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『原因論』における善一者,有,知性者 : プロク ロス及びトマス・アクィナスとの関係において

著者 岡崎 文明

雑誌名 中世哲学研究 : Veritas

巻 9

ページ 26‑36

発行年 1990‑01‑01

URL http://hdl.handle.net/2297/25441

(2)

26

『原因論』における 善一者,有,知性者

一プロクロス及びトマス・アクイナスとの関係において-

岡崎文明

L序論

1.「原因論」の成立環境

「原因劃(Li6erdeczmSな)は31(32)の諸命題からなる小品である。今日の哲学史 の定説によればこの書はプロクロス(Proclos)の「神学網要』(EZeme'lZarjoZheolQgicα)

(1)

の「抜粋」(Auszug/acompiIationofextracts)であると位置付けられている。

この「原因論」という書は,13世紀の初めには既にそのラテン語訳で西欧に広く知られ ており,次の二点で影響を及ぼしたと言われている。一つは,文体上の影響であり,また

-つは学説上のそれである。

文体上の影響に関しては,当時既にBoethius(c480-c、524)やAlanusdelnsulis

(1114/20-1202(3))等に際立って見られたように「格言風の文体」が発達していたが,

こう言った文体は,韻を踏んだ簡潔な命題から成る哲学的あるいは神学的な小品に見られ るものであり,この文体の発達に「原因論」の影響も少なからずあると言われている。

また学説上の影響に関しては,一つには,この書は当時既に流布していたSolomon

lbn-Gabirol/Avicebron(1020/21-1058/70)の形相質料論と形相複数論が一層広まる ことを助けたと言われている(彼の説では,質料的な被造物は勿論のこと霊的な被造物も 形相と質料とから複合きれており,そして複合物は,その内において低い程度から高い程 度にまで階層的に秩序づけられた諸形相から成り,下位の形相は上位の形相に含まれ,と

りわけ知性者(intelligentia)では可知的諸形相が-つに統一されている)。さらに,学説 の上ではもう一つの大きな影響がある。それは,新プラトン主義を中世の西欧世界へ伝え

たことである。これが「原因論」の持つ最大の意義とされている。

ところで,当初,同書は「純粋善の註解についてのアリストテレスの書』(Li6eγAγ心

toZeIjSdeeユ目PC伽。'1e6o"itα雌〃me)と「原因論』(Lj6erdeams血)という二つの題 名を持っていた。既にここにこの書の起源問題の複雑きが顔をのぞかせている。

(2)

この書の先駆的研究者である19世紀のOBardenhewerとMSteinschneid塁とは,現

存する当時の文献表から,この書がCremonaのGerardus(1187段)によってスペインの

Toredoでアラビア語からラテン語に翻訳された,とする点で一致している。当時このト

レドには大司教Raimundus(位1125-1151)が支援した翻訳チームがあり,ここでアラ

ビア語文献のラテン語訳が盛んに行われていた。

(3)

「原因論」における善一者,有,知性者/27 後のAdriaanPattinの文献学的な研究は,この書のラテン語訳にはDominicusGun‐

dissalmus(1150盛年)のラテン語彙の特徴が見られることを示した(1961)。Dominicus(4)

はトレドの助祭長で,先のGerardusの共訳者として知られている。

しかしながら「原因論」のラテン語訳の出生は明らかであるとしても,その基になった 原典に関しては,著者,成立年代,成立場所,そして原語さえも未知の部分が少なくなく,

諸説が入り乱れ,目下定説とすべきものはないと思われる。

中世を通じて,この書の起源(原著者)をめぐってさまざまな説が現れた。例えば,

Aristoteles(BC322段),Theophrastos(BC288/5喪),Avicenna(1037段),Algazel (1111段)等である。ところが13世紀のなかばにはアリストテレス著者説が優勢となり,

パリ大学の哲学部の授業科目の中にこの書が『純粋善の註解についてのアリストテレスの 書』の題名下にアリストテレスの著作として権威付けられている。しかしほどなく,二人 の著名なドミニコ会士学者が上説に反論をするdひとりはAlbertusMagnus(cll93 -1280)であり,いまひとりはThomasAqumas(1225-1274)である。AlbertusMag nusは,この書の原著者はユダヤ人哲学者のIbnDaoud,Abraham(clllO-1180)-

彼は上述のDominicusGundissalinusと共訳者でもあった-であるとなし,これに対し(5)

てトマス・アクィナスIま,プロクロスの『神学網要」のラテン語訳を読み,「原因論」と いう書は,プロクロスの「神学網要」からアラビアの哲学者によって「抜粋された」

(excerptus)アラビア語の書物であり,このアラビア語書物からラテン語に翻訳された,

とイリミしたのである。(6)

しかしトマスのこの発見は,上述のAristoteles著者説とTheophrastos著者説を退ける ものではあっても,AIbertusMagnusのIbnDaoud著者説やその他の説を退けるものと はならなかった。というのも「原因論」のアラビア語はざらに別の言語による原著を持っ ており(例えぱへプライ語),そこからアラビア語に翻訳されたとする可能性も否定出来 ないからである。

当時,Plotinos(c205-270)の「エネアデス」の第4,5,6篇の大部分がキリスト教 徒であるシリア人によってアラビア語に抜粋翻訳された後,『アリストテレス神学」

(T7ieo蛇jZzA”@だ脳)の題名のもとにGuillaumedeMoerbekeによって,このアラビ ア語からラテン語に重訳されたという事例もあるからである。事実,現存する「原因論」

写本にはアラビア語,ラテン語の他にアルメニア語とへプライ語のものまでもある。

ところで『原因論」の起源に関する今日の説はアラビア派とラテン派(へプライ派も含 む)の二派に大きく分かたれる。

アラビア派は,この書の著者は不詳で,9-10世紀に生きていたところのバクダッドの イスラーム文化圏の哲学者であるとし,さらに多分カリフのal-Mamumが832年に設立 した翻訳センター(ギリシア語文献をアラビア語・シリア語に翻訳)で研究に従事してい た学者であろうと推測する。この見解をとる者としてBardenhewer,Kraus,。,Alvemy,

Walzer,Anawati,Saffrey,Badawi等がいる。

これに対してラテン派は,この書が12世紀以前のアラビアの著作家によっては言及きれ ていないという事実から,この書は東方起源ではなくて,当時のラテン世界とアラビア世

(4)

28

界力§接する地,すなわち「原因論」のラテン語翻訳が行われたスペインのトレドか若し<

は,シシリー王国かの何れかで12世紀頃に著述きれたものであるとする。この見解をとる(7)

者に,Steinschneider,Kaufmann,Guttman、Duhem,Al6nso,Pattin等がいる。

2.問顎堤紀

「原因論」は西欧中世に新プラトン主義を伝えた中心的な一資料である。そこでこの書 の哲学史上の位置を理解するために,その前後の哲学史的状況を簡単に顧みておこう。以 下で問題とするのはProclos(412-485),『原因論』(9世紀-12世紀),Thomas AqumasU225-1274)の三者である。

これを見るために,一つの哲学史観を導入しておこう。それはジルソン説である。E GUson(1884-1978)は,西洋哲学史全体を,第一原因を捉える捉え方によって,「存在(8)

に対する善の優位の思想」と「善に対する存在の優位の思想」に二大区分する6

「善の優位の思想」は古代哲学の特徴である。例えば,第一原因をプラトンは「善のイ(9) uO OD デア」,アリストテレスIよ「自然全体における最高善」,プロティノスは「善一者」,そし てプロクロスも,後に見るように,同様に捉えているからである。

これに対して,「存在の優位の思想」は中世哲学に見られる。例えば,アウグスティヌ スは第一原因を「真1二存在するもの」と捉え,トマス・アクィナスも第一原因を「第一の 有」「存在そのもの」等と捉えているからである。

それでは,『原因論」は一体いずれの系譜に属するのであろうか。そして,また『原因 制は果たして定説どおりプロクロスの「神学網要」の「抜粋」であろうか。本稿ではこ れらの問題をめぐってテクストに従って明らかにしたい。

3.「原因論』の哲学史上の位置

トマス・アクイナスの哲学はアリストテレスの影響に劣らず新プラトン主義の影響も受 けていることが,近年各方面の研究によって益々明らかとなった。

ところで,新プラトン主義はトマスに-体どのような経路で及んでいるのであろうか。

それは,原典からのラテン訳を通しての外に,アウグスティヌスやポエティウス等の教 父哲学を通して,またアヴイセンナ等のアラビア哲学やユダヤ哲学を通して等々である。

それでは目下の問題に関わるプロクロスはどういう経路でトマスに流れ込んでいるので あろうか。

その主要経路は現存するトマスの諸著作から見れば二つある。一つはプロクロス段直後 の500年頃に成立したと言われるデイオニシウス.アレオパギタ文書である。そしていま 一つがこの「原因論』である。

しかし両者の性格には若干の違いが見られる。デイオニシウス・アレオパギタ文書はキ リスト教哲学圏で成立した文書であるのに対して,『原因論』はそれ以外の圏域(例えば,

アラビア哲学圏,もしくはユダヤ哲学圏)で成立した文書であるからである。

ところが,大きく見れば両者はイスラエルの宗教伝統に由来する哲学圏(創造思想を持 つ)で成立したと言う点では共通している。それゆえ両者共,古代ギリシア哲学圏で成立 したプロクロス哲学とは伝統系譜の上から,根本的には,区別されると考えるのが自然で あろう。吾々はこのように大きな視点から「原因論』の哲学史上の位置を見定めることが

(5)

「原因論」における善一者,有,知性者/29 できる。

Ⅱプロクロス哲学の善一者,有,知性

次に「原因論』の前後に位置するプロクロス哲学とトマス哲学を,特にそれらの「第一 原因」の捉え方の基本を,見ておかなければならない。はじめにプロクロス哲学である。

プロクロスにおいては,第一原因は「善」(て6.γαM')であり,かつ「一考」(T6gv)

である。

第一原因が善と言われるのは「すべてのものは善を希求する」という一般的事実に基づ いており,プロクロスによってその事実は次のように解釈きれる。.

まずここで言われている善とは万有の「目的因」であり,また「すべてのもの」とは

「存在者」「有」(て65γを存在者もしくは有と訳す)であると解釈される。ところで,存 在者は善を希求するのであるから,善そのものではない(善を希求するのは善そのものか ら欠落しているからである)。それゆえ,ここから善はすべての存在者の彼方にあり,す べての存在者を超越していることになる。

また,善は存在者すべてに分有されて内在している。なぜなら,善を希求するものはす べて何らかの仕方で善の一部を所有しているからである(「神学綱要j命題8)。

また,善は万有の「存在因」でもあるとされる(命題12)。

それゆえ,善は万有の「目的因」かつ「存在因」であると同時に,全存在者に「超越」

すると共に,これに「内在」する。これは「万有の根源」の性格である。こうして善は第 一原因とされる。

ところで,プロクロスにおいては「一者」もまた第一原因とされる。これも「この世界 にく多〉が存在している」という一般的事実を基礎にしている。彼はこの事実を考察して,

すべての多は何らかの意味で-を分有していると解釈する。なぜなら,もし如何なる意味 でも-を全く分有していないとするなら,そのものは「無限の多」「純粋の多」となり,

最早存在することすらできないからである。したがって,思考上はともかく現実には無限 の多は存在し得ないのである。それゆえ,多はすべて何らかの意味で-を分有するのであ る。ここに一が多に「内在」することが確認きれる(命題1)。ところで,「分有」の概念 がアリストテレスの現実態・可能態の概念と結び付けられて,「一そのもの」は現実態で あり,これに触発されて「一の分有」が生じるとされる。ここに「分有」即「生成」とさ れる(命題3)。「分有した-」は存在者に「内在する-」である。

それゆえ「-を分有したもの」(「多」)は「一そのもの」と明確に区別され(命題4),

また,「一そのもの」は「多」に先立ち,「多」は決して「一そのもの」に先立つことも同 格に並列することもないことが論証きれて,「-そのもの」の「超越性」が確立する。同 時に,また命題3と共に「-その'6の」は万有の「存在因」(「生成因」)であるとされる

(命題5)。

このようにして,「-そのもの」が「存在因」であり,「多」に「内在しながら超越」す ることが確立される。これは「万有の根源」としての性格である。この性格を持った形而

(6)

30

上学的な「一そのもの」を「一考」と訳すことにすると,「-者」は,「善」と同様に,第

一原因となる。

最後に,善はそれを分有するものを一つにする,また-つにすることはすべて善いとさ れ,そこから「善」は「一者」であるとされる(命題13)。ここに第一原因としての「善

(Mj

-者」力§その姿を現すのである。

さらに,「知性」(''o65)は「存在者」から発出し,「存在者」に先立たれるとされる

(命題101,命題161)。

ここでプロクロスの第一原因の特徴をまとめてみよう。それは「善」であり,「一者」

であるが,しかし「存在」(ODC、)でも「存在者」でもなく,さらに「知性」でもない (命題20)。この特徴は重要である。ここに,「善の優位」の哲学の特徴が典型的に見いだ

きれるからである。

Ⅲ、トマス哲学の善一者,有,知性

次に,トマス・アクイナスにおける第一原因を見よう。トマスの第一原因は周知の如く

「神」(Deus)と呼ばれている。これは何よりも先ず「第一の有」(primumens;ensを有

(13(1日

もしくは存在者と訳す)である。ここから神カゼ「純粋現実態」である,「第一作出因」で ある,「存在と本質が同じである」,また「存在そのもの」である等々が引き出される。さ

【、(18O9

らにまた,神が「善」・「最高善」であり,「-性」・「一者」であり,そして「第一の知性」

であることも引き出されてくる。

とりわけ,神が「第一の知性」であることはトマス哲学の重要な特徴である。トマスの

神は先ず「自己認識」をする。これ}よ神の根本的性格である(プロクロスや「原因論」で は第一原因はそのままでは如何なる仕方においても自己認識をしない)。

次に,神は一つの知性認識によって自己を認識するが,この時自己の内に自己自身の唯 一の可知的形象を発出する。神はこの形象によって自己と万物を認識する。この形象が Verbumとなる。そしてこの中に万有・被造物の範型であるイデアが存在する。そしてイ

デアが創造論の基礎となり,Verbumカゼ三位一体論の基礎となる。

もし神が知性でなければ上のようなことは起こりえない。それゆえ,神が知性であるこ とからトマス哲学の骨組み(創造論と三位一体論)が形成されると言うことができるであ ろう。したがって,第一原因が「知性」であることはトマス哲学にとって決定的に重要な

事柄なのである。

さてここで,トマスの第一原因の特徴をまとめよう。それは先ず,「第一の有」である。

同時に,それは「善」であり,かつ「-者」である。「善」と「一考」は,「第一の有」

の持つ二つの完全性であり,「第一の有」に同格に並列しつつ,しかしその哲学のうちで は中心的位置を「第一の有」に譲っている。これは「存在の優位」の哲学の特徴を端的に 示している。しかしこれだけに尽きない。トマスの第一原因はまた「第一の知性」でもあ った。つまりトマス哲学の第一原因は「有」即「善」即「-者」即「知性」である。

これを先程のプロクロス哲学の第一原因と比較してみるとその違いは一目瞭然である。

(7)

「原因劃における善一者,有,知性者/31

ここに両者の相違が,ジルソンの指摘通りにみごとに現れていることが確認される。

Ⅳ.「原因論』の善一者,有,知性者

1.四つの「基本的な原理」と三つの「上位の存在」

では,「原因論』は一体どうであろうか。

結論を先に述べるなら,「原因論」は両者の中間に位置している。なぜなら,同書では,

第一原因は「善」であり「-者」であり「有」「存在者」(同書でも,ensを有もしくは存

在者と訳す)であるが,決して「知性」ではないカコらである。

そこで,次に「原因論」を具体的'二検討してみなければならない。

「原因論』では四つの「基本的な原理」を考える。第一は「第一原因」(causaprima),

第二は「知性者」(mteIligentia)-つまり知性-,第三は「魂」(anima),第四は

「自然」(natura)である(命題8)。

これらの四つはすべて存在(esse)ないし有(ens)である。これらのうち,第一から 第三を「上位の存在」(essesuperius)と呼ぶ。上位の存在は三つに区分されるが,その

区分の基準は「永遠」と「時間」である(命題2)。

第一は,「永遠の上にかつ永遠の前にある存在」である。これが「第一原因」である。

これはすべての存在の原因であり,下位のすべてのものに存在と有を与える。これはま

た「永遠」の原因でもある(2,19-20)。更にこれIよ「純粋の,-なる,真の存在」(esse

purumetunumetverum;4,40;16,139)や「ただ存在のみ」(essetantum;8,90)

と言われる。このように形而上学の中心となる「第一原因」を存在と捉えた点に,既にプ

●●●●●●●●

ロクロスとの最も大きな相違が,したがって「原因論」の存在理解の独自性が見出される。

第二は,「永遠と共にある存在」である。これが「知性者」である。なぜなら,知性者 は永遠と共に延長し,変化きせられることも破壊されることもないからである(2,

21-25)。この第二Iま,プラトンのイデアと同様,イデアの不変性・自己同一性を意味する 存在(つまり,「常にある」と言う意味の存在)をも含意している。その上,知性者は

「第二の存在」(essesecundum;2,21)或いは「獲得された存在」(esseaquisitum;2,

23)と言われる。

ところで第二の存在はまた「造られたものの中で第一のもの」(primarerumcrea tarum;4,37),「被造の第一の存在」(essecreatumpnmum;4,44)と言われる。しか

もかかる被造の存在は-にして単純であるが,多数化される(命題4)。

第三は,「永遠の後に,かつ時間の上にある存在」である。これが「魂」である(2,

22)。なぜなら,魂は知性者よりも多くの刻印を受入れるので永遠より下にあり,また時

間の原因であるゆえに時間の上にあるからである(2.26)。

2.有

次に,「有」(ens)である。これは,「存在」(esse)と明確な存在論的区別がなされた トマスにおけるような概念ではない。しかしこの概念の基本的意味は「創造」に関わる。

『原因論」では有を先ず二分する。「第一の有」と「被造の有」である。前者は第一原因

(8)

32

を指し,「創造者なる第一の有」(enspnmumcreans;15,132)と言われる。つまり第 一の有は「創造者」である。

ところが後者のうちで第一のものは「第一の被造の有」(ensprlmumcreatum;15, 131)あるいは「第一の知性的な有」(enspnmumintellectibiIe;15,134)と言われる。

これは先述の「知性者」を指す(15,130)。

また「被造の有」のうちで第二のものは「第二の可感的な有」(enssecundum sensibile;15,130)と言われ,「物体的事物」を指す。

ところで,「第一の有」は「第一の知性的な諸有」や「第二の可感的な諸有」の「尺度」

(mensura;15,135)と言われる。尺度とはこれらの諸有を「造る,創造する」(creare;

15,135)ことを意味し(命題15),また「第一の有」が「造る,創造する」とは「あらゆ るものに有を与える」(dareomnibusrebusens;17,148)ことであると規定される。さ らにまた,「原因論」では第一原因は「真なる能動者」(agensverum;19,160)である と共に「真なる支配者」(regensverum;19,160)であるとも言われている。これらは,

「第一の有」が「諸原因の原因」(causacausarum;17,148)であることを意味している。

したがってこう言われている。「それ(=第一原因)は知性者と魂と自然と残りのもの の原因である」(8,86)と。それゆえ,第一原因が「第一の有」と言われることの意味 は,「他の諸有を創造する者」「他の諸有の存在の原因」という意味であって,この場合決

して知性者の持つイデアの不変性・自己同一性を意味する有・存在ではない。

ところがプロクロスでは有・存在者は決して第一原因ではない。少なくともプロクロス では第一原因は自らの「有・存在者」を直接他に与えることはない。自らの有・存在者を 直接他に与えるのは第二の基本的な原理の「有・存在者」(r6a1′,『神学綱要」命題161)

である。それゆえこの『原因論」の創造思想の構造は,プロクロスでは第二の基本的な原 理以下に当てはまるが,第一の基本的な原理を含んだ全体には当てはまらない。

ところがトマスの創造思想の構造全体にはそのまま当てはまる。なぜなら,トマスにお いては,第一原因が「存在そのもの」であり,それが他のものに存在を付与することが

「創造」であるからである。

以上から,ここに「原因論』はプロクロスの『神学網要」の単なる抜粋要約ではないこ とが確認されるであろう。そして第一原因,有,存在,創造の思想に関する限り「原因 論」はプロクロスから離れむしろトマスに近いと言えるであろう。

しかし『原因論」の創造には「意志の自由決断」の考え方が見あたらない。したがって,

「存在と有を創造する」という思想に限ればトマスに似ているが,創造の「意志」の点で はトマスほど洗練きれた創造論ではなく,むしろプロクロスの必然的発出論に近いとしな ければならないかもしれない。

3.善一者

さて次に,「善」と「-」・「一者」の思想を見よう。

「原因論』では第一原因は「善」とも呼ばれている。「第一原因であるところの純粋の善 性」(bonitaspuraquaeestcausaprima;8,79)と言われる善性が他のすべての事物に 伝達されていく。「第一のものは諸事物を造り,それらの諸事物の上へ諸善`性を完全な影

(9)

『原因論」における善一者,有,知性者/33

饗で影響せしめる。……それゆえ,〈第一の善性〉は全世紀を諸善性で満たす」(21,

169-170)とされる。

また第一原因は「-」とも呼ばれている。第一原因は「純粋で真の-」(unum,purum verum;9,95-96)であり,これから知性者が発出する。また,「純粋で真の-」(第一原 因)に近づけば近づく程,知性者の-性(unitas)はより強力になる(16,142)。また

「第一の-」(unumprimum)は「真なる一」(unumverum)であって,他の諸々の-性 の原因であり(31,218),また「真なる純粋の-」(unumverumpurum)は他の諸一性

を創造し獲得させる(31,219)。

また第一原因は「究極の単純性において単純であるので純粋の-性である」(20,163)

とされる。

そして最後に,「単純なるものは善性であるところの ̄である」。そして「-性は善性で あり,善性は一つのものである」とされて,「-性」・「-者」と「善性」・「善」が同一と

される(20,164)。

このように見てくると,ここに明らかに形式の上ではプロクロスの「善」即「一考」の 思想が見出される。したがって,善一者の思想に関する限り,確かに定説どおり「原因 論』はプロクロスの「神学網要」の抜粋要約であると言うことができるであろう。

4.知性者

最後に,知性者であるが,これは『原因論」では第一原因から発出したものであって,

第一原因と区別きれ,第一原因に劣る(なぜなら,知性は少なくとも認識主体と認識対象 に二分され,-でなくなり多となるからである)。これはほぼプロクロスの思想である。

これに対して,トマスでは第一原因は同時に知性でもある。そしてこの知性内に発出す るイデアも第一原因と同じ「神の存在」(essedivinum)を持つ。なぜならトマスにおい てはイデアは「神の本質」(essentiadivina)であるからである。この点で『原因調は

トマス・アクィナスと明確に区別される。

V・結論とその吟味,残る問題

以上より『原因調は第一原因の捉え方に関してはプロクロスとトマス・アクィナスの 中間形態であるとすることができるであろう(第1表参照)。そして「原因論』は『神学 綱要」の単なる抜粋ではなく,題材はこれに依拠しつつも「存在と有」の創造思想から

「第一原因」に新しい解釈が加えられて書き直されたところの,むしろ「独自の存在論の 哲学」の書であると結論することができる。とは言え,存在・有をその哲学の中心に据え たという点では,「存在の優位の思想」の系譜に属すると結誌することができるであろう。

だが,この結論は次の三つの点から慎重に吟味されなければならない。

ひとつは,第一原因を有で存在と捉える『原因論』の思想源泉は何かという点である。

この考え方はプロクロスはじめ古代の新プラトン主義の主流には見られない。ではこれ は一体何処から来たのであろうか。これには二つの見方が成り立つ。

一つの見方は,「原因論」の思想は古代哲学の起源ではなく,イスラエルの思想に由来

(10)

34

し,創造思想を中`LPテーマとしている,とする考え方である。ここから「原因論」は,根 本的には,古代哲学と区別きれた立場にある哲学であることになる。これはジルソンの考

え方を延長徹底させたものである。

いま一つは「原因論」の思想は古代哲学の起源を持つとする見方である。古代哲学の伝 統にも,有や存在を第一原因となす哲学があった。だがこれは結局古代では主流の哲学と はならなかった。しかし中世になって,イスラエルの創造思想の伝統と接触した結果,今 度はこれが主流となる。『原因論」はこの系譜に立つ。この考え方に近い-人としてパイ

アヴァルテースをあげることができるであろう。

果たして両者のいずれの見方が妥当するのであろうか,今後のさらなる研究をまたねば

ならない。

第二の吟味すべき問題点は「第一原因」と「有・存在」の関係である。プロクロスでは 第一原因は有・存在ではなく,それを超越していた。ところが「原因論」とトマスでは第 一原因は有・存在である。ここにプロクロスは「原因論」・トマスと区別される。さて,

ここでもし前者に後者を批判苫せればこう言うであろう。「「原因論jやトマスの言う第一 原因は吾々の言う第二原因に相当する。もっと探求を続けて第一のく有・存在〉をも超越 する真の第一原因まで徹底しなければならない」と(第Ⅱ表参照)。これは要するに「第

一原因は存在・有であるのか,それともそうでないのか」という問題に還元される。ここ では存在・有の意味が明らかにされなければならない。

第三の吟味すべき問題点は「第一原因」と「知性」の関係である。プロクロスでは第一 原因は知性ではなく,それを超越している。「原因論』の第一原因も,既述の如く,知性 者を超越している。ところが,トマスでは第一原因は知性でもある。この点でトマスは前

二者と明確に区別された。

ここでも同様に前二者にトマスを批判させればこう言うであろう。「トマスの言う第一 原因は吾々の言う第二原因に相当する。もっと探求を続けて第一のく知性〉をも超越する 真の第一原因まで徹底しなければならない」と(第u表参照)。この問題も要するに「第

一原因は知性であるのか,それとも知性でないのか」に帰着する。

これらに対しては,ジルソン的立場からひとまずこう答えられるであろう。トマスの第 一原因は古代の新プラトン主義の第一原因ではない。トマスの第一原因はイスラエルの伝 統の「創造する神」(すべての完全性を備えた神)に起源するのであって,古代ギリシア の伝統の神に起源するのではない。両者は第一原因に関して系譜が異なっている。したが

って単純には両者の比較はできないと。

だが,これはこう答えて済む程単純な問題ではない。なぜなら既に古くは新プラトン主

義の最初期においてこれは難問ときれているからである。例えばプロティノス(270段)

は,アリストテレス,ストア,アバメアのヌメーニオス(2世紀)等の「知性や理性とし

ての神」{よ第一原因(善一者)ではないと論じているのである。

それゆえ吾々は,これらの古い問題を,中世哲学研究の問題としてもう一度見直してみ る必要があるのではないかと思われる。

(11)

『原因論』における善一者,有,知性者/35 一註一

(1)例えば,JHirschberger,G"dWhにde7PノhjjosOPAだ,AltBア丁…皿刀djMiZZeと"e月Freiburg, 1976,s、313;EGilson,Hな[CDノ〃Chrds2jmnPAjZOsOPハyi〃ZAEMjZfdとAgほs、London,1955,

p、235.

(2)0.Bardenhewer,Die〃emo-a砥ZoZeZdsUAe&A,う(/bUb6erdZzs花i"gGme6eたα宛"Z皿"〃dem 1VZzme打LiberdecaUsis,1882,FreiburgimBreisgau

(3)MSteinschneider,Qz2abglasli6mmmhe6meomwi〃bi6JjOZhemBodZejhz"41852-60,

BerIin

(4)APattin,OzAey-descノカ可zAere〃。e正mzZGrm〃Ae2Liberdecausis、ZWsとA,Z/rzADo7FYb sq/5e23,1961,pp503-26.また同著者のLeLi6erdeEausis,TIノヒメsピルi/2m。「mbsq症28,1966,

pP90-102

(5)これはトマスと親交のあったと言われるGuillaumedeMoerbeke(c、1215-1286)によって1268年

に翻訳きる。

(6)Sm2rTiThom“deA9m打OS妙〃Li6mmdeQznzsdsEエア@s"'0,parHD・Saffrey、0.P、1954, Fribourg,P3(L3-10).『原因劉の抜粋説はトマスに起源する。

(7)以上はDJ、Bra、。,mどBooAq′Ch“GsbMiIwaukee,1981,pp、4-16.及びW・Beierwaltes,Der KomentanazumLi生了deczz函dsaIsNeuplatonischesElementinderPhilosophiedesThomas vonAquin,PAiJbsqPAisEAeR8d"LZS亡Aqznl963,S192-215に負う。

(8)E・Gilson,L坤而rdel`zPノWb”Aiem鍼…ZebParis,1978,p55.

(9)Platon,R“508el-3 00AristoteIes,MbZ、982b7.

(lDPlotinos,E、11,7;Ⅵ’9.

(1’Augustinus,CbぴVⅡ,11,17.Etinspexiceterainfrateetvidinecomninoessenecomnino nonesse:essequidem,quomamabstesunLnonesseautem,quoniamidquodesnonsunt・

ItZemmz膠ァF趣,quodincommutabilitermaneL(引用文中のイタリックは箪者。)これについては 山田晶「在りて在る者』(創文社,1979)ppl95-211参照。

(13拙誇「プロクロスにおける善の超越性と目的因」(「古代哲学研制】OG古代哲学会編,1988,pp、

31-41)。

00拙詰「プロクロスにおける善一者」(「倫理学研究』第20集,関西倫理学会編,1990)。

OsThomasAquinas,STI,q、3,a、1,C及び山田晶訳「神学大全』(中央公鎗社,1975)p、142か註 (7)及び拙論「トマス・アクイナスの形而上学研究H--primumensとsimpIicitasDei-」(「高 知大学学術研究報告』第38巻,1989,pP19-50)を参照。

(1QS正1,q、3,a、1,c

⑰i6jzfq、6,a2.c、

(l8i6idq、11,a、3et4.

(I9Ii6id.q、2,a3,c;q、12,a2,c・

剛i6忽.q14.

(2,拙論「トマス・アクイナスにおける御言とイデア」(「中世思想研究」第23号,中世哲学会編,

1981,ppl32-143)。

⑫プロクロス,『原因誌』,トマスのそれぞれの原因を比較すると第1表となる。

第1表 第Ⅱ表

プロクロス 「原因詮」 トマス プロクロス 「原因詮」 トマス

第一原因 第一原因 第一一原因-1。

第二原因

プロクロス 「原因論」 トマス

第一原因

善者 善者 有・存在者

存在

善者 有・存在者

存在知性 第二原因 有・存在者

存在

知性 知性者

プロクロス 「原因論」 トマス

.第一原因第二原因

善者

有・存在者 存在 知性

善者 有・存在者

存在

知性者 善者 有・存在者

存在知性

(12)

36

四「原因誌」は,アラビア語写本では31の命題に分かたれており,ラテン語写本では32の命題に分か たれている。そのわけは,ラテン語写本において第四命題が二つに分割きれているからである。し たがって,第四命題までは「命題4」と記される。そして分割ざれた後半部は「命題4(5)」と,

第五命題以下は「命題5(6)」というふうに,括弧でラテン語写本の番号が入れられて記される習 慣にある。但し,括弧の部分が省かれたり,「命題」が省略苔れ数字だけが記されることも少なくな

“いi原因劃の各命題は「項」に細分きれて,その最初から通し番号附けられている(1-219)。 そこで本稿では,項番号を必要とする場合には,(5,59)のように,,命題番号の後にコンマを入

れて項番号(上例では59)を記入することにする。

(2,Platon,PAaed尻247c3-e6;Phaed、78b4-79a5等。

(2QPlotinos,EmLV、6〔24〕・田中美知太郎,水地宗明,田之頭安彦訳『プロテイノス全集」第三巻

p498の解説参照。 〔筆者・高知大学教授〕

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