、たとえ大教団の寺院門跡で あろうと、幕法に照らして厳正に処罰すればよいとの考えであろうが、幼少の将軍を抱えるなかで、強権的な扱いをすれば、﹁法ノ為ニハ身命 ヲモオシマヌ宗門﹂なるがゆえに、諸国不測の事態を招きかねないとの危倶感から、納得をしないまま、自らの判断を仕舞い込んでしまった。 こうした幕閣の歯切れの悪さに少々の失望感を抱いたことも一つの動機付けとなったのであろうか、直孝は老婆心を敢て全面に押し出して、 本件の調停役を買ってでたのである。もっとも、直孝には本願寺良如を必ず説得できるとする自信がなければ、引き受けるはずがないわけで、 右の両史料にもその文言が登場してくるように、先代からの本願寺との﹁由緒﹂問題もあってか、良知と信頼関係を保っているがゆえに、 一 定 の﹁効力﹂持つ筈だとの読みがあったと思われる。 直孝が本件の﹁御取扱﹂役を任されたのは、右の引用史料から窺う限り、﹁井伊掃部頭殿、本願寺先門跡(准如)より少し由緒御座候問、御 異見被成、御取扱可被成旨之儀ニ相極り候﹂とあるように、この﹁相談﹂に出席の幕閣の面々は、井伊家と本願寺との両者聞に歴史的な﹁由 緒﹂があると聞き、(﹁由緒﹂問題については、次節で触れる)、この﹁由緒﹂問題に説得の望みを懸け、かつ直孝の老檎にして調停能力に長け た政治的手腕に期待して、彼に﹁御扱﹂役を委託したものと思われる。いずれにせよ、これまでの経緯から幕閣ないし関係当職者による良如の 説得工作が悉く不調に終わり、万策尽きたなかでの直孝への付託ということでの受託であった。直孝は、幕間たちの宗教的カリスマに対する潜 在的健れや弱腰には、少々の失望感を抱きつつも、良知から必ず同意を取り付貯る、との強い決意が必要で、﹁由緒﹂問題を持ち出す最適のタ イミングを考えて置かねばならないし、さらに同意を取り付けた後の良知への心のケアと、彼が大教団の宗主としての立場にあることへの配慮 も必要となろう。本願寺良如をして、直孝は﹁兼と御懇意﹂と云わしめる間柄と見られている限り、その信頼関係を活かして、幕府にとっても、 教団にとっても、本一件が円満に収束するよう﹁取り次ぐ﹂ことが、直孝晩年の最後の大仕事として尽力してみようという心境になったのかも し れ な い 。 一方、本願寺良知は、七月五日の幕閥会議を固唾を呑んで見守っていたはずであるロ七月五日付、京都留守宅三姫宛て良知書状から、そのと きの良如の心境が素直に伝わって来る。 西本願寺初期﹁学寮﹂の取り崩しをめぐる政治的攻防について 七

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西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て ( 興 正 寺 } { 割 賦 A 口 ) { 方 ) { 極 } ( 気 入 ) こうしゃうし出入、公儀たんかうハ、大かたきはまり候よし、風間候へとも、予一色きにいらぬ事候ゆへ、 ( 今 日 迄 } ( 偶 蹄 } ( 兎 角 ) ( 何 } { 途 ) { 外 聞 } { 良 } { 織 ) らん、防ふまてハ、ゆい出しなく候、とかくいつれのミちにても、よ、くわいふん、よきやうにとの老中はしめ、 (取沙汰) とりきた︹ 七 四 公 儀 に も 、 も お 宮 れ { もS

ハ か ー る た 悪 〉 な と く の{展 、 や ︺に候(七月五日付、良如かな消息、﹁明暦元年 江戸ニて之御書之留 五月九日﹂本願寺史料研究所保管文書) 少々窓意的な私釈ではあるが、七月五日時点での良知の心境を代弁していえば、﹁輿正寺出入り一件﹂をめぐって、﹁公儀では談合が行われ、 大かたその取り扱い方についての方向性が定まったとの情報に接しているが、私としては全く気にいらず(﹁学寮崩し﹂には同意できないて幕 閣の面々の意向には従えないと、再々申し入れである。公儀としてもこの私の堅い決意を無視するわけには行かない筈で、七月五日の今日の日 まで、﹁学寮崩し﹂の命令書は幕府からは受け取っていない。とにかく、どのような方向に向かおうとも、私の言い分は老中たちには十分伝わ っているはずであるから、本願寺に対しては悪しき取り扱いにはならないはずだと取沙汰されていることから、まずは安心してよいと思う﹂と。 ﹁学寮崩し﹂の画策には絶対乗らず、決して応じないとする良如の堅い決意には不屈の精神を窺わせるものがあるが、ややもすればそれは硬直 化して横波を浴びれば脆くも転覆することが往々にして起こり得る。良如の構え方には一寸の危うさ・脆さが潜んでいると思われるが、そのう え重ねて心配なことに江戸へ随行させた側近家臣のなかには宗主を補佐できる度量の者はいなかった。家臣逮は殆どが若輩もので、情報収集能 力も弱く、ましてや幕府の重職連中と渡り合える者は皆無であった。良如は自らにも、また側近たちにも多くのハンディを抱えて、老猶な直孝 や忠勝と対時しなければならなかった。良知の右の書面からは一種の楽観論も漂うが、次の日に直孝が﹁由緒﹂問題などをチラっかせて、良如 から﹁同意﹂を取り付貯ょうと狙っていたが、良如のもとにはそういった重要な情報は殆ど入っておらず、直孝主導の会談になるのは目に見え て い た 。

﹁学寮﹂取り崩しについての良如の同意書

直孝は、両門跡﹁出入り一件﹂の﹁御取扱﹂方を受諾したその翌日、早くも行動に移し、本願寺良如の宿所に乗り込んで、良知と直談判に及 ん だ D ﹃ 異 義 相 論 ﹄ ( 3 1 3 、八六

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八八頁)文書が、まさにその時の様子を伝えるものであるが、明暦元年七月六日付、本願寺門跡光円(良如)

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から井伊掃部頭(直孝)宛自筆書状であるこの文書の内容に関しては、検討を要する多くの問題を含んでいる。まずは、全文を以下に掲載し、 文節ごとに少し立ち入って検討を加えてみたい。 宮 K M E (今朝者暑気之時分、遠路御出候而、殊末寺出入之儀-一付、色、 c 御異見不浅満足申候、(先日酒井讃岐守よりも此儀内証承候へ共、迷惑之余 l I l l 1 1 1 l l l 令 V I l l i -l l 1 1 1 1 l I l l 1 1 1 l l l l l l l l l l l l l l l l l l l ー ー ー ー ー ー ー ー ー l l l l l l l l l l l l l l l l B Y l l l l l │ │ l l l l l l l l l l l l l l l 達而断申入候儀、劃然倒手翫華街慧hXより先陣し沼周而陸線有之

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刊 期 開 拓 止 保 融 問 尚 子 盛 期 之 信 ‘ 失 巌 司 ・ 年 倍 、 此 ヰ 理 申 信 者 、 口 上 書 之 遺 ニ 候 此上者以来寺法相立候様、御分別頼存候、尤以参可申入候へ共、今初故延慮申候、恐と謹言 七月六日 光 円 井伊掃部頭殿 傍線①は、書状の単なる前言として読み流すのではなく、直孝が七月六日の早朝に興正寺﹁出入り一件﹂の収拾案を携えて、良知宿所の浅草 御堂を訪れ、直談判に及んだことを指しており、それだけに直孝と良如の﹁異見﹂の遣り取りが重要な意味を持つと思われるが、この書状から は両者間で交わされた遣り取りの具体的な内容についてはわからない。傍線②は、当時幕閣の中でも大老の地位にあった酒井忠勝の﹁内証﹂に ての﹁学寮﹂取り崩し要請にも﹁迷惑之余﹂ときっぱりと拒否したとあるから、直孝の直談判を受けた六日の時点までは、﹁学寮﹂取り崩し要 諦には一切応じない堅い決意であったことを示す。しかし、③にいうように、良知が直孝から両父親聞には特別な﹁由緒﹂が存在していたこと かたしもだし を、あたかもジョーカーを切るかの知く持ち出された途端、この﹁由緒﹂の件については﹁難=黙止-﹂として、あれほど頑なに﹁学寮崩し﹂ 要請に拒絶の姿勢を取り続けてきた良如が、態度を一変させて、﹁学寮崩し﹂に同意したというのである。そして④は、良加が同意の意思を示 し た た した書面とともに、これまで﹁学寮崩し﹂を拒否し続けてきた理由を記した﹁口上書﹂を認め、これを御老中の面々に必ず披露してもらいたい。 併せて﹁学寮崩し﹂後でも本山﹁寺法﹂が首尾よく機能するよう、十分な配慮を給わりたいと訴えた結文となっている。 さて、上掲の同意書の内容に関して注目される箇所は、もちろん傍線部③と傍線部④であろう。まず、﹁由緒﹂問題については、どういう歴 史的事情があったのか、興味をそそられる関心事ではある。秀吉没後の本願寺准知宗主の立位置は、それまでの豊臣勢との深い関わりもあって、 西本願寺初期﹁学寮﹂の取り崩しをめぐる政治的攻防について 七 五

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西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て 七 /¥ 徳川家康に対してはぎくしゃくしたものであって、とりわけ関ケ原合戦前後の関係は最悪の事態で、本願寺の存亡にもかかわる危機的状況にあ { お ) ったことは、よく知られているところである。本﹁出入り一件﹂に関する写本史料の一本に、﹁肥後延寿寺月感騒動記﹂(以下、﹃月感騒動記﹄ と略称)なるものがあるが、本書に興味深い記述がある。 掃部頭殿御出被成被仰候ハ、今度之儀ハ殿中ニ取持申者、 一人モ無之候ニ付、拙者儀ハ先御門跡様ヨリ由緒御座候故伺候仕候、其子細ハ、 関ケ原陣ノ時、御門跡様御身上、既ニ御果被成ニ治定仕候時、拙者親糊 m w ⋮鶴畑一罷出候テ、権現様御前御取成ヲ申上候、裏方ヨリハ道阿弥ヲ 以テ申上候ハントタクミ、道阿弥殊外取持申候テ御前へ出申時、権現様大ニ御腹立ニテ、道阿弥御前ヲ引退被申候、然所ニ、拙者親ハ表方 御取持ヲ申、御前目出度相済申候、今日マテ加様御繁昌被成候ハ、是拙者親カ取持申候故ニテ御座候、就其当代儀ハ、拙者取持申候ハテハ ト存伺候仕候問、拙者申入候処、御為ニ悪敷事ハ仕問敷候問、万事御心オカレス、御談合ヲトケラレ候ハ可恭候(﹁月感騒動記﹂﹃大系真宗 史料、文書記録編時、近世異義争論﹄、法裁館刊、十六

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十七頁) 右の記述にある﹁関ケ原陣ノ時、御門跡様御身上、既ニ御果被成ニ治定仕候時﹂とは、どのような事態だったのかは記されていないので定か ではないが、准如宗主の家康に対する対応に何か不均なことがあって、教団が窮状に陥っていた時があったようで、その時に救いの手を差し伸 べたのが家康側近の一人である井伊直政であったというのである。そのことで良知の親父・准如が直孝の親父・直政に対して浅からざる思義を 背負うことになったとすれば、直政と准如との聞に存在したと見られる﹁由緒﹂が、直孝と本願寺良知の関係にも依然として﹁効力﹂を持続さ せていたと見倣すことは出来よう。ただし、その﹁由緒﹂の内実が、具体的に知何なる歴史事実を指すのか目下のところ特定できないので、 ﹁由緒﹂問題は取り敢えず保留とすることにして、次の問題に移ることにしたい。 ところで、七月六日の直孝と良如の会談の遣り取りを生々しく伝える断片記事が、上掲の﹃月感騒動記﹄と﹁明性寺襖裏貼文書﹂、それに ﹃興正寺交渉一件﹄に見える。記述内容に濃淡はあれ、いずれも同趣旨のものだから共通の原史料に基づいていると考えられるが、より詳細に 伝えている﹃交渉一件﹂をもとに検証してみたい。直孝が良知との差しの会談で、良知の心底を動かして同意を取り付けた﹁殺し文句﹂は何だ

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ったのか、核心に触れる問題が含まれており、検討に値する記事と思われる。問題箇所を便宜上回段落に分割し、﹃交渉一件﹂史料は註に廻し、 以 下 、

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伺の内容について私釈をほどこしつつ、若干のコメントを加えることにする。意訳したものを掲載すれば、次の通りである。 付と∞には良知が同窓を渋る二つの懸念をめぐって、両者間で遣り取りされた内容が記されており、日開には良如が﹁学寮崩し﹂の受け入れを決 断するに当って、直孝から﹁密約﹂にも等しい言質を得たその内容が記されており、同には直孝が年寄衆(大老・老中衆) に良知が同意したこ とを報告するに当って、表向きの同意の決め手についてのすり合わせをしたことが記されている。 ハ門良如の第一の懸念と言い分は、以下の通り。興正寺は西本願寺の末寺でありながら、准秀は一本山気取りの﹁新義﹂を企て、宗主にしか 認められていない法物・座配下付の特権行為を、だれ悌ることなく配下坊主に執行していることは許されることではない。これに対する直 孝の返答と提案は、以下の通り。老中衆の見立ても本寺本願寺の訴えの通り、興正寺の振舞いは﹁新義﹂として処罰に値する違法行為と判 断している。しかし、西本願寺﹁学寮﹂の無断造営もまた﹁新義﹂なのだから、直ちに取り崩さなければ興正寺に対して依佑品展となる。 もし興正寺を従来通り、末寺として思い通りに従わせたいのであれば、本寺である本願寺の方が先に﹁学寮﹂を取り崩して、﹁公儀﹂への 態度表明としなげれば、興正寺は本寺の意の通りには従わないであろう。 ( 斗 良如の二つ目の懸念とは、以下のようなもの。興正寺准秀が私儀を企て、宗主まがいの違法行為を行って本山﹁寺法﹂に背いたことで、 本山宗主としての面白が演された。そのうえに、﹁学寮﹂を崩すとなれば、二重の意味で面白を失うことになる。これに対し直孝は﹁面白﹂ とは何かをめぐって、次のように説得する。学寮は万の輸のようなもので、万身さえ無傷で上質鋭利な真万であれば、たとい輸はなくとも 何ら差し支えない。本願寺﹁学寮﹂を崩して、﹁学文之道﹂も放棄せよといっているのではない。﹁学文﹂を奨励し、教化の基本に据える理 念さえ儲かならば、なんら動ずるには及ばないではないか。﹁学寮﹂を崩すことで﹁面白﹂を失うということにはならないはずだ。 的 私(直孝)が﹁学寮﹂を崩すように促しているのは、興正寺の要求を代弁してのことではなく、私の﹁異見﹂(判断)から、ここは一度 崩して頂きたいと (良如との信頼関係にあることを前提にして)要請しているのであり、拙者に免じて何の蹄踏があろうか。貴殿(良如) が訴え出られている通り、興正寺准秀は本願寺の﹁寺法﹂に背き、 一本寺建立のための﹁新義﹂を企てた大罪人であるからには、如何様に 西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て 七 七

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西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て 七 八 も気の済むままに処分されるがよかろう。しかしそのためには、﹁学寮﹂をまず先に崩すべきだと進言しているのは、問題の﹁学寮﹂は、 公儀へ﹁御断﹂もなく、私的に建造されたものと判断するからである。この度は先ずは堪忍され、私の﹁異見﹂に従って下されば、今後二、 三年も過ぎて、改めて﹁学寮﹂建立の儀を公儀に申請なさる際には、その時は必ずや私が﹁御取持﹂致し、再建の儀がスムースに運ぶよう 尽力することを約束しよう。以上、このような提案と密約ともいえる直孝の言質に心を動かされて、良知はついに﹁学寮崩し﹂に同意した の だ と い う 。 側 説得の功あって良如からようやく同意の感触をえた直孝は、直ちに同意を得た旨を登城して老中に申し聞かせるに当たって、私が強引に 崩させたように受け止められたとすれば心外であり、私の父(直政)が前御門跡准知と﹁由緒﹂あるによって、それを理由に﹁学寮崩し﹂ の要請をしたところ、貴殿(良知)が私の要請を率先して請けられたのだと御書き下されば、この書状を老中に披露することにしようと提 ' h u h h h h 案したら、御門跡はそれに同意されて、御自筆の書状と﹁御理之寄付﹂ H ( ﹁口上記﹂)を認めて私(直孝)に託されたものである。 上 掲 ﹃ 異 義 相 論 ﹄ 3 1 3 の﹁学寮崩し﹂に同意した文書は、書面からのみ読み解こうとすると、鵬に落ちない点がいろいろと出てくる害状で ある。まず何よりも、あれほど頑なに﹁学寮崩し﹂に拒絶の姿勢を示してきた良知が、﹁由緒﹂問題を持ち出されると、急に﹁難=黙止-﹂とい う 理 由 で 、 いともあっさりと﹁学寮之儀、先崩可申候﹂と同意したような文面となっているが、この害状が作成された舞台裏では、直孝と良知 の聞で右に見たような下交渉があったとすれば、疑問は少し氷解する。﹃交渉一件﹄史料で見るかぎり、直孝は本願寺良如が直面していた難題 に一定の理解を示して、本願寺サイドに立った提案をしたり、﹁密約﹂とも取れる言質を与えておいて、良如から同意を引き出し安くするなど、 これまでの豊富な折衝経験によって培われた説得術によって同意を取り付げたことが窺え、﹁由緒﹂問題をチラ付かせたことが良如の同意を引 き出す大きな要因であったことは否定できないものの、それが決定的要因だったかどうかは即断できない。いずれにせよ、老拾にして政治的駆 け引き・調停能力に長けた直孝だからこそ、巧みに説得材料・説得術を駆使して良知から同意を取り付けることに成功したことは間違いない。 それは裏を返せば、政治的経験が豊かな直孝を相手に、良如の抵抗と訴えはあえなく跳ね返され、結局上手く直孝のぺ l スに乗せられてしまっ たということであろう。直孝の﹁密約﹂らしき言質も確かな保証あってのことではなく、事前の打ち合わせ、すり合わせも、直孝主導で事が運

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ばれたように見受けられるし、良如が同意書にあえて﹁口上記﹂を添付したのは、そうした力不足を何とか補わんとする意図があったはずであ る 。 3 1 3 の書状に添付の﹁口上記﹂は、害状の書面とは裏腹に、良如の無念さ・不本意さが露呈されたものとなっている。 良如は老中に披露されるという直孝宛の同意書に、﹁御理之書付﹂ H (﹁口上記﹂)を添付して差し出すに当たって、恐らく短時間で書き上げた ものと思われるが、これまで頑なに﹁学寮崩し﹂の要求を拒否し続けてきただけに、﹁同意﹂することにした理由を老中に表明しておきたかっ たのであろう。﹁口上記﹂で良如が訴えたいことは二つあった。第一には、幕府の﹁学寮崩し﹂の再三の要請を断り続けてきた理由について。 第二には、﹁学寮崩し﹂を良知自らその断を下すことによる、宗門内の諸因坊主・門下に与える影響の甚大さについて。この二点は幕藩制秩序 下にあって、体制を支える新編成の大教団の宗主であることに幕閣の面々には少しは心を馳せて欲しい、との思いを込めた訴えとなっているが、 特に第二の後段の文面などは、直孝に急所を突かれて、﹁学寮崩し﹂の要求を受け入れざるをえなかった無念さからか、後世にも公表を僚られ るほどの心情が吐露されたものとなっている。 第一点については、興正寺准秀が﹁一宗に学問不用﹂と吹聴したことで、それが巷聞に向調的に取沙汰されていることが、何としても口惜し く、それは浄土真宗にたいする大きな誤解で、肝要は﹁安心﹂に極まるものの、わが宗の坊主分のうちの向学心に燃えた者には、本山としてそ の学問的環境を整えた場所を提供することに何の悌りがあるというのかという、良如の﹁学寮﹂存続の必要性の主張とも連動させた、ある種の 信念のようなものが感じられる。 第二点については、﹁本寺式法申付様悪鋪故﹂というこの文言が、﹁学寮に手つき候ハ、﹂を受けてのものであるところに、本寺本願寺宗主と しての良如の苦悩が凝縮されていた。良如が幕府の諸方面からの﹁学寮崩し﹂要求を断固拒否し続けてきたのは、本音のところでは、﹁末寺門 下之心かわり﹂を危倶してのことであった。末寺坊主・門下の者が心変わりして三宗乃大破﹂を招く事態ともなれば、本寺本願寺宗主として の良知の威厳と威光は丸潰れで、それゆえ﹁学寮崩し﹂の要請を再三にわたって断りつづけてきたのである。従って、もし﹁学寮崩し﹂を良如 自らその断を下すことで宗主の威光が失墜するということにでもなれば、末寺坊主・門下の離反の動きが今以上に活発化し、端的に言えば東本 願寺門跡を頼って彼らが大挙して東門に改派することも現実の事となりかねない川 r そうした事態を回避するためにも、良如は﹁公儀の御戚光﹂ に頼ろうとしたが、結果としてそれが裏目に出て、図らずも﹁学寮崩し﹂に同意せざるをえなくなったというわけである。こんな事態になるの 西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て 七 九

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西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て J¥

であれば、幕府に訴えずに、興正寺の非儀をそのまま放置していた方がよかったくらいだとまで、幕府の調停に強い不満をぶっつけた上で、 ﹁今学寮くつし候義、誠に侍之武勇をやめ、腰万を出したるにことならす候、拙僧心底可有御推察候﹂(﹃異義相論﹄ 3 1 3 、八十八頁)という良 如の自噺とも見える心境を吐露せずにはおれなかったのである。それは、心底から絞り出された無念の表明であったといえよう。

﹁学寮﹂取り崩しの使者派遣をめぐる攻防

難攻するだろうと踏んでいた良知の同意を、ともかくも取り付げることに成功した直孝は、さらに追い打ちをかけるように、次のような難題 を良知に浴びせた。直孝からすれば、この機を逃せばいつなんどき良如が﹁学寮﹂取り崩しの延引を申し出てくるやもしれず、また調停作業を 先に進めるためにも、同意書を受け取ったその翌日の七月七日、在府中の本願寺三家老宛に﹁学寮一刻も御急御山朋被為成候処、可然奉存候条、 此段被仰上、早と京都江御使被遺御崩被遊候様、急被仰上頼入存候﹂(﹃異義相論﹂ 4 1 9 、 一 六 一

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一六二頁)という害状を送って、良如の ﹁学寮﹂取り崩しの指示を携えた使者を一刻も早く上京させるよう、家老衆を介して良知に強く迫ったのである。本状の尚書きに﹁学寮急御崩 被為成候処、御為ニ如何ニも可然奉存候、乍推参此段も私申上次第ニ被遊候様、御取成潜入候、京都江被仰遺候御日限被得尊意、償御申聞所仰 候、此段承届、興正寺之私宅江被参候様ニ仕、申談度儀御座候問、左様-一御心得可被成候﹂(同右、 二ハ一頁)と付け加えている。良知が使者を 京都に遣わす日取りを聞き及んだ上で、輿正寺を直孝の屋敷に呼んで准秀の処罰問題に着手する所存だといっているから、直孝にとっては先ず ﹁学寮﹂を良如自らの手で取り崩させることが、調停作業を前進させる前提だと考えていたことがわかる。早急に解体作業に入ることを迫った この直孝の申し入れに対して、良如はどのような反応を示したのだろうか。良如は結果として直孝の申し入れを拒否することはできず、不本意 にも十一日に上原数馬を上洛させることにしたのだが、使いを上洛させることを承諾するまでの良如の反応 ( H 抵抗)の推移を跡付けて置くこ とは無意味なことではない。なぜなら、良如が﹁学寮﹂を不本意にも自らの手で崩さなければならない事態に追い込まれたことを勘ぐられるこ となく、何らかの尤もらしい理由付けによる内容説明をすることで、宗門内の坊主衆や門徒中を納得させることができるか、否かという問題に も絡んでくるので、この間の直孝との遣り取りを丁寧に見ておくことが必要であろう。 良如は、早速反発した。七月八日付の直孝宛書状(﹃異義相論﹄ 3 1 4 、八十九頁)で不満を爆発させた。

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。 一 昨 朝 申 談 候 学 寮 崩 候 儀 、 早 と 京 都 江 申 上 せ 崩 候 様 -一 と の 事 、 尤 連 崩 候 上 者 、 十 日 ・ 廿 目 前 後 之 差 而 無 詮 様 -一 候 へ 共 、 指 当 存 候 ハ 一 昨 朝 直 -一

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拙僧末代之恥辱、世間人口、末寺・門下ふがひなく可存候処、千万迷惑申候へ共御手前是迄御越、兼而者御親父

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先門 Ill11111lli--Illi----lili----、 ④ lil--lili---ー llli--Illi---筋目之次第を以、達而蒙御異見候故無是非領掌申、紙面ニも顕候禦凡 E p ・ -華 尚 子 事 館 時 儲 遥 萎 無 乏 信 銀 実 現

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で同意した通りである。傍線部④、こうなったからには、﹁学寮﹂を取 り崩すと申したことに二言はない。しかしながら、准秀が本寺に対して行っている﹁不儀﹂なる行為について、未だ幕府の処分内容も決ま っていないうちに、我が﹁学寮﹂を先に崩さねばならないということになれば、諸国の坊主や門下の者が騒ぎ出しはいないかと懸念してい る。輿正寺への処分を一刻も早く仰せ付けていただきたい。それを見届けた上で、拙僧方も上洛して﹁学寮﹂を崩すことにしよう。傍線部 ⑤ 一昨朝の会談で、貴殿は拙僧を弧立させるようなことはせず、拙僧が窮地に陥るようなことにはならないと仰せられたが、 一 刻 も 早 く ﹁ 学 寮 ﹂ を 崩 せ と の 申 し 付 け 、 いまの私には理解出来ないことである。傍線部⑥、急いで崩さなければならない詳しい事情があるのなら、 重ねて連絡を待ちたい。お互い苦しい立場にはあるが、この上は万事宜しくお頼みするほかはない。 西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て 八

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西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て /¥ この書状を見て直孝がどのように受け止め、どう返事したかは不明だが、十日付の本願寺三家老宛直孝書状の内容をみると、﹁学寮之儀考見 申 候 程 、 一刻も御急被仰遣、御崩被為成候処、知何ニも可然奉存候問、此旨被仰上京都江被仰遺候御日限、御窺御申越可給候、様子之儀板倉周 防守所江此方

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可 申 越 候 ﹂ ( ﹃ 異 義 相 論 ﹄ 4 1 2 、 一五六頁)とあるように、直孝が描いていたスケジュールの手順はいささかも変更されておら ず、右掲文書の尚書きで念押ししているように、﹁兎角申上候通ニ被遊候処肝要ニ奉存候﹂(同右、同頁)と無言の圧力をかけ続けていたことは 明白である。しかし、ただ突っぱねるだげではなく、何か別の手を打って良如の憤懇ゃるかたなき気持を和らげる手立てを打っていたようで、 同月十日のことと思われるが、直孝は使者・青木五郎兵飾}を良知のもとに遣わすに当たって、旗本の内藤善斎老に同道を頼み、善斎に良知を説 得させたところ、普斎が期待以上の成果を粛してくれたようで、おもわず﹁慮外之斡ニ成行申候﹂という文言が飛び出すほどに、直孝にとって はお思い通りの展望が聞けてきたことに喜びが隠せない気持ちの害状を善斎宛に発している。 此比ハ温気之処、遠路門跡江御出合御同道申故坪明恭存候、学寮御山朋之儀、早速京都江被仰遣可然存候由申入候得ハ、昨日以直書今日御申 越可被成由申来候、弥今日憶被御申上候者、此方

B

様子板倉周防守殿江可申入と存候、自然彼御方御用繁今日被仰越候儀、御延引候得ハ、 防州江申達候段相違仕候条、髄ニ今日御申越被成候哉、承度存候得共、彼方御家老衆江重而申越候へ者、慮外之鉢ニ成行申候問、学寮崩被成 候儀、今日被為仰上候由、掃部頭江御申越候儀、殊外恭被存候、私-一御礼心得申上候様ニと申来候なと﹀御申迎之儀候、彼地江今日中ニ御見 廻弥今日御申越被成候哉、家老衆江委御閲届、早 L E 被仰聞頼入候、それ次第周防守殿江申越度候(﹃異義相論﹄ 4 5 4 、 一 五 七

i

一 五 八 頁 ) この害状によれば、善斎が良如宿所に出向いて説得したことが功を奏したのか、良如が善斎と面会の後、直孝のもとに直書でもって﹁十一日 に使者を京都に派遣する所存だ﹂と申し入れてきたというのである(﹁学寮之儀崩候事、得其意申候、則家来之者申付、明日登せ可申候﹂(﹁異 義 相 論 ﹂ 3 1 6 、九十一頁、七月十日付、直孝宛良如害状)。直孝は良如の直書を受け取り、さっそく老中にその旨を報告することが出来、京都 の所司代板倉重宗にも良如の使者が上洛する日を伝えることが出来るとして、大満足の気持ちを善斎に伝えていたのである。但し、これで使者 派遣問題が落着したわけではない。良如が使者を京都に派遣するに当たって、直孝に次のような注文を付けてきたのである。

(19)

一筆申入候、然者昨晩返報知申入候、学問所崩候儀申付、弥今日一人指登せ申候、就其能と思案申程興正寺儀、未何共被何出無之内、早 速学問所崩申候ハ¥坊主・門下驚可申事御推量之外可有之候問、近比自由成申事-一候へ共、拙僧方へ今度学問所崩候儀、曾而対興正寺へ 之儀ニ市者無之、御手前御異見ニ付、学問所崩候通坊主・門下へ申聞せ度候問、 一筆給候ハ¥可為本望候、 一通給次第使者登せ可申候、 為 其 如 此 候 ( ﹃ 異 義 相 論 ﹂ 3 1 問、七月十一日付、直孝宛良知書状、九十四頁)

ω

本願寺に帰山しだい、直ちに﹁学寮﹂を取り崩させるべく、今日家来の者を一人、出立させようと思う。

ω

それにつけても、よくよく思案 すればするほど、興正寺准秀には何の処罰も申し渡されてもいないのに、先に﹁学寮﹂を崩さねばならないのか、諸国の配下坊主や門下の者が 不審に思って、不測の事態も起こりかねない。

ω

拙僧が今度﹁学寮﹂を崩すことを決意したのは、輿正寺が訴訟を起こしたから崩すのではなく、 御手前(直孝)の﹁異見﹂に従って崩すことを決意したのだと、坊主・門下に申し聞かせたい。

ω

従って、そのような内容の趣旨を盛り込んだ 書状を一筆頂きたい。御手前からの一筆を給わり次第、使者を上洛させたい。この良如の注文は内藤善斎を介しても直孝に申し入れられた。善 斎から直孝宛の書状で、次のように良如の注文を取り次ぎ、良如の置かれている事態に同情してか、善斎からも良知が所望する趣旨の一筆を認 めて渡されんことを依頼している。 一筆申入候、今朝被仰下義ニ付、御門跡江参委申候処-一、はや昨日御約束被成候問、今日使者数馬と申仁被仰付、早と御上セ被成処ニ、 今度輿正寺出入之儀、興正寺訴訟申ニ付而、学寮を御こわし被成様ニ何れも被存方候ハん問、是ハ掃部殿御異見-一而御こわし被成候、公儀

δ

の被何義ニ而も無御座、掃部殿御異見御申候聞こわし申候、此段御門跡江御状被下候様ニと被仰候問、早と御状御越可被成候、其御状を御 待候て御座候、御状参次第上方江も御使御上せ候、為其我等方よりも申上候、先刻御門跡

δ

此段被仰入候処ニ、御留守ニ而申置、只今罷帰 候 ( ﹃ 異 義 相 論 ﹂ 3 1 7 、 九 十 一

1

九十二頁) 西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て J¥

(20)

西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て J¥ 四 これに対して直孝は、どのように対応したであろうか。﹃異義相論﹄ 4 1 6 文書(一五九頁)が直孝の回答であった。その猶書きに﹁猶以、学寮 御崩被成候義ニ付、色、 c 之わげ書状書繕申候ハ、不入儀と存、万構なく私申上由緒有之ニ付而、於何事も無御構御同心之儀難有計書申事ニ御座 候﹂(向上)とあった。いちいち言い訳の害状を書繕っても始らない。﹁由緒﹂の件で良如が同意したのは事実なのだから、それを正面に押し出 して説明すればよいではないか、というのが直孝の考えであったが、良如にとっては、この書面を本願寺に持ち帰らせることはできなかった。 良如は直ちに池永外記を直孝の下屋敷に遣わしたが、直孝は﹁迷惑仕候﹂と不快感を露にして、良如の書状の受け取りを拒否した(﹃異義相論﹂ 4 量 l q F U 4 旬 i 一六四頁)。この時点では、すでにポリティクスとしての勝負は決していたのである。 ....lー ノ、

﹁学寮﹂解体作業の様子と京中坊主衆・講衆への理由説明

井伊直孝の老論な口説きに屈するかたちで、予期しげれ)いなかった間髪を入れずの﹁学寮崩し﹂に同意させられた良如は、七月十二日に穆み出 な が か た る無念さを懐きつつ、御供衆の一人である上原数馬長堅を江戸より上洛させた。数馬は十八日夕刻に京着するや、直ちに﹁学寮﹂の書籍・諸道 具や所化たちの所持品などを町屋に運び込むように指示し、その作業を漸く終えたのは十九日暮れ時分であったため、﹁学寮﹂施設の本格的な 解体作業に入ったのは二十日早朝からで、校門を含めたすべての解体作業が完了したのは、二十四日晩のことであった。この解体作業の様子を 横目に見遣りながら、数馬は﹁学寮﹂の撤去同意に至るまでの江戸での本件﹁御扱﹂役・井伊直孝との交渉経過と良如宗主の断腸の思いでの解 体指示を、留守番重役にどのように報告し、かつ京中坊主衆・諮衆中にどのように説明をしたのであろうか。﹃閲摘記﹂と﹃石川日記﹂から関 連記事を抜き出してみよう。

ω

江戸ヨリ上京数馬罷上候ニ、御門跡様ヨリ被=仰越-候ハ、今度ノ出入ハ、学寮ヨリ事起リ申候ニ、此度御額候儀、定テ世間ニ悪シク取沙 汰可 ν有候問、京中ノ坊主衆・御講衆中へ、各気遣不 ν ν仕様ニ可ユ申渡-之由、江戸ヨリ被ニ仰付-候ニヨリ、十九日未明、上京下京坊主 衆・御講衆中へ、御門跡様ヨリ、被=仰渡-事候問、今明日ニ不 ν残、御所へ被 v参候様ニ申遣、十九日ニハ坊主衆分、二十日・二十一日ニハ、 御 講 衆 中 七 組 共 -一 、 皆 々 参 集 被 ν申候、被ニ仰渡-候趣ハ、掃部殿今度御扱-一付、学寮ノ儀ハ新法ナル故、先公儀ヨリ御崩可 ν 候 由 、 被 = 仰

(21)

付-候、興正寺殿出入ノ儀ニ付テ、御頚候事ニハ無 ν ト ノ 申 渡 、 各 へ 被 = 申 触 -候 ( ﹁ 閲 購 記 ﹂ 、 二 十 八 頁 ) (B) 従江戸為御使、上原数馬上洛被 ν申候、其趣ハ学寮クツサセニ被 ν登候、興正寺へ対シテ学寮御クツシ被 ν成候事ニテハ、毛頭無 ν之候、其 故ハ井伊掃部殿、当月六日・九日両度、江戸浅草御堂へ御見廻候て、学寮ノ義ハ輿正寺へ対シテ御クツシ候事ニテ無=御座-候、新義円

U

事御公儀御法度ニ候問、井伊掃部御内証御輿見名申上候通、御門跡様御為悪敷事、毛頭仕問敷ト、様と御異見被三申上-候ニ付、御クツシノ タメニ数馬上洛被 ν申候、御留主居下聞大弐・横田帯刀へ、右之段、 c 被ユ申渡-候、則御大工水口若狭ニ被申付、明十九日ヨリ学寮悉ク打ク ツ サ セ 被 = 申 付 -候 事 ( ﹁ 石 川 日 記 ﹄ 上 、 二 七 五

1

三 七 六 頁 ) 記事

ω

によれば、京中の坊主衆・講衆に事情説明する際の良知の指示が載せてある。﹁今度の出入一件は学寮から始ったこと。宗主の私が頒 すことを指示するわけだから、世間では私のことを悪く噂するであろうが、京中の坊主衆・諮衆が私を気遣ったり、動揺しないように、留守番 家老達と慎重に相談して申し渡してほしい﹂。この指示を受けて、留守番重役の下聞大弐・横田帯万、それに上原数馬の三人は、十九日よりニ 十一日の三日間に京中の坊主衆・講衆を本山に招集して、﹁学寮﹂を崩すことになった理由を説明する際、

ω

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の記事から類推するに、凡そ 次のように説明したことであろう。本件﹁御取扱﹂役になられた井伊掃部頭様の﹁異見﹂によれば、本願寺﹁学寮﹂は幕府に無届で造立された のだから﹁新法﹂﹁新義﹂に当たり、﹁御公儀御法度﹂にふれる違法建造物ということになる。本願寺が﹁御公儀﹂を憎かるのであれば、﹁学寮﹂ 建造物を自らの指示で自主的に解体すべきである。但し、この命令は興正寺﹁出入り一件﹂に絡ませてのことではないことを、申し添えておく。 掃部頭様の﹁異見﹂はこのようなものであったので、御門跡様は﹁公儀ヨリ御崩可 ν有候由、被=仰付-候﹂とあればとて﹁学寮崩し﹂に同意さ れ、このように解体を指示されたのだ。重ねて断っておくが、今度の﹁学寮崩し﹂は﹁御公儀﹂の命令に従つてのことであって、興正寺﹁出入 り一件﹂に拘わってのことではない。﹁関脇胴記﹂に比して﹃石川日記﹄は第一次史料であるから、興正寺側の主張に屈して﹁学寮崩し﹂に同意 したのではないのだという良如の強い意向が、数馬を通して本山留守居役に伝えられていたことが窺えよう。参集の坊主衆・講衆がこうした説 明をどう受け止めたのかは不明だが、まことに苦しい説明であり、弁明であったと言わなければならない。本願寺留守番家老逮にとっては、参 集の坊主衆・講衆に、このように説明する以外に方法はなかったのである。何故ならば、この時点では興正寺の処分はまだ決定しておらず、興 西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て 八 五

(22)

西 本 願 寺 初 期 ﹁ 学 寮 ﹂ の 取 り 崩 し を め ぐ る 政 治 的 攻 防 に つ い て 司 、 、 ﹂ 、 , ノ ] ノ 正寺﹁出入り一件﹂と連動しての﹁学寮崩し﹂であること(つまり輿正寺准秀の意向は、本門跡良如が先に﹁学寮崩し﹂に同意し、かっその撤 去が完了したことを確認の上ならば、幕府の如何なる処罰も受け入れる)、が知られてしまえば、それこそ御門跡の面白は丸潰れで、諸国の坊 主・門下中が騒ぎ出すかもしれないと危棋したからである。

輿正寺准秀と延寿寺月感の逼塞処分をめぐって

七月十二日、良知がようやく使者を上洛させることに同意したことで、﹁学寮﹂の取り崩ル問題に目途がつき、直孝は次に輿正寺准秀・延寿 ( M 拘 ) い し が や L ょ う げ ん き だ 町 討 、 寺月感の処分問題に着手すべく、出雲国松江藩主松平出羽守直政・江戸町奉行石谷将監貞清と具体的な協議に入った。 (イ) 興正寺准秀とその関係者の処分 准秀から同意を取り付けるための﹁覚書一札﹂の案文は、すでに直孝ら右の三者の間で練られていたようで(﹃異義相論﹄ 41HH 、 一 九

O

:

一 九 一 頁 、 ﹃ 異 義 相 論 ﹄ 4 1 必 、 一 九 二

1

一九三頁てその案文をどのような手順で准秀に提示し、同意を取り付けるが良いのか、ということがま ず 問 題 と な っ た 。 ﹃ 異 義 相 論 ﹂

( 3

)

・ ( 4 ) には七月十五日付、井伊直孝差出番状が計七通も収載されている。七通に共通する問題は、輿正寺准 秀に処分内容を示すに当って、准秀を直孝の私宅に呼び付けて申し渡すべきか、それとも興正寺が脇門跡であることを考慮して、門跡寺院に配 慮する立場から、直孝自身が准秀の宿所に出向いて申し渡すべきかについて、直孝自身が些か迷っていたことをめぐっての事と見受けられるが、 結局、石谷貞清の助言を入れて、直孝自身が准秀の宿所に出向いて処分案を申し渡し、納得のうえで受け入れさせるよう、本門跡の場合に準じ た手順を踏むことにした。その際、松平直政に同道を願い、場合によれば、石谷貞消も同席させようとしたほどに、慎重に事を運ぽうとしたこ とが窺える。良如には少々強引な形で﹁学寮﹂の取り崩しを同意させたからには、准秀には素直に処分案を受け入れさせることが直孝の次なる 課題であったが、それだ貯に輿正寺側へも細心の配慮を注ぐことに心掛げたのであろう。こうした直孝の気配りが功を奏したためなのか、翌七 月十六日に覚書下書きを見せ、同意を求めたところ、准秀は案文通り、左の知く署名判をして了承した(﹃異義相論﹄4﹄必、 一 九 三

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一 九 四 頁 ) 。

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