国際仏教学大学院大学者芳究紀要第 1 号 平 成 10 年 3 月 号 5
ツオンカパにおける無自性論証と正理
、 四 津 谷 孝 道
I
縁起を通して、実体的な有 ( s a t ) に対する執着《春見〉或い辻絶対的 な無 ( a s a t ) に対する執着《無見〉 のいずれの執着にも陥ることなく、
「 空 j に徹していくことが、中観思想、の特設の一つである。 しかし、その ような中観思想も、自らが克服した《有見〉或いは《無見〉にすぐさま傾 斜してゆく危険性を、常に自らの中に潜ませている。たとえば、縁起を通 して得られた諸存在の「無自性 J. I 空 J そのものが逆に実体化、更には絶 対イじされ、或いは「無自性 J. I 空 J に徹するあまり、実体的なものだけに 止まらず、我々が真理を考究する際の依拠となるものまでもが否定されて しまうという危険性が、中観思想、には常に潜在しているのである。ツオン カパ Tsongkha pa B l o bzang g r a g s pa ( 1 3 5 7 ‑ 1 4 1 9 ) は 、 この問題に 鋭い分析力をもって取り組んだ中観思想家の一人である。
ツオンカパが明確に自らの中観思想を展開し始めたのは、 『菩提道次第 論広本 J (Lam rim c h e n mo , 略号 LR) からと考えられる。 中でも
「毘鉢奪那 ( v i p a s a n a ) 章 j における 「無言性 J 論証に関する彼の記述 は、非常に興味深いものである。しかし、 LR におげるこの「無自性 J 論
証に関するツオンカパの論述は、 後 の 著 作 f 善説心髄Jl ( L e g s b s h a d
sη : y z η g po , 略号 LN) 並び、に『正理海 J ( R i g s μ ヲ 窃 J amtsho , 略号 RG) のそれに関する論述を待つてはじめて説得力のあるものとなると考 えられる。筆者はここにツオンカパの「無邑性 j 論証における発展がある ことを己主めるのである。
本稿では、 まず 「無自 f 」 生 論 証 に お い て 重 要 な 役 割 を 果 た す 正 理
( y u k t i)とは何かを検討し、次に LR と RG におけるツオンカパの「無
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n 可
U9 6 ツオンカパにおける無自性論証と正理(四津谷)
自性 j 論証を比較し、その発展において正理がどのような役割を果してい るかを検討してみたい。
韮
y u k t i " ( r i g s [ p a J ) という語には、「結合 j 、「準備」、「適用 j 、「連当 j 等の多様な用法があるが、ここで検討するのは、一殻に「正理j と訳され
るもの、つまり f 道 理 j 或いは「論理 j といオつれるものであり、論書等に おいて聖教 (agama , l u n g ) と共に自らの主張を根拠づける手段の一つで ある所のものである。
ここでは、様々な f 互 理 J の用法が散見できる L まの「毘鉢奪那章 j に 焦点を当て、我々の賑経の中で重要と思われる「正理 j の用法を列挙して みたい cl)
ツォンカパによれば、正理には正しい正理とそうでない正理がある。前 者は、「無垢の正理 J ( r i g s pa d r i ma med p a ) 、 f 勝れた正理 J ( r i g s pa dam pa , 3 9 2 b 5 ) 、 或 い は 「 中 観 滋 、 或 い は 中 観 論 者 の 正 理 J (dbu ma p a ' i r i g s pa , 3 6 4 a 5 , 4 0 9 b 4 ) と称されるもので、 仏 教 内 外 の 実 在 論 者
(bhava‑v 亙 d i n , v a s t u ‑ v a d i n , dngos por smra b a ) 並 び に 中 観 昌 立 諒 (Sv 亙 t a n t r i k a‑ Madhyamaka) 2 ) が捨定する実体的な存在を否定する論理 と考えられる。一方、後者は、 「疑獄正理 J ( r i g s pa l t a r snang , 3 6 5 b 6 ) と稔きれ、上述の実体的な存在を措定する仏教内外の実体論者の論理であ ると考えられる。〈尚、以下においては単に「正理j と言った場合は、「無 垢 な 正 理 j 等の正しい正理を示す。〉
正理どは、次に列挙するそのほとんどの用例が示すように、勝義レベル で考察するもの、言い換えれば、勝義的な対象、或いは対象が勝義として 成立するか否かを考察するものである。(以下においては、 r i g s pa" と いう表現の中に r i g ss h e s " という表現も含まれる。〉
g c i g t h a dad dpyod p a ' i r i g s pa (ある二つのの対象が[勝義とし て]同一であるか、或い誌全く別異かを考察する) ( 3 5 3 b 5 ‑ 6 , 4 5 3 b 5 ‑ 6 )
‑ 197‑
ツオンカパにおける無自性論証と正理(四津谷) 9 7 mthar t h u g dpyod p a ' i r i g s pa (究極、 期 ち 勝 義 を 考 察 す る )
( 3 6 3 b l )
t s h u l b z h i n du dpyod p a ' i r i g s pa (対象を如理に考察する) ( 3 6 4 a 2 ‑ 3 , 3 7 6 b 6 , 4 0 4 a 2 )
' t h a d p a s b s g r u b p a ' i r i g s pa ( 合 理 に よ っ て 証 明 さ れ る 正 理 )
( 4 6 6 a l )
d e n y i d 日 a Jdpyod p a ' i r i g s pa (真実を考察する) ( 3 4 7 b 3 , 3 6 3 b 3 , 3 6 6 a 2 , 3 6 6 a 3 , 3 8 0 b 2 )
d e kho n a l a dpyod p a ' i r i g s pa ( 1 / ) ( 3 6 4 b 2 , 3 6 5 a 4 )
d e kho n a n y i d l a dpyod p a ' i r i g s p a (グ) ( 3 6 3 b l , 3 6 3 b 3 ‑ 4 , 3 6 6 a 6 , 3 7 6 b 6 , 3 8 0 b 4 , 4 0 4 a 4 )
d e kho n a n y i d du g r u b pa ma g r u b dpyod p a ' i r i g s pa (対象が 真実として成立するか杏かを考察する) ( 3 4 7 b l )
d o n dam g t a n l a も e b sp a ' i r i g s pa (勝義を決択する) ( 3 6 7 a 5 , 3 6 7 a 6 )
r a n g g i n g o b o s g r u b pa y i n min r i g s p a s dpyod (対象が自体に よって成立するか否かを考察する) ( 3 7 8 a 2 )
r a n g b z h i n yod med dpyod p a ' i r i g s p a (対象に吉性が有るか否 かを考察する) ( 3 6 4 b 2 , 3 6 4 b 3 ‑ 4 , 3 6 4 b 5 , 3 6 4 b 6 , 3 6 5 a 2 , 3 7 4 a 6 , 3 7 8 a 5 ‑ 6 , 3 9 9 b 3 , 4 0 9 a l ‑ 2 , 4 3 4 b 6 , 4 3 8 a 6 , 4 4 8 a 6 , 4 4 8 b 3 )
r a n g b z h i n yod med t s h u l b z h i n [ d u J dpyod p a ' i r i g s pa (対象 に自性が有るか否かを如理考察する) ( 3 7 6 b 6 , 3 7 7 b 3 , 3 7 7 b 4 , 3 7 7 b 6 , 4 1 2 b 2 )
y i n t s h u l dpyod p a ' i r i g s pa (対象の[真実としての]あり方を考 察する) ( 4 0 0 a 3 , 4 0 4 a 4 , 4 3 4 a 3 , 4 4 4 a 2 )
t s h u l b z h i n du dpyod p a ' i r i g s pa (対象を如理に考察する) ( 3 6 3 b l , 3 6 4 a 3 ‑ 4 , 4 0 4 a 2 )
r a n g b z h i n yod med t s h o l b a ' i r i g s pa (対象に自性が宥るか否か を探る) ( 3 6 7 a l ‑ 2 , 4 3 8 a 5 , 4 4 8 a 4 ‑ 5 , 4 4 9 a 3 , 4 5 3 b l , 4 5 3 b 6 )
r a n g b z h i ngog p a ' i r i g s pa (自性を否定する) ( 3 4 9 b 4 , 3 5 3 a 4 ,
P O
A 可
U9 8 ツオンカパにおける無自性論証と正理(四津谷) 3 5 4 b l ‑ 2 , 3 5 4 b 4 , 3 5 4 b 6 , 3 5 5 a l , 3 5 7 a 2 , 3 7 6 b l , 4 1 0 a 3 )
rang b z h i n yod pagog p a ' i r i h s pa (対象に自性が宥ることを否 定する) ( 3 6 3 a 3 ‑ 4 , 4 6 0 b 5 )
rang g i ngo bos grub pa ' g o g p a ' i r i g s pa (自体によって成立す るものを否定する) ( 3 5 6 a l )
bdag skyegog p a ' i r i g s pa (自らょっ生じることを否定する) ( 4 5 7 a l )
gzhan skyeζgog p a ' i r i g s pa ( 飽 よ り 生 じ る こ と を 否 定 す る ) ( 4 4 2 a 5 )
このような r i g spa" という語は様々な動詞表現と結びついて、 以下の ような用法を示すことが確認される。
。対象が正理の考察・検討に耐える (正理による考察・検討に酎えるも のとは、後述するように、正理による考察の対象ではないことを意味 するが、 正理による考察・検討に耐えないものが必ずしも正理によっ て否定されるとは限らない。)
ngs pa 十 dpyod[ k y i s ] [ m i J bzod (正理による考察に而すえる或いは耐 えない) ( 3 4 7 b 3 , 3 4 7 b 4 , 3 6 3 a 5 , 3 6 3 b l ‑ 2 , 3 6 3 b 2 , 3 6 3 b 3 , 3 6 3 b 6 , 3 6 5 a l , 3 7 8 a 3 , 3 7 8 a 6 , 3 8 0 b 2 ‑ 3 , 3 8 0 b 4 , 4 0 4 a 4 , 4 1 2 b 6 , 4 1 8 b 4 , 4 4 4 a 2 ‑ 3 , 4 4 4 a 3 )
ngs pa 十 brtagbzod ( 3 4 7 b l ‑ 2 , 4 1 6 a 2 )
2 ) 対象がこの正理によって得られるー成立する・措定される (後述する ように、対象が正理によって得られた(=成立する等)からといって、
それが必ずしも勝義として、 或いは真理として存在することわけでは ない。)
ngs pa 十 (mao r m i ) rnyed pa ( 3 6 3 b 4 , 3 6 3 b 6 , 3 6 4 a l , 3 6 4 a 2 , 3 6 4 a 3 , 3 6 4 a 3 ‑ 4 , 3 6 4 a 5 , 3 6 4 b 3 , 3 6 4 b 5 , 3 6 4 b 6 , 3 6 5 a 2 , 3 6 6 a l , 3 7 8 a 2 , 3 7 8 a 3 , 3 7 8 a 4 , 4 0 0 a 3 , 4 3 8 a 2 , 4 3 8 a 6 , 4 3 8 b l ‑ 2 , 4 4 5 b 6 , 4 5 3 b l , 4 5 3 b6 , 4 7 1 a 4 , 4 7 9 b 6 ) c f . 3 7 8 a 5
F h U
Q d
τ 1
占
ツォンカパにおける無自性論証と正理〈四津谷) 告 号
r i g s p a + [ m i J g r u b pa ( 3 6 3 b 6 ‑ 3 6 4 a 1 , 3 6 4 a 1 , 3 7 4 a 6 , 3 7 7 b 6 , 4 0 9 a 2 , 4 0 9 a 3 , 4 3 4 b 6 , 4 3 8 a 6 , 4 4 8 a 4 , 4 5 3 b 1 )
ngs p a 十 g r u bpa ( 3 6 4 a 1 , 3 7 7 b 5 ) r i g s p a + ' j o g pa ( 4 1 2 b 2 , 4 3 8 a l ‑ 2 )
3 ) 対象が正理によって証明(=論証)・決択(=決定)される
ngs p a 十 b s g r u bpa ( 3 9 1 b 6 , 3 9 2 b 6 , 4 0 8 b 4 ) r i g s p a +nges pa ( 4 1 2 a 5 , 4 4 8 a 3 )
r i g s p a + g t a n l a ' b e b s pa ( 3 5 3 b 6 , 4 6 0 b 5 )
4 ) 対象が正理によって否定される ( i 正理によって否定される j とは、対 象が勝義として、或いは真実として成立しないことを意味する。)
r i g s pa+g e g s pa ( b k a g p a , dgag p a ) ( ' g e g s p a : 3 5 6 a l ‑ 2 , bkag p a : 3 4 9 b 4 , 3 5 3 a 4 , 3 5 7 a 2 , 3 6 2 b 3 , 3 6 3 a 5 , 3 6 7 a 2 , 4 1 6 a 2 , 4 4 9 b 4 , 4 7 9 b 6 , dgag p a : 3 5 4 b 4 , 3 5 7 a 4 , 3 6 4 b 4 , 3 6 5 b 4 , 3 7 6 a 2 , 3 7 9 a 3 , 3 8 0 a 3 , 3 9 2 b 6 ‑ 3 9 3 a 1 , 4 2 6 a 5 , 4 4 8 b 3 , 4 4 9 b 1 , 4 5 7 a 1 )
r i g s p a ' i dgag bya ( 3 9 1 a 4 , 3 9 1 a 6 , 4 1 0 a 3 , 4 5 0 b 3 , 4 6 7 a 2 ) r i g s p a +phar l a bkag pa ( 4 1 0 a 3 )
r i g s p a + [ m i o r maJ k h e g s p a ( 3 4 7 b 1 , 3 6 3 b 2 , 3 6 3 b 6 , 3 6 4 a 1 , 3 6 4 a 2 , 3 6 4 a 4 ‑ 5 , 3 6 5 a 5 , 3 6 6 a 1 , 3 7 8 a 3 , 3 7 9 b 5 , 4 0 9 a 3 , 4 1 6 b 4 , 4 3 8 a 6 , 4 4 8 a 6 , 4 4 9 a 4 , 4 5 3 b l , 4 5 7 a 1 )
r i g s pa +phar l a mi k h e g s ( 3 6 5 a 5 )
ngs p a 十 [m i ] gogpa ( 3 4 8 a 6 , 3 5 4 b 4 , 3 5 4 b 6 ‑ 3 5 5 a l , 3 5 5 a l , 3 5 7 a 2 , 3 6 3 a 3 ‑ 4 , 3 6 3 b 3 , 3 6 4 a 3 , 3 6 5 b 4 , 3 6 6 a 2 , 3 6 6 a 3 , 3 6 7 a l , 3 6 7 b 4 , 3 7 5 a 6 , 3 7 9 a 5 , 3 7 9 b 4 , 3 7 9 b 5 , 3 8 0 a 4 , 3 8 1 a 4 , 3 8 2 b 5 , 3 8 3 b 4 , 3 8 3 b 6 , 3 9 3 a 1 , 4 1 2 b 6 , 4 5 4 a 1 )
r i g s pa + [m i ] gnod pa ( 3 6 3 b 2 , 3 6 4 b 5 , 3 6 7 a 5 , 3 7 6 a 3 , 3 7 6 a 3 ‑ 4 , 3 7 7 b 4 , 3 7 7 b 5 , 3 7 7 b 6 )
r i g s pa + gnod pa [m i ] ' b a b pa ( 3 7 6 b 6 , 3 7 7 b 3 ) r i g s pa + gnod byed ( 4 4 5 b 6 )
ngs pa 十 g s i 1 ba ( 4 4 9 b 2 ‑ 3 )
d 品&
ハ 可 ︾
1 0 0 ツオンカパにおげる無岳性論証と正理(四津谷〉
ngs pa 十 sun' b y i n pa ( 3 6 3 a 5 , 3 6 7 a 6 , 367b6 , 379a5 , 380a3 , 393a2 , 4 7 1 a 4 )
r i g s pa +sel ( 4 1 2 b 5 , 4 1 2 b 5 ‑ 6 ) ngs pa 十 rnambcad pa ( 4 4 8 b l )
r i g s p a ' i mtshon g y i s . … . b s h i g ( 4 7 5 b 2 )
盟
次に、 正理によって否定される対象 3 ) とそれを措定する知について述べ てみたい。
正理と t i " 前述のように、実体的なもの、即ち《諦存〉を否定するもの であるが、 その《詩有〉を設定するものは、《諦執) ( b d e n [yod p a r J ' d z i n [ p a J ) と呼ばれる執着である。この《諦執〉は、色・声等の諸存在 に 対 し て 自 己 同 一 的 な 実 体 性 を 不 当 に 付 与 ( =<<増益め す る 無 明 ( a v i d y a , ma r i g p a ) のことである 4 ) 。では、この無明(ニ《諦執))とは 如何なるものであろうか。 5 )
ツォンカパにおいては、無明は i < < 無染汚〉の無明 J と i < < 有 染 汚 〉 の 無 明」 とに分けられる。 前者は、 煩悩の種子ではないところの習気であ
り Y 知 に 顕 現 ( s n a n g[ b a J ) が生じる原国であるところの 7) i 所 知 障 J ( j neya ‑avara 手 a , s h 缶 詰 y a ' is g r i b p a ) である P 後者は、いわゆる三毒と 呼ばれるものの一つである「愚痴 J (moha , g t i mug) と同義でり、め煩悩 の種子としての習気であると考えられる。また、この i < < 有染汚〉の無明 J
は 「 生 来 ( = <<倶生)) ( l han s k y e s ) の 無 明 」 と 「 後 天 的 ( = <<遍計)) (kun b r t a g s ) な無明」との二種類に分けられる。 10) i < < 逼計〉の無明 J , 土 、 仏教徒あるいは非仏教徒の学説論者 ( g r u b mtha' smra b a ) にのみ有る もので、 この無明によって誤って構想されたものとしては、常住、唯一、
主宰的なアートマン、空関的に無部分な極徴(=所取〉と時間的に分割き れない知 (=詑取) のない自己認識 (=自証知)、 根 本 原 困 (=pra ・
占 l a n a ) 、 自 在 天 ( = i s v a r a ) 等が挙げられる。 11) 一方、 i ( ( 倶 生 〉 の 無 明 J i 土 、 12) 十 二 支 援 起 の 第 一 支 の 無 明 の こ と で あ り 、 ∞ 「煩 f 道産 J ( k l e s a
‑avar 平 a , nyon mongs k y i s g r i b p a ) のことである。 そして、 それ誌世
Q U
A Y
1 0 1 ツォンカパにおける無自性論証と正理(沼津谷)
{谷請を措定するものであり、 14) 宥需を輪廼に結び、つける根本的な原霞なの である。∞更に、 この r < < 倶 生 〉 の 無 明 」 は 二 我 執 、 即 ち 人 我 執 ( g a n g zag g i bdag ' d z i n = gang zag l a bden ' d z i n ) と詮我執 ( c h o sk y i bdag ,
なのでもある。 16) (→函 1 参照) d z i n = c h o s l a bden ' d z i n )
(所知欝、頭悩の種子でない習気) { 図 1)
汚の無明
無 明 一 七 割 九 汚 の 無 明 ( 弓 の 愚 痴 、 煩 1 ' 掻壁、 煩憧の種子としての 習気)
「異生の無明(=人我執・法我執)
正理の否定対象の中でも最も根本的なものは、有情を輪廼に結びつける ところの「人我執 j と「法我執 j であると考えられる。
の我執の対象である「人」或いは び、に「法 J (dharma , c h o s )
I V
それら二つ 並 では、
「プドガラ J ( p u d g a l a , gang z a g ) は正理によってどのように否定きれるであろ
それの成立が うか。
まず、「人我執 J の対象である「プドガラ」に関しては、
可能となる次のような七つの選言支が設定きれる。
プド方、ラと五蓮は同一で、ある。
プド芳、ラと五蓮は異なる。
プドガラが能依であワ五蓮が月号依である。
プドガラが所依で五蓮が能依である。
プドガラが五窪を有する。
プドガラは五蓮が唯集穫されたものである。
︑ ︑ i
︐ ︐ ︑ ︑
2 F
︐ ︑
︐
ノ ︑
i ノ
︑
1 F
ノ ¥2/
︑ 電
g/
1 ‑
︒ ︐ 中
q t U A
斗 A F D P O
ウ t プドガラは五謹がある特定な配列で結合したものである。 17)
これらのいずれの場合も f プ ド ガ ラ ( = 入) J は存在し得ない ことより導き出される結議が、「入無我j なのである。
‑ 1 9 2 ‑
そして、
1 0 2 ツォンカパにおける無自性論証と正理(四津谷)
また、法我に関してはそれの成立が可龍となる次のような四つの選言支 が設定される。
1 ) 諸存在は自らより生じる。
2 ) 諸存在は億より生じる。
3 ) 諸苓在は自と他の両者より生じる。
4 ) 諸存在は原因なくして生じる。 18)
そして、入無我の場合と同様に、これらのいずれの場合においても法我 は存在し得ないことより導き出きれる結論が、「法無我」なのである。
V
では、つぎに L まと RG の間にみられるツオンカパの「無自性」論証の発 展と、そこにおいて正理がどのような役割を果たしているか検討してみた
し " 0
まず、 LR で述べられた無自性論証における正理の役割について述べて みよう。
ツオンカパは ( A ) i 対 象 が 正 理 に よ る 考 察 に 耐 え な い J ( r i g s pas dpyad mi bzod p a ) と i ま ( B ) i 対象が正理によっては得られない J ( r i g s pas ma rnyed p a ) のことであるとする。 19) 更に、役は後者を ( C ) i 対 象 が正理[知]によって成立しない J ( r i g s s h e s k y i s mi grub p a ) と同義 とする。 20) これら三つは、ツオンカパの無自性論証を理解する上において 重要な概念であり、 これら三つが同義とされていることが、 LR における 無自性論証の大きな特徴の一つである。
ツォンカパによれば、いかなる存在も正理の考察 i こ耐えうるものではな いのであるが、 21) この「対象が正理による考察に耐えないもの J には、二 種類のものがあると考えられる。第ーのものは、対象が正理による考察の 範匿の内にあり、 そしてそれは正理によって損なわれるもの ( r i g s pas gnod p a ) 、 郎ち正理による考察によって否定きれるものなのである。 こ れは、前述の《有垢なる正理〉によって措定されたものであると考えられ る。第二のものは、対象そのものが正理による考察の範囲の外にあるもの
Q d
ツオンカバにおける無自性論証と正理(四津谷) 1 0 3 で、正理による考察の対象とならないものである。つまり、正理が全く関 与しないことによって、 それは正理によって損なわれる (=否定される〉
ことも宥定されることもないのである om このような正理による考察か加 えられず、 正理によって損なわれる (=否定される) こともないのもの は、さらに f 通常の言説知 J ( t h a snyad p a ' i t s h a d ma) 或いは「言説の 量 J ( t h a snyad p a ' i t s h a d ma) 、 即ち迷乱を生じきせる一時的な原国に よ っ て 汚 さ れ て い な い 明 噺 な 感 官 知 ( ' p 註 r a lg y i p h r u l r y u s ma b s l a d p a ' i dbang po g s a l b a ' i s h e s p a ) によって措定きれるものと、 そうでな いものの二種類に分けられる。前者は、 しばしば お am" という語を付 して、たとえば「単に存在するもの、《唯喜) J ( y o d pa t s a m ) 2 3 ) や 「 単 に生じるもの、〈唯生) J ( s k y e ba tsam) 等のように表現されるものであ る《言説有〉と、 2 4 ) そして後者辻《言説無〉と称されるものである。〈→
図 2 参照) ( 菌 2)
正理による考察に耐えないもの (=正理によって拾得られないもの、
正理[知]によって成立しないもの〉
正理による考察の範囲の内にあり、 正理によって損なわれる (=否定される)もの
正理による考察の範囲の外にあり、 正理による考察が加えら れず、従って正理によって損なわれることがないもの
〈言説有 )‑1 通常の言説知 j あるいは「言説の量 j 却 ち 迷 乱 を 生 じ さ せ る 一 時 的 な 原 因 に よ っ て 汚 さ れ て い な い 明 噺 な 感 官 知 に よ っ て 措定されるもの 25)
〈言説無〉一一時的な原因によって汚された感官知に よって措定されるもの
LR において ( A ) 1 正理による考察に耐えない」、 ( B ) 1 正理によって
ハ V
1 0 4 ツオンカパにおける無自性論証と正理(西津谷)
は得られない」、そして ( C ) r 正 理 に よ っ て 成 立 し な い J の三つが司義と されたことは入 ツオンカパが ( A ) ' i 正 理 に よ る 考 察 に 耐 え る か 否 か J 、
( B ) ' r 正理によっては得られるか否定通」、そして ( C ) ' r 正 理 に よ っ て 成 立 するか否か」の三つを同義と理解していたことを示すと考えられる。しか し 、 それに対しては次のような反論が予想される。 r 自性は確かに正理に
よって成立しないが、無自性は正理によって成立すると言えよう。それな らば、無自性は正理による考察に耐えるもの、そして正理によって得られ るものとなるのではないか。もしそうならば、無自性そのものが実体的な ものとなってしまうであろう。」お) これは、 上 記 の 三 概 念 ( A ) ' , ( B ) ' , ( C ) ,を同義と見なすことより論理的に当然予想される反論と考えられる。
ツオンカパがこのような対論者からの反論を想定し、それに対して明確な 答えを提示したのは、 L まではなく RG においてなのである。 RG において ツ会ンカパは、 以下に示すように、 LR に お い て 自 ら が 同 義 と み な し た
「正理によって得られること」と「正理による考察に耐える j というこつ の概念を区別することによって、上記の長論をかわすのである。
まず、芽等が真実として ( b d e np a r ) 有るか否かが検討され、[芽等が真実と して存在しないと見られ]る。次に、[その] I 真実[として]存在しないこと ( b d e n med) が正理知によって得られるから、再度 ( s l a r ) [それが]真実とし て有るか否かが検討されるならば、 [その芽等が] 真実として存在しないこと は、[正理知によっては]得られない ( m ir n y e d ) 。しかし、それ{ニその芽等 が真実として存在しないこと)が[全く]得られなかった (marnyed p a ) 訳 ではない。一方、芽等が究極 (mthart h u g ) を考察する正理による考察によって 耐えるものとして存在するか否かが検討される時も、 [それらが、 正理知によ る]考察に耐えることは得られないのではある。そして、更に、[それらが]正 理知による] 考察に耐えないことまさにそれが、 正理知による考察に躍すえるも
のとして春在するか否かが検討される場合も、 まさにそれ (‑芽等が究極を考 察する正理による考察によって耐えるものとして存在しないこと)は、[正理に よって全く]得られない ( m irnyed p a ) のである。従って、「正理知によって得 られること J と「それ(正理知による考察〉によって耐えること j の両者も同
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ツォンカパにおける無自性論証と正理{四津谷) 1 0 5 [義]ではないのである。 27)
まず、 f 芽等が正理知によって真実として有るか否か」が検討される場 合、それには次のようなプロセスが想定されている。
1 ) 芽等が真実として存在するか否かが正理によって考察される。
→芽等が真実として存在することは、正理によって得られない (mi rnye 針。却ち、芽等は真実としては存在しない(=無自性である)。
しかし、 「芽等の無岳性性 J は 正 理 に よ っ て 全 く 得 ら れ な か っ た (ma r n y e d ) わけではない。
2 ) 更に、その f 芽等の無自性性 J が真実として杏在するか否かが正理 によって考察される。
→その「芽等の無自性性」は、正理によって得られない。
次に、 「芽等が正理による考察に耐えるものとして存るか否か」が検討 される場合、それには次のようなプロセスが想定されている。
1 ) 芽等が正理による考察に耐えるものとして有るか否かが検討される。
→芽等は正理による考察に耐えるもので、はない。
2 ) 更に、その f 芽等が正理による考察に耐えないこと」が正理による 考察に耐えるものとして有るか否かが検討される。
→ そ の f 芽等が正理による考察に酎えないこと」は、正理による考 察に耐えない。
ここで重要なことは、前述のように、正理による考察に耐えうるものは 全くないのではあるが、あるものは正理によって得られることが有るとい うことである。これは次のように解釈できょう。芽等の自性は、正理によ る考察に耐えるものでもなく、 また正理によって得られるものでもない。
一方、芽等の無自性性は勝義的には(=真実としては)得られないが、言 説的(=世俗的)なものとしては得られると考えられる。そのような言説 的なものは、前述のように正理による考察の領域に属きない(=正理によ
る考察の対象ではない)ことより、正理による考察に耐えるものとしては
1 0 6 ツォンカパにおける無自性論証と正理(四津谷)
苓在しない。しかし、芽等の自性が否定されることは、それらの無自性の 肯定が無ければ成立しないことより 27) 、芽等の無自性性は正理によって得 られなければならないはずである。このように理解すれば、無自性性その ものは、正理による考察に耐えないけれども、それは正理によって非実体 的(=非勝義的)なものとして得られることより、正理によって否定され ることもないのである。これが、ツオンカパによって「互理によって得ら れること」と「正理による考察に耐える j というこつの概念が同義とされ ない理由と考えられる。更に、それによって無自性そのものが実体的であ
ることも屈避されると考えられるのである。
V I
以上のように、「正理 J ( y u k t i , r i g s pa) の働きを中心に、ツォンカパ の f 無自性j論証の発展の一過程を眺めたのであるが、その包括的な理解 の為には、前述のように、正理による考察の対象とはならない言説(二世 俗〉の世界をツオンカパがどのように捉えていたかを踏まえた上で、それ を 役 の 勝 義 の 世 界 に つ い て の 理 解 と す り 合 わ せ る 必 要 が あ る と 思 わ れ る Gm 何故ならば、その両者が重なった所こそが、「無自性 J 論証が展開 される場と考えられるからである。ツオンカパが提示する言説の世界は非 常に複雑で、みり、 またここにも著作間における思想的発展が認められる。
従って、各著作における彼の理解を整理し、それらを比較・検討すること が重要と考えられる。その上で、後代のゲールク j 涯の理解、そしてツオン カパと同時代以降の他学滋よりの批判を検証することによって、ツォンカ パの「無自性 j 論証、ひいては役の思想全体に関する理解がより深まるの ではないだろうか。
註
1 ) ツオンカパにおける「正理 j 関しては、長尾 [ 1 9 7 8 J , p p . 1 3 0 ‑ 1 3 2 、Na‑
p p e r s [ 1 9 8 9 , ] p . 5 5 ‑ 5 6 参黒。
2 ) s p y i r n i dngos po marns l a don d a r n par rang b z h i n yod par ' d o d p a ' i dngos por s r n r a ba dang t h a snyad du de dag ( 4 2 1 a ) l a ran g i r n t s h a n nyid k y i s grub p a ' i rang b z h i n yod par ' d o d p a ' i rang rgyud pa g n y i s ka y i n
月 i
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ツォンカパにおける無自性論証と正理(四津谷) 1 0 7 no / / ( L I ミ . p a . 4 2 0 b 5 ‑ 4 2 1 a 1 )
訳〉一般には、[我々にとっての対論者 ( p h y irgo l)は、]諸存在に自性を認 める実在論者と言説(=世俗)においてそれら(=諸存在)に昌桔によって 成立する吾性が有ると認める[中観]自立援の両者である。
3 ) ツオンカパによれば、 否 定 対 象 (dgag b y a ) に 実 践 的 修 行 に よ る も の ( l am g y i dgag bya) と正理によるもの ( r i g sp a ' i dgag b y a ) が あ り 、 後 者がより重要で、あるとされる。 ( L R . 3 9 1 a 4 ‑ b 4 )
4 ) p h y i nang g i chos rnams rang g i mtshan n y i d k y i s grub par ' d z i n p a ' i rang b z h i n s g r o ' d o g s p a ' i b l o n i &dir ma r i g pa s t e .… ・ /(L R . p a . 3 9 3 b l ‑ 2 ) 訳) [感覚器官の]内外の諸法が岳相によって成立すると捉える、 [即ち] 自
性を〈増益〉する知は、ここにおいては無明であり、.
5 ) ツオンカパにおける f 無明 j に関しては、森山 [ 1 9 9 4 J 参照。
6 ) 習気に辻、 以下に示きれるように、 煩悩の謹子であるものとそうでないも のの二種類があり、後者が「所知障j であるとされることより、前者は f 頭 悩 障 j と考えられる。
nyon mongs k y i s a bon l a bag chags su bzhag pa ( m a . 1 2 1 a ) c i g dang / nyon mongs k y i sa bon ma y i n p a ' i bag chags g n y i s l a s s h e s s g r i b t u ' j o g pa n i p h y i ma s t e / . . . . . (G R . ma. 1 2 0 b 6 ‑ 1 2 1 a 1 )
訳)煩悩の蓮子が習気として設定されるものと煩悩の種子ではない習気の 二つがある中、 所 知 障 は 後 者 (=領'諮の種子ではない習気) であっ て 、
7 ) nyon mongs p a ' i bag chags rnams s h e s s g r i b y i n t e / d e ' i ' b r a s bu g n y i s snang ' k h r u l b a ' i cha thams cad kyang d e r b s d u ' o / / (G R . 1 2 0 b 6 )
訳)諸々の頭' 1 謡 の [ 種 子 の ] 習 気 は 「 所 知 揮 J であり、 その果である能取、
所取の二つの顕現の迷乱なるもの全ての部分もそれ (ニ所知障) に含まれ る 。
8 ) '0 na ' d i p a ' i l u g s l a s h e s s g r i b gang l a byed snyam na / s h e s s g r i b n i thog ma med pa nas rang bzhin yod par zhen p a ' i dngos po l a mngon par zhen p a ' i s g r o byed k y i s sems rgyud l a bag chags brtan ( 4 6 3 a ) par bzhag p a ' i bag chags k y i dbang g i s rang b z h i n med b s h i n du rang b z h i n yod par snang b a ' i g n y i s snang g i ' k h r u l ba rnams y i n t e /…・ ( L R .p a . 4 6 2 b 6 ‑ 4 6 3 a 1 ) 訳)それならば、 この涯(ニ帰謬諒〉 における所知聾とは、持を意味するの
かというならば、[以下のようである。]所知墜とは、無始時来より「自性が 有る j と[いう]存在に執着する《増益〉によって心椙続に習気が堅田に置か れるのである[が、その]習気によって無自性にもかかわらず昌性が有ると 顕現するこ顕現の迷乱なるものであって、
9 ) ' j u g g r e l l a s kyang / ' d i s sems can rnams j i l t a r gnas p a ' i dngos po l t a ba l a rmongs par byed pas na g t i mug s t e ma r i g pa dngos p o ' i rang g i ngo
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1 0 8 ツォンカパにおける無自性論証と正理(西津谷)
bo yod pa r n a y i n pa s g r o ' d o g s par byed pa rang b z h i n r n t h o n g ba l a s g r i b p a ' i bdag n y i d can n i kun rdzob bo z h e s dang /…. ( L R . p a . 3 9 4 a 4 ‑ 5 ) 訳) r 入中論』自注(略号、 MABh) においても「これによって、諸々の有需
があるがままの存在を見ることが妨げられるから、愚痴、即ち存在の自体が ないものを[自体が有ると J <(増益〉し、 自性(=存在の本質〉を見ること を覆う性質を有する無明は世俗である。と.…
ツオンカパにおける「所知障j に関しては、小 J I I [ 1 9 8 8 J 参照。
de l t a r gsungs p a ' i g t i r n u g n i dug g s u r n g y i ya g y a l g y i g t i rnug ngos ' d z i n p a ' i skabs y i n pas / nyon r n o n g s can ( 9 0 a ) g y i r n a r i g pa y i n z h i n g /…… (G R . r n a . 8 9 b 6 ‑ 9 0 a 1 )
訳)そのように説かれた「愚痴」とは、三毒の一つである愚痴〔のことであ る]と理解きれている箇所であるから、 〈存染汚〉の無明であり、.
1 0 ) 無明と同様に、〈諦執〉にも《遍計〉とま模生〉の《諦執〉が有ると考え られる。
de yang grub r n t h a ' s r n r a bas ' p h r a l du kun b r t a g s p a ' i bden grub dang / bden ' d z i n ngos z i n pa t s a r n g y i s r n i chog p a ' i p h y i r /註lO gr n a r n e d pa nas r j e s s u zhugs pa / grub r n t h a s b l o bsgyur r n a bsgyur g n y i s ga l a yod p a ' i l h a n skyes k y i bden ' d z i n dang / d e s bzung b a ' i bden grub l e g s par ngos z i n pa n i s h i n t u che s t e /…・ (G R . r n a . 8 1 a 4 ‑ 6 )
訳)更に、学説論者によって一時的に《遍計〉された〈諦成〉と《諦執》を 理解するだけでは十分で、 i まないから、無始より髄住するもの[と]学説に よって慧 (=知) が変革されている人と変革されていない人の需者に有る
《倶生〉の《諦執》と、それによって執されている《詩成〉をよく知ること 辻非営に重要なのである。[荷放ならば、] .
これら二種類の《諦執〉辻、〈遍計〉と《倶生〉の無明に相tr;すると考え られる。
1 1 ) de l a rang gzhan g y i s d e pa dngos por s r n r a ba r n a r n s k y i ' d o d pa thun rnong r n a y i n pas kun b r t a g s p a ' i gzung ' d z i n cha r n e d dang bdag dang g t s o bo dang dbang phyug pa r n a r n s n i de dag g i s r n a r n par ' og pa na . j
( L R . p a . a l ‑ 2 )
訳 ) そ こ に お い て 自 部 作 仏 教 徒 ) と他部(=非仏教徒)の実在論者達の独 自な説によって遍計された諮取、 所取という部分のないもの 〔自己認識=
自証知)、アートマン、根本原因、そして自在天がそれら(=正理)によっ て設定されるとき、.
1 2 ) ツオンカパは結具生〉の《諦執) (=無明)の対象の執着する六種類の様 相を挙げている。
sngar bshad p a ' i r n i n g g i t h a snyad k y i dbang t s a r n k y i s bzhag pa r n i n p a ' i yod par ' d z i n pa n i / bden pa dang don d a r n p a r dang yang dag t u
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