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日遊宗 不受 イー亨施 派祖山 妙 党 寺
不受布施派鍵茶羅(元和八年)(山条、寺門氏所蔵)
隠天井‑通ず る梯 子 (同右宅 )
不受布施派諸集会所 で あ った隠天井 (紙工 河原氏宅 )
不受布施派入道(i)得度式
止倉城跡 の石垣
宣 ∴ ∴ 土 十 ㌦
江 戸時代初期の金川町絵図
今仕入
地
9も稀 引 日仲 山街道 (中山付近 )マス カ ッ トの温室で うず ま っ た谷 (吉尾部落 )
道 端で行 われ てい る しいたけ栽培 (吉尾部落 )
般近で きた大規模藤鶏場 (吉 尾部落 )
過疎化のはげ LV,山空部落 の廃屋
御梓町の中心商店街金川
は し が き
「在町の近代化 」は,地域研究シ 1)‑ズの第1 1解 にあたる。地域研究 シ リーズに も10余年の 才月が流れた ことになるOそれだけvE,公刊VC際 してt^つ も感 じる喜 び と反省 とが一層の実感をと もなって くる. よくぞ ここまでやれた とい う喜び と,この書に果 して10か年の年令が加わ ってい るか とい う反省 とが こもごも嘆いて くるo
hうまで もな く,水島蹄海=業地帯は,地域開発の優等生 であb,県南工業化の核 であるo この 水島を核 とす る工業化の波が,周辺部忙どの 上うを汲及的効果 を及ぼ しているかは,弗昧韓い研究 テーマである。その上 ,その周辺部が歴史的vc由緒が あ り, しか も近代化への動 きが追求 できる地 域 である場合,それだけ研究価値が増大する。そ うした観点か ら在町 ・陣屋町 ・河岸町 ・不受不施 派の本山妙党寺のある御津郡御辞町が対象地 に遺定言れることとをったD 「在町の近代化 」とい う 項麿 が選ばれたの もそ うした理 由か らであった。
昭和4 1年4月以降数回の予備交渉 と尊前調達 を済 ませた後,昭和4 2年7月末,本学教 官 占名 広島大学教官2名,卒業生,学生約58名の者が参加 して, 4泊5日の 日程 で現地調査が実施 され たo この研究はあ くまで も総合調査 であ
D
,近代化は あ くまで もその視点VCす ぎをい. したが って, 調査の過程や報告番の作成 において もつねK藩藩の疎通をはか b,全体の統一に努力 して きた。 し か し, よぎ をい事情Ttハくつかの問題はオ ミ,トせ ざるをえなか ったため,全篇 の統一がそ こなわ れた嫌い もあるo Lか し,若 さをい とわず,壌食を忘れて研究 した成果が この報告書 である。調査 メンバーが三年次生であD,調査期間が姪かい とともあ って,至 らない点は多 々あるが,来襲に迫 ろ うとした努力に梅はなho との研究成果 をもと托,若い学生諸君が,さ らに充奏 した研究生活 ・ 勧 戟生活vE進んで くれることを期待 してJPtない。現代性,変動す る社会 であ b,硬直 した観念 でもって ものを考え る時代は過 ぎ去 った といわれる。
激 しい変化VC対処 して生 きる道は一つ しか ない.変化の方向 をよみ とb,それvc基づいた生活を現 在 に実現す ることであるo^は,受身の凄勢 を冶 て.主体者 として変動vc対処 しなくては ならないo それだけに リスクが伴な うoそのため,科学的な予測 と計画が必要 になる. この報告番は,そ うし た未来建設の一助に7,・9えたならば幸て壕,るということが調査当初か らの秘め られた念願であった。 もし,
御津町の発展 と将来 に役立つ ことが あればわれわれの この上 ない喜 びである。
をか,最後 になったが これほ ど大規模 を関
釜
には,かな
Dの費用 と受入れ側の協力体制が必須 不可欠 である。 とくに ,本年度 は,三島浄琴記念財B]よb多額 の研究奨励金 の支給 を得 る ことが で き,研究室 の総力 をあげ て調査 に取 り組む ととが できた。財団の御好意が, 自力で然 々 と励 ん ITきたわれわれの研究に どれほ どの勇気 と希望 とを与えて くれたか は知 る人 のみが知 る喜 びで あ るo また,山陽放送 の学術文化財団か らも迦年にわた って援助 を受けたO研究会が今 日あるの も その故 である。 心か ら感謝す る とともに‑膚の柵進 を誓い たい。 なお,三島財団へ報告 された研 究成果 の レジメをこの報告啓 のは じめにか くことに よって全体へ の僻 轍と したいO地元の御浄町がわれわれに示 されたど協力VClも感謝の言葉 を知 らをho 町長,教育長 ,町役場 各 課,教育委見合の方 々,お よび宿舎の優 を与え られ,協力 を惜 しまれなか った妙党寺 ,大坪区長 , その他町民の皆様方に対 し教官学生一同心か らお礼 申上げ る次第である.
末尾に公務 をさいて調査に参加 し,後輩 を指導 して くれた多数 の卒業生諸君に も!&謝致 します。
参 加 教 官
谷 口 澄 夫 藤 沢 晋 虫 明 机
高 重 進 米 村 昭 二 宗 田 克 己
石 田 蒐 (広 丘大学) 赤 木 祥 彦 (広島大学 ) 三 浦 道 三 郎
参 加 卒 業 生
柴 田 高 田 正 規 小 竹 勝 美
上 田 賢 一 藤 木 明 佳 萩 原 一 之
萩 原 (旧姓藤原)洋 子 森 章
参 加 学 生
大 山 正 治 浅 野 健 一 馬 場 敢
畝 木 基 岡 崎 明 宏 河 本 充 昭
山 根 浩 ノ」、 他 倫 子 在 間 宣 久
松 元 良 子 田 村 棺 男
吉 永 忠 克
川 上 由 子 乗 越 福 子 生 田 直 せ 中 原 美,lil;千 渡 辺 澄 子
大 下 紀 行
目 名 芳 子 孝 本 貢 (専攻科) 中 野 美 智 子
北 矢 行 男
山 地 隆 司 二 宮 常 子
市 村 通 子
原 田 智 明
宇 野 音 干
狩 谷
冊
子 石川
公 子吉 岡
忠
子甲 山 尚 子
鵜 川 勝 代 白 神 鞍 一 郎
高 田 文 子
赤 木 哲 夫
松 本 卓 男
小 林 美 都 子 佐 藤 康 一 山 崎 茂 幸
中 野 共 子
片 岡 紀 子
黒 田 英 雄
江 藤 公 子 原 子 量 世 河 本 字 ‑・
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調 査 地 の 概 況 と 成 果
谷 口 澄 夫 醗査地 として選んだ御津町は,昭和28年4月に金川町ほか 6町村が合併 して発足 した もので, 面硬 1 19・2 9kね うち7 4車は山林 (舌傭高風 耶 2 0 0‑ 5 0 07托),耕地は僅か
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IO解 余で旭川お よびその支流の谷底 vcあ9,浜口集落 ・落合集落の性格の強い との地方の,商業 ・交通・文化の中心的機能 をもつのが金川であるO金川吐旧帝時代 vc岡山藩家老 日僅 氏の陣屋 の所在地 で, 岡山
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北へ汽車で50分,バスで40分で達 し, 日雀寮不受不施派の本山妙覚尋 もとこVCある。当町の総世帯数2,824の うち6915帝を しめる良家の大部分は米麦中心に依存 してL^るが,最近 では温室ぶ ど う・椎茸 などの集約的経営が発遺 し, t7t2租洗薬化が進みつつある.
岡山 ・倉敦 を中核 とした県南地域は.新産業都市に指定され,大規模 な工業化が促進されてめざ せしい変容 を現出 しつつある。御津町 も県南工業地域の一項vc栴み入れ られてい るが.その地理的 位債 と用水不足 などの条件か ら,直接的vc工業地域 としての発展は期待で きないo しか し将来予想
される主 たる動向 としては,川現在進んでいる労働集約的な農業 (温室ぶ どうなど) を伸ばす こと,
(2)腺南都市の住宅地 とす るとと.(8周 道の亜備計画の完成 と相 せって,商品 (木工 品 ・衣料品 など) ス トックセンターをおいて・岡山市の商薬繊維 を能封 け るとと・をど・いずれ もセy.a‑ラン ド
としての機能 をもたせることをね らってい る。 t
この ようを、地域的な性格 と陳腐 をもつ当町 を研 究取査す るt.とは,広竣工英化の推進が周辺地域 に及ぼす諸彫 中を考察す るとともvc,その内部的 な変貌 と包蔵す る陳鮭 を具体的 vr解明す ることvc よって,いわゆる地域開発の適正な進展vc宜するととができると思考す る.調査忙あた って設定 し た諸項 目は次の とかDである。
(11御津町の成立 と現勢,(2)地理的費境,(31集落,(I)歴史的展軌 (5)交通の近代化 と地域開発,(6) 聯 僻造,(7)県南の工業化 と人 口移動,(8)社会構造,桝宗教 と教 育文化,Oq県南地域のエ薬化 と御
津町.上 配の諸頭 目についての研究調査は,郷土史料 IP役場資料 などの文献資料 に依 るほか,実地 調査 .関取調査お よび調査粟vC上る悉皆駒童 を適宜併用 して,地元側の協力の もとにすす められた。
駒壷の成果
調査は完了 したわけでは ないが,今 までの成果の王 なる点 を略記すれば次の とか Dである。地理 的調査VC上れば, この地域 vcは高原上vC盤林業VC依存 した古い山村部宵 をの こしなが ら,谷底平地 には果樹栽培 をどな取 b入れた近代的 な曲集部落がひるが 少,後者が次第vt前者 を圧倒 している過 程が指摘される.例えば,既存の山村集落の消液化の現森がそれであるO また,県南地域の=菓化
の余波は,この地方の典薬労働力の放 出 (通勤 ・出稼 ぎ)の増大 をもたら し,その ことは近代的塊 業 としての果樹親埠の将来に も開頭 を掛 ‑T'てい るo交通の近代化 と地域開発 との関連性か らみれば, 当地方 を県南工業地域 と椿ぷ上か らも, また当地方の内部的的発の上か らして も,かつて重要 な役 割 を果 した鉄道 (津山線) ュbも,む しろバス .トラ ックに 上る輪送方式が有利化 しつつ あ D,こ のためvcも道路計画の鵬 的 な推進が要諦されるとい うべ きであるO
社会学的 改訳査はさまざ壇を問題 を浮かび上が らせ たO県南の恥発政策がか
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局地重点政熊 で あb
,その効果の周辺波及が十分VC期待 で きない ことか ら,地域開発政兼vCテ コ入れをし,それを7
再編成す る意図の もとVC,御津町でも吉尾 .伊 EEl地区を対象 として盛典構造改善専業が施行されたo Lか し,=薬化の間鞍的影響は否定で さな く,企巣的Jk英 ・専業漫家の育成を企図す る典
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横道改 善車兼 と,虚民各 自が個別的vc志向す る兼業化 とが相括抗す る現寂がかこb
,今後の大 き在院院 と 怒ってい る。 さらに,=黄化への適応 の違いが,家族 ・近隣生活 ・親族粗放 ・村落構造VC及ぼ した 影響 を検討すれば.核家族の 自立化 ・独立化 を鋭く7 7ミリー ・ポ リシー
VEは問題が あA,家族負 個 々を重んず る家族結合 を中心 とす る,新 しい家族の存在 を欝め る必要があることが究明された.また, この地方は 日蓮宋不受不施派が支配的を地区であ b,かつて払 信仰組織の上 でキ 1)ス ト教 的近代化 を説 く改革派が,曲民生活vc根 をおろした伝統 的な信仰 を守る保守派 に勝 ったが,その後, 伝統 と密発 した家 ・村落共同体 とクィア ,ブ した信仰庇級が持続 された。 しか し轍私 家 ・村落共 同体の解体化 とともvc,在来の教団信仰粗放vcヒビが入 9,近代化 VC即 した新 しい再編成,つ まb 個 々の信者を把握 し,未信者の地域的拡が
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K応 じた寺院殻菅や信者組級の再編成が要望されているなど,当町の現勢は工菓化 ・近代化 とい う時代 の潮流vc稗さ しての変動 と不安定,旧い殻か ら脱 皮せん とす る試練 と,未来への進展 を志向す る鈴綜 した練馬vcとbか こまれなが ら動いてい るのが 実態であるO これ らの諸問題 を,できるだけ総体的 ・統一的vl'解明するためVCは,今後の作業に一 層の精進が要請され る。
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窮 1葦 御津町の成立 と現勢 ‑ ‑ ‑‑‑‑‑‑一一一一‑‑‑‑一一一一一一̲̲̲̲̲̲̲∩̲ 1 第1節 位置 ・地勢 ・広ほ う ‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一一一一̲̲̲I̲̲̲̲.̲ 1 第2節 御津町の成立 一一一一‑一一一‑一一一‑一一‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑̲̲̲̲̲̲̲̲ 2 第5節 関係町村の沿革 一一一1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I̲̲̲̲̲̲̲̲̲ー4 第4節 御津町の現況
第2牽 地 理 的 堺 境 ‑‑一一一‑‑‑一一‑一一一一‑一一一一一一‑‑I一l‑・一一一一一一一‑‑‑ 8 第1節 地 形 ‑一一一一‑‑‑一一一一‑‑‑‑一一一一‑‑I‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I8 第 ?節 気 候 ・一一‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑1 9 第 5節 土 地 利 用 一一一一一一一一一‑‑‑‑‑一一一‑‑‑一一一一一‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑ll‑2 3 第 5茸 集 落 一一一一一‑‑一一‑‑一一1‑‑‑I‑‑‑‑I‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑55 第1節 高 原 集 落 一一‑‑‑一一一一一一‑‑‑一一‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一一一‑一一一一一‑‑5 5 1. 高原 の集落の一般的動向 ‑‑一一一一一一一一一1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑ 5 5 2.高原の的拓村 一一一一‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一一一一一一一1‑‑‑‑‑‑‑‑‑47
第2節 谷 底 集 落 6 8
第4輩 歴 史 的 展 開 一一一1‑‑‑‑‑‑‑一一一一一一一一一‑一一‑一一一一一一一一‑一一‑ ‑ 7 4 第1節 古代の御津町 ・‑‑‑‑‑‑‑一一一一一一一‑‑一一一一‑一一‑‑I‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑17 4 第2節 中世の金川 と御津町 1‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑一‑‑‑78 1. 松 田氏 と金川 ‑‑一一‑一一一一一一一‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一一一一一一‑‑一一‑78 2.松 田氏 と日蓮宗 ‑‑‑‑一一‑一一一一一一一一一‑‑‑‑‑‑‑一一‑‑一一1‑‑‑ll‑‑‑‑78 5. 南北朝,室町時代 の金川 ‑‑一一一一一一一一‑一一一‑‑‑一一一‑‑一一一一一‑‑‑一一1 8 0 4. 戦 国 時 代 一一一‑一一一1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一一一一‑‑‑I‑‑‑8 2 第5節 近世の金川 と御津町 一一一一一一一一一一一一‑‑一一一‑一一一‑一一1‑‑‑I‑‑‑I‑8 4 1. 陣屋町 としての金 川 ‑一一一‑‑‑‑‑I一一‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑ 8 4 小 目僅氏 と金
川
一一‑‑一一一一一一一一一‑‑‑‑‑一一一一一一一‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一‑・8 4 (2) 陣屋町の成立 一一‑一一‑‑一一一‑ 一一11‑‑I‑‑‑‑‑‑ ・‑一一一一‑ ‑一一一 9 5 2. 宿場町 ・船頭町 としての金川町 ‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一一一一1‑‑‑ 9 6 い 船頭町 と舟運 一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一9 7(2) 宿場町 と交通蹄 一一一‑‑1一一一一一‑一一一‑一一‑一一1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ 1 0 2 5. 近 世 の 票 数
( A
) 備前 日毎宗の動向 一一‑‑ 一一‑I‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑I‑‑‑‑‑‑I‑‑‑ 1 1 0 (B) 不受不地の迫害 と殉教 一一一一一一一一一一一‑‑‑一一一一一一‑一一一一一‑ ‑‑125 (q 不受不施派の分布 ‑‑ ‑‑ ‑一一‑ 一一‑‑I‑‑‑‑日 ‑一一一一‑ 一一一一1 5 1 第5華 焚通の発達 と変遷 一一1‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一‑一一一一一一157 第1節 舟 運 の 盛 況 ・一一一一一一一一一1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一一一一‑‑一一一一一‑一一一15 7 1. 高瀬 舟の糾造 一一一一一一‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一‑‑‑一一一一‑‑I‑‑‑‑‑‑157 2.高瀬舟 の優位 1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑一一1‑・‑‑I‑‑‑‑I‑I‑一一一一‑一一‑ 158 5・ 船 頭 集 落 一一一一一一‑‑‑一一1‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑1 5 8 第2節 舟適の衰退 と湯須 1‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一一一一一一‑‑‑‑一一一‑1 4 1 1.舟 週 の 衰 退 ‑‑I‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑‑‑‑‑‑一一一一一一一‑一一1‑ 14 1 2.船頭廃業後の毅須 一一一1‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑ 142 第 5節 金 川 と 舟 逓 ‑‑I‑‑I‑‑‑‑‑‑一一一一一一‑一一一一‑‑一一‑一一一1‑‑‑144 1. 金 川 と 舟 運 ‑‑‑一一‑一一一‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑144 2. 金 川 の 商 巣 ‑‑一一一‑一一一‑‑一一一一一一一‑一一一1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ 149 第4節 道路 の改修 と車輪交通 ‑‑I‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ 一一一一一一一一・151 1, 津 山 街 道 ‑‑一一一‑‑一一一‑〜‑一一一一一一一‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一1 5 1 2. 津山街道 と御津町の文化 ‑‑‑‑‑一一一‑‑‑‑‑‑‑‑一一‑一一一一一一‑‑一一一.・ 1 5 8 5. 津山線開通以後の交通 一一I‑一一一‑I‑I‑‑‑ ‑‑・一一‑‑‑‑‑‑‑‑I‑ll‑‑15 8第6牽 御津町 の経済構造 17 5
第1節 食菓生産力の発展 一一一一一1‑‑‑‑I一l‑I‑‑‑‑I‑I‑I‑‑‑‑I‑I‑‑一一175 1. 農業生産力の発展 一一‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑Hll1‑‑‑‑‑175 2.労働 力の撫成変化 I1‑一一一一一一一一一一一一一一一‑‑‑‑一一一‑一一一一一一一一 18 8 5. 作物体系の変化 ‑一一一一‑I‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑・‑一一2 0 4
5.農薬構造改督串 薬 ‑一一‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑1一一一一一1‑‑‑ 252 第2節 商 = 業 の 隆 替 ‑‑‑‑一一一一一一一一一一一一一一‑一一‑‑一一一一一一‑‑‑I‑‑・247 1 明治以降にかけ る由美の変化 一一一一一一一‑‑‑‑‑‑‑一一一一一一‑I‑‑‑‑‑‑‑247 (11 戸数 ・人 口 ・業種別商業鞭成の一変化 一一‑一一一一一‑I‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑248
(2) 金川の商業的機能 とその変遷 一一一‑一一一‑‑一一一‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一一一2 5 2 (3) 商店街の変化 と現況 一一‑一一一一一一一一‑一一一‑‑一一一‑一一‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑2 8 1 号・ 金川 とそのサービスエ リア 一一一一一一一‑I‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一一‑‑‑ 2 8 1 5. =菜の発達 と現況 1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一1‑‑5 18 第7孝 腺南の工 薬化 と人 口移動 一一一1‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I 5 2 9 第8車 社 会 構 造 一一一一一一‑‑‑一一一‑一一一‑一一‑一一一一一一一一‑I‑‑‑‑‑‑・‑‑5 5 0 第1節 家 族 ‑‑‑‑‑一一一一一一1‑I‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑・5 5 0 1. 家 族 構 成 ‑‑ 一一一∴ ‑一一一‑一一一一‑‑ 一一一一一一一1‑‑‑‑‑一一一一5 5 8 2.役 割 分 趣 ‑I‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一‑一一‑・‑ 5 5 5 5. 家族 をめ ぐる許問題 一一一一‑一・‑‑‑‑一‑一一‑‑I‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑I‑‑5 6 8 第2節 同 族 と 親 族 1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ 5 7D l. 同族の樹成 と機能 ‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一一‑一一1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑5 7 0 2. 親族の範囲 と分布 ‑‑一一‑一一一‑‑一一一一一‑‑一一一‑‑‑‑一一一一‑‑‑I‑I‑‑59 2 5. 鼻薬協同組合 ‑‑I‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑ ‑‑‑4 5 5 第9章 宗 教 と 文 化 一一 ‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑ ‑‑ ‑‑‑‑ 4 5 5 第1節 乗 数 一一一一一一‑一一一一一‑‑‑‑一一一‑‑一一‑一一一‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ 4 5 5 1. 不受不施派の再興 ・一一‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑4 5 5 2.不受不施派の現在
(1) 信者の分布 と信仰活動 ‑I‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑4 占 占 (2)不受不施の生活規制 一一一一‑‑‑一一一‑‑‑一一‑一一‑‑‑一一一一‑‑‑I‑ ‑‑‑4 7 8 第2節 年 中 行 事 ‑‑‑‑‑一一‑‑一一1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一‑‑‑‑I‑‑4 7 9 第5節 民 家 ‑‑‑‑‑‑一一一‑一一一一一一一一‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑I 4 8 4 第10章 教 育 ‑‑‑‑‑‑一一一一一1‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一‑‑ 5 0 7 第1節 学校教 育の歴史 一 旧制金川中学 を中心 として‑ ‑I‑‑‑‑‑‑‑I‑I‑I 5 0 7 第2節 社 会 教 育 一一一一‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一・一一一‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・一一一5 1 5
第 1 章 御 津 町 の 成 立 と 現 勢
第 1節 位 置 ・地 勢 ・広 ほ う
御津町は昭和2 8年4月1日 ,御津郡牧 山村 ,字鹿討 .金川町 ,字甘西村及び赤磐郡五城村 . 葛城村の七 ケ町村の合併 に よ9発足 し同年7月1日大字中野を津高村に分離 .里昭和2 9年4月
1日大字下牧中牧 の一部が岡山市に分町合併 を見 るに至 ったDまた昭和5 1年9月5 0日に赤妙 郡都美村の大字 中畑 .石上の一部が御津町に編入 し現在に至 っている。面積1 19.2 9平方粁 . 人 口15.060人を沸 し盛業商業 を中心 と した町 として 坪進 している。
日) 位置 :御辞町は 岡山県の中部に任 し ,御酔郡の中央 にあ D .その位置 は北緯5 4度4 2分 , 東経155度1 2分 .標高59・2 1米 である。
東部は赤磐郡青井 町 .山陽町に接 し南部は岡山市及 び御津郡津南町に .西部は吉備郡足 守町に , 北部は御津郡建部町及び加茂川町に接 している。
(2)地勢 :御津町の四囲は .中国山脈の支脈の20雅一 5 8 0米 の山岳に囲まれ .北西部は高 く 南部に低 くなっている。吉備高原の南限 と考え られる。
町の東部を中国山脈に源 を発す る旭川 .東流す る三谷川 ,商流す る新庄川を合 して南流 し ,上 房郡桝形山に発 した辛甘川が町の 中央部 を東西に貫托 し .大手 金川にかいて旭川に合流 してい る。主 と して との両河川 (旭川 と字甘川 )の沿岸に平地があ D耕地をな している。
(3)土 地
(】) 広 ほ う
東西 12.5 5RⅢ 南北 17.20Ⅹ皿
(2) 面 積 S 2 8.4. 1 1 1 4,552血売 S2 9.4. 1 108.8 52た遥 S51.9.50 1 19,290ki 地 目 別 面 横
山 林 8,818 Ila 75・9葬 宅 地 120・811a
l 1 0 多
田 1.05O h・a
8
.8
飾 その他 1.,69419ha 14・2帝 畑 24515ha 211多‑ 1‑
御浄町はその周囲を2 0 0‑ 5 0 0mの山
々
に囲まれ ,盲備高原 の南端部辺に位匿 しているD 金山は郡 500m
に達 し ,高原 と岡山平野を区切 っているo金山は歴史的に も興味深い要素を もち .自然的に もまたそ )である0時にその植物は多 く ,県北に しかみ られない高原性の植物 も み られるほ どである。航空写真 をみれば .山地ばか りの所 を旭川本流 .新庄川 .字甘川の帯河川 が山地をえ ぐるように して ,きっちD
はめ こすれた ように流れているのが印象深hcいわゆる̀はめこみ蛇行 'を呈 しているのである。鹿瀬 と大鹿付近
に
かける蛇行は帝 に軒著だが前者に紘 広い氾荘原があるのに対 し ,後者に紘全 くみ られず .直接山肌がそ D立 っている。鹿瀬の南の小 食において も蛇行帯はな く急峻な岩肌がそそ 9立 っているQ この ような峡谷は字甘川托域の虎倉 において よくみるととがで きるo戊倉は御津町の西北部にあD ,舌備高原の深い谷がみ られるあ た Dである。 ここは4 DO
n奴の山がい くつ もそびえ立 ちその間に銃 く切れ こんだ谷がみ うけ ら れるO このあた Dの吉備高原上にはかをD
平垣面が存在 し .そ こではたば こ ,ぶ どうの温室栽培 が行なわれ .その運搬には小型 トラックが使用されているのだが.4 0 0仇の局 所では当然だろ うかo又吉備高原にみ られる帝都没蝕令には非常に大規模を ものが阜 られ .帝に足守川のつ くる 浸蝕谷性耗大である。次に町の東部に 目を移すと.西北部 とは対照的にをた らかな丘陵がみ られるC ち 上うど新庄川の 流域 にあた P .氾濫原の形 も辛甘川な どよD ,かな9複雑にh DくんでいるOとのような低平 を 地形は准梅岩賢の夜飯の結果である。旭川本托には鹿瀬 と字垣原 に広叫 巳在原があ Dそれぞれ 自 然堆防とバ ックマーシ ュを もち良質の粘土がてる。畢生の氾蔑原 と国原の氾海原 にに段丘上 に救 った扇状地がみ られる。央常総 との扇状地上にの 9洪水を避けているo建部町か ら辛香峠 にかけ て山砂利膚が見 られ .標高 も2 0 0,沌どt bと夜っている. これと前述の丘陵地形 と幸恵原の氾 濫原 などに よって御津町の内部が周囲 と比敬 して低 くな っていることはち 1うど金地状の地勢 を 皇 していると嘗 えようCそのため昔は陸上交通が不便で ,御砕町への出入 Dは二〜三の峠越え
に
限 られ ,もっぱ ら舟運にたよっていた。然 し現在は旭川
に沿 って国道がつ くられているDこのように御浄町は高原上 と谷底の氾蔑原の二つの生活の舞台があP ,それぞれに独 自の特徴の ある生活を有 しているD この よう表地妙を もつ御浄町は 当然 .高原 と氾濫原の二面の性格を もち . この二面をいかに調和 させ ,利用 してV}くかが御浄町の殊題であろ う.
第
2
節 御 津 町 の 成 立昭和28年4月1日 .御酵郡牧 山村 .字垣村 ,金川町 ,字甘東村 ,辛甘西村 ,赤紫郡五城村及 び葛城村が御鉢郡牧山村大字高野手箱野尻をのぞいて合併 し御浄町 として発足 した。
‑ 2‑
1 合併を必要 とした理由
これ ら上記の七 ケ町村は地理的に降接 し.棄通水利の状況等密凄不敵の関係にあ9 ,人作風 俗習頒及び職業生活状態等を同 じくしてか 9殊に金川高等学校は七ケ町村 ,金川中学校は四ケ 町村 J字甘 中学校比三 ケ村で組合を組放 し.学校本務を共同処理 していた。 これ らの理由に エ
Dtケ町村を合併 し ,規模を大 きくして勤 を地方自治体を作 か将来の発展 と住民の福祉増進 を図ろうとして合併を したのである。
2 合併で町 となる場合の要件に卵する県集合との関係
第‑負 ,町となるべき普通地方公共団体は次に掲げる要件を備えていなければならをh o
r】) 人口三千以上
(2) 当隊団体の迎たん戸数が全戸数の六軌以上であることo (術 町占割 8分7厘 )
(3)連たん戸数の うち商工業に従事するもの及びその者 と同一世帯に属する者が全人 口のd脅rj 以上であることB (御韓町8割 さ厘 )
第二条 ,前条に定めるものの外 .次k:掲げる畢件を備え又紘近 く備える忙至ることが明らかで あると認める ものでなければならを い 。
日)
交通横国の完備 していること。(2) 官公署の設備があること。
(3) 中学校又にこれと同専臥上の設備があること。
(4)公私立国軸 の設備があること。
(5) 映画館 .劇場等の文化施設があること。
(6)病院 .諺政所尊の触偏があること。
(7) 会社 ,銀行等脚 団体その他各種団体等が存在 しかつ活発をる活動を していること.
(8)住民の租税及びその区域内の地方公共団体の財政状況が将来町 として発展するに足ると静 め られること。
(9) その他町となるに足ると聡め られるものであること。
御津町はこれ らの諸条件をどうにか満た している。
5 隣係町村住民の意響
関係町村の住民は .今までの町村規模で比合理的で香いことを十分菅放 してお D ,旧教を脱 し更に強力な自治体を創D上げるととこそ将来お互いの福利を増進することであることを確信 し .この町村合併 とい うことが ,国の祐乗として採
D
上げ られている事乗
に もかんがみ一この 合併に対 して青竜 を茨 し.このことが .各町村議会に も反映 し ,満場一致の可決 としてあらわ‑ 5‑
れた ものであるO
第
5
節 関 係 町 村 の 沿 革 1 牧山村の沿革御幹部の中部に位 し東は赤磐郡葛城村 ,西は手垣村 .野谷村 ,南は岡山市 ,北は葛城村に接 し高野 ,北野 .中山 .中牧 .下牧の五大字 よ りなるo往 時各大手はそれぞれ‑村を表 し ・明治 22年町村制実施に際 し前記五 ケ村の合併で牧山村 と称 し現在に至 ったが .村内高野尻部落は 岡山市に突 出 した地勢 と諸般 の沓
何
によ り昭和28年 5月1日よ9分村 して岡山市に約人され ・ 現在に至 っている。2 手垣村の沿革
御韓郡の中部に位 し.束に赤磐郡葛城村及び牧山村 .西は吉備郡岩田村 ,南は牧 山村 ,野谷 村 ,北は金川町 ,字甘東村と接 し字垣 ,河内 .野 々口 .吉尾の四大 字よ りなる。明治2 2年町 村制英地の際 ,四ケ村を合併 し ,それぞれ旧村名を大字 とな し辛垣村 と称 して御捧町成立まで 至 る0
5 金川町の沿革
御津郡中部に位 し束は赤磐郡玉城村 ,商は建部村 ,手甘東村 ,南は手垣村 .北は赤磐郡竹牧 村に接 し ,金川 ,草生 .鹿瀬の三大字 よ
D
をる。往時は金川町 .草生村 ,鹿瀬村 と称 し明治22 年町村制実施に際 し上記三 ケ町村を合併 して金川村 とな D ,更に大正1 0年町制を実施 して御 津町成立 まで至る04 字甘東村の沿革
本村は元手甘郷 と称 し細内に字甘上村 ,手甘 中和及び手甘下村の三村があ
D
旧藩主弛EEl氏の 臣 日鑑氏の釆地であったO明治5年頗帯健勝 とな̲り県に大′j\区を思 き小区に会議所を設け正 副 戸長に串抄を処理 させた。即ち三村 とも第25大区第4,J、区建部会議所の管 となるO この時事 甘1中下村の称を横 し.字甘上村は改称 して字甘村 ,字甘中村の内 ,字 中泉を裂 いて中泉村 を 独立 巷せ ,字下畑は字甘下村の内 ,手管を裂 き合わせて高韓村 と し ,字甘下村の内 ,字下田は これを下田村 とし相身合 して4ケ村を段け .村 ととに戸長を置 き各 自宅に於て庶務をとったO 明治12年大′」、区を癒 し郡区役所が敬憧 されると津高郡役所に管せ られる。明治15年町村行 政区画を拡張 し ,一村戸長 を癒 して其の四ケ村を併合 し一戸長 .役場を置 き郡内各役場に部 を おいた。本村は第14部であったO御耐 βの中央部に任 し束は金川町 ,西は字甘西村及び吉備郡岩田村 ,南は手垣村 ,北は建部村
‑ 4‑
に壊 し.下田 ,高津 ,中泉 .字甘の四大字 上̲りなる。明治22年 ,町村制実施に上 り四ケ村を合 併 し新村を血放 し字甘栗村と改称 し旧村名をそれぞれ大字名として
新
町成立に至 ったのである05 亭甘西村の沿革
御津郡の中部に位 し束抜手甘東村 ,建部村 ,酉は
菅
備郭福谷村 .商仕手甘茶村及び曹備郡岩しとク
田村 .北は醇賀村に接 し虹 .勝馬 .虎倉の三大字 よ りなるO径時は:紙= .勝尾 ▲虎倉がそれ ぞれ一村をな し明治22年町村制実施の際 .上妃三 ケ村を合併 して字甘西村 と改称 し旧村名を 各大字として御津町成立に至るc
d 玉城村の沿革
本村は赤財部の中央西部に位 し東は同郡鳥取上村 .亡堀村西は御醇郡金川町 .南紅毛一婦村 . 北は布都芙村 .竹枝村に接 し失知 .平岡 ,新庄 .伊田 .矢原の五大字 よ9なるO明治2 2年町 村制実施の際旧五ケ村を合併 して旧村名をそれぞれ各大手名として五城村 と称 し御韓町成立 ま で至る0
∫ 7 葛城村の沿革
本村は赤磐郡の中部西端に位僅 し東は同郡酋山村 .南は高月村及び御幹郡牧山村 .菌は御津 郡辛垣村 .北は五城村に接 し川福 .国 ケ原 .方谷の三大字 よ りなっていた。往時各大字は赤坂 郡に属 しそれぞれ一村をなしていたが明治22年の町村制実施の際 ,合併 して葛餅村 と改称 し 旧村名を各大手 として新町成立に至る。
窮 4節 御 幹 町 の 現 況 (合 併 町 村 の経 営 と そ の 建 設 の実 態 ) 1 合併前にかける状況
御捧町は岡山市の北部に勝接 し .中央を南忙流れる旭川 と字甘及び三谷の支流が旭
川
に流入 する地帯
にあ9周辺の山間部を包含 した曲山村である。合併関係町村は旧金川町を中心 として 地理的に又経済的社会的に一体的軍功にあ り.行政面において も高等学校組合 (関係七 ケ町村 ) 及び中学校組合 (金川中学校一旧金川町 ,旧字甘東村及び旧五妹村 .字垣中学校 一旧字点村 , 旧牧山村及び旧葛城村 )を設けていたB2 合併前後の経緯
(1) 合併 年月日 昭和2 8年4月1日 (2)合併関係町村
御津郡牧山村 ,字垣村 .金川町 ,幸甘支材 .辛甘西村及び赤壁滞捗五城村 ■葛城村 (3)合併の経過
‑ 5‑
前述のように本地域性社会的 .経済的に密接な関連性を有 していたが .関係町村妊いずれ も人 口三千人に満たない小規模町村であったため幾多の懸案又は緊急の施策を抱えていなが ら実現 し 得ないとい う共通の悩みを等 しく痛感 していたので ,昭和27年12月関係七 ケ町村の合併協議 会を結 成 し.住民の啓発 に当 った結果なん ら反対を唱える者 もな く翌昭和28年2月には ,関係 町村全部の満場一致の議決をみたのであるQそ して5月にはかねてか ら分離の希望があった旧牧 山村大字高野尻を岡山市へ分離することとしなか合併後にかいて も地輿 .交通殊 に児童の通学の 必要上か ら同年7月1日旧牧山村中野部落 を野谷村 (現在の津高村)に分離 し,29年4月1日 旧牧山村大字下牧及び中牧の一部 を岡山市に分離 したが ,これには何 らの紛争 も問題点 もなかっ たC
3 現 況
本町は人口‑ I人 ,戸数 仙 ,面積119,29 0平方粁把わたる区域である。その産 業別の人口構成は ,第一次産業 人 .第二次産業 人 ,第三次産英 人であって
̲ ̲声は農林業等の第一次産業従事者であD ,生産総額 円の うち 車は農産物 (栄 麦のほか ,廿世 紀 ,マスカッ ト,桃等の果実 )で占めている。
4 新町の建設
川 新町建設の基本方針
新町は農山村の地域であるか ら .集林産業の振興を図9教育文化及び衛生等の諸施設を充実 して .住民の福祉 を増進 し衛生的 ,文化的な町を連投することをその基本方針 としている。
( 2 )
新町の事業の実施状況専業安の歳出総額 中に占める割合比 ,合併前僅かに 1 6車であったが合併後第‑次年度は45 帝 .第二次年産 47串と増加 し更に第三 次年度は50弟以上に増加 した。
合併後行なわれた主な事業は次の とおDである。
( A
) 消費施設の整備 (D) 価易水道の整備(fD 公民飴の新築 的 耕土培蕃事業
(C) 保育園及び幼稚園の新築 (F) 耕地及 び治水 ,治山事業 5 合併後の経営
(1) 行政運営の合理化
(行政機構及び職長組軌の整備 )
合併後新町においては旧町村の係制に代えて訣別を実施 し五課‑室に機構 を合理化 し,適正 夜戦負配置 と相 まって事務処理の能率化 と責任体制の明確化 とを図 っている.すなわち聴負数
‑8‑‑≡
についてみると議員にかいて7 4人典薬委長会その他各種委員会の統合に よ り1 4 0人 ,三役 において18人それぞれ叔少 している。又「役職員については18人の蔽負 となっているO (2)財政迎膏の合理化
本町の財政退菅は合併後財政力紘著 しく強化卓れて弾力性のある重点的な財政道営ができる ように夜 D .又消費的経糞の節減が図 られ .歳出中攻究的経費の占める割合は合併前の16
帝
に対 して合併 後第二年度に して4 7多と大幅に増加 し .しか も財政の健全性 は失 表われてい太
い。
(3)財政力の強化
合併前後の各年産についてその団体の財政上の 自主性を示す地方税 と地方交付税の「般財漁 の状況は ,合併後の境界変更の隣係に 上 り第二年度においては若干滅少 しているが特に特定財 政の増加が著 しいのは ,後述するよ うに財政運営の合理化により「股財源の事業 費投入額が増 加 して国 ・県の補助及び起債が認 め られる こととなったためである。町民税及び固定丑産税の 徴税状況は きわめて良好 で徴税寒 も漸次向上 しているが これは ,徴税機構が整備 されて徴税事 務が円滑に行表われていること ,一方合併に1って住民の新町建設 ,運営に対する期待 も大 き
く町行政に対 して額奄的に協力する15になったことも大 きを原因である。
(4) 消費的経費の節戟
合併後にかける消費的経軽は機構 の統合 .行政迎常の合理化等に よって大偏に節波が図 られ . その結果投資的経費を苦 しく増額することが可能 と75:ったoすなわち合併後第1年の昭和2 8 年直にかいてはベースア ップ .撤樺改革 に伴 う市政腰 理による退職金の需要等に よD人件費に おいて1,a52,000円又施設の新設に伴 !需要費等が増加 しているのに もかかわ らず従来7 町村が個 々に負担 していた負趨金 .寄附金 .交際賢等が激減 したため消費的経費の総額 におい ては合併前 よ りも4.8 9 9,000円節済 まれ .合併 賛第2年の昭和2 9年皮にかいては人件費 において8 80,000円の退職金が含まれているのに もかかわ らず総額にかいて12,812,000 円の額が節滅 されているO
又 .消費的経費の歳出総額 中に占める割 合は .合併前84車であったが ,合併後第1年直にを いては5 5率と2 9啓綴 じ弟 2年産把 かL^て5 2帝と5 2年賦 じているO
次に .款別歳 出の状況をみると内部管理 事務に零 した絶賛 (諸会費 ,役場費 ,統計調査糞 ,選 挙焚 .公債
穀etc.
)は合併前2a
7卓であったのが合併後弟 1年度にかいて20・玉串, 2年 度17.9車と漸減 し.もっぱ ら住民へのサ‑ ビスのための軽費 (土木韓 ,教育史 ,社会及び労 働施設費 ,保健衛生喪 ,産英経済資等 )は著 しく増加 しているO (大 山 正治 )‑ 7・‑
第 2 章 地 理 的 環 境
第 1節 地 形
1 書備高原南端部辺に位置する御津町 (1) 概 観
岡山県中南部は青傭高原 の南端部辺 に位思 し .御津町は ここに在 る. この地域「帝性一見 して分かる通 り山地 と河谷の地形を呈 しているo山地は東北部を除いて ,かをD急 峻を山容 を見せ ,西 部 は 晩 幼 年 糊 ・早壮年期 ,中部は滴壮年期地形を皇 し ,特 に西部は吉備高原 の頭部浸蝕 も進み ,山の斜面k:鋭い切れ とみをつ くり.深い浸蝕谷を刻ん でいるoその眺望 はすさに錐大であるO概 して青井川流域か ら高梁川流域へ移行するに従 ってますます典型的 な吉備高原の地形 を見ることができ ,よB若い独唱の地形である ことが東知音れる.従 って 同一地形図が高梁川流域 において最 も高所に現 われ ,ついて旭川流域 に .そ して鹿 も低い面 に現われるのが富井 川統域 なのである。葵際 ,吉井川流域紅かを 9没蝕が進み .山地はその 険 しさをすでに失 っているO旭川を含む御醇町総福梁川 と盲井川のほほ中間に当たる地域に 在 って ,西部がかな り若叫 輪廻の高原地形であるのに比 して ,東部は ,比攻的風化没蝕のす すみ易い花輪岩地質 とあいまって ,かな.り従順な丘陵状地形を皇 している。御津町内を放れ , 河谷を刻んでいる諸河川には ,旭川本流 ・辛甘川 ・新庄川 ・三谷川などが あi).町の東部を 南沢する旭川壮中国山脈にその源を舞 し,束耽する三谷川 .西托する新庄川を合 し ,更に上 房郡桝形山に果 した字甘川は町の中央部を貿流 して ,新庄川 と共 に大字金川にかいて旭
川に
合流 している。旭川 ・字甘川 ・新庄川 などの氾荘原は大部分が耕地化享れ ,ほとん ど水田 と して利用されている。町の住民は この氾渡原上 に大部分が粂任 し .放 りの町民は高原上に小 規模な鍛簿 をつ くって生活 してい る.地形図や航空写共 をみると富備高原 を縫 うように曲托 し .かつ山 々の間にはめこまれたよ う引 蛭川lが印象的で あるDつまD旭川は謂わゆる朕入
蛇
行を呈 しているのである。両津は直接 ,
息
に山の斜面が迫D .蛇行帯 も若干つ くられてはい るが '大鹿 ・鍋谷 などのか っての船頭集落の先遷 した地 暁にはほ とん ど蛇 行帯虹発達 してい をい.この船頭集落の先達はそのまま御津町の陸上 交通の不便を物蘇 る.御醇町は ,その周 囲を5 00‑ 4 0 0mそ して時には5 DO仇
に及ぶ高い山々V
Cよってと り囲まれ .町の内部 は逆に比軟的低平を山地 .丘陵 さらに
氾恵原か らなっているために .ち lうど全体が大 きな一一8‑I
盆地の如 き地勢にな り・出入路は必然 ,その数 を限 られること忙なる。辛香峠や伊由越はその代 表的通路 とな ってきたれ その辛香峠 を通 る道す ら比軟的新 しく作 られた ものであるD現在に旭 川沿いに国正が通 じ ,その便利さ比往時の比ではない。
さて ,御津町を地形的視野か ら考察 してい くのであるが ,やは D ,町を二つの面か ら見てい (べ きであろ う。すなわち ・谷底平野の御浄町 と高原上の御韓町である。 これ らは地形的に も対照的 であるか らである。
(2)谷底平野の御韓町
( A
) 曲流する旭川 と河岸段丘 vc耽 る腐状地旭川の曲流 と金川の位軒 併津町内を甫流する旭川紘北部と南部にかいて 蛇行が苦 しい。 すなわ ち北部の建部付近で ロ字形
VC 1 8 0の流路 転換をみせ ,南部の勘負 ・大鹿 な どのか っての船頭銀笛の発達 したところで二度の U字形転換を してLriるO前述 したよ うyc,旭川は 朕入蛇行を量 してかD .まさに山 々の間に くっき りと .はめ こまれたよ うVC,きわ立 って見えるo
首 府在原は隆起#̲平原であ り,か って隆起する以 前
Y C
,準平原上を自由蛇行 していた旭川が .平原 面が徐 々VC隆起 した括具 ,長い時間をかけて下方 汝蝕を行 ない ,現在の鱗入蛭行が形成 されたと考 え られているO この鱗入蛇行を皇す る旭川は .大 体vcおいて広い蛇行帝はつ くっていなho然 し , 部分的
には繁 くほ ど広い蛇行帯を形成 している.それ仕手甘原の氾風 許であるOその他 ,鹿瀬の氾 濠原 もかな
D
広VlL .加えて草生qcみ られる細長い
氾渡原 ,さらvc .国原 vcも比軟 的広叫 巳温陳 がみ られるO或Pの地故に比 ,ほ とん ど蛇行帯は殆適 していなhoその良い例が建部町小倉の治 産斜面付近と鳥越 山の攻喪斜面付近であるb ここにおいて仕 .国道は .川にす ぐ迫 って きている 山腹の岩を削 Dとった後を通 ̲り,バ スの停留所は岩 を くbぬLJlて設け られてV,る笹である。 しか も国道の英機 を旭川が渦を巻いて流れている。 さらに もう一 つの例は ,教袋 .大鹿 ・中牧 .河漸 あた りで.ここVCも蛇行帝はほ とん どみ られない。旭川の両i i i ‑
には壮年期の山がそそ り立 ち .特 に矢原か ら北へ建部辺 りまで城山 ・鳥越山がそそ b立 ち ,峡谷をみせている。その事情は大鹿 ・‑ ?‑
鍋谷 ・中牧辺 りで も全 く同 じで あるo この二 ヶ所 が .御酔 町IR:おいて澱 も山が迫 って峡谷 がみ られ る地で岩男壮粘板岩質の場 合が多 くな っている。乗除 ,粘板岩は没蝕を受けに くい ことが , 下方畏蝕のみを進め ,か くの如 き狭監妄 地形 をみせ ているので あるO
次に ,御津町 の谷底平野にみ られるテ ィピカルな地形 に ,河岸段丘上 に載 った′」、規模な扇状 地地形がある。その典型は .草生 ,国原 ,伊田75ど把み られる。非常に小規 模をため ,ち ょっ とみただけでは扇状地 である ことがわか
b
に くいが ,航空等共の立体観察に よってす ぐK:それ とわか る。監丘は ,一部に 10m
級の ものがみ られるが ,後は ,ほ とん ど数1)L程度 に とどまっ てV'る。集落は .ほ とん ど扇状地 の上作立地 し,洪水か ら守 られている○扇状地 の土地利用は , 小規模葱ため ,大部分は住居で あって,そのあいた所に .マスれ トの温室裁増や桃の栽 培 ,そL;I 粍たけがつく・jtl̲・餅
i),作
物 のない ところは竹林 とな ってい るo扇端部の前方 は水 田が ひ らけて いるが ,谷水が鞠かず ,宿敵用水仕 ,川 の上流か ら延 々と用水路を引 き謂賓 をみた してい る。(B)鹿 瀬 の 氾 渡 原
航空写巽をみて も分かる ように鹿瀬で旭川は U字形 に蛇行 し,その流路は 180度転換 して いる。ここにはかな 9広い蛇行帯 鹿瀬の氾濃原
が形成 され ,か っての河道 の遷移 の跡 を うかがい知 る ことがで きるO 国道は この氾凍原 の南側 の段丘状 の土地 の上 を通 っている○ また こ の地には ,かな bは っきDと自然 姫防の跡 を見る ことがで き,その 円側 には鹿瀬神社が柁 られてい るo 国道に立 って 自然頻防 をみ ると,
自然輿防 忙近す くに したが って し だhK土地が高 くな ってお b,国 道のす ぐ下がか っての河道であ った ことがわかるo土地利用紘ほ とん ど水 田であb,後背低湿 地の一部 には ,れん こんがつ くられているo鹿瀬の南に久師井 があるが .久師井の対岸 の小倉 な どは ,川がす ぐ近 くにあるに もかかわ らず ,
用
水 による准概がで きをいために,か っては乗 を どの乾晩性 の作物が作付けされていたほ どである。 これは ,/J、倉 に限 った ことでは な く,一 般的夜番乗 であったO後 に述べ る国原の用水路は この ことを如実に示す ものである。(C) 草 生 の 氾 塩 原
‑10‑
草生 とい う地名紘その字の示す通 D, 〝革 の生 えた所 ′′とい う意味であ i),氾濫原上 の地 で あることはす ぐに うなずけ るo草生には ,御津町 の氾濃原 が示す一つの特徴的 を地形がみ られ るoすなわ ち,草生 に止/」、さいなが ら河岸段丘がみ られ る。そ してその断丘崖 の高さはせいぜ い赦n ・時に 10 m位 であるoそ して これ らの段 丘の
1
忙と く,J、規模 夜房状地が破 っているの であるo然 し一草生の対岸 の城山のふ もとは .旭川の攻撃斜面にな b.細 い道がか ろ うじて辿 っているのみで ,この 上うな扇状地比 ,まった く見 る ととが できをい。 ただ城山の200数 10m
に及ぶ絶壁が雄杜にそびえた ってい るのみで あるo次に,草生 の この よう夜地形 を模式化 し て図示す ることにす る。メ/
二
\\// ▲
\地
、 モ ≒ 墓
こJ二二も 運>一一一‑ヽ河 岸 段 丘
自然艇防
‑
ニ 誓 二 二‑ 1
氾 濫 原
i i Z g 丘 ■ ト ! \ / 、 て ㌻
旭 川
2 ‑ 1 第 1図 〔 草 生 の 氾 濫 原 地 形 〕
扇状地 では ,温室 ブ ドウ,露地 7●ドゥ, しいたけ,棟 な どが叔 培され ,バ ククマー シュは現 荏 ,さほ ど温地 とな ってお らず ,一一部 にれん こん な どの湿地性の作物 がみ られ るが ,ほ とん ど が水 田 とな っている○草生には ,この よう複成状地 を二 ヶ所に見つける ことがで きるoまたと の扇状地上 には ,竹が しげ 9,扇状地の雨水 に上る土砂の流失が防がれ ,また民家 は多 く,局 央か ら扇 頂にかけて密集 し,洪水 の際 .少々の増水 では危険 のない位置に在 るo草生の確概用 水は ,ず っと上紀の/J、倉辺
b
か ら引かれ てい るが .これは旭川の水面が低いた めで ,当然 こう なるべ きものだが,この用水路 とい うものが .御授町 の水稲作 にいかに重要 な ものであるかは , 後述する国原の大骨根か ら引いた用水 の工1J記点 をみ て も明白であるo用水路 がで きるまでは ・ 溜池による天
水 を利用する以外 になか ったので あるO卑生 な どVi.辛垣原を どとちがい ,谷水‑ iilH
が得 に くいため ,山あい紅海池が二 ヶ所設け られてVlるo (D)字 塵 原 の 氾 慈 原
字壇原の氾濫原捻 t.の御津町 で蛇足 も広い ものであるo山の間にこの ように広い氾濫原が紘 が っているのは少々倍か ざるをえない。 この氾感涙 もやは
b
旭川の蛇行の縫 取生 じた蛇行帯に 拭す るが ,そ うすれば ,か って旭川が手短原の央深 くまで轡 曲 しなが ら放れていた時期があっ た忙相追ない。地質は砂岩が主 で近 くの山上には山砂利層がみ られ ,比較的経傾斜の山地 であ り,粘板岩質の場所 と比べて没蝕がすみやかな こともあb.また七 曲峠付近か らの谷 川に よる 漫蝕 もあって ,既に浸徹され易い条件 を もっていた とも考え られる○ この手短原 と旭川 とを二つ
K:区切 るように南北に走 っている/ト高い地形 があるが,これは ,自然塊防 である。そ して , ち ょうどその上 を国道 が走 っている○そのためバスに乗 るには,脆防の上 までのほ らねばな ら ない。津山線はパ ックマーノ 1の中を通 っている。字塩原 のノ1'ックマ‑シュには良質 の粘土が 堆横 し,瓦焼 きの/J、屋 が所 々に見 られるo瓦焼 きの風物がみ られ るのは ,なに も亭垣原に限 っ たことではな く,大体 にかいて支流 が本流に注 ぎとむ辺b忙 よくみ られ るものである。 ここの 場合 ,その支流 と技手甘川 ,新庄川の緒河川である。字垣原に も河津段丘 がみ られ ,所 々に 10 m段丘があるがほ とん どは2‑ 5mにとどまり 1〜 2段である。人家は山裾の段丘 上や,少 し 高い所に典 まってお り,低湿地上には少をい。土庄近の鹿薬改巷事業 に よD,氾混原1 で,ブ ド ウの温皇栽培 が目につ く他 ,一面 ,水EDと売 っている。 しか しパ ックマ‑ソlらしく所 々に, ハスがみ られ るo(E) 国 原 の 氾 濃 原
国原 も草生の場合 と同様, 2‑ 5mの段丘の上に/」、規模を扇状地が救 っている地形か らな b, 国原 の氾濫原
自然堤防の跡は見 られをいが .か っての 自 然拙防 音人為的に土手(てつ く如 上えたことも 考え られ る○氾濫原上は全て水田に利用さ れ ,扇状地1は人家が密典 し,温室 ブ ドウ や推たけが栽培 されてV'る。次に,国旗の 良美の発展 に寄与 したのが荷敷用水である ちとを忘れてはな らをい○国原は古来か ら, 広い水田適地があるに もかかわ らず ,いつ
もその常軌用水に悩んで きた。す ぐそばを 流れる旭川か ら水 を揚げることは技術的に困雛であったため,ついに2払 以上 も上流にある大骨根
‑12‑
か ら.明治51年 に用水 を引いたのであるo これに よ
b
,風原の水稲作は 日の 目をみるに到 っ たo現在は耕地薬理が葵に よ く行 き届いている.(F) 久師 井 の 堆 朝 物
氾濫原 として谷底平野比 .古来 ,幾度 とな く洪水 を挽 b返 し,氾荘原の堆醗物はその歴史 を 物語 る。そ こで一応参考 として .久師井 のポー リyク調査 の績巣 を示 してかく。
2 ‑ 1 第 1衰 (久 師 井 地 内 ) 昭 和 4 1年
最
軟
援 山 粘 土茶
軟
緩 小 砂 含 粘 度水位 l
\ \ l \ \ \ \ \
7K l正 水位4 鳳 渦 枯 小 ′」\ / 小 砂 含
5 冊 臣 石 砂 茶 硬 麻 ′」、
抄
混6 \ 粘 土 ノ
‑ 15‑
(ci) 所庄川絶域の氾濫原
新EEJHは ,伯の一支流の幸甘川 と比牧すると,
水 丑
にかいて も川備
において もず っと'
劣 り, 特水時を除けば小 さ%/ 」 \
川の ようにみえるo金川か ら伊 田の氾濃度へ行く
に披 .赤磐富士 と獄 野山の狭省 を人 らねばな らないが .そ こを過 ぎると急に眺望が開け,
伊田の苛 々とした水mを 見 ることができるO伊田
に も扇状地がみ られ るが ,段丘 比は っきbみ ることがで きないo屈状 地の土地利用は他の場合 と抱 とん ど同 じであるが ,施薬改善必業に よるか なb
大規模なマスカットの温垂栽培がお こなわれている。伊田を過 きrて北上すると新庄に若 くが ,この辺
b
の山地 は全て花佑岩城か らな 9,そのために風化投蝕がすみやかで ,山 とい った感 じはすでにな
く, 丘陵状の小高い山地が うね っている。 またこの辺 Dの谷底平野 にし その出入路がかなb
せま く な ってか
b,平野面 と山地 との接敵は凹凸にもirんでい る○ これは ,塩析谷の特徴の基本に当て 止まっているのたが ,共際
に埋析谷か どうかは .'Ei気探査法な どの換査 を しそければ分か ら75:hO
仙南地山のペディメン トを左にみなが ら平岡西まで北上 すると,御韓町 としてはそ う多 くを い 10m級の段丘をみることがで きるo
(刀)辛 甘 川 流 域 の 氾 濫 原
金
川か ら,城山 と妙見山 との問】の狭谷 を簡‑抜ける と字甘川のつ くる東西に細長い氾湿原に てるO辛甘川は水玉上もかな b多 く,新庄川 とは異 な D,中州が形成 されている所 もある。氾湿 原の北山位は砂岩E ,南山缶 は粘硬岩質でできてお D,北側の氾濫原 と山地の接線は直線的で.凹凸な く没蝕が進ん でいる様子が伺え るOそれ に対 して南側の粘板岩JEの方は没蝕 されに くく, 非常に入
9
くんだ山腔を保 っている○幸甘束
に壮段丘 らしきものはみ られない。然 し九谷新田 の秋谷 を過 ぎ,紙= まで くる と1〜 2段の5仇段丘が廟箸
にみ られ, 10m段丘 もみる ことが できるO この辺 少壮すでに吉備高原がす ぐそばまで迫 ってきて ,山は切 b立 ち,蘭
に行く
に従 い ,吉備高原に ,はま った深い谷底 にいることが自鮒 こ永知されるのである。(3)盲 備 高 原 上 の 御 沖町
既視 で述べた 上うに ,御津町 は青仰高原の中に在 b,西部は晩幼年期 ・早壮年期位 にあた 9, 架へ移
ろ
に従い ,壮年期か ら従凧 也形に75ってい くoそ して特に平岡西のあたD
は花尚岩JEのた めナ っかb
浸執され ,丘陵状を豊 している。然 し四部は投蝕冶姐の若い書備高原が,深い谷 を伴 なって存在 していて,
特 に足守川の頭部没蝕に よる日蝕谷は大規模 な もので ,その谷蚕に立 って 見下す と.まさに雄大その もの‑Cある。‑1 4‑
LtネtJ.
∫わ
〔綱 . 溝 町 標 高 別 図 )
‑ 15
A) 御幹町西部か ら中部へかけての吉備高原
御幹町函端部の虎倉か ら鎌 田にのほ れ 町境を本陣山 (445ldm )を経て ,勝尾 ・さらに七二 本木山を過 ぎて手短原‑の コ‑スをとってみたO登 り口の虎倉は両側に 500 ‑ 400mの山
々がそびえ ,比敬的若い昔備高原の谷底の ような場所である。登山道は傾斜が急で ・す ぐT を
Ⅴ字形の谷 を刻む谷川が流れ ,所 々に滝 をつ くっている。吉備高原夜蝕の初期段階の谷であも 頂上近 くに75:ると一段 と息夜道になるが ,それ を過 ぎる と息に平 卿 こな ‑h7典啓 と7‑k皿と畑が 呂に入 る。その余
D
の変 わb
ようには驚 くo谷頭には谷川の水を利用 した水田が見 られるが ・ 谷頭 を過 ぎると,たば こや ,7 レクサ ドリ7種 のマス カ ブトの温室栽培がみ られ る。標高は約450mで城田 とい うところである。夜飯輪廻 でいえば晩幼年 よD,む しろ早壮年期 ぐらいで, 平坦両は広い程 ではない○
敢 田の平担面を 叔= よbのぞむ
民家絃ほ とん ど全てが小型 自動車を持 っているが ,これは平地 と高原 を結ぶ運輸交通手段 とし て欠かす ととはできない ものであD,決 してぜいた く晶ではない との ことである○車が手に入
らなか った当時の ことを思えば .近代化されて きている○ この敢 田の ようを所は ,土地 も余
b
広 くな く,多 くの面 で不利な環境をもってL^るため ,珪藻 も自然 ,果樹栽培を どの利回 りの良 い ものに移行 して 重た。夷際 ,御酔町の大部分 を占める吉備高原の開発のために も,これが有 効的であることは否めなho立
田に
限 らず ,高原上の零細出家を これか ら発展させてL^こうと い う際 .換金価値の高い作物の栽培を重視 しなければ東通する t.とは必至 で,いつ まで も旧態 然 としていてはいけない ことを,曲民各 自が良 く理解 しているよ5であった。 さて鼓田か ら標 高約400m の平温苛を古川 まで2Km南下するのであるが ,その途中 ,赤土層が道に沿 って露‑‑le)‑
出 し舌痛由原 ら しい。 また山砂利Atiもみ られ る。 円転の大 きさは直径 1‑ 2L7n春慶 で鈍 さ壮中 位で与る。 剤 l肘 近虹姑がひんはんにでて,故作物 を荒すため,その防 き
・ 1
VC頭 を痛めてい る 現状 であるO 古川か ら勝権
に行 く途中の適は意外に地
9易 く傾斜比か なb
浸 やか で,」 =b
下 D の/J、径かす っと挽いてい る。急 に 目の前が飽け九時,足守川のつ くる振大 を乾蝕谷 の光景が 目 に入る. その規模は悲憤以上i/C大規模 で, 10 0万年以上 を・1†干 した と思われ るo谷
軸
には,水田がつ くられ,谷 の鷹はず っと遠方 まで水田であるO この吉備高原上 を歩 いて い ると,畑 と水 田がか わ るがわるにI J
tわかて興味深い。 この よ うな雌大 な頭部 臣蝕 の跡 を眺め をか ら,侠高5 0 0m位 の勝梅に
くると,急 を浸幽谷 はみ られ な くなる。勝馬は僚底は低 いれ
平坦 面の上に あるか らであ って,勿論,少 し北か南に歩けば没蝕谷が また現われ て くる。勝馬 の粂熟は,比軟的 まとまってか 9,戸敵 もか t.:少ある。 小型 トラクターや′J、型乗用甲を もって い る家 も参 って,生活の苦 しさ とい うものは, 引 きと感 じられ ない。飲料水は, もちろん井戸 水で,その水紘 モーターで くみ あけ ているれ 水食は余 b良 くな く,一度沸か して飲ん でい る 似合が多い ようで ある。水 EBもみ られ.その癖概はため池が王 となってい るが ,他に谷水 も使 用 してい る。果樹比 重
士
少数培されてお らず ,か わD
に粟 や推たけの栽席 がみ られ,山滞V,感 じがするFyTである.平坦 面は,
故 田 よb
か な b狭(な って去,少, この他向は宇垣原
忙近す くに 従 って曲 者になって くる.つ ま 9, よb
綻版地形への推移 を示 してい るo膿尾か ら1Km歩 くと,十二本米山に着 く机 この山の北 側には, ロ ック ・ス トローム
( f t ock strom)
ら しい跡 をみ るととがで きる。(a) 十二本米山の北側 tq:み られ る徽地形
十二本木山の北
側
に,花村的拓地に到 る山の斜面に治 って,直径1m位 の岩石が一列に上方 につ らなっている所が あるOこれは少 なくとも,周囲の顔境 とは異 な ってい る.ロ ,ク ・ス トローム
( Rock Strot n)
比氷河作用の結果,生す る地形である.中国山地の水内eJ有無に ついては,種 々の意見か あ b未だ解決 盲れてい ない。氷河説には二つ の説が あ って,中凶山地
に
は氷河 その ものが有も してい た とす るもの と,氷河 その ものは存在 しなか ったれ 周氷河が存在 してい たClでfATL.いか とい うものであるb そ こで も しロ ック ・スー 17‑