第 5 章 留岡幸助の人間観
はじめに
第1章から4章に於いて、留岡幸助の思想形成期、及び「民」と「官」の立場からの積 極的な実践に目を向けてきた。その中で、地方改良運動に内務省嘱託として従事したこと を考察した際には、現代とは異なる時代背景などを鑑みて、「本人が真に意図しなかった役 割を果たした側面はあるものの、幸助の働きすべてが民衆を抑圧する働きしか持ち得なか った無益なものだったとはいえないと考える」と評価した。また、幸助の活動をとらえて、
「現代社会の問題に鑑みて幸助の実践力を評価すると、率先して先駆的に活動した社会事 業家、留岡幸助、及びその実践が訴えかけるものは大きいのではなかろうか」とも既述し た。負の点に着目しすぎると、そこからは何も生れないと考えたからである。
その後、これらの論考に対して「留岡という人物はその言説を読めば多くの矛盾するよ うなことを言っているし、時代の被拘束性も逃れがたくある。平たく言えば、正と負の両 方を持ち合わせている人物でもある。これを一方から評価すると素晴らしく、又一方から 評価するときわめてネガティブな人物像が出来る。つまり留岡についての評価は二分され てきた。この二つを総合的に評価することは至難の業でもあり、二者択一的な発想でなく 違う視点から光を当てることが可能なのかどうか」、「留岡のこれまでの相反する評価、議 論はどうすればいいのか疑問は残されたままである」という批評を得た1)。
留岡幸助に関するこれまでの考察の中では、幸助が確かに国家的な視点で改良の必要性 を力説していたこと、社会防衛や国益志向というような国家主義的見解も含まれていたこ と、そのような要素故に、社会防衛的な発想で北海道への殖民を捉えていた面があること、
明治初期の他の多くのプロテスタントキリスト者と同様、治国平天下の思想を持った愛国 志士的要素が強かったこと、という幸助の前近代性にも簡単に触れてはいた。しかし、考 察の主たる意図は、現代の我々が幸助の姿勢から学ぶことにあった。目的は現代の我々が 学ぶということであったが、現代とは異なる時代に生きた留岡幸助の評価については、そ の時代性の中で行った。幸助の主観的意図は評価できるものであったとしても、帝国主義 化を強化するための「官」の動きにも積極的に協力したこと、犯罪者や不良少年、及び被 差別部落の人々に対する認識を改めようと志したにも関わらず、実は人権思想にかけた偏
見的な見解を示していたこと、などは、現代の我々からは批判できるだろう。しかし、そ れでも、室田氏が「時代の被拘束性」に言及しているように、人の思想と活動−歴史的事 実−は周知のとおり、時代背景や歴史過程、及び国などの地域性に拘束をうける。それら の影響から免れることは至難の業ではなかろうか。従って、そのことをとりわけ重視して、
可能な限りその時代の枠組み内で考察するように心がけた。そのことを念頭に入れずに批 判、評価をしても事実を見る研究にはならないと考えたためである。そうだとは言え、時 代性を理由に幸助が有した負の側面から目を背けてよいとは考えていない。
室田氏が、「たいていの研究者が、留岡のキリスト教信仰を基礎にした感化教育思想から 留岡の行動を高く評価しようとする一方で、他方では多かれ少なかれ歴史的事実の評価と かかわって、留岡の慈善事業思想あるいは社会問題認識・行動上の限界を認めながら、な いし消極的・批判的評価をしながら、研究が進められてきている」と指摘している 2)が、
本章もこの範囲を抜け出ないものと指摘されるであろう。「二者択一的な評価」であり、幸 助の「相反する働きを総合的に評価」するところにまで力量は及びそうもない。ただ只管、
歴史の枠組みから出ずに、プラスの面のみならず、重大なマイナスの面もあったと、科学 的、事実的な研究を志向することに努めることにする。オリジナルな「総合的評価」が必 要であることに異議はないが、まずは、事実を知ること、歴史的人物が時代の拘束の中で どのように考え、現状を打破しようと時には現実に妥協しながら、それでも積極的に実践 していったか、という事実を真摯な態度によって考察することも重要だと考えるからであ る。
例えば、日本の過去のアジアへの侵略について、もちろん正負の評価はされるべきだと は思うが、「非文明的な人種を教化し、インフラなどを整えたという功績がある」というよ うに、真の意図や殺戮などのプロセスを見ずに、一部の結果でもって良かった、悪くなか ったと評価する姿勢には到底賛成することは全くできない。しかし、逆に、悪かった、責 めに足る、許しがたい、という評価に基づいて、「悪かった、悪かった」と責められ続けた 挙句の、「またか、嫌になる!とりあえず何も言うことはできないから、謝っておこう」と いう姿勢からは何も生まれない。過去の「自虐的」な歴史に封印して、形式的に謝るとい うのではなく、「事実を知ってほしい、未来的な友好へ向けてきちんと学び、認識して欲し い」ということがまずは望まれているのだと考える。悪い点は悪い点としてその事実を見
なければならない。逆に「ああされた、こうもされた」と一方的に責めるばかりではなく、
何が原因だったのかと自分達の点についても顧慮する必要もあると思う。過去の問題を自 覚的に振り返り認識・反省するということは、同じ過ちを繰り返さないためにも必須のこ とであり、そのためにも批判的な研究は不可欠である。そこから学ぶ点は多々存在するは ずである。
このことは、幸助の負の側面に目を向けることにも言えるはずである。歴史的に負の役 割を「官」として担った幸助の思想の特徴をみることによって、我々は主観的な意図に流 されてはいけないこと、時代の流れや国家の意図に押し流されてはいけないことなど、過 去から学ぶことが浮かびあがってくると考える。そこで、本章は、幸助が内務省の立場で 果たした負の側面を認めた上で、主観的意図の底流をなしていたキリスト教的人間愛の側 面−負の側面に関しても原動力となっていたはずのもの−に目を向けることにする。幸助 の国家観と人間観が非現代的なものであったことはよく指摘される。藤野豊氏は、幸助の
「部落問題に対する皮相な認識そのもの」については時代制約によるものだとして批判を 留保している 3)が、幸助の被差別部落の人々に関する言説はどのようなものだったのだろ うか。暗黒面に生きざるを得なかった人々に光を当てることを使命と感じたキリスト者、
留岡幸助は、その時代の拘束の中で実践と共に人間についてどのように思考していたのだ ろうか。幸助と同様−そのレベルと質には相違はあるとは思うが−政治的な働きも果たし たことで知られる同時代のキリスト者、海老名弾正の人間観と簡単に比較しながら、幸助 の根底にあった人間思想の特徴を浮かびあがらせることに努める。この際、幸助の言説に ついては差別的な表現もそのまま引用し、これまでの論考と同様、幸助の著作や言葉を集 中的に、また忠実に分析することに特に力点を置くことにする。
1.被差別部落問題への幸助の関与とそれに対する批判
安部磯雄や片山潜、山川均といったキリスト者が社会事業ではなく、社会主義によって 問題を解決しようと考えが移行していったのとは異なり、留岡幸助は、あくまでも体制内 で、天皇制国家を尊重しながら活動した。救世軍の山室軍平 4)、岡山孤児院の石井十次等 と共に、明治維新以降の近代化−資本主義化−の過程に於いて発生した深刻な社会問題に 社会事業家として取り組んだキリスト者であり、常に念頭に置かれていたのは、「活ける」
−実践的−キリスト教での活動であった。
留岡は被差別部落問題に関しても、水平社運動に理解を示したような発言を繰り返した が、旧来の差別的な視点の排除を意図して行った言説の中に、差別を逆に煽ってしまうよ うな描写を多々行っていた5)。つまり、「そこには社会的に弱い立場に対する共感はあれど、
真にその人たちの持っているニーズへの充足や人権という面からみれば、慈善事業の枠組 みから大きく離れているとは考えられない。ここに留岡幸助の明治末期から大正期にかけ ての可能性だけでなく、問題や限界もあるのである」や「留岡には人権としての思想は弱 く、むしろ国権的な観が強い。民衆そのものの思想的営為の期待よりも知識人、富者、篤 志者の理想、倫理に期待する向きが随所に窺える。民衆の悲惨な状況を、現実を直視する ことはしたけれども、その改良の思想の中には、人権や天皇制への視点等、現在の視点か らは批判せざるをえないものも存する。犯罪や非行を社会防衛的に把捉する視点も随所に 見られる」と室田氏が指摘している6)ようなマイナス点が幸助には存在したのであった。
留岡幸助の被差別部落問題への関わり方を批判した藤野豊氏は、天皇制国家の帝国主義 化の過程で国民の思想統制を中枢的に担っていた内務省の嘱託として部落改善に関わった 幸助の政治的立場と姿勢を問題視している7)。この批判については、第3章で地方改良運 動への従事を考察したときと同様、本人の主観的意図ではないものの、そのような深刻な 歴史的負の役割を担ったことは確かであり、注視しなければいけない点だと考える。藤野 氏は、また、「かれの信仰が、天皇制国家の国民統合政策にどのように利用されていったか ということをより重視する。留岡に近代日本のキリスト教の負の側面が象徴的に示されて いると考えるからである」との見解を示しているが、これに対して田中和男氏は、「『かれ の信仰が、天皇制国家の国民統合政策にどのように利用され』たか、ではなく、かれの信 仰が、天皇制国家の国民統合政策をどのように利用したか、が重要であった。留岡のキリ スト教ヒューマニズムを無視しては、『かれがなした社会的諸事業が内務省の政策と深く結 合していた事実』を論じることが出来ないからである」と反論している8)。「部落問題への 留岡の関わりは、内務省嘱託という外的な条件にのみ規定されたのではなく、キリスト教 への入信、監獄改良への関心・研究、非行少年の感化教育実践のための家庭学校設立とい う、留岡の個人的な福祉実践・内面的な信仰の動機にも方向付けられていた」と田中氏は 力説しているのだが、筆者も、幸助の内務省嘱託での働きと主観的意図は両輪であり、片
側である後者についても顧慮する必要はあると考える。幸助が内務省嘱託に就任したこと は、キリスト教的ヒューマニズムに基づく主観的意図なしには説明ができない。帝国主義 国家の国民統合のため内務省が幸助を利用した。その一方で、幸助も暗黒面に光を当てる ために、耐えて、内務省を利用しようとしたというのは正しい判断だろう。役人の世界や 日本の法制にも精通していない幸助の肩書きはキリスト教牧師であり、「窮屈な役人の世 界」で「随分といじめられたらしい」ことを幸助の子息、留岡清男は語っていた 9)。この 伝聞は、そのことを端的に物語っているといえよう。
では、本題の幸助の人間観に入ることにする。
2.幸助の人間観
(1)共働を支える愛と同情、困難と試練
「親を愛し、人を愛するは先天的に有したる吾人の性」であり、「人は同情の念に動かさ れて初めて利己なく私心なき公明なる献身的の行為を顕はすこと」ができるのであって、
「人の心情の働きに於て最も美はしきものは同情の念」だと幸助は信じていた10)。さらに は情と献身的行為について幸助は言い換えて、「人の究乏を充たし、困厄を救ふは自然の情 にして亦人類の義務」だと表現した。「人は共働の作用により初めて生存を全ふする者にし て社会の永久に維持せらるゝは此が為なり」と幸助は考えていたのであった11)。人間には 同情と愛という質が備わっており、困った人を助けたいと思うのは天性のはずである。こ の天性に基づいて、困難や試練にあっている人達との共働が成り立つはずであるのに、近 代化の世の中では、この天性の情、愛というものが他人へと向きにくくなっていることを 幸助は嘆いていた。それが「人間社会の弱点」になっているのだというのである12)。幸助 が家庭を重視したことも、このような人間観に由来している。幸助は、同情の念が最も濃 くあふれている場所こそが家庭であり、家庭なくしては同情の念を涵養できないと考えて いたのであった。
他人の困難に対しては、愛と情が自然と発せられるように人間は本来なっており、それ によって共働が成立するのだと幸助は説明したが、では、人間自らが被る困難と試練につ いてはどのように考えていたのだろうか。幸助は、それらについては、寧ろ感謝、歓迎す るべきだと主張していた。人間は「艱苦に在りて初て能く謙遜となるなり、・・・艱苦一度
び彼を見舞ふ時は傲慢は変じて謙虚となり、謙虚遂に彼を有徳の士とならしむ、・・・人の 艱苦に在るや彼は常に同情豊かに」なるためだというのである 13)。「世に厄難の絶へざる は人類を成玉せん為なり、世を清潔ならしめん為なり、・・・人類を成玉せんには刺激物な くんばある可らず、この刺激物を名けて試練と云ふなり」と考えていた幸助は、「人の発達 進歩するは艱苦にある」と確信していた14)。艱難・試練を受けるたびに、真面目さも、堕 落へと続く軟弱や女々しさの打開にも拍車がかかり、それによって人間は発達進歩すると いう説明がされていた。人間は、不完全さを有する存在であり、広い知識と深い道理を求 めたとしても、「一方に偏し易く、其平均を保ち難」いという欠点を有していたというのが 幸助の人間観であった15)。
(2)物質にまさる人間の霊性、人格
「日本社会に対する精神的危機論とも解せ」るのだが、「人間の霊性・精神的文明をより 尊重するところ」が幸助にはあった16)。資本主義化によって物質主義が横行し出したこと を幸助は憂い、時勢に逆らうような人間観を鼓吹しようとしていたと言える。
「金銭よりも更に大切なるものは道徳なり、人は金銭にあらず、然ども道徳は人たる所 以の最も大切なるもの」である 17)、「一も金、二も金、金がなくては夜も明けぬ、昼も暮 らせぬといふのが現在の社会で、・・・けれども私は惑ひなきを得ぬ。一体此の世の中は経 済あつての人間か、人間あつての経済か、今の世の中は此の分界線が極めて混沌として居 るから、色々と人の心に苦しみが起り煩悶が生ずる。ラスキンは斯う云つて居る。人間を 忘れて金々、経済々々といふのは番頭経済学ショップキーパーズエコノミー
に過ぎぬと。彼は経済学で主要の問題として 云ふ所の富の造成なるものはただ善人を造ることであると云つた。・・・何れも是れ経済の 最大目的は品性ある人間を生産するにありといふ結論を生み出すのである」と主張した幸 助は、「人を善くするといふことそれ自身が国家の富である。然るに人間を善良にすること」
に務めなければならないと考えた18)。この「善良な人間」ということにこだわった幸助は、
時にはそれを「真人間」という言葉でも表現した 19)。また、同時に、「日本には此人格な る語はなかつたが、修養には志したことであるから、人格なるものの存在は認めて居つた のである。所謂『武士に二言がない』といふ語の中には此人格なる事がありありと表はれ て居る。徳川時代までは此人間を作るといふ事を学問の主旨として居つたのである」とい
うように20)、「人格」も同様の意味で使っていたと考えられる。「富を作る最大の資本は人 格」であり、人格の養成こそがまずは必要であるとも幸助は指摘していた21)。
このように幸助は、善人性、真人間、人格、という言葉で精神的・道義的側面にこだわ った人間観を説いたのだが、つきつめるところそこには霊性の重視と姿勢があったといえ よう。「人はパンのみに生く可らざる理由を述べん、此れ余の論ずる焦点なればなり。・・・
人に霊性あり禄を以て養はざる可らず。人パンを需めて此世に生活するは目的を達せん為 なり、・・・物質的肉体より霊性的心意の貴重なるを論じ得て明なりと謂ふ可し、・・・吾 人は憂ふ真生命なき人物如何程社会に生存するも其社会は死物たるを免れざるなり、否死 物のみならんや、其社会を毒する実に大なる慨くなり、願くは吾愛する同胞兄弟姉妹よ、
人は動物性あり霊性あることを知り肉体を養ふの必要を知らば進んで霊魂を養ふ神出的の 教の尚必要なるを忘る可らず、・・・養ふべきは肉体なり而して必要なるは霊魂の修養なり 矣」との見解を幸助は示していた22)。つまり、人間に欠かせないものは物質的なものでは なく、霊性の開発と徳性の涵養だと確信していたのであった23)。
(3)主義、理想
人間性は開発、涵養できる、またそうすべき霊性を有しているというのが幸助の主張で あったのだが、人間にはさらに、主義や理想も必須だと幸助は力説した。「海陸軍は拡張せ られて世界の一大軍国となり、学術は進歩し、政治は革新せられて天晴れ一等国民となつ たやうに自惚れて居るが、其実日本国民程愍れな国民はいないと自分は思ふ。・・・それに は理由がある。日本国民は色々のものを持つて居ても、一の大切なものを忘れて居る。即 ち日本国民は立派な人生哲学を持つて居ない。平たく云へば理想がない。これが日本国民 の一大欠点である。金があつても、智慧があつても、教育があつても、理想のない国民は 最も愍れむべき国民ではない乎」と24)幸助は、日清・日露戦争以降の資本主義化による物 質的繁栄に浮かれ出してきた日本という国とその国民を危惧している。
そして、理想の重要性を説くと同時に、主義がいかに忘却されつつあるか、という嘆き も幸助は吐露していた。「古来人とは何ぞやてふ問題に答へたるもの多しと雖、人とは主義 なりとの答ほど明了簡潔なるものはなかるべし、人の人たる価値は主義に立ち、主義を行 ひ、主義に倒るべきものなり、其故に主義の人はパンの誘惑に動かず、利達の試に迷はず、
地中を穿ちて突出する磐石の如く如何なる時、如何なる場合にも断乎として動ぜざるべし。
無主義の人は何事にも恐れを抱き、何事にも遠慮をなし、遂に主義を失ふと同時に自己を も失ふなり、謹まざる可けんや、無主義の人の定まらざるは浮萍の其よりも尚甚しきもの あり」と考えた25)幸助は、明確な理想を有していた。幸助の理想は、欧米諸列強国に対峙 し得る国にするため、近代化を果たすこと−具体的には幸助の場合、これまで光が当って いなかった、見捨てられていたような「暗黒的」惨状にあった人々に活けるキリスト教で 光を当てて救済していくこと−にあったといえよう。そして、自分自身が信じた「平等主 義」でそのような理想を遂行しようと実践したのであった。
(4)平等26)
幸助がキリスト教を青年期に信仰するようになった理由は、既述したが、「平等主義」に あった。神の前では町人の魂も武士の魂もみな平等である、という教えに幸助は魅了され、
それまでは「耶蘇」と言って嫌っていたキリスト教を信じたいと思うようになった。町人 出身の幸助は、幼少期に武士の子供とけんかをした際、理不尽なその後の処遇−物事の状 況や正義よりも身分の上下によって全てが決まってしまうこと−に腹を立てた。この体験 以降、身分の上下関係は幸助の「トラウマ」になったのだろう。心のどこかで常に平等主 義に対して憧れを抱き、虐げられる者の気持ちを自らの立場に重ねて考えることができた と推察する。
実際、幸助の言説の中から、平等主義を心がけていると思えるものを見つけることがで きる。例えば、「東洋の道徳が一方に偏して中庸を得ざりしことは従来我国の倫理学者と宗 教家の論破したる所にして、夫の孔孟の教にあるが如く、夫に厚くして妻に薄く、臣に刻 にして君に寛なるが如きは我も人も知る所なり。・・・翻て女子の卑き位置と下層社会の憐 憫すべきを忘れたる如き、・・・看よ従来東洋に於て救児事業、監獄改良、女子教育、堕落 婦人救済事業、労働保護問題の如きもの実行されしか、曰く然らず。・・・吾人は君上の尊 敬すべきを知ると同時に能く下民の愛撫すべく提誨すべきを忘れざるなり」という主張27) には虐げられてきた「民」を見る目が明らかに備わっている。また、「濫りに高遠の点に着 眼し道の邇きにあるに気付かざるに至りては心霊的空気を自由に呼吸するの人と謂ふ可ら ず、精神的糧食を得るの道必しも学者の言、牧師の説而已にあらず、却て老翁媼の俗談に、
農夫の談話に、小児の片言に、婢僕の世間話の裡に驚くべき真理の存することあり」とい う幸助の指摘28)には権威主義を戒める見方が存在している。幸助の一面として、平等主義 に基づく人間観があったことは確かである。
しかし、身分の上下による優劣の差の否定、弱者への共感は確かに見られたものの、人 間を区別してとらえる見方−矛盾点、いわゆる負の面−も幸助には、同時に存在していた。
その点を以下では見ることにしよう。
(5)偏重的人間観−平等主義とは矛盾する人間観
「政府は曾て行政整理を断行し、約三千万円を節約した。之れ政府の事業としては可な り大事業であるに相違ない。けれども若し更に一歩を進め人間を整理し、且つ之に関連す る事柄を整理したとすればどうであらう。単に自分の大雑把な計算を以てしても、優に三、
四億円の巨額を余すことが出来る。是れ今日自分が『人間の整理』てふ問題を掲げた所以 である。・・・然らば則ち救済事業の如何にして資源を造り出すか。・・・如上列挙したる 人間整理に依つて巨額の金銭を余し得るとすれば、こは独り救済及び矯風事業等の人道問 題に止まらない。更に経済的眼光を以てするも一大問題と謂はねばならぬ。右列挙したる 如く、救済事業は所謂不生産的の人間を救ひ、之を善良なる人物に育て挙げる而已ならず、
皆まで出来ぬにしても其内の或部分を生産的人物となすことが出来たならば・・・」29)と いう文言は、幸助が、「人間の整理」と題して、「犯罪人、出獄人、浮浪徒、失業者、窮民、
不良少青年、聾唖、白痴、低能、癇癪及び不具児童、癩病、肺結核、梅毒、精神病患者、
芸娼妓、私生児、堕胎、淫売婦、自殺、離婚、特殊部落民」を被救護人としてその人数と 関連費用を列挙し、社会防衛的観点から教化・改善することの必要性を訴えたものである。
本当に心の底から「人間の整理」と思って書いているのか否かについての断定はしかねる が、社会・国家にとってそれが金銭的に必要不可欠であることを個別の数字を挙げて実証 しようとしているものである。自分も苦しんだ上下関係に触発されたことも一因となり、
社会の暗黒面に生きざるを得ない人々を活けるキリスト教で救済していくことを生涯の使 命と決めた幸助ではあったが、ここからは人間を普遍的に平等視する姿勢はうかがえない。
「国に厄介なるもの少からずと雖も白痴の如きは其最たるものなり、此の故に白痴教育 に従事するものは慈善家中の慈善家とも称せらるべし・・・此の種に属する白痴の最大多
数は自活の民となりて国家の負担を減少せしむるを得れど」30)や「浮浪者と犯罪者とは大 なる一種の害虫なり。社会の安寧秩序は之れが為めに攪乱され荼毒せらる。・・・其の害虫 の一たる浮浪者が社会に及ぼせる弊害の程度は、真に意料の外に出づるものあり」31)とい う特定の社会的弱者を名指した言説は、前述のものよりも、更に差別的表現は露骨になっ ている。
また、「貧民」に対しては、「何れの国に於ても貧民窟は危険なるものに相違なし。貧民 は犯罪者と国境を隣りせり。特に貧民窟は犯罪者が潜伏して社会に向つて健闘する屈強な る陣営たり」32)や「『貧乏人の子沢山』といふ諺あり、之は吾人の経験が認識する真理也、
而して此原因は如何といふに吾人の社会観によれば、下等なる者程生殖力甚しき也、蛙が 卵を生むや一腹に千といひ、豚は一腹に十以上犬に至りては五六疋となる、斯の如く下等 なる生物は一般に其生殖力盛なる者也、元来人間に上等下等の別はなきものなれども、社 会境遇の然らしむる所より所謂上等社会、下等社会なるものあり、されば貧民部落に住む 所の貧民は先づ下等なるものと見て可ならん」ということも語っている33)。ここで展開し ている「子沢山」という独自の考えについては、被差別部落について触れた文章にも取り 入れられており、その際には「被差別部落には双子が多い」というようなことも示してい る。幸助の文章には、数値が出てくること、また、「特定の町や村に行って調査してみたと ころ・・・」や「統計を調べたところ・・・」、と前置きしていることが多い。一般の人々 を「学術的に」啓蒙しようという意図に基づいてなのだろうが、言説の信憑性については 不確かである。状況説明が夙に細かく、また、物事や状況を分類し、その分類に応じて自 説を展開しているというパターンが多く見られる。先にふれた「白痴の種類及び其教育に 就いて」という言説においても、白痴を3種類に分けて話を進めている。被差別部落に関 する講演や小論に於いても、人々の生活様式を事細かに描写している。このような幸助の 筆致が人々の違和感をあおり、差別的見解を強めてしまったとも言えるだろう。この幸助 の「特異性の強調というある種の偏見に基づく傾向」は、「犯罪に関わる下層社会に向けら れたものであったと思われる」という説明もある34)。
さらに、平等を心がける配慮が足りない表現は、日本の特定地域にまで及んでいる。「竊 盗が凡ての犯罪に優つて多いことは各地を通じての原則であるが、島根県のもマ マ最も多いの は竊盗である。之れに次ぐのは詐欺で、就中最も多いのは誣告罪である。而して此の誣告
罪に就ても同県中最も多いのは出雲である。出雲と誣告罪、是れ果して如何なる関係を有 して居るのであらうか。詳はしい統計がないから、確かに斯うだと断言することは聊か謹 慎を欠く訳であるが、之れを地理的に云つて、出雲は山国である。山国であるから交通が 不便である。同じ山国でも信州の空気は乾燥して居る、だから信州人の頭脳は甚だ透明で ある。其所になつて来ると、出雲などは大に信州抔と趣を異にする。冬は雪が多い、其上 四時雨が多い。此等地理的気象的関係から人の心も自ら沈鬱に流されざるを得ないことに なる。茲に猜疑とか、嫉妬とか云ふ情が鬱結するに至るのは蓋し自然の結果であらう」と
「断言することは聊か謹慎を欠く」とは言いながらも、もっともらしい推察で自説を展開 している35)。このような論法は、巣鴨家庭学校の理論を大々的に実験する場所として北海 道を選択した際にも見受けられる。日本の文明は九州から徐々に進んでいき、北海道がそ の最も発展する最終の場だというようなことも言っていた。
そして、幸助が持っていた国家主義・日本主義をうかがわせるものとして、「なぜ歓迎す るかと云ふと西洋人は馬鹿な金は使ひませぬのに、日本人に限りて茶代などを無茶苦茶に 沢山やる。だから何処へ行つても日本の中等以上の旅行者は歓待される。で、日本人は心 が奇麗で西洋人のやうにみつちり汚ない事はないから、ぱつぱつと金を使ふ癖がある」と いう記述がある36)。このような他民族・他国家に対する差別的発言は、確かにそういう面 もあるかもしれない、と一瞬思われるような場合もあるだろう。しかし、「日本人は心が奇 麗で、西洋人は汚ない」と言い切ってしまえるところに、人々を精神的に導いて啓蒙して いこう、という立場の人物には好ましくない要素がはっきりとうかがえる。特定のグルー プの人々をステレオタイプ的に決めつけて、その考えを煽るような言説を行うこと、この ような自文化中心主義−エスノセントリズム−的要素を幸助は有していた。平等主義を心 情としていながらも、幸助は、一段高いところから弱者を見て、遅れている、怠け者だと 心の片隅で断定していたのだと思う。そこには、相手の立場に立って真から共感する、と いう姿勢は欠落していたと考える。
明治維新37)以降の世の中で、幸助は、新しい日本の国づくりをめざす人々が集まった同 志社で学ぶことができた。また、内務省嘱託として調査・講演などで日本各地を周る機会 も得た。官僚をはじめとする社会の上に立つ人々との交流は、幕藩時代の町人として苦悩 した幸助に、上から物を見る視点をも生じさせたのだろう。また、幸助の素養となってい
た儒教38)による人間観も、人間を上から二分的に見る視点を与えることに作用していたと 考える。次にそのことについて見てみよう。
(6)偏重的人間観−二分化的人間観、君子、小人
人間に理想が必須だと幸助が考えていたことは既述したが、「国に理想なくんば其国は高 尚なる進歩を為す能はず、人に理想なくんば其人は高尚なる品格を養成する能はず、・・・
君子の品格は理想の結果と云はざる可らず」とも幸助は言っている 39)。また、「至誠に縁 遠き政略は真正の政略にあらずして不正直なり、世人は不正直を以て政略と呼ぶ甚だ便利 なる語なりと雖君子は深く之を恥となす」とも主張していた40)のだが、幸助は、理想を有 し、姿勢を重視する君子と、理想がなく高尚ではない者、至誠からほど遠い不正直な手段 でも政略とよんで利用する世人、というように人間を二分して説明していた。この考え方 には幸助が有していた儒学的素養からの影響が明らかにうかがえる。
幸助のこの二分化した人間観を物語る言葉は、「君子」以外にも「小人」「大人」という 表現が用いられている。「小人」は「君子」の反対意で使用されており、被救護が必要だと 幸助が訴えかけていた犯罪者はこの「小人」の範疇に含まれることが示されていた。「抑々 犯罪なるものは犯罪者自身の身心に於る欠乏より来るものなり、渇しても盗泉の水を飲ま ず、熱しても悪樹の蔭に宿らざるは男子にして初て為すを得べし、万人を通じて望むも到 底得可らざるなり、小人窮すれば戻行し、詐欺し、窃盗し、甚しきは強奪し殺戮するは吾 人が眼前看る所の事実なり、細かに犯罪の生ずる所以の理を分析せば、一部分は犯罪者自 身の罪にして其一部は国家も其責任に任せざる可らず」と幸助は最後の部分に於いて国家 の責任にも触れているのだが、前半に於いては「小人」の説明と犯罪者は「小人」だとの 指摘を行っているのであった41)。しかし、「君子」と「世人」「小人」というような二項対 立で人間をとらえていた幸助は続けて、「人の性元とマ マ善なり誰か初より好みて罪悪をなす者 あらんや、彼れが本善の性遂に凶悪に化するまでは様々の原由と歳月とを経過せざる可ら ず」とも語っていた。つまり、人間に質の違いはあっても、人の性は善だという性善説を 幸助は支持していたことがここからはうかがえるのであった。
3.比較としての海老名弾正の人間観の概略
ここまで留岡幸助の人間についての考え方をみてきたが、それでは、同時代のプロテス タントキリスト者として指導的役割を果たした海老名弾正の人間観はどのようなものだっ たのか、海老名が「我が常に高調する世界観、人生観、国家観は悉くこの著書中に発表し てある」と記している『人間の價値』なる著作を基に概観してみることにする。ただし、
ここでは、比較としてふれるだけで、海老名の思想全体を明らかにすることを目的とする ものではないことを予め断っておく。
(1)情、教養、人格
海老名は、「人間ほど貴重なるはない」と考えていた42)。また、「此人格と云ふのは人間 に依つて初めて實験せられた現象で、天地廣しと云へど萬有多しと云へど、人にのみ存す るものである。けれども中には此貴き心的状態に心付かずして、空しく人生を過ぎ行く者 もある」との見解を示して43)、幸助同様、人間には人格が必須であるとの説を展開してい た。しかし、これらの人間、人格という海老名の観念の背景には、幸助とは異なる自然観 が横たわっていた。海老名は、自然とは人間が克服・超越すべきものととらえていたので あった。これに対し、幸助は、第4章で既述したように、そこにある自然そのものの存在 価値を高く評価しており、このような自然観の相違に目を向けると、一見すると同一内容 を説いているような両者の人間観が、実はその深層に於いて異なるものだったと言うこと ができるのではないかと考える。
例を挙げてみてみると、「肉體の救済は米穀を以てすることも出來やう、知らず心霊の救 済はそも何者を以てすべきであらう。・・・心霊の救済とは何事であるか、外ならず、自然 の束縛を脱して心霊の本義を實現せしむるにあるのである」という海老名の言説44)は、物 質よりも霊性の涵養を重視するべきだとの幸助の主張と同一のものであるが、幸助には自 然の「束縛」という視点は見受けられない。また、「犠牲といひ克己といふ、これ決して己 を亡すのではない。「眞我」を発揮するのである。即ち人格である。人格は自我の中にある。
この人格の光輝を発揮して、始めてマ マ よく自然を超脱することが出來る。花鳥風月には人格 はない。この天然を超脱して人格を實現する、こゝに心霊の価値がある」という海老名の 言葉45)は、幸助の考え方とかけはなれているように感じる。幸助は、自然の利用、自然の 感化という点を重要視しているのであって、「超脱する」という視点から天然をとらえては
いない。海老名と幸助の人間、人格、心霊の救済についての考え方は、同一ラインにある ように一見できる。しかし、自然観までを含めて人間観を比較した場合、そこには明らか な相違があったのである。
また、情ということについて−仁愛と慈悲を中心にした「情感」と海老名は表現してい るが−海老名も、その点に人間の価値があるのだと主張した。人間に備わっている情感に ついて海老名は、「古の哲人には餘り尊重せられなかつた跡が見える、寧ろ厭はれたやうで ある。古人はおほまかに七情といつて、喜怒哀楽愛悪欲として居つた。然れどもこの情能 には非常に尊重すべきものがある、例せば仁愛の如き、慈悲の如き、乃ち聖人や仏菩薩の 盛徳を形作る要素であつて、その品位価値に於ては智能も及ばないものがある」と説明し ていた46)。
さらに、霊性の開発、徳性の涵養、人物・善人・人格の養成が人間には必要であると幸 助は説いたが、海老名もこの点に類似の教養を重視していた。「教養即ちカルチユーアがな ければ、人間もはや進化発展の前途は見えない、苟も之れあらば、身體精神兩つながら無 限の将来をはらんで進化し発展するは疑ない」と主張していたのであった 47)。ここには、
前述した自然観と同様に、幸助にはそれほど顕著に見受けられない海老名の特徴が現われ ている。「進化」、「発展」という概念である。海老名が、帝国膨張論を支持して朝鮮半島、
中国大陸への膨張を鼓吹する論陣を張ったことはよく知られていることであるが、海老名 の思想の中には、これと共鳴する「進化」や「発展」が多々見受けられる48)。
(2)偏重的人間観
海老名は、土人と名づけて、次のような説を展開していた。土人とは「此処ばかりは断 じて去るまじと執着するものである。既に進取の気概なきが故に、偏い其保守的観念に支 配せられ、識らず知らずのあいだに文明の敵と」なる、また、土人は「昆蟲の如く、天暖 かになれば徐々として這ひ出て來り、天寒くなれば忽ち土中にモグリ込んで鈍乎として動 かない」のだと49)。足尾銅山による鉱毒事件は、怒りと同情の世論を呼び起こし、多くの 学生達が実地調査と称して現地を訪問した。この出来事について、海老名は、「土人」とい う表現を使いながら次のように記述した。「彼の一時は日本全国をも騒がした足尾銅山に對 する野州人の哀訴の如き、申分は多々あるべけれども、詮じ來れば渡良瀬川の氾濫する土
地に戀々たる土人根性の発露ではあるまいか。・・・彼の数千の貧民を率ゐて、北海又は朝 鮮に雄飛しないのであらう。吾人は彼等に此壮圖なきを當初より遺憾としたのである」と いうこの言説 50)の中には、共感の情が果たして見受けられるだろうか。海老名は、「日露 戦争は端なくも此等大多数の昆虫的生活を営む我同胞を変化して冒険なる飛鳥とならしめ たのではあるまいか。我忠勇武烈なる同胞は今や満韓到る処に於て永久忘るべからざる墳 墓を造営しつゝある。・・・満韓の天地は今や既に我墳墓の地域となつた」ということも語 っている51)。ここでは、「冒険なる飛鳥」が肯定的意味合いで、「土人」の「昆虫的生活」
の対極に置かれている。海老名の考えにいつも潜在していた「進化」「発展」の概念にそっ て、「昆虫」から「飛鳥」に日本国民が日露戦争をはさんで飛躍した、と指摘されている。
海老名は「今日の如き帝国の隆盛」や「帝国の発展」という表現も使っている 52)のだが、
国家を幸助も同様に重視してはいたが、「帝国の隆盛」とは手放しで考えていなかったはず である。日清・日露戦争を契機とした資本主義化によって物質主義が横行したため、幸助 は、精神的・道義的な危機観を感じた。そして、霊性的な人間観を強く抱き、鼓吹しよう とした。海老名と幸助の相違はここにもみられると言って良いだろう。
以上のように幸助と海老名には、相違点はあるものの、似通った人間観があった。両者 ともに偏重的な人間観も有していた。海老名の思想については、批判点53)ばかりではない とは思うが、ここで概観しただけでも、幸助の偏重的人間観が同時代の指導的プロテスタ ントキリスト者、海老名弾正のものと比較して、著しくかけ離れていた、或いはその偏重 の度合いが海老名よりもかなり強かったとはいえないようである。
おわりに
田中和男氏は、浮田和民や教育学者・乙竹岩造の考え方を例に挙げながら、近代国家づ くりと国民形成について次のように指摘している。「国民としてのまとまりの形成と、国民 にふさわしくないものの排除や同化が平行して行われた。例えば、明治末から大正時代に かけての『社会の流動化』の中で、絶えず求められたのは『健全な国民』の育成であった。・・・
健全な国民として見なされない障害者は人間としての価値をマイナスとされた上で、世の ため国家のためという名目で、国家秩序の中に包摂されようとしている。健全でないとさ れたのは、身体・知的・精神障害者だけではなかった。病人もそうであった。・・・非行少
年や孤児なども、健全ではない国民の予備軍と見なされ、社会の健康を乱す病原に譬えら れた」と54)。そして、留岡幸助や石井十次の名前を挙げて「その主観的な意図としても健 全なる国民の形勢を重視したのであった。社会政策や福祉が、社会統合の役割を果たすこ とはよく知られているが、国民統合という国家形成においても、福祉事業家や実践家が、
重大な役割を果たして行くことになったのである」と田中氏は示している。
本章は、幸助の心底にあった人間思想の特徴を浮かびあがらせることに主眼を置いてき たのだが、幸助の人間観には、田中氏が指摘するようなその時代の特徴が確かに存在して いた。幸助は、近代国家として西洋諸国と伍していくため、国家を富ませていくためには、
善良な人間が国家のためにはまず必要だと考えた。善良な人間づくりのため、国民共働の 基礎となる愛と情を説き、人間の精神面の充実を強調し、金銭をはじめとする物質面の充 実はそれに附随してくるものだと力説した。また、善良な人間づくり、国家を富ますとい う目的には、健全ではない人間の問題が大きく立ちはだかっていると考えた。そこでそれ らの「厄介な」人達を健全で善良な人間に変えていく努力−「人間の整理」−を行わなけ ればならない、それは国家のためであり、責任でもある、と国家主義に基づく社会防衛や 国益志向で訴えたのであった。さらに、「日本人の心は奇麗、西洋人は汚ない」というトー ンの自文化中心主義−エスノセントリズム−的偏重が幸助には見受けられた。この特徴は、
比較として概観した同時代のキリスト者、海老名弾正にも、幸助のそれとは度合いが異な るように感じられるが、やはり存在していた。
はじめに既述したが、留岡幸助が社会の暗黒面に光を当てることを使命と感じて「民」
の立場で積極的に行った活動から、現代の我々が学ぶところは大きいと第2章から4章の 中で評価した。自由、民主、独立を尊重する姿勢がそこには存在したとの見解を示した55)。 また、「官」の立場が色濃く出た地方改良運動での働きについても、現代の枠組みとは異な る、その時代56)の抱える問題性などを考慮すれば、無意味、且つ民衆を抑圧する働きしか 持ち得なかったとは考えないと評価した。室田氏が引用しているが、丹波で牧師をしてい た頃に幸助が周囲に与えた「親切心であり、同情が深く、劣敗者薄情者の世話を良くした、
真実なる其の働き」という印象は57)そのことを裏付けるものの1つだと考えるのである。
犯罪者や不良少年、及び被差別部落の人達を救済するために、執筆を含めた実践活動を展 開した幸助は、差別的な表現を用いた一方で、「犯罪人は畜生にあらず、悪魔にあらず、矢
張り吾人々類と同一性を享有する者なり」という見解も示していたことに第1章の5でふ れた。「同じ人間、同じ日本人であることは、一貫して認めて」おり、「生まれながらの原 罪を強調しない留岡の人間観は、善への可能性や喜びの感性をあらゆる人間に認めるもの で」あった58)。
「現実に触れたキリスト者とりわけ伝道者は、単に『ことば』による福音の宣教のみに 甘んずることができず、部落の現実に何らかの具体的措置を講ぜざるをえなくなる」とい う指摘59)のとおり、キリスト教の平等主義に魅せられた幸助もキリスト教の隣人愛でもっ て現状を打開するため、人々の意識の変革を求める講演・執筆を行った。自分自身が受け た差別に苦しんだ体験もあって、光の当らない状況で生活せざるをえなかった人々の状況 を黙視できなかったのだと考える。
しかし、「留岡は部落問題に関しても比較的早くから関心を示し、内務省の中で該問題に 対して取り組んでいく。しかし、水平社の運動に対して一定の理解を示すが、彼の言動か ら判断して決して融和事業を超えるものではなかった」60)のであり、幸助の被差別部落問 題への言説や人権観念には大きな問題があったことは事実である。本章は、そのことを念 頭に入れて、幸助の人間観−マイナス面も含めて−の特徴を考察してきた。浮かび上がっ てきた負の面をどのように評価する、というのではなく、幸助が時代の拘束の中でどのよ うに志向していたのかという事実を見ることに努めてきた。幸助は、海老名弾正や浮田和 民等と同様に、国民形成に力が注がれていたその時代の枠組みに納まる社会事業家だった と言えよう。国家と個人、キリスト教というもののあり方に問題が潜在していた中で、国 家とその時代が意図・要請したものに対峙した内村鑑三や柏木義円と留岡幸助を同じ範疇 で語ることはできないだろう。幸助は、「暗黒面」の現状打開を語りながら、実際には国家 繁栄のための健全なる国民づくりに大きな役割を果たした。人間の霊性、独立、自由、民 主の重要性を鼓吹しながら、実際には時代の流れに迎合したキリスト教社会事業家となっ ていった。その事実の背後には、明治のキリスト教が天皇制国家の中でいかに宗教と現実 の体制との折り合いをつけるか、という問題が潜在している。日本のキリスト教界は、や がて、体制に迎合し、ファシズムの戦争体制の中へ取り込まれていった61)。天皇制国家の 強化としての地方改良運動に積極的に参加し、内務省の期待する働きを遂げた幸助は、そ の主観的意図は別にあったとしても、日本帝国のイデオロギー貫徹に協力していた。第 3
章の5でも既述したが、明治末のこのような地方改良運動による帝国主義の教化・完成が 昭和の日本のあり方につながっていった可能性もあるとの見方をすると、なおさら、この 時代の幸助の負の面の事実に目を向けておくことは重要だと考える。
幸助は、このように、矛盾・問題点のある実践家であったが、幸助を考察する意義はあ ると確信する 62)。なぜなら、幸助は、「本来ならば血縁・地縁で問題は解決すべきである が、それらの縁から落伍してしまった人達にはお上からお情けとして与えられる」という 古代から江戸時代までの慈善概念への意識変革に尽力した先駆的な人物であると考えるか らである。さらに幸助は、慈善概念に学術を加えた。また、同じく人間であるから黙視す るわけにはいかない人達の状況をキリスト教の隣人愛でもって実践的に救済することに努 めた。時代の思潮に流され、国家主義の枠組みに留まった幸助ではあったが、基本的姿勢 には、常に実践志向があり、大事でなくても個人に可能な小事の遂行・貫徹の追求があっ た。多量に及ぶ小論考や調査、勉強などは、何とか問題に関わろうとした幸助の苦悶と努 力の跡と考えるのである。
幸助が人権的な面、及び「官」の働きに加担した面で重要な問題を有していたことから 目を背けてはならない。しかし、前述した幸助の働きの有意性−前近代から近代へと時代 を転換させつつあったものであること−を考えると、未来を切り開いていかなければなら ない我々が過去から学ぶことが浮かびあがってくると考える。ある点を緊急課題ととらえ、
問題解決を図る場合、その主観的意図に基づいて改善を追求するばかりに、国家の意図な どに−それが深刻な問題点を含んでいるにもかかわらず−流されてしまう場合がある。そ の結果、思いもかけないような道を我々が進むことが余儀なくされてしまう。
現在、社会福祉関係の−留岡幸助が顕彰的に取り上げられることが多い−学問の分野で は、その実用・実践的な性格と人口・家族構造の変化を反映して、介護福祉士などの資格 対策という臨床的な傾向が益々強まってきている。もちろん、実践は至極重要ではあるが、
思想や理論もそのベースとして、時代や国家などの意図に流されないためにも、それ以上 に重要だと考える 63)。留岡幸助は、「活ける」キリスト教で主観的な意図の実践を何より も重視した。普遍的な平等思想に気を配っていたかというとそうとは言い難い。我々は、
時代を切り開くという目的のために、主観的意図にばかり囚われて潜在的・顕在的な重大 問題に妥協してしまいがちなのである。そう考えると、幸助の思想の問題は、現代の我々
にも提示されている問題であることに気づくと思われる。
注
(1)室田保夫「兼田麗子著『福祉実践にかけた先駆者たち』」「大原社会問題研究所雑誌 No.560」法政大学大原社会問題研究所、2005年7月、67頁。
まとめた論考に対して、疑問が残ったままとの指摘を室田氏から受けたこととは逆に、
「前向きの評価を引き出している」との意見を姜ジャン克ク ー實シ ー氏からは得た。近代天皇制国家批 判の角度から、「政治目的への従属性質が強調され」、マイナスや否定的な評価が多かっ たのだが、筆者の地方改良運動に関する論稿は「思想、経済面における積極的意義を指 摘する研究」の 1 つだとされた。姜克實氏も、「地方に生きる民衆各自の変革意識、村 落振興への願い・努力、また国への協力こそ、地方改良を運動として展開していった原 動力であり、仮令貧困脱出の大衆的意欲が国家権力によって『国民統合』の目的に利用 されたとしても、それは一種の下からのエネルギーであった性質には変りがない」と語 ってプラスの面に目を向けようとしている(姜克實「儒学思想と近代日本社会」『岡山大 学文学部紀要』第42号、2004年、197−8頁)。
(2)室田保夫『留岡幸助の研究』不二出版、1998年、30頁。
(3)藤野豊「留岡幸助と部落問題」部落解放研究社編『論集・近代部落問題』解放出版社、
1986年、119頁。
(4)山室軍平は、「信仰からただちに社会実践に向かう姿勢」を説教で強く訴えていた(同志 社大学人文科学研究所編『山室軍平の研究』同朋舎出版、1991年、209頁)。
室田保夫氏は「人間福祉の源流」と題して、石井十次、留岡幸助、山室軍平の3人を 1度に考察しているが(『人間福祉の思想と実践』ミネルヴァ書房、2003年)、倉田和四 生氏は、これら3人の先駆的社会事業家を備中高梁という視点で考察し、密接なネット ワークが存在したことを示している(倉田和四生『留岡幸助と備中高梁−石井十次・山室 軍平・福西志計子との交友関係』吉備人出版、2005 年)。留岡幸助と山室軍平の生地は
「相距ること僅かに九里、共に松山藩の板倉公の領内であつた」と軍平の子息、山室武 甫は記述している(山室武甫「留岡先生と父」『留岡幸助永眠十周年・山室軍平永眠三年 追 憶記念集』岡山縣社會事業協會、1944年、32頁)。
(5)被差別部落に関する幸助のそのような論調については以下などを参照。留岡幸助『留岡 幸助著作集』第2巻、同朋舎、1979年、285−303,588−603頁;同4巻、1980年、
114−129頁。
また、横山源之助も、幸助と似たような論調で被差別部落の人々の現状を描写してい ると言えよう。法律上は四民平等の世の中にはなったが、「実際は依然として一般人民と 風俗、人情、習慣」が異なるため、「此の部落に住める人民の生活は、抑々如何なるもの とやする先づ生活より探求すべし」と書き出している(『横山源之助全集』第2巻、社会 思想社、2001年、327−34頁)。
(6)室田保夫『留岡幸助の研究』525,529頁。
(7)藤野氏の批判については、藤野豊「留岡幸助と部落問題」119,134,137頁を参照。
(8)この後の田中氏の見解も含め、全て、田中和男「キリスト者と水平社−留岡幸助の部落 問題論」秋定嘉和・朝治武編著『近代日本と水平社』部落解放・人権研究所、2002年、
448−9頁を参照。
(9)藤井常文『北海道家庭学校と留岡清男−創立者・留岡幸助を引き継いで』三学出版、2003 年、48頁。
(10)『留岡幸助著作集』第1巻、243,409頁。このような幸助の人間観は、明らかに儒教 からの影響だと思われる。津田左右吉は、孔子の思想では仁が道徳の中心観念であると した上で、「孟子が『愛人不親、反其仁』とか『仁者愛人』とかいひ(離婁篇の上下)、荀 子も『仁者愛人』の語を用ゐ(議兵篇)、また前漢時代の儒家にもそれがうけつがれてゐ る(例へば禮記の楽記篇に『仁以愛人』とある)」と仁の歴史的な用いられ方を列挙して いるが、幸助に通じるものがあることは明らかと思われる。また、孔子の思想から受け 継がれたものとしての「仁」には「そのもとからの意義においては、情の要素を多分に 含んだもの」であるとも津田は指摘しているが、このことは、愛と同情を一まとめにし て語っている幸助の姿勢と一致するように感じられる(津田左右吉『津田左右吉全集 第 14巻 論語と孔子の思想』岩波書店、1964年、305頁)。
(11)同上、190頁。
(12)同上、292頁。
(13)同上、232頁。
(14)同上、251−2頁。
(15)同上、443−4頁。
(16)室田保夫『留岡幸助の研究』164頁。
(17)『留岡幸助著作集』第1巻、254頁。
(18)同上、第3巻、474頁。
(19)同上、343頁。
(20)同上、258頁。
(21)人格について幸助はまた次のようにも吐露している。「経済学者は異口同音に、富を作 るには三つの要素がいるといふ。夫れは土地と資本と労力とである。左りながら未だ何 人も富を作る最大の資本は、人格であるといふことに言及せないのは、何故であらうか。
政治家には、政治家として必要なる智識的、物質的要素を挙げ、これと之れとを具備し て居れば一国の選良ともなれる、大臣とも総理大臣ともなれるといふ。然し人格が政治 家の最大要素であるといふことを言明するものは、至つて僅少である」と(同上、246頁)。
(22)同上、第1巻、12頁。
柏木義円も、物質と霊性という概念で人間観を説いていた。「單に人間を物質の塊りと 見る者と霊的存在と見る者との二ツに分れる精神と身体との關係は恰も薪と火との關係 のやうなもので・・・此れ人の霊性は神の肖像なれば信仰を建て徳性を養ひ以て神の形 に同化せんことを畢生の志とする基督教と其歸着を一にするではないか」や「霊性と肉 体」などと語っていた(柏木義円「基督教の人間観」『明治宗教文學全集 2』筑摩書房、
1975年、99, 101頁)。また、「正統的」キリスト教の代表とされた植村正久は、『霊性の 危機』を1901年に出版(警醒社)したが、幸助同様に、霊性は人間にとってもっとも大切 なものと考えていた。
明治の代表的なプロテスタントキリスト者のこの植村の信仰が「正統的」、「保守的」
キリスト教であるのに対し、内村鑑三の信仰が「無教会的」、海老名弾正のものが「国家 主義的」と表されるが、この相違について鈴木範久氏は、3 人を信仰へと導いた外国人 の性質で説明している。植村などの横浜バンドは、やや「正統」的、「保守」的な性格を 有していた、「れっきとした」宣教師へボンやブラウン、バラに導かれたが、内村をはじ めとする北海道バンドと海老名をはじめとする熊本バンドは、平信徒のクラークやジェ
ーンズに指導されたためだというのである(鈴木範久『明治宗教思潮の研究』東京大学出 版会、1979年、188−9頁)。尚、留岡幸助に大きな影響を与えた熊本バンドを導いたジ ェーンズの詳細については、フレッド・G. ノートヘルファー、飛鳥井雅道訳『アメリ カのサムライ−L.L. ジェーンズと日本』法政大学出版局、1991年を参照。
(23)幸助が精神的側面の重要性をこれほどまでに強調した理由は、明治維新以降の近代化 によって物質的利便性が増す一方、人間の価値が低下していると危惧したためであった。
「物質的文明の弊は物を尊んで人間を軽んずる事である。人間を軽んずる結果は、一世 を挙げて利益主義の社会たらしめずんば止まぬ。之れを徳川時代に見るに、当時は学問 とか組織とかいふことは今日の如く精密ではなかつたが、其代り人間といふことや、人 物をつくり立てると云ふことに関しては随分力を尽したものである。即ち徳川時代の教 育は一マ マは治国平天下の教育で、他は人物養成の教育であつた。之れが為めに節操は生命 に代えても重んぜられ、気節は武士の魂として尊ばれた。然るに明治大正となつて、器 械や制度の整然するのは難有いが、人間の価値は年々下落し、黄金は以て節操を購ふべ く、利益は以て気節を左右するに足り、人間と物質とは其地位を顛倒した観がある。・・・
ラスキンは『富を作ることは善人を作ることで、善人さへ国に起れば、富は従つて増殖 するものだ』と云つて居る。而してラスキンの謂ふ所の善人といふのは、即ち”Soul of good qualification”で、之を直訳すれば『善良なる実質ある霊魂』と云ふことである」
との見解を示していた(同上、第3巻、422−3頁)。幸助は、善良で実質なる精神の人間・
善人が増加すれば、富は後からついてくるものだから、まずは金銭よりも善人のあみ出 しに集中しなければならないと考えた。
(24)同上、486頁。
(25)同上、第1巻、265頁。
(26)キリスト教の平等観について、守屋茂氏は、「儒教が治国平天下のために道徳を高調す る点は、確かに勝れた一つの特徴ではあったが、これも理論と形式とに終わり、・・・キ リスト教に一つの強みがあった。当時の仏・儒の傾向は、思弁的・哲学的ないし考証訓 詁に傾いていたので、意識してはいても、民衆にとびこめなかったということが、民衆 との直結に禍いしたものと考えられる。それにひきかえ西欧的な人間の平等観の上に立 っての天主崇拝、一夫一婦の制、殺人・自殺の罪悪、救済の必要等が教えられ、社会観・
倫理観の上にも変革を及ぼし、益々信教者を増加していった」と説いている(守屋茂『日 本社会福祉思想史の研究』同朋舎出版、1985年、528−9頁)。
(27)『留岡幸助著作集』第1巻、558頁。第3章でも、東洋の道徳では、「下」のためにな ることを「上」が実行しないことを幸助が批判視していたことについてふれた。
このような儒教の負の側面については、小崎弘道も次のように批判していた。「儒教主 義の尤も不可なる所ハマ マ人為を以て社會に嚴格なる貴賤尊卑上下の區別を建て一般の人民 を凡て愚蒙幼稺視し荏弱過り易き同等の人類に無上の權力を與へ政治宗教學文其他一切 の人事を以て其人に一任することなり故に明君王者稀に起ることありとするも敢て悦ぶ べき事とすべからず何となれば之が為却て人民智徳自然の發育を妨害することあれバマ マな り」というように小崎も幸助と同様に人間は対等であるべきだと考えていたことがうか がえる(小崎弘道「政教新論」『明治宗教文學全集 2』17頁)。
(28)『留岡幸助著作集』第1巻、236頁。
(29)同上、第3巻、422−7頁。
(30)同上、第1巻、237頁。
(31)同上、第3巻、348頁。
(32)同上、第2巻、72−3頁。
(33)同上、第1巻、648頁。
(34)田中和男「キリスト者と水平社−留岡幸助の部落問題論」444頁。
(35)『留岡幸助著作集』第3巻、178頁。
(36)同上、第2巻、254頁。
(37)「堅固な仕事は多くの年月を要するのである。私は此頃長州の萩に行つて、松陰先生 の事蹟を調べて、此事を深く感じたのである。・・此処からは明治維新の際に大活動を為 した多くの志士や豪傑を出したので・・・」(同上、第3巻、260頁)という幸助の語調 からは、門閥制度の廃止を自ら体験してきた幸助が、明治維新を理想主義的変革と評価 していたのではないかと感じられる。そして、ここからはまた、抑圧から開放された人々 のために平等主義を貫徹するという自己の使命の中に、新政府をも投影させていたので はないかということも推測できるのではなかろうか。
明治新政府について守屋茂氏は、「封建支配からの解放と、諸事ご一新とを標榜して起
ったものの、一面には旧幕府や諸大名との妥協の上に成り立った政権であった」と説明 している(守屋茂『日本社会福祉思想史の研究』542−3頁)。
この指摘に関連するものとして、小崎弘道の言説にふれておく。「王政維新廢藩置縣に て政治世界の一大段落を為したるも未だ其半途にも達せざる所なり・・・人或は明治初 年の維新廢藩を以て我國の改革は已に其局を結びたりと為すものあれども、・・・明治初 年の維新廢藩は唯政治の一改革も唯舊來の制度典章を廢し新制度を立てたるに過ぎ ず・・・維新の大業未だ悉く成らず前途尚為すべきこと多き」と語った小崎は、西洋の 思想に基づいた民治政治の観念も浸透しておらず、一般民衆の政治思想の改革など、大 事業が山積みだと考えていた(小崎弘道「政教新論」『明治宗教文學全集 2』、4頁)。
(38)「儒教が人々の内面を規定する、その意味で生きた思想として存在し、その時代の思 想全般に大きな影響を及ぼしたのは、江戸時代において」であり、18世紀後半になって 儒教は「一部の知識人の枠を超えて、一般の人々の間へと、全面的にではないにしても、
浸透・定着していった」との指摘(川口浩『江戸時代の経済思想−「経済主体」の生成』
中京大学経済学部、1992年、13−4頁)のとおり、第1章の注(5)でもふれたが、町人出 身の幸助にとっても儒教は遠い存在ではなかったようである。
また、儒教の中でも、正統な官学から見て異学とされた陽明学とキリスト教には類似 点があるということはよく指摘される。実行や行動を重視する陽明学とキリスト教との 関連性について守屋茂氏は、次のように語っている。「陽明学派の影響については、明治 十年代キリスト教が最も広汎に信奉せられた松山藩(高梁)や高知藩におけるがごとく、
陽明学者山田方谷や同奥宮慥斎の影響と一連の関係を見出すことも出来、こうしたこと がまた、明治初期におけるキリスト教徒の主なる人々を支配した思想的根柢となったと いうことも否めない事実である」と(守屋茂『日本社会福祉思想史の研究』648 頁)。幸 助は、岡山の高梁出身であったことから、このような守屋氏の見解は説得力を持ってい るように思われる。
また、「日本近代思想史における熊本バンドの意義」の中で篠田一人氏は、熊本バンド と熊本藩、及び横井小楠について考察し、陽明学についてもふれている。「封建教学は幕 府時代中期をすぎるとしだいに教学自身の内部から変質してくる。官学としての朱子学 に反撥する古学、陽明学、国学が興隆」したが、熊本藩でも事情は同様だったという。