• 検索結果がありません。

「T

= り ‑.:/ ..//

/yr,I:"I

.日

:

ヽ‑

.J,1

:

もしれ夜いo弥生式時代 に入る とい 上い

農耕 がは じめられる 上うになる。北九州で成長 した壕 初の弥生文化は全国 に汲及 してゆ くが,大陸か らの形中 も密接で あった ことだろ う○外界か ら物 を採集する ことしか知 ら75:か った人 々に とって 自分題の手で植物 を植 え,それ 女育てて収鍵する とい うことが大 きな溝 きで あった ことは疑 い72V,。 自分遠の手で食物 を作

b

出す とい うこと結束 賄 らしい ことで あるO Lか しその方法には危険 も伴 なって くるO‑年 中の生命 を一定の収

にゆ だねる ことは,豊作 で あった場合 に比いいが, もしその年が凶作で あった bする と

死者 乗出す か もしれない○その危険 か防 ぐために曲軒 の初期 に あっては,曲耕 ばか Dでな く,依然 として獣, 魚介類 もとって食べていた この ことは,月額 青伴 っている ことか ら も姓

にすべてをゆだねて

いたのではない ことがわかる○初期の虚桝は田租 茨 ともなわない直楢の稲作 で あった とされてい るo自然姫防の背後 な どに出来た宿地仕初期の点耕 奔行 うの 忙絶好の条件 肴・備えた土地で あった。

招地の周辺の比較的哉 い部分 に掛 がまかれる とあとは収極 まで ま っていれば良いので ある。収礎 には打製 と磨製 の石庖丁 が使用 された。御幹町内で弥生式時代の遣物が発見 された場所 は,鹿瀬 , 九谷,金川,上伊 田,伊田,新庄,野 々口,寺尾 .原 と殆ん ど全域 で あって, この地が早 くか ら 開けていた こと女物商 っているo

特 に字垣頗逝跡は県下で も屈指の弥生式姓跡 と恩 かれる。今迄無数の土器破片 が瓦士 に混 って 出て来た。稲作 については,は っきDL7t確証はないけれ ど も,弥生式時代の迫物 や住 居跡を ど の発見有考え あわせる と,当時 との地 に結,旭川の氾濫 に 上b土砂が堆概 して 出来 た 自然堤防 の ようを, 自然的環境 尭十分に利用 し允所に人 々が移住 して きて鹿桝 が始め られていた と考え られ る。石 ころ もない紳V,砂貿 壌土の上 に今 日で考 える と非常に幼稚複農具 で粟 や ヒエ も栽培 された ことで あろ う。稲は山間の湿地 に谷水 を利用 したD ,天 水で栽培 されて いた○原の住居跡か ら出 土 した黒碑 石 (割 った ら見取状 ),字垣のLu魚原方面は縄文弥生の追跡 が あるが,須恵器 を焼 い た あとが各地 にみ ら‑zl,い ちじる しい汲片か産出 している ととを ど も注 目に価するo逝物の うち で高杯 が非常に多い ことも特徴の一つで あるO土器類は鯵 し く発見 されているが,完全75:ものが 少かハo同一型の もの が多いので単に使 用 しただけ と比考え らを帥 。 良質の粘土 が この地 に出 るので,或は製産地で あったか も知れない○

金川高校歴史研究部には御浄町 内で発見 され7t土器,高杯,石錐 ,石庖 丁,石軌 あるいは埴輪 をど多数収集 して陳列 して ある0

2.苗 代 の 古 墳

弥生式時代 とくに後期 における水稲良策の発適 はめざせ しい もので あったoそれは豊 か夜稲 の 収

に 上って人 々の生活争安定 させた。一方地域 ご とに, これ までにをい政治的なま とま りを作 b出す ことに在 った。初期の古墳結,ほ とん ど独立 した位暦に,一帯の平野か ら仰望 で きる エう

ー 74‑

な,LIJ丘の頂 を利用 して作 られてか や,まわDに小 切を伴 な った りしていないo地 峻集団の首 長 たけが古墳埋葬の主 人公で あった。中期 になる と首 長基 とされる大形古墳 と吐

に との時期 にな る と,申′J、の円墳や方 墳の築造 がは じまるO との現象紘古墳発生の 当初作はみ られなか った こと で,一定集団の内部 における階級対立 がつ 上せる忙つれ,首長舟 と9号 (有力夜成員,つ

̲h支 配層 が確立 しつつ あった支配機構 における各 自の相成 女表示するために, 自分連の坊主 ‑i‑首長に な らって必要 とすえ 上うにな った ととの あらわれで ある。つ ま

b

古墳 が集団内部の 力関係 を反映 する もの として作 られる 上うにな ったので ある。後期 に入る と古 墳が従来の 「権力の象徴」の座 か らひ きず りおろされ,いわゆる 「基」 としての性格 女強 く持つ 上うin:な って くるOその結果 と して′」、形古墳 の築造 が一段 と盛んにな って くるQ

御津町 内には,草生 ,中泉,大谷 ,九谷 ,野 々口,着席

,

西原,新庄,上伊E日,寺部 ,軸部 など ほほ全域 にわた って分布 しているo現在戎 されている中で石部の一番大 きなの壮野 々口の うじ夜 古墳で あるo草生の平野古墳 吐明治の終 りとろ発凋 され ,金* ,直刀,玉類 ,祝部土器 (素焼 き で大‑ん堅 い焼 きで当時の生活用晶で もあり祭器 に も使用 された )等 が出たが敬遠 されて しま たo平野苗項 は草生 としては址 も上い場所で山淀の′j、高 い所にあ9,御坪町 では ま とま った唯一 の古項で あるo御搾町周辺の古墳紘時代 が下 って,蛮族の勢力が弟 ま9,小形古墳が大公 に築造 された,六 〜七世紀頃の もので ある とい う事は内容 に祝部土器 を持 っている ことか ら も推察 され る

新庄八 ツ項 は御津町附近では珍 しいo規模は/」\さレ.がLi了J方後 門項で ある。その出土品のqJに象 形竹輪 が あったが,それがI最近砂鉄 女 とるときに使用 した 「たた ら」のふい ごで ある ことがわか

った○同時 に雨乞に使用 された孔の あるつぼ も出ている

5 条 里 制

条里制についての起源はは っきbLないが,条里制 とは,おおむね郡 ととに,土地 を六町 (約 ろ54メー トル )niLJ隔て縦

把区切 b,六町 間隔の列 を条,六町 四方の一区画 を里 と上び,一里 は さらに‑町間隔で縦横 惰区切 って合計56の坪 とし,何圃何郡何条何里伺坪 と上ぶ ことに 上っ て ・地点の指示 女明確 に し,かつ耕地の形 を ととのえ,その面積 女一定 忙 し上うとする壮大を地 割法で あるo条里制 は,律令国家の土地制度の基本で ある班 田収投の法に とって,必要 な前提 で あったO‑つには,班 田法 も耕地削換制度の一種 で ある以上,地殻に規格 を必要 としたか らで あ ったが,それ 上bももっと大切な ことは,班 田収投の さいの原帝 と左る田海 に,‑A‑^の 田の 所在 と面積 とを明確 に記蹴 しなければな らをか ったためで ある。 もし条里制 がなか ったな らば, 田港の記載 は非常 にめん ど うを もの とな 9, あるいは班 日収投 も定期的 に行 なわれなか ったか も 知れをい。御津町 に も,字甘東に現在残 ってい る ところの四 「田,十五 田,八十田,三町 田の地

‑ 77

名は当時の逝横 と思われる。

第2節 中世 の金 川 と御 津町 1. 松 田氏 と金川

(1)金川の地名の由来

金川の地名について払 古来V,ろいるにいわれている。 日本地名辞典に 上ると

,

「国誌 (価 限国

鼓 )

に省 いて あるが金川紘川筋が二つ左右 に托れる故にカ

川 と名附けたのれ 一説に旧 慣主松田氏が相州か ら来て彼の国の金川七 曲大明神を氏神 としたので七 曲大明神 無動純 し,地 名 も金川 と云 ったO」 とあるoそれについて杜,延宝五(1877)年に解かれた七 曲振起 に も

,

「此松田の氏神壮元来相州金

に鈍 重まします七 曲の神社なれば とて,此地忙遜座 し

拳b

きoそれ

bして此地 車 も金川の正 と改め名づけ神社 か も七 曲大明神 と号 し奉れ

D

。又松田の 氏神三桂の御神 にて,尾張

にまします七曲神社同体在 るが

に,当社を七曲神社 と申奉 ると

も云へ bo又当地 を金川 と名付 くる疎 も,左右に川をかねたれば,かね川 と云ひしを りo」 と あるところから も,また尾田長政 が邑久郡福岡に居たので洗前

5

2万石の藩主にTZった とき,班 下町に福岡 とい う名をつけた と伝えられてV,るの と同 じく,松 田氏が故郷の氏神 と地名 を持 っ て きた もの と思われる0

2.松田氏 と日蓮宗

片や武備 を厳に し,片や妙法を唱え西備前一帯 日蓮宗 に殆ん ど変 って しまったo松田氏は外譲 (日蓮采 女護 る大檀那 )の武将 と自ら居じて祭政一致を徹底 したので あるが, これが備前慈華の 起 きた由来で あるo御幹町 を紘 じめ として, この他域に とって もっとも特異性があるの姓 日蓮宗 盾者が多い ことで ある。特 に不受不施脈 (祖山 )妙党寺 ,不受不施研門派の鹿瀬の本山本党寺の 二派が隣 9合せにあることは,身近な歴史 として興味 ある問題で ある○室町時代か ら江戸時代に 至 るまで,備前法華忙安芸門徒 (一向宗 )と併び称せ られる程盛んで あ9,多 くの名僧 幹男覧出 し た原因は今か ら6 0D年前.時の備前守連取松田氏の帰依 には じまる○ もともととの地 には天台, 夷官宗 が多か ったが,備前に大兄大僧正の布教 が行 なわれて以来,松田氏の保凄 とともに息に広 まったO道林寺縁起 (寛政 12年等稚 )に 上ると 「康永元(1542)年 松 田元喬が伊細部の富山 城 に居た頃,綿島村の禅林寺 に大党大僧正 とい う佃が異教 が 昌えているとい うので元喬は城内

呼寄せ真言宗の僧侶 と対論 させた。来宮宗の佃はた ちまち法論 に放れた。元 喬壮初 めて 日蓮宗 の 教義に感 じて帰依するとととなって,父の元周 と一緒に蓮呂寺 升榎の馬場 (岡山市内LU下)に辿 てた」 とある。大

鹿

に帰依 した とい う松 田元

私v

Eついては,確突な史料にその名がみえないので は っきDした増 払不明で あるが,南北朝の とろ松 田氏の一族 に備前守凄 となった榎 田十郎盛軌

‑ 78‑

同 居重 らの∧ 々も参D,松 田一族 が この ころ備前地方 において!・i最 も有力を豪族武士 で あった こと は確か で ある。大党 が京都 に帰 った あとも日蓮宗の布教 は大党の高弟 日

に 上って,引 き続 き着 実に行なわれた。 しか し傭前 にかH る法華宗発展の主流は室町期 に入 ってか ら も依然 として妙党 等 門流で

あb

,殊 に室町 中期か ら敵組期 にかHて壮松 田氏の保護 の もとに,その極盛期 か迎 えた ので ある。妙党寺門旅は この松 EE)氏 無策門の保護者 として持 ち, この間に松 田一族 か らその被官 屑 さらに一般庶民層 ‑ と,い よい よ力強 くその教練 を伸ば してい ったので ある○ この 上うに して 松 田氏 女開基 とす る日蓮宗 の寺院 が この頃つ ぎつ ぎと建て られたo

松田氏の不拠金Jrの城下 仰土,五代元方が道林寺 かたて,八代元成が妙園寺 を創姓 (妙

等‑ ・ ‑ ・

不受

施派 が兼止 となるまで側161J牌 の中心寺院で あって蓮昌寺 ,妙啓寺 ,道林寺 と共 に松 田勢 力の大本LIJの‑つで あった。手首 多氏 に 上る落城の とき灰盛 榊 帝し,江戸抑

に見谷 に再建 され

デ て・j'た。寛文6年 に比廃寺 と怒 って多 くの末寺 と共に姿 を消 して しまった○ )した〇六代元適は 辛川に現妙寺 女建 て,七代元隆 (堤 )は砕島の福林寺 軒妙拳寺 と改称 した○ これ らの寺院は ,そ れぞれ又多 くの末寺 衆持 ち場 前法華 信徒の聖地 として栄 えた○そ して松 田氏がその武力 と政治権 力 を背

に領地の他家寺院 7lT・日蓮宗 に盛んに改宗 させたの もこの頃で ある○ この間の事情は後世 の汽科でktあるが 「備前軍記」の中に 「松 田近年 日蓮宗 を甚 だ以 って 信仰 してわが領 内の寺 々女 その寮に改め させ, したがわ ざる寺を焼 きは らいH るo金山観音寺,吉僻 宮 な ど放 火せ Lは こ の時 をb。金川城 中に も日運宗の道場 を建立 し」 と記 してい る○又 「和気絹」に も

,

「代 々不受 不施 日蓮宗 にて,領内の僧俗うちにお して他宗 女改めささ,違背に及ぶ ものは追払 ,或は寺社共焼払 ふO‑官金LU諌始め悉 く焼失o」 とある ところか ら も,松 田氏がいかに熱狂的 に 日蓮舞 を保護 し, 又熱心友厚者で あった ことの一 面がわか る○室町 中期か ら救国時代 にかけての岡Ll.L県下 にかH る 法華宗の発展は松田氏 らの強い保藩政

に助け られて,著 しくその教練 女伸ば し,人 々の間 に法 華 官仰 女深 く栂 えつけてい ったので ある。 この ことが中世末か ら近世初期 にかHて,県下か ら次 々に 日遵案の高僧 が雅 出 し,京都の各本山, さらに東国 の 日蓮窮 の大寺の住持 をる ものが多 く, さながら当時の 日蓮宗の宗勢 は県下 出身のイ削呂た ちVC上って推進 された観 を生 じた ことで ある

例 えば, 日現, 日兆, 日典 (備前金

に近い野 々口村で生 まれたo家は代 々松 田氏に仕 えた大村 洩石 工門の兄 とい う・‑ ・・・・大党 ), 日箱 を どが輩 出 した○ この 上うな名僧知識の頚 出は何 を意味 す るので あろ うかo例 えば,松 田氏の ことき上か らの 日連宗保襲政策の政治的結果 とれ あるV, 紘, この時期の全 く偶 然の現象 で ある との説明では説 き碍 なVlo大東以来 多 くの 日蓮 宗イ馴呂た ち の棟強 く.絶 え間のない 日麺声 教義の 伝道 がひろ く人 々の 中に沈潜 し,また との教義 計受け止 め た無名の民衆がその教 え女自分 自身の こととして消化 し,生 きる心の支柱 とな しえ尤時は じめて この 上うに多数の名僧 た ちのぜ 出可能 で あった とい って 上いで あろ うo串実妙党寺 日兆 (松 田氏

‑ 79

関連したドキュメント