駒澤 大
學
佛教學部研究紀要 第60
號李 成
14
年3
月 (1
)世俗諦
と
無 明 (
1
)
四
津 谷 孝
道
1
ッ ォ ン カバ ・ ロ ーサ ン タクパ
Tsong
kha
pa
Blo
bzang
grags
pa
(1357
−1419
,以 下 「ッ ォ ンカバ 」 と称 す) は 、顕 教 に関 する主な著 作の ほ とん どで 「二 諦 説 」
に
言及
して い るが、 そ こ で の 考 察の土 台 となっ て い るの は、 チ ャ ン ド ラ キ ィー
ル テ ィ
Candrakiriti
(ca .600
−650
)の 『入中論
』M
αdhy
αm αhavatar
α 並 びにそれ に
対
す る彼 自身
の 註釈
で あ る。 (略号MA
.以下、 こ の 自註を も含め て .r
入 中論』 と呼称 する)
そ して 、 本 稿にお ける考
察
の主 な対象
とな るの は、 こ の 『入 中論
』 の 「世俗諦」を巡る
議論
の中
の 以下の 記述で ある。de
ltar
na re zhig sridpa
’i
yan
lag
gi
yongs
subsdus
pa
nyon mongspa
cangyi
ma rigpa
’i
dbang
gis
kun
rdzobkyi
bden
pa rnam parbzhag
go //de
yang
nyan thosdang
rang sangs rgyasdang
byang
chub semsdpa
’ nyonmongs pa can
gyi
ma rigpa
spangspa
1
’du
byed
gzugs
brnyan
la
sogs
pa
’i
yod
pa
nyiddang
’dra
bar
gzigs pa rnamsla
nibcos
ma’
i
rangbzhin
yin
gyi
/bden
pa ni ma yin te /bden
par mngonpar
rlompa
medpa’
i
phyir ro //byis
pa namsla
nibslu
bar
byed
pa
yin
la
/de
las
gzhan
pa
rnarnsla
ni sgyu mala
sogs paltar
rten cing ’brel
bar
’byung
ba
nyidkyis
kun
rdzob tsamdu
’gyur
ro 〃(
MA
.p
.107
,ll
.17
−p
.108
,1
.3
)訳) ’ その よ うで あ る な らば、 と もか く 「有」(一輪 廻→ 十二支 縁 起 )の 一部 分に摂 め られる 「有染汚の無 明」によっ て 「世俗 諦」が設定さ れ る。 更 に、 「有染汚の無 明」 (一煩悩障)を断じ た声聞・ 独覚 ・ 菩薩 、 即ち影像等の有 (= 存在)と同じ様 に [幻の よ うに 虚偽と]御 覧に な る人々 に お い て (=とっ て)は、 [行 (サ ン ス カ ー ラ) 等が] 「改作」 (= 作ら れ た もので あ るこ と)を自性 とするの で あ る け れ ども 、 [そ れ ら はコ「諦」で はな い。 何故な らば、 [彼 等 ( = 声 聞 ・独 覚 ・ 菩 薩 ) は そ れ ら を] 「諦」と して執 着す ること が 無いか らで あ る。 [そ れ ら (= 「行」[サ ン スカー ラ]等と いう 「世 俗諦」)は] 凡夫を偽る もので あ り、 そ れ ( = 凡夫)以外の 人々 に は [鏡に写っ た]映像等の よ うに、 縁起 性に よ っ て (=縁起 する もの で ある こ と に よっ て ) [「世 俗諦」で はな くて]「唯世俗 」と な るので ある。 (尚、 以 下におい て
(
2
) 世俗 諦と無 明 (1
) (四津谷) は、 こ の 記 述 を 「『入中論
』の当該箇
所」 と称 して 、 言 及 して ゆ く) 1こ の 引 用 箇 所につ い て は、 ま ず 「『
世
俗 諦 』が 「無
明」、 厳 密に は 「有 染 汚の 無 明』 (以下、 特別な限定が ない限り 「無 明」とは 「有染 汚の 無 明」 を示 す) に よ っ て 設 定 され る」 と述
べ られて い る。 そ して 、 無 明を断 じた声聞
、独覚
、菩薩
(正 確には、 第七 地 まで の菩 薩) とっ て は、 「行 」 等が 「世俗 諦
」 で はな くて 「唯世
俗 」一 「世 俗諦」 が設 定さ れ るの は声
聞、独
覚、 菩 薩で はな くて 、 無 明を有 す る凡夫で ある 一 と見なされ る と述べ られてい る。 こ こ に お ける 「世 俗 諦」とい う表 現は、 「世俗 有
」と して で はな く、 「世 間世俗
( = 無 明を有 する凡夫 ) に と っ て の 諦な る もの 」 と して理解
さ れ るべ き もの で ある 。 確か に、 通 常の 読み方
を す れ ば、 こ の 「「入 中論』 の 当該 箇所」 に おい て は、 「世 俗 諦」が無 明に よ っ て 設 定さ れ るこ と が述
べ られて い る と理解され得るの で あ る 。 と もか く、 今は こ の厂『
無 明』 に よっ て設定さ れ るの は 『世 俗 諦 」で ある」 とい う解 釈
を [『入 中 論』 の 当該 箇 所の 解釈1
] と呼ぶ こ ととする。とこ ろ が、
別
の箇所
で チ ャ ン ドラ キール テ ィ は 「世 俗諦」 を 「虚偽
な るもの を見る知
に よ っ て 捉え られ た もの1
、 2 厳 密に は 「障 害 を有 さな い六っ の 感覚
器官に よ っ て捉 え られ た もの 」L よ り正確
に は 、 こ の 「障害
を有 さな い 六っ の 感 覚 器 官に よ っ て捉
え られ た もの」か ら 「世 間 世 俗の 立 場よ り誤 っ てい る と 認 め られ るもの」を除い た もので ある4一 と規定 して い る。で は、 「無 明」 に よ っ て設
定
さ れ るの は、 この 後者
の意味
で の 「世
俗 諦 」 な の であろ うか。 しか しチ ャ ン ドラ キ ール テ ィ は、 こ の コ ン テ クス ト に おい て、 以下の よ うに 「無 明」に よ っ て 設 定 さ れ るの は 、 「世 俗諦
」で はな くて 「諦」 なる もの (一世 間世俗に とっ て 「諦」なる もの)で あ る と明確 に述べ て い る 。 そこにおいて、 これ (= 厂世 俗」)は諸々 の有情が有るが ま まの事 物を見 る こ と を眩ますの で あ る。 [そ れ]故に、 「愚 痴」 (gti
mug )、 即ち有るの で はない 事 物の 自体 (
dngos
po ’i
ranggi
ngobo
)を 増 益 (一不 当に設 定) する もの で あ り、自性 (rang
bzhin
,=真実 )を 見る こ と を妨げる こ と を本質 とする 「無 明」(marigpa
)が、 「世俗 」 なの である。 その 「世俗」(= 「無明」)に よ っ てあるもの が 「諦」 と し て (bden
par , =自性に よっ て成立する もの と して) 顕 現 し、 無 自性に も か か わ らず [有 コ 自性 と して種々 に顕現 するもの そ れ は、顛倒 と な っ て い る世 間 世 俗 と して 「諦 」なる もの で あり… …4 (下線筆 者) そ して 、 こ の 「『無 明』によ っ て設 定さ れ る もの は、 『世俗
諦 』 で は な くて 『諦』 で あ る」 とい う解 釈を、 [「入中論
』の当該
箇 所の 解 釈ll
] と呼ぶ こ と と す る。世俗 諦と無 明 (
1
)(四津谷) (3
)ッ ォ ン カバ は、
後
述 す るよ うに、 チ ャ ン ド ラ キ ール テ ィ によ っ て障害
を有
さ ない感覚 器官
に よ っ て 捉え られた もので ある と され る 「世 俗諦
」を 「世
俗有
」 (= 「言説 有」) と し、更
に 無明
に よ っ て設 定
されるの は 「世 俗諦
」 で は な く 「諦
」で あ ると し、 そ れ ら を明確に区 別 する こ とに よ っ て、 [『入 中 論 』 の 当 該 箇所の 解 釈ll
]を選択 するの で あ る。この よ うに 「
世俗諦
」には、 「無明
に よっ て 『実体 」 ( = 「諦』) と捉 え られた もの 」(以下 [世俗諦1
]) と 「世 俗 有」 (= 「言説有」 、 以下 [世 俗 諦ll
コ) とい う 二 っ の側面
が あると考 え られる。 しか し、 チ ャ ン ドラ キ ール テ ィ は、 こ の コ ン テ クス ト で は それ らの二 つ の 側 面を判然 と区別す るこ と はない 。 っ ま り、 こ こ に お け る 「世
俗諦」 と は一体 何なの か、 それ は何に よ っ て どの よ うに設 定 さ れ るの か につ い て 、 チ ャ ン ド ラキ ール テ ィ の 記述
に は些
か不鮮
明な もの が あ る。 そ して、 この こ と が 「『入中論
』の 当 該箇所
」の 理解
にっ い て チ ャ ン ドラ キ ー ル テ ィ自身
が前
述の いずれ で あっ た かを不
確定な もの に し て い る大 きな要 因
な の で ある。本 稿は、 ま ず 「「入
中論
」の当該箇所
」を ツ ォ ンカ バ が どの よ うに理解
した かをで きる だけ明
確に提 示 する こと を主な内容と し、 この 「『入 中論 」 の 当該箇所
」を巡るッ ォ ン カバ 以外
の チ ベ ッ ト人学僧達
の諸解釈
並び に そ の他重要
な関
連事項
に関
して は、 別 原稿
に お い て 述べ る こ と とする。次 節に進む前に 、 本稿の 考察 に おける 「諦 」 (satya ,
bden
pa
)とい う語 の 用 法につ い て若 干言 及 してお き たい。直
前に言
及 した 「入中論
』の 記述
か ら も理解
で き るように、 二 種類
の 「諦」 と云 わ れ る もの が区 別さ れ な ければな らない。 即ち、 中観 派に よっ て否 定 さ れるべ き もの 、 っ まり実体 的な もの で ある 「諦 」 と、 「真実
」、 「空性
」 等の 同義 語で あ る 「諦
」で あ る。 た とえ ば、 「無
明」に よっ て 増益され る 「自体
」或は 「無明
」 に よ っ て 顕 現 すると こ ろの もの は、 前者
の意味
で の、 即ち否定
されるべ き もの と して の 「諦
」で ある。 一方
、 「無
明 」 に よ っ て それを見るこ と が、 或は顕現 す るこ と が妨 げられ た りする 「真 実玉 「空 性 」、 「自性」 等は、 後者の 意 味での 「諦」なの であ る。H
チ ャ ン ドラ キ ィ ール テ ィに おい て 、 事物の上 に増益される 「自性1
(svabhava ,rang
bzhin
)或 は 「自相
」(svalakSarpa , rang [gi コmtshan ) とは、 明 らか に 実体
的な もの で あるが、 中で もこの 「自相 」とい う語を用い て表 現 され た 「自相によ っ て
成
立す る もの」(rang [gi]mtshan nyidkyis
grubpa
)6 一
唯 「自相」 との み云わ れる こ と もあるが 一 とい う概 念は、 ツ ォ ンカ バ の思
想
を 理解
す る上(
4
) 世俗 諦と無 明 (1
)(四津谷) で非 常に重 要な もの で ある。 何故な らば、 「チ ャ ン ド ラキ ール テ ィ を開 祖 と す る中観
帰謬派
は、 自相に よ っ て成
立 する ものを、 一勝義
と して は勿論
の こ と一言説
と して も認め ない 」7 とい うことが、 ッ ォ ンカバ の思 想を形成 する最 も特 徴 的な要素
の 一つ と して挙
げ られ るか らで あ る。 そ して、 ツ ォ ンカバ に よ っ て 中観 自立 派が こ の 「自相
によ っ て成
立す る もの 」を言説
と して認めるとされて い る こ と を考 慮 すれ ば、 こ の 「中観帰
謬派
は言説
にお い て も自相
に よっ て成
立 す る もの を認め な い」 とい う主張
に は、同
じ中観派
で あ りなが ら言説
におい て実体 的
な もの を認め る とされ る中観 自立派に対 する ツ ォ ン カバ の厳
しい 態度
を 読み取
るこ とがで きる。こ こ に お け る 「
自相
」は 「自性
」と、 「言説
」(tha
snyad )は 「世 俗」 (kunr
dzob
) と各々 同義で ある と一般
に考
え られ る。 で あ る な ら ば、 この 「自相に よ っ て成
立す る もの を言説と して も認め ない 」とい うツ ォ ン カバ の説
は 、 「言 説 有 (一 世 俗有 ) が自相
(= 自性)に よ っ て は成
立 しない 」 とい うこ とを含 意す る もの と考え られ る。 そ して こ の ッ ォ ン カバ の 理解
は、 前述 の よ うに、 この 「世俗有
」が 「世俗諦
」 と同義で あ り得 るの で あり、 また 「無明
」が実 際
に は 無い はずの 実 体 的な存在
(= 自相 、 自性) を増益 す る もの で あ る こ と を前 提 と す る な ら ば、 「『無 明』 に よ っ て 設 定 され る の は 『世 俗諦
』 で あ る」 とい う[
『入中論
』の当該 箇所
の解
釈1
] と矛 盾 するの で ある。 皿ッ ォ ン カ バ は 、
[
『
入中論
」 の当該
箇 所の解 釈1
] を十 分 意 識 し な が ら、 『根 本 中論』 の 註 釈書であ る 『正 理海 』則gs
ρα ’砿
gy
α 雁 んso (略号RG
.) で 、 そ れ につ い て以下の よ うに述べ てい る。 [しか し、 その 引用 (= 「『入中論』の 当該 箇所」)は、 「世 俗 諦が有る と設 定 す ること は、 匚『世俗諦 』が] 無 明に よ っ て有る と設定されることで ある 」 匚と説 く も の で なく]、 ま た 「有染 汚の 無 明 を断じた声 聞、 独覚 と菩薩の 側で は、 『世 俗 諦」 は 設 定 さ れ ない」と説 く もの で はない。 a一般に 、 「
有染
汚の無 明」を有して い るの は 「異 生 凡 夫」 で あり、 そ れ を断
じてい るの が声 聞、 独 覚と第 七 地まで の菩薩
で あ るこ とを考
え合わせ れ ば、 ッ ォ ン カバ は [『入中論
』の当該箇所
の解
釈1
]に関 する下 記の二 つ の問
題点
を指
摘
して い る と考え られ る。[
問
題点
1
]
:世俗諦
は、 有 染 汚の無 明に よ っ て (即ち異 生凡 夫に よ っ て ) 設 定 さ れ る の で は な い。 [問題 点 且]:世俗 諦 は、 声聞、 独 覚、 第 七地 まで の菩 薩に よ っ て設定
され る。世俗 諦と無明 (
1
) (四津谷) (5
)以 下におい て は、
[問題
点
1
]
を主に取
り上げ、[
問題点
H
]
に関
して は後
に付論的
に言
及 するこ と とす る。IV
ッ ォ ンカバ は、 「『入 中論』の 当 該箇 所 」を何 故 に [問題 点
1
]の よ うに理解
すべ きであ る か、 その 理 由を 以下
の よ うに述べ てい る。 そ こ において第一 [の事項 (一問題点D
]の理由は、 [以下の よ うで あ る]。 前述 の よ うに、 「有染汚の 無 明」は 「諦執」で あ る か ら、 そ れに よ っ て捉え ら れ た対象 (= 「諦」 な るもの)は言 説と して も有り得な いか らであり、 又 [「世俗 諦」が そ の よ うに言説 有でないな ら ば、 以下の よ う な過 失が 生 じる こと と な る。 っ ま り、]「世 俗諦」であ る な ら ば、 「言説と して有ること」に よっ て遍充さ れ る か らで あ る。 そ れ故に、 諸 法が世俗と して有ると設定 する場 合の 「世 俗」で ある な ら ば、 「有 染 汚 の無 明」が [その]「世 俗」 と [理解]されることそれはあるべ きで は ない の である。 e まず、 こ こにおい て 「世 俗 諦」 とい うの は、 世 俗の 人々 の 「諦 執」 であ る 「無明
」に よっ て 「諦 」 と して設 定 され た[
世俗諦
1
]
で は な く 、 「世 俗
と し て有
るもの」 即ち 「世俗有
」と して の[
世俗諦
H
]
である。 この[
世俗諦
H
]
が 「無 明」 或は 「諦 執」 に よっ て設 定 され た もの で あ れ ば、 そ れ は実体
的に、即
ち自相
或は自性
に よっ て成
立 するもの とな っ て しま う。 しか し、 その ような 「無 明 」に よ っ て設 定 され た 自相 或は自性に よ っ て成 立 する 「世 俗 諦 」 は言 説 と して も有
りえな い ので あ る。 何故
な らば、 その よ う な存在
は、 ツ ォ ン カ バ自
身の 立場
で ある 「自相
に よ っ て成
立 す るもの は言説
と して も認め られ な い」 と い う中観 帰 謬派の 見解で は、 言説 ( 一世俗)と して さ え も認 め ら れ な い か らで あ る。翻
っ て言
えば、 ツ ォ ン カバ にとっ て は[
世俗諦
H
]
で あ れ ば、 そ れ は 必 ず 「言説 有」で あるべ きなの で あ る 。 こ の よ うに 、[
問
題点
1 ]
即ち 「無明
」 によっ て設 定され るの は 、 「世 俗 諦」 ( = [世俗諦 ll])で はな く 、 「諦 」 ( 一[世 俗 諦1
])の であ るこ とが言
わ れて い るの であ る。V
前 節にお い て は、 ツ ォ ンカバ が [問 題点1
]を通 して [『入 中論 」の当 該 箇 所の解 釈1
]が誤 っ て い るこ とを指 摘 して い る点に 言及 したが、 で は 「『入 中論
』の当該箇所
」をッ ォ ンカバ自身
は具体 的
に どの よ うに理解
して い るの であ ろ うか。 ツ ォ ンカバ がそ れに つ い て明確に自らの 理解を 示 すの は、 こ の 『正 理海
』 に おい て で は な く、 彼 自身によ る 『入 中論 』の 注釈 書で ある 『密意解 説 』dGongs
pa
rαb
gs
α1
(略号GR
)にお い てなの であ る。 そ して、 そ れ が最
も端
(
6
) 世 俗諦と無 明 (1 )(四津谷 )的
に示されて い るの は、 以 下の 記述で あ る。 人我 執 ・法我執 として知れ 亙 っ て い る 所の 諸法を 「諦」 と して捉える 「無明」は 、十二 匚支縁起]の無 明と 匚チ ャ ン ドラキ ール テ ィ は]お 認め にな っ て い るか ら 、
[その無明 は] 「所知障」と お認めになっ て いない ので ある。 [そ して、] 「その諦執 で ある無 明に よっ て世 俗諦が設定さ れ る」とい うの は、 「諦なる もの (=こと)」 を
世俗 (= 無 明 ・愚 痴 ・諦執 )の 側で設定 する 「設定方法」 を説 く もの で あ るが 、 「世 俗諦」 であ る瓶 ・布等 (一 「世俗 有」、 「言 説 有」)をそ の 「諦 執」が設 定す る と [説くもの]で はない。 何故な ら ば、 その 「諦執」に よ っ て設定されたもの は、 [チャ ン ド ラ キール テ ィ]御 自身が 「言説 と して も あ り得ない」と お 認 めに なっ て い る か らであ る。 そ れ故に、 「世俗 諦」とい う [中の] 「諦」 をその側で 設定 する 「世俗」
と、 瓶等を 「世俗」 と して有る (二 「世俗 有」、 「言説 有」)と設定 する 「世俗」 は、 名 称が 同じで あ るこ とによっ て、 意 味内容も同じである と迷乱する こと が多 く生 じ て い る ようで あるか ら、 匚そ の両者は]よ く区別さ れ るべ きで ある。 10
こ の 「「入
中論
』の 当該箇所
」、 特に [問題点1
]に 関 する ツ ォ ン カバ の解 釈 に は、 以 下の よ うな二っ の事 項が示さ れてい る。
世俗
に おい て 「諦
」(一[世俗 諦1
])であ る瓶 等 は、 「無 明」或は 「諦執」 の 側で設定 さ れ る「
世俗有
」(一 [世俗諦 ll])で ある瓶 等が諦 執 と して の 「無
明 」 に よ って
設
定さ れ るの で はな い。そ して、 この 二 っ の 事項を念 頭に お い て 「『入 中論』 の 当
該箇 所
」 に関す る ッ ォ ン カバ に よる解釈
は以下
の よ うにな る 。 「無 明」 に よ っ て 設 定され るの は 「諦」 (一 [世 俗諦1
]) であ る 「瓶
」 等 で あ っ て 、 「世 俗有」 ( = [世俗 諦ll
コ)で あ る 「瓶
」等
、 よ り厳
密に云え ば 「言 説有
」)で あ る 「瓶
」等
で は ない。 (これ を [「入中論」の当該箇 所の解 釈II
−A
]と呼 ぶ)前
説
で示 したツ ォ ン カ バ の 「『入 中論 』の 当該箇 所」 の解 釈に お いて は 、 「諦」 である瓶等と 厂世 俗有」 (一言説 有、 = [世 俗諦n
])で あ る瓶 等が 区 別 さ れ て お り、 その区別
は瓶等
が世俗
に おい て 「諦
」(一 [世 俗 諦 1 ]) と設 定 さ れる場 合 の 「世俗
」(以下 [世俗 1 ]) と、 同じ瓶 等が 「世 俗 有」 ( = 匚世 俗諦H
]) と さ れ る場 合の 「世 俗」 (以下 [世俗ll
])とい う二種類
の 「世俗 」 が区 別 され る こ と世 俗諦 と無 明 (
1
) (四津 谷) (7
) に基づ くもの と考
え られるの で ある。 これ ら 「世俗
におい て 「諦』
( 冨 [世俗諦1
コ) とさ れ るもの」 と 「世 俗有」 (= 匚世俗 諦ll
])の 両 者の う ち 、 前 者は 「正 理知 」に よっ て否 定 され る もの で あ り 、後者
は それ に よ っ て否定
さ れ ない もの なの である。 ll瓶 等が世俗 に おい て 「諦」 と設 定さ れ る場 合の 「世 俗 」(一 [世俗
1
]) と は 「無 明」を意 味 する。 ッ ォ ンカバ は、 その 「無 明」 を意味
する 「世俗
」 ( = [世 俗1
]) が、 「世俗
」とい う語の 唯 一 の 意 味で はな い こ と を 、 『密 意 解 説 』 に お い て 以 下の よ うに 述べ て い る。 これ (鬲 「世俗」)は 、 諸々 の有情が、 諸々 の 事物のあるが ま まの 自相 ( 一 真実)を見る こと を妨 げる、 即ち眩ますか ら 「愚痴」 (
gti
mug )で あ る。 [っ ま り] 自性 によ っ て有るので ない事物を自性に よ っ て有る と増益し 、 [事 物の] あ り方で ある 自性 (; 真実)を 見 るこ と を妨げ る とい う本 質を有す る 「無 明」が 「世俗 」なの で ある。 これは、 「世俗 諦」 とい うこと 〔の 中の] 「諦」で あ ること が世俗の側で設 定 さ れ る所の 「世俗 」を 理解 (= 示す) する もの で はあるが 、 「世俗」 一般を理解 (= 示 す) もの で は ない。 12そ して 、 以下に
示
すよ うに、 ツ ォ ン カバ は それ ら二 種 類の 「世 俗 」の 典 拠 と して 『楞伽 経 』L
αhhav
αtdr
α一sar α第429
偈
を引用
し、 13 そ れを解 説
して い る の で あ る。 その理解も 「楞 伽経 』におい て 「諸々 の事 物が生 じ る の は、 世俗と して で あ る。 勝義と して は無 自性であ る。 無 自性に迷乱 する もの それは、 正 しい もの (一真実 ) に迷乱 するもの と認め る。」 とい う よ うに、 「勝義と して は無自性であ る ものを有 自 性 と思 い誤る慧が、 世 俗で ある」と説か れてい る所の [その ]意味で ある。 その 「世俗 」は、 「世 俗 」 [とい う語 ]の 同義 語 (skaddQd
)で あ る 「妨 げる もの」(sgrib
byed
)を も意味 するの であ る。 [そ れ]故に、 [その世俗は]「妨げ るもの」 で あ る。 そ れによっ て何を妨 げるのか とい うな らば、 「真実を妨げると認め る」 と い うのであ る か ら、 「真 実とい う対 象」を妨 げる [の である。 そ して そ のコ こ とを 通 して 「世俗」 即ち 「妨 げる もの」 と 認め るの で あ る。 しか し、 [そ れ は]「正 しい [世俗 コ」 ・ 「誤 っ た [世俗 ]」の 二 つ の [世俗の コ内の 「正 しい 世俗 」を説 く もの で はな い。 [つ ま り、コ第一 句に よっ て説 か れて い る 「世俗」と後 [半]の 二 句に よ っ て説か れて い る 「世 俗」の 二 っ は、 同 一で あると述べ ら れ るべ きで はない 。 何 故な らば、 前 者は、 それ が諸々 の事物が生 じ ると自ら認め る場と しての 「世俗」であり、 後者は諸々 の事物が その側で諦で ある とい う 「諦 執」で ある ところの 「世俗」 で あ るか らである。 14ツ ォ ン カ バ は 、 こ こ に おい て引 用 した 『楞 伽 経』 の 記 述に、 「無
自性
」 (一 「勝義 」、 「真 実」)に迷乱 す る 知、 即 ち 「真 実 を見 る こ と を妨げ る知 」 を示 す(
8
) 世俗 諦と無明 (1)(四津谷) 「世 俗 」と、 諸々 の事 物が 生 じる場と して の 「世俗
」と い う二種類
の 「世 俗
」 が示
さ れて い る と理解
して い る。 そ こ にお い て、 前 者は上述の [世 俗1
]即 ち 「無 明」で あ り、 後 者は [世 俗ll
] 即ち 「世俗有
」(一言 説有、 =[世俗諦 皿]) が設定
さ れ る ところの 「世 俗」に相 当 する もの と考え られ る。ッ ォ ン カバ は、 上述の [世
俗
II
] に よ っ て設定
される 「世俗有
」(己言説有、 = [世 俗諦ll
]) が如 何に有るべ きかに関 して 、 『菩 提 道 次 第 論 ・ 広 論』L
αrn rimchen mo (略号
LRChen
.)並び に『
善
説 心 髄 』Legs
bsh
αd
snyingpo (略号LN
.)で 言及 して い るが、
後者
の 記 述の方
が よ り論
理的に整 理 さ れて い ると考え られ る の で、 こ こ におい て は 『善 説 心 髄』 を 用 いて 「世 俗 有」 ( = 「言 説 有 」) と そ れ を設 定
す る知
(; [世 俗H
])につ い て 少 し述べ て み よ う 。『善説 心 髄』 に おい て
示
さ れて い る 「言説有
」(
= 「世
俗fi
’])の 成立 の 条 件 は、1
) 「正 理 知に よっ て得
られ な い」2
)「正 理知に よ っ て損な わ れ な い (冨 否定さ れ ない)」3
)
「他
の言説
量(
=言説知)
に よ っ て損
な わ れ な い (= 否定さ れ ない)」15 とい う もの で ある。 そ こ で は、 まず 「正 理 知に よ っ て得
られ ない もの 」に は、 外 教 徒 と仏 教 徒の 実 在論 者 によ っ て 構想され る 「正 理に よ っ て損なわれ るもの」 (= 「諦 」な る もの 、 勝 義的な もの)とそ れに よ っ て否定
さ れない 「言
説的
な もの」 が ある。 それ故に、 前 者か ら後 者 を区別 す るた めに 「正理 知に よ っ て損
なわ れ ない (=否定されない)」 とい う条 件が設け られ る。 そ して、 「正 理知 に よ っ て損
なわ れ な い もの (日否 定さ れ ない もの)」 即ち 「言説 的
な もの 」 の中
の 「通 常 の言説知
」(= 「通常の言説 量」)に よ っ て 設 定 され る 「言 説 有」 (= 世 俗有) と 、 そ れ に よっ て 否 定さ れ る、 た とえ ば 蜃 気楼
にお ける水、 縄 にお ける蛇 の よ う な 「言説無
」を区別す るため に、 「他の 言説量 ( = 言 説知) に よ っ て損
な わ れな い (= 否定さ れ ない)」 とい う条件
が設
け られて い ると考
え られ る 。 こ こ におい て 「言説 有 」(= 「世 俗有」)の成立 に関わ っ て い る 「言 説 知」 (= 「言説量 」)は、 一 これは 、 よ り厳
密に は 「通常
の言説
知 ( 三 言説量)(
rangdga
’ba
’i
tha
snyadpa
’i
shespa
[
…tshad
ma ])」 と云わ れ る もの で あ る が 一F
一時 的な迷 乱の 障害の 原 因を有 さな い知」、 即 ち 「迷 乱の 原 因で あ る諸
々 の障
害を有 さな い知」で ある。 16 また、 こ の知は学説
に よ っ て知 が変
革 した人に も そ うで ない人に も存在
する、 倶 生の 知と考え られ る。 17 そ して 、 こ れが前
節で世俗 諦と無明 (
1
) (四津谷) (9
) 言 及 した 「諸々の 事物が有 る と さ れ る場
」 と しての 「世俗
」(= [世俗II
])、 即ち 「世 俗 有」 (; 言説有 、 =[世 俗諦 皿]) とい う表
現の中
の 「世 俗」
で ある と 考え られるの であ る。 皿前説で示し た よ うに、 ツ ォ ンカバ が二
種 類
の 「世 俗」 を 区 別 する意 図 は、 「無 明
」 とい う 「世俗
」に よ っ て 「諦」
と して、 つ ま り 「実 体 的
な もの 」 と し て 設定さ れた 「世 俗 諦」 (= [世俗諦1
]) と 、 「世俗 有
」或
い は 「言 説 有
」 と しての 「世 俗諦
」(= [世俗諦 皿]) を明確に区別
する こ とに ある と考
え られ る。ッ ォ ンカバ は 、 これ ら
[
世俗諦
1
]
と [世 俗 諦ll
] 即 ち 「世
俗有
」 ( = 「言 説 有」)に つ いて 、 『菩
提 道次 第論
・広論
」におい て以下
の よ うに述べ て い る。 その よ うに、 それらの煩悩は無始より存在する 「倶生 [な るもの ]」で ある けれ ど も、 [その コ捉え方 (=執着)は 正 理に よっ て非難さ れ得 るか ら、 それ らの 把握 対 境 (一倶生の無 明の対象 )は言説におい て も無い の で あ る。 そ れ故に倶生の慧 ( = 知 )の対境に関 して は、 正 理に よ っ て否定さ れ得るもの とさ れ えない もの の二 っ が あ る。 [そ して ]これ ら色 ・ 声 等を設 定す るこれ らの倶生の言説の量の対境は、 言 説として 有る か ら正 理に よっ て 否定は さ れ ない の であ る♂ 8こ こにおい て、 「
倶
生の 無明
」 に設
定され た もの 、 即 ち 「正 理 に よ っ て 否 定 さ れ る もの 」 とは、 「無 明」とい う 「世 俗 」(= [世俗1
]) によ っ て 「諦
」 と して 設定
さ れ た[
世俗諦 1 ]
で あ り、 一方
「倶
生の言説
知(
量)
」(= [世俗ll
])に よ っ て設
定さ れた 「言 説 有」或は 「世 俗 有 」 で ある[
世
俗諦
II
]
と考
え られ る の で ある。この よ うに、
実体 的
な存在
であ る[
世俗諦 1 ]
と 「世俗有
」( = 「言 説有」) であ る[
世俗諦
ll
]が混 同 され る こ とよ り生 じ る混 乱を避 ける為で あろ うか、 ッ ォ ン カバ は 「自相 に よ っ て 成立 す る もの (; 実 体 的存 在 ) は言説
と して も (tha
snyaddu
)認め ない」とい う表現
は用
い て も、 「自相
によ っ て成
立 するも の は世俗
と して も (kun
rdzob tu )認め ない」 と語 るこ とはないの で あ る。些か遠 回 りを した が、 で は次に [「入
中
論』 の 当該 箇 所の 解 釈ll
]に対 して ツ ォ ンカバ が指摘
した[
問
題点ll
]、 即ち 「世 俗諦 は、 声 聞、 独 覚、 第七 地 まで の菩薩
に よ っ て設定
さ れ る」にっ い て述べ て みよ う。ツ ォ ン カバ は、 [『入 中論 』の 当該 箇 所] を [問題点
H
]の よ うに理解
すべ きで あ る理由
を 以下
の よ うに 述べ て い る。(
10
) 世俗諦と無 明 (1
) (四津谷 )第二 匚の 事項 ]の 理 由 は [以下の よ うで ある]。 有染汚の無 明である 「世 俗」(=
「諦 執」) を断 じ た人々 (; 声 聞 、 独覚、 匚第 七地まで の コ菩薩)に とっ て は、 その
側で 「諦 」と設定 する 「諦執」 であると ころの 「世俗」は 無い とい う 理由で、 諸 行
(一サ ン ス カーラ)が彼等の 側で 「諦」 でない と 証 明 さ れ るので あ り、 「世俗諦 」で は な いと証明さ れ ない か らであ る。 そ れ故に、 彼等の側で諸 行は 「世 俗に しか す ぎ
ない もの」 (=唯世 俗)と説かれることによ っ て は、 その 側で は、 「世俗」 と 「諦 」
の 二 っ の内よ り 「諦」 と設定さ れ る こ と だ けが無い の で あ る か ら、 [その]「唯 」 と
い う語は、 「諦」 を排 除す る (gnod 〔pa ]) もの で あるが、 「世 俗 諦」 で あ るこ と を排 除す る こと が どうして あろ うか。 その よ うで あるな ら ば、 「世 俗 諦」 の 「諦」 の あ り方は、 「無 明」即ち世 俗の側の み において で あ る か ら、 チ ャ ン ド ラキ ィ ール テ ィ の典籍におい て 「世俗 と して諦で あ る か ら、 「世 俗諦 』で ある」 と説か れた こ と は、 厂無 明」 即ち 「世 俗」の側で 「諦」で あ ること を示す もの で あっ て、 「言 説」 に おいて 「諦」と して成立する ものを示 す もの で はな い。 何故な ら ば、 そ うで な け
れ ば、 厂自相に よ っ て成 立す る もの が言説と して も有 り得ない」 とい う [帰謬 派の ] 見 解と矛盾 する か らで あ る。 そ して、 ま た 匚も し、 その よ うに言説において 無 明に
よっ て諦な る ものが設定さ れるな ら ば、コ「『諦 成』(
bden
grub
)を否定す るこ と」 と 「「諦 無」(bden
med ) を証 明 す るこ と」を、 言説と して行 う場 合に (=〜 な ら ば)、 言説 と して 「諦成」 を設定 するこ とは 不合理で あ り、 [その よ うに言説と してコ な さな いな ら ば、 勝 義と して も さ な さ れる ことは不適 当で あるか ら、 それ らの 設定 は有り得ない [こ と と] と な るか らである。 ’9引用 が少 し長 くな っ た が、 こ こ にお けるツ ォ ン カバ の論 旨は以 下の 通りで あ る。 「世 俗 諦 」(二 [世 俗諦
1
]) とい うの は、 無明
(= [世俗1
コ) を有
す る人々 に よ っ て 「諦
」 と捉
え られ た もの であっ て 、 彼 等に よ っ て 「世俗諦
」 と理解
さ れた もの で はな い。 こ の 「『世
俗 諦』 と理解さ れ る」 とい うことは、 「無 明」 (; [世俗1
])に よ っ て 「諦」
と捉
え られて い るもの が 、 「有 染
汚 の煩悩
」 を断 じ た声 聞、独覚
、第
七 地まで の菩薩
に よ っ て は 「諦」 なる もの で はな い 、 っ ま り 「無 明」(二 [世 俗 1 ])に とっ て の み 「諦」 な の で あ る と理 解 さ れ る こ とで あ る。 換 言 すれ ば、 彼 等に よ っ て は そ れ は 「諦
」な る もの で はな くて、 「唯 世俗
」 (sarpvrti −matra )で あ る と理解され るとい うこ となの で あ る。そ して、 こ の よ うに 「世俗」 (一 「無 明」、 [世 俗
1
]) に よ っ て 『諦 』 とさ れ るもの 」 と 「『世俗諦
』と理解
さ れ る もの 」は明確に区 別 さ れ るべ きな の で あ る。 ツ ォ ン カバ は、r
正理海 』に おい て 、 こ の 「世俗諦
と理解
され る もの 」 に つ い て 、 以下の よ うに 述べ て い る。 [た とえば、 世俗 諦の]具体 例で あ る瓶の よ う な もの [に関して ]、 [そ れ が] 虚偽の所 知 (shes
bya
brdzun
pa )で あ り、 欺 く対象 (sluba
’
i
世俗諦と無明 (1) (四津谷) (
11
) 定 することに おい て は、 そ の ( = 世俗諦の ) 具体例を 「諦」 と捉え る把握対 象(zhen yul ) (= 自相成立 の瓶等)を 、 正 理知 (rigs shes )が非難す る ( =:否 定す る) 匚正 ]見を得る 必要が あ る。 何故な ら ば、 「諦」匚で あ ること]を 正 理 が妨 げな い で [は]、 [その 対象の ]虚 偽なる こ と が量によ っ て 成立 し ない か らで ある。 従 っ て、 その具 体例が世俗 諦とい う対象で ある と慧に よ っ て成立する ことは、 「勝 義と して有る もの」 が 「慧によっ て妨 げら れ るこ と 」に必 ず依 るの で あ る。 20
こ こ におい て重
要
な こ とは、 「世俗諦
(; [世 俗 諦1
]) の 具体例
で あ る瓶 等
が 『世俗諦
』 で あ る」 と理解
さ れ る為
に は、 瓶 等の 「諦で ある こ と」 (一勝義と して有 るこ と) が 「正 理知に よ っ て否 定さ れ る こと」 を 、 必 ず 前 提 とす る とい うこ とで ある。 それは即ち、 「無
明」(= [世俗1
]) は瓶等
を 「諦
」 と して設
定 する もの で は あ るが、 そ れ ら瓶等
を 「世俗諦
」 (一 [世 俗 諦1
]) で あ る と理 解し得 る もの で はない とい うこ と を含 意 するの で ある。 っ まり、 それは 「世 俗諦
であ る もの」と 「世俗諦
であ る と理解
され る もの 」が区 別さ れ るべ きことを 示 唆 する もの で ある。 それに つ い て ツ ォ ン カバ は、 以下の よ うに述べ て い る。 瓶や布等は 「世俗諦」で あ る け れ ど も、 そ れ らが [あ る]慧に よ っ て成立 するな らば、 [それ らが] 「世 俗諦」 [で ある] とい う意 味が [その] 慧に よ っ て成 立 する 必要は [必 ず し も]無い の であ る。 [た と え ば]、 瓶や布等は、 自性に よ っ て無 い に も か か わ らず [自性によっ て有る よ うに]顕 現す る幻の よ うで あっ て も、 そ れ ら (一瓶や布等)が成立 する慧に よっ て、 「幻の よ う [で ある]」 とい う意 味が成 立 す る必要は ない の と同様で あ る。 21 こ の記 述の内容を、 「瓶」等を例に して 、 「『入 中論」 の当 該 箇 所」 を 念 頭 に 置い て端 的に述べ るな らば 、 以下よ うになる。 「無 明 」に よ っ て設 定 され るの は 「諦」で ある 「瓶」 等で あっ て 、 声 聞、 独覚
、第
七 地まで の菩薩
によ っ て 「幻
の よ うで あ る存 在」 (; 「唯 世 俗」) と理 解 される 「瓶」等で は ない 。 (これ を [「入中論 』の当該箇 所の 解釈1
−B
コと呼ぶ)X
こ の 稿を閉じ る に当た っ て 、 こ れまで の 議 論の 流れ を簡単に 纏めて お くこ と に しよ う。 「『入 中論』の 当該箇 所 」に は、 以下の よ う な二 っ の 解 釈が想 定 される。 「無 明」 に よっ て設定 さ れる の は、 「諦」で はな くて、 「世 俗諦 」で ある。
( → [『入中論』の 当該 箇所の 解釈
1
])「
無
明」 に よ っ て設定
さ れる の は、 「世俗諦
」で は な くて 「諦
」 (=(
12
) 世俗諦と無明 (1
) (四津谷) 実体 的な もの)で あ る。 (→ [「入 中論 』の当該 箇所の解釈ll
コ)この [「入
中
論 』の 当該 箇 所の 解 釈II
]を支 持す るッ ォ ンカバ は、 [『入 中論 』 の当該箇所
の解釈
1
]
が誤っ て いる こ と を 以下
の 二点
を 通 して指摘
す る。 [問題 点1
]:世 俗 諦は有 染汚の 無 明に よ っ て 、 即 ち異生 凡夫に よ っ て設
定 さ れ るの で は ない。[
問
題点
皿]
;世俗諦
は、声聞
、独覚
、菩 薩
に よ っ て設定
さ れ る。 これ ら二 っ の 視 点よ り、 ツ ォ ン カ バ は [「入 中論 』の 当該 箇 所の 解 釈ll
]を 以下
の 二通 りに理解
して い た と考
え られ る。 「無 明 」によ っ て設 定 さ れ るの は 「諦 」 で あ る 「瓶 」 等 で あ っ て 、「
世 俗諦
」であ る 「瓶
」等
、 よ り厳密
に云 えば異
生凡 夫 に とっ て 「世
俗 有」或い は 「言 説 有 」で あ る 「瓶」等で は ない 。 (→ [「入中論』の 当 該箇所の解釈 H −A
])「
無
明 」によ っ て設定
さ れ るの は 「諦
」であ る 「瓶
」等
で あ っ て、 声 聞、 独 覚、 第 七地 まで の 菩 薩 に よ っ て 「幻 の よ うで あ る存 在」 ( =「唯世俗 」)と理解 さ れ る 「
瓶
」 等で は ない。 (→ [「入 中論』の 当該 箇 所の 解釈 皿一B
]) (承 前) 【注 記】1
こ の 「「入中論』 の当該 箇 所」につ いて は、
La
Vall6e
Poussin
[1910
]p
、304f
, 参照。2
dngos
kun
yang
dag
rdzunpa
rnthongba
yis
〃dngos
rnyed ngobo
gnyis
ni ’dzin
par
’gyur
〃 yangdag
rnthong yulgang
de
de
nyidde
〃mthong
ba
brdzun
pa
kun
rdzobbden
par
gsungs
// (MA
,k
.23
,p
.102
) (下 線筆者) 訳)あ ら ゆ る存 在は、 「正 しい もの」 と 「虚偽なる もの」 を見る ことを通して [各々 の]存在を得、 二 つ の [自] 体を捉え る (=有す る)こ と と なる。 「正 しい もの」 を見る もの (一知)のその対 象は 「真実 」 (= 勝 義諦 )で あ り 、 「虚偽なる もの 」を 見 る もの は (=知)E
の 対象 ]は 「世俗諦」で あ る と説か れ る。3
de
’i
phyirde
ltar
’jig
rten gyisdbang
Pola
gnod pa ’i
rkyenji
skaddu
4
5
67
8
世俗 諦と無 明 (
1
)(四津谷) (13
)pa
de
ni ’jig
rten nyidlas
bden
pa
yin
gyi
… (MA
,p
.104
,1
.20
−p
.105
.1
,3
)訳 )そ れ故に、 前述の よ う な感官を害す原因を有さず、 六つ の感官そ れ ぞ れに よ っ
て世間が捉える対象を了解する その [知に よっ て捉え られ た もの]は世間におい て
「諦」で あるけ れ ど も、
…
gzugs
brnyan
la
sogspa
gang
zhigdbang
Po
rnarnsla
gnod
pa
yodpa
nayul gyi ngo
bo
nyiddu
snangba
〔!
eni
’
jig
rten nyidla
bltos
naslog
Payin no 〃 (
MA
,p
.105
,ll
.4
−6
)訳 )諸々 の感 官 を害 することが有る時に、 影像等 [のコ [自] 体と して 顕 現 す る も の それ [等コは、 世 間におい ては誤 りなの である。
de
la
’dis
sems can rnamsji
ltar
gnas
pa ’i
dngos
polta
ba
la
rmongspar
byed
pas na gti mug ste /ma rig padngos
po ’i
’rang gi ngobo
yod
pama yin pa sgro ’
dogs
parbyed
pa rarlgbzhin
mthongba
la
sgrib pa ’i
bdag
nyid can nikun
rdzobbo
〃kun
rdzobdes
gang
zhigbden
par
snangzhing rang
bzhin
medbzhin
du
rangbzhin
du
so sor snangba
de
ni ’jig
rten phyin ci
log
tugyur
pa ’i
kun
rdzQb tubden
pa ste /._ .(MA
, p .107
,11
.5
−10
)* 一デルゲ版 (‘a.
254b5
)によっ て “ma rig padang
dngos
po
’i
…”を “
ma rig
pa
dngos
po
’i
…” と読 む。四津 谷 [
1999
]p .42
, 註18
).slop
dpon
’di
ni ’chad par ’gyurba
ltar
rang gi ngobos
grub
pa
’am ranggi
mtshan nyidkyis
grub
pa
nitha
snyaddu
’ang mibzhe
.d
pas
_(
LRChen
.pa .369bl
−2
)訳)この ア ーチ ャ ーリ ヤ (= チ ャ ン ド ラキール テ ィ )は
、 後述す る よ うに自体によっ
て成立 するもの、 或い は 自相に よ っ て成 立 する もの は言説と して もお認めにな ら な
い の で あるか ら…。
.., [zhes
gsungs
pas
ni]kun
rdzobbden
pa
yod
par
’log
pa
rnams marigpas
yod
pa
ピjog
Pa
dang
/nyon mongs cangyi
ma rigPa
spangs pa ’i
nyan rang
dang
byang
semskyi
ngorkun
rdzobkyi
bden
pa mi ’jQg
parston
pa
ma yin no 〃 (RG
、ba
。237a4
)この箇 所に は じ ま る一連の議論にっ いて は、
Williams
[1981
]p ,328
,Broid
[1
988
]p .39f
,Newland
[1992
]p
.184
,Tauscher
[1995
]p
.254ff
, 吉 水 [1990
]p ,ll7f
.参 照。これ と同様な記 述は、 『菩 提道次第論 ・ 小論』 (
LRChung
.pha 。133a6
−134a3
)にもある。 そ れ を翻 訳さ れ た御牧、 森 山両氏は、 その訳注において以下の よ うに述べ
(
14
) 世俗諦と無 明 (1
) (四津 谷)_ 示して い る の で はない の で あ る (ston
pa
min no )。 直 前に 引用 さ れ た 『入中論』並 びに 『入中論注』を虚心 に読み進ん で きた読 者に とっ て は、 こ の 文 章 の 否定 辞は な い方が読み易い。 っ まり、 直前の 文章で は、 実は虚搆さ れた もの に す ぎない もの を有染 汚の無 明のせい で凡 夫 が真実在だ と思い込ん で ある のが世俗 諦で あ り、 .一方 、 有染 汚の無 明 を断ち切 っ て い る聖者に とっ て は それは世 俗諦で はな く 単なる世 俗にすぎ ない (唯世俗 )と い い う るの みで あ る、 とい うこ と が 述べ ら れて いた。 従っ て、 こ の問題の文章がそ の議 論の結 論で ある の で あれ ば、 「声 聞、 独 覚、 菩 薩 (つ ま り聖者)に とっ て は世俗 諦は設定される ことはないと [チ ャ ン ドラキ ィ ー ル テ ィ は]示して い るの で あ る」とい う文章を読 者は期 待してい る はずである。 _ .. 1 或い は こ の文 章は、 前掲 注 (304
)に の べ た の と同様、 チ ャ ン ド ラ キ ィ ール テ ィ の 思想とツ ォ ン カバ の思 想の相違を議 論する重要な材 料の一つ とい え るか も しれない。(御牧 /森 山/ 苫米地 [
1996
コp
,242f
,註記308
) 「世 間世 俗 (一無 明を有す る凡夫 )に とっ て の諦」、 即 ち 「諦」な る もの は声 聞 、 独覚、 菩薩の聖者に よっ て設定さ れるわ けで はない。 そ の限りにおいて は、 確か にッ ォ ン カバ の文章のなかの “ston
pa
miD ”の “min ” は 不要と考え ら れ る。 しか し、 上記の点は以 下の よ うに解釈さ れ るべ き と考え られ る。 対象が 「世間世俗 (一 無明 を有す る 凡夫)に とっ ての 諦」と 理解 さ れる ことに よ っ て、 っ ま り 「世 俗に お い て の み諦である」 と理解さ れ、 それに よ っ て 対象が 「唯世俗」 と理解さ れ るこ と と なるの で ある。 無 明に よ っ て設定さ れ、 凡夫が 「諦」 と執着 するもの を 「諦」 で は ない、 即ち 虚偽と 知 る ことに よっ て は じ めて、 それ が 「世俗 諦」と設定される の で あり、 更にそれ が 「唯世俗」で ある と設定で きる ことを、 こ の箇所は含意する も の と考え られ る。 従 っ て、 こ の “ min ”とい う否定 辞は不 必要と考え ら れな い。 そ して、チ ャ ン ド ラ キ ィ ール テ ィ の思 想 とッ ォ ン カバ の そ れの 間には相 違は ない もの と考え ら れる。 こ の 「「入 中論」の 当該 箇所」 の ッ ォ ン カバ の解 釈を理 解 する際に は、 本 稿の 後 半で も述べ る ように、 「世 俗 諦で あ ること」 と 「世俗 諦で あ ると理解す る こ と 」 の 区別が重要な役割を果た すの で ある。 尚、 「菩 提道 次第論 ・小論』の 当該箇 所に関して は、 ツ ル テ ィ ム ケサ ン/ 高田
順 仁
匚
1996
コp .88f
.参照。 ま た、 こ の事項に関 して は、KN
(ba5b2
−6a2
) 参照。9
de
la
dang
Po ’irgyu
mtshan ni sngarbsha
(i
paltar
nyon mongs pa cangyi rnarig Pa ni
bden
’
dzin
yin pasdes
bzung
ba
’
i
don
tha snyaddu
yangmi srid pa ’
iphyir
dang
/kun
rdzobkyi
bden
pa
yin na tha snyaddu
yQdpas
khyab
pa
’i
phyir ro 〃des
na chQs rnarnskun
rdzob tu yod par’
jog
pa ’
i
’jogs
sa ’i
10
11
12
3411
世俗諦と無 明 (1 )(四津谷) (
15
)kun
rdzob tubyas
pa
de
rnayin
dgos
pa
yin
no 〃 (RG
.ba
.237a4
−6
) chos rnamsbden
par
’dzin
pa
’i
ma rigpa
gang
zagdang
choskyi
bdag
’
dzin
du
grags
pa
ni /yan
lag
bcu
gnyis
kyi
ma rigpar
bzhed
pas
shessgrib tu mi
bzhed
do
//ma rigpa
bden
’dzin
de
’i
dbang
gis
kun
rdzobkyi
bden
pa
’jog
cespa
ni /bden
pakun
rdzobpa
gang
gi
ngor ’09Pa
’i
’
jog
tshu1
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Pa ’i
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.ma .116a3
−6
)四津谷 [
1999
]p
.33f
.ま た、 ツォ ン カバ によっ て は 「世俗」 とい う語の解釈に よっ て 「世俗諦」が 二通りに 理解さ れ て い るの と同様に、 「言 説」厳 密に は 「言 説 知」 も二 通 りに理解さ れて い る。 一つ は 「言 説 有 」 (= 「世 俗 有 」)を設 定 する 、 所 謂 「通常の言説知 (一 「言説量」)と呼ばれるものであ り、 もう 一っ は自性等の実体的 な存 在の有 無 を検 証する 「正理知」で あ る。 (二 種の言説知にっ い ては、 松本 [1997
] p .238f
, 四津谷 [1999
コp ,37
.参照)そ して、 この よ うに世俗 ( = 言説 )の 世 界を細 分化して ゆ くこと が、 ツ ォ ンカバ の思想の特徴の 一っ と言 うこと がで き る 。 ’dis
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.ma .114bl
−3
)こ の偈に関する最 近の研究と して は、 金 子 [
2001
]が ある。ngos ’
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