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フランツ・ブレンターノの表象理論
水
地
虚
無
明
筆者は年来ブレンターノの時間論を発展史的に考察してみたいという宿願を懐いている のだが,彼の時間論は表象論と密接にかかわり合っており,かといって時間論についての 論文中で表象論を取扱うのも,論旨をまとまりにくくする恐れがあるので,まず表象論 を,特にいわゆる表象様式(Modi des Vorstellens)ケこついての彼の理論を,別個にここ で,但し時間論およびいわゆる物主義(Reismus)にはなるべく触れない範囲で,取扱う こととした。 この論文の目的は,ブレンターノ批判というような勇壮な,あるいは高級なものではな くて,とにかくまず彼の表象論を曲りなりにも理解する,あるいは理解してもらうという ことである。Franz Brentano(1838.1.16−1917.3.17)はオーストリアの哲学者であ った。詩人Clemens Brentanoは彼の伯父に,作家Bettina von Arnimは父方.の叔母に, 経済学者Lujo Brentanoは彼の弟に当たる。その姓が示すように,彼の家系はイタリア 人の血を引いている。 私が独学でブレンターノの哲学を学ぶようになったのは.多分昭和30年代の前半で, 当時私がよく散歩(?)していた京都大学文学部哲学科図書室の書庫内で,たまたまO. Krausの。Franz Brentano. Zur Kenntnis seines Lebens und seiner Lehre“という本 (あるいは西田〔幾多郎〕交野中の一冊ででもあったろうか)を手に取って,その内容に 惹きつけられたことが,発端であったと記憶する。そして当時の私には,哲学的に思考す るとはどういうことかということが,ブレンターノを読むことによって初めて分ったよう な気がしたものである。のみならず,それ以来現在にいたるまでの私の世界観には,ブレ ンターノの思想がかなり影響している。 ブレンターノ哲学に関して私は,1961(S.36)年5月に日本哲学会で「物対象の法則」 と題する発表を,また同年6月に京大文学部の〈哲学茶話会〉で「ブレソターノ学派によ る倫理学の基礎づけ」という.研究発表をおこない,翌1962年に論文「レイスムス」 (京都 1)Bettina v. ArnimとClemens Brentanoについて,ある人が次のように述べてい る。「ドイツ人とイタリア人の血の結合のおかげで,ベヅティーナは,彼女の兄クレ ーメンスと同じように,異常なまでの活力(Lebendigkeit)と偉大な芸術的才能を授 かっていた。」Neue Deutsche Biogra?hie, Bd・工,S・370。26 哲学会「哲学研究」480号)を,!964(S.39)年に論文「倫理学の純粋理論化の試み」 (人文書院「講座哲学大系」第7巻所収)を発表した。そして1970(S.45)年には,ブレ ソターノの『道徳的認識の源泉について』の翻訳(中央公論社「世界の名著」51『ブレン ターノ,フッサール』所収。第2版1980年)を出した。なおわが国で一般にはそれほど有 名でなかったブレンターノのこの著書が「世界の名著」に採り入れられたことは,(多分 ブレンターノ哲学そのものにはさほど御関心のない)田中美知太郎先生の御厚意によるも のである。 内 容 1.『心理学』における意識の対象性の理論 心的現象の特徴としての対象性(指向的内存在) 対象性とは何か 〈意識〉という語。 〈指向的〉という語 内在対象論と非物対象論。その起源 豆.『心理学』における表象論 心的現象の分類原理と分類結果 デカルトによる分類との一致 表象とは何か 三部類のうちで表象が最も単純で独立的で普遍的である 皿.表象様式の理論 表象様式論と非物(内在)対象論との関係 時間的様式と正斜様式 比較関係 意識関係 関係的なものと表象様式とのつながり 因果関係 全体と部分の関係 限界と連続物の関係 表象様式の判断と情意への影響 1 1874年の『心理学』における意識の対象性の理論 1874年(著者36歳のとき)に出版されたr経験主義の立場からの心理学』に おいてブレソターノは,周知のように,心的現象(psychische Phtinomene, See. lenttitigkeiten)を,表象,判断および情意の3つの基本部類(Grundklassen)
フランツ・ブレソターノの表象理論 27 に大別した。だがこの区分は,意識のいわゆる対象性(あるいは指向性)の理 論を前提しているので,われわれもまず,対象性についての当時の彼の理論を 簡単に回顧してみよう。 ブレンターノはあらゆる現象を,自然的(物理的,physisch)なものと心的 (魂的,psychisch)なものとに大別した。そして,物理的現象に対する心的現 象の特徴は何かという問題への解答として,ブレンターノによって初めて提出 されたのが,この対象性ということであった。というのも,その当時までは, 心的現象の特徴は非延長訳ないし非空間性に存するという意見が有力だつたの ヨ である。ブレンターノ自身も,この特徴づけを誤りとみなしたわけではない の が,しかしこのような否定的消極的な規定だけでは不十分であるとして,いか なる物理的現象にも欠けており,あらゆる心的現象に備わる積極的性格とし の て,対象性を挙げたのである。 対象性とは,簡単に言えば,何かを対象とする,あるいは対象としての何か にかかわる,ということである。例えば色や音や空間的広がりなどは物理的現 象であるが,これらは何ものをも対象としていない。これに反して,何かを対 象としていない心的現象はない,とブレソターノは主張するのである。 心的現象の対象性あるいは指向性についての,『心理学』におけるブレンタ ーノ自身の説明は,次の通りであるQ 「あらゆる心的現象は,中世のスコラ哲学者たちが対象の指向的一またく心的〉と の も一内存在と名づけたものによって,特徴づけられる。これをわれわれは,あいまい 2)物理的(自然的)なものとは,外的知覚の対象(つまり,色,音,味その他)であ って,その一般的性格は,空問的なもの,あるいは広がりをもつもの,より正確に は,場所的かつ質的なもの(Ortlich一・Qualitatives),つまり干る場所に位置する搾る 質的な:もの,と規定される。Vgl、 Religion u. Philosophie, S.188, Psychol.工,S・ LXXVIII. 3)当時におけるこの意見の代表者は,A. Bainなどであった。 Psychol.工,S・!21・ 4) Psb,chol. 工,S.123 f, Relig. u. Philos. S.190. 5)ただし,すぐ後で引用される彼のことばからも窺われるように,ブレソターノ自身 は指向性(lntentionalitat)という名詞を用いていない。対象性(Gegensttindlichkeit) という語は,まれに用いられている。 6) die intentionale(auch wohl通entale)Inexistenz.
7)さ(多義性)ゴ 全然残さない表現ではないけれども,‘内容へのかかわり’,‘対象への.向 8) かい’一この.〈対象〉は,ここでは,実在と理解されてはならない一あるいは‘内在 9) 対象性’と名づけよう。(つまり)すべての心的現象が,それの内に何かを対象として 含んでいるのである。それぞれが同じふうに(含んでいるの)ではないけれども。例え ば,表象においては,何かが表象される。判断においては,何かが承認され,もしくは 拒否される。愛においては何かが愛され,憎みにおいては何かが憎まれ,欲求において も何かが欲求される,など。 この指向二型存在は,心的現象に独占的に特有のものである。いかなる物理的現象 も,これに類似する何ものをも呈示しない。それゆえわれわれは,次のように言うこと によって,心的現象を定義することができる。心的現象とは対象を指向的に自己の内に 10) 11) 含んでいるような現象であると。 なおブレン感心ノは意識(Bewusstsein)という語を,心的現象もしくは心的 作用(psychischer Akt)と同義に用いている。その理由の一つは,〈意識〉 という表現が,何らかの対象へ向かうものを表わしているように思えるからで 12) ある。つまり意識とは何かの意識であるから,心的現象の特微である対象性 (指向的内存在)を表現するのに,この語が好都合だというわけである。 意識の対象性に関するかぎり,15年後の1889年に出たr道徳的認識の源泉』 におけるブレンターノの見解は,少しも変っていない。そこでも彼は次のよう に述べている。 すべての心的なものの共通の特徴は,人がしばしば一残念ながら非常に誤解されや すい一く意識〉という表現で言い表わしたところのものに,すなわち,ある主観的な ふるまい(Verhalten)に,つまり,人が呼称したところでは,何かへの指向的なかか わり(intentionale Beziehung zu etwas)に,存する。このく何か〉は,多分実際には 存在していないのであろうが,にもかかわらず内面的に与えられているのである。(か くして)聞かれるもののない〈聞く〉はなく,信じられるもののない〈信じる〉はな く,希望されるもののないく希望する〉はなく,めざされ(求められ)るもののない 7) die Beziehung auf einen lnhalt. 8) die Richtung auf ein Objekt. 9) immanente GegenstHndlichkeit. 10) solche Phtinomene, welche intentional einen Gegenstand in sich enthalten. 11) PsOrchol. Buch 2, Kap.1(Bd,エ,S.124 f.), 12) Ps7. chol. 1, S. 142 f,
フランツ・ブレンターノの表象理論 29 〈めざす〉はなく,人がそれについて喜ぶ何かのない喜びはない。その他の場合.も同様 13) である。 さて〈指向的〉という用語は若干問題のあることぽであって,この語を採用 した理由についてブレソターノはすでに『心理学』において,次のように注記 している。 かれら(スコラ哲学者)はまた,〈対象的に(objective)何かの内にある〉という表 現をも用いている。この表現を現代においてわれわれが用いるとすれぽ,われわれの真 14) 意とは反対に,精神の外に実際に存在するものの呼称と受け取られかねないであろう。 他方で,われわれが時折(指向的内存在と)同様の意味で使用する〈内在的に対象的で i5) ある〉(immanent gegenstandlich sein)という表現は,あの〈対象的〉という語を想 起させる。しかもこの表現においては,〈内在的〉ということばが,懸念されるあの誤 16) 解を防止するはずである。 また,1911年の『心的現象の分類』においても彼は, について,次のように断っている。 〈指向的〉という用語 この表現は,意図(志向)あるいは何らかの目的の遂行にかかわると受け取られると いうふうに,誤解された。だから私はこの表現を避けた方がよかったのかも知れない。 スコラ哲学者たちは,〈指向的〉の代りに,これよりもはるかに多く<対象的〉という 表現を用いている。実際ここで言い表わされているのは,何かが心的活動者の対象であ るということ,そしてそのようなものとして一それが単に思われているのであれ,欲 求され,あるいは忌避されなどしているのであれ一ある意味で彼の意識内に現前して いるということ,にほかならないのである。にもかかわらず私がく指向的〉という表現 を採択したわけは,もしも私が思われているものを,思われているかぎりにおいて, 〈対象的(客観的)に存在する〉ものと呼称した場合には,誤解の危険がいっそう大き いとみなしたからである。近代人は,いかなる実在もそれに対応しない単なる主観的現 17) 象に対比して,実際に存在するものを,そのように呼んでいるのであるから。 13) Vom UrsPrung sittlicher Erfeenntnis, Nr. 19. 14)周知のように,スコラ哲学における〈対象的〉つまりく主観内の〉(objectivus)と いう用語は,近代では通例〈客観的〉という意味に用いられるに至った。 !5)上記の注9を参照。
16) Psychol. 1, S. 124, Anm. ’
17) Psyehol. ll, S.8f. Anm.以上のブレソターノのことばから明らかなように〈指向的〉とはく対象的〉, つまりく対象にかかわる〉,〈対象をもつ〉というほどの意味であるが,その対 象とは,r心理学』やr源泉』においては,われわれの心の外に存在するもの をさすのではなくて,心に〈内在する〉ものだったのである。この理論をわれ 18) われは便宜上〈内在対象論〉と呼ぶことにしよう。 さらに意識の対象性の理論には,当初は(1874年の『心理学』でも,1889年 の『源泉』その他においても),内在対象論のほかに,非物対象論が含まれて 19) いたのである。これは,物だけでなく,物でないもの(非物)も,意識の対象 となりうる,という理論である。ここで物(res, Ding, Reales)とは,例えば, ソクラテス,人問,魂,原子,神を否定する風な:どである。非物(lrreales, Ni− chtreales, Unding)とは,例えば,人間性,美しさ,(平行線が交わることの) 不可能性,(白いカラスの)存在,(今日が彼女の誕生日であるという)事実, 20) などである。 さて, 〈指向的〉とかく対象的〉とかいう用語は,ブレソターノ自身が断っ ているように,スコラ哲学者に由来するものである。スコラ哲学(特に晩期の 18)狭義では内在対象という語は思われた物(例えば,表象されたソクラテス,肯定さ れたソクラテス,愛されているソクラテスなど)を指すが,筆者はここでは,いわゆ る判断内容や情意内容をもそれに含める。判断内容とは,例えば「丸い四角はない」 という判断の場合,〈丸い四角の非存在〉,あるいは〈丸い四角はないこと〉である。 これに対して,〈思われた丸い四角〉は狭義の内在対象である。 19)但し内在対象はすべて,ブレンターノによれば,非物の一種であるので,内在対象 論は非物対象論の一分枝とも言えるのである。 20)物と非物の差異は,分析不能な単純なものであって,例示的に定義されるほかはな い,というのがブレソターノの少なくとも当初の見解であったようである。しかし他 のものに働きかけることも,他のものから働きを受けることもできないようなもの は,非物であるとされる。したがってまた,現実には存在しないで,単にわれわれの 心の中にだけあるとされるようなものは,たいてい非物であって,ブレンターノの物 主義によれば,それは実は心の中にあるとも言えない,単なることばなのである。ア リストテレスが幾つかに区別した有るもの(On)のうちで,カテゴリアの意味での有 るものが,ほぼ物に相当する。VgL Wahrheit und Evidenx, S.31;Die/Abkehr vom Nichtrealen, S. 21 ff.
フランツ・ブレンターノの表象理論 31 それ)における一おそらく相当複雑な一これらの用語の歴史の研究は.,筆 者の専門外でもあり,ブレンターノの思想そのものの理解にはさほど有益でも 21) ないように思われるので,ここでは立ち入らない。しかし用語は別にして,内 在対象論および非物対象論を含む指向的内存在の思想の源は,アリストテレス にある。 よく知られているように,ブレンターノはアリストテレスから出発した哲学 者である。 私は最初には生徒として,だれかある先生につかねばなりませんでした。しかも哲学 の極度にひどい堕落の時代に生まれて,古代のアリストテレス以上によい先生を,ひと りも見つけることができなかったのです。そしてこの先生を理解する一それは必ずし も容易でない一ために,トマス・アクィナスを私はしばしぼ利用しなければならなか 22) つたのです。 そしてアリストテレスの内在対象論一一当時のブレンターノが理解したかぎ りの一については,ブレソターノは『心理学』でこう述べている。 23) すでにアリストテレスがこの心的内住(psychische Einwohnung)ということを言っ ているのである。 (すなわち)彼の著書『魂について』の中で彼はこう述べている。感 覚されたものであるかぎりの感覚されたものは,感覚する者の内にある。 (つまり)感 覚は感覚されたものを質料抜きで(自己の内に)受容するのである。また思考されたも 24) のは,思考する知性の内にある。 そしてアレクサンドリアのフィロン,新プラトン派,アウグスティヌス,ア ソセルムスの存在論的証明に見られる内在対象論に言及した後で,トマスに関 して彼はこう付記している。 2!) Vgl. K. Hedwig, Der scholastische Kontext des lntentionalen bei Brentano, in: Die Philosophie 1’,一ranz Brentanos hrgg. v. R. M. Chisholm u. R. Haller, S. 67−82. 22)クラウス宛のブレンターノの手紙の一節。Die Abkehr, S.291. 23) この〈内住〉という語は,多分ラテン語のinhabitare, inhabitatioに対応するので あろう。例えばThomas, Szamma Theolegiae,1[q.43, a 3を参照。 24)Psychol.工,S.125, Anm.アリストテレスの見解については,1)e anima,424 a 18;434a29などを参照。
トマス・アクィナスは,思考されるものは思考する者の内に,愛の対象は愛する者の 内に,指向的に存在すると説ぎ,このことを神学的な目的にも利用している。(すなわ ち)聖書が聖霊の(人間への)内住(宿り)ということを言うとき,彼はこれを,.
、に
よる一種の指向的内住と説明する。また三位一体の神秘ならびにことば(子)と聖霊の (神の)内部での進出(ということを説明するために,それ)に対する古る種のアナロ 25) ジーを,思考と愛における指向的内存在に見いだそうと,彼は試みる。 なお1867年のr.アリストテレスの心理学』においては,ブレンターノはまだ く指向的〉という語を使用していないが,これと同意義の〈対象的〉という語 26) を用い,この語について次のように注記している。 われわれはく対象的〉 (objectiv)という表現をここ及び以下で,近代に慣用的とな った意味においてではなく,中世のアリストテレス主義者たちがそれに スコラ的用 語としての‘objective’というラテン語に一付与するのを常とした意味において,使 用する。この意味(に理解されたこの表現)は,アリストテレスの教説の非常に簡潔で 正確な記述を可能にするのである。例えば冷たさは,物質的には,物理的状態として は,冷たいものの内にある。しかし対象としては,すなわち感覚されたものとしては, それは冷たさを感じている者の内にある。De anima皿,2, p.425 b 25以下を参照せ よ。その個所でアリストテレスは,現実的な感覚対象(例えば音)は感覚の内にあると 27) 言っている。 さらに,ブレンターノの非物対象論の起原も,彼自身が後年に回顧し,告白 したところによれば,アリストテレスにある。しかしここではこの点を十分に 説明する余裕がないので,二つばかりある理由のうち,一つだけを簡単に述べ る。 よく知られているように,アリストテレスはくアル〉という語がいろいろ異 なる意味に用いられるということを強調した。そして彼によれば,カテゴリア 25)Ebd.なおトマスの見解については, Summa Theol. I q.8, a.3;Iq.27, a.1− 3;工q.37,a.1;工q.43, a.3などを参照。 26) なお1862年のVOn der mannigfachen Bedeutung des Seienden nach Aristoteles においては,〈対象的〉という語を彼は説明抜きで使用している。例えば回書S.37 を見よ。 27) Die Psychol. d. Arist. S. 80, Anrn. 6.フランツ・ブレソターノの表象理論 33 の意味(本質的なものという意味)での有るものと,真なるものという意味で の有るものと,付帯的(偶有的)に有るものと,可能的および現実的に有るも のとでは,それぞれにく有るもの〉の意味が根本的に異なっているのである。 しかし前期のブレソターノのアリストテレス解釈によれば,これらすべての く有るもの〉は,にもかかわらず,或る観点からすれば一義的に統括されうる のである。というのは,これらすべての有るものがまた,〈真なるものの意味 のでの有るもの〉でもありうるからである。 ここでく真なるもの〉とは,ブレンターノによれば,「実際に与えられてい るもの」(tatstichlich Gegebenes),あるいは「われわれの精神の内に対象的 お に存在していて,一つの真なる肯定的主張の主語となり得るもの」である。だ から,例えば:丸い正方形はありえないとすれば,丸い正方形の不可能性がある とも言えるのであり,この〈ある〉は,「ソクラテスがある」のくある〉と全 く同一の機能を果していることになる。つまり,ソクラテスがあるならば,ソ クラテスは真な:るものであるが,のみならずくソクラテスの存在〉も一ある のだから一真なるものであり,同様に,丸い正方形の不可能性も真なるもの である。ところで,不可能性や存在は非物であるから,非物も表象され得,肯 定され得るわけである。 非物・内在対象論は,古来幾多の哲学者によって,さまざまな理由から信じ られて来たものであるが,ブレンターノ自身の心中では,以上のような道筋を 経て,構築されるに至ったごとくである。その理論の詳細な内容には,ここで 立ち入ることはできない。 2s) das Seiende im Sinne des Wesenhaften (Substanz und wesenhafte Eigenschaften). Vgl. Wahrh. tt. Ewid. S. 30. 29) 1)Vahrh. u. Evid. S. 30; Die Abkehr, S. 2. 30) Wahrh. u. Evid. S. 30. 3!) V. d. mannigf. Bedeut. S. 37. 32) VVahrh. u. Evid. S. 162 f., Die Abkehr, S. 291f.
Ir 1874年のr心理学』における表象論 学問的な分類は自然的(本性的)なものでなければならない,とブレソター ノは言う。すなわち分類は「その本性上より密接につながっている事象を一つ の部類として取りまとめ,また本性上比較的遠く離れている事象を,互いに異 33) なる部類に属するものとして,分離しなければならない。」そして心的諸現象 を分類するための最も適切な原理は,「心的活動が内在対象にかかわる,その ヨの かかわり方の違い,換言すれば,対象の指向的存在の様態の違い」である。 例えば,われわれが一つの正方形を思い浮かべるのと,一つの円を思い浮か べるのとでは,なるほどこれらも或る意味で異なる心的作用であるが,この差 異は対象の差異によるものであって,対象へのかかわり方という点からすれ ば,両者は同種の作用である。これに反して,同じく一つの円を対象としてい ても,単に円を思い浮かべるだけで肯定も否定もしない作用と,この円は存在’ すると肯定する作用とでは,対象へのかかわり方が異なっているので,異なる 部類の作用と考えなければならない。 さてこの分類原理は,ブレンターノによると,決して新奇なものではない。 この視点(分類の視点つまり原理)はアリストテレスが(心的諸現象という)素材を 35) 整理する際に,膨めすべての視点に優先せしめたものであり,また後代の,立場のいろ いろ異なる思想家たちも,心的諸現象を根本的に区分するにあたって,多かれ少なかれ 意識的に,採用したものなのである。心的諸現象は,他のいかなる点においてよりも, それらに何かが対象として内住するという事実によって,すべての物理的現象から異な っている。そしてそれゆえに,何かが対象としてそれらに臨むその仕方(様態,Weise) に見られる最も深く滲透する差異(die am tiefsten greifenden Unterschiede in der Weise)が,それら相互間においてもまた最も主要な部類差を形成するとしても,それ 33) Psychol. ff, S. 28. 34) Psychol. ll, S. 32: die verschiedene Beziehung zum immanenten Gegensttinde der psychischen T5tigkeit oder die verschiedene Weise seiner intenzionalen Exi− stenz. 35) アリストテレスが心的作用を思(ヌース)と惰(オレクシス)に二大別したときの 区分原理を指す。Vgl. Psychol.皿, S.7ff.
フランツ・ブレソターノの表象理論 35 36) は非常に理解しやすいことである。 さらに,『道徳的認識の源泉』においても,ブレンターノはこの分類原理に ついて大要次のように説明している。すなわち,われわれの感覚の数が幾つあ るかを決定するためには,感覚される質の間に見られる最も根深い差異一具 体的には,ヘルムホルツが様相の違い(Unterschiede der Modalittit)と名づ けたもの一が基準とされねぽならないように,同様に心的作用の基本的部類 の数も,指向的なかかわりの間に見られる最も根深い差異に従って決定されな き う ければならないと。 そして,この原理に従って心的現象を分類するならば,全心的現象が,表 象・判断・情意の三つの基本的部類に大別される,と彼は結論した。なぜなら, 表象に際しては,対象は思われるけれども肯定も否定もされないのに対して, 判断では,対象は肯定もしくは否定されるし,また情意においても,対象に対 する好悪,愛憎その他の気持ちの動きが見られる。だから,〈表象する〉,<判 断する〉,〈情感する〉は,対象へのそれぞれ異なるかかわり方なのである。こ れに反して,ある対象を肯定するのと否定するのとでは,なるほど相反する性 格もそこに見いだされるけれども,対象への共通のかかわり方が根底にあるの で,両者は同一の基本的部類に属する作用である。けれども肯定と否定の差異 は,全判断をさらに二大別する様態の差異であるし,またすべての情意も,愛 的な(いわば明るい,いわば正の)情意と,憎悪的不快的な(いわば暗い,いわ ば負の)感情や意志との,いずれかに属する。他方,表象にはこのような様態 おの の差は少しも見られないように思われる。それゆえ1874年のr心理学』によれ 36) A.a.0. S.32. 37)二つの感覚質の一方(例えば赤)から他方(例えば紫)への移行が可能である場 合,両老のモダリテートが同じだという。しかし或る色から割る音への移行は不可能 だから,モダリテートが異なり,したがって感覚の種別も異なるというわけである。 但し後年のブレンターノは,必ずしもヘルムホルツのこの考えに賛成していない。 Vgl. Untersuchungen zur SinnesPsychologze, S.159, 38) V.Urs♪rung, S.16 f.(20節). 39) Vom Urs♪rung, S.18 (21節), Psychol.1L S 142 f.
ば,心的現象は次のように大別されるわけである。
心的現象
表象判断
肯定 ・否定
苗目 零 情︿
愛 さてr心理学』を書いた当時のブレンターノは,この分類結果を史上で全く 新しいものと信じていたようであるが,その後窄は,すでに200年以上も前に デカルトが『省察』 (1641年)において,ほとんど同一の結果に到達していた ことに気づいた。それゆえ彼は『道徳的認識の源泉』において次のようにデカ ルトの業績に触れている。 デカルトが彼の『省察』においてそれら(三つの基本部類)を初めて正しく,そして 完全に呈示しました。しかし彼のこの議論には十分な注意が払われなかったのです。そ れで,それら(三部類)は間もなく完全に忘れ去られました。ごく最近になって,事実 41) が彼から独立に(ブレソターノ自身によって)再発見されるまで。 40)一般に流布している知女車の三部類への区分は,西洋で18世紀後半に,Tetens, Mendelssohn, Kantなどによって行なわれたものである。この分類では表象と判断 が同類のものとみなされている。この点は,アリストテレスによる区分(注35)にし ても同様である。ブレンターノの分類では,知が表象と判断に区分される反面,情と 意が一つに統合されている。なおブレンターノ以前にも,デカルトのほか,J. S. Mi11 なども,表象と判断が類を異にすることに気づいていたようである。VgL Psychol. 豆,S.45 ff.なお〈知情意〉という日本語については,『日本国語大辞典』は,国木 田独歩『悪魔』(1903),八の9「心理学者の分類するところの知情意の何れに属すべ きものたるを私は知らない」,石川啄木『葉書』(岩波版全集,第五巻,昭28,p.!82) 「女の智情意の発達は大抵彼処辺(あそこいら)が程度だろうと思っている」を挙げ ている。漱石の『草枕』(1906)の「智に働けば角が立つ。情に樟させば流される。 意地を通せば窮屈だ」も,その一用例となり得るであろう。 41) VomσrsPrung, S.17(第20節).フランツ・ブレンターノの表象理論 37 この点に関するデカルト自身のことばは次の通りである。彼はその個所で, われわれのすべての思い(ommes cogitationes)を,つまり,ブレンターノの 解釈では,すべての心的作用を,幾つかの類(genera)に区分しようと試みて いる。 それらの思いの或るものは,いわば物の写像(rerum imagines)であり,これらに のみ観念(ideae)という名称が似つかわしい。例えば私が人間を,キマイラを,ある いは天を,あるいは天使を,あるいは神を思うような場合である。しかし他の思いは, そのほかに(観念のほかに)さらに別のある形態(formae,性格)を有している。例え ば私が意志する場合.恐れる場合,肯定する場合,否定する場合に,なるほど私は常に 私の思いの対象として或る物を把捉する(apprehendere)けれども,しかし(かくして 把捉された)その物の映像のほかに,さらに何かを私はその思いの内に抱いているので ある。そして,これらのうちの苅るものは意志(voluntates)あるいは情(affectus) 42) と,他のものは判断(judicia)と呼ばれる。 以上で明らかなように,ブレンターノが表象と呼んだものは,デカルトが観 43) 念と名づけたものに相当する。ただし私見によれば,観念という語には,表象 の内容あるいは表象作用の内在対象という意味合いが強いようだが,ブレンタ ーノの言う表象は,主として表象作用を意味するのである。 さて表象とは何かということは,以上で引用されたブレンターノやデカルト のことぽからも,ある程度察知されうるであろう。r心理学』では,ブレンタ ・・一 mはそれを次のように説明している。 私はここでく表象〉 (Vorstellung)によって,表象されるものをではなくて,表象 する作用(der Akt des Vorstellens)を理解する。それゆえ,ある音を聞く,ある色づ いた対象を見る,暖かい,もしくは冷たいの感覚および以上と類似の内容の想像状態 が,私の言う意味での表象の例である。だが同様にまた,ある普遍的概念を思うのも, 44)もしそのようなもの(普遍的概念)が実際にあるとすれば, (表象の一例である)。 42) Descartes, Meditationes de Primα Philosophia,皿p.37(Adam ・ Tannery).なお心 的現象の分類に関するデカルトの見解のブレンターノによる解釈(特にWindelband による解釈の批判)については,Wahrheit za. Evidenx, S.33−43を参照。 43) VgL Vom UrsPrung S.17(38ページで引用.されている文p) 44) Psychol, 1,S. 111 f,
また別の個所では,表象は次のように説明されている。 いつであれ,われわれに何かが現われる場合には,表象がおこなわれているのであ る。われわれが何かを見るならば,われわれはある色を表象しているのである。われわ れが何かを聞くならば,ある音を,何かを想像するならば,想像の産物を,われわれは 表象しているのである。われわれはこの(表象という)語を極めて一般的な意味に用い るが,そのおかげで次のように言うことができた。すなわち,いかなる心的活動も,表 象されていない何かに,どのようなふうにであれ,かかわることは不可能であると。私 がある名前(名称)を聞いて理解するならば,そのとき私はその名称が表わしているも のを表象しているのである。そして一般的に言えば,これが名称の目的である。表象を 45, ) 呼び起こすということが。 なおr源泉』においては彼は次のように,ごく簡単に表象に触れている。 第一の基本部類は,表象一この語の最も広い意味における一の部類です。デカル トの言うideaeです。この部類は,例えば感覚がわれわれに提供するような,具体的 直観的な表象をも,同様にまた,極めて非直観的(抽象的)な概念をも,包括していま 46) す。 さて表象判断,情意の三部類のうちでは,表象がブレソターノによれば, 最も単純で,最も独立的で,そしてある意味で最も普遍的である。なぜなら, どのような判断でも,どのような感情や意志でも,その不可欠の構成要素とし て,何らかの表象を含んでいるのだが,他方,表象は判断や情意を決して含ん でいないので,構造的に表象が最も単純なものである。 (後に表象にも様式の 差異があることが発見されて,表象の構造は相当複雑でありうることとなった 45) Ebd.皿:, S.34. 46) Vom Ursρrung, S.17.ブレソターノ自身の言うところでは,ヘルバルトやロッッ ェはブレソターノと同じ意味で表象という語を用いているが,ヴントその他の人びと は,もっと狭い意味でそれを使用しているという。Vgl. Psychol. E, S.34 Anm。な お『心理学』1925年版の編者クラウスは,「今日でもまだVorstellungという語の用 法は一定していない。入はしばしば表象という名称を想像表象の意味に用いることを 好む」と注記している。わが国でもこの語は,「心像と同じ。思い浮かべられたもの で感覚的,具体的性質をもつもの」(「岩波小辞典,心理学」第2版)とか,「もっと も普通には,知覚にもとづいて意識に現われる外界の対象の像をいう」(「岩波小辞典 哲学」第1版)などのように,かなり限定された意味に理解されることが多いp
フランツ・ブレソターノの表象理論 39 のだが,それでもやはり上の理由からして表象の構造は相対的に単純だと言え るであろう。) また,表象は単に判断や情意に含まれているとか伴なっているだけでなく て,それらの一種の基盤(Grundlage)ともなっているのである。なぜなら, 判断にせよ情意にせよ,表象された対象へのかかわりにほかならないからであ る。それゆえ,表象は判断と情意に依存しないが,後二者は前者に常に依存し ていて,独立的ではありえない。それゆえわれわれは,判断能力や情意能力を 欠くが表象能力を有する生物を,矛盾なしに想定しうるけれども,表象能力を 欠き判断能力あるいは情意能力を備えた生物の存在を,矛盾なしに承認するこ とはできない。 表象はさらに,同じ理由で,三部類のうちで,ある意味で最も普遍的な現象 である。なぜなら,たとい現実的には,表象が起きるときには,常に何らかの 判断あるいは情意がそれに伴って生じると仮定しても,理論鰍こは,表象が生 じても判断も情意も生起しないことは可能であるから,その意味で,表象が最 ユの も一般的な心的現象なのである。 巫 表象様式の理論 すでに述べられたように,当初のブレンターノの理論では,判断と情意には 様式(様態)の差が見られるけれども,表象においては,表象がかかわりうる 対象はいろいろであっても,対象へのかかわり方そのものは常に一様であっ て,様式の差異というようなものは存しない,と考えられていたわけである。 しかしその後に彼が,いわゆるブレンターノ哲学のコペルニクス的転回によっ て,内在対象論と非物対象論を放棄するに至ったとき,この改革に不可欠な く方策〉の一つとして,表象にも或る種の様式差があることを主張する,表象 様式論が呈示されたのである。 表象様式論が初めて一般に公表されたのは,1911年のr心的現象の分類にっ 47) VgL PsOychol.工,S.112−120,豆, S.127.
48) いて』の付録論文においてであった。この書の序文で, うに表象様式に触れている。 ブレンターノは次のよ 最も重要な修正の一つは,私がもはや,心的なかかわりは何らかの場合に物(Reales) 以外のものを対象としてもっことができる,という見解を維持しない,という点であ る。まさにこの点に関して,私の現在の立場を正当なものとして示そうとする意図が, 全く新しい諸問題を持込むことを,例えば表象の様式(die Modi des Vorstellens)tlこ 49) ついての研究に立ち入ることを,私に余儀なくさせたのである。 また,彼はそれ以前にも非物対象論と表象様式論の関係を, 50) 紙(1909年9月14日付)の中で,次のように述べている。 クラウス宛の手 その当時私はまた,心的なかかわり(作用)の三つの基本部類を立て,そして一現 在もなおマルティがそうであるように一高の二部類のみが,対象の差異とは違った差 異を,したがって,かかわり方そのものにおける差異をも,見せている,という意見で した。そして私がこの教説に固執するかぎりは,対象となりうるものについての私の意 見を改善することは,できなかったのです。けれども私は,あの私のかつての教説にお ける疑わしい点,否,不条理な点(すなわち非物対象論)を,長らく自分に対して隠蔽 しておくことはでぎませんでした。それにまたアリストテレスの権威にしても,首尾一 貫してあの教説を承認しているわけではなかったのです。…… さてしかし,すべてのわれわれの思い(意識作用)が物だけを対象としてもっという 主張は,当然の帰結として,心的な作用が,かつて私が仮定したよりも,はるかに多様 51) なものであるという想定へ導きます。 また,『心的現象の分類』付録第3論文でも,ほぼ同様のことを彼は次のよ うに述べている。 48) この本は,1874年の『心理学』の後半部分に,若干の注と十二の新しい論交を加え て出版されたものである。邦訳に.佐藤慶二訳「精神現象の分類に就て」(昭和4年, 春秋社「世界大思想全集 43」所収)がある。ただし付録論文は訳出されていない。 49) Ps∠ソchol.皿, S.2. 50) Die Abkehr, S. 202 f. u. S. 205 (==Psychol. 1, S. XLVII ff.). 51)対象の削減が作用の増加を必要ならしめた,というわけである。つまり,われわれ が非物を表象し,それを肯定あるいは否定しているかのように見える現象を説明する ために,表象の多様な様式が必要となるg
フランツ・ブレンターノの表象理論 41 表象,判断,情意作用を心的かかわりの三つの基本部類と私が呼称したとき.に,この 名称によって,それら(三部類のそれぞれ)が多様な下位区分をさらに許すかも知れな いということが,含意されていたわけである。実際そのような下位区分が,判断の基本 部類に対しては承認(肯定)と拒否(否定)の対立において,また情意の基本部類に対 しては愛と憎みの対立において,すでに与えられていたのである。しかるに(その後判 明したところでは),表象の基本部類についてもまた,このことが,すなわち,一般的 には等しいかかわり方が特殊な様式に分化するということが,成立つのである。そし て,あたかも二つの判断が,同一の対象を有していても,一方の判断が承認するものを 他方が否認する場合には,種別を異にするごとくに,:二つの表象もまた,その対象の等 しさにもかかわらず,しばしばそうなのである。 私が『経験主義の立場からの心理学』を書いたときには,このことは私にはまだ(全 然),あるいは少なくともその全容にわたっては,明瞭でなかった。そしてその結果, 多くの点が,単に補足だけでなく,修正もされなければならないこととして,残ってい 52) るのである。 さて,ブレソターノが表象の様式と名づけたものには,時間的様式(Tem− poralmodus)と,正および斜様式(Modus rectus und obliquus)との2種類が ある。ただし最終的には彼は,時間的様式をも正斜様式の一変種ないし一亜種 とみなしたようである。しかしそれにしても,彼が初めて表象の様式差を信じ 53) るようになったのは,時間的様式に関してであるらしい。 時間的様式とは,われわれが何かを表象する際に,その表象に伴なうとされ る現在,過去あるいは未来の時間的意識である。例えば動いている一つの物体 が今ここにあるのをわれわれが見るときには,その物体は正様式(正態)で表 象されるのだが,次の瞬間にそれがあそこにあるのが見られるときには,われ われはそれを今あそこにあるものとして吐血で表象し,かつ直前にここにあっ たものとして斜態で表象するのである。これらの表象には判断も伴なうけれど も,すでに表象段階で時間的差異が現われるのである。しかし表象の時間的様 式については,ブレソターノの時間論を主題とする他の論文で取扱うこととし て,ここではそれ以外の表象様式について考察したい。 52) Psツchol.皿(Anhang皿. Von den Modis des Vorstellens), S.142 f, 53) Die. Abfeehr, S. 62, Vgl. Psychol. ll., S. 143.
まず,ブレン田口ノの表象様式論の全般的意義について,クラウスは次のよ うに説明している。 表象の様式についての理論は,最も進んだ段階のブレンターノの心理学において広範 な場所を占め,また(ブレンターノの)認識論の極めて微細な枝葉部分にまで滲透して いる。だがその入口に立っているのは, (表象の)正態と重態との区別である。これ 54) は,極めて簡単な思想である。 表象の様式の差異は,関係的なものの表象において観察される。よく知られ ているように,一つの関係が成立するためには,最低:二つの項が必要である。 便宜上,その一方を基底(Fundament),他方を末端(Terminus)と呼ぶこと らう にしよう。例えば,甲は乙より大きいという比較関係において,甲つまり乙よ り大きいものはこの関係の基底で,乙が末端である。われわれが単にプラトン を表象する場合には,この表象は酔態での(in recto)表象であるが,<ソク ラテスより大きいプラトン〉を表象する場合には,プラトンは正態で,ソクラ テスはしかし斜態で(in obliqUO)表象される。というのは,ソクラテスより 大きい者を表象する人は,ソクラテスをも表象しないわけにはいかないが,し かしこの場合のソクラテスは,より大きい者と全く同じふうに同列に表象され るのでなくて,より大きい者はいわぽ直接的に,ソクラテスはいわば間接的に 表象されているのである。 同様に,乙の兄である甲(甲は乙の兄である)という表象においては,甲が 正態で,乙は斜態で表象される。したがって, ‘甲は乙の兄である’という命 題と,‘乙は甲の弟である’という命題とは一撃も乙も男性であるとして一 なるほど或る意味では等しい内容のもの(equivalent)であるが,完全に同一 の思考を表現したものではない。前者においては甲のみが正訓で,後者におい 54)O.Kraus, FrαnX BrentanO, S.27.なお筆者はく様式〉とく様態〉とを同意味に, どちらをもくModus>の訳語として用いる。 55) これはすでに中世の用語法である。例えば,少し時代の下る用例だが,(relatio) est forma quaedam referens subjectum vel fundamentum ad terminum. F. Suarez, DisPutationes MetaPhysicae,47,5,9.なおLockeその他かなり多くの人びとは,基 底をも末端をもひとからげにく基底〉と呼んで,両者を区別しないq
フランツ・ブレソターノの表象理論 43 ては乙のみが三態で表象されているからである。A>Bという表象と, BくA 56) という表象についても,同様のことが言える。 以上の説明からも明らかなように,何かが表象されているときには,少くと も正態の表象は常におこなわれているけれども,斜態の表象がそれに伴なうと は限らない。他方,斜態の表象は,旧態のそれに伴なうことなしには生起しえ ない。そして,関係的なものが表象される場合には,必ず正態と斜態の表象が らアラ おこなわれ,関係の基底が正態で,末端が斜態で表象されるのである。 ところで,関係にはいろいろな種別がある。そして,正態の表象は常に一様 のものであるが,斜態は,ブレンターノによれば,関係の種別が異なるにつれ らきう て,異なる様態を示すのだという。 さて,あらゆる心的活動は常に何かへのかかわりであるから,それは一種の 関係的なもの(Relatives)である。そしてそれゆえに,心的活動者をわれわれ が表象する場合にも,正態だけでなく,斜態の表象が必要である。例えば〈ソ クラテスを愛する者〉をわれわれが表象する場合,ソクラテスをも表象しなけ ればならないが,しかしソクラテスと愛する者とは,この場合,同じふうに表 象されるのではなくて,愛する者はいわば直接的に,正態で,ソクラテスは斜 態で,いわば間接的に表象される。おそらくはそれゆえに,〈ソクラテスを愛す る者がある〉という命題において,ギリシャ語やラテン語など格の発達した言 59) 語では,〈ソクラテス〉は斜格に,〈愛する者〉は主格に置かれるのであろう。 56) Die Abkehr, S. 46. 57) Vg1. Psychol.■ (Anhang皿), S.ユ45. 58)例えば大きさの間係の表象や,因果関係の表象や対象への心的かかわりの表象にお いて,斜態はそれぞれ異なっている。そればかりか,艶態で表象される心的作用が表 象であるか,肯定判断であるか,否定判断であるかなどによっても.斜態はそれぞれ 別種のものとなる。Psychol. IL S.145. 59)正態および斜態ということばは,古典語文法の用語である正格(casus rectus)お よび斜格(casus obliquus)から借用されたものである。しかし衷象の正態と斜態を 区別する思想そのものは,この三法用語から暗示を受けたのではなくて,すでに様式 差の存在が認識された後で,この用語の利用を思い付いたのであると,ブレンター/ 自身は断言している。Die Abfeehr S.311 u.64.
ところで,ソクラテスを愛しているものが存在するならば,だれかによって 愛されているソクラテスが存在するとも言えそうである。むろんソクラテスは 今は存在しないかも知れないが,少なくとも〈愛されているソクラテス〉は, 愛する者の心中に存在すると言える,というのが当初のブレソターノの,また その他古来多くの哲学者たちの意見であった。しかし内在対象としての愛され るソクラテスは,ソクラテスとは全く異なる種類のものである。ソクラテスは 人望であるが,愛されるソクラテスは愛されるものであり,より一般的には, 意識されるもの(意識の対象)である。それゆえ,ソクラテスは物であるが, 愛されるソクラテスは非物である。しかるにブレンターノの表象様式論によれ ぽ,われわれはソクラテスを愛するだれかを表象しうるけれども,愛されるだ れかを単独に,正態で表象することはできないし,したがってまた,これを単 独に肯定することもできない。なぜなら,「愛されるソクラテスがある」とい う命題は,より適切に表現すれば,「ソクラテスを愛する者がある」という命 題なのでる。そしてこの種の関係において,斜態で表象される物は,心の外に は存在しているかも知れないが,心の内には決して存在していない,というこ とになる。 関係的なものが表象されるときには,いつでもそこに正配と馬験の表象複合 が見いだされる。というよりもむしろ,ブレソターノの最終的な関係理論によ れば,関係的なものが表象されるときに,かつそのときにのみ,この種の表象 複合が見いだされるのであって,したがってわれわれは関係的なものを,この ような表象複合なしには表象され得ないものと規定することができるであろ う。そして,この場合に正野で表象されるものが関係の基底であり,特牛で表 象されるものが末端である。だから,われわれが解る関係を表象するというこ とは,実は,或るものにかかわる早るものを表象することであって,最低二つ 60) Vgl. Kategor. S. 169. 61) 〈或るもの〉もしくはく何か〉(etwas)という語をブンンターノは当初一古代の ストア派に幾分似た仕方で一一物と非物を包括するものの表現として用いたが(Vgl. Wahrheit襯4恥鼠S.24 u・27),後にはく物〉と同義に使用した。
フランツ・ブレソターノの表象理論 45 の物が異なる様式で表象されていればよい。この二つの物の問に渡された電線 のような,いわゆるく関係〉なるものは表象されていないし,ましていわんや, 「存在する」と肯定されることはできないのである。したがって,〈関係〉は 厳密には存在しえないものであり,存在しうるのは関係的なもの,つまり〈何 かにかかわるもの〉(ein zu etwas s玉ch Verhaltendes)である。 そして,或る関係が成立するためには,基底,つまり正態で表象された物が 実際に存在しなけれぽならないが,末端つまり斜態で表象された物は,必ずし 63) も存在することを要しない。それは関係の種類によっても異なるのである。何 かが何かを思う(意識する)という意識関係においては,末端は特溺の場合を 除いて,存在する必要がない。つまり実際には,末端は存在することもあれ ば,存在しないこともあるわけだ。したがってわれわれは,配る意識関係が成 立するからといって,つまり基底が存在するからといって末端(A)をも承認 して「Aは存在する」とか,「AはBである」とかと判断することは,一般的 に許されないわけである。例えば,今だれかが光源氏を愛しているとしても, おの 「光源氏が存在する」とも,「光源氏は人間である」とも,厳密には言えない わけである。 ところで,関係の末端という語は多義的であって,例えば,だれかがソクラ テスを愛する場合に,本来は〈ソクラテス〉をこの意識関係の末端と呼ぶべ きであるが,時にはく愛されるソクラテス〉が,つまり〈愛されるものである かぎりでのソクラテス〉が,あるいは〈愛されるもの〉が,この関係の末端と 62) 「或る関係が存在する」などの表現は,ことばの上での一つの便利な言い方にすぎ ず.われわれの心理に正確に対応していない,というわけである。 63) これは,より厳密に言えば,関係の基底が存在するためには,末端は存在する必要 はない,ということである。 64)特別の場合とは,例えば,心的活動老が明証的に何かを肯定するならば,この何か はそのとき存在していなければならない,というような場合である。Psyehol. ff, S. 306, Anm. 4; Kategor. S. 169. 65) この命題が光源氏の現実的存在を含意しているとすれば。 66)上述のように,〈愛されるもの〉はく愛されるソクラテス〉のいわば上位三三であ り,どちらも非物である。
46 呼ばれることがある。しかしソクラテスは一つの物であるけれども,愛される ものは,ブレンターノによれば,物でない。なぜなら,愛されるものは,彼を 愛する者が愛するのをやめたときに,それ自身に何らの変化をもこうむること なしに,愛されるのをやめるからである。このようなものは,正確に表現され た命題の主語とはな:りえないのであり,したがって,「愛される者(ソクラテ ス)がある」という命題は,上述のように,より正確には,「ソクラテスを愛 する者がある」と表現されなければならない。 関係についての理論はカテゴリア論に属するものであって,ここで十分に説 明することはできないが,表象様式論との関連で,簡単に触れておかねばなら ない。アリストテレスは関係的なものの主要な部類として,比較関係的なもの (例えば2倍のものは,その半分のものの2倍である),因果関係的なもの(例 えば熱しうるものは,熱されうるものに対して熱しうるものである),意識関 係的なもの(例え.ば知るものは,知識を知るものである)の3つを挙げている ようであるが,ブレンターノはこれを修正して,比較関係を純粋な関係ではな いとしで除外する一方で,新たに付け加えられるべきものとして,部分に対す る全体と,連続的なものの境界とを挙げている。そこで,意識関係以外のもの について,以下で若干の説明を加える。 いわゆる因果関係の表象においては,結果すなわち引き起こされるもの(あ るいは作用を受けるもの,Gewirktes, Verursachtes)が正態で表象される。そ して引き起こされるものは何かによって引き起こされるのであるから,この何 67)Arist. MetaPh. V,16.なおブレソターノはライプニッツによる関係の分類にも触 れ,アリストテレスのそれと実質的には大差がないと言っている。Kategor. S。169 f. Leibniz, Nouveau.r Essαis, 皿 11, 1[ 25. 68)psychoZ.■, S.293, Anm.3;Kategor. S. XX.しかし「除外した」と言うより も,「代表的なものとはみなさなかった」と言う方が,より適切かも知れない。〈A はBより大きい〉とか,〈AはBに似ている〉などの比較関係においては,多くの場 合,基底と末端の両者の同時的存在が承認されているとか,両者が一つの集合体とし て考えられているとか,関係的なものに最低限必要な条件以上のものを含んでいる。 Vgl. Psychol. 1, S. XXXVIII f., 」, 304 Anm. 7; Kategor. S. 242, 251 f., 283.
フランツ・ブレソターノの表象理論 47 かが斜態で表象される。この何かは原因,すなわち引き起こすものであるが, 原因はブレンターノによると正態では表象されない。(それどころか,ある意 味では姿態でも表象されえない。)因果関係の基底は常に結果であって,原因 ではないのである。その理由は,次のようなものである。 われわれが因果の概念をもっているとすれば,概念経験論の立場からする と,われわれはどこかで具体的に因果というものを経験したのでなければなら ない。この経験は,われわれの内面的経験の分野で与えられる。それは,与え られた前提から必然的に結論が出て来るのを,われおれが自己の内面で知覚す る場合や,何かへの欲求から,それを実現するために不可欠の或る手段への欲 求が起きるのを,自己の内部で観察する場合である。 ラ ところで,前提Aから結論Bが出て来た場合に,そのことによって前提Aに は何らの変化も生じない。結論が出ようが出まいが,前提そのものはいかなる 変容をもこうむらないのである。他方しかし,われわれがもし前提を忘れ去っ て,結論のみを考えるとすれば,この結論には理由づけも確実性(明証性)も ないことになって,結論の性格は大きく変容する。だからこそ,この結論があ の前提によって引き起こされたものとして知覚されるわけである。しかし,す でにこのことが認識されたならば,その後で,あの前提がこの結論を引き起こ すものであると言っても,すでに認識されたこと以上の新しいことは何も述べ ていない。以上で明らかなように,われわれがいわゆるく因果関係〉を知覚す るのは,前提を結論との関係において観察するときではなくて,結論を前提ど の関係において眺めるときである。そして,この種の表象に際しては,〈何か によって引き起こされる何か〉が表象されるのであって,〈引き起こすもの〉 は表象されないのである。 さて,内面的経験に基づいて形成された因果関係の概念(つまり,何かによ 69)前提とは,具体的には,前提を考えるかぎりでのわれわれであり,結論とは,前提 から結論を認識するかぎりでのわれわれ自身である。つまり,この場合には,同一実 体内で結果が原因によって引き起こされ,かつ(その実体によって)知覚されるわけ である。Vgl. Kategor. S.56,
48 って引き起こされたものという概念)をわれわれは,直接には因果関係が知覚 されえない方面へも,仮説的に応用するわけである。例えば,物体Aが物体B を押して,Bが或る運動をした場合, Bの運動はAによって引き起こされたと われわれは仮定する。そしてこの場合でも,Bの運動の有無はAには何らの変 容をも与えない。他方,Aの存否やそのふるまいなどは, Bに影響すると思わ れるわけである。ただし,この場合には,Aの代りに別の物体Cでも,等し い運動をBに与えうると思えるので,因果関係がよりいっそう不定なものとな 70) るQ 次に,全体的なものには,(1)集合的なもの,(2)連続的なもの,③付帯的なも の(Akzidentien,つまり実体を自己の一部分として含むもの)などがあるが, ここでは集合的なものを例にして説明してみよう。一つの森は多数の木から成 る一つの全体である。この森の一本の木は,それ自身は何らの変容をも受ける ことなしに,この森の一部分であることをやめることができる。 (例えば,他 の多くの木が切倒されて,森がなくなる場合など。)他方,この一本の木がな くなるならば,全体としての森は何ほどか変容する。 一般に,部分である何かは,それ自身が変容することなしに,部分であるこ とをやめることができるが,全体であるものは,或る部分を失なうならば,そ れ自体も変容をこうむる。それゆえ,部分Aそのものの表象には,Aが逸る全 体Bの一部分であることは含まれていない。だから,例えば赤の概念は色の概 念を含んでいて,色でない赤は考えられないのだが,森の一部分でない一本の 木を考えることは容易である。われわれは森の表象から,関係的なものの概念 を得ることができるが,木の表象からは,それは不可能である。だから,この 種の関係の基底は全体であって,部分ではない。全体とは,何かを部分として ア 含む何かであって,全体が三態で,部分に当たる何かは斜態で,表象される。 ラ 連続物とは,例えば線,面,立体,時間,運動,空間的なものの直観などで 70) Kategor. S. 55−57, 185−188. 71) Vgl. Kategor. S. XXV f. 72) ブレンターノによれば,外的知覚の対象のうちにも,内的知覚の対象(つまり心的
フランツ・ブレソターノの表象理論 49 あり,連続物の限界(境界,Grenze)とは,例えば点,線面,瞬間などであ る。われわれは何かを点として,しかしいかなる連続物にも属さないものとし て,表象することはできない。それゆえ点は,一般に限界は,関係的なもので アの ある。しかし,ある一点が属する連続物は,この一点の存立に影響を及ぼすこ となしに,その任意の部分一ただしこの一点に近接する部分を除いて一を 失なうことができる。つまり,同一の個体的な点が存在するために,個体的に 同一の連続物が存在する必要はないわけである。 限界の表象に際しては,一般に,限界が正態で,そしてこの限界が属する連 続物が斜態で表象される。 しかし連続的関係の最も基本的なものは,時間的関係である。すべてのもの が時間的にいわば流れているのだが,この一大連続体は,現在という一つの限 界においてのみ存在している。にもかかわらず現在のものは,この連続体に属 することなしには,存在しえないのである。けれども,われわれが過去のもの や未来のものを表象するときには,必ず現在のものを正態で表象し,これから どちらかの方向に何ほどか隔ったものとして,過去もしくは未来のものを,或 る特別の斜態で表象するのである。したがって,この場合には,関係の末端は 決して存在しない。 さて判断と情意は表象を基盤としているのであるから,表象に様式の差異が あるならば,この差異が判断や情意に対しても何らか影響するであろうという ことは,推察するに難くない。 例えば,「年令300歳の男がいた」という判断と,「年令300歳の男がいる」 という判断とは,どちらも同一対象を肯定しているのだが,肯定の様式は明ら かに異なっている。そしてこの差異は,ブレンターノによれば,判断段階で初 めて見られるものではなくて,すでに表象作用において現われる時間的様式 作用)のなかにも,連続的なものが見いだされ,われわれはこれらの直観から,抽象 によって,連続的なものの概念を形成する。(デーデキソト流の,手の込んだ構築に よってではなく。)Vgl. Raorm, Zeit und Kontinuum, S.3ff. 73) もちろん連続物も限界なしには考えられ得ないが,これは全体のその部分への関係 である。
50 (現在態と過去態)の差異が,判断に影響した結果なのである。 しかし表象の様式差がすべて無条件に判断と情意に影響を及ぼすのではなく て, (時間的様式の場合を除き)一般に斜態表象は,それ自体としては判断と 情意に影響しない。判断と情意が表象を基盤とすると言われる場合,それは正 態表象を基盤とするという意味に理解されるべきである。だから,例えば精神 ヒ(の存在)を否定する人(の存在)を私が表象し,かつ承認するとしても,私 自身が精神を否定しているわけではないし,かといって肯定しているわけでも ない。この場合,精神は私によって斜態で表象されただけだから,私の判断の 74) 直接の対象ではないのである。 引用文献(主要なもののみ) ブレンターノの著書 Von der mannigfachen Bedeutung des Seienden nach Aristoteles, 1862. Die Psychologie des Aristoteles, 1867. Psychologie vom empirischen Standpunkt,1874.(1924−25年の2巻本から引用した。) Vom Ursprung sittlicher Erkenntnis,1889.(1955年の第4版から引用した。) Untersuchungen zur Sinnespsychologie,1907.(2. Auf1.1979から引用) Von der Klassifikation des psychischen Phanomene,!911.(上記Psychologieの2巻 本の第E巻に含められている。) Wahrheit und Evidenz, 1930. Kategorienlehre, !933. Religion und Philosophie, 1954. Die Abkehr vom Nichtrealen,!966.(編者Franziska Mayer−Hillebrand女史のEin− 1eitungが有益である。) Philosophische Untersuchungen zu Raum, Zeit und Kontinuum, 1976. そ の 他 O. Kraus, Franz Brentano. Zur Kenntnis seines Lebens und seiner Lehre, 1919. R. M. Chisholm u. R. Haller (Hrsg.), Die Philosophie Franz Brentanos, 1978. 74) Vgl. Psychol. ll (Anhang V. Von der Modifikation der Urteile u. Gemtitsbe− wegungen durch die Modi des Vorstellens), S. 147−149.