經 營 の 存 立 と 三 つ の 對 内 構 造 ( 一 )
坂 口 幹 生
一︑経営存立における対内状況と対外状況
二︑経営存立における活軌理論と構造理論
三︑ 経営 の価 値構 造
四︑
経営
の技
術構
造 五︑ 経営 の社 会構 造
六︑主つの構造の理論的関聯
七︑三つの構造の歴史的関聯
経営の存立と三つ.の対内構造
経 営 と 経 済
経営存立における鈎内獄況と封外朕況
経営の木賞はそれが︑それ自体の統一定士山と︑それ独自の経済性と云う指等原理の下に持続的反覆的に活動を営ん
でゆく生産と介配の目的問成休であると云う点にある︑しからばかかる立味での経営は如何なる状況の中にそれ自体
の維持﹀一発展即ち存立を完うしているのであるか口
此点忙関し先宇第一に吾々が指摘したければならない乙とは︑経営はその存立のために個体経済としての実体を形 成していると云うととである口しかして今乙の実休として何人もが直ちに若取しうると乙ろのものは︑そとに人的物
的諸要素が経営の為に準備ぜられ︑忠に‑相互の結合によって具体的な組織休が形成せられていると云う乙とである︒
勿論かかる机給休の的成は経営の種類︑規模の大小如何によクて程え兵るものがあるであろう︒しかし程度の差とそ あれ如何なる経営もかかる共休的た組織休の形成なくしては存立しえないととは改めて云うまでもない︒しかしなが ち第二に経営の本義に顧み︑且つ経営の現実状況を見るときかかる一氏わば静止的危組織体の形成が直ちに経営の存立 的た実体をなすものであると云うととはできない︒悲し経営の経営たる木誌はもともと経済的な欲求が発生した都皮
一円切り経済活動を遂行ホる点にあるのではなく︑一定目的を掲げて持続的︑反回復的に経済活動を営んでゆく所に成
立しているものであるからである︒通常﹁経営として営む﹂とか﹁経営的に営まれる﹂と云う言葉の中に単的にその
意味は合まれているものと一式へる口しかして事実又今日の経営の現実状況を見ても︑そ乙では如何に経常諸活勤が規
則正しく繰返され?ているかは本u却に宕取できるととろであり︑経営にとっては寧ろかかる持続的︑反浸的な持活動の
統一体と一式う乙との方がより主要なるその存立的実体をなすものであるとも解さねばならないであろう︒しかし友が ち第三に経営の実体を形成するものとして︑苦々は統一立志の存在とその作用をあげねばなら
Jない口個休経済として
の経営の経営たるゆえんは突にかくの如き統一意志の管理︑支配によって一切が統合せられ︑調整せら一れ︑秩序づけ
ちれ︑計画づけられている点にとれを求めねばならたいからである︒前述せる人的物的諸要素の準備と結合︑経営諸 活動の順調円滑たる持続左反夜の蹄保も根源的には結局かかる統一立志の支配に基くものと見るととが出来る︒かく
てとの統一意志の下に前述せるこつの状況が︑それぞれの意味を以て有機的一休として形成せられる時そ乙に個体経
済としての経営の対自的な存立状況が一先づ形成せられているものと見ることが出来る︒五口えは乙れを経営の対内状
況と呼んでおこかう白
しかるに第二に経営の存立は︑向右の如き対門的た状況の形成のみを以て完うされるものではない︒何故たらば︑
かかる経営の対自的な状況は一式わば人間個人にとってはその身体に相当するものであるが︑人聞の真の意味における
存立が単に身体的な個体の存在にあるのではなく︑これを前提としながらも命一切の外凶作との行為関聯或は活動関聯
的危係はり︑関係に沿いであるのと等しく︑経営も亦あらゆる外界との係はり︑結付においてでなければ︑それ自ら
の存立を維持する乙とは出来ないからである口より'具体的に一式うならば今日の経済制度の下に沿いては経営はその存
立に必要たる資本は乙れを資本の所有者より調達し︑仕入先よりは尚品資材を購入し︑金融先からは資金の融通を受 け︑労働組合とは労力の担供たらびに︑その条件について交渉し︑同業者に対しては競争に出る反面必要に応じては
相協力抗携し︑官庁とは各棋の法的規制にクいて折街し︑一一版社会公衆に対しては程営に関する誤解を解く止共に積
極的に正しき理解と好立とを終符する為に絶えやy
公衆
括勤
(司
ロ宮
宵同
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﹀ 丘 一
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2 )
を続けたければ注らない のである︒即ち︑ここでも経営外的な諸活動の持続性と反覆性とが必要とされるのである︒然るに︑乙の場合こえで
詑立されなければならない乙とは︑かくω如き外界との行為︑活動関聯を続けてゆく場合その容体たり相手方たるもの
は経営内的な諸要素とは具り︑強い独自の存在を持クていると一式うこと︑扶一一目すれば必宇しも経営の立のまもλにある
ものでは広いと云うことである︒従クて今これを経営における統一意志との関聯において考察するならば︑とこでは 経営がこれらの外界を支配管理してゆくと云うことよりも︑かえって自らがこれに順応してゆくと云うことの方がよ り必要な場合が少くないであろう口勿論経営としては︑その管理経済的な本来の性格からして可能なる限り︑乙れ
ら外凶作を自らの存立に適合する土う変化順応せしめ︑一式わば自らをその中に延長してゆくような意欲と努力を続ける
乙とであろう︒今この事は例えば仕入先︑符立先をT
歩 ス
T
︑コ
γ
ツ エ ル
γ等の形態に沿いてその傘下に収め︑下請
工場な経済的︑技術的にその支配下に
μせしめ︑時としては労働組合までもな法営内的た会社組合たらしめんとする
絞首の存立と三つの対的梢治
経 営 と 経 済
四 企てのあると'とに徴しても極めて明白反事実であると云わねば訟らない口しかしながら︑それにも拘わら宇倫かかる 場令を律するものは経営内的な﹁能率の論理﹂ではたく経営外的な﹁社会の論理﹂であり︑かかる論理に従クて順応 的であれ支配的であれ対外活動の持続と反覆を図ってゆくととるに経営存立の対外状況が形成されているものと一式わ
ねばならない口
以上の如く経営の存立状況には対内的たものと対外的なものとのこつがあるのであるが︑しかし︑乙の両者は極め
て絞殺な関係に・おいて連クていることは一五うまでもない︒即ち︑経営が対内状況に・おいて調和と均衡とを保官話力主
増す為には対外状況に・おける十全さを必要とするであろうし︑又対外状況に沿いて︑よくその持続と調和を保ちうる 為には先や対内状況においてもよく健全であり能率的でたければならたいことは一氏うまでもない︒もしそのい宇れか
一方の状況に・おいて混乱と窮迫をきたすとき︑それに向けられる精力は必やや他方への精力を奪ひ上げてゆくからで
ある︒此点に関しガードナ
l︑ムーアは次の如く一去っている︑﹁かかる関係に沿いて経営の門部的結合の問題は宛か
も人間個人の全人格の調和の問題に類似するものがある︒人間個人の全人格は︑それが外部的な現実問題な処理する 場合︑その内両的な感情の混乱によって阻害されない場合に沿いてのみよく調和がとれているとみることが出来る口 神経質的な人間とは︑その内面的な感情の混誌があ去りにも離れ難く絡みあっているため︑自らを外界の要求に正し く適応せしめてゆくととの不可能な人間のことである︒かかる意味に‑おいて今日多くの経営は社会的に神経質的
(ω
?
の内
包守
円︒止の)なものがあると一式う℃とができる︒これらの経営は内部的な胤磯ゃ︑管理上の混乱の為に経済的社口g
会的た外界の要求に自らを適応せしめてゆくことのできない経営である︒これらの経営においてはその精力は殆んど 内部的た机礁と混乱に吸牧されている為︑それが産業界の競争に打ちかち自らを発民せしめてゆく上において是非と も必要な︑外部問題の賢明なる解決の為の余力が故早残されていないのであるよ(註
1) 否︑より根本的に云うならば 元来経営の存立にとクては対内状況も対外状況も区別はありうるのではなく︑それは一休となクて経営の存立を支え ているのであり︑ただ吾々の概念的な思惟がそれを内向的に見た場合対内状況として把握せられ︑外向的に観察した 場合それが対外状況として把握されるに過ぎないと見るべきものであるかも知れない︒しかし経営の存立を明確に分
析し現実問題を正しく処理してゆく為には︑経営はこ
ω
ニクの状況の中に存立するものとして理解してゆく乙との方
が上り適当であると云わねばならないであろう︒
(註
1)
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経営存立における活動理論と構造理論 しかるにかくの如き状況の中に一体的に存立する経営を理論的に理解するに当り︑その何処に重点在泣くかに従ク
て従来の経営学に・おいては凡そ二クの理論が成立して来たと見ることができる︒一つは﹁活動理論﹂とも称すべきも
のであり︑ニクは﹁構造理論﹂とも呼ばるべきものが︑即ちこれである︒しからば先十乙こで云う括勤理論とは経営 の存立を理解するに当クて︑何処にその重点在置くものであるか︑それは対内的にせよ︑対外的にせよ経営の存立に とクてはあらゆる括動の持続と反語と統一が故も重要であるとなし︑寧ろかかる諸話勤の統一的一一体の中に経営の存 立を見出してゆかうとする理論である︒例えば独乙経営経済学に沿いて︑経営を以て個別資本の循耐過程そのものと なし︑之を﹁伺似の流れ﹂と﹁価似の聞き﹂において動態的に把握せんとするが如き︑その設も好適な実例であると 一氏えるであろう︒勿論経営の存立を勤態的︑活動理論的に理僻せんとする場合︑それは独り資本の循説︑佃似の流れ として見る初方のみにつきるものではない口観点左具にしてそれらの詩話勤を怪営究極の目的実現に述る実践的かク 千段的たものと見るたらば︑それは経営を以て技術的た括勤の統一体と見ることであり︑寧ろアメリカ程営学に近い 理論が展開されてゆく乙とであろう︒さらに叉これらの諾話勤を結局は物的諸要素を媒介として経営を構成する多数 人間間の協倒的なものとして観察してゆくならば︑それは経営を以て社会的た括勤の統一体として理解することであ り︑そのことの中に経営存立の意味を主点的比見出してゆく理論が成立しうるわけである︒しかしながら以上い十れ の観点をとるにしても︑これらの諸理論が経営を以て動態的な話勤の過程そのもの乃至は活動の統一休であると観 じ︑﹁作用聯関的﹂にその﹁働き方﹂を問うことによクてその中に経営存立の意味を見出さんとする理論である乙と に沿いては'いやれもその視を一にするものと云わねばならない︒かくて一度かくの如き理論的立場が出現するや伝
経常
の存
立と
一一
一つ
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内桔
造
五
経 営 と 経 済
‑‑<‑
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、 統的な静態観に把はれていた従来の経営学には幾クもの新しい理論が展開され来った乙とは周知の如くであるロ しかしながらー考えてみれば右の如く経営の存立を循環的なもの︑実践的なもの︑協働的なものの中に見出してゆか うとする活動理論にあっても︑倫これらの諸活動をただ行く水の流れの如く単に派沌たる持続の相に・おいて観じてゆ
くととではあり得ない筈であり︑それは秩序ある持続と反.裂の統一性に沿いて把えてゆく乙とでなければならない︒
果して然らばかくの如き経営諸泊劫の持続性と反覆性と統一性は一体ど乙から保障されてくるのであろうか︑此点に 関してはすでに述べたるが如く根本的には経営における統一意志の存在とその支配と云うととをあげねばならない
0
・ま乙とに経営にとクてはかくの如き統一意志の存在乙そは正に本源的なものであり︑諸えの諸話勤はそれが明示的で あれ黙示的であれ︑いやれもかかる統一意志の支配と管理によクて秩序づけられ︑統一づけられているものと理解辛 れねばならない︒しかしながら︑乙乙で苦々が注意しなければならないことは︑元来統一意志と云うが如きものは︑
それが如何に強大なものであクたとしても木来はたんに立欲的なものであり︑主観的に窓欲されていることそのこと が直ちに統一在意味するものでないと云うことである︒従クて主観的な統一定志の窓欲がよく客観的に経営諸括勤の 統一づけを可能ならしめる為には︑直接経営諸活動の規準たり標準たりうる目標を設定するか︑或は経営諸活勤の基 礎にまで掘下づてこれを支えている人的物的訪要素そのものを構造的なものとして合自的えに結合す乙とが必要であ る︒斯る目標なり構造なるものは本源的な経営意志よりすれば云わば派生的なものであるが︑しかしかかる客観的な
ものの形成があってとそ初めてとれを基として経営諸活動の持続性と反覆性と統一性は保障され︑主観的な統一意士山一
の意欲がよく客観的に実現され︑以て経営の存立が完うされてゆくのである︒斯く考えて来るならば経営の存立にと っては諸活動の持続性と反覆性と統一性と云うことそのことよりも︑寧ろその基礎づけをなしている構造そのものが より重大たる存立上の意義を有するものともたクてくる︒経営存立に沿ける﹁構造理論﹂とはとりも直さやかかる意
味での構造を理論的に分析せんとするものに外ならない︒
しからばとの場合︑構造理論に‑おいてその中心となるべき﹁構造﹂とは︑そもそも如何なる意義と門容を有するも のであろうか︑今これを定義的に規定するたらば︑構造とはそれに関係してくるあらゆる要素が一定目的の為に︑
HP︑
の機能なり資格たりを限定せちれ︑その相互的た結合の中に意味ある全体的た桜枯を形成している状態に外たらな
い︒即ち︑先十第一に印刷造怠るものが形成されてある為には︑それに関聯する諾要素が一定目的のために︑その機能
たり性格たりを目的々に限定されるととを必要とする︒即ち他の目的の為に.ではなく︑実にとの特定目的のためにと
そその機能なり盗格ためを常態的に専属国定化されるととが必要である口かかる専属国定化即ち限定たくしては常態
的た柏迭はその形成を期し難いものと云わねばならない口今乙れを故もプ
ηソミチヴた例を以て説明しよう︒かつて
生産土沿授とが一つの生話の中に
m m 然たる一休をたして営まれていた家族経済より︑生産のみの経済としての企業経
済が分離独立した際︑そ乙には原理的に重要なる幾つもの経済的変革が引起されたのであるが︑就中︑その最も主要
たるものの一つは今まで生活用の為に存在していた道具︑設備︑仕事場︑材料︑労働等が一応八刀離して新たに生産経
済用の為のみに常態的にその機能を専属国定化せしめられたと云うととであク牝︒而して今乙の事実は︑とれを個え
の要素自体の立場上り見るたらば︑それまで種え様えな生活用途に用いられていたものが︑今や企業経済的生産と一式
う一定目的のために︑その経済的機能の一部なり全部なりを限定され︑その限定を通じて企業経済的生産用の為のみ
と云う瓜に一段と在り方の次元を高められたととを意味するものであり︑又とれを企業経済自体の立場より見るたち
ば︑抑もかかる常態的危機能を経営の対内構造の中に持ち込み経営存立の第一歩を準備した一帯を意味する︒
しかしながら第二にかくの如くその機能なり資格なりを限定せられた各要素はかかる限定の故にとそ︑今度は更に
相互に結合せしめられ意味ある全体的な機梢を形成する様組合され怠ければたらない口何故ならば︑その機能の一部
なり全部なりを限定された諸要素はその限りに沿いては最早独立の意義を有せ十︑他の要素と結び付かやしてはその
機能をも発抑するととは出来たくなクているからであるロしかもとの場合との結合︑組合せは経営目的に服して・最も
んn目的えかっ合理的た関係に沿いて常態化され︑そとに一クの機構的なものが成立して居らねばたらない︒即ち各要
素は質的量的に相互依存の関係にあり︑一つは他を侠って己れの意義を完了すると共に︑他は一つを待て初めて自ら
の機能を発却し︑その聞いやれかその一部介に支障を生やるときは︑それはやがて他の桜能までもを阻害し︑遂には
逆に自らをも破壊せしめてゆくと云う様な他を制約しながら︑同時に他を必要とする統接な関係に・おいて結合されて
経営の存立と三つの対内構造
‑fJ
経 営 と 終 済
入
あらねばならないのであるロ斯くてか・・ふる機椛の成立あづてとそ︑先に自休的な存在上り経営内的な諾要素として一
段とその在り方の次元を高めた経営諸要素は︑と・ふに更に第三次元的に常態的友機問にまでその在り方をもう一つ高 め︑経営存立への基礎を更に一段と強化するに至るのであるロかくの如く経営における諸要素が第二次︑第三次的に その在り方を高め常態的な機構にまで結合せられた左き︑五日々はとれを﹁梢造﹂と呼ぶ乙とが出来るのである︒しか もかかる桔造が形成せられるとき︑云わばとれを共通の介母として介子的に雨後その上にあちゆる経営活効がそれぞ れ持続的︑反覆的忙繰返されてゆき夜営存立の意義が完うされてゆくものと解さねばならない︒とれあだかも一台の 機械に・おいて常態的回定的たその技術椛造が形成せられる左き︑かかる間造を基盤として雨後その上に幾千同となく 同一の機械作業活動が繰返されてゆくのと︑その規を一にするものと言いうるであろう︒
かくて経営存立に告ける﹁構造理論﹂とは取りも直さ宇かかる山迭を以て経営存立上の設も主要なる契機と考え︑
之を理論的に分析してゆく乙との中に経営存立の立味を的み︑どちんとする理論に外ならない口即ち︑かかる柿道理論 においては先に記した﹁活動理論﹂が﹁作用聯関的﹂に︑経営の﹁倒き方﹂を問うてゆくものであるに対し︑これは
﹁存在聯関的﹂に経営の﹁在り方﹂を吟味してゆく理論であり︑それ丈に前者が動態的理論であるに対し後者は一応
﹁静態的理論﹂たる性格を免れ得ないであろう口
しかしたがら︑乙とで否唱えが充介怒る考慮を払わなければならない乙とは︑此のこっの理論が決して無関係のもの
でないと一式うととである︒蓋し前述せる所工り明かたるごとく︑もともと梢造理論は経営の存立を実践的に遂行して
いる経営諸活動の持続性︑反覆性︑統一性を保障する意味での椛迭の理論に外ならないからである︒否工り広く一般
的な観点よりするならば︑本来経営の構造怒るものは怪営諸活劫の持続性︑反一浸也︑統一也を保障すると一式う意味に
・おいて経営諸活動を制約するものであり訟がら︑長期的には逆に経営諸活動の質的︑量的な変化によクて規制され新 たたる栴造に組替えられてゆく性質のものである︒今とのととは例えば蕊営に・おける物的技術措造(機械体系)と生 産諸活動との関係を長期的に観察するならぼ直ちに首肯出来るととろである口即ち忍でも生産活動を作ってゆく技術 構造が︑ノ長期的には結局生産活動の変化によって作られてゆくのであるが︑かくの如く一見矛尽した論理が経営存立
の実践状況に・おいては何等の矛盾するととなく実現されてゆくので古る︒存立とは一苅来かくの如きものたのである口
以上の如く考えてくる怒らば前述せる如き意味に・おける梢造理論が話勤理論と決して無関係のFものでたい乙とが明か
に知られなければならない︒否より厳絡に一氏う喝ならば︑経営の存立論にとっては︑経営の﹁倒き方﹂をとわんとする
括勤理論と経営の﹁在り方﹂をとはんとする構造理論の外に︑
ζ
の括劫と椛造との正しき﹁結びクき方﹂が如何に経 営の存立を改変してゆくか﹁発展理論﹂とも称すべきものが吟味され怠ければならないであろう口ともあれ今かかる 意味に沿いて苦々が今乙乙で経営の梢造を取上げんとするに当っても︑それは従来経営学に・おいて支配的な地位を占
め来った活動理論を無慌し︑素朴なる静態理論の土日に復古せしめんとするものでたい乙とをも併せ知ることが必要で
ある
以下五日えは経営存立に・おける描造理論を︑これまでの考察に従うて対内︐他迭と対外出造に介ち︑先十対内椅造の分 ︒
析から初めてゆく乙ととしたい白
経 営
の価
値 構 造
経営の対内情造は乙れを分って三クに把握する乙とができる
D
佃航梢造と技術杭造と社会情造とが即ち乙れであ る︑勿論︑経営の対内桔造に乙の三クのものがあると云クても︑それは経営の内部に乙れら三クの椛造がそれぞれ並 列的に独立して存在していると云う意味に沿いてではなく︑存立するものはただ一クの経営なのであるが︑とれをそ
れぞれ具る侃角︑観点を通じて観察するとき︑そ乙に三様の出造が把握されると一氏う意味に・おいてである︒従クてま
た価値情造的たもの︑技術構造的なもの︑社会構造的たものの中︑その仰れか一つだけが直ちに桂営を意味するもの であると云うのではなく︑とれら三つのものが綜合されたと乙ろに径営存立の実体は成立していると云うととにな
ろう
かくして経営の佃似拙造とは一式うまでもなく代以巾価似を通じて価格一色の下に以破された一定時点に長ける経営の 口
宍休に外注らないのであるが︑ニツクリツシユが﹁経営の全佃似関係﹂と呼び︑オスパールが﹁極営の貨幣経済的措
経自の存立と三つの対内精造
九
経 皆
︑ と 経 済
O
リ造﹂と称したものも︑いづれも乙の概念に通やるものがある口元本経営の価航枯造と云う場合︑従来の動態観に執恭一泊
するものは経営にはただ﹁価偵の流れ﹂のみがあって︑伺似の梢造は存しないと云うかも知れたい︒しかしシユマ
1
レシパツハに沿いてさえも静態観は全く否認されてゐら宇︑ただ乙れを従底的地位に・おいて理解しているに過ぎない
ととを思えば︑経営に・おける価航構造的な観方の可能であることは︑乙れを否定すべくもないととろであろう︒ただ
問題段︑かくして貨幣価航的に椅造的なものとして把握さるべき経営対象は一休何であるかと云う乙とである︒結論 的に云って︑吾えはそれを経営に・おける生産力であると規定したい︒云うまでもなく経営の最も主要注る本質の一ク
除︑それが生産の組総体であると云うととであった口しかして今乙のととは経営が一一聞に沿いては給付的に何物かを
絶え宇生産するととを目的とする組織休であるととを意味すると共に︑他一間に沿いては︑かかる経営目的達成のため
経営内に存往する一切の諸要素は︑そのととごとくが生産の手段であり︑何等かの意味に沿いて生威力の保持者であ る乙とを意味するもので
λなければたらない︒そして経営給付の如きは突はとの生産力の画数に外︑ならないと併さるべ
きである︒かくてレ1マγ
の如きは︑経営を以て﹁組椛化された生陀力﹂又は﹁生産力の組織体﹂と見るべき乙とを
強調しているのであるが︑五日々がととで経営の価杭椛迭と一式う場合︑それはかかる意味での生産力を貨幣佃似的に把
捉した場合︑そとに描き出されてくる経営の梢造に外たらたい︒
しかるに経営の佃航杭造を以て︑かくの如く経営諾要素の生産力の伺侃椛迭であるとする考方に対しては︑伝統的
友考方からは品川い反対のある乙とを予期し中広ければならない口悲し故も古くより位羽同化され来った伝統的考へ方に従
えば︑経営に沿いて代幣価抗的に把握される諸要素とは︑経営が所有する﹁物﹂または﹁凸口乙であり︑経営活動の結 果それらが如何に変化増減されたか︑その結果的状態を知るために計算把握されるのであると一氏う思想が支限的であ ったからである口しかして今かくの如き考へ玄が会計学上の所前財産(資本)計算説に通やるものであり︑その背後
には経営外的た債格者保護の立場が潜められているととは疑‑っべくも訟いととろである︒勿論︑今日の経営はすべて
社会的信用程済の中に存立しているものであり︑従ってか
tAる与信者的立場より経営の所有する﹁物﹂または﹁官﹂
を知るととは秘めて主要たととに属すると一式わねば友らたい︒しかしながらゴ1イγグ・コγサ
1
Yとしての経営自
体の立場よりみるならば︑経営に存在する諾要素を単に依権担保的た﹁物﹂または﹁官﹂として見るよりも︑もクと 積極的に経営を存立に向わしめている能動的た生産力として理解するーとの方が︑どり主要であると一氏わねばたらた い︒然りヴエプレシもすでに︑その﹁営利企業論﹂の中で云クている如く︑(註
2)
今日の信用経済︑金融市場の宍 際'においては経営は︑それが幾何の宮︑財産を現在所有しているかと云うととよりも将来に向クて︑それがどれだけ
の生産力(収益力)を保有しているかと一式うことによクて︑より主点的に評価されクーλ
ある実状あるを思えば︑経営 を﹁組織化された生産力﹂とみる乙と︑換一一目すれば静止的た﹁物﹂または﹁官﹂の組織体としてよりも︑エり能動 的︑積制的た未来活動力の組織体とみることの方が︑より重要であるととは否定すべくも紅いと乙ろであろう︒
しかるに経営の価似拙迭を以て︑かくの如く経営諸要素の持ク生産力を貨幣価似的に把握した場合の桔造及りとす る考方に対しては︑向乙乙に一クの反聞が提起されうる︒それはニツクリツシユが好んで指摘せる如く︑元来経営に むける話一要素は︑それが坐産力の保持者であるとしても︑もともと各個が独立して存在しているものではたく︑相互 に相組合して有機的金一体をなすととによクてのみ︑その生産力を発揮し経営的に意義をもたらしているのである︒
従って︑これら諸要素の一ク一つを生産力として切除して貨幣侃似的に把握する乙とは︑すでに︑その前提に沿いて 間違クていると一氏う主張である︒成程︑苦々も亦すでに繰り返し述べ来りたるが如く経営を存立にまで向はしめてい
る諸要一点が機他的な情造にまで結合していることはこれを認めねばならないD
しかしながらこのことは伺えの諸要素 を生産力として評価することの困難さを物語るに過ぎないものであクて︑それが直ちに評価の不可能あるいは論理的 矛尻を立味するものではたい上うに忠われる口会計学上主観価依主義はかふる困難な問題えの一クの解答在意味する︑
ものでなければならない︒
さ・て以上吾々は経営の価値楠迭と一式う場合︑それは如何たる意味主持クものであるかと一足うととを明かにした︒し
からば︑かかるものとしての経営の生産力は共体的には如何たる価航桔造を有するものであるうか︒勿論かふる構造 は現実的︑具体的には各種経営の担当する業務︑規棋の大小︑経営政策の如何によクて程え具るものがあるであろ
う︒しかし今これを基本的なものとして観察する場合︑それは次の如く八刀析する乙とができるであろう︒即ち先やノA7
経営の存立と三つの対内枯浩
経 営 と 経 済 日の経営に沿いては生産力は二面的な存荘の仕方をとクている︒一クは乙の生産力が経営的生産に参加するため現宍 的︑具体的に椛能する諸財貸の形をとクて現はれている聞であり︑通常かえる諸財貨を総称して﹁財産﹂と呼んでい
る︒ニクはかtA
る生産力が如何たる淵源より経営に調達され来クているか︑逆に云えば︑どこに帰属するものである かと云う関係に沿いて存在している商であり︑通常とれを総称して﹁資本﹂と呼んでいる︒乙の場合か
tA
る淵源が自 己調達的なものであるか借入調達的なものであるかどうかと云うことは︑経営的生産力の立場からは第一次的にはあ えて問うととろではない︒もとよりニツクリツシユが強制したように︑とれらの区別を生産成果介配上の観点︑危険
負担の相違の立場より顧みるならば︑そとには主要なる怠一識が見出されねばならない︒しかし今乙れを第一次的に経
済的生産力の淵問としてみるときは︑所前自己院本も借入狩本もともに等しく経営に投げ乙まれた資本として機能的 な諸財産の生応力的淵源をなしているものとみることができる︒総浜本としての﹁経営浜本﹂の概念が成立する所以
である︒かくて今日の設営にむいては経営的生産力は第一次的に︐はその﹁機能形態﹂と﹁淵源形態﹂と云うニクの形
において基木的危経営の価依構造を形成している岬ものであり︑乙の両者は価似的には結局一致すべきものである︒し
かして今かくのどとく同一の生産力が二面的た
mMK
沿い
iて経営の価依構造を形成していると一氏う乙とは︑今日の如
き貨幣経済時代の特色とも一式うべきものであり︑所間︑自然経済時代陀はかつてこのととは存しなかクたところであ
る口査しそとでは生産力はその調達に沿いても機能的な運用におい℃も︑すべては具体的な財貨の形に沿いてそのま
え行われていたからである︒
しからば第一次的には︑かくの如く財政
H資本と一氏う基本的価似構造を形成している経営生産力は第二次︑第三次
的にはさらに如何なる構造を形成しているのであろうか︑周知のごとく乙の点については︑従来各学者によクて理論
的に穣えなる令析が試みられているところであるが︑今乙れを経営における持続的︑反一槌的な価似話勤の基礎として
の観点よりみれば次の如く令析することができるであろう︒
即ち先・?とれを生産力の機能形態たる財産にクいてみるならば︑それが経営佃似括勤の持続性︑反一夜性をどの程度
に又いかなる態様に沿いて保障するかに従クて︑同定財産︑流動財産︑予備財産︑保託財産に区別することができ
る︒一氏うまでもたく回定財産とは比較的長期に一且クてその桜能が回定化され︑以て経営佃航括勤の持続性と反覆性と
をそれだけ長く保障している財産であり︑営業用の土地︑建物︑機械︑設備︑什器︑子会社への持株たどがこれに属
する︒乙れに反し流動財産とは例へば商品︑製品︑仕持品︑原材料たどの如き所討取引財産と︑税金︑ー当座預金︑売
持金︑受取手形などの如き所部支払財産がこれに属し︑その機能形態が比較的短期間だけしか経営内に存続せ十︑そ
の限りに沿いて比較的短期よしか経営価似括動の持続性︑反一縫性を保障したい財産である︒尤もこれら流動財産にクいて︑乙1Aに特に注意したければならないととは︑乙れら財産の流動性と一氏う乙とは︑その具体的な個々について一再
クているのであって︑佃似構造的にはとれら財産には経営によりそれぞれ一定の﹁恒常在高﹂が存在すると云うこと
である︒例えば市口仰や原材料の荘高は不当に多すぎるときは資本のアイドル化在意味するが︑不当に少なすぎるとき
は経営括勤の断続︑不規則性を招来する︑従って経営が王常な経営活動︑価似活動を持続的︑反磁的に繰返してゆく
ととの為には︑たとへ流動財産といえども価航楠造的には一定の恒常荘高が存しなければならないのである︒一試はば
それは価依砧造上における固定財産化された流動財産なのであるσ次に予備財産とは将来有利なる仕入︑販売拡張︑
工場拡張注Eの為に準備として予備的に保有せられる財産であり︑経営未来活動の持続性︑反A訟を事前的に保障する
ものと一式え上う︒又保証財産とは︑例えば借入金の担保として差出したる有価証券︑商品などの如きものであり︑自
由に処介出米ないものである︒予備財産にしても保証財産にしても︑それに割当てらるべき具体附財産はいづれもそ
れ本来の桜能を発郎せ十︑さらに高次なる限定をうける乙とによって経営価似活動を未来的にか間接的にか保障して
いる価似椛造上の財産である口
しからば次にかくの如き生産力の機能形態としての財産の価値措造に対し︑その淵源形態としての資本は如何なる
伺似桔造を有するか︒周知の如くこの点については通常先十資本を投狩資本(自己資本)と借入盗本(他人資本)とに
分ち︑その中さらに投資資本を経営創設の際一死入せられた創設資本と︑その後の増資資本とを含めた投下資本︑並に
その後事業の発民に伴い経営成果の一部を準備金︑積立金の形に訟いて社内凶保した附加資本に分ち︑借入資本は社
依︑長期借入金︑短期借入金︑見持金︑支払手形︑当座借越等に介クのが通例である︒絵本の佃似柿造を第二次第三
経営の存立と三つの対内枯造
経 告 と 経 済
一四
次的にかくの如く分析することはすでに述べたるが如く投院院本と借入性木とでは危険負担乃至は経営成果分配の基 準を具にするとと︑投資資本が原則として経営目的と完全に調和し︑経営の存続とその期限︑いた運命を同じうする に対し借入浜本は経営目的に対しては費用項目として利子を条件的に負担せしめ︑旦ク通常その期限が予定せられて
いることを識別せんが為である口しかしながら経営価杭活動の持続性と反覆性を保障する佃杭柿造と一式う吾えの主張
工りすれば︑むしろかもふる保障を長期にわたクて行いうる昨日本と短期にしか行いえたい性木とを介ク意味に・おいて︑
投資浜本と社債︑長期借入金を合めた固定資本と短期借入金︑ロ掛金︑支払手形︑当期純接金︑繰越金などを合めた
流動資本に八刀クことがかえクて有意義であるとも一千える白
さて以上の如く経営的生産力は財産の佃似措造と資本の侃似梢造とを形成し︑しかも基本的にはこの両者が均衡一
致すると云う椛造関係を有するものである︒しかして通常か・ふる価航枯造を最も単的に表示しているものが貸借対照
表であるとされている︒しかしながら経営的生産力の価似枯造と一氏う観点よりみるとき通常の期末貸借対照表が果し
てそれを正確に把握表示し符ているか若干の疑問なきをえたい口その第一点は営業用のために借入れられた家屋にク いてである︑周知の如く今日の企業会計は正確なる意味にゐける企会会計ではなく︑自己負本を中心にした﹁企業者 会計﹂であり︑所有関係に基準を沿いた﹁企業者会計﹂である︒従クて借入家屋の如きは︑それが如何に大きなもの を借入れていても簿記上の取引として記録計算され宇︑従って期末貸借対照表財産の部には表示されて来ない︒しか したがら借入家屋といえども︑それが生産力として経営的生産に参加し︑その機能を発押している乙とは自己所有の 家屋と何等兵るところはない口又ニツクリツシユが経営資本なる概念を強調した所以のものも︑もともと経営位決本 を所有するものにあらや︑外部上り経営に移転せられた貨幣佃似額を生産に運用するにすぎないと云う思想から出発 しているととを憶えば経営安本の概念には﹁所有﹂は第一義的意味を持クものでない乙とを知らねばならない口果し てしからば経営的生産力の価値構造を問題とする場合には借入れ家屋も機械も︑桜能資本として当然その中に加え考
察しなければならないと云えるであろう︒
経営的生産力の侃航情造と一式う場合︑第二に問題となるのは﹁労働力﹂である︒改めて一式うまでもたく今日の企栄
会計に沿いては労働力はそのものとしてではたく︑賃金即ち費用項目守として取扱はれ︑極めて主要注る生産力であり 訟がら貸借対照表には何等表示されていない口もとよりそれは元来労働力なるものが企業所有の対象物たりうるもの でなく︑叉乙れを財産化︑院本化するにしてもその評価には数多くの仮定と推定を必要とすると云う意味にむいて所 謂貸借対照表能力を欠くものであり︑確定性の原則に立ク今日の企業会計上の処置としては︑まととに当然の乙とに 阿付すると云はねばならない口勿論との場合︑労働力なるものが何等の形に沿いても貸借対照表に把握表示されていな
いと一六うのではない︑第一賃金の前払八刀があるときは︑それほ未経過費用として貸借対照表財産の部分に抱上され
る︒しかしそれはやがて牧溢より差引かるべき費用としての鮮泊を持ちつ
L
ある支出として︑あくまでも泊秘的た意 味においてである︒企業会計としてはともかく︑今とれを経営的生産力の価値楠造と云う怪営学的な立場よりみるな らば︑かくの如く治秘的た費用項目としてのみ労働力をみると云うととは労働力の経営的生産力としての積極的た意 義を全く抹治し去るものと云はねばならない口かふる意味から労働力を積極的な項目として貸借対照表中に合ましめ るものは﹁暖熊﹂の形に沿いてであろう︒即ちある経営に現存する労働力が質的にきわめて優秀であり︑労働者のチ ームワークとロヤリチーが高い場合は︑それは文字通りグヅド・ウイルとなって当設経営の生産力︑収益力を積極的 に高め︑それが暖簾中に含まれて貸借対照表に掲上されるとともありうる口しかしたがら︑かふる場合は労働力の生 点力としての積極性を認めたものとしても伯暖熊価格は労働力の俊秀性のみを評価したものではなく︑労働力そのも のを独立的に経営の価値枯造中に認識し工うとするものではない︒
かくて今日の期末貸借対照表に・おいては︑経営的生産力の価値枯造を完全に把握しているものとみるととは出来な
いのであるが︑元来労働力なるものは︑いわゆる資本の循環方式においても故初投下せられた貨幣資本
(G
)
が生産
性本としての生産手段(陥)と労働力︿
A)
に転化せられるものと理解されてゐり︑又これを砕発的た近代経営の実 際に見るも︑そこでは乙れを酷使泊耗するごとに繰返し新しい労働者を以て置替えてゆくととのできる単なる生産力 止してではなく︑経営に雇傭せられている労働力は︑あだかも経営の﹁所有﹂オる財応力に等しく︑経営を梢成して
いるものとして常にその将来えの発展と維持が期化付されているものである︒果してしからば経営的生産力の佃侃拙造
抗自の存立と三つの対内桔造
五
経 営 と 経 済
一六
を吟味すると一式う立場かちすれば︑かL
る労働力をその何純情迭の中に入れて考察するととは理論的にはま乙とに不
可欠の乙とであると一式はねば友らない︒ただ問題は一づの経営に沿いて生産力を発時しつ
‑ L ある労働力を如何に貨幣
価依的に評価しうるかと一式うととである︒との点については︑かつてはマルクスは労働力を以て可変資本なりとし一
経営に・おける可変資本が彼のいわゆる不変浜本に対し︑幾何の博成割合を有するかと一式う﹁資本の有機的椛成﹂観容
の立場上り労働力の評価を試みたのであるが(註
3)
一定期間に訟ける賃金平均総額を基礎としてとれをキヤピグリ
ゼ1
シヨ
γする乙とは必やしも不可能とは一式えないであろう口
さて︑以上吾えは一式わんとする経営の価値構造が具体的には如何たる内容を有するものであるかにクいて明かにじ
た︒しかるにかくの如き経営の価値構造にクいて今一(ツ故後に残された問題がある口それはかふる価似椛迭を形成す
る各構成部介が先示価値構造そのもの
λ中に・おいて相互関係的に︑叉全体価依椛造との関係において如何に有機的陀
均衡を保っているかと一式うととL︑さらには経営企休に・おいて経営部活動との関連において如何に効率を保っていZ
かと云う問題である︒ニツクリヅシユは乙れを﹁最高度の緊続性﹂と呼んだ円苦し雪山明的に一式うたらば経営とそはネ
の中を素材たる原料が次第に加工の度を加えられて進行してゆく一本の犬きた管に比すべきものであり︑との管の部
分部分を連続的に構成しているのが個唱えの生産力であるとみらるべきものであるから︑かふる構成部介に有機的な拍
衡と調和を欠くときはその欠陥のある箇所に経営給付断固上のネックを生じ︑経営括勤の円滑なる進行が阻守一目されろ
にいたるからである︒
かくて経営的生産力の価値措造
kh掛ける緊特性は︑とれを八月一って量的緊特性の問題と質的以内将性の問題噌とすること
ができる口量的緊続性とは価依構造中に占める各個生産力の価値制合が全体的︑相互的に如何に均衡︑調和を保クて
いるかと一式うととであり︑通常桔成比率や関係比率で測定せられる︒先︑?とれを財産の価似構造にクいて考えるなら
ば経営の価依活動が持続的︑反覆的に行いうるためには犬体標準的た故迎な量的価似椛造が必要とされるのである︒
例えばその最適友状態において一定価依量の固定設備が必要とされるん一きは︑それがノーマルに利用される為には一
定価依量の原料恒常在高が必要とされるであらうし︑それを製品にする為には一定量の労働力を必要とされるであろ
ろ︒否今日の経.営は市場生産を前提?とするものであるから︑経営的生産力の量的価値枯造を決定する故初の出発点を
なすものは取引財貨の量であり同転速度であり︑とれがやがて生搾量を決定じ操業度を決定して労働カ量︑原材料︑
設備の量を決定してゆくものと見ねばならないであろう︒い
‑ T れにもせ工一クの経営にはその経営にとって最適な財
産価似柏造が存在しなければならたい筈であり︑かかる価値梢迭に・おいて各枯成部分が最も均衡的︑調和的在価値量
を保っていると剤財産価似枯造における量的最高度の緊特性が成立するものと一式えるのである︒勿論かくの如き最高
度の緊特性を有する財産価抗措迭に
hおける梢成比率︑関係比率は経営の種類によう又同種経営ならば︑その規模の犬
小に上り︑それぞれ椋準を具にするであろう︒例えば直接原料や労働力を主たる生産力とする軽工業と固定設備を主 たる生産力とする重工業︑電力菜︑交通業に沿いて︑あるいは商業と工業に沿いてその比率を具にするがごとき乙れ
である︒しかるに︑乙れを近代経営に・おける一般的傾向としてみるとき︑生産技術の高度化︑機械化ならびに経営の
犬規模化はまずまず財産価値構造中に
hおける固定財産の比主左大友らしめ︑取引財貨量の方からではたく逆に回定財
産量の方から財産価似柿造の量的緊結性を支配決定してゆく正一氏う傾向を生みつつある︒かくの如き傾向は経営価航
活動の特質性︑反一お性を最も確実︑且つ長期に保障するものが回定財産であると一式ふ意味からすれば︑経営の存立に
とっては寧ろ原理的には歓迎すべき傾向であるとも一氏える︒しかしながら他国土りとれを見るならば︑かくの如き傾
向は(一)市場変動に対する経営の順応性を薄弱化せしめ︑(二)回定費の噌大化による経営の負担を重からしめ︑
会己流動財産とくに運転資金の不足化を招来すると云う危険性を字むものであづて︑特に長気変動の下降期にあた っては︑それとの相関関係に治いで︑かえクて経営価値枯造の緊密性を破壊し︑結局は経営価値活動の円滑なる持続
性︑反履性をも阻害するに至るものである︒
次に価依椛迭の回一見的緊密性と一氏う乙とを資本の伺似構造について考えてみても原理的には︑やはり同じ乙とが一五え
る︒もと工り経営話勤の持続性︑反覆性を保障する桔造左云う意味かちすれば資本の佃依桔造の持つ意義は間接的で ある︒査し経営括勤の持続性︑反裂性を直接保障するものは機能形態としての財産の価値椛造であり︑かかる財産の 佃似椛造をさらに淵源的に支えているもの乙そが資本の佃航枯迭に外たらないからである︒しかしその意義︑作用が
経営
の存
立と
=一
つの
対内
桔造
,包
経 営 と 経 済
y¥
間接的であると云え︑経営活動の持続性︑反抗彼性を結局は保降するものであると云う意味に・おいて狩本の侃航構造に
・おいても︑経営とその存続の運命を共にする投開浜本が期限付なる借入性本よりも尊ばれ︑回定性︑本が流動浜本より
京んぜられると云う乙とは︑正に当然のととであると云わねばならない口かくてフオ
1ヂイズムに沿いては完全なる
﹁自己金融﹂が強調せられ︑英国などに・おける従来の慣行では同定財産は勿論のとと運転流動財産までが長期資本を
以て充当さるべきととが通例とたっている︒しかるにとれを現代産業経営の現実にみるに︑性(本の価航柿造中借入浜
本乃至は流動資本の占める量的割合はますます地犬の傾向を示している︒それは一間近代経済社会に・おける信用制度
の発展に呼応するものであり︑叉経営資木のととごとくを自己洪本化する乙との不必要を定味するものであるうが︑
しかし元来借入浴本は経営に対しては利子と支払期限と云う負担条件を諒するものであるから︑院本の伺似枯造中と
の両者の量的緊将性を如何に保たしめるかは章一犬左問題であると一五わねばならない︒
向経営価航山間造にゐける景的緊密性については財陀相互問︑次ハ本相互聞に司おけるのみなら歩︑財産と浜本との問に
沿いても回定比率︑流動比率︑酸性試験比率を以て判定せねばならない口
しからば以上の如き経営佃依梢造の量的緊特性に対し︑その質的緊符性とはいかなる意義︑内零を有するものであ ろうか︒基本的に云えば︑それは経営の伺航構造を形成している各個生産力の侃依的存在が経営目的に服して充実せ る状態にあるかどうか︑即ち︑それ本来の機能を能率的に発坪しク
L
ある状態にあるかどうかと云うととである︒と
の場合経営百的とは経営活動に工クて実現せられるのであるから︑経営活動即ち操業度や回転度との関係に・おいて充
実せる状態にあるかどうかと一氏うととにたろうし︑あるいは経営活動は結局生古川高︑売上高︑牧注高となって帰結す
るから生産高︑売上高︑牧恭一両との関係に沿いて能率的に充実せrる状態にあるかどうかと一式うととにもか仏ろう︒財産の
質的緊密性は通常一定期間内に訟ける総売上高に対する各個財産の比率を以て測定され︑就中固定財産回転率︑手持 財搾同転率︑売掛金回転率が最も主要たものとされている︒いまこれらの同転比率が当該経営の照準比率以下にある
・ときは︑財古川価依柿造中に占める固定財産価似のどれだけかの部八刀にアイドルしているものがあるととを示し︑叉手
持財産問転比率が椋準比率以下たるときは︑手持商品恒常在高或は原材料︑半製品︑製品の恒常在高に無誌な仕入に
上るか︑側一川一一川両な州八迭に主くか︑いやれにせよ︑不必要たアイドルした価値額があ宕ことを示すものである︒又総売
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Hかくて以上の如さ名川川財山
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松比ネが知市以上であることは︑それ丈 それら財仰が杭件
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的に服してその能不在発何し充実した状態にある乙とを示すものであるが︑しかし
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aバうとと川︑必十しも知山限にげは貯金休の存立にとっての合理性を意味するものでない乙とな山江しKければな
ら以い口ぶしかかる川松本が刺市に大であると云う乙とは︑他面上り見れば経営活動の阻慌に対しこれら財内
ω仙 似
的存十代荒がむしろ過小にすぎる乙とを示すもω
であるからである︒従ってかかる場合︑来してそれが過小であるかど うかと云うことは前述せる財産価似陥造
ω川成比ネとにらみ合せて判定が行われなければならない円
次に資本の質的緊縮性であるが︑とれば経科日前効の結果である利潤高︑牧桃山︑先上山︑政治刈たどとω
関係にお いて測定せられる口しかるにとの場合注意しなければたらないことは︑性木の町的防続性と云う乙とは結局は財応
ω
質的民総性によって決定せられ︑その反映であると一式うことである︑蓋し経営側似構造に治ける緊続性と一氏クても︑
それを九休的︑羽尖的に決定して
lh
忍ものは先宇財産であり︑財産が設備なり︑原料なり製品なり︑その他財産の形に
みいて如何に充実的に能率的に機能しているかと云う乙とが︑結局その淵川山形態たる資本の緊続性となクτ反映して
きでいるもωとみなければならないからである口あるいは︑これ花佃パの札ハ休的な財産の充宍的な治的'が綜合せられ
て︑作一本の能率性ししなクて現われていると一以クてもよかろう︒机公的な件(木の能不性と一氏クてもそれを分析して考え
れば︑ねい川は民休的な財産の機能の結果に外ならないのである︒とれあだかも小さき多数の歯車の回転が多くのベル
t
によクて綜合され一つの大さな市愉の同転記生ぜしめている関係にも比すべきものである︒小さい歯市の
M
転速度
正大きい一品輸の川転速度とはい山一論一致したζ
い︒しかしその問には一定の比例関係が存する如く︑経営仙似拙造上に長 ける行本
ω質的以州統性も結局は多数の具体的財産の問転速度!駁続性によクて・冗右されているものである︒︹註
3)
かくて以上
ω如き量的︑質的⁝取締性が存するとき︑経営における価値的造は初めて正しく経営にゐける価航活動の
持続似︑以一ね仇花保問し︑何似仙造的に経営の存立を支えてゆくのである︒
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