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『万葉集』巻一五・三六八八番歌に見える「遠の朝 廷」について

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『万葉集』巻一五・三六八八番歌に見える「遠の朝 廷」について

著者 藤原 享和

雑誌名 同志社国文学

号 73

ページ 1‑14

発行年 2010‑12‑20

権利 同志社大学国文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012539

(2)

『 万 葉 集

﹄ 巻 一 五

・ 三 六 八 八 番 歌 に 見 え る ﹁ 遠 の 朝 廷

﹂ に つ い て 藤

原 享 和

一︑ はじ めに

『万 葉集

﹄巻 一五 は遣 新羅 使︵ 第一 八回 遣新 羅使

︶一 行の 一四 五 首の 歌群 を記 載す る︒ 本稿 では

︑そ の中 の三 六八 八番 歌︵ 以下

﹁本 歌﹂ と言 う︶ に詠 ま れた

﹁遠 の朝 廷︻ 等保 能朝 庭︼

﹂と いう 語の 意味 とそ の使 用意 識を

﹃万 葉集

﹄の 他の 歌や 遣新 羅使 人の 立場

︑当 時の 日本 と新 羅の 関係 等︑ 歴史 的背 景か ら明 らか にし たい

︒︵

︼内 は原 表記

︒以 下 同じ

︒︶ まず

︑題 詞を 含め て当 該歌 を記 す︒ 壱岐 島

至り て︑ 雪連 宅満

が忽 ちに 鬼 に遇 ひて 死去 せ し時 に作 る歌 一首

の 遠 の朝 廷

︻等 保能 朝庭 等】 韓

に 渡る 我 が背

は 家 の 斎

ひ待 たね か 正身

も 過 ちし けむ

秋さ ら ば 帰 りま さむ と たら ちね の 母に 申 して

時も 過ぎ 月も 経ぬ れば 今 か来 む 明 かも 来 むと

家人 は 待ち 恋 ふら むに 遠 の国

いま だも 着か ず 大和

も 遠く 離 りて 岩

が 根 の 荒き 島根 に 宿

りす る君 この 遣新 羅使 人に つい ては

﹃続 日本 紀﹄ に︑ 二月

︵中 略︶ 戊寅

︑従 五位 下阿 朝臣 継 を遣 新羅

使 と す︒

(天 平八

︵七 三六

︶年 二月 二八 日条 ) 四月 丙寅

︑遣

新羅

使

朝臣 継 ら拝 朝

す︒ (天 平八

︵七 三六

︶年 四月 一七 日条 ) 正月

︵中 略︶ 辛丑

︑遣

新羅

使

従六 位上 壬 使主 宇

︑少 正七 位上 大

忌寸 麻 ら京

に入 る︒ 大 使 従五 位 下阿 朝臣 継

︑津

に泊 りて 卒

しぬ

︒副 使 従六 位下 大

『万 葉集

﹄巻 一五

・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷

﹂に つい て

(3)

宿Õ 三

︑病

に染 みて 京

に入 るこ と得 ず︒ (天 平九

︵七 三七

︶年 正月 二六 日条 ) と見 え︑ 天平 八︵ 七三 六︶ 年二 月に 阿倍 継麻 呂が 遣新 羅大 使に 任じ られ

︑同 年四 月拝 朝︑ 翌天 平九

︵七 三七

︶年 正月 に帰 朝し たが

︑大 使の 阿倍 継麻 呂は 津嶋 で死 亡︑ 副使 大伴 三中 は病 気で 京に 入れ なか った こと がわ かる

︒ 天平 八︵ 七三 六︶ 年発 遣︑ 翌年 正月 帰朝 の遣 新羅 使一 行中 の雪 連 宅満 が往 路

の壱 岐島 で﹁ 鬼病

﹂に 罹り 死亡 した 時に 作ら れた 歌と い うこ とで ある ので

︑作 歌年 代は 天平 八年

︑作 歌場 所は 新羅 への 往路 の壱 岐島 とい うこ とに なる

︒作 者は 同行 中の 一人 であ ろう とい うこ と以 外に 情報 はな く︑ 特定 は難 しい

︒ 二︑ 先行 研究

︵注 釈史

︶ 本歌 に見 える

﹁遠 の朝 廷﹂ の注 釈史 は以 下の とお り︒ 概ね 一八 世紀 まで は︑

﹁新 羅は 我か 国に した かひ 奉れ るか ら国 な れは

︑遠 のみ かと ゝよ める 也︒

﹂︵ 下河 辺長 流﹃ 万葉 集管 見﹄

︶の よ うに 八世 紀前 半の 新羅 を日 本に 従属 する もの と捉 えて 解釈 する

①説

︵ほ かに 北村 季吟

﹃万 葉拾 穂抄

﹄︑ 荷田 春満

﹃万 葉集 童蒙 抄﹄

︑橘 千 蔭﹃ 万葉 集略 解﹄ 等︶

︑幕 末か ら一 九七

〇年 頃ま では

︑﹁ 何方 にて も︑ 朝政 を執

行ふ 処を いふ 事に て︑ 此は 新羅

国に て︑ 天皇 の大 政執 行ひ

し処 をい ふ︑ いは ゆる 日本 府と 云る もの これ なり

﹂︵ 鹿持 雅澄

﹃万 葉集 古義

﹄︶ のよ うに 任那 日本 府の こと とし て解 釈す る② 説︵ ほか に武 田祐 吉﹃ 増訂 万葉 集全 註釈

﹄等

︶︑

﹁遠 国に ある 政庁 なり

︒古 義 に﹃ いは ゆる 日本 府と 云る もの 是な り﹄ とい へれ ど任 那に あり し日 本府 はは やく

︵欽 明天 皇の 御代 か︶ 廃せ られ て此 時代 には 存在 ぜ

︒ 然も トホ ノミ カド とい へる は昔 より 唱へ 来れ るに 従へ るな り︒

﹂︵ 井 上通 泰﹃ 万葉 集新 考﹄

︶の よう に任 那日 本府 が存 在し た時 の名 残と して 解釈 する

③説

︵ほ かに 鴻巣 盛廣

﹃万 葉集 全釈

﹄︑ 今井 邦子

﹃万 葉集 総釈

﹄︑ 窪田 空穂

﹃万 葉集 評釈

﹄︑ 佐佐 木信 綱﹃ 評釈 万葉 集﹄

︑ 土屋 文明

﹃万 葉集 私注

﹄︑ 小島 憲之

﹃日 本古 典文 学大 系﹄

︑澤 瀉久 孝

﹃万 葉集 注釈

﹄︑ 青木 生子

﹃新 潮日 本古 典集 成﹄ 等︶

︑一 九七

〇年 代 半ば 以降 は﹁ 都か ら遠 く離 れた 天皇 の行 政官 庁︑ また はそ こに 派遣 され る官 人を いう

︒こ こは 後者

︒﹂

︵小 島憲 之・ 木下 正俊

・佐 竹昭 広

﹃日 本古 典文 学全 集﹄

︶の よう に都 から 遠く 離れ た天 皇の 行政 官庁 に 派遣 され る官 人の こと とし て解 釈す る④ 説︵ ほか に吉 井巖

﹃万 葉集 全注

﹄︑ 佐竹 昭広 他﹃ 新日 本古 典文 学大 系﹄

︑伊 藤博

﹃万 葉集 釈注

﹄ 等︶

︑﹁ 一方 的に 韓国 を支 配国 と考 えて いた 表現

︒こ の度 の外 交は 当 地で 失敗 した とい われ

︑こ こに も原 因が ある か︒

﹂︵ 中西 進﹃ 万葉 集 全訳 注原 文付

﹄︶ とし て新 羅が 日本 の支 配下 にあ ると いう 意識 での 外交 姿勢 の現 れと 見る

⑤説

︵ほ かに 多田 一臣

﹃万 葉集 全解

﹄等

︶︑ とい

『万 葉集

﹄巻 一五

・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷

﹂に つい て

(4)

うよ うに 明ら かに 時代 とと もに 学説 がほ ぼ一 斉に 変化 して きて いる

︒ 三︑ 先行 研究 の検 討 まず

︑① 説で ある が︑

﹃令 集解

巻三 一﹄

﹁公 式令

﹂に

﹁隣 国者 大 唐︒ 蕃国 者新 羅也

︒﹂ と見 える よう に︑ 日本 に新 羅を 下に 見る 意識 は存 在し

︑そ れは ある 時期 の国 際関 係を 反映 した もの であ った にせ よ︑ 本歌 が詠 まれ た時 期は 既に 所謂 白村 江敗 戦︵ 六六 三年

︶か ら七

〇年 以上 経て おり

︑新 羅が 日本 の従 属国 であ ると いう 実情 はあ り得 ない

︒白 村江 敗戦 は﹃ 日本 書紀

﹄に も︑ 大唐

の軍 将

︑戦

一百 七十 艘 を率 て︑ 白

に陣 烈

り︒ 戊

に︑ 日本

船師

づ至 れる 者

と大 唐の 船師 と合

ふ︒ 日本

︑不 利 けて 退

く︒ 大唐

︑陣 を堅

めて 守

る︒

︵中 略︶ 進 みて 大唐 の堅 陣之 軍

つ︒ 大唐

︑便

ち左 より 船

を夾 みて 繞 み戦 ふ︒ 須臾 之際

に︑ 官軍 敗績

ぬ︒ (天 智二

︵六 六三

︶年 八月 一七

︑二 七︑ 二八 日条 ) とい う記 述が あり

︑養 老五

︵七 二一

︶年 に既 に日 本紀 講筵 が行 われ てい るこ とを 考え ても 七三 六年 段階 では 周知 のこ とで あっ たと 思わ れる

︒従 って

︵前 近代 の説 とし て研 究史 的価 値は ある にせ よ︶

①説 は大 いに 疑問 であ る︒ 次に

②説 につ いて

任那 日本 府の 存在 や性 格を めぐ って は一 九七

〇年 代半 ば以 降大 き な学 説の 展開 があ り︑ 近年 では 朝鮮 半島 統治 のた めの 日本 の出 先機 関と する 考え 方は ほぼ 否定 され てい る︵ 後述

︶が

︑幕 末の 鹿持 雅澄 や一 九五

〇年 代初 頭の 武田 祐吉 が本 歌の

﹁遠 の朝 廷﹂ を任 那日 本府 乃至 日本 の使 庁と して 解釈 した のは 歴史 学の 発展 段階 を考 慮す ると やむ を得 ぬ事 と言 えよ う︒ 事実

︑﹃ 日本 書紀

﹄に は︑

@︵ 雄略 天皇 が︶ 田 を 拝 して

︑任 那

した まふ

︒ (雄 略七

︵四 六三

︶年 是歳 条) B︵ 新羅 王が

︶﹁ 高麗 王︑ 我 が国 を征 伐 つ︒

︵中 略︶ 伏 して 救

を日 本 府

行軍

に請 ひま つる

﹂と いふ

︒ (雄 略八

︵四 六四

︶年 二月 条) C安 の次

︵中 略︶

︑子 の旱 岐等 と︑ 任那

日 本 府

備臣

と︵ 中略

︶百 済

往赴 きて

︑俱 に 詔 書

を 聴

(欽 明二

︵五 四一

︶年 四月 条) 等の 記事

︵B は﹁ 日本 府﹂ の︑ Cは

﹁任 那日 本府

﹂の 初見 記事

︶が 見え

︑﹁ 遠の 朝廷

﹂を それ に当 てる のは 当時 の歴 史学 の水 準を 考え れば 素直 な解 釈か と思 う︒

『新 唐書

﹄巻 二二

〇列 伝第 一四 五﹁ 東夷

﹂に

﹁︵ 咸亨 元︵ 六七

〇︶ 年の 日本 から の使 者が

︶︻ 悪倭 名︑ 更号 日本

︒使 者自 言︑ 国近 日所 出︑ 以為 名

︒︼

﹂と 見え

︑唐 に赴 いた 使者 が﹁ 倭﹂ に代 えて

﹁日 本﹂

『万 葉集

﹄巻 一五

・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷

﹂に つい て

(5)

と称 した こと や︑

﹃大 宝令

﹄︵ 大宝 元︵ 七〇 一︶ 年施 行︶ の注 釈書 で ある

﹁古 記﹂

︵﹃ 令集 解﹄ 所引

︶に

﹁︻ 御宇 日本 天皇 詔旨

︒対 隣国 及 蕃国 而詔 之辞

︼﹂ と︑ 対外 的に 用い る国 号と して

﹁日 本﹂ が明 記さ れて いる こと 等か ら︑ 倭が 国名 を﹁ 日本

﹂と 称す るよ うに なっ たの は七 世紀 後半 とい うの が通 説的 見解 であ り︑

﹁日 本府

﹂と いう 呼称 は前 記B

︑C の時 期に はあ り得 ず︑

﹁﹃ 任那 宮家

﹄と ある のが 古称 で あろ う

﹂ しか し︑ 当時 の名 称は 別と して

﹁日 本府

﹂と

﹃日 本書 紀﹄ に記 さ れた 我が 国の 使庁 が朝 鮮半 島に 存在 した 時期 が仮 にあ った とし ても

︑ 同じ

﹃日 本書 紀﹄ が欽 明二 三︵ 五六 二︶ 年正 月条

︵つ まり 本歌 が詠 ま れる 一七 四年 前︶ に︑ 次の とお り﹁ 任那 の官 家﹂ 滅亡 を記 して いる

︒ 二十 三年 の春 正月 に︑ 新羅

︑任 那

官家

ち滅 しつ

①説 の検 討の 中で も述 べた

﹃日 本書 紀﹄ の受 容環 境の 下で この 記 事を 認識 して いる 遣新 羅使 一行 の官 人が

︑本 歌の

﹁天 皇の

遠の 朝 廷と

韓国 に 渡る 我が 背は

﹂と いう 表現 で﹁ 天皇 陛下 の遠 方の 政 庁と して

︑新 羅の 国に 渡る わが 友は

﹂︵ 武田 祐吉

前掲 書十 一 一 一〇 頁︶ と︵ 理念 とし てで はな く︶ 実質 を伴 って 歌う こと は考 えに くい 次 ︒ に③ 説に つい て︒

③説 は①

︑② 説と 違い

︑本 歌が 詠わ れた 当時

﹁任 那日 本府

﹂が 既

に存 在せ ず︑ 朝鮮 半島 が日 本の 属国 的立 場で もな いと いう こと を踏 まえ た上 で︑

﹁昔 より 唱へ 来れ るに 従へ るな り﹂

︵井 上通 泰︶

︑﹁ 古い 習慣 によ つて 云つ てゐ るも の﹂

︵窪 田空 穂︶

︑﹁ 任那 に日 本府 があ っ たこ ろの 名残 か﹂

︵小 島憲 之︶ 等と 解釈 して いる

︒し かし

︑別 表の とお り︑

﹃万 葉集

﹄中 に見 える

﹁遠 の朝 廷﹂ の用 例の うち

︑作 歌年 代の 明ら かな もの は七 首で

︑上 限が 神亀 五︵ 七二 八︶ 年︑ 下限 が天 平勝 宝七

︵七 五五

︶年 であ る︒ 作歌 年代 の不 明な もの は一 首の み

︵巻 三・ 三〇 四番 歌︶ であ るが

︑作 者は 柿本 人麻 呂で ある こと から 持統

・文 武朝

︑す なわ ち七 世紀 末~ 八世 紀初 頭頃 の歌 と考 えら れる

︒ 先述 のと おり 所謂

﹁任 那日 本府

﹂は

︑往 古仮 に存 在し たと して も六 世紀 中葉 に滅 亡し てお り︑ 七世 紀中 葉に は白 村江 敗戦 を経 てい るの であ るか ら︑

﹃万 葉集

﹄に

﹁遠 の朝 廷﹂ とい う言 葉が 現れ るの は朝 鮮半 島へ の影 響力 が衰 退し た後 と言 うこ とに なり

︑﹁ 昔よ り唱 へ来 れる

﹂︑

﹁古 い習 慣に よつ て云 つて ゐる

﹂︑

﹁任 那に 日本 府が あっ たこ ろの 名残 か﹂ 等と いう 説は 実証 が困 難と なる

④説 の﹁ 都か ら遠 く離 れた 天皇 の行 政官 庁に 派遣 され る官 人﹂ と いう 考え 方は 一九 七〇 年代 半ば 以降 最も 広く 行わ れて いる

︒ 一九 六三 年︑ 北朝 鮮の 歴史 学者 金錫 亨は

﹁三 韓︑ 三国 時代 の日 本 列島 内の 分国 につ いて

﹂と いう 論文

の中 で︑

﹁﹃ 倭﹄ とと もに

﹃百 済﹄

﹃新 羅﹄

﹃加 羅﹄

﹃秦 韓﹄

﹃馬 韓﹄

︵慕 韓︶ など の地 方が

︑日 本列

『万 葉集

﹄巻 一五

・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷

﹂に つい て

(6)

別表『万葉集』「とほのみかど」用例一覧 例番号 巻歌番号歌(【】内は原表記) 「とほのみかど」直前の表現 「とほのみかど」の指すもの 歌人詠歌場所作歌年代

@C304 柿本朝臣人麻呂が筑紫国に下る時に、海路にして作る歌二首(303番歌略)大君の遠の朝廷と【遠乃朝庭跡】あり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ 大王之大宰府柿本人麻呂 筑前国に下る海路 687〜707年(持統・文武朝) BF794 日本挽歌一首大君の遠の朝廷と【等保乃朝庭等】しらぬひ筑紫の国に泣く子なす慕ひ来まして息だにもいまだ休めず年月もいまだあらねば心ゆも思はぬ間に(後略) 大王能大宰府 山上憶良(筑前守) 筑前728(神亀F)年

CG973 天皇、酒を節度使のh等に賜ふ御歌一首食す国の遠の朝廷に【遠乃御朝庭尓】汝等がかく罷りなば平けく我は遊ばむ手抱きて我はいまさむ天皇朕珍の御手もちかき撫でそねぎたまふ(後略) 食国 東海道東山道山陰道西海道 聖武天皇平城宮732(天平H)年 H153668 筑前国志麻郡の韓亭に至り、船泊まりして三日を経ぬ。(中略)各心緒を陳べ、聊かに裁る歌六首大君の遠の朝廷と【等保能美可度登】思へれど日長くしあれば恋ひにけるかも 於保伎美能(本稿で検討) 阿倍継麻呂(遣新羅大使) 筑前国志麻郡韓亭 736(天平I)年

F153688 壱岐島に至りて、雪連宅満が忽ちに鬼病に遇ひて死去せし時に作る歌一首天皇の遠の朝廷と【等保能朝庭等】韓国に渡る我が背は家人の斎ひ待たねか正身かも過ちしけむ(後略) 須売呂伎能(本稿で検討) 不明(遣新羅副使大伴三中説あり) 壱岐嶋736(天平I)年 G174011 放逸せる鷹を思ひ、夢に見て感悦して作る歌一首大君の遠の朝廷そ【等保能美可度曾】み雪降る越と名に負へる天離る鄙にしあれば山高み川とほしろし野を広み草こそ繁き(後略) 大王乃越中の政庁 大伴家持(越中守) 越中747(天平19)年

J184113 庭中の花の作歌一首大君の遠の朝廷と【等保能美可等ゝ】任きたまふ官のまにまみ雪降る越に下り来あらたまの年の五年しきたへの手枕まかず紐解かず丸寝をすれば(後略) 於保支見能越中の政庁 大伴家持(越中守) 越中 749(天平感宝元)年 I204331 防人が悲別の心を追ひて痛み作る歌一首大君の遠の朝廷と【等保能朝廷等】しらぬひ筑紫の国は敵守るおさへの城そと聞こし食す四方の国には人さはに満ちてはあれど鶏が鳴く東男は(後略) 天皇乃大宰府 藤原宿奈麻呂(相模守) 相模 755(天平勝宝J)年

『万 葉集

﹄巻 一五

・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷

﹂に つい て

(7)

島内 に存 在し てい たと みる

﹂︑

﹁三 韓以 来わ が三 国の

︑日 本列 島内 に おか れた 分国 の存 在

﹂︑

﹁﹃ 日本 府﹄ は朝 鮮半 島に おい たも ので はな く︑ 日本 列島 内の 諸分 国に おか れた もの であ る

﹂等 と述 べ︑ 従来 の 日本 の﹁ 任那 日本 府﹂ につ いて 考え 方を 根本 から 覆す 学説 を発 表し た︒ この 学説 が日 本で その まま 受け 容れ られ た訳 では ない が︑ これ をき っか けに

﹁任 那日 本府

﹂を めぐ って 日本 でも 活発 な論 議が 交わ され るよ うに なり

︑特 に一 九七 二年 の金 錫亨 来日

︵高 松塚 古墳 の総 合学 術調 査の ため

︶以 降︑ わが 国に おけ る﹁ 任那 日本 府﹂ の研 究が 急展 開を 見せ

︑倭 政権 の出 先機 関で ある とす る伝 統的 な学 説は ほぼ 否定 され

︑﹁ 任那 日本 府﹂ は機 関や 建物 では なく 派遣 され た官 人

︵外 交使 節団

︶を 言う とす る説 も有 力に なっ た︒ 国文 学研 究に おい ても この 学説 の流 れは 反映 され

︑一 九七 五年 発行 の﹃ 日本 古典 文学 全集

﹄︵ 小学 館︶ 以降 の多 くの 注釈 書が

﹁派 遣さ れる 官人

﹂説 を採 るに 至っ た︒ 私は

﹁任 那日 本府

﹂を めぐ る歴 史学 の進 展と 成果 を否 定す るも の では ない が︑ 歴史 学の 成果 を﹃ 万葉 集﹄ の表 にに わか に結 びつ ける こと には 慎重 にな りた い︒ 以下 のア

~ウ の理 由に よる

︒ ア︑ 歴史 学の 新し い見 解は

﹁日 本府

﹂を

﹁派 遣さ れた 官人

﹂と 捉 える ので あっ て︑

﹁遠 の朝 廷﹂ とい う﹃ 万葉 集﹄ 中の 歌の 表現 につ いて 言っ てい るの では ない

イ︑ 仮に

﹁遠 の朝 廷

が﹁ 派遣 され た官 人﹂ を指 すと する なら ば︑

﹁み かど

﹂に

﹁官 人﹂ の意 味が なく ては なら ない

『万 葉集

﹄中 に﹁ みか ど﹂ と訓 読し うる 用例 は二 八例

︵﹁ とほ のみ かど

﹂は 除く

︶見 える が︑ やす みし し 我 が大

らす 日 の皇 たへ の 藤

が上 に 食 す国 を 見 した まは むと (中 略) 我 が造 る 日 の御

に︻ 日之 御門 尓】 知ら ぬ国

よし 巨 より 我 が国 は 常 にな らむ

︵後 略)

(巻 一・ 五〇 番歌 ) のよ うに 天皇 の宮 殿を 指す もの

︑ (前 略︶ 大和

は 日の 経

の 大 き御 に︻ 大御 門尓

】 春山 と しみ さび 立て り 畝傍

この 瑞

は 日の 緯 の 大き 御門 に︻ 大御 門尓

】 瑞山 と 山さ びい ます 耳

の 青 は 背面

大き 御門 に︻ 大御 門尓

】 宜 しな へ 神 さび 立て り 名ぐ はし き 吉 の山 は 影 の 大き 御門 ゆ

︻大 御門 従】 雲

にそ

遠く あり ける

︵後 略︶ (巻 一・ 五二 番歌 ) のよ うに 宮殿 の門 を指 すも の

︑ ひさ かた の 天

見る ごと く 仰 ぎ見 し 皇子 の御 の︻ 皇子 乃御 門之

】 荒れ まく 惜 しも

(巻 二・ 一六 八番 歌) のよ うに 薨去 した 皇子 の宮 を指 すも の

『万 葉集

﹄巻 一五

・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷

﹂に つい て

(8)

万代

に いま した まひ て 天 の下

した まは ね 朝廷

ら ずて

︻美 加度 佐良 受弖

(巻 五・ 八七 九番 歌) のよ うに 朝廷 その もの を指 すも の

が全 てで あり

︑﹁ 官人

﹂を 意味 す る例 はな い

︒ ウ︑ 史料 の時 代は 下る が︑

﹃延 喜式

巻八

﹄﹁ 神祇 八 祝詞

﹂所 載 の﹁ 六月 晦大 祓﹂ 祝詞 の詞 章に

︑ (前 略︶ 官 官

︻官 官︼ に仕 へ奉 る人

︻人 等︼ の︑ 過

ち犯 しけ む雑 の罪 を︵ 後略

︶ と見 える

︒こ こで は﹁ 官 官

︻官 官︼

﹂の

﹁人 等

︻人 等︼

﹂と 言っ て いる わけ で︑

﹁官

︵役 所︶

﹂と

﹁人 等︵ 人の 集団

︶﹂ が別 の概 念で あ るこ とは 自明 であ る︒ 従っ て︑

﹁遠 の朝 廷﹂ が﹁ 行政 官庁 に派 遣さ れる 官人

﹂を 指す と いう こと はあ り得 ない

︒ なお

︑本 遣新 羅使 人歌 群以 外に 見え る﹁ 遠の 朝廷

﹂を も﹁ 官人

﹂ と解 釈す る注 釈も 見受 けら れる

︒巻 一八

・四 一一 三番 歌の それ を

﹁越 中国 守の 任を

︑天 皇権 力の 代行 者と して いっ た﹂ と解 釈す る

﹃日 本古 典文 学全 集 万葉 集四

﹄︵ 小島 憲之

・木 下正 俊・ 佐竹 昭広 校 注︶ がそ の嚆 矢で ある が︑

﹁遠 の朝 廷﹂ 官人 説を とる のは

﹃万 葉集

﹄ 巻一 五~ 二〇 を扱 う同 全集 の中 の﹃ 万葉 集四

﹄の みで あり

︑同 全集

﹃万 葉集 一︑ 二﹄ では 注釈 対象 の全 ての 歌︵

﹃万 葉集

﹄巻 三・ 三〇 四

番歌

︑巻 五・ 七九 四番 歌︑ 巻六

・九 七三 番歌

︶の

﹁遠 の朝 廷﹂ につ いて 行政 官庁 説を とっ てい る︵ 同全 集﹃ 万葉 集三

﹄に は﹁ 遠の 朝 廷﹂ の語 句を 含む 歌は ない

︶︒ 同全 集﹃ 万葉 集一

︑二

﹄が 一九 七二 年以 前の 発行 であ るの に対 して 同全 集﹃ 万葉 集四

﹄の 発行 が一 九七 五年 であ るこ とは

︑先 に述 べた 歴史 学上 の新 論の 敏感 な反 映を 物語 る︒ 因み に近 年︵ 一九 九四

~一 九九 六年

︶新 しく 出版 され た﹃ 新編 日本 古典 文学 全集

﹄︵ 校注 者三 名中 二名 は﹃ 日本 古典 文学 全集

﹄と 同じ

︒佐 竹昭 広氏 のみ 東野 治之 氏に 交代

︒︶ では 巻二

〇・ 四三 三一 番歌 以外 の﹁ 遠の 朝廷

﹂を すべ て官 人説

︵巻 五・ 七九 四番 歌に つい ては 行政 官庁 説と 並記

︶で 説明 する に至 って いる

︒こ のほ かに も巻 一八

・四 一一 三番 歌の

﹁遠 の朝 廷﹂ を中 西進 は﹁ 遠方 の行 政機 関︒ 役所 も組 織も 含め てい う﹂

︵﹃ 万葉 集全 訳注

﹄︶

︑巻 二〇

・四 三三 一番 歌の それ を木 下正 俊は

﹁都 から 遠く 離れ た天 皇の 行政 官庁 とし ての 大宰 府や 各国 庁を いい

︑ま たそ こに 派遣 され 在勤 する 官人 をさ すこ とも ある

︒﹂

︵﹃ 万葉 集全 注﹄

︶と 説明 する など 官人 説は 行わ れて いる が︑ 残念 なが ら従 来の 解釈 を変 更し て官 人説 を採 用す る根 拠が 何れ も示 され てい ない

︒従 って 従来 の解 釈の 変更 が純 粋に

﹃万 葉集

﹄の 表現 の分 析か らな され たも のか 歴史 学の 成果 をと りい れた もの か︑ また それ らが 相俟 って なさ れた もの か断 定す るこ とは 出来 ない

︒た だ︑ 先述 のと おり

﹃万 葉集

﹄の 用例 を検 討す る限 り﹁ みか ど﹂ に﹁ 官

『万 葉集

﹄巻 一五

・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷

﹂に つい て

(9)

人﹂ の意 味を 認め るこ とに は結 論と して 慎重 にな らざ るを 得な い︒ 最後 に⑤ 説で ある が︑

﹁四

︑私 見﹂ でも 述べ ると おり

︑七 三八 年 とい う時 代︵ 統一 新羅 の時 代︶ に新 羅が 日本 の支 配下 にあ ると いう 意識 があ ると すれ ば︑ まさ に中 西進 説の とお り﹁ 一方 的に 韓国 を支 配国 と考 えて いた 表現

﹂︵ 前掲 書︶ であ り︑ それ に基 づく 外交 は極 東ア ジア の情 勢を 直視 しな いも ので ある とし か言 いよ うが ない ので あっ て︑ この 説は 現在 まで の学 説の 中で は最 も当 を得 たも ので ある よう に思 う︒ ただ

︑先 にも 述べ たと おり

︑白 村江 敗戦 の事 実が 遣新 羅使 人達 に知 られ てい なか った とは 考え にく く︑ 名実 共に

﹁韓 国を 支配 国と 考え てい た﹂ とは 言い 難い ので はな いか

︒ 支配 国と 考 表現 なの か︑ 支配 国と 考 表現 なの かが 重要 なポ イン トで ある よう に思 う︒ 同説 をと る 多田 一臣 は前 掲書 G︵ 七三 頁︶ で︑

﹁一 方的 な認 識だ が︑ この 姿勢 で外 交交 渉に あた ろう とし た︒

﹂と いう 分析 を示 すが

︑﹁ この 姿勢

﹂ が国 際関 係の 認識 不足 から 来る もの なの か︑ 現状 を認 識し た上 で

﹁こ の姿 勢﹂ をと る必 要が あっ たの かが

﹃万 葉集

﹄の 表現 を考 える 上で は問 題で あろ う︒ 四︑ 私見

「三

︑先 行研 究の 検討

﹂で 見て きた とお り︑ 少な くと も本 歌が 詠

まれ た時 点で は新 羅は 実質 的に 日本 の従 属国 では ない し︑ その

︵実 態は 措く とし ても

︶﹁ 任那 日本 府﹂ 乃至

﹁都 から 遠く 離れ た天 皇の 行政 官庁

﹂も 朝鮮 半島 には 存在 しな い︒ 仮に

﹁任 那日 本府

﹂が 以前 に存 在し たと して も︑

﹁遠 の朝 廷﹂ とい う表 現は 柿本 人麻 呂以 前に 用例 を見 出せ ず

︑昔 の名 残と して 詠ん だと いう のは 実証 が困 難で あ ろう

︒ま た︑

﹁み かど

﹂と いう 語で

﹁官 人﹂ のこ とを 表現 した と考 える には 無理 があ り︑ 実際 その よう な例 は﹃ 万葉 集﹄ 中に ない

︒ では

︑本 歌に おけ る﹁ 遠の 朝廷

﹂は どの よう な意 識で 何を 表現 し てい るの か︒ その こと を明 らか にす るた めに は︑ 本歌 が遣 新羅 使人 によ って 詠ま れた こと に立 ち返 り︑ 天平 八︵ 七三 六︶ 年発 遣の 第一 八回 遣新 羅使 の置 かれ た情 勢や

︑彼 らの 新羅 での 体験 を分 析し てみ る必 要が ある

︒日 本と 新羅 の歴 史的 関係 が語 句の 意味 や解 釈に その まま 繫が るも ので はな いが

︑こ とば は常 にニ ュー トラ ルな 辞書 的意 味の みを もつ もの では なく

︑使 用さ れる 状況 や背 景に よっ て様 々な 機能 を帯 びる もの との 認識 から であ る︒

『続 日本 紀﹄ に記 され た第 一八 回よ り前 の遣 新羅 使人 の帰 朝記 事 は︑ 遣 新羅

使

従五 位上 波 朝臣 広 ら︑ 新羅 より 至 る︒ (慶 雲元

︵七

〇四

︶年 八月 三日 条) 幡文

ら新 羅

り至 る︒

『万 葉集

﹄巻 一五

・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷

﹂に つい て

(10)

(慶 雲二

︵七

〇五

︶年 五月 二五 日条 ) のよ うに ほぼ 帰朝 の事 実の みを 記載 する のに 対し て︑ 第一 八回 遣新 羅使 の帰 朝記 事は 特異 であ る︒

@遣 新羅

使

従六 位上 壬 使主 宇

︑少

正七 位上 大 忌寸 麻 ら京

に入 る︒ 大 使 従五 位下 阿 朝臣 継

︑ 津

に泊 りて 卒

しぬ

︒副 使 従六 位下 大

宿Õ 三

︑病

に染 み て京 に入 るこ と得 ず︒

(天 平九

︵七 三七

︶年 正月 二六 日条 ) B遣 新羅

使

使 正六 位上 大 宿Õ 三

ら卅 人拝 朝

す︒

︵同 年三 月二 八日 条)

@に 見え るよ うに

︑大 使阿 倍継 麻呂 は帰 路に 対馬 で没 し︑ 副使 大 伴三 中も 病気 に罹 って 帰朝 後即 座に 天皇 に復 命で きな かっ たの であ る︒ Bに 見え るよ うに

︑副 使三 中ら の拝 朝は それ より 二ヶ 月後 のこ とに なる が︑ 大使 は亡 くな り︑ 副使 は病 で入 京で きな い中

︑極 めて 重要 な報 告が おそ らく 副使 に次 ぐ地 位で あっ た大 判官 壬生 宇太 麻呂 らに よっ てな され てい る︒ 副使 の恢 復を 待っ てい られ ない 緊急 事態 とい う判 断が あっ たも のと 思わ れる

︒﹃ 続日 本紀

﹄か らそ の記 事を 次に 示す 遣 ︒ 新羅

使

すら く︑

﹁新 羅

︑常 の礼

を失

ひて 使

の旨

を受 けず

﹂と まう す︒ 是

に︑ 五位 已上 并 せて 六位 已下 の官 人

て呼 五人 を内 に召 して

︑意 を陳 べし む︒

︵天 平九

︵七 三七

︶年 二月 一五 日条 ) この 時の 遣新 羅使 に対 して 新羅 は﹁ 常の 礼を 失ひ て使 の旨 を受 け ず﹂

︑つ まり 遣新 羅使 とし て以 前の よう に扱 わな かっ たと いう こと であ る︒ 七日 後︑ これ に対 して 諸官 司か ら意 見が 出さ れる

︒ 諸

︑意

の表

を奏

す︒ 或

は言 さく

﹁使

を遣

して その 由

を 問 はし む﹂ とま うし

︑或

は﹁ 兵 を発 して 征 を加 へむ

﹂と ま うす

(同 年同 月二 二日 条)

「新 羅に 詰問 せよ

﹂︑

﹁軍 事行 動に 出よ

﹂と いう 激し い意 見︑ 厳し い反 応で あっ た︒ 同年 四月 一日 条に は︑ 使

を伊

︑大 神 社

︑筑 の住

・八 の二 社と 香椎 宮

とに 遣 して

︑ 幣

りて 新羅

礼无

を告 さし む︒ と見 える

「新 羅と 渤海

の関 係は

︑時 に対 立を みる こと があ り︑ また 渤海 が 唐と 対立 する こと によ って

︑唐 は新 羅と の関 係を 改善 した

︒そ の結 果︑ 良好 であ った 日本 と渤 海の 関係

を牽 制し て︑ 新羅 が日 本へ の臣 従を 嫌う 様相 を見 せる こと が頻 繁に なっ てき た

︒﹂ とい う歴 史学 か らの 分析 もあ ると おり

︑こ の時 期の 日本 と新 羅の 関係 はか なり 緊迫

『万 葉集

﹄巻 一五

・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷

﹂に つい て

(11)

した もの であ った よう であ る︒ 従来 どお り新 羅か らの 朝貢 形式 によ る外 交を 求め る日 本と

︑唐 と の関 係か ら対 日本 朝貢 外交 に否 定的 な新 羅と いう 状況 が生 じて いた ので ある

︒実 際︑

﹃続 日本 紀﹄ には 神亀 三︵ 七二 六︶ 年六 月五 日の

﹁新 羅使

調

る︒

﹂と いう 記事 から 天平 四︵ 七三 二︶ 年正 月 二二 日の

﹁新 羅使

く﹂ とい う記 事ま での 五年 半新 羅朝 貢の 記 録は 見え ない

︒天 平四 年正 月に 来朝 した 新羅 使は 同年 五月 に朝 堂で 饗を 受け るが

︑そ の時 聖武 天皇 は﹁ 来 くる 期

は︑ 許 すに 三年 に 一度 を以 てし たま ふ︒

﹂︵

﹃続 日本 紀﹄ 天平 四年 五月 二一 日条

︶と 三 年毎 の朝 貢を 命じ てい る︒ とこ ろが その 後天 平六

︵七 三四

︶年 に来 朝し た新 羅使 は次 に示 すと おり 同七 年二 月に 多治 比県 守に 対し て国 号を

﹁王 城国

﹂と 称し たた め帰 国さ せら れた

︒ 二月 癸卯

︑新 羅使

︑京

に入 る︒ 癸丑

︑中

正三 位多 真人 県

を兵

の曹 に遣 して

︑新 羅使

入 朝

せる 旨

を問 はし む︒ 而 るに 新羅

︑輙

く本 の号 を改

めて 王

と曰 ふ︒ 茲 に因 りて その 使

を返

し却 く︒ (

﹃続 日本 紀﹄ 天平 七︵ 七三 五︶ 年二 月一 七︑ 二七 日条 )

「王 城﹂ は﹁ 天子 の都 城

﹂の 意で あり

︑日 本に 対し て朝 貢す べき 属国 の名 称と して 不適 とさ れた ので あろ う︒ 新羅 の日 本に 対す る姿 勢の 変化 と日 本の 憤慨 が見 て取 れる

そし てそ の翌 天平 八︵ 七三 六︶ 年に 発遣 され たの が本 歌を 詠ん だ 第一 八回 遣新 羅使 人な ので ある

︒新 羅を あく まで

﹁朝 貢国

﹂と して 位置 づけ たい 日本

︑し かし その 体制 から すで に事 実上 離れ てし まっ てい る新 羅︑ 前年 にや って きた 新羅 使は

﹁王 城国

﹂と 名乗 る始 末で ある

︒そ のよ うな 情勢 の中 で任 命さ れた 遣新 羅使 一行 は︑ 新羅 も日 本国 内の 天皇 の支 配の 及ぶ 遠方 の﹁ 遠の 朝廷

﹂と 同じ との 立場 を明 確に する 必要 があ った

「遠 の朝 廷﹂ とい う言 葉は 別表 のと おり

﹃万 葉集

﹄中 に八 例見 え るが

︑本 歌の 属し てい る巻 一五 の﹁ 遣新 羅使 人歌 群﹂ の二 例︵ H︑ F︶ を除 けば

︑大 宰府

︵@

︑B

︑I

︶︑ 東海 道︑ 東山 道︑ 山陰 道︑ 西海 道︵ C︶

︑越 中の 政庁

︵G

︑J

︶を 指し てい る︒ まさ に﹁ 都か ら遠 方の 天皇 の行 政官 庁・ 支配 地﹂ であ る︒ また 同表

﹁﹃ とほ のみ かど

﹄直 前の 表現

﹂欄 に明 らか なよ うに

︑臣 下の 者が 詠ん だ歌 に見 える

﹁遠 の朝 廷﹂ には 必ず

﹁お ほき みの

﹂ま たは

﹁す めろ きの

﹂が

︵@

︑B

︑H

~I

︶︑ 天皇 が詠 んだ 歌に は﹁ をす くに の﹂ が︵ C︶ 冠 せら れる

︒﹁ 遠の 朝廷

﹂と いう 語句 は﹁ 都か ら遠 方の 天皇 の支 配地

﹂ とい う意 識の 明確 な表 現で ある と言 える

︒ 新羅 との 関係 が悪 化す る以 前に 用例 が見 えな い﹁ 遠の 朝廷

﹂と い う語 を︑ 白村 江敗 戦後

︑そ れも 新羅 が朝 貢を 忌避 する 傾向 が明 らか にな った 段階 で用 いる こと

︑そ れは 何を 意味 する か︒ 実態 が伴 わな

『万 葉集

﹄巻 一五

・三 六八 八番 歌に 見え る﹁ 遠の 朝廷

﹂に つい て

一〇

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