Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty 駒 澤 大學 佛教學部 研究紀 要 第
57
號平成
11
年3
月 (23
)「
仏 陀
の
沈
黙
」 が
語
る
も
の
四
津
谷
孝
道
序
「釈 迦 牟 尼」 (
Sakya
−muni )とい うの は 「シ ャ ーキ ャ族出 身の 聖 者」 即 ち 「釈尊
」、 「ゴ ー タ マ ・ ブ ッ ダ」 (Gotama
Buddha
)の こ とで あ る が、 1) こ の表
現 の 中の 厂牟尼 」 (muni )とい う語に は 、 「沈黙 の 修 行を行 うもの 」 とい う意 味が あ る。 2) こ れ は あ くま で通俗 的 解釈 で あるが 、3)仏 教に 限らずイ ン ドの 諸 宗 教一般 の 特 徴の 一つ とし て 「寂 静」 を尊
ぶ こ とが挙 げ られ よ う。 た と えぽ、 仏 教 に お け る最 高の 目的で あ る 「涅 槃」 (nibbana , nirvapa )は 、 周知 の よ うに 煩 悩の炎
が 吹 き消され た状 態 の こ とで あ り、 法 印の 一 つ で あ る 「涅槃 寂 滅」或い は 「涅 槃 寂 静 」 (santa
エp
nirvapam ) とい う表 現 に も見られ る よ うに 、 「寂 静」 は 仏 教 に お い て最 も重 要 な事項 の 一 つ で あ る 。 そ し て 、 こ の 「寂 静」 と相 通 じる 「沈黙
」 は 様 々 な意味
を持ち 、 い ろい ろ な コ ン テ クス ト で 文献に 現れ て くる。 そ れ は肯
定的 な意 味 合い を有 する場 合 もあれ ば 、 否 定的な 意 味 合い を有す る場 合 もあ り、 その 何 れ で もな い 場 合 もある 。 また 、 そ の 「沈 黙」 は 「仏 陀」 の もの で あ っ た り、 「仏 弟 子」或い は 遊 行 者 (paribbajaka
)一 一 般に は 「普 行沙 門」 と訳 さ れ る 4)一 や仏 陀 或い は 仏 弟子 の 対 論 者で あるバ ラ モ ソ 等 の もの で あ っ た り も す る 。 就中 「仏 陀の沈黙
」 に 関 し て は 、 今 日a
こ至 る まで数
多 くの 研 究 者に よ っ て 考 察が な さ れ て きた 。 とい うの も、 こ の 厂仏陀の 沈黙 」 とい うテ ーマ が 、 「仏 陀の 言 葉」、厳 1) 『仏 教 語 大 辞 典』 上 巻,p.610
. 2 )Wayman 匚1981], p389
;三枝 「1978], pp.61−62.3)Mayrhofer [1963〕, vo1.
2
, pp .654−655, Verzilckter, Begeiterter, Weiser, Seher, Asket , Einsiedler (bes. einer , der dasLq 蛙塑 de des Schweigens auf sich ge遡 mmen hat)/ enthuslast , sage , seer ,ascetic , hermlt (esp . on6L 璽 」ho has taken the vow of silen 雙);B6thlingk 匚1976 ], Band V , p.9e,“ein
Begeisterter. Verzuckter;sputer ein ausgezeichneter Weiser, Seher, Asket ilberh. insbes. eln solcher , der das Gelub 典 壁蟹一 .;Monier [ユ982]p.
823
,“RV .iAV .;Br .;asalnt , sage ,seer, ascetic , monk , devotee, hermit (esp . one who has しaken the vQw of silence ”.(下線 筆者 )
4)“
paribbajaka ”に つ い て は石
E
[1972コ 参照一
442
一(
24
) 「仏 陀の 沈 黙」 が 語 る もの (四津 谷 )密
に 云 えば 「仏陀
に よ っ て説
か れ た と さ れ る こ と」 を 理解
するh
で 、非常
に重 要
な役 割を果たす と考 えられ る か ら であ
ろ う。 5) し か し 、 そ れ らの 研 究の 多 くは ニ カ ーヤ (Nikaya
) 文 献 に おけ る こ の 「仏陀
の 沈 黙」 に 関す る第
一次資
料を網
羅 的に 扱っ て お らず 、 更に それ らの 中に ぱ 「仏 陀の 沈 黙 」に 関 する極め て 限 ら れ た 典 拠 の み に 基づ く理 解が 示 されて い る もの が 決 して 少 な くない 。 また 、 こ の テ ー マ に 関す る第一次 資 料を網羅 的に 扱 っ て い る もの で も、過 去の 研 究が 十分 顧慮
さ れ て い ない 場 合が非 常に 多い の で ある。本
稿
で は 、 その よ うな研 究 状況 を踏ま え 、主に ニ カ ーヤ 文 献 等に お ける 「仏 陀 の 沈 黙」 に 関す る出来 るだけ 多 くの 第一 資 料を視 野に 入 れ 、 諸 研究 を参 考に し な が ら、 まず
多くの 様相 を 呈 す る 「仏 陀の 沈 黙」 を類型 化す る。 次 に 「仏 陀 の沈
黙」に 関 す る諸事
項 の中で も最
も特 徴 的と思わ れ る 「無記 」に 焦 点を当て、 そ れ に関 する従 来 まで の 解 釈 を 今一 度 検 証 し て みた い 。1
「仏 陀の
沈 黙
」 に言及 し てい る仏陀
の思
想、或
い は仏 教
思想
に関す
る概
説書
は 決 して少
な くない 。 そ して 、 そ れ らの 中に は 「仏 陀の 沈 黙」 を 主題 と し て取 り上 げた 研究 (著 書並 び に 研 究 論 文 )がある。 そ れ らの 研 究 に お い て は 「仏 陀 の 沈 黙」、 更に は仏教
文 献 全般
(第二 次資
料 も含
む)
の中
に散
見 で ぎる 「沈 黙
」 並 び に そ の 解 釈を列 挙 し、或
い はそ れ ら を体系
的に 分 類 しよ う とい う試 み が な さ れ て い る。 こ こ で は 、 ま ず そ れ らの 研 究の 中か ら興 味深い と思 わ れ る もの を い くつ か 選び 出 し、そこ に お い て どの よ うな報 告 並び に 検 討が な されて い る か を紹 介 し て み た い 。
Hermann
Beckh
は 、 著 書Buddh
α “nd seineLehre
(Beckh
[1958
]) に おい て 「仏 陀の 沈 黙」 を体系的に 分 類は して い ない が 、 そ れ に は 以 下の よ うな
局
面5)こ の こ と を 端 的に 表 す 意 味で 最 もよく 引 用 され るの が 、以 下の Beckh の 文章で あ る。 Es wilrde lmmer noch einseitig seln , bel der Wirkung Buddhas auf seine Zeitgenossen nur die Macht s由 es
Wortes ins Auge zu fassen. Man kennt Buddha nicht , solange man ihn m 】r nach dem beurteilt,
was er geredet hat. Sondern zu der Macht
der
Rede
gestelit sich bei lhm eine arldere , diejene
beinahe noch Uberragt
,
die
Macht
des fassen, istfUr
das
ganzeVerst
農ndnisdes
Buddhismus
vongr6βter
Wiehtigkeit
. Zu den allervortrefflichsten Eigenschaften, dle lm Sjnne Buddhas ein Menschhaben
oder sich anerziehen kann , gehUrt das Schweigen , und der Buddha selbst ist Meister indleser Kunst gewesen .(Beckh 「1958], P.】10).
Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University
「仏 陀の 沈黙」 が 語る もの (四 津 谷 ) 〔
25
)が あ る こ と を指 摘 し て い る。
1
仏 陀 が 愛 好 し た
沈
黙 (Buddha
liebte
das
Schweigen
:p
.110
,IL21
−26
,p
.112
,ユ1
.11
−25
)これ は ・『長 部 』経 典 (
Digh
α一N
ど々卿 ,DN
.)のr
ポ ・ タ パ ー ダ 経 』 (P
・e4hapdd
α一sutta )に お い て 、ポ ッ タ パ ーダが 自 らの 弟子 達に 対 し て 「仏 陀は 騒音を 好 ま ず、静寂を
愛好 する。」 と述べ て い る箇所 に 基 づ く解釈 で あ る。 6)また 、 こ こ で は 沈 黙が ヨ ーガ
(
yoga
)との 関 連か らも説明さ れ てい る 。 7) ヨ ーガ に よれ ば ,沈 黙 を 守 り通 す こ とによ っ て 修行 者に 内在す る 力は 増 し て ゆ く が、沈 黙 を 破 っ て
i
智」 を露 にす る こ とに よ って逆 に その 力 が失われ て しま うの で あ る。 これ が仏 陀が沈 黙を愛 好 し た理 由で ある と述
べ られて い る 。 8)
2
高 貴な沈 黙 (
das
vornehmeSchweigen
:p
.110
,IL26
−34
)r
ウ ダーナ』 (Udan
α,Ud
、)に おい て仏 陀が政 治に つ い て語 り 合 っ て い る弟 子 達 に 対 し て 、 「政 治につ い て 語 る こ となか れ、 さ も な くぽ沈 黙 を 守 れ 。」 と戒め て い る箇所 に 基づ く解 釈で ある c9 )3
承 諾 (
Zuzage
)或 い ぱ 肯 定 (Bejahung
)の 意 味で の 沈黙 (p
.110
,1
.35
−p
.111
,1
.7
)これに 関 し て は 、仏 陀が遊 女ア ン バ パ ー リー (
Ambapali
)に よ る供宴 の 申 し出 を 沈黙を もっ て 承諾 し た の で ある が 、そ れ に もか か わ らずその 仏陀を 強 引 に 自 らが 催 す 食 事
に 招こ う とする リ ッ チ ャ ヴ ィ (
Licchavi
)人の 申 し 出 を 、仏陀が 拒否 し たDN
,のr
大般 浬 槃 経』(
M
αhop
αrinibbana −sutt αnta ,MP
)の 一節が指 示 さ れて い る。10)4
仏 陀の 教 え と
他
学派
との 相 違に 関す る沈黙
(p
」11
,II
.8
−12
)Beckh
に よ れ ぽ、サ ーン キ ャ (Saipkhya
)学 派や ヨ ーガ (Yoga )学 派 等 と自ら が 意6 )DN . vol .1, p.179.(尚、以 下の 資 料に おい て 、頁数が 記 さ れてい ない もの は頁数の 記載 が ない か、 或い は当 該 箇 所の 類 推が 出来なか っ たこ と を 示す。“* コe は 、典 拠 を 確 認 出 来 なか っ た こ と を意 味す る 。 議 論が過度に複 雑になっ てい る 場 合は、第一次資 料 及び第二 次 資 料の 何れに関 して も本題に直 接 関わ る と思われ る もの の み が記 載 さ れてい る。) 7)H αthayogaPt 『adipih δ 工,11.
8
) 原 [1985],「1997]、 9)Ud . P.11 10)DN
. vo1 .II, p.95
. 一440
一 N工 工一Eleotronio Library(
26
) 「仏陀の 沈黙」 が語る もの (四 津 谷 ) 見を 異 にす る多 くの 事項に 関 し て 仏 陀は 黙 し て 何 も語 らなか っ た とい うの である。 但 し、 仏陀が その 相違 点に 関 して 彼等と論争す る こ と を 回避する為に 沈 黙 を 守 っ たの か 否か 等、 その 沈黙の理 由は 明確に 示 さ れてい ない 。5
回 答を与え る こ とが 実 践 的 (
praktisch
) で あ る と思わ れ ない 場 合の 沈 黙 (p
.111
,1
.12
−p
.112
,1
。26
)こ の 意 味で の沈黙は 二 つ の 事 例を通 し て説 明さ れて い る。 その 一つ は 「シ ン サ パ ー樹」
(si甲sapa )の喩 に 関 す る沈 黙 で ある。 こ の シ ン サ パ ー樹の喩は 『相 応 部 』 (
S
αrlzyuttaNihay
α,SN
.)の『諦 相 応』(
S
αccα一sαlpyut .ta )に お い て述べ られ て お り、11) その 喩の 内容は次 の通 りであ る。 仏 陀は 自らの手の中に ある シ ソ サ パ ー樹の葉 とシ ン サ パ ー 樹の 森全体の そ の 葉の数を 比較す る。 前 者 は仏陀 自らが説 き示 し て きた こ とを 、 後者は 自ら が 知 りな が ら説 き示 さ なか っ た こ と を 象 徴 す る と考え られ る。 そ して 、 仏 陀が そ れらの 多 くの こ とを説か な か っ た理 由 とし て は 、「そ れ ら が悟 りや涅 槃に 導か ない こ と 亅 が
挙 げら れて い る。 つ ま り、「実践 的で は ない」 とい う理 由に 基づ い て 仏陀に よっ て教 えが 説か れ なか っ た こ とが 、「仏陀の 沈 黙」の意 味 と し て扱わ れ て い るの で あ る。
Beckh
は この 解 釈の 支 持 者と して
Oldenberg
を 挙げて い る。 12) その 他に 、一般に 「梵 天 勧 請」伝説 とし て知 ら れ て い る こ とも、この 「沈 黙」 の 典 拠として 挙げ ら れて い る。 13)仏 陀ぱ 成道 後、 自ら が悟 っ た内 容が他の 人 々 に理 解 され な い
だ ろ うと考え 、 言い換 えれ ぽ 自らの教 え を説 くこ とが 徒 労に 終わ っ て し ま うで あ ろ う と
判断 し、法を説 くこ と な く涅 槃して しまお う とし た 。 し か し、仏 陀の 教え な くして は 世 の中 が 破滅 する と考えた梵 天の促 しに よ っ て 、仏 陀は説 法 する こ と とな る の で ある 。 こ
こ で は、梵天の 促 しが な け れ ば 教 え が説か れ な か っ た で あろ うこ とが 、「仏 陀の沈 黙」 と
し て扱われて い る と考え ら れ る。 14)
6
超 越的 (
transzendent
,= 形 而 一E
学 的 ) な 問 題 に 関 す る沈黙
(p
.112
,1
.27
−p
.115
,L8
) これは 主に 「十 [難 ] 無 記 」或 い は 「十四 [難 ]無記」等 と云 わ れ る事項に 関 して 仏陀に よっ て答え が与え ら れなか っ た こ とに 関 す る 「沈 黙」 で あ る 。
Beckh
は それ ら の11
)SN
. vol .V , P.437f.12)Hermann Oldenberg, Buddh α, seLn
Leben
, setne Lehre , seine Gerneinde,5th. ed ., p.240
.*ユ3>Mah 虚一va8ga (Vina)’a. vo 】.1, P、4f)
14) 中村 :1992コ,pp .443−465 ;坂本 匚1992 ], pp.474 −469.
Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University
「仏 陀の 沈黙」 が語る もの (四津 谷 ) (
27
)「無記」に 関 する諸 事項 の 内容を 超 経験 的な もの 、または い つ の 時 代で も宗教 的要 求に密
接 な 関 係 が ある もの とし、 そ れ らに 対 す る 沈 黙を 「積 極 的 教 訓の 含み の あ る躊 躇」
(
ZurUckhalten
mitpositiver
Belehrung
)で あ る と 述べ て い る 。 そ し て 、 そ の 典拠と し て は 『中 部 』 経 典 (
M
αガ配 配 α一N
ぬ の・a,MN
⊃の 「毒 矢」 の 喩が 述べ ら れ て い るこ とで有 名な 『マ ール ン キ ャ ー小経 』 (
Cu
!
α一Mdguhky
α一Sutt
α)を挙 げて い る。 15)(尚 、こ の 「無 記」、そ して 『マ ール ン キ ャ ー小経』 につ い て は 後に 改め て 言 及 す る 。)
7
こ とぽで ぱ表 現で ぎず (
das
in
Worten
nicht rnehr auszudrUcken [ist
]
)、思 考に よ っ て も把握 で きない もの ([
das
]mitGedanken
nicht mehr zufassen
ist
)に 対 する沈黙 (
p
.116
,1
.4
−
p
.118
,1
.29
)Beckh
に よれ ば 、これは最 高の もの (die
h6chste
Dinge
)に 関す る 「沈黙 」 で あり、 また 「こ と ばで は 表 現で きず 、思考に よ っ て も把 握で きない もの に 対す る 畏 敬
(
Ehrfurcht
)の沈 黙」 である と 理解さ れ て い る。Troy
Willson
Organ
は 、論 文 “The
Silence
ofthe
Buddha
” (Organ
[1954
])に お い て ,仏 陀の 様々 な沈 黙の 中 、 特 に 無 記 の 質 問に 対 して 仏 陀が沈 黙を 守 っ た
理 由を次の よ うに 分 類 して い る。
1
仏 陀が 自らの 在 世当 時 、 他派 の 見解を 認め て い た こ とに 帰 因す る 沈 黙 (日 e
accepted
the
current views :pp
.128
−129
)こ こ で は 、無 記に関 連 し て 尋ね られた 質問に対 して 、 仏 陀は 当 時の ウパ ニ シ ャ ッ ド的
な 回答以外に彼 独 自の回 答を有 し て い なか っ た の で沈 黙 を守 っ た とい う解釈が 紹介 さ れ
て い る。 尚 、
Organ
自身は こ の 解 釈は 妥当で は ない と明確に 述ぺ て い る。 16)15) MN , VQLI , P.426ff
16)Organ は こ の解 釈の 典 拠と して 以 下の 第二 次資 料を列 挙し てい る。 E . G . A . Holmes , The Oreed
of Buddh α, New
York , John
Lane Company , 19e8, p .x.* ; Ananda
K . Coomaraswamy ,
Hinduism αnd BuddhiSm , New York , The philosQphica ]Library ,1943, p.45.* ;Keith, Buddhist
Philosophy in Indiα αnd Ceylon ,1923, p.94;Radhakrishnan , Indiαn
Phitosophy
, vol 、1, London ,George AUen and
Unwin
, Ltd .,1927, p、360f.* ;T
.W
.Rhys
Davids , Buddhisrn, London ,Society
for promoting Christian Knowledge ,1894、 p.
83f
;Junjir6 Takakusu , TheEssenti
αls of BuddhistPhitosophOr, Honolulu , University of Hawaii ,1947, p.20.
一
438
一(
28
) 「仏陀の沈黙」 が語 る もの 〔四 津谷 )2
仏陀
が自
らの在
世当時
、 他 派の見解
を 認め なか っ た こ とに 帰因する沈
黙 (He
rejected
the
current views :pp
,129
−131
)こ の 解 釈の 典拠 とし て 、
Organ
はSN
.の『無記 相 応』 (湾∂y漉 砒 α一sa ηnyuLta )か らの 一説を 挙げて い る。 17 )その 内 容は 次の よ うであ る 。 そ こ で は ,ま ず ヴ ァ ッ チ ャ ゴ ッ
タ (
Vacchagotta
) が仏 陀に 「我は存 在 する か 否か 」 と問い か ける。 それに対 し て 仏 陀 は沈 黙を守る。 ヴ ァ ッ チ ャ ゴ ッ タ が 去っ た後 に 、ア ーナ ソ ダ は 何 故に 沈 黙を 守 っ た か を 仏陀に 尋ね る。 仏陀曰 く、 もし 「我が存在 する。」 と 云 えば、 それ は常住 論を 肯定す る事 に な り、 自らが説 く無我論に 抵 触 する こ と と なる。 一方 「我が存在 しない 。」 と云 えば、 断滅論を 肯定 す る事に な り、ま た 「我」の存 在を 信 じ て い る ヴ ァ ッ チ ャ ゴ ッ タ を安 易に 迷お せ る こ とに も な っ て し ま うとい うの であ る。 こ の よ うに 、ヴ ァ ッ チ ャ ゴ ッ タが 信 じ る説を仏 陀 自身が認め る訳で は な い の で あるが、 ヴ ァ ッ チ ャ ゴ ッ タ が 誤解す る こ と を 危 惧 し て 仏 陀は敢えて 答え を 示 さ なか っ た とい うの で あ る。 18)ま た 、 上述の解 釈と同 じように こ れに対 し て もOrgan 自身は そ の妥 当性に 関 して否定 的な態度を 示 し てい る。
3
仏 陀は 自らの 見 解 (或い は主 張 )を 有 して い なか っ た こ とに 基づ く沈 黙 (He
had
no views ofhis
own :pp
.131
−134
)Organ
は 、仏 陀は 不 可 知論 者 (agnostic )で あるが故に 回答を有 しなか っ た の で あ るとい う解釈 をこ こで 紹 介 してい る。 19)更に
Organ
は 、 「無 記 」 の よ う な 形 而 上 学的 な 問 題に 関 し て は仏 陀は 自らの 見 解を有 し て い な か っ た 、 或 い は 無 知で あ っ た か ら沈 黙 を 守っ た とい う両解釈に つ い て は 、ニ カ ーヤ文 献に 典拠を 見い 出 す こ とは で き な い け れ ど も、 そ の よ うな解釈が有 効で ある とすれ ば 、 た だ小乗仏 教 (Hinayana
Buddhisrn
)に お い て のみ 可能で ある と述べ て い る。 また
Organ
は 、Keith
やRadhakri6hnan
の 見解を 引用 し て 、 20)仏 陀 程の 人物が そ の よう な質 問に 答え ら れ ない はずは な く 、 その よ うに 「仏陀が 不 可 知論 者である。」 とい う 理 解よ りも 「仏 陀が 一切知者で あ る 。」 2D と い う理 解の方が説 得 力がある と結 論 し、こ の 解釈に も 否 定 的 な態度を示 して い る 。 22) 17)SA厂. voLIV , p,400f.
18)Organ はこ の 解 釈の 典 拠 と し て 以 下 の 第二 次資料 を 挙 げ て い る 。Oldenberg: Buddh α, lst ed .
Engl.tr., p272f ;La Va116e Poussin, L . de,
“Agnosticism ”
(Buddhist)in Encyelopedia of Religion
αnd Ethics, New York , Char】es Scribner
’
s Sons,1928, voL I. pp .220−225.
19 )SN . voLIII , P.103.
20)Keith [1923], p.78;Radhakrishnan ,“The Teaching of the Buddha hy Speech and Silence,”The
Hibbert Journal XXXII , No .3, p.353.*
2D 一切 智 者と の関 係に 関し て は、宇井 匚1965]p291f参 照。
22)Organ はその 他の 典 拠と して 以 下の 第二 次 資 料を挙げてい る。 La Val16e Poussin [1928 ], p.224;
E.J . Thomas , The Lzfe of Buddha as Legend αnd /fistory, London 、 Kegan Paul , Trench 、
Tr茸
bner
and Company, 1927, p.202.*
Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
「仏 陀の 沈 黙 」 が語る もの (四 津 谷) (
29
)4
[
無
記に関連
す る]質 問に 対 す る答え を有 して い た が 、 敢 え て語 ら なか っ たこ とに 帰因する沈 黙 (
He
would nottell
his
own views :pp
.134
−136
)こ れ は直 前の 「仏 陀は不 可 知 論 者 であ っ たか ら 」 或い は 「仏 陀は質 問に 答え る能 力を
有 し て い なか っ た 」 とい う解釈 とは 反 対に 、仏陀に は 答え る能力は あっ た が 、そ の 回答
を 理解する能力が質 問者に備 わ っ て いな い の で 、その 回答を質問者自身に 見い 出 させ る
為に 、 仏 陀 は 沈 黙 を守 っ た と さ れ て い る 。 彼 は こ の 状況 を 「仏陀 は 秘 密 の 教 義
(esoteric
doctrine
)を 有 して い た 。」 と述べ て い る。Organ
は こ の 解 釈の 支 持 者 と して
Radhakrishnan
を 挙げ 、またそ の 典 拠 とし て前に 言 及 し たSN
.の シ ン サ パ ー樹の喩に 関 する仏 陀の沈 黙や 、同 じ
SN
.の ヴ ァ ッチ ャ ゴ ッ タに よ る 「我は 存 在 するか 否か 」 との 質 問に 対 し て仏 陀が 沈黙を守っ た箇所 を 指 示 しては い るが、
Organ
自 身 は そ れが決 し て説 得 力の ある もの とは考えて は い ない よ う である 。 23
)
5
自らの 見 解を説 くこ とが で きない こ とに 帰 因 す る沈
黙
(He
could nottell
his
own view :pp
.136
−138
)こ の 「自 らの 見 解 を 説 くこ と がで きな い 」 とい う沈黙の理 由に は 、三 つ の 局面 が あ る と さ れて い る。 第一は 、 「質 問 その もの が 不 可解で ある 」 とい うこ とであ る。 つ ま り、仏陀に 向 け られ た 質 問その もの が 理解で きない 意 味を含ん で お り、そ うい う場 合 に 仏 陀は 沈 黙 を 守 る か 或い は そ の質問 そ の もの を訂正 し て誤 解の ない よ うにす る こ とが 指摘さ れ て い る 。 前 者
の 例 とし て は 、前に も触れ た ヴ ァ ッ チ ャ ゴ ッ タ に よ る 「我は存 在 するか 否か 」 との 質問 に 対 して仏陀が 沈 黙 を守っ た 箇所が 、24)後 者に 関 して は
D1
>.のKev
αddh
α一sutt α よ りの 一節がその例 と し て挙 げられて い る。 25) 第二 は 「語 ら れ る対 象その もの が 知 識 (= 言語 )の域を 越 えて い る」 とい うこ とで ある。 こ れ に関す る典拠 と し て は 、
S1
▽.の 「無 記 相応」に述べ られ てい る如 来の死後の 存 在に関す るパ セ ナデ ィ 王 (Pasenadi
)とケ ーマ ー尼 (Ke
皿 旬 との間の 対論が取り上 げ ら れ、 た と え ぽ後 述 する 「無 記に 関 連す る事項 」の 一つ で あ る如 来の 死後 の存 在に 関 し23)Organ は こ の解釈の 典 拠とし て以下の 第二 次資 料を 挙げてい る。 D .
T
.Suzuki
, 」E’ssays in ZenBuddhisrn , lst series , London , Rider and C()mpany , 1927, p.47, note 1;Radhakrishnan :工
927
コ, vo1 .Lp .466 .*:
Oldenberg
匚1882],p.273
;E
.J. Thomas , Eαnly Buddhist Scriptures, London ,Kegan
Paul
、 Trench , Trilber and Company ,1935, p.117f.*24) εN . vo1 .
N
, p.40ef.25丿 Kev αddha −sutta (ヱ♪ノ▽. vol .1, p.222f丿.
一.
436
−一(
30
) 「仏陀の沈黙」 が語 る もの (四津谷 )て 、「如 来その もの が 深 遠 で推 し量 るこ とが 出来ない こ と」 が 「仏 陀の 沈 黙
i
の理 由の一.・つ であ る と述べ て い る。 26)
第三 に は 、「言語その もの の 不完 全性 (
inadequency
)」 が その 理 由とされ、『楞 蜘 経』∫.α肋 伽 伽 伽 α一satr α.,『維摩 経』
Vi
ηzdlaflirtinirde .9
α一stitra − 一般に1
維 摩 の 一黙」と称さ れ る もの 一 、2T) ま た具体例 が 示 さ れて はい ないが 「禅 」仏 教 の考 え 方等も その典
拠 と さ れ て い る。
6
説法 の 主 な 目的か ら 逸 脱 し た く なか っ た こ と に 帰因 す る沈 黙 (
He
woaldnot
be
distr
αcte(i
from
his
m α
in
purPose
.’PP
.138
−140
)Organ
は 、こ の 解 釈 を最 も 妥 当 な もの と 見 な し てい る。 彼に よれ ば、こ の 沈 黙 は 仏陀の実用的 な (
pr
αgm
αtic)態 度に 基づ く もの で あ り、仏陀が 「哲 学 者 」 (philosopher
)で は な く 「宗 教 者 (師 )」(religious teacher )で ある こ と が、 沈黙の理 由と さ れ る の で ある。 典拠として は 、
MN
.の 『マ ール ソ キ ャ ー小 経 』,D
ハ1
.のr
清 浄経 』(pasadih
α一 suttanta )等 、28)前に言 及 し た シ ン サ パ ーの喩 等が挙 げられ てい る 。29)K
.N
.Jayatilleke
は 、 著 書 “E
αrlyBuddhist
Theory
〔ゾ
Kno
ωle
〔ige
” (
Jayatilleke
[1980
])に お い て 、 「仏陀
の沈黙
」 を次の よ うに分 類
して い る 。 ま ず、質問 を 「答 える こ と が で ぎる もの 」 (answerable ) と 「答え る こ と が で ぎ な い もの 」 (unanswerable )に 分 け 、 各 々 を更に 二 つ に 分 けて下 記 の よ う な 四 つ の 解 釈を提示 して い る。1
質 問そ の もの は 答 え得る もの で ある け れ ど、 仏 陀 は そ の 答 え を知 ら な か っ た 。 (
pp
.471
−472
)これ は 「懐疑主義」(scepticim )或い は 「素朴不 可 知 論 」 (na {ve
Agnosticism
) 的 な解 釈と さ れて い る。 こ の 解 釈 の 支 持 者 と し て 挙 げ ら れ て い る の が 、Keith
で ある。 30 ) 26) SN . vol .N , pp .
374
−380
.27)VimatαhirtinirdeS a−s島tra (P .229a8 −b2 ,大 鹿. p.75, ll.32−36)、尚、『楞 伽 経』 に 関 し て は 、典 拠が
示 さ れて い ない 。
28
)DN . voL 皿, p ,136f
,29
)Organ は こ の解 釈の 典拠 とし て次の 第二 次 資 料を挙 げて い る。 Thomas [1935], p ,118.30)Keith [1923], p.44, p.45, p.63.ま た、 Jayatillekeは こ の 解釈に つ い て Jacobi の 研 究 (Hermann
Jacobi, Saered Boohs of Eαst., voL45 , p.xxxviii )に 関 し て も言及 し てい る。
Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty 「仏陀の 沈黙」が 語る もの 〔四津 谷) (
31
)2
質 問その もの は 答え得る もの であ り、仏 陀は答え を知 っ て い た け れ ど も、 そ の
質
問 は 宗 教 の 中心 問 題で あ る救 済 に 関 係 し な い の で 回答 を与 え な か っ た 。 (pp
.473
−474
)こ れは 「実用主義」(
Pragmatism
)的 解釈と見な され て お り、『マ ール ン キ ャ ー小 経』、 シ ン サ パ ー樹の喩 ,その 他の ニ カ ーヤ文献が こ の 解釈の典 拠 とされて い る 。 3113
質
問そ の もの は 答え得
な い もの で あ り、 つ ま り質
問の内容
が 理性の 範 囲 を越 え て い た 。 (pp
.474
−475
) こ こで は 、 問題の解 決が 人間の 知 識 (= 理 性 )の域 を 越 えてい る もの で ある こ とよ り、 仏 陀は 沈黙 を守 っ た と 理解さ れ て お り 、 そ して こ れ は 「理 性 に 関 す る不 可 知主 義 」(
Rational
Agnosticisln
)に帰 因 す る もの と述べ られて い る。 こ の 解 釈の 支持者 と し て は上記のBeckh
とMurti
が挙げら れ て い る。 32)4
質 問そ の もの は答 え
得
な い もの 、 言い 換えれば質 問 その もの が論 理 的に 無 意 義な もの で あ っ た 。 (pp
.475
−476
)これ は 、
Jayatilleke
自 身 「論 理 的 な 実 証 主義」 (Logical
Positivism
)に 基づ く沈黙 と理解 して い る。 こ こ で は 「存在す るか 否か 」等を尋ね る こ と が、 涅 槃 の よ う な超 越 的境地 に関 して は適 切 で は ない と さ れ 、その 典 拠 と し て
SN
,やMIV
.が挙げ ら れ て いる。 33 )ま た 、 こ こ で
Jayatilleke
が強 調 し て い るのは 、 涅 槃に 達 し た 人 (; 如 来 ) の 境地は 深遠で計 り えず 表 現 し得ない が、 到達 しえ ない もの では決 して ない とい う点に お い て 、そ れは 不 可知 論 的解 釈 と 明確に 区 別 さ れる と す る。 34)T
.R
.V
.Murti
は著
書Centr
αl
Philoso
ρhy
o!
Buddhisrn
(Murti
[1980
])にお い て 提 示 し た
仏 陀
の沈
黙の 理 由は 以 下の 四 つ で ある。
3D D ∠V. voLI , P.191;tUfl>. vo1 」, P.431;SN . voLV . P.437.
32)Hermann Beckh , Buddhismus , Berlin und Leipzig
, 1919, voLI , p.120;Murti ,T .
R
, The centralphilosoph )10f
Buddhisrn
,LQndon
,1955, p.38
, p,40.33)
8
〈乙 pコ075
,p.1076(?);Ml>, voLI , p.487 .34
)Jayat111ekeは こ の 解釈 に つ い て Wlttgensteln に も 言 及 し て い る 。(Ludwig Wittgenstein ・Trαctatus Logieo −Philosophicus ,1933,7, P.183∂*
一
434
一一(
32
) 「仏 陀の沈 黙」 が語る もの (四津 谷)1
実践 的 な (
practicaJ
) 理 由に 基づ く沈黙〔
p
.36
,1
.14
−p
.37
,L4
))こ こ で は 、仏陀に 向 け られた 質問は形 而 上 学 的 な 性 質 を 有 す る もの と 理 解 さ れて お り、 形而 上 学的な考 察は精 神 修養に とっ て 必 要で ない もの で もあ り、且つ 害を もた ら す もの
で も ある故に 、仏 陀は沈 黙を守 っ た と見なされて い る 。 (metaphysical enquiries are
unnecessary and can even
prove
harmful
to spirituallire
.)こ の 解 釈 の 典拠 とし て は 『マ ール ン キ ャ ー小 経』が 挙げ られ てい る。
2
仏 陀が 不 可知 論 者 で あるこ とに 基づ く沈 黙 (
p
.37
,11
.4
−8
)こ の解 釈の支持者として は
O
ユdenberg
やKeith
が挙 げら れて い る。 35)3
否 定 的 (negative )な理 由に 基づ く沈 黙 (
p
.37
,11
.8
−13
) 仏 陀は 回答を与えない こ とに よ っ て 、「我は存 在 しない 。」或い は 「涅 槃 と は 絶 無の こ とで ある。」 とい うこ と を 主 張 し よ う とした とい うの で あ り、その支 持 者 と し て は 第2
の 解釈の場 合 と同 じよ うに01denberg
や 、更に はThornas
が 挙げら れてい る。 36 )4
絶 対 的 な 真 実 (
the
unconditioned nature ) の 不 可説 性 (indescribable
nature )に 基づ く沈 黙 (
p
.47f
)Murti
に よれぽ 、こ れこ そ が 「仏 陀の 沈黙」の正 しい解釈 なの で あ り、 こ れは ウパ ニシ ャ ド に お い て真実が ” neti neti ” とし か表現さ れ得ない と さ れた よ うに 、仏陀 も真 実
は 不 可言 (= 不可説 )で あ るこ とに よ り沈 黙を守 っ た とい うこ と なの で ある。 37)
こ こ まで
述
べ て きた諸
研 究 者の 「仏 陀の 沈 黙」に 関 する解 釈及 び その 分 類に 比べ て 、 よ り網 羅 的で 且 つ
精
緻 な分析
を提
示 し て い る の がKlaus
vonOethke
で ある 。 同 氏 は 論 文
”
Die
unbeantworteten
Fragen
unddas
Schweigen
des
Buddha
” (「答
え られ なか っ た 質問 と仏 陀の 沈黙
」,Oethke
[1994
]) の 中で 、 第 二 次資
料に 述べ ら れ てい る 「仏陀
の沈黙
」の 諸解
釈に 関 し て 以 下の よ うな分類
を 提示 し て い る 。 35)Keith [1923], p.45, p.63;01denberg,(典 拠に関 す る記 載な し)36
)Oldenberg
[1881], P,272;Thornas 匚1971コ, P.127
. 37) 第一次 資 料と して は 以下の 文献が 列 挙 さ れてい る。SN
. N , p.369ff; Ud . p.80f;ltivuttaha. p、37,p .61;Brhαdarαr?yaha −upaniFad 2.3.6 (=・
S
αtαpαtha−B厂ahmopa l4.5.3) また 、第二 次資料 とし て はRadhakrishnan の 研究 を挙げ て い るn Radhakrishnan [1927コ, vol .1 ,p 、682f. cf Gαutanta the
Buddha , P,
59
*Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University
「仏 陀の 沈黙 」 が語る もの (四津谷 )
(
33
)1
仏 陀 の 認 識 の あ り方が 、肯 定 的 或い は 否 定 的 な 答え も許 さな か っ た 。 (
Budd
−has
Erkenntnisstand
lie
βeine [begrilndete
]positive
oder negativeAntwort
nicht
zu .)
(
pp
,92
−93
)これは 、仏陀 自身が答え を知ら な か っ た (; 無 知 で あ っ た )か ら沈 黙 を 守 っ た とい う こ とで ある。
2
仏 陀は
実
用 的な顧 慮 (pragmatische
Erwljgungen
)il
こ基づ い て 、 即 ち実 践 的で ない こ とよ り答え なか っ た。 (pp
.93
−94
)38) こ れ に 関 して は 以 下の よ う な二 つ の 観 点が設 定され て い る。2
−1
仏
陀
は 「無 記に 関連
す る事 項」 (第II
節参照 )に 関 する質
問に 関 与 するこ と (
Besch
凰ftigung
)即 ち答 え る こ と (Beantwortung
) は 救済
に 無関 係 (
heilsirrelevant
) と見な して い た。 39)2
−2
仏 陀は 「無記 に 関 連 す る事項 」 に 関 する
質
問に 関 与 す る こ と 即 ち答 え る こ とは 救 済に 害 を も た らす (schHdlich )、 或い は 不 利
益
で ある(nachteilig ) と見 な して い た。 その 理 由 とし て は 以 下 の 四 つ が 挙 げ られ てい る。 40 )
1
)貴
重な時閭 の 浪 費で ある 。 (Vergeudung
wichitigerZeit
)2
) 涅 槃を得る こ と(
die
Er1δsungsgewinnung
)の 妨 げと な る (hinder
−1ich
)見 解 (Einstellungen
)を生 じ させ る こ と と な る。3
) 肯 定的 或 い は否定 的な 回 答 をするこ と(einpositives
oder negativesBeantworten
)は 、 涅槃
に 至 る為の 諸 条 件 の獲 得
を 促 進 す る こ と (die
F6rderung
der
Voraussetzungen
fifr
Erl6sung
)に 対 して 不 利益 な(abtr5glich )行 為 (
Verhaltensweise
)をな す 機 会(
Anla
β)を 人 々 に与
え る こ とに な り か ね ない 。38)
G
・ji
・ N ・g… Th・ Sil・n・e ・f th・ B・ddh・ ・nd it・ M ・dhy・mi ・ 1・t,・p・,t。ti。n 、 1。 St。di。 。 QnIndology and Buddhology presented in honour of Prof . S. Yamaguchi . Kyoto ,1955.
39)こ の 解釈の み を 理 由とするこ とに関 する もの 。 Christrnas Hunphreys , The
LVisdom
of Buddhism .London −Atlantic
Highlands
1987, p.52.* ; Klaus
Mylius, Gαut αrnα
Buddha ,
die
vier
edlen
TVahrheiten. Texte des ursprungiichen Buddhismus , MUnchen ,1985.* また 、こ の解釈 と 他の 解 釈を 連 関させ て説 明 する もの ・ E・li・h F・auw ・11ner, Geschichte der indischen Philos
・phi・ /, S。1。
b
。,9,1953;K・ ・IJ・・pe… D ‘・ 9・ ・伽 刪 ・s・ph・n, M廿・ ・
h
・n,1957・J・q・i・ Pe・ez−R ・m6 ・, Seif。雇 N 。−Self in Early Bitddhism, The Hague −Paris−New YQrk ,1980,*
40 )F・auwail ・ ・r こ1953]・J・spers [1957]・Perez−R・m6 ・ [1980]* ;N・thm ・I T・tia ・ Th。・A 。yah ,tas
or
Jndetermin
αbles. Nalanda ,工960
.*一
432
一C34
) 「仏陀の沈 黙」が 語る もの (四津谷 )4
)肯
定 的或 い は否 定 的 な 回 答を す るこ とは 、 渥 槃の 諸 条 件 を 育 む(
Schaffung
der
Voraussetzungen
fUr
Erl6sung
)こ とを妨 げ る 見 解を 人 々 に もた ら し か ね な い 。3
「無 記に 関
連
す る事 項」 ば 、 仏 陀に とっ て 実 質 的に は認識論 的 (epistemolo −gisch
)、形 而 ヒ学 的 (metaphysisch )、そ し て メ タ 哲 学 (metaphilosophisch ) な 見解
で ある こ とに よ っ て仏 陀は 沈 黙 を守 っ た 。 (pp
.94
−95
) こ れ に 関 して は 以 下の よ うな二 つ の
観
点 が設定 さ れ て い る 。3
−1
「無 記 に 関 連 す る事 項 」 の
質
問 に まつ わ る諸 問 題 (die
in
den
Fragen
involvierten
Probleme
) に つ い て の 正 確 な認 識 (Erkenntnis
)を獲 得 する こ とは 、 原 則 的 と し て (
prinzipiell
)不 可能 (unm δglich
)で ある と仏 陀に よ っ て見な され た 。 「無 記に関連 す る事 項」に 関 し て確 実な 認 識 を 得 る こ とは 、通 常 の知識の範囲 で は不 可能で ある と仏 陀が 理解 し て い た か ら沈 黙を守っ た とい うもの である。 こ の 解
釈の 支持 者と しては 、
Beckh
やFrauwallner
が挙 げ ら れて い る。41 )3
−2
「無 記に 関 連 する事 項」 の 質 問は言 語に よっ て (sprachlich ) 表 現不 可能 (nicht ausdrUcklich ) 、 或い は伝 達 しえ な い (nicht mitteilbar ) も の (Sachverhait
)を 志 向 し て い る。 こ の 解釈は 、勝 義 (= 真 実 )を表 現 するに は言語は 不 完全な もの であ る こ と よ り 仏 陀 は沈黙を守 っ た とい うこ とで ある。42)4
沈
黙
(das
Schweigen
)或い は 回 答 を与 え ない こ と (das
Nichtantworten
)は そ れ 自身
真実
(Wahrheit
)
を表現
し (zumAusdruck
bringen
)、真 実
を指
し示 し (
hinweisen
)、 或 い は 間接的 に (reprSsentierend )真 実を 描 写 し よ う (dars
−tellen
)とす る仏 陀の 意図の 表れ で ある。 (p
.96
)この 解 釈に関して は 、「仏 陀の 沈 黙は一つ の 明確な哲 学 的 態 度の 表れで ある。」 とす る和
辻 哲郎博 土の説 を支 持す る 長 尾雅人博士 の主張や
Beckh
の 説が 言 及 され て い る。43)41)Beckh :1958], p.114f;Frauwallner 匚1953 コ, p .228f.
42) NagaQ [1955 ], P.141ff.
43)
Nagao
[1955], p.143;“ratsuji こ1937]i Bedkh 「1958コ, p」18.Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
「仏 陀の 沈黙
1
が 語 る もの (四津谷 ) (35
)5
肯定 的 或 い は 否定 的回 答は 、歴 史L
の 仏 陀 に お い て (beim
historischen
Buddha
) 彼 が 至 っ た 霊 的 状 態 の 結 果 と し て (infolge
seincs spirituellenStatus
) あるの で は ない 諸 条 件の 下 で 与え ら れ得 る。 (p
.97
) これは 、 質問に 対する 回答が な され るの は肯 定的 或い は否定 的い ずれ であ っ て も、あ る 条件の 下 一 例え ば 、 煩 悩や 執着を有 し てい る とい う条件の ド ー で の み 与え ら れ るの であっ て、 煩悩 等が滅 して い る仏 陀に お い て は その よ う な 条 件は 成 立 しない 。 従 っ て 、 仏 陀に は肯定的或い は否定的な 回答の い ず れ もがあ り えず 、 沈 黙を守 っ た とい う解釈で あ る。 44)6
仏 陀 に よれば 、 「無 記に 関 連す る
事
項 」 の質
問と そ れ に 対す る肯
定 的 或 い は 否 定 的 回 答 は 、実
際 上 (sachlich)
妥当
で は な い 主題
(unzutreffendePropositionen
) を含 意 し(implizieren
)、 或い は 前 提 とする (pr
訌supponieren )。これは 、「無記に関 連 す る事 項」 の質問 や そ れに対 す る回 答が 、 誤 っ た もの 或い は 不適 切 な もの を 前提 と して い る とい うこ とで あ る。 端 的に 言えぽ 、これは 「無 記に関連 する事 項」 の 質問の 基 体が 不成立 で あるこ と と考え ら れ る。 こ の 解釈の 支持 者としては
A
.K
,War
−der
等が挙げ られて い る。 45) 皿以 下 に お い て は 、前 節で 紹介 した 「仏 陀の 沈 黙」 に 関す る諸の 分類 並 びに 「仏 陀の 沈 黙」 に つ い ての 解 釈を 、 一般 に 「無 記」 と称され る もの に関 す るもの とそ うで ない もの とに 分 けて検 討を加え て ゆ くこ とに す る。
前 述の よ うに 「仏 陀の 沈 黙」 に 関 して は
様
々 な局面 が有
り、 更に その 各 々 に 関 して も様々 な解釈が あ る。 中 で も と りわ け 重要 と考え られ る もの が 、 一 般に 「無記 」 (
Skt
: avyakrta ,P
弖li
: avyakata 或い は abyakata ) と称 され る もの に 関す るそ れ で あ る。
こ の 「無 記 」 と
称
される もの に は 、大 き
く分
け て 二 つ の意 味
があ
る。 46)一 つ は 、行 為 (= 業) や そ の 行 為 の 原 因 と な る心 な どが 「善」 ,「悪」或 い は 「無 記」 と分 類 され る場 合の もの であ り、 相反す る二 つ の 選 言 支、 つ ま り 「A
」 と も 「〜A
」 とも決
定でき
「ない こ と を 示 す もの で ある。 も う 一 つ は 、 仏陀
がある特 定 の 質44
)P色rez −Rem6n [1980], p .299* ;Collins「1982].*45)A .K . Warder , A . K ., Indian Buddhism ,1970, p .125;Collins
l19821
.*46)CPD . vo 】1, p.484f.
一
430
一(
36
) 「仏 陀の 沈 黙 」が語るもの (四 津 谷 ) 問一
一一般に は 「形 而 上 学 的 質問 」 と云 われ る
一
に 対 し て 明確な 回 答を与 え なか っ
k
こ とであ
る。 仏陀
が表明 し た こ の 「無記 」 とい う態 度に は 、厳 密 に 云 の り えば 「唯 単に 沈 黙 を守る」 こ と と 「『語 らない 』 と仏 陀 自身が 述べ る」 こ との 二 つ が 含 まれ るの で ある。 そ して 、 こ の 「回 答 を 与 え な い 」 とい う態度 は 、 以 下 に 示 す 仏 陀の 質 問へ の 四つ の 回 答 方 法の 一つ で ある 。その 四つ の 回
答
方 法(四 記 答 )
とは 、 「一一向記」 (ekarpga −vyakarapa , 質問者の 言 うこ とが道理 に 適 し て い る と見た時、 答え る者が
躊躇
な く、 直ちに 「然 り」 とか 「否 」 とか 一方に 断 定 し て 答 え るこ と), 47)「反 問」或い は 「反 詰 記」 (paripricch5
−vy5kararpa , 反 問 し て 答え る こ と)
, 48)「分
別記
」 (vibhajya −vyakara4a ,質
問 老の 説が 一 部 分は 正 し く、 一部 分は誤 っ て い る とき、 区 別 して 返 答 す る こ と) , 49)そ して 「止記」 , 「捨
置記 」,「置 答」 或い は 「置 記」 (sthapan
iya
−vyakarapa ,黙 して 答 え な い こ と ),50> と 呼ば れ る もの で ある。 そ し て 、 最 後 の 「止記」
或
い は 「捨置
記」等
と称
さ れ る ものが
本稿
で扱
う とこ ろ の 「無 記 」な の である 。そ の仏 陀が 答え なか っ た とい う質 問 とい うの は 以下の よ うな もの である 。
1
) 世 界 [我]
は 常住 で あ るの か 。 (sassatoloko
[atta ])世 界 [我 ]は 無常で あ るの か 。 (asassato
loko
[atta ])2
)世 界 [我 ]は
有
辺で あるの か。 (antavaloko
[atta⊃
世 界 [我 ]は無 辺で あるの か。 (anantava
loko
[atta ])
3
) 霊 魂 と身 体は同一 である の か 。 (tarpjivarp
tarp
sariram )霊魂 と身 体は別 異 で あ るの か 。 (afiarp
jivarp
afiarpsariram )4
)如 来は死
後存
続す るの か 。 (hoti
tathagato
param
mara 呻 )如
来
は 死 後存
続 し ない の か 。 (nahoti
tathagato
param
marana )
如 来は 死 後 存 続 し、 且 つ 存 続 しな い の か 。 (
hoti
ca na caho
七i
tathagato
param
marata )如 来は死後 存 続 する の で も な く 、
存
続L
な い で も な い の か 。(n’
eva
hoti
na nahoti
tathagato
param
mara啅
>47)『仏 教 語 大辞典』 ヒ巻,p.
57
.48
)同 ヒ、下巻,、P.1113.49) 同 と,下巻,.p.1200. 50) 同 上,−L巻,p、
606
.Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty 「仏陀の 沈 黙 」 が語る もの (四津 谷 ) (
37
) 【注 】1
)と2
)に 関 し て は 、 「世 界 」 〔loka
,; 世 間 )と 「我1
(att 齢 が 並 列 し て 主 語 と な る 場 合 も あ るの で 、主語 とし て 「我」 も付記 して お い た 。 51 ) ま た 、 こ れ らの 質問は 必ず し も疑 問 文 で表 され て い るぽか り で な く、 見 解の 表明 と い う形 式を と っ て肯 定 文で 表され てい る 場 合 も少な く ない 。これ ら 十 個 の
質
問は 、一般に 「十無 記」或い は 「十難 無 記」 と呼ば れ る もの で あ る 。 (以下 に お い て は 「十 無 記」 と呼称
する。)但 し、1
) と2
)に関
し て 四句
分 別が な さ れ る こ とよ り、即ち1
)に 関 して は 、 「世 界は常住 で あ り、 且 つ 無 常 で も あ るか 。」 ,「世 界は常住 で も な く、 且 つ 無 常で もな い の か 。」 ,2
) に 関 し て は 「世界
は有
辺で あ り、 且 つ無
辺で も あ るの か 。」, 「世 界 は 有辺 で も な く 、 且 つ 無辺 で もな い の か 。」 とい う質
問事
項が加わ るこ とよ りそ の数
が 十 四 に なる場 合が あ り、 それ は 「十 四無 記」或い は 「十四 難 無 記 」 (以 下に お い て は 「十 四無 記」 と呼 称す る。 ) と 呼 ぽ れ る。 こ の 「十 四無 記」 は、 漢 訳文 献 、 部 派 仏 教 、 そ して 大乗 仏 教 の 文 献 に よ く見られ る。 52 〕(尚 、 無 記 の質
問の 内 容並 び に 数 に 関 し て は こ こ で は言 及 し ない こ とに す る。 ) 53)1
) 世 間 [我 ]有 常 世 間 匸我 ]無 常世 間 [我 ]有 常 世間[我 ]無
常
世 間 [
我
]非有 常
世 間 [我 ]非 無常
2
)
世
間〔
我
]有
辺 世 間[我 ]無 辺 世 間 [我 ]有辺 世 間 [我 ]無辺世 間 [
我
]非有
辺 世 問[
我 ]
非無
辺3
) 是 命 是 身 命 異 身 異4
) 如 来 終如 来
不終51
) 1⊃asddihα一suttant α (1)ハ1. vol .III, P.138)
52)
r
ミ リン ダパ ン ハ ー』iVfip .に お い て は 、「十四無 記 」の 中の , が 欠 けて お り 、 i . 十二無 記」に なっ て い る。 53)「無 記に 関 連 する事 項」の 数に つ い て は、三枝 [1978] 参 照。 一428
一 N工 工一Eleotronlo Llbrary(
38
) 「仏 陀の沈 黙」 が語る もの (四津谷 ) 如 来 終 如 来不 終 如 来 非 終 如 来 非不終【注 】 「十無 記」の 場 合と 同様に 、
1
)と2
)に 関 して は 、「世 界 」 (loka
,= 世 間 )と 「我1
(atta )が並列 し て主語 と な る場合もあるの で 、主 語 とし て 「我」 も 付記し て お い た 。尚、 上記の 全て の 項 目 が扱わ れ て い る
場
合 或 い は その 一 部の み が 扱われて い る 場 合の い ず れに おい て も 、以 下 に お い て は そ れ を 「無 記 に 関 連 す る事 項」 と呼 び 、 そ れ 以 外の 「仏 陀の 沈黙
」 を 巡 る諸 事 項 を 「無 記に関 連 し ない 事項」 と呼ぶ こ ととする。そ して 、 ニ カ ーヤ
文献
にお ける ヒ記の 「無 記」 の 項 目に 関す る議
論の 典 拠を列 挙 し た もの が 以 下 の 表 で あ る。 ( 一 応 、 対 応 す る と思わ れ る漢 訳 文 献の 典 拠 も付 記 し て お い た 。)Dtgha
Nihay
α1
)M
αh
δli
_sutt α (vol .1
,p .157f
)2
)Jali
)ノα一sutt α (vol .1
, p 、
159f
)3
)PotCh
αP
δd
α一sutta(vol .
1
,P ・187f
)漢 訳: 『布旺婆 樓経』(長 阿含
17
,大正1
巻 ,111
頁 上〜)4
)Mahdniddn
α一s“ttαnta(vol ,皿,
p
.68f
)5
)Pas δ
dih
α一su “anta(vol .]田[,
p
.135f
,p
.137f
)漢 訳:
『清浄経 』 (長阿 含
12
, 大正1
巻 ,75
頁 下〜 )M
(加
配m αNikdy
α1
)Nivopa
−sutt α(vol .
1
,p
.157f
)漢 訳 :
r
猟師 経 』 (中 阿 含47
,大 正1
巻719
頁中〜)2
)Ca4
α一Mdluhley
α一sutt α(vol .
1
,P .426f
,430f
)漢訳: 『箭喩経』 (中阿含
221
, 大正1
巻804
頁 中 〜 〕3
)/
lg8i
−V
αcch αgott
α一sutt α (vo1 .1
,P
.484f
)漢 訳 :雑 阿含