『万葉集』巻一五・三六八八番歌に見える「遠の朝 廷」について
著者 藤原 享和
雑誌名 同志社国文学
号 73
ページ 1‑14
発行年 2010‑12‑20
権利 同志社大学国文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012539
『 万 葉 集
﹄ 巻 一 五
・ 三 六 八 八 番 歌 に 見 え る ﹁ 遠 の 朝 廷
﹂ に つ い て 藤
原 享 和
一︑ はじ めに
『万 葉集
﹄巻 一五 は遣 新羅 使︵ 第一 八回 遣新 羅使①
︶一 行の 一四 五 首の 歌群 を記 載す る︒ 本稿 では
︑そ の中 の三 六八 八番 歌︵ 以下
﹁本 歌﹂ と言 う︶ に詠 ま れた
﹁遠 の朝 廷︻ 等保 能朝 庭︼
﹂と いう 語の 意味 とそ の使 用意 識を
︑
﹃万 葉集
﹄の 他の 歌や 遣新 羅使 人の 立場
︑当 時の 日本 と新 羅の 関係 等︑ 歴史 的背 景か ら明 らか にし たい
︒︵
︻
︼内 は原 表記
︒以 下 同じ
︒︶ まず
︑題 詞を 含め て当 該歌 を記 す︒ 壱岐 島
ゆき のし
にま
至り て︑ 雪連 宅満
ゆき のむ らじ やか まろ
が忽たちま ちに 鬼き 病びやう に遇あ ひて 死去 せ し時 に作 る歌 一首
并あは
せて 短歌
天すめ
皇ろき
の 遠とほ の朝 廷
み か
とど
︻等 保能 朝庭 等】 韓から 国くに
に 渡る 我わ が背せ
は 家いへ 人びと の 斎いは
ひ待 たね か 正身
た だ
かみ
も 過あやま ちし けむ
秋さ ら ば 帰かへ りま さむ と たら ちね の 母に 申まう して
時も 過ぎ 月も 経ぬ れば 今け 日ふ か来こ む 明あ 日す かも 来こ むと
家人 は 待ち 恋こ ふら むに 遠とほ の国くに
いま だも 着か ず 大和
や ま
をと
も 遠く 離さか りて 岩いは
が 根ね の 荒き 島根 に 宿やど
りす る君 この 遣新 羅使 人に つい ては
﹃続 日本 紀﹄ に︑ 二月
︵中 略︶ 戊寅
︑従 五位 下阿あ 倍へ 朝臣 継つぎ 麻ま 呂ろ を遣けん 新羅
し ら
大きたい
使し と す︒
(天 平八
︵七 三六
︶年 二月 二八 日条 ) 四月 丙寅
︑遣けん
新羅
し ら
使きし
阿あ 倍へ 朝臣 継つぎ 麻ま 呂ろ ら拝 朝
みか どを がみ
す︒ (天 平八
︵七 三六
︶年 四月 一七 日条 ) 正月
︵中 略︶ 辛丑
︑遣けん
新羅
し ら
使きし
大だい 判はん
官ぐわん
従六 位上 壬み 生ぶ 使主 宇う 太だ 麻ま 呂ろ
︑少せう 判はん 官ぐわん 正七 位上 大おほ
蔵くら
忌寸 麻ま 呂ろ ら京みやこ
に入い る︒ 大たい 使し 従五 位 下阿あ 倍へ 朝臣 継つぎ 麻ま 呂ろ
︑津つ 嶋しま
に泊とま りて 卒しゆつ
しぬ
︒副ふく 使し 従六 位下 大おほ
伴とも
『万 葉集
﹄巻 一五
・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷
﹂に つい て
一
宿Õ 三み 中なか
︑病やまひ
に染そ みて 京みやこ
に入い るこ と得え ず︒ (天 平九
︵七 三七
︶年 正月 二六 日条 ) と見 え︑ 天平 八︵ 七三 六︶ 年二 月に 阿倍 継麻 呂が 遣新 羅大 使に 任じ られ
︑同 年四 月拝 朝︑ 翌天 平九
︵七 三七
︶年 正月 に帰 朝し たが
︑大 使の 阿倍 継麻 呂は 津嶋 で死 亡︑ 副使 大伴 三中 は病 気で 京に 入れ なか った こと がわ かる
︒ 天平 八︵ 七三 六︶ 年発 遣︑ 翌年 正月 帰朝 の遣 新羅 使一 行中 の雪 連 宅満 が往 路②
の壱 岐島 で﹁ 鬼病
﹂に 罹り 死亡 した 時に 作ら れた 歌と い うこ とで ある ので
︑作 歌年 代は 天平 八年
︑作 歌場 所は 新羅 への 往路 の壱 岐島 とい うこ とに なる
︒作 者は 同行 中の 一人 であ ろう とい うこ と以 外に 情報 はな く︑ 特定 は難 しい③
︒ 二︑ 先行 研究
︵注 釈史
︶ 本歌 に見 える
﹁遠 の朝 廷﹂ の注 釈史 は以 下の とお り︒ 概ね 一八 世紀 まで は︑
﹁新 羅は 我か 国に した かひ 奉れ るか ら国 な れは
︑遠 のみ かと ゝよ める 也︒
﹂︵ 下河 辺長 流﹃ 万葉 集管 見﹄
︶の よ うに 八世 紀前 半の 新羅 を日 本に 従属 する もの と捉 えて 解釈 する
①説
︵ほ かに 北村 季吟
﹃万 葉拾 穂抄
﹄︑ 荷田 春満
﹃万 葉集 童蒙 抄﹄
︑橘 千 蔭﹃ 万葉 集略 解﹄ 等︶
︑幕 末か ら一 九七
〇年 頃ま では
︑﹁ 何方 にて も︑ 朝政 を執リ
行ふ 処を いふ 事に て︑ 此は 新羅ノ
国に て︑ 天皇 の大 政執 行ひ
し処 をい ふ︑ いは ゆる 日本 府と 云る もの これ なり
﹂︵ 鹿持 雅澄
﹃万 葉集 古義
﹄︶ のよ うに 任那 日本 府の こと とし て解 釈す る② 説︵ ほか に武 田祐 吉﹃ 増訂 万葉 集全 註釈
﹄等
︶︑
﹁遠 国に ある 政庁 なり
︒古 義 に﹃ いは ゆる 日本 府と 云る もの 是な り﹄ とい へれ ど任 那に あり し日 本府 はは やく
︵欽 明天 皇の 御代 か︶ 廃せ られ て此 時代 には 存在 ぜ(ママ
ず)
︒ 然も トホ ノミ カド とい へる は昔 より 唱へ 来れ るに 従へ るな り︒
﹂︵ 井 上通 泰﹃ 万葉 集新 考﹄
︶の よう に任 那日 本府 が存 在し た時 の名 残と して 解釈 する
③説
︵ほ かに 鴻巣 盛廣
﹃万 葉集 全釈
﹄︑ 今井 邦子
﹃万 葉集 総釈
﹄︑ 窪田 空穂
﹃万 葉集 評釈
﹄︑ 佐佐 木信 綱﹃ 評釈 万葉 集﹄
︑ 土屋 文明
﹃万 葉集 私注
﹄︑ 小島 憲之
﹃日 本古 典文 学大 系﹄
︑澤 瀉久 孝
﹃万 葉集 注釈
﹄︑ 青木 生子
﹃新 潮日 本古 典集 成﹄ 等︶
︑一 九七
〇年 代 半ば 以降 は﹁ 都か ら遠 く離 れた 天皇 の行 政官 庁︑ また はそ こに 派遣 され る官 人を いう
︒こ こは 後者
︒﹂
︵小 島憲 之・ 木下 正俊
・佐 竹昭 広
﹃日 本古 典文 学全 集﹄
︶の よう に都 から 遠く 離れ た天 皇の 行政 官庁 に 派遣 され る官 人の こと とし て解 釈す る④ 説︵ ほか に吉 井巖
﹃万 葉集 全注
﹄︑ 佐竹 昭広 他﹃ 新日 本古 典文 学大 系﹄
︑伊 藤博
﹃万 葉集 釈注
﹄ 等︶
︑﹁ 一方 的に 韓国 を支 配国 と考 えて いた 表現
︒こ の度 の外 交は 当 地で 失敗 した とい われ
︑こ こに も原 因が ある か︒
﹂︵ 中西 進﹃ 万葉 集 全訳 注原 文付
﹄︶ とし て新 羅が 日本 の支 配下 にあ ると いう 意識 での 外交 姿勢 の現 れと 見る
⑤説
︵ほ かに 多田 一臣
﹃万 葉集 全解
﹄等
︶︑ とい
『万 葉集
﹄巻 一五
・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷
﹂に つい て
二
うよ うに 明ら かに 時代 とと もに 学説 がほ ぼ一 斉に 変化 して きて いる
︒ 三︑ 先行 研究 の検 討 まず
︑① 説で ある が︑
﹃令 集解
巻三 一﹄
﹁公 式令
﹂に
﹁隣 国者 大 唐︒ 蕃国 者新 羅也
︒﹂ と見 える よう に︑ 日本 に新 羅を 下に 見る 意識 は存 在し
︑そ れは ある 時期 の国 際関 係を 反映 した もの であ った にせ よ︑ 本歌 が詠 まれ た時 期は 既に 所謂 白村 江敗 戦︵ 六六 三年
︶か ら七
〇年 以上 経て おり
︑新 羅が 日本 の従 属国 であ ると いう 実情 はあ り得 ない
︒白 村江 敗戦 は﹃ 日本 書紀
﹄に も︑ 大唐
もろ こし
の軍 将
いく さの きみ
︑戦いくさ
船ぶね 一百 七十 艘さう を率ゐ て︑ 白はく
村すき
江のえ
に陣 烈
つら
れな
り︒ 戊ぼ 申しん
に︑ 日本
や ま
のと
船師
ふな いく
のさ
初ま づ至いた れる 者もの
と大 唐の 船師 と合あひ 戦たたか
ふ︒ 日本
︑不 利ま けて 退しりぞ
く︒ 大唐
︑陣つら を堅かた
めて 守まも
る︒
︵中 略︶ 進すす みて 大唐 の堅 陣之 軍
つら かた むる いく
をさ
打う つ︒ 大唐
︑便すなは
ち左ひだり 右みぎ より 船ふね
を夾はさ みて 繞かく み戦 ふ︒ 須臾 之際
と き の ま
に︑ 官軍 敗績
み い く さ や
れぶ
ぬ︒ (天 智二
︵六 六三
︶年 八月 一七
︑二 七︑ 二八 日条 ) とい う記 述が あり
︑養 老五
︵七 二一
︶年 に既 に日 本紀 講筵 が行 われ てい るこ とを 考え ても 七三 六年 段階 では 周知 のこ とで あっ たと 思わ れる
︒従 って
︵前 近代 の説 とし て研 究史 的価 値は ある にせ よ︶
①説 は大 いに 疑問 であ る︒ 次に
②説 につ いて
︒
任那 日本 府の 存在 や性 格を めぐ って は一 九七
〇年 代半 ば以 降大 き な学 説の 展開 があ り︑ 近年 では 朝鮮 半島 統治 のた めの 日本 の出 先機 関と する 考え 方は ほぼ 否定 され てい る︵ 後述
︶が
︑幕 末の 鹿持 雅澄 や一 九五
〇年 代初 頭の 武田 祐吉 が本 歌の
﹁遠 の朝 廷﹂ を任 那日 本府 乃至 日本 の使 庁と して 解釈 した のは 歴史 学の 発展 段階 を考 慮す ると やむ を得 ぬ事 と言 えよ う︒ 事実
︑﹃ 日本 書紀
﹄に は︑
@︵ 雄略 天皇 が︶ 田た 狭さ を 拝ことよさ して
︑任 那
みま なの
国くにの
司
みこ とも
にち
した まふ
︒ (雄 略七
︵四 六三
︶年 是歳 条) B︵ 新羅 王が
︶﹁ 高麗 王︑ 我わ が国 を征 伐う つ︒
︵中 略︶ 伏ふ して 救すくひ
を日 本 府
やま との みこ とも
のち
行軍
いく さの
元き 帥み 等たち
に請こ ひま つる
﹂と いふ
︒ (雄 略八
︵四 六四
︶年 二月 条) C安あ 羅ら の次し 旱かん 岐き 夷い 吞とん 奚けい
︵中 略︶
︑子こ 他た の旱 岐等ら と︑ 任那
み ま
のな
日 本 府
やま との みこ とも
吉ち
備臣
きび の おみ
と︵ 中略
︶百 済
く だ
にら
往赴ゆ きて
︑俱とも に 詔 書
みこ との りの ふみ
を 聴
うけ たま
るは
︒
(欽 明二
︵五 四一
︶年 四月 条) 等の 記事
︵B は﹁ 日本 府﹂ の︑ Cは
﹁任 那日 本府
﹂の 初見 記事
︶が 見え
︑﹁ 遠の 朝廷
﹂を それ に当 てる のは 当時 の歴 史学 の水 準を 考え れば 素直 な解 釈か と思 う︒
『新 唐書
﹄巻 二二
〇列 伝第 一四 五﹁ 東夷
﹂に
﹁︵ 咸亨 元︵ 六七
〇︶ 年の 日本 から の使 者が
︶︻ 悪倭 名︑ 更号 日本
︒使 者自 言︑ 国近 日所 出︑ 以為 名④
︒︼
﹂と 見え
︑唐 に赴 いた 使者 が﹁ 倭﹂ に代 えて
﹁日 本﹂
『万 葉集
﹄巻 一五
・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷
﹂に つい て
三
と称 した こと や︑
﹃大 宝令
﹄︵ 大宝 元︵ 七〇 一︶ 年施 行︶ の注 釈書 で ある
﹁古 記﹂
︵﹃ 令集 解﹄ 所引
︶に
﹁︻ 御宇 日本 天皇 詔旨
︒対 隣国 及 蕃国 而詔 之辞⑤
︼﹂ と︑ 対外 的に 用い る国 号と して
﹁日 本﹂ が明 記さ れて いる こと 等か ら︑ 倭が 国名 を﹁ 日本
﹂と 称す るよ うに なっ たの は七 世紀 後半 とい うの が通 説的 見解 であ り︑
﹁日 本府
﹂と いう 呼称 は前 記B
︑C の時 期に はあ り得 ず︑
﹁﹃ 任那 宮家
﹄と ある のが 古称 で あろ う⑥
﹂ しか し︑ 当時 の名 称は 別と して
﹁日 本府
﹂と
﹃日 本書 紀﹄ に記 さ れた 我が 国の 使庁 が朝 鮮半 島に 存在 した 時期 が仮 にあ った とし ても
︑ 同じ
﹃日 本書 紀﹄ が欽 明二 三︵ 五六 二︶ 年正 月条
︵つ まり 本歌 が詠 ま れる 一七 四年 前︶ に︑ 次の とお り﹁ 任那 の官 家﹂ 滅亡 を記 して いる
︒ 二十 三年 の春 正月 に︑ 新羅
︑任 那
み ま
のな
官家
み や
をけ
打う ち滅ほろぼ しつ⑦
︒
①説 の検 討の 中で も述 べた
﹃日 本書 紀﹄ の受 容環 境の 下で この 記 事を 認識 して いる 遣新 羅使 一行 の官 人が
︑本 歌の
﹁天 皇の
遠の 朝 廷と
韓国 に 渡る 我が 背は
﹂と いう 表現 で﹁ 天皇 陛下 の遠 方の 政 庁と して
︑新 羅の 国に 渡る わが 友は
﹂︵ 武田 祐吉
前掲 書十 一 一 一〇 頁︶ と︵ 理念 とし てで はな く︶ 実質 を伴 って 歌う こと は考 えに くい 次 ︒ に③ 説に つい て︒
③説 は①
︑② 説と 違い
︑本 歌が 詠わ れた 当時
﹁任 那日 本府
﹂が 既
に存 在せ ず︑ 朝鮮 半島 が日 本の 属国 的立 場で もな いと いう こと を踏 まえ た上 で︑
﹁昔 より 唱へ 来れ るに 従へ るな り﹂
︵井 上通 泰︶
︑﹁ 古い 習慣 によ つて 云つ てゐ るも の﹂
︵窪 田空 穂︶
︑﹁ 任那 に日 本府 があ っ たこ ろの 名残 か﹂
︵小 島憲 之︶ 等と 解釈 して いる
︒し かし
︑別 表の とお り︑
﹃万 葉集
﹄中 に見 える
﹁遠 の朝 廷﹂ の用 例の うち
︑作 歌年 代の 明ら かな もの は七 首で
︑上 限が 神亀 五︵ 七二 八︶ 年︑ 下限 が天 平勝 宝七
︵七 五五
︶年 であ る︒ 作歌 年代 の不 明な もの は一 首の み
︵巻 三・ 三〇 四番 歌︶ であ るが
︑作 者は 柿本 人麻 呂で ある こと から 持統
・文 武朝
︑す なわ ち七 世紀 末~ 八世 紀初 頭頃 の歌 と考 えら れる
︒ 先述 のと おり 所謂
﹁任 那日 本府
﹂は
︑往 古仮 に存 在し たと して も六 世紀 中葉 に滅 亡し てお り︑ 七世 紀中 葉に は白 村江 敗戦 を経 てい るの であ るか ら︑
﹃万 葉集
﹄に
﹁遠 の朝 廷﹂ とい う言 葉が 現れ るの は朝 鮮半 島へ の影 響力 が衰 退し た後 と言 うこ とに なり
︑﹁ 昔よ り唱 へ来 れる
﹂︑
﹁古 い習 慣に よつ て云 つて ゐる
﹂︑
﹁任 那に 日本 府が あっ たこ ろの 名残 か﹂ 等と いう 説は 実証 が困 難と なる
︒
④説 の﹁ 都か ら遠 く離 れた 天皇 の行 政官 庁に 派遣 され る官 人﹂ と いう 考え 方は 一九 七〇 年代 半ば 以降 最も 広く 行わ れて いる
︒ 一九 六三 年︑ 北朝 鮮の 歴史 学者 金錫 亨は
﹁三 韓︑ 三国 時代 の日 本 列島 内の 分国 につ いて
﹂と いう 論文⑧
の中 で︑
﹁﹃ 倭﹄ とと もに
﹃百 済﹄
﹃新 羅﹄
﹃加 羅﹄
﹃秦 韓﹄
﹃馬 韓﹄
︵慕 韓︶ など の地 方が
︑日 本列
『万 葉集
﹄巻 一五
・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷
﹂に つい て
四
別表『万葉集』「とほのみかど」用例一覧 例番号 巻歌番号歌(【】内は原表記) 「とほのみかど」直前の表現 「とほのみかど」の指すもの 歌人詠歌場所作歌年代
@C304 柿本朝臣人麻呂が筑紫国に下る時に、海路にして作る歌二首(303番歌略)大君の遠の朝廷と【遠乃朝庭跡】あり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ 大王之大宰府柿本人麻呂 筑前国に下る海路 687〜707年(持統・文武朝) BF794 日本挽歌一首大君の遠の朝廷と【等保乃朝庭等】しらぬひ筑紫の国に泣く子なす慕ひ来まして息だにもいまだ休めず年月もいまだあらねば心ゆも思はぬ間に(後略) 大王能大宰府 山上憶良(筑前守) 筑前728(神亀F)年
CG973 天皇、酒を節度使のh等に賜ふ御歌一首食す国の遠の朝廷に【遠乃御朝庭尓】汝等がかく罷りなば平けく我は遊ばむ手抱きて我はいまさむ天皇朕珍の御手もちかき撫でそねぎたまふ(後略) 食国 東海道東山道山陰道西海道 聖武天皇平城宮732(天平H)年 H153668 筑前国志麻郡の韓亭に至り、船泊まりして三日を経ぬ。(中略)各心緒を陳べ、聊かに裁る歌六首大君の遠の朝廷と【等保能美可度登】思へれど日長くしあれば恋ひにけるかも 於保伎美能(本稿で検討) 阿倍継麻呂(遣新羅大使) 筑前国志麻郡韓亭 736(天平I)年
F153688 壱岐島に至りて、雪連宅満が忽ちに鬼病に遇ひて死去せし時に作る歌一首天皇の遠の朝廷と【等保能朝庭等】韓国に渡る我が背は家人の斎ひ待たねか正身かも過ちしけむ(後略) 須売呂伎能(本稿で検討) 不明(遣新羅副使大伴三中説あり) 壱岐嶋736(天平I)年 G174011 放逸せる鷹を思ひ、夢に見て感悦して作る歌一首大君の遠の朝廷そ【等保能美可度曾】み雪降る越と名に負へる天離る鄙にしあれば山高み川とほしろし野を広み草こそ繁き(後略) 大王乃越中の政庁 大伴家持(越中守) 越中747(天平19)年
J184113 庭中の花の作歌一首大君の遠の朝廷と【等保能美可等ゝ】任きたまふ官のまにまみ雪降る越に下り来あらたまの年の五年しきたへの手枕まかず紐解かず丸寝をすれば(後略) 於保支見能越中の政庁 大伴家持(越中守) 越中 749(天平感宝元)年 I204331 防人が悲別の心を追ひて痛み作る歌一首大君の遠の朝廷と【等保能朝廷等】しらぬひ筑紫の国は敵守るおさへの城そと聞こし食す四方の国には人さはに満ちてはあれど鶏が鳴く東男は(後略) 天皇乃大宰府 藤原宿奈麻呂(相模守) 相模 755(天平勝宝J)年
『万 葉集
﹄巻 一五
・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷
﹂に つい て
五
島内 に存 在し てい たと みる⑨
﹂︑
﹁三 韓以 来わ が三 国の
︑日 本列 島内 に おか れた 分国 の存 在⑩
﹂︑
﹁﹃ 日本 府﹄ は朝 鮮半 島に おい たも ので はな く︑ 日本 列島 内の 諸分 国に おか れた もの であ る⑪
﹂等 と述 べ︑ 従来 の 日本 の﹁ 任那 日本 府﹂ につ いて 考え 方を 根本 から 覆す 学説 を発 表し た︒ この 学説 が日 本で その まま 受け 容れ られ た訳 では ない が︑ これ をき っか けに
﹁任 那日 本府
﹂を めぐ って 日本 でも 活発 な論 議が 交わ され るよ うに なり
︑特 に一 九七 二年 の金 錫亨 来日
︵高 松塚 古墳 の総 合学 術調 査の ため
︶以 降︑ わが 国に おけ る﹁ 任那 日本 府﹂ の研 究が 急展 開を 見せ
︑倭 政権 の出 先機 関で ある とす る伝 統的 な学 説は ほぼ 否定 され
︑﹁ 任那 日本 府﹂ は機 関や 建物 では なく 派遣 され た官 人
︵外 交使 節団
︶を 言う とす る説 も有 力に なっ た︒ 国文 学研 究に おい ても この 学説 の流 れは 反映 され
︑一 九七 五年 発行 の﹃ 日本 古典 文学 全集
﹄︵ 小学 館︶ 以降 の多 くの 注釈 書が
﹁派 遣さ れる 官人
﹂説 を採 るに 至っ た︒ 私は
﹁任 那日 本府
﹂を めぐ る歴 史学 の進 展と 成果 を否 定す るも の では ない が︑ 歴史 学の 成果 を﹃ 万葉 集﹄ の表﹅ 現﹅ の﹅ 解﹅ 釈﹅ にに わか に結 びつ ける こと には 慎重 にな りた い︒ 以下 のア
~ウ の理 由に よる
︒ ア︑ 歴史 学の 新し い見 解は
﹁日 本府
﹂を
﹁派 遣さ れた 官人
﹂と 捉 える ので あっ て︑
﹁遠 の朝 廷﹂ とい う﹃ 万葉 集﹄ 中の 歌の 表現 につ いて 言っ てい るの では ない
︒
イ︑ 仮に
﹁遠 の朝 廷
み か
﹂ど
が﹁ 派遣 され た官 人﹂ を指 すと する なら ば︑
﹁み かど
﹂に
﹁官 人﹂ の意 味が なく ては なら ない
︒
『万 葉集
﹄中 に﹁ みか ど﹂ と訓 読し うる 用例 は二 八例
︵﹁ とほ のみ かど
﹂は 除く
︶見 える が︑ やす みし し 我わ が大おほ
君きみ
高たか
照て らす 日ひ の皇み 子こ 荒あら たへ の 藤ふぢ
原はら が上うへ に 食を す国 を 見め した まは むと (中 略) 我わ が造 る 日 の御み 門かど
に︻ 日之 御門 尓】 知ら ぬ国
よし 巨こ 勢せ 道ぢ より 我わ が国 は 常とこ 世よ にな らむ
︵後 略)
(巻 一・ 五〇 番歌 ) のよ うに 天皇 の宮 殿を 指す もの⑫
︑ (前 略︶ 大和
や ま
のと
青あを
香か 具ぐ 山やま
は 日の 経たて
の 大おほ き御み 門かど に︻ 大御 門尓
】 春山 と しみ さび 立て り 畝傍
う ね
のび
この 瑞みづ
山やま は 日の 緯よこ の 大き 御門 に︻ 大御 門尓
】 瑞山 と 山さ びい ます 耳みみ 梨なし
の 青あを 菅すが 山やま は 背面
そ と
のも
大き 御門 に︻ 大御 門尓
】 宜よろ しな へ 神かむ さび 立て り 名ぐ はし き 吉よし 野の の山 は 影かげ 面とも の 大き 御門 ゆ
︻大 御門 従】 雲くも
居ゐ にそ
遠く あり ける
︵後 略︶ (巻 一・ 五二 番歌 ) のよ うに 宮殿 の門 を指 すも の⑬
︑ ひさ かた の 天あめ
見る ごと く 仰あふ ぎ見 し 皇子 の御み 門かど の︻ 皇子 乃御 門之
】 荒れ まく 惜を しも
(巻 二・ 一六 八番 歌) のよ うに 薨去 した 皇子 の宮 を指 すも の⑭
︑
『万 葉集
﹄巻 一五
・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷
﹂に つい て
六
万代
よろ づよ
に いま した まひ て 天あめ の下した
奏まう
した まは ね 朝廷
み か
去ど
ら ずて
︻美 加度 佐良 受弖
】
(巻 五・ 八七 九番 歌) のよ うに 朝廷 その もの を指 すも の⑮
が全 てで あり
︑﹁ 官人
﹂を 意味 す る例 はな い⑯
︒ ウ︑ 史料 の時 代は 下る が︑
﹃延 喜式
巻八
﹄﹁ 神祇 八 祝詞
﹂所 載 の﹁ 六月 晦大 祓﹂ 祝詞 の詞 章に
︑ (前 略︶ 官 官
つか さづ かさ
︻官 官︼ に仕つか へ奉まつ る人ひと
等ども
︻人 等︼ の︑ 過あやま
ち犯をか しけ む雑くさ 々ぐさ の罪つみ を︵ 後略
︶ と見 える
︒こ こで は﹁ 官 官
つか さづ かさ
︻官 官︼
﹂の
﹁人 等ども
︻人 等︼
﹂と 言っ て いる わけ で︑
﹁官
︵役 所︶
﹂と
﹁人 等︵ 人の 集団
︶﹂ が別 の概 念で あ るこ とは 自明 であ る︒ 従っ て︑
﹁遠 の朝 廷﹂ が﹁ 行政 官庁 に派 遣さ れる 官人
﹂を 指す と いう こと はあ り得 ない
︒ なお
︑本 遣新 羅使 人歌 群以 外に 見え る﹁ 遠の 朝廷
﹂を も﹁ 官人
﹂ と解 釈す る注 釈も 見受 けら れる
︒巻 一八
・四 一一 三番 歌の それ を
﹁越 中国 守の 任を
︑天 皇権 力の 代行 者と して いっ た﹂ と解 釈す る
﹃日 本古 典文 学全 集 万葉 集四
﹄︵ 小島 憲之
・木 下正 俊・ 佐竹 昭広 校 注︶ がそ の嚆 矢で ある が︑
﹁遠 の朝 廷﹂ 官人 説を とる のは
﹃万 葉集
﹄ 巻一 五~ 二〇 を扱 う同 全集 の中 の﹃ 万葉 集四
﹄の みで あり
︑同 全集
﹃万 葉集 一︑ 二﹄ では 注釈 対象 の全 ての 歌︵
﹃万 葉集
﹄巻 三・ 三〇 四
番歌
︑巻 五・ 七九 四番 歌︑ 巻六
・九 七三 番歌
︶の
﹁遠 の朝 廷﹂ につ いて 行政 官庁 説を とっ てい る︵ 同全 集﹃ 万葉 集三
﹄に は﹁ 遠の 朝 廷﹂ の語 句を 含む 歌は ない
︶︒ 同全 集﹃ 万葉 集一
︑二
﹄が 一九 七二 年以 前の 発行 であ るの に対 して 同全 集﹃ 万葉 集四
﹄の 発行 が一 九七 五年 であ るこ とは
︑先 に述 べた 歴史 学上 の新 論の 敏感 な反 映を 物語 る︒ 因み に近 年︵ 一九 九四
~一 九九 六年
︶新 しく 出版 され た﹃ 新編 日本 古典 文学 全集
﹄︵ 校注 者三 名中 二名 は﹃ 日本 古典 文学 全集
﹄と 同じ
︒佐 竹昭 広氏 のみ 東野 治之 氏に 交代
︒︶ では 巻二
〇・ 四三 三一 番歌 以外 の﹁ 遠の 朝廷
﹂を すべ て官 人説
︵巻 五・ 七九 四番 歌に つい ては 行政 官庁 説と 並記
︶で 説明 する に至 って いる
︒こ のほ かに も巻 一八
・四 一一 三番 歌の
﹁遠 の朝 廷﹂ を中 西進 は﹁ 遠方 の行 政機 関︒ 役所 も組 織も 含め てい う﹂
︵﹃ 万葉 集全 訳注
﹄︶
︑巻 二〇
・四 三三 一番 歌の それ を木 下正 俊は
﹁都 から 遠く 離れ た天 皇の 行政 官庁 とし ての 大宰 府や 各国 庁を いい
︑ま たそ こに 派遣 され 在勤 する 官人 をさ すこ とも ある
︒﹂
︵﹃ 万葉 集全 注﹄
︶と 説明 する など 官人 説は 行わ れて いる が︑ 残念 なが ら従 来の 解釈 を変 更し て官 人説 を採 用す る根 拠が 何れ も示 され てい ない
︒従 って 従来 の解 釈の 変更 が純 粋に
﹃万 葉集
﹄の 表現 の分 析か らな され たも のか 歴史 学の 成果 をと りい れた もの か︑ また それ らが 相俟 って なさ れた もの か断 定す るこ とは 出来 ない
︒た だ︑ 先述 のと おり
﹃万 葉集
﹄の 用例 を検 討す る限 り﹁ みか ど﹂ に﹁ 官
『万 葉集
﹄巻 一五
・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷
﹂に つい て
七
人﹂ の意 味を 認め るこ とに は結 論と して 慎重 にな らざ るを 得な い︒ 最後 に⑤ 説で ある が︑
﹁四
︑私 見﹂ でも 述べ ると おり
︑七 三八 年 とい う時 代︵ 統一 新羅 の時 代︶ に新 羅が 日本 の支 配下 にあ ると いう 意識 があ ると すれ ば︑ まさ に中 西進 説の とお り﹁ 一方 的に 韓国 を支 配国 と考 えて いた 表現
﹂︵ 前掲 書︶ であ り︑ それ に基 づく 外交 は極 東ア ジア の情 勢を 直視 しな いも ので ある とし か言 いよ うが ない ので あっ て︑ この 説は 現在 まで の学 説の 中で は最 も当 を得 たも ので ある よう に思 う︒ ただ
︑先 にも 述べ たと おり
︑白 村江 敗戦 の事 実が 遣新 羅使 人達 に知 られ てい なか った とは 考え にく く︑ 名実 共に
﹁韓 国を 支配 国と 考え てい た﹂ とは 言い 難い ので はな いか
︒ 支配 国と 考﹅ え﹅ て﹅ い﹅ た﹅ が﹅ 故﹅ の﹅ 表現 なの か︑ 支配 国と 考﹅ え﹅ よ﹅ う﹅ と﹅ す﹅ る﹅ が﹅ 故﹅ の﹅ 表現 なの かが 重要 なポ イン トで ある よう に思 う︒ 同説 をと る 多田 一臣 は前 掲書 G︵ 七三 頁︶ で︑
﹁一 方的 な認 識だ が︑ この 姿勢 で外 交交 渉に あた ろう とし た︒
﹂と いう 分析 を示 すが
︑﹁ この 姿勢
﹂ が国 際関 係の 認識 不足 から 来る もの なの か︑ 現状 を認 識し た上 で
﹁こ の姿 勢﹂ をと る必 要が あっ たの かが
﹃万 葉集
﹄の 表現 を考 える 上で は問 題で あろ う︒ 四︑ 私見
「三
︑先 行研 究の 検討
﹂で 見て きた とお り︑ 少な くと も本 歌が 詠
まれ た時 点で は新 羅は 実質 的に 日本 の従 属国 では ない し︑ その
︵実 態は 措く とし ても
︶﹁ 任那 日本 府﹂ 乃至
﹁都 から 遠く 離れ た天 皇の 行政 官庁
﹂も 朝鮮 半島 には 存在 しな い︒ 仮に
﹁任 那日 本府
﹂が 以前 に存 在し たと して も︑
﹁遠 の朝 廷﹂ とい う表 現は 柿本 人麻 呂以 前に 用例 を見 出せ ず⑰
︑昔 の名 残と して 詠ん だと いう のは 実証 が困 難で あ ろう
︒ま た︑
﹁み かど
﹂と いう 語で
﹁官 人﹂ のこ とを 表現 した と考 える には 無理 があ り︑ 実際 その よう な例 は﹃ 万葉 集﹄ 中に ない
︒ では
︑本 歌に おけ る﹁ 遠の 朝廷
﹂は どの よう な意 識で 何を 表現 し てい るの か︒ その こと を明 らか にす るた めに は︑ 本歌 が遣 新羅 使人 によ って 詠ま れた こと に立 ち返 り︑ 天平 八︵ 七三 六︶ 年発 遣の 第一 八回 遣新 羅使 の置 かれ た情 勢や
︑彼 らの 新羅 での 体験 を分 析し てみ る必 要が ある
︒日 本と 新羅 の歴 史的 関係 が語 句の 意味 や解 釈に その まま 繫が るも ので はな いが
︑こ とば は常 にニ ュー トラ ルな 辞書 的意 味の みを もつ もの では なく
︑使 用さ れる 状況 や背 景に よっ て様 々な 機能 を帯 びる もの との 認識 から であ る︒
『続 日本 紀﹄ に記 され た第 一八 回よ り前 の遣 新羅 使人 の帰 朝記 事 は︑ 遣けん 新羅
し ら
使きし
従五 位上 波は 多た 朝臣 広ひろ 足たり ら︑ 新羅 より 至いた る︒ (慶 雲元
︵七
〇四
︶年 八月 三日 条) 幡文
はた のあ
造や
通とほる ら新 羅
し ら
よき
り至 る︒
『万 葉集
﹄巻 一五
・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷
﹂に つい て
八
(慶 雲二
︵七
〇五
︶年 五月 二五 日条 ) のよ うに ほぼ 帰朝 の事 実の みを 記載 する のに 対し て︑ 第一 八回 遣新 羅使 の帰 朝記 事は 特異 であ る︒
@遣けん 新羅
し ら
使きし
大だい 判はん 官ぐわん
従六 位上 壬み 生ぶ 使主 宇う 太だ 麻ま 呂ろ
︑少せう
判はん 官ぐわん
正七 位上 大おほ 蔵くら 忌寸 麻ま 呂ろ ら京みやこ
に入い る︒ 大たい 使し 従五 位下 阿あ 倍へ 朝臣 継つぎ 麻ま 呂ろ
︑ 津つ 嶋しま
に泊とま りて 卒しゆつ
しぬ
︒副ふく 使し 従六 位下 大おほ
伴とも
宿Õ 三み 中なか
︑病やまひ
に染そ み て京みやこ に入い るこ と得え ず︒
(天 平九
︵七 三七
︶年 正月 二六 日条 ) B遣けん 新羅
し ら
使きし
副ふく 使し 正六 位上 大おほ 伴とも 宿Õ 三み 中なか
ら卅 人拝 朝
みか どを がみ
す︒
︵同 年三 月二 八日 条)
@に 見え るよ うに
︑大 使阿 倍継 麻呂 は帰 路に 対馬 で没 し︑ 副使 大 伴三 中も 病気 に罹 って 帰朝 後即 座に 天皇 に復 命で きな かっ たの であ る︒ Bに 見え るよ うに
︑副 使三 中ら の拝 朝は それ より 二ヶ 月後 のこ とに なる が︑ 大使 は亡 くな り︑ 副使 は病 で入 京で きな い中
︑極 めて 重要 な報 告が おそ らく 副使 に次 ぐ地 位で あっ た大 判官 壬生 宇太 麻呂 らに よっ てな され てい る︒ 副使 の恢 復を 待っ てい られ ない 緊急 事態 とい う判 断が あっ たも のと 思わ れる
︒﹃ 続日 本紀
﹄か らそ の記 事を 次に 示す 遣けん ︒ 新羅
し ら
使きし
奏そう すら く︑
﹁新 羅
し ら
国き
︑常つね の礼ゐや
を失うしな
ひて 使つかひ
の旨むね
を受う けず
﹂と まう す︒ 是ここ
に︑ 五位 已上 并あは せて 六位 已下 の官 人
くわ んに
︑ん
惣すべ て呼 五人 を内う 裏ち に召め して
︑意い 見けん を陳の べし む︒
︵天 平九
︵七 三七
︶年 二月 一五 日条 ) この 時の 遣新 羅使 に対 して 新羅 は﹁ 常の 礼を 失ひ て使 の旨 を受 け ず﹂
︑つ まり 遣新 羅使 とし て以 前の よう に扱 わな かっ たと いう こと であ る︒ 七日 後︑ これ に対 して 諸官 司か ら意 見が 出さ れる
︒ 諸しよ 司し
︑意い 見けん
の表へう
を奏まう
す︒ 或ある
は言まう さく
﹁使つかひ
を遣つかは
して その 由よし
を 問と はし む﹂ とま うし
︑或ある
は﹁ 兵いくさ を発おこ して 征せい 伐ばつ を加 へむ
﹂と ま うす
︒
(同 年同 月二 二日 条)
「新 羅に 詰問 せよ
﹂︑
﹁軍 事行 動に 出よ
﹂と いう 激し い意 見︑ 厳し い反 応で あっ た︒ 同年 四月 一日 条に は︑ 使つかひ
を伊い 勢せ 神じん 宮ぐう
︑大 神 社
おほ みわ のや しろ
︑筑つく 紫し の住すみ 吉のえ
・八や 幡はた の二 社と 香椎 宮
かし ひの みや
とに 遣つかは して
︑ 幣みてぐ
をら
奉たてまつ りて 新羅
し ら
のき
礼无
ゐ や
きな
状じやう
を告まう さし む︒ と見 える
︒
「新 羅と 渤海⑱
の関 係は
︑時 に対 立を みる こと があ り︑ また 渤海 が 唐と 対立 する こと によ って
︑唐 は新 羅と の関 係を 改善 した
︒そ の結 果︑ 良好 であ った 日本 と渤 海の 関係⑲
を牽 制し て︑ 新羅 が日 本へ の臣 従を 嫌う 様相 を見 せる こと が頻 繁に なっ てき た⑳
︒﹂ とい う歴 史学 か らの 分析 もあ ると おり
︑こ の時 期の 日本 と新 羅の 関係 はか なり 緊迫
『万 葉集
﹄巻 一五
・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷
﹂に つい て
九
した もの であ った よう であ る︒ 従来 どお り新 羅か らの 朝貢 形式 によ る外 交を 求め る日 本と
︑唐 と の関 係か ら対 日本 朝貢 外交 に否 定的 な新 羅と いう 状況 が生 じて いた ので ある
︒実 際︑
﹃続 日本 紀﹄ には 神亀 三︵ 七二 六︶ 年六 月五 日の
﹁新 羅使
しら きの つか
調ひ
物
みつ きも
をの
貢たてまつ る︒
﹂と いう 記事 から 天平 四︵ 七三 二︶ 年正 月 二二 日の
﹁新 羅使
しら きの つか
来ひま
朝う く﹂ とい う記 事ま での 五年 半新 羅朝 貢の 記 録は 見え ない
︒天 平四 年正 月に 来朝 した 新羅 使は 同年 五月 に朝 堂で 饗を 受け るが
︑そ の時 聖武 天皇 は﹁ 来ま 朝う くる 期かぎり
は︑ 許ゆる すに 三年 に 一度 を以もち てし たま ふ︒
﹂︵
﹃続 日本 紀﹄ 天平 四年 五月 二一 日条
︶と 三 年毎 の朝 貢を 命じ てい る︒ とこ ろが その 後天 平六
︵七 三四
︶年 に来 朝し た新 羅使 は次 に示 すと おり 同七 年二 月に 多治 比県 守に 対し て国 号を
﹁王 城国
﹂と 称し たた め帰 国さ せら れた
︒ 二月 癸卯
︑新 羅使
しら きの つか
金ひこむ
相さう 貞ちやう
︑京みやこ
に入い る︒ 癸丑
︑中ちう
納なふ 言ごん
正三 位多た 治ぢ 比ひ 真人 県あがた
守もり を兵ひやう
部ぶ の曹ざう 司し に遣つかは して
︑新 羅使
しら きの つか
のひ
入 朝
みか どま ゐり
せる 旨むね
を問と はし む︒ 而しか るに 新羅
し ら
国き
︑輙たやす
く本もと の号な を改あらた
めて 王わう 城じやう 国こく
と曰い ふ︒ 茲これ に因よ りて その 使つかひ
を返かへ
し却しりぞ く︒ (
﹃続 日本 紀﹄ 天平 七︵ 七三 五︶ 年二 月一 七︑ 二七 日条 )
「王 城﹂ は﹁ 天子 の都 城㉑
﹂の 意で あり
︑日 本に 対し て朝 貢す べき 属国 の名 称と して 不適 とさ れた ので あろ う︒ 新羅 の日 本に 対す る姿 勢の 変化 と日 本の 憤慨 が見 て取 れる
︒
そし てそ の翌 天平 八︵ 七三 六︶ 年に 発遣 され たの が本 歌を 詠ん だ 第一 八回 遣新 羅使 人な ので ある
︒新 羅を あく まで
﹁朝 貢国
﹂と して 位置 づけ たい 日本
︑し かし その 体制 から すで に事 実上 離れ てし まっ てい る新 羅︑ 前年 にや って きた 新羅 使は
﹁王 城国
﹂と 名乗 る始 末で ある
︒そ のよ うな 情勢 の中 で任 命さ れた 遣新 羅使 一行 は︑ 新羅 も日 本国 内の 天皇 の支 配の 及ぶ 遠方 の﹁ 遠の 朝廷
﹂と 同じ との 立場 を明 確に する 必要 があ った
︒
「遠 の朝 廷﹂ とい う言 葉は 別表 のと おり
﹃万 葉集
﹄中 に八 例見 え るが
︑本 歌の 属し てい る巻 一五 の﹁ 遣新 羅使 人歌 群﹂ の二 例︵ H︑ F︶ を除 けば
︑大 宰府
︵@
︑B
︑I
︶︑ 東海 道︑ 東山 道︑ 山陰 道︑ 西海 道︵ C︶
︑越 中の 政庁
︵G
︑J
︶を 指し てい る︒ まさ に﹁ 都か ら遠 方の 天皇 の行 政官 庁・ 支配 地﹂ であ る︒ また 同表
﹁﹃ とほ のみ かど
﹄直 前の 表現
﹂欄 に明 らか なよ うに
︑臣 下の 者が 詠ん だ歌 に見 える
﹁遠 の朝 廷﹂ には 必ず
﹁お ほき みの
﹂ま たは
﹁す めろ きの
﹂が
︵@
︑B
︑H
~I
︶︑ 天皇 が詠 んだ 歌に は﹁ をす くに の﹂ が︵ C︶ 冠 せら れる
︒﹁ 遠の 朝廷
﹂と いう 語句 は﹁ 都か ら遠 方の 天皇 の支 配地
﹂ とい う意 識の 明確 な表 現で ある と言 える
︒ 新羅 との 関係 が悪 化す る以 前に 用例 が見 えな い﹁ 遠の 朝廷
﹂と い う語 を︑ 白村 江敗 戦後
︑そ れも 新羅 が朝 貢を 忌避 する 傾向 が明 らか にな った 段階 で用 いる こと
︑そ れは 何を 意味 する か︒ 実態 が伴 わな
『万 葉集
﹄巻 一五
・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷
﹂に つい て
一〇