• 検索結果がありません。

留岡幸助と北海道家庭学校

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "留岡幸助と北海道家庭学校"

Copied!
15
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

留岡幸助と北海道家庭学校

藤 京子

Kousuke Tomeoka and Hokkaido Family School

Kyoko FUJI

 『児童福祉法』は,1948 年1月から施行され,その理念は,児童の健全育成の原理とい える。そして,戦後の「児童福祉」は全ての児童が対象となったが,戦前は特定の児童 に対する「児童保護」であった。その児童保護に力を注いだ篤志家のひとりである「留 岡幸助」は,児童福祉法に定められている「児童自立支援施設」の前身を築いた人物で ある。現在,北海道の遠軽町に留岡幸助が創設した「北海道家庭学校」がある。  本稿では,「北海道家庭学校」の創設にいたる経緯を鑑みつつ,留岡幸助という人物 について考究していく。 1.はじめに  『児童福祉法』は,1947 年 12 月に制定され翌 1948 年1月に施行された。児童福祉の理念と して,「すべて国民は,児童が心身ともに健やかに生まれ,且つ,育成されるよう努めなけ ればならない。②すべて児童は,ひとしくその生活を保障され,愛護されなければならない」 と,第 1 条に示されている(社会福祉小六法)。つまり,すべての子どもは健全に生まれ育ち 愛され,生活が守られなくてはならないとされている。しかし,『児童福祉法』が制定され る以前は,国が子どもを守るというよりも隣保相扶というような互助的な意味合いが強かっ た。当時,食べるものがないほど人々の生活は困窮しており,食べ物欲しさに盗みや窃盗を する子どもが後を絶たない状況であった。  1900(明治 33)年,わが国初の児童に関する立法として『感化法』が制定された。これ は,不良行為をなし,またはなすおそれがある8歳以上 16 歳未満の少年を感化院に入所させ, 教化するための法律であった。不良・犯罪少年のための感化施設としては 1883 年(明治 16) 年に池上雪枝が「池上雪枝感化院」を開設したのが始まりである。1885(明治 18)年には高 瀬真卿が「東京感化院」を設立した。その後千葉感化院,岡山感化院等,各地に感化院が設 立された。その目的は,懲罰を与えるだけではなく,環境を整えて矯正教育をすることだっ たが,実際は監獄的指導であった。それに対して留岡幸助は,監獄的指導とは違った家庭主 義による生活指導・教育・職業訓練を目的とする「家庭学校」を,1899(明治 32)年に東京

(2)

巣鴨へ設立した。彼らがこのような犯罪を起こす理由に,家庭に貧困等を原因とする欠陥が あったことによるもので,むしろ悪境遇のための犠牲者だと幸助は考えたのである。その後, 巣鴨は人家が密集したことや自然環境の必要性を重視し,場所を北海道の遠軽の地に「北海 道家庭学校」を設立することになった。なお,「児童自立支援施設」は,感化院(1900 年法律 第 37 号感化法)をルーツとする児童福祉施設であり,少年教護院(1933 年法律第 55 号少年 教護法),教護院(1947 年法律第 164 号児童福祉法)を経て,児童福祉法改正に伴い 1998 年 より「児童自立支援施設」と改称されている。  本稿では,留岡幸助がなぜこのような事業を進めるに到ったのか,彼の人間観や思想を概 観し,今日にいたるまで「家庭学校」の歴史を継承している「北海道家庭学校」と留岡幸助の 関係を考察する。 2.少年期の体験  留岡幸助は,1864 年に備中高梁(現在の岡山県高梁市)で理髪店を営む父吉田万吉と母ト メの6人兄弟の次男として生まれた。彼は誕生後すぐに,子宝に恵まれない米穀・雑貨商を 営む留岡金助と勝夫妻の養子となった。  幸助は明治 5 年から1年間,士族の子どもも町人の子どもも一緒に学ぶ寺子屋に通ってい た。ある日,士族の子どもと口論から喧嘩になり,そのあげく町人出身の幸助は木刀でひど く撲りつけられたため,憤慨した幸助は相手の手首に歯がたがつくほどかみついた。士族の 子どもは痛い痛いと叫びながら泣いて家に帰った。町人の子どもが士族の子どもに勝ったと いうので,その場に居あわせた子どもたちは歓声をあげた。当時四民平等の理念が説かれて いたものの,士族と町人との間には厳格な差別が存在していた。その証拠に,士族の子ども は腰に木刀を差しているのに対して町民の子どもは丸腰であった。しかしこの一件につい て,わざわざ報告すべき重大なことではないと思った幸助は父に話さなかったのだが,これ がその後の留岡家にとって大きな問題となってしまった。翌朝幸助の父は士族屋敷に呼び出 され,士族の父親から「お前の子どもが自分の息子にかみついたことを知っているのか」と, ひどく叱責された上に出入り禁止を言いわたされたのである。何も知らない父はひたすらあ やまったが,許されなかった。米穀・雑貨商を営む留岡家にとって,得意先を失うというこ とは非常に大きな痛手であった。その結果,幸助は怒った父に激しく撲られたがこの処置に ついて彼は納得がいかなかった。幸助はこの時のことを「この事件は私の八歳の時でありま したが,肩が何度も上がるほど腹が立ってどうしても自分の口惜しさを押さえることが出来 ません,子供には子供の理窟がありましてどうにも私が悪いとは思われない。悪くない自分 を木刀で撲るからやむを得ず喰い付いたのだ,それだのにおやじが呼び出されて叱られ,そ の上米が売れなくなり,しかのみならず,私がまたもや散々撲られたということはどうして

(3)

も道理が立たない。一体この世の中はどうなっているんだい。こういう感じを抱いたのであ ります。それ以来私は士族という奴は悪い奴だと思い込むようになりました。」と,述懐し ている(留岡幸助『留岡幸助 自叙 家庭学校』より)。  幸助にとってこの少年期の体験が,彼のその後の生き方に強く影響したものと思われる。 負けん気が強い幸助は,身分社会の不条理に傷つき,士族であること,町人であることの理 不尽さを強く感じ,すべての人が平等に生きられる社会を求めたのである。 3.キリスト教との出会い 3-1.肺ジストマ病  幸助は家庭に余裕がなかったために小学校を中途で退学をし,12 歳の頃から八百屋の仕事 をして家計の手助けをしていた。高梁から 4 キロほど離れた村に行き,タケノコやマツタケ, 綿やタバコなどを仕入れてくるのが仕事であった。それらの荷をかつぎ,汗まみれになった 幸助はその村の水をよく飲んでいた。その水が悪かったのか,彼の身体は病におかされて顔 は青ざめやせてきたと同時に時々激しく血を吐いた。日頃から家族が診てもらっている掛り つけでキリスト者の医師,赤木蘇平や岡山病院の顧問をしている宣教師であるドクトル・ベ リーの治療を受けることになった。ベリーは幸助の体をみて「これは肺ジストマという病気 だ」と言ったのである。この病気は風土病で,水の中にいる寄生虫が体内に入り肺を侵すの で,これといった治療法はみあたらないとされていた。幸助は赤木医師宅に書生として住み 込み,医業の初歩や漢学を学んだ。やがて,難しい病気も全快して健康になった。幸助,16 歳の時であった。 3-2.西洋の軍談講釈  幸助は,幼い頃から芝居と寄席で軍談講釈を聞くのが大好きであった。明治 13 年,友人 に誘われて西洋軍談講釈とうわさされている催しを聴きに行ったが,それは西洋人と日本人 の二人が組になって語りかけるもので,日本の軍談講釈とは違っていた。日本の軍談講釈は, 釈台の前に座って張り扇をたたきながら話をするのに対して西洋軍談講釈は,立ったまま両 手を広げて語りかけてくるのであった。幸助はその後数回聴きに行った。実はその西洋軍談 講釈とは,キリスト教の説教だったのである。後に『留岡幸助 自叙 家庭学校』の中で,「あ る日の説教中に(誰であったかそれもよく憶えていません)士族の魂も,町人の魂も赤裸々 になって神様の前に出る時は同じ値打ちのものである,と申されたことが私の心を捉えまし た。その説教の全体が一体どういうことであったかよく分かりませんでしたが・・・神様の 前に出る時は同じ値打ちだという教えは 16 歳の私として,これはよいことを聴いたものだ, いい教えだと痛感せしめられた事でありました」と,述懐している。そして,神の前での平

(4)

等観を説くキリスト教に傾倒していったのである。それは,少年期に体験した士族と町人の 不平等な扱いを受けた時に感じた憤りや,そのことによって父親にひどく撲られたことが幸 助にとって忘れられないことであったからだ。したがって,彼にとってこの教えは非常な福 音であった。 3-3.洗礼  当時キリスト教は「耶蘇(ヤソ)」と呼ばれ,耶蘇は悪い教えをするものだと幸助自身も子 どもの頃から信じていたのだが,逆にその悪い耶蘇が神の前で平等観を説くことにより,耶 蘇は偉いことをいうものだと幸助は考えるようになっていった。幸助が赤木医師宅に住み込 んでいる時には,敬虔なクリスチャンである赤木医師や宣教師ベリーに連れられて,よくキ リスト教の講義に通い,金森通倫,宣教医師ベリー,ケリー,さらに二宮邦次郎の教えを受 けることによって,幸助は一層信仰を深めていくのであった。一方幸助の父金助は,耶蘇教 に傾倒していく幸助を心配し,赤木医師宅より一日も早く息子をわが家へ連れ戻さなければ ならないと考えたのである。しかし,幸助にとって命の恩人である宣教師ベリーの導きによっ て,明治 15 年7月に高梁教会で洗礼を受けていたのだった。後に,金森やベリー,ケリー と幸助は関わりをもつことになっていく。 4.北海道空地集治監の教誨師  幸助は明治 18 年の秋,高梁基督教会の奨学生として,同志社英学校別科神学科邦語神学 課に入学した。当時の同志社は,新島襄の平民主義の思想が支配をしていた。少年期の時に 体験した身分社会の不条理に憤りを感じていた幸助にとって新島の平民主義は,渇望して止 まない理念であった。同志社を卒業後,幸助は丹波第一教会で約3年間定住伝道を行い,そ の後金森通倫の紹介によって,北海道空地集治監の教誨師に就任した。  教誨師とは,刑務所等の矯正施設において収容者・受刑者の徳性の育成や精神的救済を目 的として行なわれる活動である。幸助は以前から監獄の仕事に興味をもっていたが,北海道 は極冷であり当時胃腸を病んでいたという状況から,金森の求めに応じるべきか断るべきか で迷った。同志社病院を建てたドクトル・べリーの診察を受けたところ,むしろあちらに行 けばからだは良くなるとのことであった。そしてさらに,囚われの身となって苦しんでいる 人々のためにも日本の悲惨な監獄の実態を見ることを勧められた。  幸助はキリスト教教誨師として,明治 24 年に北海道空地集治監へ着任した。ここは重罰 が科せられた受刑者を長期にわたって検束(行動を制限して自由にさせない)し,開拓と鉱 山業務が主な作業であった。また,劣悪な作業と罹患患者の不適切な扱いによる死亡者が多 かった。「囚人が死傷しても扶助手当を支給しない,囚人には非情な労役がふさわしく,その

(5)

際に彼らが死亡しても報告をする必要なし」という訓令が発せられていた。幸助は,このよ うな非人道的な扱いについて改善の必要性を強く感じていた。幸助は多数の囚人に接触して 教誨の任に就きつつ,彼らの犯罪原因を詳細に調査した。その結果,地上から犯罪を取り除 くためには,囚人達の幼少年時代から適当な処遇法を講じなくてはならないと思ったのであ る。彼らのほとんどが,幼少時代には早くも犯罪少年であったからだ。教誨師としてのこの 地での経験が,幸助を「監獄改良」と「感化事業」へその生涯をささげようとしたのである。 5.巣鴨家庭学校  先に述べたように,幸助は囚人の犯罪原因の調査結果からその主な原因が幼少期にあり, その幼少期の過ごし方が重要であることを解明し,感化事業の必要性を痛感するようになっ た。幸助はキリスト教的人間観に立ち,いかなる人間も正しい教育によって立ち直らせるこ とができると思ったと同時に,非行少年を教育するに望ましい生活環境が必要だと考えた。 そのひとつは豊かな自然環境,もうひとつは愛情に恵まれた家庭である。 5-1.自然環境  そこで幸助は,明治 32 年 11 月 23 日東京市外巣鴨に樹木も多く,3600 坪の土地に「巣鴨家 庭学校」を創設した。豊かな自然環境であった巣鴨だが,この地は僻地悪土と評価されてお り最も劣悪な土地と言われていた。しかし幸助は,このように極めて人の寄り付く所ではな いからこそ,人の子を教育するにはむしろ特別に適地だと思ったのである。それは,庭内を 広くし,閑静で樹木が鬱蒼としていることにより誘惑からは遠ざかることができるという考 えからであった。「自然と不良少年の関係」について,『留岡幸助 自叙 家庭学校』の中で,「そ こで不良少年を自然に接近させ,天然自然の感化の下に彼等を教育することが一番大切であ ろうと思います。我が家庭学校の実業は何であるかというに,農業が主である,すなわち『土 地は人を化かし,人は土地を化かす』とデ・メッツが言いましたように少年の上における農 業の感化は実に偉大なものであります。入校の当時から,不良少年は人間を好まなくて,自 然を好むような傾向がある。我が生徒のある者は第三種類すなわち怠惰の組に属する者があ る。何をさせてもしない。そこである夏のこと,馬鈴薯の畑に追いやってこれを掘らして見 ましたが,何を命じても嫌がる者が馬鈴薯を掘ることに限っては,日の暮れるまでやって居 ました。止めろといっても止めなかった。これは何故と申すに大きな馬鈴薯が一つの根から 七ツも八ツも出るので,余程の興味をもって掘ったものと見えます。これは私が考えますの に全く天然の御陰であると思います。天然は『プレジュデス』というものを不良少年にもっ て居りませぬから,自然に子供を感化するのである。そこで不良少年はその初期における感 化の方法としては,なるべく人間より遠ざけてこれを花の下に置いたり,畑に置いたりする

(6)

のが宜しい。農業というものは欧米各国では主に不良少年の感化に採用して居るということ は,私はそういう理屈があるからだと思います」と,述懐している。さらに,「人間社会に 酔っている不良少年は,ひとまず人間社会と隔離して『ネーチュア』で感化しなければならぬ。 人間社会で悪くなった者を人間の多い社会で善くするという事は極めて難しいので,見るこ と聞くことが罪悪の種である。それで飽くまで蕪を作らせたり葱を作らせたりするのが宜し い。蕪や葱は不良少年に作られたからというて,汝が作るのだから成長してやらないとは申 しますまい。不良少年といえども正直に労働さえすれば必ず好く出来るに違いない。そこで 不良少年は考えるであろう,人間は我を不良少年として取り扱うけれども,馬鈴薯や葱は我 を不良少年と見て居らぬと見える,いかんとなれば骨折りて労働さえすれば馬鈴薯も葱も善 く出来ると,しかし平素懶情でありし不良少年も大いに面白味を感じて仕事に精出すように なります,これがすなわち自然の感化であります」とも述懐している。  幸助は,いかに自然というものが非行少年を教育することに意義があるかを述べている。 つまり,自然にはすぐれた感化力があり,非行少年の教育にはこの自然の力は欠かせないも のだと確信していることがわかる。そして,農作物を育成するという営みに偏見がないこと から,自然に労働をすることに興味を覚えるとともに勤勉を身につけるようになるという, まさに自然の感化であることを実証している。 5-2.家族制度  創設時より重要としたのは愛情に恵まれた家庭,つまりここでの家庭は職員によって構成 されている「家族」である。一家族舎には 15 名以内の生徒を収容し,女教師二人,男教師一 人その他教師が一人により 4 人でひとつの家庭とした。つまり,あたかも家族のごとく生活 をするという家族制度(ファミリーシステム),を家庭学校に取り入れたのである。教師夫婦 が父親役と母親役を担い,さらに夫婦以外の男性教師は家族長として一家を監督し,女性教 師は主婦を助ける補助主婦として,家族的生活を送る中でみんなが寝食を共にした。家長の 男性教師は,午前中は生徒を教育し午後は一緒に労働をした。非行少年は社会性が備わって いないことが多く,共同生活や助け合いの精神を養うために家事も分担して行っていた。幸 助は特に親の役割を重視したのである。それは,子供の徳育は家庭が8分で学校が2分だと 考えていた。特に,家庭の主婦は子供に人情というものを教え,義理を教え,家庭の温かな 愛によって成長するものとして実母の役割を重視したのである。 6.北海道家庭学校  幸助は,15 年間の「巣鴨家庭学校」での経験から,さらに本格的な教育を実践することに 自信を得た。「巣鴨家庭学校」での教育は予備的なものであり,本格的な教育を実践するのは

(7)

北海道こそ最適の地だと考え,1914(大正 13)年に家庭学校の北海道農場が遠軽の地に開 設されたことに始まる。この頃,「巣鴨家庭学校」の周辺が急激に都市化したこと,職業教 育の行き詰まり,教師の資質や力量に限界を感じたこと等の問題を一挙に打開するために, 北海道の地を舞台にした開拓を構想したのである。これは,幸助が「巣鴨家庭学校」での教 育方針と同様に,不良少年に偏見をもつことのない自然による感化力を重視したからである。 さらに,自然は逃亡防止に大きく寄与するものという考えと共に,少年達は自然の中で生活 を経験すればするほど,東京へ帰されること嫌うようになったというからである。先にも述 べたように監獄教誨師の経験から,豊かな自然環境の中でキリスト教の愛にもとづき,家庭 という愛情の雰囲気の中で教育をすることが重要だと考えたのが,幸助の営みの特質である といえる。  幸助の教育理念は,教育は教師,自然,労働,友愛が一体となって遂行されるものであっ た。また三能主義というものを実践した。その第1は,よく働くことである。汗水流して働 くことの意味を教え精神を健康にする。第2は,よく食べることである。精一杯働いた後に, 社名渕の山や川の幸を満足するだけ子供達に食べさせること。そして第 3 は,よく眠ること である。不規則で怠惰な生活から抜け出させ,思い切り働き腹いっぱい食べることによって よく眠れ,健康な身体を回復することが出来る。これら三能主義の他にも,精神を開放して 思い切り遊ぶことを大切にした。 7.北海道家庭学校の現在  留岡幸助が感化事業を目指した背景と彼の人間観,そして現存する「北海道家庭学校」創 設に到るまでの経緯をして考究してきた。筆者は 2012(平成 24)年3月に「北海道家庭学校」 を訪ねた。それは,幸助の足跡を実際に北海道へ行き体感したいと考えると共に,北海道と いう極寒の地で子供達がどのような暮らしをしているのかを知りたいと思ったからである。   7-1.所在地  「北海道家庭学校」は,社会福祉法人が経営する全国でただひとつの男子児童自立支援施 設である。「北海道家庭学校」がある北海道紋別郡遠軽町字留岡は,旭川より車で約2時間 30 分のところに位置している。季節柄,雪深く静かな音もないように感じる地であった。 遠軽とは,アイヌ語の「インガルシ」のなまった地名であり,見晴らしのよいところを意味 する。遠軽町は,平成 17 年 10 月に生田原町,遠軽町,丸瀬布町,白滝村の4町村が合併し, 新しい「遠軽町」になった。人口は約 22 万人で,総合病院やスーパーマーケット等の都市機 能を備え,地域の拠点である遠軽地域,清流でのヤマベ釣りやたくさんの木のおもちゃに触 れられる生田原地域,緑いっぱい「いこいの森」で自然を満喫できる丸瀬布地域,北大雪の山々

(8)

を望む大自然の中,クロスカントリースキー等が楽しめる白滝地域の,4つのエリアからなっ ている。8月の平均気温は,20 度前後の比較的過ごし易い時期となっているが,1~2月に なるとマイナス 10 度前後までさがる。 7-2.小舎夫婦制  「北海道家庭学校」は 439 ヘクタールの敷地を有しており,森の学校と呼ばれ閉ざされた 門や塀はない。この広大な土地に礼拝堂・本館・体育館・博物館・給食棟・木工教室・牛舎・ バター製造舎・味噌醸造場・記念文庫・寮舎等がある。現在7つの寮舎があり,一つ一つの 寮には実際の夫婦の職員が住み込み,生徒は職員夫婦と共に同じ屋根の下で生活をしている。 生徒達は,母親代わりの寮母さんと炊事をしたり,父親代わりの寮長さんと寮毎の畑や除雪 の作業を共に行っている。留岡幸助が最も重要としていた「愛情に恵まれた家庭」の形式を, 今尚受け継いでいるのである。この小舎夫婦制は現在減少傾向にあり,理由のひとつとして 職員のプライベートな時間と職務の線引きが困難である事等がいわれている。故に,「北海 道家庭学校」の小舎夫婦制は貴重であるといえる。 7-3.生活  起床6時,就寝9時という日常の中,午前は本館で学習指導を受け午後から作業班学習や クラブ活動等を行う。つまり,幸助が説いた「三能主義」が実践されている。学習は個々の 進度別に指導され,作業班活動では広大な敷地の中で職員と生徒たちが一体となって生産活 動を行っている。活動の内容は,蔬菜部・園芸部・土木部・酪農部・山林部・環境部等の班 に分かれており,具体的には森や牛や野菜を育て,味噌やバターを作り,森から得た薪で風 呂を沸かす等,毎日の生活に必要な働きに汗を流している。家庭学校では欠かせない生産活 動である。そして,11 月には収穫祭があり,一年の働きと学びをふり返る発表会が行われて いる。クラブ活動は,野球・サッカー・バスケット・合気道・卓球・美術等で,遠軽町の中 高生と試合をすることもありその活動は年々盛んになってきている。  創立以来,日曜日ごとに礼拝堂でささげられる礼拝は,「北海道家庭学校」の精神的土台 であり中心である。職員も生徒も神の前で頭をたれ,自らを省み,赦しを学ぶ。この礼拝堂は, 「望の岡」と呼ばれる小高い丘に建てられていて,木造で厳かな森のチャペルである。教会 内部には,生徒たちの手により作られた木の椅子が並び,賛美歌の伴奏を務めるオルガンが 置かれている。このオルガンは,1892 年米国エスティー社製造の箱型オルガンで,こころに 染渡るやさしい音色である。毎月「朗読会」が行われ,礼拝の始まる前に各寮から生徒がひ とり全生徒の前に出て作文を読み,その作文に対して校長が感想を述べる。この記録は,機 関紙『ひとむれ』に掲載される。

(9)

K寮 A君「3ヵ月をふりかえって」  ぼくの,入校したばっかりのときには,いろいろな人に,ちょう発して,人をおこら せたり,いやがらせをして,めいわくをかけていたり,作業をしたくなくて,ボーとし ながら,作業していたり,やるきがなくて,てきとうにやっていました。でも,さいき んは,やりたくなくても,ボーとしてやることがすくなくなってきました。なぜ作業を ガンバってやろうとおもったかというと,本館で,先生におこられて,はんせい文を書 いて自分をふりかえったのが,きっかけでした。はんせい文を,書いた後は,やる気が でました。ほかにぼくは,さいきんは,入校とうじよりはMとのもめごとが,少なくな りました。ぼくは,さいきん本館の人となじめてきました。入校とうじは,みんなにむ しされていましたが,さいきんはふざけたりむしされなくなってきたからです。今でも, ちょう発が,多いとK先生やHりょうの人たちに,ちゅういされているので,ちょう発 を,へらしていこうと,おもっています。ちょう発を,へらしてもめごとをすくなくし ていきます。よく,人のはなしをききのがしていて,K先生にちゅういされるので,き きのがさないように,きおつけようと思います。すこしは,人とのかかわり方が,わかっ てきました。なので,もっと人とのかかわり方にきおつけていこうと思いました。ぼく は,よくとし上の人に,けいごではなく,タメ口になってしまうので,タメ口にならない ように,きおつけようと思いました。きおつけるようになったのは,Yさんによくちゅ ういされて,このことの,なにがわるいかをおそわって,りかいできたからです。もし YさんがHりょうにいなかったら,ぼくは,入校とうじのままだったとおもいます。Y さんには,かんしゃしています。これからもかていいがっこうで,ガンバっていこうと おもいます。 校長先生の講評 『三ヵ月をふりかえって』  入校したばかりのころは,生活になれず人を怒らせたり,挑発をして,人に迷惑をか けていました。作業もやる気がなくポーとしていました。先生に怒られて反省したので す。自分を振り返ることができました。挑発が多いと先生や寮の人たちに注意されます。 人の話を聞き逃さないように気をつけています。同じ寮の○君から,言葉つかいのこと で注意されました。まだまだ同じ寮の人ともめ事があります。どうしたら対人関係をよ くしたらいいのでしょうか。寮長の話を一生懸命に聞こうと言う姿勢が大切です。人の 話を前向きに受け止められる人は,成長していきます。朝の朝礼の時,とても元気な声 であいさつしています。学習,作業場面でも集中できるようやる気と根気を持続できる よう頑張ってください。  このようなやり取りの中で,生徒は自らを反省しつつ人との関わり方を学びながら,大人 へと成長していくのである。 

(10)

.まとめ  留岡幸助は,少年期の体験から「すべての人が平等に生きられる社会」をめざした。彼は 非常に負けん気が強く正義感のある人物で,キリスト教思想に沿いながら,不良少年の感化 事業を遂行することになった。幸助は,「自然の感化力」の強さを確信し,「巣鴨家庭学校」 も「北海道家庭学校」もその自然を重要視して開設した。そして,少年の教育に最も必要な のは自然と「家庭の愛情」であるとした。  「北海道家庭学校」には,現在 38 名の生徒が生活をしている(訪問当時)。小学校4年生 で入校する少年もいれば,中卒の有職少年が入校することもあり,一人一人の在校期間には 違いがある。小学生教室には,すずらん教室・つつじ教室・たんぽぽ教室という花の名前が 付けられており,机は通常小学生が学校で使用しているものよりやや大きめなものであった。 また中学生の教室には木の名前が付けられていて,シラカバ教室・カエデ教室となっていた。 校章は職員が考案したもので,「家」という字を変形させた形であった。卒業生の中には,「望 の岡」にある礼拝堂で結婚氏を挙げた者もいる。「北海道家庭学校」には,「希望の声」という 箱が設置されており,苦情受付票に必要事項を記入する用紙も用意されている。その用紙に は,「あなたが,学校の生活の中で困っていること,考えていることをかいて,受付箱にい れてください」と記されている。また,「学校とは別に,あなたの話を聞いてくれる大人の人 (第三者委員)がいます。ここに書かれたことを大人の人に知らせてよろしいですか。あな たが今,いいえと言っても,後から気持ちが変わった場合は,いつでもその大人の人に知ら せることができます。」さらに,「別な日に,校長があなたと話し合います。校長先生との話 し合いのときに,あなたの話し合いを聞いてくれるその大人の人に来てもらいますか。」と, 書かれている。当然ではあるが,この苦情受付票は秘密にして守るとも記されており,生徒 の個人情報がきちんと確保されていることがわかる。  筆者が訪問した際には,加藤正男校長先生が出迎えて下さり,寒い中案内をしていただい た上に,親切にも長靴を貸して下さった。博物館には,留岡幸助と幸助の死後(召天)第 4 代校長に就任した息子である留岡清男の写真が掛けられていた。また,この土地から掘り出 された石器や,動物の剥製,千人針等が展示されていた。昼食は生徒さんたちと一緒にいた だき,その時のメニューはさばの味噌煮,おしんこ,味噌汁であった。皆が揃うまで待ち, 食べるときには代表の生徒が祈りをささげていた。そして,皆が食べ終わるまで静 かに待 つ姿,質素な食事ではあったが,美味しくいただいた。  留岡幸助がキリスト教的人間観に立ち,「いかなる人間も正しい教育によって立ち直らせ ることができる」と説いた幸助の人間味について,今回の訪問と加藤正男校長先生のお話か ら触れることができたように思った時間であった。本論文では示すことができなかったが, 留岡幸助と同時期に多くの子どもたちに手を差し伸べた篤志家の石井十次,石井亮一にも焦

(11)

点をあて,彼らの人間観について灌漑していくことを今後の課題としていきたい。 <参考文献> 阿部祥子『もうひとつの子どもの家 ― 教護院から児童自立支援施設へ ―』ドメス出版  2005 年 兼田麗子『福祉実践にかけた先駆者たち―留岡幸助と大原孫三郎―』藤原書店 2003 年 倉田和四生『留岡幸助と備中高梁―石井十次・山室軍平・福西志計子との交友関係』吉備 人出版 2005 年 高橋善夫『一路白頭ニ到ル―留岡幸助の生涯―』岩波新書 1982 年 田中和男『近代日本の福祉実践と国民統合 ― 留岡幸助と石井十次の思想と行動 ―』法律 文化社 2000 年 留岡幸助『留岡幸助―自叙╱家庭学校』日本図書センター 1992 年 二井仁美『留岡幸助と家庭学校―近代日本感化教育史序説―』不二出版 2010 年

(12)

(1)北海道家庭学校の門

(13)

(3)生徒制作の木彫

(14)

(5)教室

(15)

(7)礼拝堂

参照

関連したドキュメント

つの表が報告されているが︑その表題を示すと次のとおりである︒ 森秀雄 ︵北海道大学 ・当時︶によって発表されている ︒そこでは ︑五

指導をしている学校も見られた。たとえば中学校の家庭科の授業では、事前に3R(reduce, reuse, recycle)や5 R(refuse, reduce, reuse,

24日 札幌市立大学講義 上田会長 26日 打合せ会議 上田会長ほか 28日 総会・学会会場打合せ 事務局 5月9日

1 北海道 北海道教育大学岩見沢校  芸術・スポーツ産業化論 2019年5月20日 藤原直幸 2 岩手県 釜石鵜住居復興スタジアム 運営シンポジウム

[r]

 ファミリーホームとは家庭に問題がある子ど

明治以前の北海道では、函館港のみが貿易港と して

海に携わる事業者の高齢化と一般家庭の核家族化の進行により、子育て世代との