上
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口
審
;
LL‑ 説 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑
の
事 実 誤
圭J:fJ刃心
救 済
に
関
す る
考
庭 察
山
英
雄
控訴理由には﹁事実の誤認﹂
(3 )
この違いはなにか︒
としか記されていないのに上告破棄理由には
の機縁ともなりうれば幸いである︒ たこともあったが︑
﹁重大な事実の誤認﹂
と記されている︒
ふり返ってみると私の研究生活のほとんどは﹁誤判との闘い﹂に向けられていた︒一時期︑比較法的研究に熱中し
( l ) ( 2 )
それも究極的にはなんとかして誤判をなくしたいとの思いからであった︒最近︑某研究会で報告
の機会を与えられ︑
その際まとめてみたのが本稿である︒討論の素材といった程度のものであるが︑本格的研究触発
重大な事実の誤認
まず右の﹁事実誤認﹂には﹁事実誤認の疑い﹂も含むか︒この問題に最初に言及したのは二俣事件上告審判決︵最
判昭二八•一一・ニ七刑集七巻―一号二三0三頁)であった。同判決は「右四―一条――一号の法意は、判決に影孵を及
ぼすべき重大な事実の誤認があると疑うに足る顕著な事由があって︑
もしこの疑が存するにかかわらず原判決を維持 しその判決を確定させたとすれば著しく正義に反するときは︑原判決に法令の違反はなくても︑これを破棄すること をも上告裁判所に許したものといわなければならない﹂と判示した︒この立場は松川事件第一次差戻判決︵最判昭三
は
じ
め
に
上告審の事実誤認救済に関する一考察(庭山)
大法廷判決によっても変更されることはあるまい︒ 四・八•
1 0
刑集一三巻九号一四一九頁︶でも採用されて判例法としての地位を確立した︒このことは仁保事件判決
︵最判昭四五・七・三一刑集二四巻八号五九七頁︶を始めとして多くの上告審裁判例がこれを踏襲していることからも
事実誤認は疑いで足りるか否かについては再審請求審においてもしばしば争われた︒ぃ再審理由が﹁無罪若しくは免
訴を言い渡︹す︺⁝⁝べき明らかな証拠﹂となっているところから︑判例は長らく事実誤認についてその疑いでは足
りないとしていたが学説のきびしい批判に遭って遂に﹁確定判決における事実認定につき合理的な疑いをいだかせ︑
七頁
︶
その認定を覆するに足りる蓋然性のある証拠」(要旨、いわゆる白鳥決定、最決昭五0•五・ニ〇刑集二九巻五号一七
と判示するに至った︒非常救済手続である再審請求審においても﹁疑い﹂で足りるとされたのであるから︑そ
れより以前の通常手続の一環である上告審において﹁疑いで足りる﹂とされるのは当然といえば当然であろう︒今後
次の問題は﹁重大な﹂になんらかの意味があるかである︒まず近時の著名判例でこれを見てみよう︒いわゆる飯田
橋事件上告審判決︵最判昭五ニ・五・六刑集三一巻三号五四四頁︶は①原判決が被告人らの公務執行妨害に関する共
謀を否定した点にも重大な事実誤認の疑いがあるといわなければならない︑②結局︑原判決は被告人らに対し公務執
行妨害罪が成立しないとした点においても︑法令の解釈を誤り︑事実を誤認した疑いがあるものというべく︑
判決に影響を及ぽし︑原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものであることは明らかである︑
で原判決を破棄した︒右の①では﹁共謀否定﹂をストレートに重大な事実誤認としているのみで﹁重大な﹂につき特
段の説明はない︒②においてはただ﹁事実誤認﹂とするのみで﹁重大な﹂
控訴審で見逃され︑上告審で発見されたから﹁重大﹂としているようにも見える︒ 裏付けられよう︒
との二つの理由
の要件さえ冠されていない︒これで見ると
これが
はな
い︒
/条によって職権破棄ができる事項は広範 ︵最判昭五三・六・ニ九判時八九二号二
0
頁 ︶ はどうか︒同判決は﹁被 告人は行為当時本件集団示威運動が法律上許されないものであることを認識していたと認められるから﹂と前提した 上で﹁被岩人はそれが法律
t
許されないものであるとは考えなかったと認定した原判決は︑事実を誤認したものであ この誤りは判決に影縛を及ぼし︑原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認められる﹂と判示した︒ここ
でも﹁重大な﹂の要件は示されていない︒﹁著反正義﹂ないし﹁正義性﹂の要件が︑直ちに﹁重大性﹂の要件を満たし
念のため名もない破棄事件でこれを見てみよう︒最判昭四八・ニ;.三判時七一 1
五号
一
0
四頁︵放火事件︶たがって︑原判決は︑証拠の価値判断を誤り︑
に影響を及ぼすこと明らかであり︑これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる﹂と判示し﹁重大な
事実
誤認
﹂
と断っているが︑
囲に
わた
り︑
よ﹁し,1
ひいて重大な事実誤認をした疑いが顕著であって︑このことは︑判決 その内容を判決理由中に探してみると﹁被告人を本件放火の犯人と断定することについ
三 ・
1七判時八五
0
号 ^
O
九頁︵窃盗事件︶ ては合理的な疑いが残る﹂であって︑控訴審の巾実誤認の判断の仕力となんら変わるところはない︒また最判昭五︱1・は﹁したがって︑原判決は︑証拠の価値判断を誤ったか︑又は審理不尽
の違法があり︑ひいては重大な事実誤認をした疑いが顕著であって︑それが判決に影脚を及ぼすことは明らかであり︑
れも﹁証拠の価値判断の誤り﹂もしくは﹁審理不尽﹂ これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる﹂と判ぷし︑﹁重大な事実誤認﹂と銘打ってはあるが︑こ
であって控訴理由の事実誤認︵判例法︶となんら異なるところ
そうとすれば残りの間題は﹁著反正義﹂とはなにかである︒
さ て
︑ 四 かつ控訴理由と屯複している︒旧刑訴の
t
告理由を現行刑訴の控訴︑上告に生かしたためであろう︒だ
ているかのように読める︒
りヽ 羽田空港ビル内デモ事件第二次上告審判決
四
上告審の事実誤認救済に関する一考察(庭山)
要性﹂と解しても差支えないであろう︒ ぎないであろう︒ が事実認定と量刑とにおいては表現が異なり︑前者では﹁重大な﹂後者では﹁甚しく﹂
五
の修飾語がつけられている︒
すでに控訴審において事後審査が済んでいるので一一度目の事後審査においてはとくに目に余るものにかぎるとの趣旨
であろう︒観念的にはそのとおりであるが︑事実上ほとんど差異のないことはすでに示したとおりである︒もし事実
上も﹁しぽり﹂の意味があるとすれば﹁著反正義﹂による制約とかかわりがあるのではないか︒
最決昭五五・︱ニ・一七刑集三四巻七号六七二頁は四一一条一号に該崎すると認めながら﹁不著反正義﹂だとして
(6 )
原判決を維持した︒これを逆にいえば﹁著反正義﹂は上告審破棄事由における独立の要件だとなろう︒ここに﹁正義﹂
とは︑憲法秩序のもとでの公正な司法の理念︑もっと簡単にいえば健全な法感覚というべきものであろう︒とは言っ
てみても物指しのように一義的なものではないので個々の具体的事案の中で救済の要請をもふまえて裁判官各自が決 断するほかあるまい︒正義性の要件は当事者の具体的救済の要請から判断されるべきでなく︑司法の最高責任者が全
体としての司法の公正と国民の司法への信頼とを維持する見地からなされるべきだとの見解もあるが︑﹁不適法な裁判
による権利救済もまた司法の公正または信頼の保持の重要な一環﹂と解するのであれば︑違いは言葉のあやにしかす
(8 )
他方﹁重大な﹂とか﹁著反正義﹂とかを場合によって使いわける見解もある︒事実誤認には経験則違背の誤認と経 験則違背には達しない誤認とがあり︑有罪を破棄する方向では後者も﹁重大﹂かつ﹁著反正義﹂の誤認だというので ある︒言いかえれば無罪を破棄する方向では重大性と正義性との両要件とも加重されて﹁経験則違背の誤認﹂となる
とするのである︒ここでは重大性や正義性の要件の存否はケースバイケースであるから︑それらは﹁具体的救済の必
以上の検討によると控訴審︑上告審︑再審三者のいずれの﹁事実誤認﹂についても判断者の心証の程度に特段の違
いはないこととなる︒果してそのように言いきれるかどうか︑
事実調べの方式
なお検討を必要としよう︒ここでは問題提起のみにと(9 )
以上の﹁軍大な事実の誤認﹂はどのような証明方法で認定されるのか︒この点について最初に明確な基準を示した
のは松川事件第一次上告審判決︵最判昭三四・八
・ 1
0
刑集三巻九号一四一九頁︶であった︒それ以前の判例には︑ 1原判決後に真犯人が現われたため真犯人の確定記録を取りよせて取り調べたとみられるもの︵最判昭二七・四・ニ四
刑集六巻四号七
0
八頁︶︑原判決の認定した犯行日時に被告人が別件で勾留中とわかったため同人の指紋照会回答書お︵最判昭二九・四・一六刑集八巻四号五ニ一頁︶
いずれも事実取調べの方式・限界等についてはなにも触れていない︒なかには最高裁には事実審理をする権能は
︵最判昭二八.︱一・ニ七刑集七巻︱一号一︱
; ‑
0
三頁︑二俣事件︑破棄第一審へ差戻し︶右の松川事件判決は﹁当裁判所の提出命令により提出され︑当裁判所が領置したいわゆる﹃諏訪メモ﹄
の 一
︶ は︑当裁判所において公判にこれを顕出したのみで︑事実審におけるが如き証拠調の方法は採らず︑従って当 裁判所が直ちにこれを事実認定の証拠とすることはできないとしても︑少くとも原判決の事実認定の当否を判断する
資料に供することは許されるものと解すべきところしと判示して破棄差戻しを命じた︒ っ
た ︒
ない
と明
︱=
口す
るも
の
が ヽ よび別件の確定記録を取りよせて調べたとみられるもの ど
めて
おく
︒
I ‑
︵ 証 ノ
一 ︱ ︱
□号 などがある
さえあ
上告審の事実誤認救済に関する ・考察(庭U1)
七
︵後
に再
び取
り上
げる
︶︒
次いで青梅事件卜告審︵最判昭四
. .
1^
. .
二四
判時
四.
二九
号一
九頁
︶
において国鉄が自然事故として処理していた
の責任運転事故原簿につき弁護人が証拠調請求を行ったところ
t
告審はこれを公判顕出の方法で
事実調べを行い原判決を破棄した︒さらに宮原操作場市件
L
告審︵最判昭四. .
︱ ︱
1・九刑集二
0
巻二
0
号一
において弁護人は被告人の自白調甚の任意性を争うため別件の証言速記録謄本等の書面の取調べを請求したとこ
右三事件はいずれも政治的背景をもつ事件であったので︑その取扱いに異例な面があるのではないかとの懸念もな
いでもかなかったが︑純粋な人権事件である八海事件でその懸念はなくなった︒すなわち同第三次上告審︵最判昭四
三•
1
O ・
ニ五刑集二こ巻↓ 1
号九
六二
貝︶
は︑相被告人作成の上申書等を公判顕出の形で取り調べた上︑原判決破
棄自判無罪の判決を下した︒以
t
の判例をみると実体法的事実についても取調べの対象とし︑取調方法としては公判顕出が定着していると思われる︒その資料も書面に限定され︑証人尋問などは行われていない︒しかし仁保事件上告
審で私が実際に体験した例では最高裁の法廷に大きなスクリーンが下げられ︑そこにプロジェクターで写し出された
地下足袋ゴム底の紋様を弁護人が長い棒で指し示しながら説明していた︒最高裁だからといって書面の公判顕出しか
( 1 0 )
できないわけではない︒最高裁での事実調べはいずれ証人尋問までいくだろうとの実務家の指摘もある︒理論的にも 四一一条に関するかぎり事実調べの方式を限定する理由に乏しいように思われる 次に厳格証明で立証した事実を公判顕出という一種の自由証明で破ることができるかという問題について考えてみ る︒判例はすでに見たように公判顕出という形での原判決破棄を認めている︒新たに犯罪事実を認定するのではなく 原判決の当否を判断するにすぎないことを理由とする︒有罪判決を破棄する方向では学説もほぼこれに同調する︒上
告審の誤判救済機能を重視する趣旨からである︒しかし︑無罪判決を破棄する方向では学説は判例の態度に必ずしも ろ︑上告審は右書面を公判顕出して四条号によって原判決を破棄差戻しした︒ 14
貞 ︶ 1
件︵列車妨害︶
1 0
七
で
― ― →
ヽ
右の有力説にも難点がないわけではない︒
まず﹁いわゆる経験則違反の場合﹂には厳格証明を必要としないばかり か︑場合によっては書面審理でも可としている点である︒ここに﹁経験則﹂とは個別的な合理性判断をこえた普遍的 な経験則
( a l l g e m e i n e E r f a h r u n g s s a t z e ) を指すものと思われる︒このことを前提としていえば︑事後的な記録審査
二審の事実認定にどの程度干渉できるかについては一1.つの考え方がある︒第一は︑経験則違反の限度でしか干
いで
あろ
う︒
考えたとき︑
この点に関しては︑事実誤認を理由として被告人に不利益な方向に原判決を破棄する場合のみ︑
( 1 3 )
違反している場合を除いては︑^審と全く同様の厳格証明を要求する有力な見解がある︒当事者間の力関係の違いを
( 1 4 )
これはおそらく正当な考え方というべきであろう︒実務家の間には批判的な考え方もあるが︑刑事裁判
の実態から目をそむけているか︑
あるいは治安維持の要求をむき出しにしているとの反批判を甘受しなければならな
つかの重大事件にかかわってきての私の実感である︒ 同調しない︒被告人の防禦権を侵害するおそれがあるからである︒つまり破棄判決には拘束力があるので差戻審にお
( 1 1 )
いて被告人は告知・聴問などの権利を十分に保障されないままに有罪判決を受けるおそれがあるからである︒
上告審における四一一条三号による破棄にも厳格証明を要求すべきか︒まず上告審においては厳格証明の実行は事 実上かなり困難である︒常にこれを要求することはその構成上不可能と言ってよい︒
の利
益に
﹂ の鉄則にしたがえば︑原審の事実認定に合理的疑問があれば再審理を命じても決して不当ではない︒厳格
( 1 2 )
証明を要求するのは被告人にとって過酷だとの見解もあるが私にはそうは思われない︒最高裁が望むなら弁護人は喜 んで応ずるであろう︒すでに第三審であるので︑被告弁護側にとって立証は決して容易ではない︒しかしやらなけれ
ばならないものならやるほかない︒弁護人はこれまでそうやってきたし︑
いわゆる経験則に
これからもそうするであろう︒これはいく
のみならず﹁疑わしきは被告人
八
上告審の事実誤認救済に関する・考察(庭山)
九
渉できないとする︵制限説︶︒この説では経験則というわくの内部の心証には干渉できない︒第二は︑経験則のわく内
の合理性の当否にまで立ち入ることができるとする︵無制限説︶︒これは心証形成が人間共通の理性的判断に服するこ
とを根拠として上級審の自由心証が侵先するとする考え方である︒第三は︑場合をわけて無罪に対しては経験則の限 度でしか干渉できないが︑有罪に対しては全面的に
r
渉できるとする点に近時疑問を抱き始めている︒そのいう経験則が真に普遍的なものであるなら問題ないが︑上告審ならそのような 普遍的経験則を見出しうるのであろうか︒数々の再審事例に直接間接に接してきた今︑右の問に対してイエスと答え る自信を失ってしまっているのである︒司法の現状では非公開の書面審理を侑用せよという方が無理である︒やはり
( 1 6 )
無罪判決をくつがえすためには公開法廷における厳格証明を必要とすると解すべきであろう︒
( 1 7 )
上告審における厳格証明が事実上不可能であることを前提として︑無罪判決に対する検察官上告を禁止する見解も
ある︒着想としてはまことに卓抜であるが︑﹁事実上﹂に力点を置いて考えるなら︑近い将来において検察官上訴の制
最後に﹁板ばさみ﹂
︵折
衷説
︶︒
︵拙著﹃自由心証
E
義﹄前掲:八貞︶
が︑経験則違反なら書面審理でも可とする かえって無実の救済の幅をせばめるおそれなしとしない︒たとえ愚直と
いわれようとも厳格証明をストレートに要求する方が効果的であろう︒これらは自らに対する戒めでもある︒
( 1 8 )
の問題を取り上げる︒上告審において自由証明による破棄差戻を認める場合︑破棄判決には拘 束力がある
1方︑下級審には厳格証明による制約があるので下級審が窮地に陥るというのがここでの問題である︒こ
の場合︑上告審の判断は︑差戻審において当該資料が証拠能力を取得することを条件としているものと解し︑条件が 成就しなければ差戻審はこれを除外して審理しうるとする見解︵船田三雄﹁上告審における事実の取調﹂中野還暦祝 賀・刑事裁判の課題︿一九七二年﹀四
0
三頁︶もあるが︑上告審で用いられた証拠を除外すれば︑上告審と同旨の判
限が実現するとはおよそ考えられないので︑
従前私は右第
1こ説に賛成してきた これが先に挙げた有力説である︒
をう
るか
︑ 断に到達しえない場合もあろう︒これこそ下級審は進退きわまることになる︒もっとも実務の実際では当事者の同意
( 1 9 )
さもなければ職権採用で処理されているようであり︑弁護士サイドからも格別の不満を聞いていない︒中 央集権的官僚体制下の下級審裁判宜が最高裁の判断に異を唱えるとはとうてい考えられず︑船田見解はこれを見通し て立論されていると言えなくもない︒上告審において自由証明で破棄すると差戻審が板ばさみになるというのは実は
﹁机上の空論﹂なのではあるまいか︒この点も問題提起しておきたい︒
最高裁調査官問題
一九八六年六月に松川事件主任弁護人・大塚.男氏の手になる﹁最高裁調査官報告書松川裁判にみる心証の軌 跡﹂が公刊された︒引き続き同氏の手によって﹁松川事件調査報告書全文と批判﹂(‑九八八年︑本田昇氏との共 編著︶も公刊された︒とくに後者は幻の調査官報告書の全文をわが国で初めて明らかにしたものであり︑心ある者に
衝撃を与えるに十分であった︒
さらに私に対し最高裁調音官への関心を喚起したのは同調査官の経験のある渡部保夫 教授の発言︵座談会﹁刑事裁判の実態﹂自由と正義
1九八七年二月号九頁︶であった︒同氏は昭和五二年から四年間
の刑事担当の経験をふまえて次のように述べておられる︒﹁私が調査した事件で破棄・差戻しになり後日無罪になった
上告審の在り方についての若え方の相違もありましょうし︑
認の問題には深人りしない人が多かったようでした︒
それに調査官の仕事は大変忙しいせいもあって︑事実誤 そういう数字的な比較からすると︑上告審段階で破棄・差戻さ
のが五件︑ほかに法律解釈で自判無罪になったのが1件でした︒しかしほかに調査官が一
0
人くらいおられましたが︑四
1 0
上告審の事実誤認救済に関する→考察(庭山)
たがって補助機構としての調査官がどうしても必要となる︒
一 五
0
頁︶︒調査官は裁判 ︵昭和五四年九月一日付では首席調査 一人あたり二四〇\二五0
件に上る︒し れ︑ある者は救われないとしたらこれほど不公平なことはない︒﹁まだ上告審がある﹂との被告人の血涙の叫びはなんの意味もないこととなる︒しかし軽々に即断することはできない︒たとえ仮定を行うにしても認定以前にもう少し実二月号
﹀
︱ 1
0
頁 ︶ 最高裁上席調査官の報告︵北川弘治﹁最高裁判所調査官制度について﹂法セミ増刊今日の最高裁判所︿一九八八年によれば︑上告審には民刑あわせて年間三千数百件の新受事件があり︑それをやや上回る数の事
件を最高裁は処理している︒刑事事件にかぎってみても新受は年間一︑五
00
件余
であ
り︑
理している︒これらをわずか;几名の裁判官が処理しているのであるから︑
調査
官は
約︱
︱
1 0
名で民事三室︑行政一室︑刑事三室にわかれて執務している
官一名︑民事・行政調査官一七名︑刑事調査官︱一名︑日弁連編最高裁判所︿一九八
0
年 ﹀
それを上回る事件数を処
官の命を受けて事件の審理および裁判に関し必要な調査をつかさどる︵裁判所法五七条二項︶が︑原則として事前調
タ バ ル ギ エ イ
査方式︑必要に応じて個別指示方式で補充するという形がとられている︒少し古いが昭和四
0
年刊の田原義衛著最高裁判決の内側︵ニ︱六頁︶によれば﹁刑事調査官は︑各合議の日の少くとも一週間前には︑調査報告書を完成し︑裁 情を知る必要があろう︒ いるわけではない︒また渡部氏の所感のごとく︑調介官の卜告審についての理解のしかた如何によってある者は救わ れて将来無罪になるべき事件がやはり相廿あるんじゃないかと︑
そんな感じがします︒﹂
.方的な報告書を提出しても裁判官はまどわされることはないのであろうか︒
もとより建前としては裁判は裁判官がやるものであり︑調査官は判断の素材を提供するにすぎない︒建前どおりにき ちんとやっていると言われれば︑部外者としてはそうですかと応じざるをえない︒だからといって疑問が払拭できて
調査官が予断偏見をもって調査し︑
された上でその事件の合議の日が指定されるのである﹂﹁しかも︑
宛︶︑多いときは五
0
件位︵同上一人につき一0
件宛︶も合議されるし︑みの合議であって︑
われ
る︒
﹂
つまるところは︑
すべて制度を運用する人に ︵この点も民事調査官の場合は異なっている︒民事では調査官の報告書が提出
一回
に少
くて
︱
‑ 0
件位︵裁判官一人につき四︑五件
それが毎週くり返えされる︒右は刑事事件の その上︑民事事件の合議も毎週行われるのである︒さらに大法廷の合議も原則として毎週一回行 調査官はすべての事件についてではないが︑調査の結果にもとづき担当調査官としての意見を付する︒調査官は原
則として単独で事件の調査にあたるが︑同室の調査官と個々の論点につき意見交換し︑民事・行政・刑事各室の調査 官が研究会を開いて問題点を検討したりする︒調杏官は原則として審議に立ち会う︒主として質問に応じるためであ
( 2 0 )
り︑積極的に発言するということはない︒
以上を前提としていわゆる調育官裁判について少し考えてみよう︒﹁調査官裁判﹂といっても︑調査官の調査内容と
意見とを最高裁裁判官ほどの者がうのみにしているなどと考えている人はいないであろうから︑これは調査官の判断 によって裁判官の判断がかなり影響を受けているのではないかとの危惧を表明したものであろう︒この種の危惧に対 しては︑学者間にも信頻の厚い元最高裁調査官の中野次雄氏は﹁制度あるいは仕事のやり方としてみた場合︑調杏官
が裁判の実質に不当な影孵を及ぼすような要素は全くないといってよい﹂と言いきる︵﹁最高裁判所調査官制度のこと﹂
法セミ増刊最高裁判所︿一九七七年﹀七三頁︶︒氏はさらに続ける︒﹁よしんば裁判官が自己の判断の︱つの参考とす
るため調査官の意見を徴し︑あるいは裁判書起案のこ四程としてまずその下書きを起草させることがあったとしても︑
そのこと自体に問題がないことは裁判実務を経験した者の常識である︒﹂そして次のように結ぶ︒﹁要は補助機関たる
調査官を利用する裁判官の自主性と識見の問題に帰着するのであって︑ 判官に提出しておかなければならない
t. 告審の事実誤認救済に関する・与察(庭山)
―]•四判時
︱四
一︶
けて最高裁で有罪判決が破棄される巾例が相次いだが︑ い^環として発表されたもいであるが︑
スウェーデンにおける 二審の有罪判決をそのま
者の検証レポート
9 / r i
法J
行政
はい
よ⁝
⁝ー
﹂
昭和五
0
年代の半ばから後半にか 対する信頼の問題だということになるのであろう︒﹂︵同頁︶日頃敬愛する中野元判事のは葉であってみれば私も考えこまざるをえない︒しかしここで筆を折ってはこの章を起
こした意味がない︒勇を鼓して
L I L
九向かってみることとする︒次に紹介するジャーナリストの所見︵松本正﹁裁判官
協議
会︑
そして調査官﹂今日の最高裁判所伯掲:こ
. .
貞 ︶ は↓笑に付することができるであろうか︒これは﹁司法記
この破棄ボ例はごく少数の特定された調査官にかぎられてい
たとはうのである︒これだけなら﹁調杏官の背たり外れ﹂︵同:ご一ご貞︶として︑当たらなかった被告人の不運を歎<
とされる:人の次の所感はとうていこれを看過することはできない︒﹁有罪の方ほかないが︑﹁破棄した特定調査官﹂
向で誤判をしても決して昇進に影脚しないが︑検察に遠慮なく無罪を互い渡す裁判官はとかく出世しない⁝⁝いまの
裁判所にそんな傾向があるのは否定できない︒﹂﹁破棄するよりも︑検察の主張を認めた一︑
ま支持した方が無難︒そうした﹃ことなかれ主義﹄を感じないわけではなかった︒﹂
どのような理由によるか知らないが︑渡部氏は昭和六
0
年四月七日付で依願退官︑北大教授に転じている︒同氏が青梅事件控訴審無罪判決︵東京高判昭四三・三・三〇判時五 1
五︶と梅田事件再審開始抗告審決定︵札幌高決昭六
O ・
にかかわっていたことは学界にもよく知られた事実である︒かつて伊達判事が中途退官し︑ご
く最近花田・下村両判事も中途退官したと聞く︒﹁ことなかれ主義﹂が裁判所を支配しているとしたら︑裁判所の自滅
( 2 2 )
である︒遠からず裁判官志望者は激減するであろう︒しかしこれは最高裁調査官だけの問題ではない︒ここでは当面
の課題に立ち戻ることにする︒
カネヨシ
萩原金美﹁最高裁判所調査官制度の比較法的検討﹂︵民商法雑誌一九八一年一月号一頁︶は︑
れがあるとの批判がある 上告調査官の研究を通してわが国の最高裁調査官制度につき次のような傾聴すべき改革提言を行っている︒①調査官の報告書を公文書とし︑訴訟記録中に編綴・保存し︑訴訟関係人等が利用・批判できるようにする︒②最高裁判決の理由中に︑調査官の報告書の全部もしくは一部を利用できるようにする︒③調査官の職務権限および活動について最
︵ 三
︱ ︱
︱ 頁
︶ ︒
高裁規則等において必要な法的規整を行う
右の③に関し︑調査官が裁判官の評議に出席して意見をのべることを明定するのは﹁調査官裁判﹂を助長するおそ
(前掲大塚•本田著三一二頁)が、
歓迎すべき事柄のように思われる︒刑訴法学界にも本問題に関する議論の起こることを期待したい︒ その余については司法の公正を担保する見地からは大いに
一三
頁︒
︵一
九八
四年
︶ 四七 四頁 以下
︒
( 1 )
たとえば拙著﹃民衆刑事司法の動態﹄(‑九七八年︶は基本的に日本刑事司法のあり方を問おうとしたものであり︑同﹃自由心証
主義﹄︵同年︶は日本刑事司法内部における合理性保障体系を模索したものである︒
( 2 )
第二回上訴・再審研究会︑一九八八年七月一↓四︑二五両日伊豆下田にて開催︒なお同研究会は昭和五八年度文部省科研費による︒
ここに記して謝意を表したい︒
( 3 )
報告当日には時間の都合により省略したが︑後藤昭会員のサジェションによりここに掲げる︒
( 4 )
白鳥決定以降の代表例として財田川決定︵昭五︱
・ 1
0 ・
︱ ︱
︱ 刑
集 一
︱
‑ 0
巻九号.六七三頁︶が挙げられよう︒
( 5 )
高木俊夫﹁上告審ーーー裁判の立場から﹂三井誠他編﹃刑事手続口﹄(‑九八八年︶九七一頁によれば︑実務関係者の間でこのよう
に略称されることがあるとのことである︒が最近ある研究会でこの言葉を用いたところ︑元判事の方に理解してもらえなかった︒
( 6 ) 高木・前掲゜
( 7 )
平場安治他著﹃注解刑事訴訟法下巻﹄一九八三年全訂新版二四七頁︒
( 8 )
たとえば田宮裕﹁上告の理由﹂刑事訴訟法講座一一︳巻(‑九六四年︶︱
( 9 )
参照︑宮城啓子﹁上告審の取調べ﹂高田・田宮編﹃演習刑事訴訟法﹄
( 1 0 )
河上和雄﹁上告審コメント1﹂前掲刑事手続田九七八頁︒
一 四
上告審の事実誤認救済に関する一考察(庭山)
一 五
( 1 1 )
宮城・前掲四七九頁ほか︒
( 1 2 )
同前
︒ ( 1 3 ) 田宮
・前 掲︒ ( 1 4 )
阿部文洋﹁控訴審﹂前掲刑事手続︵九五六頁︒
( 1 5 )
田宮
・前 掲︒ ( 1 6 ) 同旨︑熊本典道﹁
t
告審コメント2﹂前掲刑事手続︵九八こ貝︒( 1 7 )
田宮裕﹃刑事訴訟とデュー・プロセス﹄︵/九七こ年︶:.八四頁︒同旨︑熊本・前掲︒能勢弘之﹃刑事訴訟法
2 5 講
﹄(
‑九 八七 年︶
も同旨か︒小田中聰樹﹃刑事訴訟と人権の理論﹄︵.九八三年︶四
0 : 1
1 } 貝は︑一件記録によって重大な事実誤認を認めうる場合の
あることを否定しないが︑さらに進んで無罪判決に対する検察官
t
告を禁止するか否かの点については言及がないので︑同氏の立場は不明である。なお松尾•田宮『刑事訴訟法の基礎知識』(-九六六年)ニ――頁〔松尾浩也筆〕は「検察官上訴を制限していない現行法の基本構造に矛盾する難点はある﹂と指摘しているので︑立法論はともかく解釈論では無理との趣旨であろう︒
( 1 8 )
鬼塚賢太郎﹁上告審における事実の取調﹂公判法大系四巻(‑九七五年︶三二三頁︒
( 1 9 )
これは私の実体験︒なお参照︑高木・前掲九七五頁︒
( 2 0 )
なお参照︑田中二郎﹃日本の司法と行政﹄(‑九八二年︶六四頁以下︑日弁連編﹃最高裁判所﹄(‑九八0年︶五六頁以下︒
( 2 1 )
前掲・自由と正義同頁︒
( 2 2 )
宮仕えのきびしさが私に全くわからないわけではない︒長い間私立大学に勤め︑昭和五八年に国立大学に移ったが︑ごく自然に自
己抑制している自分がよくわかる︒大学の自治や学問の自由などの保障があり︑自分の望まないかぎり転勤の問題の起こりようの
ない大学教師にしてこれである︒しばしば転勤︵これは昇進︑場合によっては降格に結びつく︶のある裁判官が自己抑制しないは
ずがない︒しかし裁判官は司法官であって行政官ではない︒是非︑裁判所に自浄能力はないなどと言われないようにして頂きたい︒
他方︑研究者にも泣きどころがないわけではない︒かつて著名な上告審事件について某誌に頼まれて判例批評を書いたところ﹁時
期尚早﹂として没にされたばかりか︑いまだに原稿の返却にも応じてもらえない︒これはまだいい︒書く以前にすでにきびしく選
別されるのである︒学者の道も決して平担でないことを知って欲しい︵常に時流に乗っていればむろん別である︶︒