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日本西蔵学会々報 (32) 002四津谷 孝道「Tsong kha paによる自立論証批判」

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(1)

  yad亘na 

bhavo

 nAbhEvo  mateh  sarptisLhate  purab/ta

 

d

亘nyagatyab 聴 vena  nirAla 皿 bfi pra≦石myati Minayev  ed

 p

210>

(11) 

The

 

Collected

 

Works

 of  

Bu ←

ston

 

Part

 24

 

≦atapi aka  

Series

 

Vol,

64

 p

859

,11.

4

6

(12) 

D .

No

3873 (

P

 No

5274

 La 331 a2

6

(13)  7

he  Co99ected Worfes of Btt

ston

 Part 26

 

≦atapitaka  

Series

, 

Vol.66,

 

New

 

Delhi,

1971

 p

 579

 

II.

5

7

(14)

Cf.

 

r

デ ンカ ル マ 目録

芳 村 No

653 Lalou

NQ .659.

な お

訳経 論 目録 (

dkar

 chag )に お け る

 巻 (

bam

 poシュ ロ

カ (shlQ

−ka

)とい う分 類 基準  に関しては

,M .

 Lalou

“Les textes bouddhiques au

temps  

du

 roi 

Khri−

sro 血

lde

−bcan

Journal

 

Asi

αtigue

 1953

 pp

 313

3工5 等参照o

(15)  The  

Collected

 

Works

 of  

Btt・

ston , 

Part

 

24

 .

9atapitaka

 

Series

 

Vol.

64

 p

860

.1.

1

(16) 先の

Tib,

訳 (版 本)

BCA

の奥 書 によれ ば

カ  シ ュ ミ

ルの写 本である とい う

(17) BCA の各 註 釈の性格と概 略につ い て は

江島恵  教 厂

r

入菩 提行論』の註釈文献につ い て」 (『印 仏 研 』  14

2

1966年

pp

190

194) を参 照

な お

 P

 

No ,

5274r 入菩 薩 行 論 解 説 細 疏』は 現 行の

卜章 本 で な  く, 九 章 本 BCA に対する註釈で あり, 後者に対照す れば 「錯簡」は見られ ない。 ま た

,BCA

の主要 偈 を 抜粋した (9)と (10)の 二 文 献に関し て は H

 Eimer ,

Suva

叩 advipa ,s 

Co

皿 mentaries  on  the Bodhicary百

 vut 百ra

 Stdien xunt  

Jainisin

5 und  

Bucldhismus

 

 Gedenkschrift

 

ftir

 

Ludwig

 

Alsdorf,

 

hrsg.

  von  

K .

Bruhn u

 A

 

Wezler,

 Wiesbaden

1981

 p

73

78参

 照

(18) 羽田野 伯 猷 「チベ ッ ト大蔵経縁起〔その

 

ル タ ン大学 問寺の先 駆的業績を め ぐっ て

」 (

r

鈴 木

 学 術 財 団 研 究 年 報』3

1966年)pp

42

−50.

(19)  7麁8 

Collected

 TVorks  Bu

ston

 

Par

辷 26

 Satapi aka  Series Vol

66

, p

579, 

L

 5

−p.

580

,1.

6

(20) ア テ ィ

シャ (

982−1054

)お よ びツ ル ティムギェ  ル ワ の訳とされ るこ の両論は

十章本か らの抜 粋 集で  あ る に もか かわ らず, 九 章本の訳文に

致し て, 現行  の十章 本の偈 頌訳 に相違する例がい くつ か見ら れ る。  これは

ア テ ィ

シャ に よ るこ の両 論の訳 文が, リ ン  チェ ンサ ンボに よ る

i『

章 本の第

次翻 訳に

致 あるい  は近似し て いるこ と による もの と推 測 さ れ よ う か。

Cf,

 

H ,

 

Eimer,

 eit

, n

26

,28,32,35,36,38,39

 斎 藤 明 「敦 煌 出 上ア ク シャヤマ テ ィ

r

菩薩 行論  と その周 辺」 (山口瑞 鳳 監 修

r

チベ 仏 教 と社 会 春 秋 社

1986年刊行 予 定 )n

34

(21) こ の小稿は

も とよ り昨秋の学 術 大会 発表 用原 稿

 

を 訂 正

加 筆し た もの で

斎藤上掲論 文の要 約に当た

 

る。 説明 が 些 か寸 足らずである点は会 員 諸 賢の御 寛恕  を 乞 うと ともに, 上掲の拙 論 をあわせ て参 照 頂 け れ ば 幸い である

なお学会発 表に際し

山 ロ瑞鳳教授

な  らびに 西 岡 祖 秀 氏よ り貴重 な御教 尓 を 得 た。 記 して謝  意 を表したい

Tsong

 

kha

 

pa

よ る

証 批 判

四 津 谷

 孝  道

 

L

  「自立 論 証 (rang  rgyud  

kyi

 

jes

 su 

dpag

 pa)凱

判 」, これ は精鋭 な る

Tsong

 

kha

 

pa

(1357

1419

略 号

T .

)の思想を考 究してゆ く上 で最 も重 要 と思われ る 主題 の

つ で ある

  我々が窺い知る囲で 「自立 」(svatantra )とい う表現 を 前 論者の論証式に付し

そ れ を批 判する こ と が 示 さ れ る 最初の論 書は

,PrasannaPaddi

(略 号

PP .

)で あ る。 即 ち

,Candrakirti

(600

650 頃, 略 号

C .

)に よっ て で あ る1, 。

 こ の C を極め て高く評価する T は

,Lam

 rim  chen mo 略 号LR

)Legs bshad

sveying  

Po

(略 LN

〉等 の著 作に於て

この

C

の 「自立論証批判」 を 下 敷 きに 自 らの 見 解 を うちたて て いるの で あ る。  し か し

T に よ る 「自立論証批判」と

C

に よ るそ れの 根底を流れ て い る思 想は, 多 分 に色 調 を異にするもの で ある

ある意 昧では

そ れ は C の 註葉の中に T が自ら の思 想 を読み込んだ とも解 釈で き

ま た あ る意 味では,

T

自身の思 想 が 先に瀝 然と存 在し

そこに偶々 そ れ を許 容 し う る だ けのもの と して C の教説 が あっ た とも 見倣 すこ とが で き るものなの である2) 。

 また

それは

Sh

hya

 mchog  ldan(1428

1507

略 号

S.

dBu

 ma  fxam  nge の第二 章に 於 ける PP に対し て よ

り忠 実と思 わ れる

S

自 身の釈と

LR 等に表され た 同 書に関 する T の解 釈とを上ヒ較し

その相 達 を闡 明する

(2)

こ と に よっ ても C と T の思 想の相 違 を 推察するこ と が

できるのである3)

。 ま た

その相 違 は

,S

と同じ流れを

汲 む

Go

 ram  pa 

1429−

1489>に よっ て T が断 辺 中 観 派

Chad

 mtha ’

la

 

dBu

 mar  smra  

ba

と呼称さ れ, それ

が離辺中 観派 (mTha

bral la 

dBu

 mar  smra  

ba

よ り

劣る と さ れ たこ と“

並 び PP 解 釈 等見 られ

S

中観思 想 が離辺中観的で あ る こ とb)に 反映 され も考え られ るの で ある。

 

本 論 にす す む 前 に, 当稿に於ては

T

の 著 作の中でも 特に

r

自 立 論証 批 判 」を詳 細に扱っ でい る LR を 主 な 資 料とする こと を記し ておきたい。  

II.

  先 ず

 

LR

於 け 「自論 証 批 判 」の大ま か な 構 成 を 示し てお き たい   厂自立 論 証 批 判 」は

同 書に於て 「帰 謬と自立 〔へ の 分岐を把 握 する」 とい う項 目の中

「自説を うち た て る こ と」 (聰   gi 

lugs

 

bzhag

 pa) とい う設 定の下で展 開 さ れ るので あ る。 特に その前半部で は

自立論 証 を 構 成 す

る有 法 (chos  can と証因 (gtan tshings)が成立し な い こ と に基づい て 「自立 」 (rang  rgyud )とい うこ とが帰 謬 派の立場か ら直 接的に批 判 され てい る そ して その篌 半 部で は

帰謬派

一 T

にとっ て は唯

この派のみが中 観派 で あ る

一一

がうちたて る論 証の有 法 等が

対 論 者に 極 成するもの (gzhan 正a grags paあ ることを示 すこ とによっ て

そ れ が 間接的に撹判され てい るので あ る6)  

IIL

 次 に, こ の 「自立論証批判 」で重要 な 働 き をす

る 「前 論 者 」 (snga  rgol) 並び に 「後論者」(phyir rgol 或は phyi rgol に関し て言 及し てお き たい

 

般に 「論 争 」とい う ものに於ては

少なくとも 「自 らの主 張 を うち た て る 人」と 「そ れ を批 判 する人」とい う設 定 が必 要 であ る。 チベ ッ ト で は こ の 「論争」が “ rtsod pa” いわれ 「自らの主 張 を う ち たてる 人」は 「前 論 者 」

「そ れ を批 判 する人」は 「後論者」と称 され

各々 の役 割 が 明確に定め られ てい るの である。 しかし, LR 及 び その 他の著 作の中に

T

自身によるそれら の定 義 を現 在の所 見い 出せ ない こと よ り7) , こ こ で は

S

の説 を

目安 とし て採 用 す 。  

S

前 掲 書の PP を解釈 する箇 所で 「前 論 者 」 並 び に 「後 論者」の性 格 を次のよ うに要 約し てい る。   要 約 す れ ば

自 らの 主 張 (ra皿g phyogs )を証明する

 

こ とが 前 論者と して設定 することの主 な もの(gtso 

bo

 で あ り

そし て対 論 者 (gzhan)の主張 を 否 定す ること  が後論 者と して設 定 するこ との主 なもの である。 (BN  

kha,

32a 6

〜7

L

この要 約 部 分 以 前の記 述で は, 「前 論 者 」 に関 す る次の ような記述を与えて いる

  前 論 者と〔自ら〕認め た後, (khas blangs nas )主張

 

を立て る。 後論 者が それの 能 証 〔sgrub  

byed

)を 尋 ね

 

た な らば

白立の因 (rang  rgyud  

k

アi gtan tshigs)と

 実 例 (

dpe

)を提 示 する。 〔そ し て, 後論者に よっ て指  摘 された〕証 因と実例と 主張命 題 (phyogs )の 諸の過  失 (nyes  pa)を排 除す

。 その ように しないな らば

 前 論 者 を 負 処 (tshar 

bcad

 

kyi

 gnas

 nigrahasth 互na)  とするQ (BN  kha

32a4

5)  これ らの記 述を整理する と 以下の ように な る。 前 論者 は自らの主 張 を論証する こ とを事と し

後論者は その主 張を批 判 するこ とを 事とするもの で ある。 又

特に前論 者に関し て は

後論者に対し て主 張 命 題 を うちたて, 後 論者に よっ てそ れの証因 が 問わ れ た場合に は

自立の証 因 と実 例 を 以っ て それに答えな けれ ば ならない。 更に, 後 論 者によっ て証 因 等に関 する過 失が指 摘 さ れた 場 合 は

その過 失 を排 除し なければな らない の であるS )

 以上が

S

える両論者の役割である。 方法論的に は 多少 問 題が あ る と 思 わ れ る が

この説 を採用 し てゆ くこ と にする。

 

IV

先ず

 Tは帰 謬派 (Thal 

gyur ba)のみ を無 自性 論 薪 と見倣し

自立派 と実在 論者とを 共に有自性 論者 と するのである

し か る後に

前 論者

即 ち自らの主 張 を うち たて て 自立証 因 等 を語ら なければな ら ない立 場 に帰 謬 派 を配し

後 論 者, 即ち前 論 者の主 張 を批 判 する 立場 に自立 派 等の 有 自性論 を配 するの であ る。 そ して

前 論 者で あ る帰 謬派が, 有 自性 論 者とされ た 自立 派等の後論 者に対し て 自立証因等に よっ て搆成 される自立 論 証 なる ものを 語り えない こ とが 示 さ れ るので あ る9} 。  これ が

以 下に述べ る

T

の 「自立 論証批 判 」の主 な骨 子 で あ る。 こ こに 於 て自立論 証 を語るべ き 前論者の立 場 に敢えて帰 謬 派 を配したT の意図 は

云何なる場 合に於 て も無自性 論者, 即 ち 真の中観 派であ れば

自立論 証を 語るぺ では ない と証 明 する こ と にあると考え られ る。  

T

は 「自立論証」(rang  rgyud  kyi 

jes

 su 

dpag

 pa>の

うち 「論 証」(rjes su 

dpag

 paと は 「論 証式」 (sbyor

ba

)の こと であ ると述べ い る

LR

 pa

,429

 a 

1〜

2)し か る に

「自立」 (rang  rgyud )に関し て は同 書に於て義 解 及び説 明が 加 え られて いないtO) 。 故に

こ こ では脈絡 の中でそ の語の担っ ている意 味 を 推 察してみたい。  同書に於け る 自 立 論証批 判 に 関する

連 の 記 述 の う ち, 次の ような    自立 を認め ないな らば

敵 者 (pha rol)である実 在

 8 

(3)

 論 者 自身に於ては

そのよ うな〔自相を量 る〕量(tshad  ma )によっ て 〔有 法等が〕成 立 する ことで十分で あっ  て

自らに於て は その 〔自相 を量る〕 量に よっ て 〔有  法等が〕成立する 必要は ない LR pa

429 a 3〜 4 とい う記述か ら は まず

「自立」とい う語に は, た と え ば 有 法 等が少な くとも 「自ら に於て成 立 し てい る 」 とい う意味 が含 ま れてい ると考 え られる。 また

そ れ に関す る他の記述即ち    自立 を認め る な らば, 自相に対し て量となる 量 が

 〔後論者と前 論者の間 に〕共 通 }こ (mthun  snallg  

du

)  認 め られて

そ れ 供 通 な 量

即 ち自相に対 する量 )  によっ て成 立 する 〔証 因の〕三相が両 論者 (後論者並  び に前 論 者 )に於て成 立 する ことに基づい て

所証  (bsgrub bya )が証明 さ れるべ で あ る た が

……

。   (

LR

 pa ,

429

 a 

2〜3

) と

そ して この 記 述の中の特に 「共 通に」(mthun  snang

du

)11) とい う表 現 を解 説 する次の ような記 述

即 ち

  

共 通 に成 立 す る とい う意 味 は, 又 後 論 者に於て 〔有   法 等が〕 ある量に よっ て成 立 するその よ うな 量 に よっ  て 〔有法等が〕 前 論 者に於ても成 立 する こ とで あ る。  (

LR

 pa

420 a 3

4) とい う記 述等か ら 「自立 」に関し て以 下の こ とが導 き出 され る。   「自立」 とは

後 論 者ど前 論 者 が 共 通 な量

即 ち 自相 に対 する量 を 認め

そ れ に よっ て有 法 や 証 因等 が 両 論 者

       コ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

に 共 通 な もの と し て成立する ことの

特に前論者 自 身に於てそ れ ら が成立する側面 を強 調し たもの と考え ら れ る。 つ ま り

「自立論 証 」, 正 確に は 「自立論 証 式 」 と は後論者と前 論 者が共 通に認める量 即ち自相に対 する量 に よっ て, 有 法 等 が両論 者 間に共通 な もの と して成 立す ることを必要条 件とするものである と考えられ る。  そし て

他な らぬ この点に於て

T

による 「自立 論 証 批 判」が 展開され るの である。 以 下に於て は, 特に こ の中 の 「有 法 」に関 す る議 論 を取 り上 げてみ たいQ  

V .

 この

T

による考察は

「声は無常である」云 々 と い う論 証 式 を 例とした PP の議 論に倣っ て進め られ てゆ くの である  そこに於て は

まず 有 法で ある 「声 」,所 証の法 で あ る 「無 常」等 に関す る共 通 な 理解が論証以 前に後論者と前 論 者の間に成 立 すべ こ とが 説か れ る 。 (

LR

pa,

419b

 

4

6

)そ れを 「有 法 」に限 定し て言えば, 有 法 なるものは 後 論 者と前 論者に共 通 な量に よっ て成 立すぺ き ものなので ある。 更に

両 論者に 共 通 な 量 が 成 立する とい うこと は, 共通な所量の存 在を前提とするもの と考 え られるの で ある

 

この ような条 件の下, 自立 論 証 を 述べ る べ き前論者 立 場に置か れた 帰 謬 派 が, 後 論 者で ある自立派 等の有 自 性 論 者に対して許かの主張を な そ うとした 場合

そ こ に於て自立 論 証 は果して成立 しうる で あ ろ うか。 換 言す れ ば

後 論 者で あ る自立 派等に成 立する量と共 通 な量, 即 ち自相に対する量が

更に は共 通 な所 量 が

前論者で ある帰謬 派に存 在 するで あろ うか。 これに関して

T

は 次 の ように述べ い る。    有法 と して設定さ れ た その色 処 (skye  mched )が成

 

立する様相(

IUgS

)は

そ れ (色 処 ) を捉 える眼 識の直 攤 撹 (  on  sum )とい う量 に ょっ て 成 立 すべ きで  あ り

そ れに つ いても

そ れ ら (色 処 ) が 迷乱す るこ  と な く (ma

khrul bar

それ ら (眼 識等の直接 知 覚 )

 

に よっ て確 立さ れ ないな らば, 〔眼 識 等は〕対象を成 立

 

させ る直接知覚とし て 相応しく ない の で

〔眼 識等の

 

直 接 知 覚は色 拠 等にして〕不 迷乱 (ma

khrul 

ba

)で

 

あるべ で あ る 。 〔直 接 知 覚 が 〕無 分 別 〔知 〕(rtog med )  であり不迷 乱なもの として成 立 するこ と は

彼等 (自

 

立派等)の見解に於ては

〔ある ものに対して〕不迷 乱  となる 〔そのあるものた る〕基体 (sa

自相 (rang

 

gi mtshan  ynidによっ て成立するもので あ り, そ れ

 

が 〔識に〕顕 現し, 顕 現 するま まに有るこ と に 必ず依  るのである。 (LR pa

421 a 2

4)

 

つ ま り

自立派 等に於て有法 を設 定 する量は直 接 知覚 であ るが

そ れ は 自相 にょっ て成 立するもの を 所 量 と し

そのよ うな所 量に対し て 「分 別 を 欠いたもの」であ り且つ 「不迷 乱 」で あ るべ き ものなの である。

 

この直接知覚の相は

Dhar皿 akirti (60〔}

−660

頃)の そ れに類 似 するもの である が12)

自立 派 等有 自 に於 ける これ らごつ の要素の

に 「不 迷 乱 」である こ とが 帰 謬 派に於て成 立しない経緯をT は

次の よ うに 述ぺ いる。    そ の よ うで あれば

後論者 (自立派等 )に於て何 ら

 かの量に よっ て有 法が成立する と こ ろのその量は

 

論者 (帰 謬 派 )に於ては 相 応しくない のである。 何故  なら ば

〔帰謬 派に 於 て は〕いか なる法 (chos )に関し  ても 自 相によっ て成 立する〔自〕体 (ngo  

bo

言説

 

として (tha snyad  

du

)も無い ことに よづ て

それ (有  法 )を成立 さ せ る 量 は無い か ら で あ る。 とい うこと を  こ の ア

チァ

ルヤ (

C .

)は意図して 自立 を否 定し た  のである。 (

LR

 pa

,421

 a 

4〜5

)  つま り

後 論 者で ある自立 派等の有 自性 論者に於て有 法を設 定 する直 接 知覚の不迷乱性は, 自相に よっ て成立 する所 量に対 するものであるが

帰謬派に於て は そ の よ

9 一

(4)

うな所量 が言 説 としても 認 め られるこ と は無い の で £ る

それ は

後 論 者である 自立 派等と 前 論者で あ る 帰 謬 派 と の間には

有 法 を設 定 すべ 共 通 な 量し な こ と を意 味するもの であ り

更には

両 者 間に 「自立 論 証」が成立 しない こ とを示 す ものなの であ る。   「証 因 」に関し て も 同様な議論がT に よっ て述べ られ て いる1s> 。 そ してそこに於ては

後 論 者である自立派 と 前 論者で あ る帰 謬 派の間に は 「自 立 証 因 」の成 立しない ことが帰結 されて い るの であ る

 

VI .

では

 T に よ 自立 派 等有 自性 論 として認め る とされ る 「自相に よっ て成立するもの」と は 云何な るもの であろ うか。  

Madhyamakavatara

に対 す る T の 註 釈 書で あ る

nGongs  pa rab se1 (略 号 GR

)の

節に は

特に自立 派

の言 説 有に関 する 次の ような記述が あ る。    種子 (sa 

bon

)より芽 (myu  gu)の生じ るこ とが 慧  の力 (

blo

i  

dbang

)に よっ て確立 さ れて も

芽が 自 分  の側 (rang  gi ng ・S)か ら種子より生 じる こと も 〔慧の  力に よっ て確立 さ れ るこ と と〕 矛盾しない

〔それは〕  化 作の基体 (sprul  gzhi)の側か らも馬 や牛 (rta glang)

  と して顕現するの と同 様である。 (

GR

 ma

84 a 6)  つ ま り

あるものが言説として自相に よっ て 成 立する とい うこ とは 「言 説として は慧に依ら ない でも

あ る ものが存在する」とい う意味と考えられる1%   自立 派の言説有に関する この よ うな

T

の理 解 はiLN

も見 と が きる が15,

,LR

於て は未だ 不 明確な ま まで あ る。 しか し, その よ うな理解 を同 書 中 に強い て見い出 そ う とす れ ば

Bh互vaviveka

B .

) の瑜伽行 派 (rNal  byor spyod  pa po)批 判に言 及した 箇 所にあるのであ ろ う。

B

 Praj顛pradipa (略 号

PPr.

) の第

25

章に於て瑜蜘行 派が 遍計 所 執 性 (

kun

 

brtags

 pa

i

nge  

bo

 nyid ) を 相無自性 (mtshan  nyid  ngo  

bo

 nyid med  pa)こ と を批 判し ているの で あ る16)

(PPr tsha

242

 a 4〜

b7

)そし て

  T こ の箇 所 を 「

B

が 言 説 と して 自相に よっ て成 立 するものを 認め る」こ との典 拠 とす るので ある。 (LR pa

,371b2〜

6)つ ま り 「B は識 (慧〉に よっ て遍計さ れ た もの も世 俗 (言 説 )と し て は自相 に よっ て存在する と捉え てい るとい

T

の理 解の中 に

その萌 芽 を見い出 すこ とがで き る と 思 わ れる  VIL  

T

自立論 証 を語るべ き 前論 者の立 場 に敢 えて帰 謬 派 を 配し, も う

方の後論 者の立 場に自立 派 等 の 有 自性論者を配し て

存 在 論 を異にするこ と を 理 由 に 前者が優 考にし て 立 論証 を語るこ とを 否 定したの で あっ た

明 らか にこの 「自 立論 証 批 判 」の鉾 先は , 中 観 論者と自ら標榜し な が ら言 説 とし て自相 によっ て成 立す るもの を認め る自 立派に向 け られてい る と考え られ る。  これ を念 頭に置いて, 今

度 「自立 」 とい う語の意 味 を考 察し て み たい。   「自立」と は

「後 論 者と前 論 者 が 共 通 な 量 を 認め る こ とによっ て有 法 や証因 等 が 両論者に共 通 な もの と し て 成 立 するこ との うち

特に前論者自身に於てそ れ ら が成 立する こと」 を強調 し た意で あ る と述べ て おい た。 で は, 「自立」とい う語の意 味が そのよ うな もの であ る と すれば

前論者と後論 者 が共 に帰謬 派 で あっ た場 合

あ る意味 で は 同派 間に於て は論争があ りえない とも考え られるが

道 理的に は帰 謬派に於て も自立論証が成立 する ことになる1η 。 しか し

上述の よ うに

T

の 自立 論証 批 判の 鉾 先が あくま で自立派で あ り

又 「自立 論 証 」 と い う表 現に

前述の ように 「言 説 とし て自相に よっ て成 立 す る もの を 認 め る」とい う意 味 内 容 が 含 蓄 されて いる こ とよ りす れ ば

帰 謬 派の論 証は自立 論 証とい う範疇に は含ま れない こと になるであ ろ う

  VIII.

次に

「自立 」 (rang  rgyud )と は対 をなす 「対 論 者に極 成 」 (gzhan 

la

 grags paい うこ と に関 す る T の理 解に若干 言 及し て みたい  T はこれ に 関 し て 以 下の ような 記述を 与 え てい るG     後 論 者に於て極 成 すること と前論 者で ある 中 観 派   (

dBu

 ma  pa)か らみて 対 論 者に於て極 成 するこ と   の二 つ は

本質 (gnod )を

つ にする。 (LR  pa

429  

b5

)  そ して

その具体的な意味が次の ように述べ られい る。    そ れ ら (有法等) は

自 らの立 場 (rang  lugsに 於  て も認め る。 けれ ど も

それ ら (有 法 等 〉 を成立させ  る量

即 ち 自体 (rang  gi ngo  

bo

)に ょっ て成 立 するIB,   所量 を 量 る もの (量)は

自らの立場に於て は言 説と し  ても無い のである。

有 自性 論者に於て それ ら   (有 法 等 )が成立するのは

その量 (自体に よっ て成立  する所 量に対する量 )に 必ず依る。 したがっ て

両者   (後論者と前 論者)に於て 共 通 に成立する ような自体  に よっ て成立するものを 量 る 蚤 は無い の で あ る。 故  に

「両 者に於て成立 しない もの」そ して

「対 論 者に   極成するもの」或は 「対論 者に成立するもの」と 言っ  たの で ある。 (LR  pa ,430 a 1

3)  これらの記 述か ら 「対論者に極成 」とい うことの具体 的な意 味は, 次の ような もの であると考え られる。 前 論 者で あ る帰 謬 派 が後論者で あ る自立派 等の有自性 論者に

三〇

(5)

投 じる論 証の有 法等 は

帰 謬 派 自 身 言 説とし て認め る も ので あるが

それは決し て自体 (或は自相, 自性)に よ っ て成立するもの として で は ない18 )。 しか し

そ こ に於 て帰 謬 派 が採用する有法等は

後 論 者の量, 即 ち自体等 に よっ て成立する それ らなのである。

 

で は

何故 帰 謬 派は そのよ う な 態度を と らな け れ ばな ら ない の であ ろ うか。 その 理 由 は

「帰 謬 派の論証は対 論 者の主 張 を否 定 するこ とを 事とする。」 (

LR

 pa

429 a 6

b2)とい う内 容の記述と PP からの次の ような引 用 に よっ て 明確に理 解 され る であ ろ う

  

どち ら か

方に於て立し てい る論 証 を 通し て

 

も, 〔その〕論 証に よっ て害さ れ るこ と (gnod pa

 

有るので はないか。 と 言うな らば, 有るので あ る

 

れは又, 自分 自身に於て成 立 する証因 によっ てであっ

 

対 論 者に 於て成 立 する 〔証因 〕に よっ て で は ない

 

の である

r・

。 (LR pa

433a3

6

 PP〔s〕 p

341

13  

p

35, L 1

 

PP

〔t〕,

a, 11b1

3)

 

つ ま り, これ を現 在の議論の中で 表 現 す れ ば次のよ う になる。 帰 謬 派が論 証を 用い て 自立派をはじめ とする有 自性 論 者のある説を否 定 す る場 合

有自性 論 者の在論 の で認 め られ る有法 等を その過 程に於て採用するこ と が望 まし いとい こ となので あ る。  しか し,

T

はこの ような対論者に極 成 す る有 法 等 を基 にした論 証 を強 調す る

, そ の論証に於け る 有 法 等 を帰謬派 自身 も言 説と して認め るべ で あ り , 対 論 者に 於て認め られる だ け で は不

卜分である とも述べ て い るの である

(LR pa

 430b4

−−

5こ の こ と は

前 述 は異っ た意味での 「自立」とい うこ とを示し てい るの で は ないだ ろ うか

 

これは

T

自身 が 批 判の的と して い るものを

方では容 認してい る とい うこと で は ない。 筆者の知る限り で は

T が 「自立論 証」な る もの を認め るとい う記述は無い の であ り

ま た どの著 作にも無い であろ うと思 わ れ る

そ の意味に於て は

以下に述べ こ と はあ くまで筆 者の妄 想にし かす ぎない のかもし れ な い。

 

前述し た 厂自立」 と は

「後 論 者 と 前 論者が共 通 な 量 を認め るこ と に よっ て有 法 等 が 両 論者共 通 な も と し て成 立 するこ との うち特に前 論者 自 身に於て それら が成 立するこ と」 を強 調したものであっ た そ し て 帰 謬 派 が自立 派等の有 自性 論者に対して論 証 を 投じ る場合

両 者 間には 言説と して さえも共 通な量が存在しない こ とよ り, 「自立 」 論 証

i

が 成 立 する余地は無い の で あ る

 

し か し

否 定 を 事とする論 証の有 法 等は対 論 者に於て 認め ら れ る だけで は 不十 分である とい う上詢の記 述よ り す れ ば

前述の 「白立」とい こ と の

側 面

即 ち 「前 論 者 膚身に於てそ れ ら(有法等)が 成 立 する こ と」をT が 認め てい る とも解釈しうるの であ る。 もちろんこ の場合 の 「自立」 と は

両 論 者 間に共通な量の成 立 を 前提と す るもの では ないか らゴ 前述の 「自立」 と は本質 的に異っ たもの で あ る。 故に

た だ有 法 等が前論 者に於て成立す るこ と だけ を取 り上げて

これ を 「自立」と形容 するこ とをT 自身が 認め るか ど うか は, 甚だ, 疑 問である 19) 。 し か し

仮にそれ を 「自立 的 」と で も表わすこ と が許 さ れるとすれば, 次のよ うなこ とが 言え るであ ろ う。

T

は, 帰 謬 派の否 定を事とする論 証に於て有 法 等 が対 論 者に極 成 するこ と を 強 調する傍, 帰 謬 派 自身 もそれ ら有法等 を 言 説 とし て認 めるべ こ とを 主 張し て 。 換言すれ ば

,T

は 言説に於て あ る意 味で の 自立的 論 証 」 を認め て い るのでは なかろ うか20)

 

IX

以 上の

LR

の諸の記述 から, 

T

が 論 証 を 積 極的に 採 用し

有法 等 を対論者に極 成 するもの と し てのみ認め るの では な く

自らに よっ ても言説 と して認め ら れ るべ きで あ る とい うこ と

即 ち 言 説 知の レベ

だ ん 「自立的 論証」 を 認め る とい うこ と は

以 下の こ と と深 く関連 が あ る と思 わ れ る。 つ ま り, そ れは善い分 別 と悪 い分 別 を峻 別し, 前 者に依っ て

自分の側から積 極 的 に 真実 を模 索し てい くこ と をT が強調 し て い るとい うこ と で あ る。 (

LR

 pa,

386a5〜6

) 21)そ し て

て こ よ うに 「善い分 別 」 を強 調 するこ とは

後年著作であ る

LN

GR

で帰 謬 派の言 説 有 を 「言説の力 によっ て 設 けられ た もの のみ」 (LN  pha

146a6) 等と定 義し22)

言説 有

切 を分別の所 産とする理解の萌 芽が 同書にある こ とを示 し てい る と考え られ る。       註 1) 松 本 史 朗

r

殖珈 agarbha の 『世俗不生 論 』 批 判に つい て」註 記18)1984  駒沢大 学 仏 教 学 部論集 第

15

号 同氏 「チャ ン ドラ キ

ル ティの論 理 学

『明句論』 第

章 諸法 不自生 論の 和 訳 と研 究 (1)

」附 論 1

1985  駒沢大学 仏 教 学部研 究 紀 要 第43号 参 照 拙 稿 「

Candrak1rti

に於 ける

svatantra ” とい う語の意味」 1985 駒沢大学大学院仏教 学 研 究 会 年 報 第18号

2

) 拙稿 「プラ

サ ンギ カ に於ける主 張 (pratijfia)の 有 無 」1985 印仏 研第33号

第 2巻

並 びに 上掲 論 文 に於て

C

の 「我々に は自 らの主 張 が ないか ら。」(

PP

〔s〕p

23

L3 〜

4, PP〔t〕 Sa ;8al)等の記 述に対する

T

の解 釈が

現 代に 至 る ま での従来の もの よ り忠 実で あ る と 言明した。 し か し, それ が

T

の独 自の解釈で あ

るこ と を

こ こに訂正し ておきたい。

U

(6)

3

BN

 

kha,

13b4

42a4

筆 者 は 「中観 決 択』 に

れ る 自立 派 と帰 謬 派へ の分 岐」(山口瑞 鳳 博 士 記 念 論 文

r

チベ 仏教と社会』所 収

1986

年刊行予定)と

う表題の下に,

S

PP

解釈に関する考察を試 みた。 4)

 ITa

 

ba,

i shan

byed

サ キ

ャ派 全書 集成』第 十三 巻

ca,5a4〜 5

8b1〜 6

松 本 史 朗 「チベ ッ トの中 観 思想

特}こ 『離 辺 中 観』説 を 中 心 に して

」1982  

r

東洋学 術 研 究』第21巻

2

号参照 5)

 

松 本 史朗上掲論文 p

170

, 下 段

L14 〜

p

171

, 上 段

L16

参照。 上掲拙稿 「「中観 決択』 に説か れ る自立 派と帰 謬 派へ の分 岐 」

6

 

Sdeya

 

Pa

dita

 orl Indian and  

Tibeten

 

Tradition

 ef  PhilosoPhical 

Deba

彦e: 

IVLe

 mB  

has

 

P

α rn砌 z∫

 ヲ群

gPa

i

 sgo

 

Section

 

III.

 (p

246

,1.

11

p

256

 

1.

 

30,

1985

his

 

dissertation

 

for

 the 

degree

 of 

Doctor

 of Philosophy)

9

C

PP

に於け る次の よ うな

節 を連 想 させ る。   「し か る に

中観 論者が自ら自立 論鉦を な すこ と は 正  しくない 何 故 な らば

」(PP 〔s〕 p

16

,1.

2

,・

PP

 〔t〕 ,a

6a2

10) ル 観 α祕 砂α磁 α毓海航 に対 する

T

の註 釈 書で

 あるRigs 

Pa

i gya mtsho で は, Pz畷舜妙  4砂α を典

五砌 zr 伽 ‘ゐ侃 彫 o “

lhag

 mthong  

la

 

bslab

 pa,i  tshul”

……

1

……1−1.

…・

1

2

 1

2

L

……

1

2

−−

1

1

t・

 

1−2−1一

1.

1

2

1

1

2

一…

 

1−・

2

−1−1−2−1.

岡…

 

1−2−1−1−2−2.

 

1−

2

−1−

2

 1

2

2

thal r…血g g

dor

  os 

bzung

 ba

pa

404−

n

−6

) (

de

dra

 

ba

i

 thal rang  gnyis 

kyi

jog

 tshu1

9nhan 

lugs

 pa

(pa

404

−b−

4)

rang gi 

lugs

 

bzhag

 pa

(pa,419

a

1) rang  rgyud  sun  

dbyung

 

ha

 

dngos

(pa,

419−

a

−2

) gzhi chos  can ma  g

b

 pa

i

 phyogs  

kyi

 skyon

bstan 

pa.

pa

419−

a

−3

綴 諺

1

 

・問 ・

don

 mi ,thad

 pa

(pa,

42

( 

4

dpe

 

bkod

 pa 

dang

 mi  

ba.

pa

422

a

3)

 

skyon  

des

 gtan tshigs 

kyang

皿 a grub par 

bstan一

証 因の問 題

pa

(pa

426

a

5)

de rang  la皿 i mt ungs  

pa

itshul

pa,

428

a

6)

_

「自立

j

に   関 する議 論         「対 論 者に極 成 」

_

1

する議論 「自立論証批 判 」

一 ・

t−L’

一 一

7

T

に は論 理 学 に 関 す る sDe  

bdun

 

la

 

Vug

 

Pa

i

 sgo

don

 g型 87

4

 kyi mttn  sel とい う著作が あ る が

同 書 等に於ても両論者に関 する明確 な 定 義づけ は 見い出 せ ない

8

 

山口瑞 鳳 「シエ ル ク スマ 著 rtsod pa

チベ トに け る僧院の論 議 」

1967

東洋学 報

,Vo1.

48−1

参照。 小 野田俊 蔵 氏は

T

近 代の ゲ

ル ク派 の 著 作の中にこ の

snga   ol” . “ phyi rgol

が 次のよ うに定 義 されて い るこ とを紹介され てい る。 「

snga  rgol

は 『

……

(論 者の うち

推論 を確 立 すべ く主 張 す る 人 )』 と定 義 さ れ, “ phyi rgol ” は

r……

(論 者の うち, 論 難 を述ぺ るべ く主 張 す る人 )』 と定 義 され 。」同 氏 「チベ ッ ト の院に於 ける問答の類 型 」 註 記 (

8

)参 照。1979

「仏 教史学研 究」 第

22

第 1号。 尚

同 氏に よっ て

mKhas  

Pa

 ” iams  ’πg 

pa

’i sgo とい う著 作に

 Sakya

papσitaの両 論者に関する見解が述べ る こ と

並 びに 同書に関する

Dav

d

 

Paul

 

Jackon

の研 究 を参 照 する こ と を 御示 唆 頂い た。

David

 

Paul

 

JackSon,

 

拠と し て

rang  rgyud ” と は ” rang  dbang

の意味で  ある と述べ られ て 。 (

RG

 

ba,33b3〜

4)し か し

 

拠とされ る

P

π砂 露α

4

砂α の

節は

厳 密 に は 同 書  中に見い 出 せ ない。 多 分それは以 下の箇 所の取意であ  る と考えら れ る。 (PPr , tsha, 133b 

6〜

7)又, “ rang  rgyud ” と “ rang 

dbang

” が同 義である こ と が チペ ッ

 ト訳 

Amartrkofa

Peking

 ed

 

No .

5787

 she  45a1

  述べ られてい るこ と を 第33回 西 蔵 学 会 (於 名古 屋 大  学)での表の折に

ツ ル テ ィム

ケ サ ン氏 よ り御 教  授 頂いた。 11) 上 記 学 会の発 表 に於て, 筆 者は この 箇所 を 「共 通  に顕 現 す る もの と し て」と訳 出した。 これ に対し てツ  ル ティム ≡ ケ サ ン氏 よ り 「共 通に」 と訳 す よ う御 指 摘  頂いた。 同 氏の御指摘 を検討し た上で

こ こに 「共 通  に」 とい う訳 を 与 える こと にし

上 記の御 教 授 も含め  て同 氏に謝意を表わ し

た い。

12)  遅yの6溺 祕 πp

6

,1.

15 

Bibliotheca

 

Bt

ddhika

 

VII.

13) 註 記 6)の梗概を参照され たい

(7)

14) 松 本 史 朗 「ツオ ンカバ の中観思想につ い て」1981

 

東洋 学報, 第62巻 第 3

4号 p

i81

1.

4

p

191

,1.

3

 並 びに

小 川

乗 「否 定 されるべ き対 象の確 認 」1985

 

『中 村 瑞 隆博士古稀記 念 論 集, 仏教学論集』

p、

457,1

  1

p

461

,1.

8

参 照

15) 

LN 。

 pha

61b5〜62a5,

16)

 

安 井広済 『中 観 思 想の研 究』1970

p

237

p

372

。   参照 17) 後論者並びに前 論 者 が 自立 派 をは じ め とする 有 自   性 論 者で ある場 合 も

存 在 論 を 等しくす る故に自立 論  証 が 成 立 す る と考 え られ る。 しか し

T に とっ て はそ  の存 在 論その ものが 誤っ た もので あ る。 つ ま り

そこ  に於て は自立論証が成立 し ない こ と を意味する と考え   ら れ る

18

) LR pa ,

397a3〜5

並 び

le

 

LR

 pa

 399a2

〜3

に於て

 自性 (rang  

bzhin

) 自体 (rang gi ngo  

bo

そ して 自相

 

(rang  gi mtshan  ny 三

d

)が同義と捉 え られてい る

19) C の PP に於け る 「自立」 (rang  rgytid)の 意 味  は 論者の立 場に沿うこ と な く 立 論 者の 立 場 にの

 

み 立脚する」 とい うもの で あ る。 拙 稿 「Candrakirti

 

に於 ける

svatantra ” とい う語の意 味 」 前 掲, ま た そ

 

に関 する

S

の解 釈 も 同 様 な もの と思 われ る。 (

BN

 

kha,

16b3

5) 20) 上 記の発 褒に於て

筆者は思い込 みのあ ま り

,LN

 の

節 (pha

87a2

3) を誤って

この ような 「自立  的論証 」の典 拠とした こ の誤 読は, 松本史 朗氏によ

 

っ て御指 摘 頂いたもの であり 同 氏の御 教 示に謝 意 を  表 する と共に

こ こ に於て訂正 さ せて頂 き たい。 21) 松 本 史 朗 「ツオン カバ つ い て」 前掲

 p

177,

L5 〜

p

.181

, 

1

, 

3

並 び に 「チペ ッ トの 中観 思  想

特に 『離辺中観』説を 中心 にし て

」 前 掲

 p

165上 段

1.

1〜

10

参 照

22

) 松 本 史 朗 「ツオンカバ の中観思 想に関する考 察

 否 定対象の確 認に お け る 言説 有の設 定 について

 1964

日本西蔵学会 会報 p

6.

L27 〜1.31.

参 照 〔翻 訳につい て〕    当稿で は 翻 訳文の理解に資する た め に (  ) 並び  に 〔  〕 を もっ て語 を補 うこ と とした。 原 則 として  は

(  )の 中には 原 語 又は被 指 示 語

又 〔  〕の  中に は便宜 上補足すべ き と思 わ れ る入 し た。

NRBG

LN LR

PP

〔s〕

PP

〔t〕 PPrRG ABBREVIATION

dBu

 nta   nge

  Thimphu  ed

 vo114

15 dGongs  

pa

  5θ♂ Bkra shis Ihun po ed

vo124Legs

 bshαd snyin  

po,

  Bkra shis lhun po ed

vo121

ヱntm  n勿m chen  tmo

 

Bkra

 shis 

lhund

 po  ed

vol 20PrasannaPaddi

 Bibtiotheca Bnddhik α IV

1「irasannapddi

 sDe  dge ed

 No

.3860

Pr妙苑砂redipa

 sDe  

dge

 ed

 

No .

3853

Rigs

 

1

吻’

i

 rgya  mtsho

 Bkτa shis 

lhun

 po ed

vol  23 ハ

ラ に お

関係

現 観

認 識

認 識 対

 

  富

 

0.

  は じめ に  

Abhisamayala

ηpkjra (AA )}ま般若 経の註釈とい う形 式を借 りて 独自の実践体 系である 「現 観α ) 」 を 説いた 論で あ る と考え ら れ る。 そ れ に対 する註 釈 として

Hari−

bhad

瓰 (

H

)に は

AA 一

記o々α(

AAA ,

荻 原本)と AA

wrtti

AAV ,

北 京 版

 

No .

5191) が あ

b

, 両 書の第

1

章に は 「菩 薩 が種 姓である」とい う記述が見ら れ る〔2) 。 し か し こ の裹 現は 他の箇所 に は 現 わ れず

ま た

,H

が その意 味 を 直 接に説明 するこ ともない。 し た がっ て我々 は

この 記 述の現 わ れる項 目の論 議 全 体か ら

あるい は彼の著作 が 問 題 とす る 内容 全 体 か ら 「菩 薩 が種 姓であ る」こ との 意 味 を理 解しな けれ ば な らない  種姓 (gotra, rigS)は唯識派で 発 達 し た概念で あ り, 「種娃に住する菩薩 」 とい う表 現で しばしば 用 い られ る【3) 。 こ の表 現に よれ ば 「種 姓 」と 「菩 薩 」とい う語は 同

対象 を表 示し て いない しかし種 姓と菩薩は同

13

参照

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