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プラトンの宇宙論と理性主義

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Academic year: 2021

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(1)プラトンの宇宙論と理性主義. 矢内 光一. Plato′scosmologyandRationalism KoichiYANAI. 1. プラトンの『ティマイオス』は自然哲学・宇宙論を扱った作品である。しかし、その具体的な内容は、 われわれにとって馴染みにくく、奇妙・奇異に感じられる面が多々あると言えるであろう。そこで描かれ 主張されているプラトンの自然は、突き放した言い方をすれば、古色蒼然たるものであり、現代のわれわ れが普通に懐いている自然のとらえ方と大きく異なっており、それをそのままの形で認めることはできな い。しかし、『ティマイオス』がヨーロッパ思想史において重要な位置を占めていることは疑えない(り。そ れは新プラトン派にいたるまでの以後のギリシア哲学の展開に全般的な影響を与え、また、その影響は、 ヨーロッパ中世、少なくともルネサンス期にまで及び、さらに、哲学史のみならず、宗教史・宗教思想史、. 科学史・科学思想史においても、きわめて大きいものであると言わなければならないであろう。 『ティマイオス』の自然哲学・宇宙論は、そのなかに不死なるものとしての神々をも組み入れた、神々. の体系をも含むものである。プラトンはその体系を、宇宙全体を1つの個体性をもった神とし、諸天体を 神々とする、新たな体系として打ち出している。そゐ体系を構築するさいにプラトンは、伝統的神々を扱 テオゴニア一. った従来の神々誕生論(それをプラトンは、ウーラノスとゲ一に始まり、オーケアノスとテーテユース、 クロノスとレアー、ゼウスとヘーラーへと続く系譜としてまとめている)にも眼をくぼり、それを拒否せ ず、そこで扱われている伝統的神々を排除してない。逆に、彼自身の宇宙論全体のなかでクーラノス(天・. 宇宙全体)とグー(大地)に枢要な地位を与え、それらを従来の神々誕生論において冒頭に位置するウー ラノス(天空神)とグー(大地神)と同定することによって、神々誕生論におけるウーラノスとゲー以下 の伝統的神々を丸ごと包摂した神々の新たな体系を構築している。それは、自身が主張する神(天・宇宙 全体)と神々(諸天体)を上位に置き、伝統的神々をその下に位置づけ、同時に、上位の神々と下位の神々 をウーラノスとゲーを結節点として接合することによって神々全体を連続させた、神々の包括的体系であ る(2)。このことは、プラトンがヘシオドスの『神続記(テオゴニアー・神々誕生論)』にみられるようなギ リシアのそれ以前の神々誕生論を視野に入れ、それを取り込むことによってそれに取って代わるものとし て、神々の新たな体系を構築しようと意図していたということを意味している。さらに、プラトンの宇宙 論全体は、不死なる神々と可死なるものども(人間、動物、植物)を含む包括性を有しており、また、神々 を上位に置き、. 連続させる構造をももっている。このことは、プラトンが、神々を上位・中軸に据えて、世界を1つのま とまりをもった体系として示そうと意図し、神々を中心に置いて世界を統一的にとらえる新たな世界観を 提示しようとしていたことを意味している。プラトンが神々を中心に据えたこの新たな体系を構築した後、. 水星、金星、火星、木星、土星の5惑星のギリシア語名称がすべて出そろい(3)、それぞれ、ヘルメースの 星、アプロディーテーの星、アレースの星、ゼウスの星、クロノスの星と呼ばれるようになった(それら の神々に対応するローマの神々の名前が、英語その他の欧米語の惑星名になっていることはよく知られて いるであろう)。いくぶん比喩的に言えば、それらの伝統的神々は新たな体系のなかで昇天したのである。 プラトンのこの新たな体系・新たな世界観は、その後の宗教史・宗教思想史、さらに、神学の形成一般に.

(2) 24. 矢内 光一. 大きな影響を与えたと考えられる(4)。 さらに、科学史・科学思想史の視点から見ても、『ティマイオス』の影響はきわめて大きいと言える。こ の点に関して簡単に触れておけば、G グラストスは『ティマイオス』を論じた著書のなかで、科学史家 A.コイレの「<コスモスの崩壊>ということが意味しているのは、階層的に秩序立てられた有限な世界構 造という観念、質的であり存在論的に区分された世界という観念が破壊され、それに代わって、開かれて おり、不定であり、さらには無限でさえある宇宙、同一の宇宙法則によって1つに結ばれて支配されてい る宇宙という観念が据えられたということにほかならない。それは、天と地という2つの世界を区別し相 対立させる伝統的な考え方とは正反対に、すべてのものが存在の同一レヴェルにあるような宇宙である」. (A.Koyre,Mei甲7”icsandMeasurement:EssLVLSintheScientqicRevolution,London,1968,P.20)という記 述を取りあげて、コイレを次のように批判している。「ここに記されている<コスモス>はまさしく プラトンのコスモス(PJαわ房c cosmos)に他ならない。それは、コイレが見過ごしているように思われる 事実である。彼はそのコスモスをもっぱらアリストテレスの創出によるものとして措き、それを破壊した ガリレオをプラトン主義者として分類している。確かに、ガリレオの見方にはプラトン的な諸特徴がある。 しかし、ガリレオが『階層的に秩序立てられ』、『閉じた』、2つに分けられた宇宙に対して異議を申し立て たさい、彼は(それに気づいていたとしても、気づいていなかったとしても)、アリストテレスに対してと まったく同様にプラトンに対して戦いを挑んでいたのである」(GregoけVlastos,PJ如ゝU〃ルer∫e,Sea出e 1975,p.62,n.102)。筆者は、グラストスの「プラトンのコスモス」の科学史における位置づけは基本的 に正しいと考えている(5)。『ティマイオス』の自然哲学・宇宙論は、近代科学以前において自然世界・宇宙 を認識するさいの原型・模範(パラデイグマ)となったと考えられ、近代科学が形成されるなかで克服さ れた、近代科学以前の支配的なパラダイム・概念枠であったと言っても過言でないであろう。 しかし、『ティマイオス』がヨーロッパの哲学史、宗教思想史、科学思想史において大きな位置を占めて いるにしても、本稿は、『ティマイオス』以後(その影響やそれとの対決、最終的な克服の経緯・事情など) を具体的に論じることを課題にしようとするものではない。『ティマイオス』が大きな影響を与えたとすれ ば、影響を与ええただけの然るべき理由があったと考えられ、その理由は何よりもまず『ティマイオス』 そのもののうちに、すなわち、『ティマイオス』で示されているプラトンの思想と具体的な諸理論のうちに、 探られなければならない。しかし、『ティマイオス』そのものをとらえること自体が1つの大きな課題とな る。本稿は、『ティマイオス』そのものの自然哲学・宇宙論の基本的な特徴の】つと考えられる理性主義を 一定の仕方で取りあげ、それについて論じようとするものである。 注 (1)『ティマイオス』のヨーロッパ思想史における影響の大きさ・重要性は研究者がしばしば強調するところである。 1例を挙げれば、DesmondLeeによる『ティマイオス』(および『クリティアス』)の英訳に付された導入解説(Plato:. TimaeusandCritias,London1977,P.7)にも、その簡単な記述が見られる。 (2)この点については、拙稿「プラトンの宇宙の時間性と空間性(三)」『筑波大学哲学・思想学系論集』5(1979年)、 pp.43−56を参照されたい。 (3)ギリシア語資料中、『ェピノミス(法律後篇)』987b2−C7が5惑星すべてのギリシア語名称が挙げられている最古 の箇所である。『ェピノミス』は、最晩年のプラトンの作またはオプスのビリッボスの作とされる。同書は、天体 神学の書であると言ってさしつかえない。 (4)因みに、「星辰が人間の生活に影響を及ぼすj とし、「天体の位置から地上の事象を予言することができ、天体の 配置が変化することに伴って天体の人間への影響が変化する」とする占星術(D.R.Dicks,助ゆG′℃e尾月∫grO〃0〝ぴわ Aristotle,London,1970,PP.8,145)と、ギリシア世界はもともと縁がなかったと考えられているが、パピュロニ アに由来する占星術がヘレニズム時代にはギリシアでも流行したことが知られている。『ティマイオス』では天体 に重要な位置が与えられ、天体と人間は互いに関係づけられているが、しかし、『ティマイオス』そのものには占 星術的要素は見られず、天体と人間の関係づけは占星術的なものではない。『ティマイオス』におけるその関係づ けは、天体の運行の原因を認識する営みが人間の知的あり方を向上させるとするものであり、天体は人間によって.

(3) プラトンの宇宙論と理性主義. 然るべき仕方で認識されるべきものとして位置づけられており、天体が直接に人間の生活に影響を及ぼすとは考え られていない。しかし、天体に重要な位置を与え、神々の昇天をもたらすことにもなったプラトンの新たな体系は、 その後のギリシアにおける占星術の流行とまったく無関係であったのではなく、事実として、その流行の要因の1 つになったことは考えられる。 (5)vlastosの同書について筆者はかつて書評を行ったことがある。日本西洋古典学会編『西洋古典学研究』xxv(1977), 岩波書店,pp.134−136を参照されたい。. 2. すでに触れたように、『ティマイオス』の自然哲学・宇宙論は今日のわれわれには馴染みにくい面が多く、 また、解釈上、問題にされてきた点も少なくない(6)。『ティマイオス』そのものに踏み込む前に、予め、そ. の自然哲学・宇宙論が今日のわれわれにとって分かりにくいものとなっている要因について考えておけば (それはまた、『ティマイオス』の基本的特徴の叫端に触れることにもなるが)、その1つとして、『ティマ イオス』の自然哲学・宇宙論が有している統合性を挙げることができるであろう。それはまた、今日のわ れわれがその説明を行うさいの難しさの原因でもあると言ってよい。現代では学問・科学の営みは分化し ており、研究はそれぞれの対象額域にそって進められている。例えば、大きな枠組として、自然科学、社. 会科学、人文科学の3分野があり、世界が自然、社会、人間の3つの面からとらえられ、それぞれに独自 の仕方で対象と問題が設定され、独自の方法を用いて研究が進められている。こうした学問の体制は然る べき根拠があって成立していると考えなければならないが、しかし、われわれはその体制に馴染んでいる ために、それとは異なった世界のとらえ方に接すると違和感を覚えることになる。『ティマイオス』では、. 自然と人間が1つの視野のなかで一定の仕方で連続性を有するものとしてとらえられており(さらには、 社会までもが視野に置かれていると言ってよい(7))、また、今日のわれわれであれば個別的な形で懐くであ. ろう、哲学、科学、宗教、人間への関心が1つのまとまりを1もったものとして結び付けられている。じっ さい、プラトンは『ティマイオス』で、自然と人間の領野を分離したままにしておくのではなく、一定の 仕方で結合させて扱っており、また、哲学、科学、宗教、人間に関わる問題をバラバラに放置するのでは. なく、一定のまとまりがある仕方で扱っており、その自然哲学・宇宙論は1つの統合性をもつものとなっ ている。自然と人間は独特の仕方で関係づけられており、哲学、科学、宗教、人間に関わる諸要素は1つ の枠のなかで相互に関連づけられながら位置づけられている。その結果、『ティマイオス』は、自然を論じ ることが同時に人間を論じることとも繋がり(8)、また、哲学的営みは同時に科学的営みであり、宗教的営 みであり、さらには人間の本性に即した営みであるということを基礎づけるものともなっている。そして、. その自然哲学・宇宙論が統合的なものであるということは、そこで扱われている1つの事物・事象が、哲 学、科学、宗教、人間といった視点から多重的にとらえられて意味を与えられているということを含意し ている。『ティマイオス』に見られるこうした統合性と多重的意味付与は、われわれにとって馴染みのある. ものではない。『ティマイオス』では、自然世界は不死なる生き物(神=宇宙全体、神々=諸天体、伝統的 神々)と可死なる生き物(人間、動物、植物)からなり、自然は生き物の世界としてとらえられている(う えに述べた、プラトンが構想した神々の新たな体系は、このうち、不死なる生き物=神・神々として位置 づけられている)。多重的意味付与に関して言えば、例えば、宇宙全体はたんにそれであるだけにとどまら ず、一個の個体性を有する生き物であり、たんなる生き物ではなく不死なる生き物であり、不死なる生き物. はまた神であることから神であるとされている。. さらに、宇宙全体は人間とも関連づけられている(9)。宇. 宙全体ということで、プラトンは、それが同時に、生き物であり、神であり、さらに、人間と関連づけら れたものであるととらえていることになるが、この多重性は今日のわれわれの世界の諸カテゴリー化ない し分節化の基礎にある考え方とは別の考え方によるものであり、われわれにとっては奇異な印象さえ与え るものであるであろう。しかし、そのことは、そうした統合性や多重性をもたらしている、その基礎にあ. る考え方をとらえなければ、『ティマイオス』の自然哲学・宇宙論を理解することはできないということを. 25.

(4) 26. 矢内 光一. 意味している。 『ティマイオス』の自然哲学・宇宙論をとらえるためのアプローチの仕方についても考えておく必要が あるであろう。今日のわれわれに馴染みにくい考え方や理論をその内部に分け入って理解し、プラトンの 言わんとするところをプラトンに即して把握する作業が欠かせないこ れとともに、そのようにして把握された考え方を言わばその外に立って外からとらえ直し、それをより一 般的な地平においてとらえ直す必要があるであろう。これらは必ずしも明確に分けられるわけではないも のの、過去の哲学者やその哲学を取り上げる場合に一般的に言えることでもある。しかし、特に『ティマ イオス』の場合、自然に関するその具体的な理論は、近代科学以後のわれわれにとってそのままの形で認 められるものではない。外に立ってとらえるさい、プラトンの思想を「暴いている」という受けとめ方を されることも考えられる。プラトンの「理解」に徹しようとする者からすれば、あるいはプラトンの信奉 者からすれば、それは好ましいことではないであろうが、しかし、外からとらえ直す作業を経ることによ って、『ティマイオス』の自然哲学・宇宙論の全体を支えている基本的な考え方がより明らかになり、『テ ィマイオス』のもつ今日的な問題性や哲学的意義を検討する場が開けてくると考えられるであろう。以下 では、『ティマイオス』に踏み込んで、その考え方の一端を取り上げる。 注 (6)『ティマイオス』に関しては、プラトン直後以来、論争の的になってきた解釈上の大きな問題がある。『ティマイ オス』で世界はデーミウールゴスによって創造され生成した(c£e.g.†如OV郡28b7)という叙述がなされているが、 世界は生成したという、その叙述を文字通りに取り、世界はかつて現実に生成したとプラトンは考えていたと解す る(時間的解釈)か、それとも、プラトンの真意は文字通りのところにはなく、かつて現実に世界の生成があった とプラトンは考えていなかったと解する(非時間的解釈)かをめぐって、古代において侃侃詩語の論争がなされ、 現代でも論じられている問題がそれである。ここではこの解釈上の問題に踏み込まないが、この間題を中心にした 『ティマイオス』の解釈は、特に新プラトン派の学説形成に大きな影響を与えたと筆者は考えている。この間題に 関する古代解釈史・論争史のMatthiasBaltesによる研究に対する筆者の書評を参照されたい(中世哲学会編『中世 思想研究』xxI(1979)pp.212−218および『中世思想研究』xxII(1980)pp.163−169)。 (7)このことは、『ティマイオス』の序論部分(27a2−b6)、『クリティアス』(108a6)から、プラトンが(人間の自然 を含む)自然を扱った『ティマイオス』の後に、『クリティアス』、『ヘルモクラテス』と続け、全体として自然・ 人間・社会を扱う三部作を構想していたと考えられることからも推察される(ただし、『ティマイオス』だけが完 成し、『クリティアス』は途中、しかも、1つの文の途中で中断し、この三部作構想は実現しなかった)。三部作構 想と『法律』の関係についてはF・M・Cornford,Plato左Cosmology,London1937・p・1:P・2n・1,pp・6−8を参軋 (8)この点は、『パイドン』における若き日のソクラテスの「経験(パテー)」(アナクサゴラスの自然哲学への期待と 失望、自然哲学のあり方に関するソクラテスの構想とそれの実現の断念)(タカd.97b8−99c9)と関係づけられてよ い。『パイドン』の同箇所でソクラテスは、アナクサゴラスの自然哲学(特に、そのヌース説)は人間の生き方を 説明するものではないとし、その理由をその自然哲学が前提にしている「原因」の考え方のうちに見出してそれを 批判している。『ティマイオス』では自然哲学という自然を論じる営みが人間のあり方・生き方を考察する営みと 一定の仕方で関連づけられている。『ティマイオス』は、ソクラテスによって語られた構想を一定の仕方で実現し ようとするものであると見ることができる。 (9)生き物とされる宇宙と人間とは、形態的にも機能的にも、類比的にとらえられ、マクロコスモス、ミクロコスモ スとしてとらえられている。もとより『ティマイオス』で「マクロコスモス」、「ミクロコスモス」という言葉が用 いられているわけではないが、そこにはマクロコスモスーミクロコスモスのとらえ方が典型的な形で見られる。宇 宙と人間がマクロコスモスとミクロコスモスとして類比的にとらえられたうえで、さらに独特の仕方で関係づけら れていることに関しては、拙稿「プラトンの『ティマイオス』における宇宙と人間の関連構造」(『横浜国立大学 人文紀要第1類哲学・社会科学』29(1983),pp.49−65)を参照されたい。. 3. 『ティマイオス』の本論は「宇宙(コスモス(10))の生成から‥・人間の自然(ビュシス)にいたるま.

(5) プラトンの宇宙論と理性主義. で」(27a5−6)を扱うとされ、そこでは実際に、宇宙(全体としての宇宙)、そのなかに位置づけられる天 体や物体・物質をはじめとする自然世界の諸事物・諸事象、そして、人間が取り上げられて論じられてい る。『ティマイオス』の主題が自然(ビュシス)であることは特に言うまでもない自明のことであるが、し かし、自然がどのような視野・展望のなかでとらえられているかをまず考えておく必要がある。. 『ティマイオス』では人間も取り上げられているが、しかし、そこで論じられているのは、「人間の自然」、 あるいは、自然的存在としてとらえられた人間であり、社会的存在としての人間が直接に扱われているわ けではない。しかし、社会的存在としての人間と自然的存在としての人間は互いに無関係のままに置かれ ているのではなく、むしろ、社会的存在としての人間を視野に入れ、その基礎をなすものとして、自然的 存在としての人間が位置づけられて、人間の自然が論じられている(11)。この考え方の前提には、人間には もともと具わっている一定の揺るぎない自然(ないし、自然なあり方)というものがあり(12)二 さらに、人. 間の生き方・社会のあり方は人間の自然を基礎にして把握されるべきであるという考え方があると言って よい(「社会のあり方」は、プラトンの場合、具体的には特に「ポリスのあり方」である)。こうした考え 方では、人間の生き方・社会のあり方は多様でありうるし、現実に多様であるが、それに対して、人間の 自然は一定の揺るぎないものであり、そして、そうであるからには、人間の生き方・社会のあり方も、人 間の自然に即したものであるべきであると主張されることになり、逆に、それに反した人間の生き方・社 会のあり方は、人間の自然を板子・拠り所にして批判されることになる。.人間の自然は、揺るぎないもの. としてその存在性がとらえられているが、同時に\人間の生き方・社会のあり方に方向性を与える規範性 をもつものとされていると言える。 しかし、人間の自然を揺るぎないものとしてとらえ、それを拠り所にして、人間の生き方・社会のあり 方を論じることになれば、人間の自然を具体的にどのような形でとらえるかが重要な問題となる。人間の 自然といっても、それのとらえ方は一通りであるわけではない。例えば、人間の自然を理性的であるとこ ろに認め、理性的であることが人間の自然に適ったこと、つまり、人間的なことであるととらえることも できれば、人間の自然を感情や情緒に認め、感情的・情緒的であることが、人間の自然に適った人間的な ことであると見ることもできる。これらのとらえ方は大きく隔たっており、相対立していると言える。し たがって、人間の理性をある一定の形でとらえるのであれば、そうとらえるための然るべき根拠を確実な 形で示さなければならないことになる。『ティマイオス』でも、こうした展望のなかで、自然的存在として とらえられた人間、人間の自然が論じられていると言ってよい。そして、『ティマイオス』ではその根拠が 宇宙の自然(宇宙という自然、より端的に言えば、自然・自然世界、宇宙)のなかに求められている。 しかし、宇宙という自然、宇宙の自然のなかに人間の自然の根拠を求めるといっても、宇宙という自然 のとらえ方は一通りでない。例えば、自然世界・自然を全能の神の被造物と見るか否か、被造物と見る場 合でも、神の自然への関わりをどう見るかでとらえ方は異なってくる。あるいは、機械的因果必然性が完 全に支配していると見るか否かで、やはり、とらえ方は異なる。そのため、宇宙という自然をある一定の 形でとらえるためには、さらに、そうとらえるための然るべき根拠を確実な仕方で示さなければならない ことになる。さもないと、そうした根拠づけの営みはどこまでも続いていくことになるであろう。結論的 に言えば、『ティマイオス』におけるプラトンの場合、宇宙という自然のなかのある事象・事物に注目して それを確実なものととらえ、それを手掛かりにして宇宙という自然のあり方をとらえようとしていると言 ってよい。その事物・事象は、天体とその運行にほかならない。とりわけ、諸恒星と太陽の運行が重要な 意味をもつものとしてとらえられている。 宇宙という自然のなかに確実なものをとらえる場合、あまり悉意的・出鱈目にそのなかの何かを確実な ものとすることはできないであろう。自然はわれわれがつねに接している世界であり、感覚的経験的にと らえられる面をもっている。そのため、われわれの感覚的経験的認識に反して、あるいは、それをまった く無視して、自然のなかのあるものを確実なものとすることはできず、感覚的経験的認識に沿うものを確. 実なものとしなければならないことになる。プラトンは諸恒星と太陽の運行に関する感覚的経験的認識の. 27.

(6) 28. 矢内 光一. なかに、宇宙という自然をとらえるさいの確実な手掛かりを見出すが、具体的には、諸恒星と太陽の運行、 つまり、諸恒星の日周運動と太陽の年周運動は一様規則的な円運動であるという感覚的経験的認識を確実 な揺るぎないものととらえ、その認識を根拠として、宇宙という自然のあり方をとらえている。 しかし、諸恒星と太陽の運行は一様規則的であるという認識が感覚的経験的に確実な認識であるとして も、それらの運行のとらえ方・説明の仕方は一通りでない。プラトンはそれらの運行を独特の仕方でとら えようとする。すなわち、それらの運行は何らかの原因によるものであるとしたうえで、その原因を魂の 運動であるとする。太陽中心説・地動説に馴染んでいる今日のわれわれは、その原因を地球の自転と公転 としてとらえているが、基本的に地球中心説・天動説に立っプラトンは、諸恒星の日周運動と太陽の年周 運動を独特の考え方でとらえようとする。その考え方は、今日のわれわれには馴染みにくく、奇異に思わ れるであろうが、おおよそ次のようなものである。1)天体は可視的であり、天体の運行は可視的である. が、天体の運行は、天体自身によるのでなく、不可視である魂の運動によってもたらされる。すなわち、 天体の運行は魂の運動の結果であり、魂の運動は天体の運行の原因であるとされる。あたかも、眼に見え ないベルトコンベアに乗せられたものが、ベルトコンベアが動くことによって動くかのように、不可視の 魂に乗せられた可視的天体は魂が運動することによって運行しているとされる。2)諸恒星の日周運動と 太陽の年周運動は一様規則的な円運動であるが、それはその原因である魂が一様規則的な円運動を行って いることによるとされる。そして、プラトンは魂の揺るぎない一様規則的な円運動のうちに魂の理性的な. あり方をとらえ、一様規則的な円運動を行っている魂を理性的魂であるととらえている。. 3)可視的な天. 体の運行は不可視な魂の運動の視覚的現れ(現象・パイノメノン)であり、不可視な魂の運動は可視的な 天体の運行の本質をなすととらえられていると言ってよい。もとよりプラトンは「本質」という言葉を使 っているわけではないが、天体の運行は本質である不可視な魂の運動が眼に見える形で現れたその現象(な いし表現)であるとされていると言える。4)天体の運行は可視的であり、視覚によって認識されうるが、 魂の理性的運動は不可視的であるため、視覚によって認識されえない。しかし、理性的魂が存在するとさ. れる以上、それは認識され、その存在が確認されなければならない。ここでプラトンは、理性的魂は視覚 によっては認識されえないが、理性的魂によって認識されうるととらえている。そして、認識を行うのは、. 人間にほかならないことから、人間には理性的魂が具わっており、天体の運行をもたらす理性的魂の連動 は人間の理性的魂の運動によって認識されうるとされる。天体の運行をもたらす理性的魂の運動は人間の 理性的魂の運動によって認識されうることにより、その存在が確認されうることになる。人間は天体の可 視的運行を視覚的に認識することを介して、その視覚的現象をもたらす原因であり、その本質である理性. 的魂の運動を、自身の理性的魂の運動によって認識しうるとされ、人間には天体の運行をもたらす理性的 魂と同様の理性的魂が具わっているとされることになる。このことは、また、宇宙という自然は理性的魂 を具えた理性的存在であり、人間も理性的魂を具えた理性的存在であり、人間の自然は理性的であるとい うことをプラトンは主張していることを意味している(プラトンは、諸恒星の赤道に沿った東から西への 一様規則的な日周運動と、太陽の黄道上のほぼ西から東への一様規則的な牛周運動を、「同」の円と「異」 の円という魂の2種類の円の円運動によってとらえているが、その詳細はここでは省略する(13))。 このようにしてプラトンは、人間の自然を宇宙という自然に根拠づけるという営みにおいて、宇宙とい う自然のなかの諸恒星の日周運動と太陽の年周運動が一様規則的な円運動であるという感覚的経験的認 識を確実な揺るぎないも、のとしてとらえ、その認識を根拠として、宇宙という自然を理性的であるととら え、また、人間を宇宙という自然の理性的あり方を認識しうる理性を具えた理性的な存在であるととらえ るところにたどり着いたことになる。そして、プラトンは、人間の自然を理性的であるととらえることに より、それを拠り所にして、人間の生き方・社会のあり方を人間の自然に適った理性的な方向に道を基礎 づけたということになるであろう。. ところで、諸恒星の日周運動と太陽の年周運動が一様規則的な円運動であるということは、天文学的事 実であると言ってよい。プラトンはその天文学的事実を根拠にして、宇宙の自然と人間の自然を理性的で.

(7) プラトンの宇宙論と理性主義. 29. あるととらえている。しかし、天体には、言うまでもなく、諸恒星、太陽以外に、惑星(プラトンの時代、. 水星、金星、火星、木星、土星はいずれも惑星であることがすでに知られていた)と月がある。これらに ついて、プラトンはどのように考えていたのであろうか。とりわけ、5惑星は不規則な動きをする。惑星 の不規則な運行をそのまま不規則なものとして認めたとすれば、宇宙という自然は一様規則的な運動を行. う理性的魂を具えていることによって理性的であるとされたが、惑星の不規則な運行は宇宙を理性的とす る主張と組靡をきたすのではないかとも考えられるであろう。最後にこの点について触れておく。 プラトンは、諸恒星の日周運動と太陽の年周運動は魂の理性的な円運動によってもたらされているとす ることにより、宇宙という自然が理性的であるととらえたが、惑星についても、その運行を魂の一様規則 的な理性的円運動によってとらえようとしている。そのことにより、惑星は文字通りに「彷獲える者(プラ ネーテース)」であるのではなく、惑星の「彷径える」ように見える不規則な運行現象も一様規則的な円運動 によってもたらされているととらえることになる。すなわち、プラトンは、諸恒星の日周連動と太陽の牛周. 運動を2種類の魂の円運動によってとらええたとことから、宇宙は理性的であるということを確実なことと とらえ、惑星の不規則な運行現象もあくまで規則的な円運動によるものでなければならないとして、不規則 な運行現象をとらえるための基本的な考え方を『ティマイオス』において打ち出している。「異」の円がそれ である。「異」の円は、太陽、月、5惑星に対応する形で、7つに分割されているとされる。そのことは、惑. 星の運行も、一様規則的な理性的魂の円運動によってとらえようとする考え方を示すものであると言ってよ い。『ティマイオス』では、5惑星の運行が実際にとらえられ説明されているわけではないが、それをとらえ る基本的な方向性が示されている。このことは、惑星の運行をとらえることが真剣な課題となることを意味 している。プラトンは天文学の研究者たちにいわゆる「現象を救う(ソーイゼイン・タ■パイノメナ)」の課 題を課したと伝えられている(14)。しかし、惑星の運行を一様規則的な円運動によってとらえ、説明すること は、たんに天文学的課題であるにとどまらない。それは、宇宙という自然が理性的であることを確証するこ とであり、それは同時に、人間の自然が理性的であること証しする営みでもあるととらえられており、そし て、惑星の不規則な運行を人間の理性によってより十分にとらえるほど、とらえる人間はより理性的になる と考えられていると言ってよいであろう。惑星は文字通りの「惑」星であるのではなく、あくまで、宇宙と いう自然が理性的であるということを確証するものとして位置づけられていると言えるであろう。. 注 (10)「コスモス」は<秩序ある全体としての宇宙>を意味し、秩序概念と全体概念をあわせもった概念であるが、初 期自然哲学者たちによる「コスモス」概念の成立とそれのもつ意義については、拙論「初期ギリシア哲学と理性主 義」(古田光・泉谷周三郎編『ヨーロッパの文化と思想』木鐸社、1989年、pp.29−57)、特にその34−47頁を参照さ れたい。プラトンの「コスモス」も<秩序ある全体としての宇宙>を意味していること自体は変わらない。しかし、 プラトンは彼以前の自然哲学者たちのなかに見られる唯物論的機械論的思想を批判し、「コスモス」をそれとは異 なった形で基礎づけ、自然を別の仕方でとらえようとしていると言ってよい。唯物論的機械論的自然哲学に対する プラトンの批判については、拙稿「自然、偶然、技術−プラトン『法律』第十巻における「知者たち」の説につ いて」『横浜国立大学人文紀要第1類哲学・社会科学』37(1991)pp.93−102を参照されたい。 (11)先の注(7)を参照されたい。 (12)『ティマイオス』に、人間には自然・本性というものがあるという「人間本性論(humannature論)」の発想があ ること自体は疑いない。また、「自然・本性(ビュシス)」が一定の揺るぎないものであるととらえられていること も疑いない。揺るぎない自然に対して、社会・国家のあり方や慣習・道徳・宗教・法律などの社会規範は多様であ. り、可変的であり、相対的であり、人為的であるとする、前5世紀のソフィストたちに顕著に見られた、いわゆる ビュシスとノモスの対比については、F.ハイニマン(鹿川洋一・玉井治・矢内光一訳)『ノモスとビュシスーギリ シア思想におけるその起源と意味』(みすず書房、1983年)を参照されたい。 (13)注(9)に掲げた拙稿「プラトンの『ティマイオス』における宇宙と人間の関連構造」を参照されたい。. (14)CflSimpliciiinAristotelisDeCaelocommenfariaediditI.L.Heiberg,Berolini1894(CommentariainAristotelemGraeca VOlumenⅦ),p.488..

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参照

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