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図工の力 : その本質と意義

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Academic year: 2021

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†教科教育専攻 美術教育専修 指導教員:宮﨑豊治 原 著 論 文

―― その本質と意義 ――

真 奈

The Restoration of Art Education

―― The Possibility of ʻZukouʼ. Itʼs nature and meaning ――

Manami YAMASAKI

Abstract

In twenty years experience as an art teacher, the author has been obliged to confront with many problems beyond comprehension, including ineffective educational reforms without regard for the opinions of the teachers concerned. In this thesis the author attempts to reconsider the proper aim of ʻZukouʼ by tracing its history from the viewpoint of ʻcultureʼ, in order to improve the present system of art education. The author comes to the conclusion that the true worth of ʻZukouʼ consists in its rich possibility to release the childrenʼs minds groaning under the pressure and to develop the scholarship common all subjects.

は じ め に 教育に携わってきた 20 年余りの間「子ども たちに本当に必要な力とは何なのか」という問 いが頭を離れなかった。学習導要領が変更され るたびに変わる目指す子ども像と時間数。林立 する方法論と新しく作り出される教材。振り子 のように大きくゆれる価値観に翻弄される現場 で,常に自問自答を繰り返していた。伝えるべ き大切なことは何なのだろうか。今,図工・美 術教育は,その必要性を疑われている。どのよ うな力がつくのか,はっきりと示せないままに 教育改革の波に飲み込まれている。授業時間数 は削減され,その危機感は教科としての図工 科・美術科を守ろうとする傾向を生み,それに かかわる教師たちの視野を狭めている。その結 果,子どもたちからも「どのような役に立つの か分からない」という認識の上に置かれること になってしまった。なぜ,美術科教育は学ぶこ とからこんなにも離れてしまったのだろうか。 美術科教育は本当に必要ないのだろうか。 これらの疑問を解明するため,一度立ち止 まって現状を見直し歴史を辿ることにする。問 題がどこからどのように生まれたのかを探るこ とで,美術科教育の意義や本質を検証できるの ではないかと考えたからである。それを踏まえ た上で,子どもたちに必要な力を明確にするた め,学習に含まれる「教養」を図工という教科 から見つめなおし解明を試みることにした。図 工・美術科で培われた力は他教科に広がり,他

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教科から得た力が彼らの表現を豊かにすると考 える。各教科に広がる力を育成するという観点 から小学校図画工作科を捉え,子どもたちの心 を解放し豊かに伸ばすことのできる「図工の 力」の存在を明らかにしたい。また,その力を 発揮させる条件を示すことで,図工・美術教育 の必要性が見直されることになればと考えた。 第 1 章 図工・美術科教育の現状 1.図工に学ぶべきことはない? 小学校における図工科 (図画工作科の略), 中学校における美術科の時間が,現在の学校教 育の中で重要視されていないことは時間数の削 減が示すとおりである。一部には学校教育に必 要ないという意見すらもある。文部科学省の調 査では「児童が図画工作を勉強しても,生活や 社会にどのように役に立つのか分からないと感 じていることが分かり1)」中央教育審議会など では「膨大な視覚情報にさらされている児童に 必要な力を身につけてほしいという声1)」が挙 がっている。つまり,図工・美術教育は何の役 に立つのか分からない上に,つけるべき力をつ けていないと思われているのである。ものづく りを重要視しなくなった現在の日本では,将来 の役に立つこととは,学業でよい成績をとるこ とだと認識されている。したがって,「学ぶこ と」=「できる事を増やすこと」,「役に立つこ と」=「試験で点数を取るための知識」だと認識 されているため,受験科目に含まれない図工・ 美術科が軽視されていると考えられる。 2.図工は役に立たない? 図工・美術科は本当に役に立たない教科なの だろうか。図工・美術科でつけたい力を図画工 作科指導要領2)の目標で確認すると,育てる力 として上がっているのは「感性」「基礎的な能 力」「情操」である。「基礎的な能力」について は,発想や構想,創造的な技能,鑑賞などの能 力などであり,目に見える成果があり非常にわ かりやすい力である。しかし,後の「感性」 「情操」は内面の成長であり,はっきりと見え る形にするのは難しい。「感性」は知識と心の 動きが融合したもの,「情操」は高い次元での 「心の動き」と言えるだろう。この数値化でき ない心の動きこそが図工・美術教育が持つ力で あり,図工・美術科に対する軽視は,評価を明 確に数値化できない他教科とは違う教育的特性 が関係していると考えられる。 3.図工・美術の現状 図工・美術科の授業時間は削減の方向にあり, それは図工・美術科の教科の存続に大きな影響 を及ぼし,さまざまな問題を生み出すとともに 図工科・美術科を孤立させる原因となっている。 問題の一つ目は教師の平等志向による価値観の 一元化,二つ目が教師のテリトリーとしての教 科への固執と作品主義,三つ目が美術教育にお ける校種間連携のなさである。現在,図工の授 業は教室を飾るため,展覧会に出すための作品 を作ることに追われ,本来育てるべき力を伸ば すことができていないのではないだろうか。ま た,幼稚園・小学校・中学校でそれぞれ行われ ている教育についての理解はなく,すべての校 種でバラバラに教育がおこなわれているため, つながりや連携がなく育てるべき力がなかなか 身につかないとも言える。 4.「図工・美術科」と「美術 (芸術)」を隔 てるもの 教師の多くは「図画工作科」と「美術科」を 全く別のものだと認識している。それは,写実 的な作品をレベルの高いものとして,子どもの 作品は美術 (芸術) ではないという考え方によ るものである。しかし,絵を描く目的や文化, 時代によって絵の表現の様式が違うだけで,す べてがそれぞれの人のフィルターを通して出て くる表出なのであり,そこに優劣はない。教師 は子どもの持つ力を過小評価しがちで,大人の 感覚でよいと判断される「完成品」を作らせよ うとする傾向にある。それは,子どもたちを枠 にはめようとする行為であり,結果出来上がっ た作品は同じようなものになる。子どもたちの 絵が他者に向けたメッセージ3)であると考える と,全員に同じ絵を描かせるという行為は,子 どもたちからのメッセージを取るに足らないも のと判断し,その受け取りを拒否することにな るのだ。

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図工・美術科は「感性」を育み「情操」を培 うという特性のため「学ばない」「役に立たな い」とされているが,本来の目的はその特性に よる人間形成4)である。しかし,美術教育の育 てる「力」は目に見えないため,その成果を はっきりした形で示すことができていない。ま た,教科の孤立と美術 (芸術) の流れからの乖 離によって本来の「力」が発揮されていない現 状があり,教師の一方的な価値観の押しつけに より,子どもたちが自由に表現する場が失われ つつある。では,これほどまでに対象や見本と なる作品を写し取れることや,教師が提示する ものをそのまま描くことがよしとされる価値観 が,日本で定着しているのはなぜなのだろうか。 また,教師がこぞってマニュアル化に走るのは どうしてだろうか。その原因を探るため美術教 育の歴史を紐解いてみる。 第 2 章 美術科教育の流れ 1.美術科教育の始まり 現在の日本におけるリアリズム至上主義的考 え方の始まりは,明治 5 年の図画科の導入期に までさかのぼる。当初画学と呼ばれていた図画 は西洋から素描を取り入れたものであり,写実 的なイメージに突き動かされて推進されてきた。 真面目で,人と同じことに安心感を覚える日本 人の気質に臨画教育がぴったりと合ったため, 写実的な表現が高度であるという価値観が現在 まで継続されていると言える。 2.価値観に揺れる子どもの絵 大正 7 年,臨画教育により手本通りに作品を 作ることが一番とされていた図画教育に変革が 起こった。山本鼎の自由画教育の主張は,「図 画教育の基礎としての芸術論の必要性」「対象 と制作者の間に仲介を置くことの否定」「知識 的・精神的美術教育内容の強調」5)であった。 自由を尊重する子ども中心の教育は教師たちを 引き付ける。そのため,爆発的ブームとなって 日本中に広がることとなる。しかし,本質を理 解されないまま形の模倣を繰り返すことで教育 としての価値が失われ,後に大きな批判を招く ことになった。 3.価値観に揺れる図工・美術科教育 美術教育界に大きな変革が起こった「感性主 義教育の時代」(昭和 52 年〜昭和 63 年) は, 子どもの主体性を信じ,感性論や文章による方 法をとったため,一般教師には美術教育をさら にわかりにくいものとし,反動としてわかりや すい方法論に流れるきっかけとなった。マニュ アル化の出現である6)。現在でも,美術 (芸 術) から切り離された図工・美術教育は,子ど もの主体性を重んじ自由な表現を認めると言い ながら,マニュアルによって見栄えの良い作品 を作るという二重構造に陥っている。 これまでの図工・美術教育は子どもたちの主 体性を履き違えて方向を誤り,理論がきちんと 理解されないままに新しい方法論を提示したた め混乱を招く結果となった。また,子どもたち の多様性を無視し,教師の価値観に向かって収 束させ大きな批判を受けることもあった。その 反動で感性的な教育への傾倒が強まり,育てる べき力の把握が教師全体にいきわたらない結果 を招いた。教育者は片方に傾いては反対方向へ 揺れ戻されてきた美術教育の歴史を振り返り, 同じ轍を踏まないようにすることが大切である。 そのためにも「今,ここ」だけを見るのでは無 く,未来に開かれた子どもの成長を望む教育が 大切であろう。 歴史が揺れ動きながら続いていくように,子 どもの人生も紆余曲折を経ながら続いていくの だ。将来にわたって必要な力をつけるためには, 過去・現在・未来を見通した一貫した視点が必 要になるだろう。そのうえで,学ばなければな らないものは表面上の形や流行ではないはずで ある。その場限りの対処方法を取っているだけ では,子どもたちは変わらない。心も動かない のだ。何よりも必要なのは子どもの実態を把握 することと,子どもと共に学んでいるという自 覚である。教師の視点が子どもからずれ方法論 や新しいマニュアルなどの価値観で動かされる 時,図工・美術科教育の持つ力は働かなくなる のではないだろうか。

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第 3 章 図工の力とは 1.子どもと図工 子どもの側から見る図工科の姿を明確にする ために子どもたちからアンケートを取り,その 後の作品や図工の授業における言動を分析した。 それにより,総じて子どもたちは物を作るのが 好きで図工の時間には学ぶことがあると考えて いることがわかった。ただし,不安定な心理状 況の子どもが多く,少しつまずくとやる気を 失ってあきらめる方向に向かうため,基本的な 用具の使い方は徹底して行うことが必要になる。 また,自尊感情が作品作りに大きく影響するこ とが明らかになった。授業時間での教師とのか かわりが,その後の図工に対する印象を決定し 制作意欲を左右することもわかった。 2.図工の力はどこにあるのか 子どもたちは,教師が考える図工科よりも広 くその範囲をとらえているが,学校教育の中で その間隔を狭められ,教師の価値観に合わせる ことが図工の目的だと思ってしまう。教師は想 定内で活動を終わりたいという自己防衛反応の ため,子どもたちのように柔軟に活動を考え, 広げることができないのだろう。何もかもを一 つひとつ区切って,それぞれに違う名前をつけ ようとし,作業も一つひとつ区切ってマニュア ル化しようとするのだ。周りに付随しているい ろいろなものやつながりを断ち切り,区切って 教え込んでしまうことで本来の目的や伝わるべ きこと,育つべき力が見えなくなっている気が してならない。それでは,指示に従うことは学 習できるが,物を作り出す力は育ってはいかな い。本来,図工という教科の根底に流れている, ものを作ること,見ることの大切な力が切り刻 まれ,意味のないものになってしまっているの ではないだろうか。そして,意味のなくなった 活動が繰り返されることによって,図工は「役 に立たない」「学ばない」とされるのではない だろうか。 3.「図工の力」 「図 工 の 力」と は,「出 会 う」「心 を 開 く」 「伝え合う」活動から導き出されるコミュニ ケーション能力である。それは,物と自分,自 分と自分,自分と他者という広い範囲で行われ, 絶えず変化することによって互いを作りかえる ことのできるものである。物や人に「出会い」 「心を開き」受け入れて多様性を認め理解する こと,そして,自分の思いを「伝え合う」こと は,これから子どもたちが育っていく上で必要 な力であり,基本的に人間としてつけておかな くてはならない力である。図工の時間は,ただ, 物を作るだけの時間ではないのだ。人間を人間 としてそだて,より良く生きるための根本的な 力を培っているのである。 第 4 章 広がる図工の力 1.教科としての図工 図工の時間には,多様な「みる」「つくる」 「つたえる」力が育つ。「みる」力とは,単に目 で確認し観察することだけではなく,調べる・ 試みる・読み取る・判断するなどのさまざまな 学習が含まれるものである。「つくる」力も, 物を作ることだけでなく,自分の「考え」をつ くり,それを他者と練り合わせて「意見」をつ くる。時には遊びを作りルールを作る。その中 で「人間関係」を作るのだ。「つたえる」力に ついては,言葉だけでなく目の働きによるコ ミュニケーションはもちろん,伝える素地を作 ることが挙げられる。多面的に物や人を見て新 しいものや自分とは違うものを受け入れようと する柔軟な心を育てることになる。それらは, 多様なものとのかかわりから自分の住む世界へ の関心を育てることになると考える。 2.図工の力の広がり 学校教育において必要とされる「図工の力」 は,図画工作科という一つの科目に終始してい る間はその効力が半減していると言っていいだ ろう。他教科につながる学習の基礎となる態度 や関心,知性や感性を培ってこそ,その意義を 見直されることになると考える。そのためには, 学習の土台となる「図工の力」を,教養という 視点から見直すことが必要になるであろう。 『文化と「教養」―比較文化的考察』7)の中

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で沼田裕之氏は,教養を「装飾的教養」と「養 分的教養」に分類している。「装飾的教養」と は,「人間にとって,たとえば帽子や,ブロー チのように一種の装飾で,それがなくても人間 の価値は別に変らないようなもの」と位置付け, 「養分的教養」は「身体にとっての養分のよう に,それがなければ人間そのものが存在し得な いような,人間の一部分というより,人間その ものを構成している何か」としている。沼田氏 は,日本の「教養」について,形から入ってい く教養もあるが,容易に形だけの「教養」にな り下がる危険性があり,「装飾的教養」が幅を 利かすことになるとしている。それは,日本の 文化に基づく教養が「追求すべきもの」として でななく,「洗練された趣味を身につけること」 といった方向で実現するからだとしている。生 活に必要なものではなく,高い文化意識をア ピールするための「装飾的教養」として理解さ れているのだ。日本人が考える知識とは実学主 義に基づいた「役に立つ知識」と捉えられるこ とが多く,人間の内面を豊かにする知識は軽視 される傾向にある。現在の学校教育では,点数 を取るための知識を何のまとまりもなく注入す るために,学問はその文化的背景や習慣から切 り離された,薄っぺらな語句になってしまって いるのではないだろうか。 各教科が自分の専門性とその優位性を誇示し 合っている今の学校教育では,各教科同士が互 いに孤立し合って理解し合うことはない。点数 で優位性を示せない図工の有効性が疑われてい るだけではなく,どの教科もバラバラでつなが りのないものになっている。本当に子どもたち につけるべき力は,漢字がいくつ書けるか計算 がどれだけ解けるかで測られるものではない。 人間形成としての教育は点数では測れない。本 来の教育の力は,切り取られた教科と教科の間 をつなぐところにあるものではないだろうか。 学問的,芸術的,政治的,その他のいかなる教 養も根底でつながり,豊かな栄養分を含んだ大 地となってすべて人間を形成する土台となるべ きものであろう。すべての教育の根底に流れる 人間を人間らしく育てるための基礎としての力 を,点数で測れない図工科は未だ保っていると も考えられる。また,現在の学校教育の流れの 中で,外面的で「装飾的」なことにとらわれて いるとしても,「養分的」な教養を身につける 方向に戻しやすいのではないかと思われる。各 教科の持つ人間形成能力を発揮するためにも, それらをつなぐ「図工の力」は大いに活用され るべきである。他教科に相互につながり高め合 うことができる「図工の力」,また,教育活動 を豊かにする「図工の力」を生かしていくこと が,学習を生きる力につなげることになると考 える。 3.教育活動の中の図工 (1) 図工と国語 図工科と国語科は読解力という点で共通して いる。PISA で問題になっている読解力とは極 端にいえば批判精神であり,常に人と違った意 見を言える個性であると考えられる8)。「読解 のプロセス」である,情報の取り出し・解釈・ 熟考・評価は「制作のプロセス」として図工科 にも当てはめることができる。国語の時間の読 解が図工の時間のアイデア作りに生かされ,同 様に,図工科で培った力が国語科に生かされる と考える。また,芸術としての「文学」の読み 取りと,「美術」の鑑賞にも共通点が多い。文 字がつかわれると知性的で,絵や彫刻で表され ると感覚的だとされる傾向があるが,芸術作品 とは人の想像力を広げるものであり,どちらも 作者の作った非日常の世界を愉しみ,自身の考 えを深めるものとなる。 (2) 学級経営としての図工 学級経営は,教育目標を実現するための営み である。学校教育目標から,各学年の発達段階 にあった学年目標が設定され,それをよりわか りやすく身近なものにしたものが学級目標とな る。学級目標は,そのクラスの目標であると同 時にルールであり,すべての学校生活の基本と なるものである。小学校の場合はこれを前面掲 示として,子どもが常に目にするところに掲げ るのが一般的である。多少いびつでも,子ども たちが考え自分の手で作り上げた掲示は大切に される。個性的なデザインで他のクラスの子ど もたちから羨望のまなざしで見られることも, クラスへの愛着を高めさせる一因となる。前面 掲示にかぎらず,図工の力を使って個性を生か

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した教室掲示をすることは,多様な子どもたち を大切にしながらも,クラスの結束を高める多 元的な学級文化の創造を図るものであるといえ る。また,ものを協力して作り上げること, 「協働」は子どもたちに様々な経験をさせる。 意見を作り上げる際には反発があったとしても, それを乗り越えて一つの物に成果が結実された とき,大きな達成感と満足感が得られる。自分 たちの努力と協力が目に現れる形になるからで ある。そこに,作りあげられた物がある限り, 子どもたちは何度でもその時の気持ちを思い出 すことができる。ものを作ることによって考え や関係を作る「図工の力」は作ったものに内包 され,その力を持ち続け発信しているからであ る。 (3) 特別支援としての図工 東京学芸大学,小池敏英教授は,特別支援児 の中には,脳の障害のある位置によって,部分 から全体へ順序性を重視し聴覚的・言語的手が かりによって理解する継次型の児童と,全体か ら部分へ関連性を重視し視覚的・運動的手がか りで理解する同時型の児童に分けられ,それぞ れの特徴を生かした指導をすることが望ましい としている。同時型の子どもたちは,言語によ る学習やコミュニケーションは難しいが,絵に よる学習やコミュニケーションが言葉を補うこ とが実証されているのである。図工の時間が国 籍を問わず特別支援学級の子どもでも楽しむこ とができ,活躍できる場面を作ることができる のは,視覚言語が学習を補助する役目を果たし ているからであろう。また,視力の弱い子ども たちは,「さわってみる」という見る力を使っ て自分の思いを表現することができる。聴覚に 障害のある子どもたちは,絵や物を目で見て, 言葉とつなげていくことができる。言葉の少な い子どもたちや日本語をしゃべれない子どもた ちは,物を作ったり絵を描いたりすることで自 分の思いを発信し,相手に伝えることができる。 それぞれが持つ障害を個性として認め,彼らに あった方法を選んで活動できることも図工科の 特性である。図工科における活動の幅は,他の 活動が困難な子どもたちにも活躍の場面を作る ものである。特別支援教育というと,特別な子 どものための教育と取られがちであるが,そう ではない。子どもたちはそれぞれが優れている 部分も,苦手な部分も違うのだ。すべての子ど もを同じ観点で見るのをやめ,違いを認めてそ れぞれの子どもに合った教育の方法を取り,伸 ばしていこうとするのが特別支援の考え方なの である。つまり,それは障害のある子どもにだ けなされるものではなく,教室にいるすべての 子どもに対して有効な教育の手段となるのであ る。図工科は,特別支援的な視点を潜在的に 持っているのである。 4.図工の力をとりもどすために 第 2 章で美術教育の歴史を振り返った時に, 美術 (芸術) と図工・美術教育が切り離された ために,その持てる力を発揮できなくなったと 結論付けた。しかし,同じように他教科も区切 られ,つける力を点数化されたために「知性」 を育てる術を失いつつあるのかもしれない。生 活と結びつかない教科としての知識は,定着せ ず子どもたちの頭からするりと抜けおちてしま う。また,目的もなく反復されるドリル学習は 彼らの意欲を失わせ,学習への無関心を招いて いるのだ。 教養としての「図工の力」は,教科そのもの にあるのではなく,教科と学問がつながる部分 にある。また,教科と教科のつながる部分にあ る。そして,つけるべき力は学問と生活の間に 存在している。教科で身につけた知識を有効な 形で利用できるようにすることが本来の教育の 目的であろう。そう考えると頭の中のバラバラ に在る知識を生活につなげるものが「感性」な のではないだろうか。「感性」は「感覚」に存 在しているのではなく,「心」と「知性」の間 にあるのだ。そして,心を動かし「知性」とつ なげることができるのだ。人間としてより良く 生きるための力は,試験で点数を取るための知 識がもたらすものではない。「生きる力」とは 生活に必要な,生活に生かされる力なのである。 「図工の力」が育てる物や人とのコミュニ ケーションは,子どもたちが自分の住む世界に 目を向け,心を開き柔軟にかかわろうとする態 度である。豊かな感性は,子どもたちに様々な ものを受け入れさせ,臨機応変に対応させるだ ろう。多様性に開かれた彼らには,多角的な可

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能性の模索が許されることになる。世界は一元 的な価値観に縛られているのではないと感じら れるようになるのだ。 第 5 章 図工の力を発揮させるために 1.学びを促進させるために 活動・経験によって必ず子どもが何かを得る ことができるものではない。子どもたちは,自 分たちが興味を抱かないものや現実感を持てな いものについては,たとえそれが感覚的なこと でも彼らの印象には残らない。また,経験した ことがプラスになるとも限らない。活動や経験 が負の印象を残すこともあるのだ。だからこそ, 活動や経験の中身はしっかりと吟味されるべき である。 「詰め込み教育」のラベルを貼られないよう にと,「支援」こそが教師の役割だという考え 方が「新しい学力観」のもとで導入されたが, 小学校では行き過ぎた面が見られる。「子ども の自主性を尊重する「指導より支援」の理想は, 「教えるべきところで教えない」教師に,正当 性を与えてしまったのである」と,苅谷剛彦氏 は「教育改革の幻想」11)の中で結論付けている。 教師が,子どもの意思を尊重し同じ目線に 立ってその活動に向かおうとすることは彼らの 自主的な活動を妨げるものではない。誘因と なって,彼らの活動を促進させ「知識」や「技 術」を獲得させる助けとなるのだ。自己実現に 向かおうとしている子どもたちに,その「手段 や道具」を与えることは彼らの力を伸ばすこと になる。彼らが何を望んでいるのか,それが彼 らの力に見合ったものかを気極め適切に対処す ることが「支援」なのである。「見守る」には, その子どもを観察し足りないところを分析する 客観的な視点と,その子どもを受け入れようと するあたたかい視点のどちらもが必要となるの だ。 子どもたちは,もちろん自分で「育つ」力を 持っている。しかし,自然な成り行きのままに 任せておいたのでは,どのような力が付いてい くのか分からない。また,彼らの歩みは遅々と して進まないこともある。だからこそ,より良 い学習反応を起こさせる学校という場が必要で あり,触媒としての教師が必要となるのだ。教 材や素材と子どもたちとの反応を促進するのが 教師なのである。「素材」と「子どもたち」の 学習への活性化がより良く進むための助けとな る必要が教師にはある。「支援」とは,「そばで 支え助ける」ことで離れて応援することではな い。「見守る」は,決して「傍観」ではないの だ。教師が傍観し応援している状態では,決し て「図工の力」は働かないのだ。 2.表現の場を作るために 指導において大きく取り上げられる「場の設 定」には,活動場所・用具や材料の置き方・環 境の整備などが挙げられる。しかし,これは 「活動の場」を作っているだけで,子どもたち が自分を表現するための「場」を作ることには なっていない。「表現の場」は相互行為の上に 成り立っているからである。彼らにより良い活 動を,より良い経験をと望むなら,お互いのコ ミュニケーションを外すことはできない。増渕 幸雄氏は,教育と教養が成立するための機能を ラサーンの『一般教育学』の中から提示してい る12)。その条件の一つは「すべての教養と教 育は,社会的過程としてのみ考えることができ る。つまり,人間は人間の間でのみ人間とな る」のである。つまり活動を教育として成立さ せ教養を得る経験として扱うためには人間の存 在が必要なのである。 教育現場で,常に知識の量を測られ「できる かできないか」という評価付けをされている子 どもたちは,柔軟性と感情を失っている。図工 の時間に自信がなくて作品が作れないという状 況は,まさにこの成果主義的な大人の価値観が 図工・美術科にまで押し寄せているからといっ ても過言ではない。教師が「正解」を求めてい るのではなく,その子のありのままの姿を認め る姿勢を見せることによって,子どもたちは今 まで自身を縛っていた大人の価値観から解放さ れるのである。自分を認めてくれる人の存在が, 表現を支える場を作るのだ。認められた子ども は,今までの価値観からの解放によって安心感 を得ることができ,自分が包まれている安心感 によって,他者に対する寛容な姿勢を持ち,認 めることができるようになる。お互いを確認し

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認め合うことで,学級全体が少しずつ共感的な 雰囲気に包まれていく。「表現の場」とは,そ の場所に流れる共感的雰囲気なのだ。「場の設 定」をしただけでは,子どもたちは本当の姿を 見せようとしない。もちろん,自分の持ってい る力も出すことはできない。「表現の場」が確 立されたとき「図工の力」は発揮されるのだ。 3.その子らしさを発揮させるために グローバルスタンダードが叫ばれる現代教育 では,「個性」が必要だと前章で述べた。しか し養老孟司氏は『バカの壁』13)の中で,現在の 「個性」「自己」「独創性」を重宝し,「子供の個 性を尊重」し「独創性豊かな子供を作る」教育 が,「共通了解」を追求する文明の自然な流れ からすればおかしな話であると指摘している。 「共通了解」とは,「世間の誰もがわかるための 共通の手段」である。養老氏は個性を発揮する ことが社会の迷惑になることもあると述べ,ひ たすら個性を美化することが「常識」としてお かしいとも述べている。個性とは多様性である が,その大前提は,物に向き合うところから始 まっている。物に向き合うということは,自分 に向き合うことなのである。 図工の時間の個性とは,子どもたちが持って いる資質によって広がる表現の幅であり,必要 なことは一つに収束させることでも,放ってお くことでもない。子どもの特徴を見極め,それ ぞれが今持てる力を発揮させることである。彼 らが,自信を持って自分の力を発揮できた時そ れが「個性」になっていくのだ。学校で学ぶこ とのほとんどは,個人的な見解が許されない 「共通了解」だからこそ,図工の時間には他の 教科では発揮できない思考の幅を認めることが 必要なのである。 「個性」を認めると言いながら「共通了解」 に押し込められた子どもたちは,自分に根拠の ない自信を持ちながら行動はそれに伴わないと いう特徴が見える。「やればできる」と言い訳 をしながら何も行動を起こさない様子や,まち がいを指摘されても認められない態度にそれが 表れている。速水氏は『他人を見下す子どもた ち』14)の中で,それを「経験に基づかない仮想 的有能感」と指摘していた。それは間違った自 己肯定感であり,自己愛と他人軽視から成り 立っている。このような仮想的有能性を持つ人 は共感性が低い。実際に何かを成し遂げようと する時の成功体験や失敗体験,またやり遂げた 達成感が本当の自己肯定感を作っていく。その 過程には人とのかかわりがあり,そこで劣等感 を感じたり向上心を持ったりしながら成長する のだ。 4.教師と子どもの人間関係 教育ではほめることが大切だとされているた め,教師は躍起になって「よいところ探し」を し,見つからなければ,自分が認めていないと ころでも一応ほめる。しかし,それは必要なこ とであろうか。子どもたちが教師に作品を見せ にくるのは,「ほめてほしい」からではなく 「見てほしい」からである。子どもたちは自分 の作ったものを教師と共感したくてくるのだ。 コミュニケーションは相互交流である。一方的 に評価だけ与えられたのでは,子どもに共感性 は育たない。それは当たり前となり,何が本当 にいいことなのか分からなくなる。したがって 向上しようとする意欲をそぐことになる。また, ほめられることに慣れた子どもは,ほめられた り賞を与えられたりしないと動かなくなってい く。必要なのは根拠もなくほめる言葉ではない。 子どもを理解し共感することなのだ。 教師と子どもたちは,ともにお互いの個性を 尊重し活動の間も対話をすることが大切である。 制作中に,子どもたちが悩んでいたら一緒に悩 み解決の道を模索する。困ったことがあれば, アドバイスし教師が「見守って」いることを伝 えることも必要だろう。作品のよさを認め,出 来上がりを共に喜ぶことも重要である。さまざ まな感情が行き来して初めて子どもと教師はつ ながることができるのだ。共感し合える関係が あれば,間違いや不備を指摘しても子どもたち は素直に認めることができる。対話する手間を 惜しむと子どもとの距離が開き,必要な活動や つけるべき力から彼らを遠ざけることになるの だ。対話のないやりっぱなしの活動では,子ど もたちは自分の中に閉じこもり周りを見なく なっていく。それが社会性を失わせ「個性」の 暴走をまねくことになれば,養老氏の指摘する,

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「個性」=「迷惑」になることも想像に難くない。 現在,必要なのは排他的な「自尊感情」では なく共感を伴った「自尊感情」である。「自己 効力感」や「自己認識」を伴う自己をコント ロールできる自己肯定感なのだ。しかし,ほめ るだけで実感がなく育った「自尊感情」は,自 分の力で問題を乗り越える力が付いていないた め,ほめられなくなり自分自身に活動が委ねら れるとしぼんでしまう。そこで,壁にぶつかっ たときに努力してその場を切り抜けようとする 力「レジリエンス (復元力・弾性)」が大切に なる。本当の意味での自己肯定感があれば,自 分は困難を切り抜けられると信じることができ る。また,そのための方法を考えることもでき るだろう。それが,その子らしさを発揮するこ とになるのである。 お わ り に 図工教育の現状における問題点と歴史をたど ることにより行き着いた場所は,教育が「人間 を人間にする」ための行為であり,さまざまな コミュニケーションなしでは成り立たないとい うことであった。人間社会で生きるための共通 性を身につけることが教育の役目である。時代 が変わった今でもそれは変わってはいない。人 間は,守るべき約束や果たすべき役割を忘れて しまっては意味がないのだ。自由には規則があ り,権利には義務が伴う。社会には必ず他者が いて,その関係なしには成り立ちはしない。人 間とは「人と人の間」なのである。 現在の教育は,個性を求めながらマニュアル で物事を進めるという二重構造になっている。 「個性」という名の「共通了解」を教育によっ て作ろうとしているのだ。個性は身につけるも のなどではなく,人それぞれが持って生まれた ものであり,それが発揮されないのは阻害する 何かが働いているからである。その原因の一つ が,画一的な教育や一方的な価値観であったこ とは言うまでもない。マニュアルによる教育は, 没個性どころか無気力・無関心までまねくこと になってしまった。そして,そこからの転換を 図ろうとするあまり教育の方向性が大きくねじ れてしまったことは否めない。「学ばない」「役 に立たない」と立て直しを叫ばれる今の教育を 形成したものは,その場限りの対応の繰り返し であろう。必要なのは新しい教育方法の開発で はなく,教育が「人と人の間」で行われ「人と 人の間」で生かされるものでなければならない という認識であろう。 子どもたちには学校で学ぶことの楽しさや, 発見することの楽しみを味わってほしいと願っ ている。それが,社会の中で豊かに暮らすこと につながるからだ。物質的な豊かさではない。 さまざまなものに興味を持ち喜びを持って生き ていける心の豊かさである。美術教育で言う 「感性」は,自分の生きている世界への興味関 心を持たせ,そこからの発見を促すものである。 しなやかな感性を持っていれば,どんなものに 出会ったときにも柔軟に対処することができる。 一つの「素材」を与えられたとき,作れるもの は一つではない。「見方」を変えれば様々な 「方法」が見つかるのだ。彼らが生きていく中 でさまざまな困難や障害にぶつかったとき「見 方」を変え,それを乗り越える「方法」をたく さん持っていることが自分を助けることになる のだ。「図工の力」は子どもたちの価値観を一 度まっさらな状態に戻し,さまざまなものや人 を受け入れられる心の下地を作り,新たな自分 を構築する助けになるだろう。 引 用 文 献 1 ) 平成 20 年 3 月改訂小・中学校学習指導要領 Q&A による 2 ) 平成 20 年 3 月改定学習指導要領による 3 ) 『子どもの絵は何を語るか―発達科学の視点か ら―』[東山明・東山直美,1999 p. 31 − 32] 「子どもたちは,そのメッセージを一番親しい 親や先生や友だちに贈るために,ときにはダ イナミックに,ときにはないしょ話をするよ うに絵をかき,瞳をキラキラ輝かせてその絵 をもってくる。」 4 ) 美術の性格について J. デューイは,人間が人 間性を生き生きと回復できる具体的な証拠で あり,意識を介在して美術概念を導く知的到 達であるとしている。『経験としての芸術』[J. デューイ,昭和 27 年]また,ローウェンフェ ルドは,あくまでも人間形成を目的とし全体 的成長の中の一面を担当するものとして美術 教 育 を 考 え た。『美 術 に よ る 人 間 形 成』[V.

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ローエンフェルド,1995 年 2 月]ハーバー ド・リードは「美術の教育 (美的諸能力の育 成)」に対し「美術を通した教育 (美術の特性 を生かした人という視点を示している。『芸術 による教育』[ハーバード・リード/宮脇理他, 2001 年 10 月] 5 ) 金子一夫 (1995)『美術科教育の方法論と歴史』 p. 34-35 6 ) 金子一夫 (1995)『美術科教育の方法論と歴史』 7 ) 沼田裕之 (1996)『教養の復権』p. 113-126 9 ) 石原千秋氏 (2005)『国語教科書の思想』p. 40 10) 鶴田清司 (2007)『月刊国語教育』「PISA 型読 解力向上の方略」 11) 苅谷剛彦 (2002)『教育改革の幻想』p. 191-200 12) 増渕幸雄 (1996)『教養の復権』「教養の形而上 学」p. 56 13) 養老孟司(2003)『バカの壁』p. 46 14) 清水敏彦 (2006)『他人を見下す若者たち』p. 118-152

参照

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