• 検索結果がありません。

日本教育史研究論 ノー ト (2)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "日本教育史研究論 ノー ト (2)"

Copied!
13
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

日本教育史研究論 ノー ト (2)

A Critical Essay of the Historical Researches on Education in Japan (2)

  

Makoto HANAI

(平成 11年10月4日 受理)

1.現

在 と過去 との往還

近世か ら現代教育 を「透視」する

 

辻本雅史の『「学び」の復権』(⇒は、近代か ら近世 を見 る ことを拒絶する。た とえば、寺子屋 (手習塾)を「江戸時代の小学校」 とみる見方は、近代国 民教育の概念で、江戸時代の世界 を理解 しようとするものである。手習塾 は、辻本 によれば、

「学校」 とい う概念で捉 えるのには違和感があるという。なぜな らば実態 は、現代 の「お稽古 塾」のような ものであ り、「学習塾」のような学校での補習や準備教育 をす るもの とは、系譜が 違 うか らである。文字 を稽古する「学習所」、 または文字 を教 える「指南所」が手習塾である。

じっさい ここでの「手習い」 というものは、単 に文字の読み書 きを覚 えるとい う知識の習得 だけを目的 とはしていない。文字 を巧みに美 しく書 く「わざ」 と、 日常生活のさまざまな場面 において、一定の「ネL」 にかなった文章や書法 を習得する場であった。そうす ると、手習塾 は、

「い までいえば書道や習字の塾 といったお もむき」②の ものである。

このように、近代西洋教育 の視点か ら、 日本近世の教育世界 を見 ると、歴史の実態 にそ ぐわ ない。だか らこそ、近世の視点か ら現代の日本の教育 を「透視」すると、ほかでは見 えない も のが見 えて くると、辻本 は言 う。

手習塾での 日常

 

まずは師弟関係か ら。手習塾への入塾 は、ある手習師匠の弟子 になること を意味 し、手習塾 とい う教育機関へ入学す るという感覚ではなかった。そして どの師匠に就 く かは、学ぶ側の意思 によって選択 され る。師匠への信頼感があって こそ、学習活動が成立する。

いったんその信頼関係が作 り上げられると、一対一の師弟関係、信頼や尊敬 によって成 り立つ、

人格的で個人的な関係 となる。近代の大衆教育 は、学習す る側で、教師は選べない。教師の

<

あた り>、<はずれ>と い う親の信0不信が現代で横温 しているのは、その弊害である。

手習塾 は、政治権力か らも社会的にも規制 され ることはなかった。 したがって学習風景 は一 様ではない として も、一定の学習文化が通底 していた。登校時間は、基本的に個々の家の生活 時間によって変わっていた。家の職業 による生活の リズムに合わせていたのである。 しか し近 代の大衆教育 は、授業が一斉授業であるか ら、子 どもは学校の時間に合わせ ることになる。 そ れはまた教師=学校側がカ リキュラムを構成 して、教 える側の優位性が前提 になっていること を示す。それに対 して手習塾 (藩校で も同様)では、「生活のなかに学習が主体的に組 み込 まれ ている」(3ゝ

教材 は「往来物」 とよばれている。最初 は師匠手ずか らの手本で学習 した ものの、手習塾が

(2)

188

全国に広 く普及 されてい くにしたがい、印刷・製本 されて市販 されるようになる。 この ことは、

「書 き言葉 の世界で、ほとん どどこで も共通す る言語が成立 した ことを物語 っている」0。 それ は「近代国民国家が成立するための文化的な前提 をな」 した●)といってよい。

学習は自分のペースで、 自分 に必要なことだけを学べばよかった。個別であ り、 自由であっ た。 したがってそこには、他人 との競争原理が作用する余地 はなかった。机の並び方 も、一斉 教授のように、師匠に対面 して という型ではなかった。机の配置 に定型 はな く、明 るい縁側 に 机 を並べ るの も多 く見 られた。教師 に対面する型 は、教 える側 を主体 とした教育観の表れであ る。近世 と近代 とを区分す る大転換であった。それ とともに学習の自由なあ り方 も排除され る ことになる。教育の画一化が、 ここか ら始 まる。

儒学の学習観

 

儒学の学習で、7、 8歳の入門 したての初心者が手 にする教科書 は、『大学』

『中庸』・『論語』・『孟子』のいわゆる「四書」 と『孝経』などの経書。そしてそれは、大成 し た学者 も学ぶ書物で もある。つ まり儒学の学習 は、徹頭徹尾四書五経に尽 きる。それ らの経書

をいかに読 み、そこか らいかなる意味 を探 り出すか、それが儒学 という学問の営みである。

儒学の学習 は経書 を「読む」 とい う行為 に終始する。それには段階があって、素読・ 講義 。 会業 とい う三段階に分かれ る。素読 とは本文 を くり返 し声 に出 して読み、正確 に読めて全文 を 暗誦 して しまうことである。意味 を理解することには意 を用いない。 ごく簡単な意味 は教 える ことがあって も、それは素読の効率 を高めるための補助的な程度にとどめられる。素読 は一教 師対一生徒の個別指導である。テキス トをまるごと覚 えて、内部 に獲得す る。 これが素読のね

らいである。辻本 によれば、「<身体化>する過程」 )である。

つづいて講義 の段階に入 る。テキス トに意味 を与 える段階である。学習者がテキス トの意味 を講究する、あるいは講述する。生徒が意味内容 を学習 した り、教師が経書の意味内容 を回頭 で説明する。模範的な読みのあ り方 を教師が弟子たちを前にして演ずる。最後が会業である。

これは数人のほぼ同程度の学カ レベルの者たちが、グループで行なう学習形態 を指す。

模倣 と習熟

 

それでは、師匠あるいは教師の役割 は何であろうか。手習塾の場合、子 どもの 自学 自習が基本であったか ら、師匠は臨書すべ きお手本 を書 き与 えた り、子 どもの手 を取 って 運筆 を指導 した りが、せいぜいであった。子 どもは先生のお手本 を模倣す るばか りである。師 匠は教 え込む ことはしない。

儒学で も個別学習であったか ら、先生の読みを正確 に模倣することに主眼が置かれる。そし て完全 に暗誦で きるようになるまで、習熟す ることが求 められる。進度におのずか ら差異が出 て くることは避 けられない。 しか し近代学校のように、一定期間に定められたカ リキュラムを 習得 しなければならない ということはない。教師の点検 を受 けて、合格すれば下校 し、不合格 なら再度訓練する。

貝原益軒 によれば、「見ならい、聞な ら」い、それによって「似する」あるいは「習い馴れ」

る過程が重要だ、 とい うことになる。)。「教 える」ことは、 よ くない ことを「戒 める」ことであ る。積極的に教 え込む ことはしない。ただはずれれば、それを「戒める」 にす ぎない。消極的 である。

益軒の この学習観の前提 には、学ぶ者の「立志」 を重視する点があった。学ぶ ことに対す る 内発的な意欲、そしてなぜ学ぶのか という、学ぶ ことの意味づけを生 きることのなかに掴 える 自覚。教師はそれを補導 してや るだけなのである。

疑問点ひ とつ

 

辻本が、手習塾 を近代 の小学校 とは違 う、いわば現代の「お稽古塾」である

(3)

と、言い切 ることによって、辻本の現代学校批判 は、宙 に浮いてしまった ことにはな らないか。

手習塾の学習法 をもって、鮮烈な現代教育批判 を試みた ものの、習い事の作法が近代学校 に は直接妥当はしないだろう。異質な もの どうしは比較で きないか らである。

(1)辻本雅史 『「学び」の復権』角川書店、1999年 。

(2)同上、40ペ ージ。

(3)同上、28ペ ージ。

(→

 

同上、31ペ ージ。

G)同

上、35ペ ージ。

(6)同t71ページ。

 

同上、134‑135ペ ージ。

2.事

態 を矛盾的に、未来 を展望的に

矛盾 を契機 に発展する

 

人間の営みは、 もっ と広 げれば宇宙の営みは、その内部 に矛盾 を含 みつつ、その対立が均衡状態 を保持 し難 くなることによって、爆発的に発展す る。唯物論的弁 証法の、基本的 ものの見方である。教育の歴史 もこうした発展の相で見 ることが大事である。

(1)

未来 を見つめて

 

東京教育大学教授 (当

)家

永二郎 は、 自分の執筆 した高校 日本史の教科 (『新 日本史』)が、検定 によって、約300カ所の修正要求が出された ことを、直接の訴因 とし て、1965年<教科書裁判>を起 こした(第一次訴訟)。 ついで67年 に、同書の改定 にあたって削 除 を強制 されたなかか ら6項目を選んで、その取消 を求める訴訟 を起 こした(第二次訴訟)。 の第二次訴訟の第一審で、東京地裁 は70年 7月 、家永勝訴の判決 を下 した。 これ を裁判長の名 前 を冠 して、<杉本判決>と いう。国家の教育権 を否定 して、子 どもの学習権 と教育の自由を高

らかに謳 った、名判決であった。

津田秀夫の『近世民衆教育運動の研究』 は、その<杉本判決>に、 より触発 されて (問題意 識 はそれ以前か ら有 していたか ら)、 まとめられた ものである。そのモチーフを津田は、「法の 論理 を歴史のなかで定着 させ、これを現実に実効性のあるものにするには、逆 に歴史のなかで、

その論理体系の整理 と意味付 けをしなければなるまい」と述べ る(lL杉 本判決が打 ち出 した法の 論理 を、未来 に定着 させ るために、過去 に遡 って民衆の教育運動の実態 を証拠 として明 らかに

しようというのである。

身分制学校の破壊

 

そのための対象 としては、日本の近代教育制度の画一化のなかではな く、

幕藩体制解体過程の民衆運動のなかに求める。遠山茂樹の卓抜な見解 に導かれなが ら、すなわ ち、「国民教育の普及 を実現で きる条件 は、第一 に武士 と民衆 との間に、教育の目的 も内容 もまっ た く異なっていた とい う身分制教育制度が破壊 され る必要があ」 る②、 とい う指摘 に依 りなが

ら、津田は焦点 を絞 るのである。

この ことを、学校論的に言い換 えれば、武士のための藩校や、武士 を除 く庶民のための寺子 (手習塾

)で

はな く、あるいはまた私塾で もない、公的教育 を求める民衆運動の所産である

ところの、士庶共学 としての郷学 こそが、検討 されるべ き学校である。具体的には、摂津の国 平野郷町 (現在の大阪市東住吉区平野京町)に存在 した、含翠堂である。

(4)

含翠堂の特色

 

では、含翠堂が、なにゆえ未来 を切 り拓 く存在た りえたのか。第一 に、その 経済的基礎が、有志 による人民の共同出資で成 り立 っていた こと。地域住民の共同出資の財源 が、学校存立の主要な経済的基礎であった。第二 に、設立 と運営にあたって、民衆の教育 に対 す る自主性や内発性 を、出発点 として持 っていた こと。領主か らの保護や監督 は基本的に受 け なかった。総 じて、「個人的な学校か ら集団的・地域的な学校 に転化 している」0。 それをもっ て津田は含翠堂 をば、「第二種郷学」と類型化する。石川謙が近世の郷学 を、藩主の支族 または 家老の朱地 に建 て られた陪臣学校であるものを第一種 とし、民間で設立 されて も、藩主が自ら 保護 と監督 をする郷学 を第二種 と分類 したのに対する、津田な りの民衆的捉 え直 しがなされて いるのである。

儒学の矛盾的捉え返 し

 

第二 に、教育内容 としての儒学が、基本的に治者の学問であ り、仕 官のためのエ リー ト教育であるのに対 し、含翠堂では、「身分制 を くずす契機 を含んでいた」0。

というの も、含翠堂 にあっては、「仕官のための手段ではな く、また、職業的学者の養成で もな い。むしろ、身分制の以前での人間性の問題 を提起 し、その存在の尊厳 についての認識 を教育 活動 を通 じて社会化する試み」0であったか らである。武士階級の教養 として独 占されていた儒 学が、民衆の側 にも学習で きるようにな り、その独 占を排除 した。その ことによって、「儒学 を 自己変革の原理 として、学び とることを重要な課題 と」0するようになった。その背景 には、平 野郷町民が、一向宗への盲 目的な信仰生活 により、 日常生活が無力化 しているのを批判 し、彼 等 を緊張関係のなかへ入 り込 ませ、郷民の自覚 と活気 を取 り戻 そうという、含翠堂創設者・ 土 橋友直の意気があった。

これは儒学 という学問の根本的な捉 え返 しである。なぜならば、「幕府が儒学教育 を民衆 にま で拡大するにいたったのは、儒学思想が幕藩体制国家論 に根拠 をお く封建的な合理性 を目的的 に提起 し、封建的な有機体 として幕藩体制国家の秩序の保全 には身分制 こそ役立つ分業関係で あると民衆 に思い こませ るところにある」 )からである。 そのためのキーワー ドが、狙篠学の

「分」の思想であった。身分制的分業論の成立である。そしてその幕藩制国家の身分制的秩序 は、聖人の道であった。「現実社会の構成 を士・農・工・商の四民 にきめたのも、古代の聖人が きめた ことで、天地 自然 と四民があったわけではあ りません」0。 同趣 旨の ことを、「君主が民 衆 に学 ばせてその徳 を成就 させ るのは、 どういう目的であるか。やは りそれぞれ才能 に従 って 役 目につけ、民衆 を安 らかにす る仕事の役 に立てたいか らにすぎぬ」0)と も狙篠 は言っている。

尾藤正英 は、「社会的な地位 に応 じ、それぞれに定め られてた職分が、運命的に与 えられた もの としての「天命」であって、それに随順することが、人間の生 き方の根本 とされているのであ る」(10と、復篠の思想 を解説 している。

しか し、「含翠堂設立の運動 には、その背景 に権力への民衆側か らの自発的な人倫関係確立の 要求がある。民 を治めるのに、法や術 をもってせず、徳 をもってしようとする考 え方が重視 さ れていることか ら、組篠学の介入す る余地 はでて こないのである」(11ゝ

こうして含翠堂 にあっては、「民衆への強圧的な統制支配の絶対性 を正当付 けるための宿命論 的認識 にたいして、それを容認 しえない とする姿勢か ら、儒学 を媒介 として、内面的な緊張関 係 をひき起 こさせなが ら、民衆 自体 の能動性・ 主体性 をひき出すために、学校教育が準備 され た」(1幼

社会的救済扶助活動

 

含翠堂の重要な教育活動 として、賑窮事業がある。含翠堂が設立 され た時期 は、享保 の改革前夜であった。綿作 に大 きく依存 している平野郷では、天候の影響 によ

(5)

る不作 に陥れば飢餓 にお よぶ。飢饉 による米価の騰貴があれば郷民 は困窮す る。それを領主権 力 に依存す るのではな く、民衆の側で自立 して解決 しようとする傾向が表れ出て くる。相互扶 助 を目的 とす る動 きが生 まれ る。生活の破滅 を防 ごうとして、Lヒ較的富裕層か らの醸出金 によっ て、応急措置が取れるような経済的裏づけが、学校教育の社会的機能の一つにおかれる。宗教 的色彩 を取 り払 って、儒学教育 をとお して、理性で解決 しようと図ったのである。それには、

社会への働 きかけが必要であった。地域 をともにする人間 としての問題意識 を、社会的実践で 明確 にした。

近代教育への展望

 

以上のような公的教育の端緒的形態 は、国民教育への展望 に繋が る。明 治の時代 に入 って、身分制教育制度の破壊 は、政府か らの一方的な強制 によって、はじめて触 発 された ものではな く、むしろそれに先行する公的教育 にかかわ る民衆運動なしには実施 に移 し難い。その意味で津田は、「小学校 には歴史的基盤 をもつ郷学が公的教育機関の学校 として設 立 されていることが前提 となっている」(1め、 とい う。

(2)

矛盾の相で捉える

 

寺崎昌男の『日本 における大学 自治制度の成立』(10は、政策側の大学管 理・組織制度構想 と、(東

)帝

国大学人のアカデ ミック・フライハイ ト=アカデ ミック・フリー ダムヘの渇望 との対立、競合、受容の様 を丁寧 に跡づけた労作である。寺崎の方法論 は、 これ までの、大学 自治の形成史、すなわち、 日露戦争講和 に反対 した対外硬派の一人、戸水寛人が 文部省か ら休職処分 を受 けた事件 を手がか りに、あるいは、京都帝国大学総長・沢柳政太郎の、

教授解職処分事件 を素材 に、大学の自治=人事権の教授会帰属 を考 える手法 とは違 っている。

一つは大学の自治の指標 は人事権だけではな く、学科課程の編成、学位資格の付与、大学内 規の制定、あるいは職制、事務章程、つ まり大学の管理・ 運営の問題 として広 く掴 えようとし ていること。二つには、 したがって、大学管理0運営 に関する諸規則類 を詳細 に分析 して、大 学の自治形成の過程 を追究 している。 この二点 に寺崎の研究の方法論上の特色がある。 しか も

それ らを、政策立案者の企図 と刷 り合わせなが ら、政策 と大学人 との矛盾のあ りようを くり返 し説 き、 自治的慣行が法制化 されてい く、発展の相で全体が貫かれている。

寺崎の文章のなかには、「先駆形態」 とか、「胚胎」 とか、「萌芽的」 とか、「前期的」 とか、

「先胤」 とかの文言が、頻繁 に登場する。発展の相で掴 えようとしているか ら、そうい う言葉 が頻発 されるのである。 また寺崎 は、 こういう側面 もある、ああいう側面 もあるといった、分 散型の叙述 をしていない。それ らの側面が よって表れ る所以、必然性 を説いている。 したがっ

て、発展の相が読み手 にみえて くるのである。

東京大学の成立 と自治的制度の萌芽

 

寺崎 は、 まず東京大学の統一的成立過程 を素描 したあ と、1881年 (明14)の東京大学管理制度の改革 に考察 を移す。第一 に「総理」職が置かれた ことをもって、「管理面での大学の総合制化 に画期的な一歩 を進めた」(1つと評価する。そして事 務機構 も単一 に系列化 した。 この改革 は1886年 の帝国大学令 まで、基本形態 としては変わ らな い。その間に大学 としての見 るべ き整備 をとげた と寺崎 は言 う。同時 に文部省直轄諸学校の教 授 などが、すべて官吏の身分等級の指定 を受 けた。つ まり、国家の官吏 としての位置づけがな されたのである。この事態は、「国家の官吏 として義務づけられた天皇制国家への忠誠 と、学問 研究者 としての真理観 との対立相克 とい う」(10、 後 に問題 となる因子 として作用す る。

第二 に、諮詢会の成立が論点 に上 る。 これ までの研究 は、それを後の評議会、教授会の先駆 的形態 と評価 してきた。た しかに、大学全体 な らびに各学部のそれぞれの多元的な審議機関で

(6)

 

あることは、間違いない ところである。「学部教官の参加がひろ く保障 された という意味で、い よいよ重要」(1つであった として も、 しか し、「標榜 されている趣 旨か らは、純粋 な総理の行政事 務の必要であって、大学 自治の要求ではない」(10。 にもかかわ らず、その実態 を探れば、「前官 僚制的な自治機関 として活動 してゆける条件」(10は備 えていた。その意味で、「大学 自治の慣行 および意識の発展 に一定の歴史的役割 を果 した といえよう」00。

第二 に、綜 (総

)理

の具状権・ 専決権 について。従来の研究 は、人事 に関する国家の保障 と みてきた。 そのような所説 について、寺崎 は、法制 と実態のふたつのレベルか ら考察 を加 える ことによって、文部卿の大学教官の人事権 を制限する積極的証拠 は見いだせない とし、「大学 自 治の制度的保障の先駆 とみることは、形式的にはともか く実質上の意味 をもたない判断」。1)と 批半Jする。

国権的規制 と大学の「自動」 との間 1886年帝国大学令が公布 される。森文政の帝国大学管 理制度の特徴 は、国権主義的行政規制ルー トが設定 される反面、文相 自身か らは、大学教官の

「 自動」が強調 され るという、矛盾するふたつの契機が存在 した ことである。森 にとっては国 家 と学問は予定調和的な関係であるはずであった。そうであるか ら、大学内部の改革の自発的 エネルギーを喚起 し、 と同時に、国家主義者 として、そのエネルギーの限界 も設定 しなければ ならない。

帝国大学令下 にあっては、長であるところの「総長」の地位の向上 と職務権限の拡大があっ た。前者 については、全大学中勅任官 は総長ただ一人であったd後者 については、「帝国大学 を 総轄」す る。大学院および五つの分科大学の全体 を総轄す る意味である。人的組織 の ヒエラル

ヒー内部での、総長の地位の上昇 と見 られる。

帝国大学 には、評議会が置かれた。諮詢会 に似ているけれ ども、諮詢会の機構的特質 は完全 に失われている。これは、「諮詢会制度の下では不充分なが ら保障 されていた、大学の自律的運 営 に対する教官の参加 の余地 を局限 し、……大学教官の自発的意思の反映 を困難化する措置で あった ことは疑 いをいれない」Oの

教官は法規上、帝国大学教授なるものは存在せず、た とえば、文科大学教授 とい う身分があ るだけである。 しか しこの ことは、分科大学の独立性・ 自治制 を意味 してはいない。管理体系 における分科大学の割拠性 はかな り強かった と言 えるものの、分科大学長 は総長 に対するなん らの自由裁量的権限を持たなかった。 もし有 していたな らば、その割拠性 は、各分科大学の独 立性・ 自治制 を保障するもの となったであろうと、寺崎 は推論する。

大学内の諸管理者機関の職務 は、「すべて窮極的には、文部大臣命令の執行者 という方向に向 かって整備 されていた」。3ゝ 森 は、「国権中心の監督行政 によってのみ動 くならば、実は帝国大 学 その ものが 目的 とす る学術 の研究、教授 とい う機能 自身が空文化す るであろうことを」。→

知 っていた。 しか し森の「 自動」のすすめは、大学規制のルー トの設定 を前提 としていた とし か言いようがない。

干渉か ら「自動」への慣行的傾斜

 

評議会の議事録 を精読 して、寺崎 はまず、た とえば分科 大学の学科課程 について、そのつ ど評議会の議 を経 るとい う制度慣行 は、分科大学の側か ら見 れば、専門性 に基づ く自治のひ とつの制約 と考 えられるところと、論点 を提起す る。 しか し他 の議事内容か らは、評議会での議決が、文部大臣を実質拘束する可能性があった とも見 る。帝 国大学 と文部大臣が「一体化」しつつ も、大学の側か ら見れば、慣行 を通 じて、「局限された範 囲」内ではあって も、行政権力 に対 して、チェック機能が可能で もあった。

(7)

森の「 自動」 は、「自治」 とは明 らかに違 う。 したがって慣行 も、「行政府の一部局 として、

国家 における官僚機構 の一部 としての機能・ 役割 を政策者か ら期待 されていた ことによるとみ るべ きである」OD。

しか し、森の政策 に表れた干渉 と自動のふたつの契機 は、大学の機構的拡大、学術機関 とし ての整備拡充 に伴 って、後者が次第 に顕在化 してい くようになる。他方大学側か らすれば、学 術機関 としての充実が、大学人の自治の要求 として、主体的に醸成 されてい く。慣行が、政策 者の意図を越 えて自治的性格 を持つ ようになる。その意味で、後の井上毅の大学管理法制の「歴 史的前提」00と なった。

管理機構

 

総長の選任 については、評議会、教授会 ともにまった くその意思 を表明する機会 がなかった。事実上総理大臣あるいは政府上層部の手中にあった。一部の教授や一部の分科大 学の意向がかかわっていた として も。

分科大学の教授会 は、法制的になんの規程 もないけれ ども、事実上存在 していた。そしてそ れは、諮問機関 とい うよりも、合議機関 としての性格 を持 っていた。「法科大学ハ実際ノ必要ニ 迫 ラレ私二教授会 ヲ開キ」。つとい う記録が残 っている。慣行的に成立 したのである。

教官人事

 

帝国大学令下での教授職 の任免の事情 の分かる史料 は、発見で きていない。助教 授や講師については、散見 されるけれ ども、教授 となると唯一穂積八束 を教授 に選任 した例が み られるのみである。 これについては、内閣が関与 しているのが明 らかである。 しか しその関 与の仕方は不明である。 また、法科大学だけがそうしていたのか、穂積だか らそうしたのか、

他の分科大学ではどうであったのか、疑問点が多い。

として も、総長 は大学側の意向を整 え、文部大臣にその処置 を一任 し、文部大臣は内閣 と協 議 しなが ら、事 をすすめてい くとい う推測が成 り立つ。文部省 と大学 とでは人事面 については、

明確 な上下関係 にあった。教官人事 については、大学側の自律的権限は十分でない。

井上毅の大学改革構想の歴史的位置

 

最後 に寺崎 は、井上毅 による高等教育改革 について分 析 している。近代 日本の為政者のなかの最高の知性、井上の1893年 の改革 は、寺崎の結論 を先 取 りすれば、「戦前 日本の大学管理制度の原型 を成立 させ」、「大 日本帝国憲法下 にその法理の枠 内で許容 され る最大限度の制度的完成 を意味する改革」であった。0。

第一 に、評議会構成員 を「帝国大学官制」 に掲 げず、大学内の役職名 とした。 この点 は、大 学運営 を政府・ 官僚の手か ら大学人 に移 し、それを支 える専門性 に期待す る、井上の意図の表 れである。た とえば学位授与の件 は、慣行的に帝国大学評議会が審議 していた ところ、それを 法規定化 させた。なによりも評議会の自治的管理機関 としての明文上の地位 0権限を確立 した 点が大 きい。第二 に、分科教授会の明文化。 これはすでに慣行的に成立 していた ものを制度化 したのである。 これに関連 して、寺崎 は改正帝国大学令の改正草案七種 を仔細 に分析 し、教授 会の審議事項 に人事案件が含 まれていることを念頭 において、「 もしこれ らの条項が実現 してい たな らば、大学教官人事 にかんする明文上の根拠 を全 く欠いていた戦前 日本の大学法制のあ り 方 を、更 には大学 自治史 を大 きく変 えるものであったにちがいない」00と 、構想 に とどまった

ことを惜 しんでいる。歴史 にifはない ものの。第三 に、人事 に関する総長の具状権 と専行権 の 復活。 しか もこれは大学以外の官立高等諸学校 には認 められない ものであったか ら、帝国大学 総長 にのみ帰属す る特権である。 しか もより重要なことは、 この両権限の付与が、大学の自治 と研究の自由に対する政府の保障 と考 えることが許 されるとすれば、 この時期が まさに妥当す る。

(8)

 

井上改革で残 されたもの

 

井上の改革 は、た しかに大学の自治的慣行 を法認 した ものの、大 学 自治史の発展上では、次のような諸点が課題 として残 された。第一 に大学教官の人事。総長 の任免 については、なんの新 しい規定 も設 けなかった。逆 に言 えば、総長の任免の従来の慣行 を引 き継いだ。総長の具状権 と専行権 の復活 は大 きな改正であるとして も、井上の関与の仕方 は不文明である。第二 に評議会 を総長の諮問機関 とする点 においては、従来 と変わ りはない。

構成 0選任 も1892年 改正の踏襲 にすぎない。つ まりは「大学の自治権 と文部大臣の行政権 との 基本関係 を変革 したのではなかった」00。

このようにおさえてみれば、大 日本帝国憲法起草者・ 井上毅の思想が浮かび上がる。官吏の 任免 は天皇大権の柱であった。帝国大学の教官 も国家の官吏であった。 したがって彼 らの任免 は天皇大権 に属するということになる。要するに丼上の改革 は、 この大権 の枠内で、大学 自治 権 を最大限拡大 しようとした ものの、実現せずに終わった。

旧帝国大学令の下、国権主義の政策 と高度の学問機関 としての望 ましいあ り方 との矛盾が露 にな りつつあった時、政策主体の側か らの、国家主義的な矛盾の打開策であった。1890年代の 大学「独立」世論の要求 に、慣行 を活か しつつ、それを行政権のなかに留保する形で応 えた も の と言 える。

(3)

批判者への回答

 

わた しは小著『近代 日本地域教育の展開』のなかで、民衆の学校所有意識 という観念 を提起 した。それに対 して、柏木敦が批判 を寄せた。1ヽ 村共同体のなかの秩序構成 によって、下層民衆 には学校共同所有意識ではな く、「負担」への「諦観念」が生 じたのであ り、

生活秩序のなかに学校意識が埋没 して、現出するのは村落秩序の再生産であった、 と。

ここには論点がふたつある。ひ とつは歴史の発展の契機 をいかに掴むか という歴史観の問題。

いまひ とつは、先進的事例の持つ「意味構成」の問題。

第一 に柏木 は、最初 に花井 に向かって刃 を振 り上 げなが ら、結論ではその刃 を鉾 に収 めて し まっている。地方改良期 には学校共同所有意識 も「展望 しうる」 と述べ ることによって。花井 は地方改良運動期 には、「<われ らが学校>という民衆意識 を最大限不U用 し」た と述べ、その

<

われ らが学校>という意識 は「学校共同所有意識 に他ならない」 と論 じた。柏木のこうした論 文構成 は、 とりあえず問わないでお こう。

第二 に、わた しは民衆の意識 を矛盾の相で見ている。小論の註ωで、「民衆の連帯意識 は、治 者側 にとって も、支配の潤滑油 として必要だったであろう。同時にその団結心 は、支配へ抵抗 し共同所有 を擁護するための粘着剤 にも転化 しうる可能性 を保持 していよう」0のと書いた。歴 史発展の契機 をどちらに求めると筋が とおるか という問題である。柏木 は秩序内部 に民衆の下 層部分が取 り込 まれた と論 じているのである。 その視点か らは、発展のモメン トは扶 り出せな い。遅れた民衆意識 を再現 させ ることが、歴史研究 にとっていかなる意味があるのか。

第二 に、共同所有意識の傍証 を、わた しは二、三挙 げている。和歌山0兵庫・ 宮崎・ 神奈川 の官側の状況認識 を、『文部省年報』か ら取 り出 して見せている。「学制」下、民衆のなかには 学校共同所有意識が、現 に認 められ るのである。その先進部分 にこそ光 りを当てなければなる

:い

わた しは、歴史 を矛盾の相で、発展の契機 を探 る手法 を取 っている。柏木の論文 は、その点 で自覚的ではない。

(9)

(1)津田秀夫『近世民衆教育運動の展開』御茶の水書房、1978年50ページ。

(2)遠山茂樹「明治維新研究の社会的責任」『展望』第八四号。

(3)津田前掲書、97ページ。

(4)同書、63ページ。

151 同書、63‑64ページ。

(6)同書、120ページ。

(7)同書、129ページ。

)荻

生組篠『答問書』上「日本の名著」第一六巻『荻生組篠』中央公論社、1983年301ペ ジ。

(9)同『弁名』「仁」の一、同上書、144ページ。

α

尾藤正英「国家主義の祖型 としての役篠」同上書、46ページ。

α

津田前掲書、136ページ。

α

 

同書、136ページ。

CD 

同書、73ページ。

l10 寺崎昌男『日本における大学自治制度の成立』評論社、1979年

0' 

同書、43ページ。

00 

同書、46ページ。

0つ

 

同書、48ページ。

00 

同書、49ページ。

09 

同書、60ページ。

00 

同書、73ページ。

OD 

同書、80ページ。

1221 同書、130‑131ぺこジ。

1231 同書、135ページ。

00 

同書、136ページ。

CD 

同書、155ページ。

00 

同書、156ページ。

1271 同書、160ページ。

00 

同書、253ページ。

09 

同書、279ページ。

00 

同書、305ページ。

0〕 柏木敦「村落における教育費負担の意味構成」『教育学研究』第66巻2号1999年

0" 

花井『近代 日本地域教育の展開』梓出版社、1986年37ページ。

3.書

プライオ リィティーを尊重 しよう

 

学問の世界では、だれが最初にある事実を発見 したか、

あるいはだれが最初に書いたかは、重要である。優先権保護の思想がある。それをめぐって自 然科学では、世界的規模で争いが絶 えない。

教育史 も同じである。今後の教訓のために、わたしにかかわる一件を書 く。逸見勝亮は『学

(10)

 

童集団疎開史』(Dで「疎開」とい う言葉 は、『歩兵操典』のなかの言葉である、 と書いた。 しか しこの事実 を最初 に指摘 したのは、わた しである。 にもかかわ らず、逸見 は一言 もそれに触れ ていない。拙稿「静岡県における学童集団疎開史 ノー ト」②のなかで、『歩兵操典』を引用 して 軍事用語であ り、「攻撃の主要陣形である」0と書いた。逸見 は、「歩兵の主要な戦闘方式」14Dと

『歩兵操典』の言葉 をほとんどそのまま紹介 している。

重要なのは、逸見 はわた しの論文 を参照 しているはずだ、 ということである。 とい うの も、

拙文 は後 に『学童集団疎開の記録』0に再録 され、逸見の論文 と一緒 に並んで掲載 されているの である。小論 を読んでいない とは考 えられない。わた しは、わた しが所蔵 している『歩兵操典』

を使 ったけれ ども、逸見 は知人か らわざわざ借 りている。借 りる理由があったか らだろう。

いまひ とつ、逸見の『学童集団疎開史』 を書評 した書評子 は、評 して、「驚 くことばか りだ。

「疎開」とい う言葉の出典 は「歩兵操典」の中の軍事用語だ という」 )と、逸見の<発>に りない賛辞 を呈 しているのである。<発>の功績 は、わた しにではな く、逸見 に対 してなされ る。

後の人々に誤 り伝 えられないように、わた しはこの事実 を書 く。厳格 な逸見 らしくない、書 き落 としである。

こうした轍 を踏 まないために、先行研究 にはよ く日配 りをし、可能な限 りの文献 を参照 して、

新説の最初の主張者 には、特段の配慮 をしなければいけない。それが物書 きの仁義 というもの である。

3章または4章構成で

 

一編の論文の構成 は3章または4章構成 にするとよい。2章だ と論

点が絞 られていない感がする。問延 び した印象 を受 ける。5章だ と逆 に、羅列的な感 を否 めな い。 よく、論理 は正・ 反・ 合 と展開するのが よい といわれ、起・ 承・ 転・ 結があってよい とか 言われる。前者 はしか しその類の論文 に出合 つた ことがない。後者 は漢詩の結構であ り、論文 にはなじまない。 したがってそうい う理由で言 うのではない。学術論文の美学が、伝統的に収 飲 してきたのが、3章または4章構成だ と、言 うにすぎない。

その3章または4章の前後 に、<は じめに>と<序 >だとか<序>な どを付す。それに対

応する形で、<おわ りに>と<結>だとか<終>な どで締 め くくる。その際、<一、はじ

めに>と<一、序>とかの番号 はつけてはいけない。締 め くくりも同様 に<五、終章>な の番号 はつけてはいけない。

<は じめに>の部分では、論文のテーマ、意図、先行研究か らの論点の提示、方法などを書

く。論文全体 の約一割の分量で まとめる。<おわ りに>では、この論文で何が明 らかになったの かを書 く。本文中でい くつか出 している結論 を、 ここで も再びまとめるのである。あるいは、

意図 してはいて も残 された課題、あるいは、今後の展望 を書 く。 ここも論文全体の一割弱 を割 いてまとめる。

章のなかを節 に分 けるか どうかは、論文全体の分量 による。50枚 ぐらいであれば、節 に分 け る必要 はない。ときに50枚 の論文で、項 まで立てているのに出合 うことがある。しか しそれは、

個条書 きに似て、 よ くない。

200字で―パ ラグラフ

 

書 きやすい方法 として、200字 前後で書 きたい個別テーマ群 をまとめ るや り方がある ヽその分割 された ものを、論理的につなげてい くのである。これは実践的に役 立つ方法である。た とえば思想史 をや るとき、ある対象 (者)の言動 を中心 に、200字 前後でコ メン トを付 してい く。それを関連する他のコメン トと結びつけて群 を作 り、論理展開させていっ

(11)

て、章 にするのである。 そうすると分か りやすい論文 になる。

ということは、書 ける部分か ら書いていけるという利点がある。第一章か ら順番 に書いてい こうな どと、ゆめにも思ってはいけない。 ましてや<はじめに>から書 くな どとい うことはし ない。そうすると大体 は、構想が大 きくなって、本文で収拾がつかな くなる。頭でつかちの尻 すぼみに陥 るのが常道である。<はじめに>は、論文の本体部分 を書 き終 つてか ら、こう書いた とい うのを、 こう書 くというように、最後 に書いた方が よい。そうすると首尾一貫 した論文 に なる。

構想 を立てて崩 して

 

論文の書 き方 は人 それぞれであるとして も、 まずは全体構成、一番主 張 したいテーマはこれ、 とい うように考 える。 その山をどこに持 って くるか。論文作成の冥利 である。一番最後 に山を持 って くると、そこまで辿 り着 くのに読み手 はもどか しい。イライラ する。そ こで、前半部分 に主張すべ きテーマを持 ってきて、あ とはその論証 と結論の妥当性 を 展開する方法 も一案である。

構想 を立てなければ論文 は書 けないか ら、 まずは第一次の構想案 を作成 し、あ とは、既述 し た ように、書 ける部分か ら書いていき、その群 を考慮 して、構想の手直 しをしてい く。

必要な史料の補充 もしてい く。あるいは論理展開 を変 えてみることもあ り得 る。構想 を立て て崩 して という作業 を くり返すのである。

註のつけ方

 

註 には幾通 りもの形式がある。 まずは本文註。本文のなかにパーレンで著者 と 書名 を書 く形式である。そのパーレンの註 を二行割で本文活字 より小 さい文字でつけるのを割 注 とい う。啓蒙書やテキス トなどではよ く使 うタイプである。 しか し学術論文 な どでは普通使 わない。脚注 または側註。前者 は洋書ではよく使われている。和書では横組 みスタイルの場合 に間々見 られ る。ページの下部 に註が書かれるタイプ。 コス トが高い とか組みが複雑で、普段 は使わない。後者 は和書縦組 みの奇数ページの小 口よりにつけられるもの。 これ も同様普段 は 使わない。頭注、 これは縦組 みの上部 につけられるもので、漢文や古文の注釈本で使用される タイプ。段落註、一パ ラグラフごとにつけられ るもので、かつては見 られた ものの、いまでは ほ とんど使われない。

通常のタイプが、 この小文で も採用 している後註。章や節の終わ り、あるいは巻末 に置かれ る註である。 この場合

t著

者名 。書名 (論文名)・ 出版社 (雑誌名)・ 発行年 (巻数・ 号数・ 刊 行年)・ 引用ページ数 を書 く。そして一つ一つの註の末尾 を句点で締 め くくることを忘れずに。

この後註の場合、註番号が100を越 えないように注意する。 もし註番号が100を越 えるような場 合が生 じた ら、巻末ではな く章末 につけ直す。章末で もだめな ら節末 につけ直す。なお註番号 の打ち方は、<である(D。>のように、句読点の前 に入れる。

なお、註の形式 は統一する。本文註 と後註 とを混用 しないように。後註であつた ら、註が節 末 にあった り、章末 にあった りではよ くない。

図表のつけ方

 

図表 は必ず横組 みにす ること。出典が縦組みで も、論文 に入れ るときは横組 みに直す。そして図表の番号 と題 目をつけること。図の場合 は下部 に、表の場合 は上部 に。図 表の出典や註 は、その下部 につける。 その場合<註(1)>と <出>とか明記す る。アステ リ スク

[*]は

普通使わない。 ましてや米印 [※]は言語道断。図表の註 を後註 に回 しているの に出合 うことがあるけれ ども、それはしない。図表の註 も末尾 を句点で締 め くくる。

数字の表記

 

縦書 きの場合 は漢数字。 けれ ども千 とか百 とかは、史料引用のほかは使用 しな い。二〇〇人のように書 く。万以上であれば、三万五〇〇〇人 とする。 また序数詞 は漢数字 を

(12)

使 う。<第一 に>のように。横書 きの場合で も<第 1に>と はしない。ひ とつの熟語 に相当する 場合 も漢数字 を使 う。<一>と

<1人

>と は しない。<一つ は>と

<1つ

>と はしな い。<第二者>であ り<第3者>ではない。<三I々 >であ り

<3々

5々>ではない。最近 は デザインの方面か ら、<第 1章 >とす るのが 目立 ってきた。それは出版社の意向であって、論文 を書 くときには、<第一章>とす る。 ローマ数字<Ⅱ >などで章 を示すのは自由である。

人名の書 き方

 

柳 田國男 とか澤柳政太郎 というように、旧漢字 を使 う人がいる。わた しはそ の方針 に反対である。無限に人名 には旧漢字 を使わなければ首尾一貫 しない ことになる。柳田 國男や澤柳政太郎 と書いた人 は、そのほかの人名 も、た とえば直田恵之助 と旧漢字で書いてい るのだろうか。疑間である。 目を転 じて、現代 において源頼朝 を頼朝 と書 く研究者がいるだろ うか。清少納言 を清少納言 と書いているだろうか。

最近若い人 に自分の名前 を旧字体で書 くのが増 えている。渡邊な どと使 っているのを見 ると 釈然 としない。野崎 を野崎 と書いているのは感心 しない。 これはわた しのみるところ、共通第 一次学力試験の影響である。本人であることを確実に証明するために、戸籍の字体 を使い始め たか らである。 しか し昔の戸籍係の筆の走 りか ら、異字体 を使われてしまった悲運である。わ た しも戸籍名 を名乗 るな らば、花井である。花の方が正字体であ り、花 は略字体であろう。 し か し自分の名前で どのような漢字 を使 うかは個人の自由である。 また物書 きを生業 としている 人か らすれば、一種のペ ンーネーム と考 えれば、角 を立てる必要 もない。

な らば歴史上の人物 はどうした らよいか。漢字かなづかいの現代化の方向で考 えるべ きだろ う。柳 田国男、沢柳政太郎でいっこうにさしつかえない。だヽ村壽太郎な どとは、あまりにも書 きに くいではないか。 そもそも現代人 に読 めるものだろうか。アンビヴァレンスである。

間をうめる記号

 

引用文 を途中省略す る場合、三点 リーダー […]をニマス使 えばよい。あ るいはパーレン [( )]のなかに (中)と して もよい。(前)・ (後)は不要である。 もっ と丁寧 なのになると、<… (中)・¨>と表記する。踊字 はひ らがなの場合 は<ゝ >、 カタカナ の場合 は<ヽ >とハネのないのを使 う。漢字の場合 は<々 >である。しか し、<小学校々長>の

ように使 ってはいけない。 また踊字が行頭 にきてはいけないので、同 じ字 を くり返 し書 く。引 用文の踊字が行頭 にきた場合 は意見が二つに分かれ よう。わた しは同 じ字 を くり返す。原文尊 重主義 に立てば、そのまま踊字 を行頭 に持 って くる人がいるか もしれない。

論文で、副題 をつけるときは、全角ダ ッシュ [―

]で

はな く三倍ダッシュ [―]を使 う。

補足説明 をするときも、三倍ダ ッシュを使 う。あるいは思考の転換 とか余韻 を持たせ る場合。

<

聖職意識の強化一― そのようにわた しには思 えるのだが。>と いうように。全角ダッシュを使 う のは、数値 の範囲 とか、前後の関係の場合な どである。

<6‑15歳

>・ <東京一大阪

>0<支

一服従>な どである。

文字の強調

 

文字の強調 に、 よ く線 を引いた り、傍点や圏点 を打 った り、ゴチ ック体 を使 う 場合がある。悪い とは言わないけれ ども、 ゴチ ック体 は見出 しの場合 に限 る。強調 したいのな らば、それが 目立つ叙述で工夫 したい。弓1用個所のある部分 を強調 したいのならば、その文言 を再引用すればよい。あまリゴテゴテ飾 りた くはない。かぎかっこで括 るのは、<いわゆる>と い う意味で使 っている場合 もあるけれ ども、 どこかか らの引用 と間違われやすいのでく使わな い方がいい。わた しならギュメ

[<>]を

使 う。 また傍点 と圏点 とを使 い間違 えないように。

傍点引用者―― と言いなが ら、実際 には圏点 [・ ]を使 っているのによ く出合 う。

原稿用紙

 

原稿用紙 には大 きく二種類 ある。200字 の もの と400字 の もの とである。前者 につ

(13)

いて、普通ペ ラ原稿 という。 この方が書 きやすい という人 もいる。 しかし卒論や修論では通常 使わない。横書 き用で、 ます 目の上端の罫線が欠 けているものは、 自然科学用の ものであるか

ら、 これは使わない。

まず一枚使 って論題 と名前 を書 く。論題 を大 きな字で書 く必要 はない。一マスー字。そして 数行空 けて学籍番号 (あるいは所属)と名前 を書 く。その次に新 しい原稿用紙 を使 って目次。

ノンブル (ページの こと)は、表紙か ら数 え始 める。 目次の章0節に当該ページのノンブルを 打つ ことを忘れぬよう。あるいは短い論文の場合、論題 と名前 に一枚使わな くともよい。その 場合 は5行ぐらい使 って、論題 と名前。短いか ら目次 は省略。本文 を6行日あた りか ら書 き始

める。

論文が完成 した ら、 目次を一覧にしてみるとよい。 そうすると同じような言い回 しをしてい るのに気づ くときがある。同義の別 な言い方 に変 える。図表 は、本文の関連するところの近 く に、グラフ用紙 を使 って書いた ものを、原稿用紙一枚 に貼 ってお く。註 は別 に小 さい文字で書

く必要 はない。 これまた一マスー字。

最近 はワープロ原稿が多 くなってきた。 この場合、一枚あた りの字数 は、

A4判

の大 きさな ら40字 30行 、

B5判

な ら32字 25行 が具合が よい。前者 は一枚 あた り1200字 、後者 は同 じく800字 となって、原稿用紙枚数が分かつて便が よい。図表 は本文原稿 とは別 に印刷 して本文の関連す る近 くに入れ る。

でき上がった ら、縦書 きの場合 は右上 を綴 じる。横書 きの場合 は左上 を綴 じる。ホチキスで もよいが、厚い場合 はコヨリかタコ糸で和綴 じにす るとよい。 しっか りと動かな くなる。和綴 じの仕方を知 ってお くと、教師になった とき、子 どもの作文集 などを作 るのに役立つ。

(1)逸見勝亮 『学童集団疎開史』大月書店、1998年 。

(2)花井信「静岡県における学童集団疎開史 ノー ト」『静岡県史研究』第九号、1993年 。

(3)同上、80ペ ージ。

(4)逸見前掲書、7ページ。

(5)全国疎開学童連絡協議会編『学童集団疎開の記録』第一巻「学童疎開の研究」大空社、1994 年。

(6)『朝 日新聞』(名古屋本社版)1998年9月20日付 け。本稿提出後、『日本教育史研究』第 18号の逸見の文章 に、『歩兵操典』に最初 に言及 したのは佐々木直剛であると書かれているの

を知 った。筆者 もその点非難 を免れない。

(7)尾川正三 『原稿の書 き方』講談社、1976年 、104‑107ページ。

[後

]本

稿 は、ある出版書痒か ら求 められている『日本教育史の論文 をか くために』(仮)

の準備 ノー トの2である。全体構成 は、1.事実が先か、方法論が先か。2.現在 と過 去の往還。3.事態 を矛盾的に、未来 を展望的に。4.テーマ設定 と対象選択の必然性。

5.調査 に入 る。6.古文書 を読む。7.文体論。8.書く。

参照

関連したドキュメント

をカレー味に工夫したら、ボーイフレンドに褒められたことなど)この短歌は、料理の味を褒められたことが

 また、 「話す」活動と「書く」活動では、何かの目的を

総論・提言 高木誠一郎・角崎信也 現在の中国の対外政策はどのような動因で展開されていて、どのような方向に向かって いるのか。諸外国は、中国のそうした政策展開あるいはその存在そのものに対していかな る認識を持っていて、いかなる対応を取っているのか。そして、その相互作用は既存のリ ベラルな国際秩序にどのようなインプリケーションを持つだろうか。本報告書を構成する

  まず、刮目すべきは、フェノロサのヘーゲル理解の特徴は、 すでにのべたように

が日本の歴史に感情移入できるようになったとき, 新しい歴史認識が生まれ,友好的な未来が生まれ る可能性は高くなる.

【客観的に授業を分析するには】

も旁が「ム」に省略された形となっており、「仏」と同様の手法で略体化が行われていると

(一般心得の二)というように日常の生活・行動等を事細かに規定している。このよう吃