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20世紀アメリカ合衆国における高齢者の社会経済的 地位の変遷 ― エイジズムの克服と公民権運動 ―

著者 山田 裕子

雑誌名 評論・社会科学

号 70

ページ 1‑29

発行年 2003‑03‑20

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004410

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20 世紀アメリカ合衆国における 高齢者の社会経済的地位の変遷

──エイジズムの克服と公民権運動──

山 田 裕 子

はじめに

1 アメリカ社会の高齢化とその過程 1)人口動態の変化と社会の変化 2)高齢者の地位と役割の変化

2節 「社会問題としての高齢」とその背景

1)20世紀初期の萌芽的高齢者政策と高齢者の地位の一層の低下 2)高齢者差別と貧困と社会保障法

3 エイジズム克服への過程:レイシズムとセクシズム

1)公民権運動と2大イズム

2)エイジズムの発見

3)高齢者の現状打破への活動とその成果 おわりに

もし,われわれが現代の加齢にまつわる社会問題に本当に立ち向かいた いならば,まず,それを理解することから始めなければならない。そし て,もし,それを理解したいと思うならば,その歴史のなにぶんかを知ら なければならない。われわれは老いるという経験と老いへの態度がどのよ うに変化してきたかを知らなければならない。(Fischer, 1977 p. 5,筆者 訳)

は じ め に

日本の高齢化率は2002年9月15日現在18.5%,この数年ますます減少し続 ける出生率のおかげで,高齢化の将来推計は上方修正され,2007年頃には65

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歳以上の高齢者が21% を越える超高齢社会に近づくと見られる[内閣府,

67]。今日の日本の状況をみるならば,あまりにも急激な人口高齢化によって 噴出する諸問題への現実的,制度的対応に忙しく追われ,「老い」や「高齢者 の役割」について,また「高齢社会」そのものの歴史的な意味合いなどについ ての本質的な議論や考察を経ぬまま,時に懐古趣味にふけったり,あるいは継 ぎ接ぎ的な,技術的な対応に留まっているのも垣間見える。そのような混沌の 中に「高齢社会がやって来る」という不安や懸念のみが先行して,あたかも高 齢社会や高齢者が問題であるかのような世論形成につながってきたようであ る。また,介護を受けることが高齢者の宿命であり,「介護問題」が高齢社会 のすべてであるかのように,高齢社会の意義や意味の短絡化や矮小化も進行し た。近年は「少子」現象がさらなる問題として付け加えられ,出生率減少の社 会的意味合いへの理解や議論を欠いたまま,都道府県や市町村によっては出生 率上昇への対症療法にもならないお門違いな施策をとるところも現れた。

しかし,今後進行する高齢社会から超高齢社会への移行も,これまでに劣ら ず急激であり,そのインパクトは大きく,状況の本質論議を欠いたまま,小手 先で対処しうるようなものではないはずである。このような時こそ,高齢社会 や,高齢者の状況と高齢者に対する社会の見方などについて真剣な議論が必要 で,そのためには何を前提条件として高齢社会が問題視されるのか,あるいは

「老い」の何を恐れるのかを知る必要があり,そこに社会科学的また歴史的な 綿密な研究と議論が必須となる。2000年に始まった介護保険制度の問題点 も,そのような議論の積み重ねから打開への道筋が開かれると思われる。

この研究においては,20世紀後半のアメリカ合衆国における高齢者の社会 経済的地位の克服に,エイジズムという概念が果たした役割と,そのような概 念の発見と展開に対する公民権運動の思想的関与を吟味する。とくに公民権運 動の主たる要素であった,レイシズムとセクシズムへの異議申し立てに焦点を あてて,高齢者の異議申し立てとの共通点を探る。アメリカにおいて,現在高

齢化率は12% 程度で,「高齢社会」にまだ達していないし日本に比べてはるか

になだらかな勾配で人口の高齢化が進んでいるため,その次の段階の超高齢社

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会に到達するのは日本よりも相当遅いとみられている。しかし,65歳以上人

口が7% を越えて高齢化社会になったのは日本より約40年も早く,その時以

来,またそれ以前から高齢者の社会経済的地位は厳しい下降に見舞われた。こ のような高齢者の地位の低下に対して,早くから年金制度など,様々な施策が 打ち出されたが地位の低下は容易に克服されなかった。高齢者の社会経済的地 位は,エイジズムの発見とその克服への努力によって,いかに今なお弊害を蒙 り続けているとしても,はじめて復権への確かな道筋を発見したと思われる。

まず,第1節で過去1世紀半のアメリカ社会の人口動態と高齢化の歴史を概 観する。生産様式の変化など社会の近代化と高齢者の増加,それに伴う思考様 式や家族・地域の関係の変化などから,高齢者への偏見と差別が生じ,高齢者 の地位変化が起こったことをまず見る。このような高齢者の地位変化と,「老 い」や高齢者への偏見は,程度や,起こり方に違いはあるものの,日本やその 他多くの社会に共通するものである。第2節で,そのような過程を経験したア メリカ社会では,高齢者の状況は,大量の移民,大規模な社会変化,大恐慌に よって,ますます惨めなものになっていった反面,「社会問題である」と捉 え,国家的なアプローチが開始された,その経緯を辿る。第3節では,第2次 世界大戦後の公民権運動の生起を追い,高齢者の状況と地位に対する,高齢者 自身と研究者達による問いかけと働きかけをみることによって,高齢者の問題 に対応する法や制度の前提,あるいは並行条件として,エイジズム解体の必要 性を述べる。

1

節 アメリカ社会の高齢化とその過程

1)人口動態の変化と社会の変化

アメリカ合衆国の人口調査は1790年に開始されており,その頃人口はわず か250万人だった[Atchley, 2000, 20]。しかし,新大陸への移民はますます増 え,100年後の1890年には6千万人を越え,その110年後の2000年には2億

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7500万人にのぼっている。とくに1890年から移民制限法が議会を通過する 1921年迄の31年間に実に1900万人の移民が新天地を求めてアメリカに渡っ てきた[Cincotta, 1994, 218]。人口の高齢化に変化をもたらす3大要因(出生 率,死亡率,人口移動)[Serow, 2001, 88]のうち,日本ではマイナーな要因で ある人口の移動(移民)が,アメリカ社会では大きな要因である。20世紀初 頭には,アメリカの人口7500万人のうち,1000万人が外国生まれ,2600万人 は両親のどちらかが外国生まれだったという[ナッシュ,1984, p. 17]。

アメリカ社会の高齢化の推移を見ると,1790年当時,65歳以上人口はわず か2% だったが,100年後の1890年には約4% となり,大恐慌さなかの1935 年前後には7% を越え高齢化社会と呼ばれるようになった[Atchley, 2000, 29]。 しかしその後の高齢化の速度は緩やかで,2000年には12.6% となるが,高齢 社会と呼ばれる14% になるには,まだ数年かかる。それはまず第1に日本よ りもはるかに長く続いたベビーブームのおかげであり,第2に,大恐慌から第 2次世界大戦まで途切れていた移民が,戦後うなぎ登りに増え続けたことであ る。とくに1980年の亡命者法(the Refugee Act)の制定,1986年の移民法の 改正(the Immigration and Control Act)により,1990年度には,アメリカ歴史 上最も多数の移民を迎えた1913年以来初めて100万人を越える移民を数えた

[Cincotta, 1994, 381]。

このようにアメリカ社会が多「人種」,多民族と広範な移民で成り立ってい ることは,加齢をめぐる問題の生じ方に,激しさを加えたことは明らかであ る。この激しさは,社会を構成する成員の属性を際だたせ,対立を激しくさせ たのと同時に,問題の根源を逆に明白にさせる効果があったとも言える。加齢 や加齢に対する態度の研究においても,年齢という属性と,他の属性との関係 性を明白化させ,アメリカ社会の個人主義的傾向とも相俟って問題の所在を探 る論議を活発にしたといえよう。

一方日本の高齢化は,1950年(昭和25年)に5% に満たなかった65歳以 上 人 口 が,20年 後 の1970年(昭 和45年)に は7%,そ の24年 後 の1994年

(平成6年)には高齢社会と呼ばれる高齢化率14% を越えて[内閣府,2002,

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66],わずか半世紀で急激な高齢化を経験した。アメリカではすでに70年近く 前に高齢化社会特有の問題を経験し,その高齢者の生活の変化とそれに伴う問 題への社会の認識を醸成してきた。

高齢社会への長い助走期間中にも,アメリカの高齢人口内の高齢化は進み続 け,75歳以上の高齢者は1980年に4.4%,1990年には5.1% にのぼった[Bar-

row, 1992, p. 11],75歳以上の後期高齢者を意味する「old−old」という概念と言

葉はNeugartenによって1975年にアメリカで創出された[Atchley, 2000, 518]。 介護や痴呆に伴う問題もすでに広範に経験され,社会の中で論じられ,調査が 繰り返されるうちに,高齢者の多様性が確認され,65歳以上を「高齢者」と いうたった一つの言葉で括ることの無意味さと不便さが指摘された。健康や自 立度における年齢の影響力の強さが発見され,後期高齢期にとくに付随する深 刻な問題であることが社会の中で認知され,高齢者グループの中でも年齢によ る線引きの必要性を認めたことにほかならない。さらに百歳老人の数は1998 年には6万1千人にのぼり,2050年までにその数は60万人を越えると予想さ れている[Rowe & Kahn, 1998, p. 6]。今では「very old」と名付けられた85才以 上の高齢者の割合を米国統計局(U. S. Bureau of the Census)発表の人口表に 載せるようになってきているし,百歳老人を対象とした疫学・医療・心理・社 会的な学術調査がいくつも行われ,より高齢の高齢者の研究を進めることで

「老い」を探求するアプローチが付け加えられた。

2)高齢者の地位と役割の変化

日本に先んじた高齢化の過程において,アメリカの高齢者の地位は大きな変 遷を見た。Achenbaum[1985]によれば,教会の記録や様々な書類,文献等か らみて植民地時代は高齢者にとって「黄金時代」とは言えないまでも,17, 18 世紀には殆どの高齢者が,同時代のヨーロッパに比してはるかに高い尊敬や崇 拝を享受することができた。誕生してから生き延びることが非常に難しく,今 日では生まれた人の80% が70歳まで生き延びるだろう,と見込まれているの

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に,それがわずか20% であった当時であれば,高齢であることを人々が如何 に畏怖をもって受け止めたか想像がつく。また,書物が入手できにくく,通信 技術と制度も今日のような隆盛と比較すればはるかに未発達の状態であれば,

高齢者によって蓄積された知識は非常に貴重で,高齢者は知恵袋として尊ばれ たのもうなずける。

しかし時代が下り,高齢者の数が増加するにつれ,その地位は下降した。

Fischer[1978]は 植 民 地 時 代 と そ れ に 続 く 合 衆 国 成 立 時 期 を「高 齢 支 配=

gerontcratia」と呼べる時代であったとし,南北戦争時代以降1970代 ま で を

「高 齢 恐 怖 症=gerontophobia」の 時 代 と 呼 び,特 に1909年 か ら1970年 の 間 は,高齢であることが社会問題となった時代と捉えている。高齢恐怖症は,若 さ信仰(the cult of youth)とコインの裏表のような関係にある。アメリカの高 齢者の地位の変遷を社会状況および社会政策と照らし合わせて経時化すること

を試みたAtchleyは,同様に地位の低下を認め,高齢者の地位低下は大恐慌時

代に底を打ち,第二次世界大戦中と戦後(1942〜1965)に若干持ち直し,公民 権運動の後に相当高まったとしている。

Cowgillが唱えたいわゆる「近代化理論=modernaization theory」は,高齢者 の地位の低下は社会が工業化・都市化したために起こったことであるとし,そ の過程は,人々が農地や農具を手放し工場労働者になり,家族構成においては 核家族化が優勢となるなか,高齢者は数の上で稀少性を失い,職業においても 家庭内においても,以前に保持していた優位を保てなくなったとしている[Pal- more, 1980, 450, Achenbaum, 1985, 138]。19世紀から20世紀前半のアメリカの就 業構造の変化は1870年には人口の50% が農業に従事していたが,1940年に はその割合が25% となっていた[Ranson & Sutch, 1988]。また近代化の特徴の 一つである生産工程の機械化は,20世紀初めの30年間に顕著であり,それを 証拠づける化石燃料の使用量は,その間に3倍にも増加したことが報告されて いる[Atchley, 58]。科学技術の躍進や生産様式の変化とそれに伴うイデオロギ ーの変化(個人的達成や官僚制への移行)に派生する価値の変化が,同時に進 行していた1)

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2

節 「社会問題としての高齢」とその背景

1)20世紀初期の萌芽的高齢者政策と高齢者の地位の一層の低下

Fischerは,「社会問題になる」ということばに,加齢と高齢者が社会から問

題視されている,という意味に加えて,さらなる重要な意味を込めている。高 齢者が遭遇する問題および高齢社会の問題は,個人の力では如何ともしがたい 実に社会的な問題であり,社会による介入で解決されるべきである,とする社 会の「新たな認識」が成立したというのである[1978, 157]。それを裏付けるも のとして,19世紀には見られなかった高齢者に関する様々な取り組みや調査 の開始があった。例えば,マサチューセッツ州で初めて高齢者に関する委員会 が開かれたこと(1909),同州で高齢者の経済状況に関する大がかりな調査も 行われたこと(1910),連邦政府雇用者への最初の高齢年金法が制定されたこ と(1909),アリゾナ州で最初の州政府雇用者への高齢者年金が開始されたこ と(1915),老年医学という意味の「geriatrics」という新しい科学が創始され たこと(1909),続いてこの分野の最初の教科書が発行されたこと(1914)な どである。連邦や州,あるいはアカデミアにおける高齢者の状況へのこのよう な関心の高まりが,高齢人口が7% に至る相当前にすでに起こっていたことは 注目に値する。

「高齢の問題は社会的問題」であり,「社会の介入で解決されるべき」という 認識が得られるには,十分な背景があった。南北戦争頃から始まっていた若さ への信仰が20世紀になると,ますます優勢になり,高齢者は偏見と差別にさ らされ,加えて貧困に苦しめられるようになっていたことである。高齢を理由 とした強制退職の制度は19世紀の終わり頃になると多くの職場で取り入れら れるようになっていた[Fischer, 1978, 135]。

そのように工業化や都市化を特徴とする近代化の過程を辿っていたのと同時 に,19世紀末から20世紀初頭のアメリカ社会には,もう一つ重要な社会現象 があった。それは前節でも述べた移民の流入で,アジアを含むいわゆる旧大陸

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の殆どすべての地域,特にロシアや南および東ヨーロッパ,あるいは日本やメ キシコなど東欧,南欧の地域から大勢の移民が続々と到着していた[Gelfand, p.

36]。この比較的若く,またアメリカ建国時に移入してすでに定着していたイ ギリスを主とする西ヨーロッパ系の移民からみれば宗教や文化などの点からみ て異端の民が,安い労働力として主に中高年の熟年労働者に取って代わるのが 至る所で見られた[Haber and Gratton, 1992]。そもそもアメリカは建国初期から 移民を安価な労働力とみなしていた[Cincotta, 1994, 218]。その結果は高齢者の 貧困の激化である。

RansonとSutch[1988]によれば,1890年時点で労働者の稼働賃金は20代 から30代にかけて上昇し,33才でピークを迎え,それより高齢では低下し た。その原因として,同じ職を継続していても一定の年齢に達すると生産能力 が劣るとして,賃金減額が実践されたこと,あるいは年齢上昇につれ,要求水 準の低い,従って賃金の低い職への移動が起こったことを挙げている。雇用に おいて,高齢労働者は「避けられない衰退としての年齢理論=The theory of ag- ing as inevitable decline」のもと,除外され,解雇やレイオフの対象となった

[Haber and Gratton, 1992]。しかも,年金制度は部分的に始められていたにせよ高 い離職率のためほとんど支払われていなかった。例えばStrieb[1988, 28]はAl- fred Dodge and Sonsでは1882年からの20年間に2046人の雇用者があったに もかかわらず,年金支給要件の15年以上勤続したのはわずかに10人であった ことを報告している。すでに農地を手放して,都市に移り住んでいた高齢者 や,賃金を求めて諸外国からやってきた高齢者には生計の道のりは非常に厳し いものであったことがわかる。

このように20世紀の前半には,高齢労働者は,より低賃金の職に移ること もあり,それに従い地位そのものも低下した。現代アメリカ人高齢者との比較 において,過去のアメリカの高齢者は「一般に外国生まれで,英語以外の言語 を母国語とし,医療へのアクセスにも欠けていた」[Rowe and Kahn, 2001, 10]。 高齢であるだけでなく,英語の読み書き会話にハンディを持ち,教育年数も少 ないのが高齢者であるとみなされていたのである。移民社会アメリカならでは

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の状況であった。近代化理論は,過去2世紀のアメリカの高齢者の地位低下 は,工業と科学技術の発達,それに伴う社会の価値規範や管理構造の変化が高 齢者のもつ経験を無価値にするメカニズムにより起こったと説明するが,Rowe とKahnによる上記のようなアメリカの高齢者の描写は,アメリカにおける高 齢者の蔑視や差別が年齢に加えて,さらに「人種・民族」や「出身国」,「文 化」などの異なる特性とそれに派生する言語能力や,さらに,その社会に遅れ て参入したことによっても生じていたことが伺える。

高齢者が,その社会の外からやって来た,その社会の新参者である,という ような現象は日本の社会ではこれまでほとんど見られなかったことである。高 齢者は,むしろ,その土地の古参であるのが,日本社会の通例であったとみる ことができる[宮本,1984, 42]。この点,高齢者の地位低下の成り立ちは,日 本よりもアメリカ社会においてより複雑であり,また厳しいものであったと言 えるだろう。このような複雑さは,日本社会の一般的現実とは異なるところで あるが日本にも,部落差別在日外国人への差別の歴史など人を区別し差別につ ながる要因の存在はあり,しかも,外国人労働者の日本への流入は近年増加し ている。この点でも,今後の超高齢社会への取り組みについて,日本がアメリ カの歴史と高齢社会の取り組みから学ぶ意義もあろう。

2)高齢者差別と貧困と社会保障法

若者や大勢の移民が,安い労働力として高齢の熟練労働者にとって変わって いった19世紀後半から20世紀前半には,高齢者に対する年齢差別がまかり通 っていたと言うことになる。そしてその年齢差別は高齢に対する偏見や固定観 念によって支えられていた。勿論,その頃,「偏見」や「固定観念」としてそ の当時の人に自覚され,理解されていたわけではない。それは「現実」とし て,「真理」として受けとめられていただろう。あまつさえ科学者や知識人達 が公言することによって,科学的な正しい知識としての装束を整え,一般の偏 見を強化さえしていた。

例えば,権威あるジョン・ホプキンス大学のオスラー主任医師が,1905年

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に「世の中の効果的で,推進的で,活気のある仕事は25歳から40歳の間にな され,40を過ぎた男性はそれより若い男性と比べると有用性に劣り,60を過 ぎると完全に役に立たない」と公開の席で述べた[Fischer, 141]。その当時,そ のような発言に対して様々に反論がなされたが,医学および高齢者救貧施設な どで働く人々の当時の一般的な考えであったという[Atchley, 2000, 60]。そのよ うな偏見と固定観念は,1968年にバトラーによって,初めて「エイジズム」

ということばで言い表されるまで,日常的に,疑われることなく,人々の考え や行動を支配していた。

そのような人々の考え方が現れているものとして,Fischer[1978, 124〜128]

は,19世紀後半から20世紀前半のアメリカ文学に焦点を当て,高齢者の描か れ方を報告しているが,それによると高齢者に対して最も好意的な作品はヘミ ングウェイによる『老人と海』で,高齢の身体に「若々しい精神」が宿ってい る様を描いているが,これはごく少数の例であって,高齢の「哀切さ」,高齢 の「弱さ」や「依存性」,さらには高齢の「空虚さ」,「惨めさ」など,高齢に 対して嫌悪感を伴った否定的なものに移行している様子がみられる。また,ア メリカの大衆雑誌に掲載された物語の登場人物の描かれ方を研究したMartel

[1968, 56]は,1890年から1955年までの間に,年齢の意味合いが「経験」,

「賢明さ」,「趣き」などから,「全盛をすぎた」,「時代遅れ」,「適格でない」な ど,否定的なものに変わっていることを発見した。高齢の登場人物は,1890 年頃は彼ら自身より若い成人と親しい交流のあることが描かれていたが,1955 年頃には,そのような交流もなく孤立した姿で描かれていることを報告してい る[p. 57]。

高齢者が「全盛をすぎた」や「時代遅れ」,「適格でない」と文学の中に描か れるまでに高齢者全体に対する偏見が成立してしまったのには,主に3つの要 因が複雑に作用しているのが見てとれる。その要因の第1は,当時のアメリカ 社会の教育機会の増加,第2に工場における機械化,さらに第3に19世紀後 半から20世紀前半にかけての連邦政府の資本家放任政策の下,凄まじいまで の労働者の搾取であった。

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まず,教育について,Fischer[1978, 140]はSimone de Beauvoirの英訳本The

Coming of Ageに発表されていた19世紀末から20世紀前半のアメリカの出生

年度別教育年数(中央値)において,出生年が10年下るにつれて,教育年数 が約1年から2年ずつ増加していることを示すデータを引用している。1896 年から1900年の出生者の教育年数の中央値は8.6年,1906年から1910年で は,9.7年,1916年から1920年では11.8年という具合である。その当時,大 学をはじめ,幼稚園に至るまであらゆるレベルで教育体制が整備されつつあ り,子ども達にとっては長期の教育機会,すなわち能力開発の機会の充実とい う喜ばしいできごとが,高齢者にとっては相対的な能力低下を招き,保持して いた技能や知識が時代遅れであることを説明する要因となった。その当時は若 者と高齢者の知的能力,それも流動的知能の横断的比較で2),若者の優秀さと して理解されたであろう。先に述べたように,外国生まれで,英語を話さない 高齢者が多かったこともあり,加齢とその体現者である高齢者に対する否定的 なイメージが増長して行ったのであろう。

第2の工場における機械化は,有名なチャップリンのサイレント映画,『モ ダンタイムス』にいくぶん戯画化して描かれているように,人間の機械への従 属を意味した。製造現場のオートメーション化が増すにつれ,労働者に必要と される能力は,経験から獲得される技術や知恵などではなく,機械や製造ライ ンのスピードの早さに即して反応的に,敏捷に動き回ることのできる身体的活 発さであった。現在までの老年学の研究では人間の能力のうち加齢により最も 影響を受けやすい,若い間に優勢な能力だった。Achenbaum[1985, 142]によ れば,第1次大戦後には,後年の研究によって科学的な基本が間違っていると される「年をとるにつれ,労働者は有能ではなくなる」という憶測が盛んに発 表された。このようにして,労働における高齢者の能力が低く評価され,労働 者としての高齢者の能力に対する偏見や固定観念はますます強固なものとなっ た。そして次第に強制的な定年制度が普及していった。

第3は,第2の機械化と関連するが,そのころのアメリカ社会には労働条件 を規制する法律はなく野放し状態[Cincotta, 1994, 208]で,貪欲に利潤を追求す

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る資本家達は長年にわたり,男性ばかりでなく女性や幼い子どももより安い労 働力として長時間労働に駆り立てた[ナッシュ,1987, 35]。それが高齢の労働者 を追い立てる結果となり,高齢の失業者が増加し,その多くが貧困となった。

もっともその頃のアメリカでは,高齢者だけでなく,労働者全体が過酷な労 働に喘いでいた。19世紀半ばから厳しい生活を強いられてきた労働者は,労 働組合を組織化し,争議を繰り返した。1919年には1年間に4百万人以上の 労働者がストライキに参加して労働条件の改善を求めた[Cincotta, 1994, 248]。 ジェーン・アダムズのような社会事業家も加わり,婦人労働8時間制などの労 働立法や年少労働者の賃金と労働時間規制の州法の制定などを次第に勝ち取っ ていった[ナッシュ,1978, 34, 35]。そのような経緯を経て,大恐慌で失業者が 溢れた1935年に,フランクリン・ルーズベルト大統領の強力な決断で,ニュ ーディール政策と共に,社会保障法(Social Security Act)がやっと制定され,

失業者への手当と高齢者の年金制度が開始された[ボトウィニック,1981, 73]。 1935年はアメリカ社会が高齢化社会に突入した年でもあった。不況下での高 齢失業者や退職者の不安定な収入を支えると共に,企業ごとに定められた定年 退職制度と共に高齢者の退職を促し,若者に職を与えることに資するものでも あった[バトラー,1975, p. 25]。大恐慌は第2次戦争に引き継がれ,アメリカの 国民は前線に多くの若者を送り出したために,高齢者や女性が職場に留まり,

戦争中の生産を担っていた。

3

節 エイジズム克服への過程

前節で,アメリカにおける過去一世紀半の人口の高齢化は,西部へのダイナ ミックな開拓に,工業化と都市化,資本主義化の荒々しい展開が続き,大勢の 新たな移民が東・南ヨーロッパとアジアなどから続々と流入するなかで起こっ たことであることをみた。このような過程で,高齢者の働く能力は劣っている とされ,強制的な定年退職制度が広範に確立した。大恐慌時に制定された社会 保障法は,失業者への金銭給付と高齢者への年金の確立への一歩となったが,

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「高齢者は雇用されないという前提に立った法」[Atchley, 2000, 64]であったこ とは,高齢者に対する年齢差別のイデオロギーを結果的に強化することにつな がったことであろう。高齢者は,第2次大戦後に年金制度が改善されるまで,

少額の年金権と引き替えのように,職を手放し,退職者としての地位を付与さ れた。結果として,高齢者は「貧しく」,「無為」で,「孤独」で,「病気」で,

「引きこもりがち」という偏見は浸透し,「老いることに価値がない」という見 方や,「老い」への恐怖感さえかき立てられていた。

第2次大戦後,ヨーロッパやアジアの国々は国土が戦場になり,多くの戦死 者や傷病者を出し,戦禍を直接蒙って喘いでいたが,ハワイを除き,国内で爆 撃や被害に遭わずにすんだアメリカは,1973年のオイル・ショックまでおよ そ30年間「人類史上空前の爆発的な繁栄」[ハーツガード,2002, p. 40]を享受 し,世界で最も富んだ国となった[Cincotta, 1994, 292]。国民総生産は1945年か ら1960年の間に2倍になった[Atchley, 2000, 65]。自動車,住宅,通信,電気 機器など,多くの消費財を生み出し,人々は,都市の中心部から郊外の一戸建 てに移り住み,テレビ番組を楽しみ,車通勤も一般的となるなど,国民の生活 が様替わりしたのもこのころであった[Cincotta, 1994, 292]。また第1, 2次産業 からホワイトカラーの第3次産業へと就業構造に変化がみられ,国内では建国 時から続く東部の都市から西部のカリフォルニア州や南部のフロリダ州,テキ サス州などの新しい都市に人々の移動が起こり,ロサンゼルスなどはたちまち のうちに巨大都市となった[Cincotta, 1994, 293]。1940年から1960の間に高齢 者人口は2倍になった[Atchley, 2000, 65]。

しかし,この豊かな時代は大きな問題を抱えていた。それは人種,エスニシ ティ,性,年齢などによる差別と貧困が存在し,その時代の人々が当然のこと として享受している豊かさや公民権から排除されている人たちが大勢いたこと である。勿論その中に高齢者も含まれていた。この項では,1960年代,70年 代に起こった公民権運動と,高齢者のプロテストの共通する意味合いを探り,

アメリカ社会がエイジズムへのプロテストを受け容れ,エイジズム克服に取り 組む基盤の成立を公民権運動の中に求める。

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1)公民権運動と2大イズム,レイシズムとセクシズム

豊かなアメリカで,豊かさやアメリカ人として当然享受しうる公民権から隔 てられていた人達の中でも,アフリカから奴隷として連れてこられた人々を祖 先に持つ黒人達は,もっとも明白で過酷な暴力と差別を長年にわたり恒常的に 受けていた。南北戦争終結後,奴隷制度が廃止された後も,黒人は労働力とし て酷使され,差別と暴力的迫害に苦しめられてきたが,ようやく第2次世界大 戦下(1941年)に軍需工場での人種差別禁止法を勝ち取り,その後何度も後 退を余儀なくされ,闘いに対する弾圧の中で多くの死者を出しながら粘り強く 戦い続け,ついに1954年に最高裁判所により人種隔離は否定された[上杉,

2003, 132]。

このような黒人の運動はアメリカ市民としての当然の権利を獲得するための ものであり,「公民権運動=Civil Right Movement」と命名された。この後も1955 年のアラバマ州モンゴメリーでのバス・ボイコット運動や,1960年のノース

・カロライナ州ウールワースにおけるランチ・カウンター座り込み運動,1961 年の白人を含む大勢の活動家達のバスによる南部集結のフリーダム・ライド運 動などが展開された。そのような運動に対する当局による厳しい弾圧は新聞や テレビを通じて全国に伝えられ,国民の間に人種差別撤廃への支持が高まり,

1963年には20万の人々がワシントンに結集し差別廃止を訴え,公民権運動の 象徴的な指導者,キング牧師の「私には夢がある」のリフレインで有名なスピ ーチでクライマックスを迎えた[Cincotta, 1994, 319]。このようにして,ジョン ソン大統領の署名で,1964年に公共交通における差別を禁じた公民権法(Civil Rights Act of 1964),1965年に黒人の選挙権行使を確実にする選挙権法(the Voting Rights Act of 1965),1968年に住宅の差別を禁じた公民権法(the Civil Rights Act of 1968)が議会を通過した。

現実には,一人の人間が何世代にもわたり,幾つもの,いわゆる「人種」の 流れを汲んでいることが殆どで,「純粋」な意味で人々を分けることはできな いはずであるが,ヨーロッパおよびアメリカで行われた奴隷制から生まれた白 人優越主義思想が,特に黒人やアジア人を白人から区別するために作り上げた

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社会的な定義が「人種」である[Atchley, 2000, 441]。その「人種」のカテゴリ ーを用いて,人間をグループ分けすることが正当であると信じ,それに基づき 役割や社会的地位を決定し,差別することがレイシズムである。アメリカ社会 で信じられ,広く実践されていたレイシズムへのプロテストは,そのような何 らかの属性とそれに基づくカテゴリー分けが,如何に社会的なものであるか,

ということに広範な人々が思い至ることになったのが,20世紀の半ばであ る。

このような黒人の公民権運動に呼応するかのように,女性達が立ち上がっ た。すでに19世紀の半ばに男性と対等な市民権を要求する参政権運動が開始 され,1920年に女性の参政権を認める憲法第19条の修正として結実していた

[高橋,2003, 177]。女性達は奴隷制廃止運動,禁酒運動,買売春廃止運動など の様々な運動やハルハウスに代表される貧困者のためのセツルメントなどの社 会活動に積極的に参加し,公的な領域への進出もめざましかった[Kuhn et al.,

1991]。ところが,女性は19世紀後半以降,高等教育を受け,さまざまな専門

職に就くことも可能になり,戦時中には銃後を守って職場で全力を揚げて働い ていたにもかかわらず,戦後の豊かな時代には「第2の性」として,家庭内に 留まり男性への従属的な地位に就くことを要請され,精神的な貧困に陥ってい た[フリーダン,1965, 27]。その役割は家庭内における夫へのサポートと子ども 達の養育に狭められ,高齢者に似て,参政権はあるものの自己実現の機会を失 い孤立し,苦悩していた。また,1963年当時には既婚の女性の労働市場に占 める割合は次第に大きくなっていたにもかかわらず,従来高学歴の女性が就く ことの多かった看護婦,ソーシャルワーカー,教員などのいわゆる専門職につ く女性の数は年々減り,それら分野の人手不足がアメリカ全都市で問題化する ほどだった[フリーダン,1965, 15]。女性は平均して男性の58〜63% の賃金し か得られない状態で,その差別的状況には多くの女性が不満を感じるようにな っていた[Cincotta, 1994, 322]。

ベティ・フリーダンはその よ う な 状 況 を「新 し い 女 性 の 創 造(原 題The

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Feminie Mystique, 1963)」の中に論理的,かつ実証的に,しかも雄弁に描き出 し,事実上女性解放運動をまきおこした。多くの女性,特に中産階級の女性達 は,自分たちが感じていた得体の知れない苦悩の正体が,言葉を通して本の中 にありありと具体化したものとして,大歓迎し,出版後10年間に200万部以 上を売るベストセラーとなった[三浦,1965, 310]。女性解放運動は,人種差別 撤廃を要求する黒人が中心となった公民権運動にも触発されて,また同時代に 中産階級の若者達によって示された反抗精神をも吸収しつつ,多くの女性の参 加とメディアの注目を集め,思想や文化にも大きな影響を与え,公民権運動の 重要な一部として位置づけられるまでに発展した。大学の多くが「女性学」と 称する科目を設定し,既成の科目もジェンダーの視点は欠かせないものとして 取り入れられた。

このような運動はやがて連邦議会や政府要人達をも動かし,保守派の執拗な 反対にもかかわらず,1964年には公民権法の中に,性は,人種,信条,出身 国と並んで,差別を禁止する事項の一つとして取り入れられた[Cincotta, 1994, 322]。1966年には,ジョンソン大統領は「アメリカの婦人の能力を十分に活 用しなかったことは,わが国にとって,最も悲しい,かつおろかな無駄であ る」と述べ,ハンフリー副大統領も,女性を「基本的人権を認められていない 多数=under privileged majority」と呼ぶなど,女性に対する差別を社会的に認 知させる大きな成果を挙げた[三浦,1965, 305]。

その後の女性解放運動の展開は高齢者の状況の改善にも繋がるものであっ た。女性解放運動で結集した女性達は1966年に,NOW(The National Organi- zation of Women)と称する全国組織を作り,具体的な女性に対する差別への 一連の改善運動を展開した。その中に「高齢女性のための対策本部」や,「障 害者の権利代弁委員会」などもあり,特に高齢女性の困窮に焦点を当てたもの であった[Barrow, 1992, 347]。

女性と男性という2つの性の間に存在する肉体的差異により,男女に生得的 な能力の違いがあることを信じ,その違いに基づき,両性に異なる行動様式と

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非対称の社会的役割を付与し,支配・被支配の関係を作り上げることになる性 別役割分業を正当化する信念と行為をセクシズムと呼ぶ[栗原彬,1996, 22 ;

Atchley, 2000, 449]。女性解放運動はこのようなイズムに対して異議申し立てを

行い,非対称の権力関係が女性を抑圧していることを明るみにだした。ここで も,人々の属性というものが,線引きの手段として用いられ,カテゴリーで 人々を分け,人間を抑圧し,自由と機会の平等を妨げることの不当性を明らか にした。

レイシズムとセクシズムへのプロテストは,それぞれ異なるグループの人々 によって担われた。レイシズムは黒人達やネイティブ・アメリカン,あるいは ヒスパニックなど,「人種・民族性」によって差別されてきた人達,セクシズ ムは女性,それも教育程度の高い中流階級の女性達によるものであった。互い のグループはそれぞれ,単一の属性よる偏見と差別を取り上げて問題にした。

互いのグループ間の直接的連絡の有無にかかわらず,それぞれに自分たちへの 偏見と差別に対してプロテストの声を挙げることによって,差別の実態を明る みにし,その非人間性を問いかけ,属性が人への偏見と差別に用いられること の非正当性を,人間の共通の問題として提示したと言えるだろう。法を通じて 社会正義を実現するという公式宣言と個人の権利を主張することが公民権運動 の基本にあった。社会の思潮に,そのような理解が生まれたのであれば,年齢 を根拠に差別を正当化するエイジズムが発見されるのも当然の事と言えるので ある。

2)エイジズムの発見

精神医学者のロバート・バトラーは1968年に論文の中で,初めて「エイジ ズム」という言葉を用い,レイシズムやセクシズムと同じく,社会の人間が年 齢を理由に高齢者を自分とは別のグループの人間か,あるいは人間ですらな い,と思い込むことにより,高齢者の貧しさや,「社会・経済的な苦境を無視 しやすくなる」ことを指摘した[バトラー,1975, 15]。さらに1975年,『Why sur- vive? Being old in America 邦題=老後はなぜ悲劇なのか(1991)』の中にその

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時代の高齢者の苦境を詳しく描いた。バトラーは「多くのアメリカ人にとっ て,老後は悲劇である。無言の絶望と困窮と孤独,そして口には出さないが激 しい怒りを感じながら生きる時期である(4)」と書き,アメリカが老後の生活 が極端に過酷な社会になっており,壮年期に相当の社会的地位を占めていた人 達であっても,貧しくわびしい生活を送るようになった事例をいくつも紹介し ている(29)。この書物は翌年ピューリッツァ賞を授与された。

バトラーがエイジズムと言う言葉を作った1968年,また老後の悲惨さを詳 しく描いた1975年以前に,すでに高齢者のための政策が法律として完備して いた。1960年代はアメリカの未曾有に豊かな国力をもとに,実は高齢者に対 する福祉施策が勢揃いした時代だった。1961年にホワイトハウス高齢者会議 が開かれ,多くの高齢者が貧しさに取り残されていることが広く注目された

[Atchley, 2000, 65]。高齢者の多くに健康保険がないことも問題とされ,高齢者 の状況が,豊かな社会の中における大きな問題であることがあらためて確認さ れた。ジョンソン大統領は1964年に「貧困に対する戦争」を宣言し,次々と 高齢者の状況改善への方策を実現化した。1965年に,アメリカ高齢者法(The Older Americans Act)が議会を通過,さらに同年,社会保障法の改正により高 齢者のための健康保険メディケア(Medicare)が創始された。さらに1967年 には雇用における年齢差別禁止法3)が制定された。

アメリカ高齢者法では,10項目の目標を掲げ,すべての高齢者(60歳以上)

への多様なサービス提供を可能にした。そのサービスは地域のシニア・センタ ーの設立,センターでの昼食サービス,食事配達サービス,情報・相談活動な どである。また,高齢者のための健康保険メディケアは,65歳以上の高齢者 に対する医療における支払いを,処方薬を除いてカバーすることで,高齢者の 支払いの重荷を軽くし医療へのアクセスを容易にした[Suppe & Wells, 1996, 236]。

しかし,このような法と制度は高齢者の生活を多少改善したことに疑いはな いが,貧困に対しては「焼け石に水」の如くで,バトラーによれば[1975, 28]

1960年代の終わりには他の年齢グループでは貧困者は減っていたのに,高齢

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者の貧困は数に於いては増加,割合においてほとんど変わりはなかった。つま り,1969年には高齢者の約25% にあたる480万人がアメリカ政府の非常に保 守的な公的貧困ラインよりも低い所得しかなかったが,1968年よりも20万人 増加していた。他の年代では120万人減少していた。また高齢者のなかでも,

一人暮らしの女性の51% が貧困ラインより低い所得しかなく,黒人やマイノ リティの高齢者の状況はさらには厳しく,貧困の可能性は白人の2倍とみられ た[36]。

社会保障法の欠陥は明白だった。法の改正が早急に求められ,1972年の社 会保障法の改正では寡婦・夫に給付が追加され,1973年の改正では,被年金 者である配偶者の死後の給付率は82.5% から100% に増加された[バトラー,

1975, 36]。しかし,女性,マイノリティなど,若い頃から不公平な雇用と賃金

形態で働かなければならなかった場合には,年金にも,そのような差別が反映 され,貧しい老後を余儀なくされる。またバトラーは企業年金および軍隊の年 金制度とその財源の不公平さと不安定さを指摘し,さらには退職制度そのもの が高齢者に対する偏見であると指摘した[1975, 56, 80]。

アメリカの社会保障制度の脆弱さは他にもあった。1970年代に入り,アメ リカ経済が減速するやいなや,高齢者に対するプログラムが他の年齢および貧 困グループの分け前を食っている,と非難する政治家も出て,「高齢者は金持 ちだ」という新たなステレオタイプ形成がなされ,高齢者グループへの攻撃が 起こった[Kuhn et al., 1991, 204]。もともとアメリカ高齢者法は比較的低い予算 で始められたのに,1980年代,1990年代に予算は大幅に削減された[Suppes and Wells, 1996, 318]。

このように見てくると,問題視された高齢者の貧困に対して,それまでのよ うな方式で救済を図るのは対症療法的な対応であることがわかる。他の世代が 時代の豊かさを享受している時に,高齢者が貧困に苦しみ,それに対して施し の如くに対応を考えるのは,「高齢者がその高齢ゆえに貧乏になるのは当然で ある」と考えるならば,慈善的に妥当なことかもしれない。しかし,「何故,

高齢ゆえに貧乏にならなければならないのか」と考え始めるならば,高齢と高

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齢者に対する考え方の一つ一つを問い直す必要に迫られる。自分が身をもって 加齢のプロセスを経験することや,身近な高齢者が加齢ゆえに社会から押しつ けられる役割や地位低下,貧困に苦しむのを見るときに,「年齢」というもの にそのように強い力を付与する社会のあり方が疑問視され,それを声にし始め たのがこの時期だった。そして,高齢と高齢者について,一つ一つ問い直す と,答えは決して単純なものではなく,しかしそこに確実に発見できたのが,

「エイジズム」という,年齢にすべての決定権を与えて,考えることを放棄さ せる,怠惰で因習的なイズムであった。

バトラーは1975年のその著の中でエイジズムの働きを点検し,「神話」の 数々を列挙し,一つ一つに反論を加えた。高齢者についての神話は,「非生産 的である」,「生きることに後ろ向きになる」,「硬直化する」,「ぼける」,「のど かである」など幾つもあげている[バトラー,1975, 9]。パルモア[1990, 22]

は,その著『エイジズム』で9つの形態の否定的ステレオタイプを列挙してい る。そ れ は「病 気」,「性 的 不 能」,「醜 さ」,「精 神 的 衰 退」,「精 神 病」,「無 益」,「孤独」,「貧困」,「鬱」である。パルモアはエイジズムが否定的なものだ けでなく,肯定的なものも多いことを詳しく調べている。日本においては,そ のような肯定的なエイジズムの考えと実践がアメリカ社会より濃厚に存在する が,過去数十年にわたって起こった都市化と工業化によって,アメリカがそれ より数十年前に経験したのと同じような高齢者の地位低下や高齢に対する否定 的なエイジズムも広範に,しかし,より隠微な形で見られ,複雑な様相を見せ ている。

エイジズムや「神話」の複雑で忌まわしい働きは幾つもある。まず第1に,

神話は,人々の固定観念となり,若い人達が高齢者に対してもつだけでなく,

高齢者自身もそのような否定的な定義をとりいれてしまうことがあり,自信の 喪失や,現在と将来への絶望,うつなど,有害な心的状況を構成することも多 い[バトラー,1975, 17]。高齢者が「生きることに後ろ向きになる」というよう な神話は,必ずしも偽りではなく現実を幾分かはあらわしている。それは「高 齢者は非生産的である」などの固定観念を周囲の人々が持つ場合や,そのよう

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な社会が高齢者の機会を狭めている場合に生じがちな心的ストレス反応である とバトラー説明している。それは他者の自分についての見解を取り込み,自己 のものにすることによって,その自己予言を成就してしまうのである。逆風の 固定観念に抗して生きるのは誰にとっても非常に難しく,そのような空気の中 にあっては,生きることに後ろ向きにならざるを得ないこともあるのである。

エイジズムやその他の「イズム」の忌まわしい働きは,また,そのような固 定観念を向けられたグループの人々を結束よりは,互いに反目に向かわせる場 合もあり,グループ内により生き難い状況を作ることがある。例えば,裕福で 健康に恵まれ活動的な高齢者は,自分自身については満足しているが,高齢者 全般については,健康や経済状況に問題があるのは,社会に甘えている,ある いは怠惰であることなどに原因を求め,社会構造の変革や社会保障の充実を求 めない傾向も見られる。

エイジズムのもう一つの忌まわしい働きには,年齢のカテゴリーで高齢者を 区別し,劣等性を付与することにより,そのグループの「社会・経済的な苦境 を無視しやすくなる」との,バトラーの説である。無視することにより,その 状況の強化にも繋がる。Fischer[1978, 154, 155]は近代アメリカの社会構造の 主要な変化は高齢者にとって「試練と困難=trial and trouble」の連続であった と述べて,高齢恐怖症と,退職による貧困化と,世代間の別居の3つがこの時 代のアメリカの高齢者の身に起こり,その3つの現象が悪循環を起こしたと見 る。つまり,高齢恐怖症と若さ信仰は,高齢アメリカ人の貧困化でさらに強化 され,貧困化は逆に高齢恐怖症によって正当化された。世代間の別居は高齢恐 怖症と貧困化を強化し,逆にこれら高齢恐怖症と貧困化によって強化されたと 述べている。つまり,高齢者の貧困の問題を解決しようとするならば,高齢恐 怖症に立ち向かわなければならないし,高齢者の貧困を無視したり,正当化し たり,強化さえするエイジズムをまず克服し,加齢についての知識を豊かにし なければならないのである。

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3)高齢者の現状打破への活動とその成果

連邦政府による高齢者の問題に対する1960年代とそれ以降の一連の法の制 定や改定は,その時点のアメリカ経済の豊かさによる恩恵も大きかったが,そ れに先立つアメリカの高齢者自身による自分たちの境遇の改善に対する目覚ま しい取り組みによって促進されたものでもあった。「個人が感じた悲しみや怒 りは,決して個人的なものではない,むしろ社会的なものである」,とする高 齢者からの異議申し立てであった。ここではアメリカの高齢者の現状打破への 活動組織の創始者のうち,とくに年金の改善と医療保険の創出に力のあったア ンドラスと,定年退職制度の撤廃につながるアメリカ市民の関心を喚起させる ことに大きな功績を挙げたクーンの2人の女性の活躍を取り上げる。

エセル・パーシー・アンドラスは第2次世界大戦の終わり頃,カリフォルニ ア州で41年間の教員生活を終えて年金生活に入ったが,年金額のあまりの少 なさに驚き,同州で年金制度改善の運動を起こし成功した。問題が一州に留ま らないことを見て取った博士は全米にネットワークを拡げ,1947年には全米 退職教員協会を結成した。彼女はカリフォルニア州高等学校の最初の女性校長 で,並はずれた能力と行動力で,年金,税金,住宅,医療と介護の問題に次々 取り組み,とりわけ公的医療保険制度が当時なく困っていた協会員のために,

幾つもの保険会社との険しい交渉の後に1955年にグループ保険を創始した。

すでに2万人に増えていたメンバーの25%,5千人が加盟し見事に成功した。

それを知った元教員ではない退職者の多くが加盟を希望したため,退職者全体 の健康保険への切実な要求を知り1958年に設立したのが,今や会員数3400万 人(1998年時)の 巨 大 で 強 力 な 組 織 に 成 長 し た 全 米 退 職 者 協 会(AARP=

American Association of Retired Persons)であった[加藤,1997, 158]。会員数の 多さだけではなく,AARPは,高齢者の有能性をすべての世代にむけて明らか にし,ボランティアを育成し,国会議員達に働きかけ,高齢者自身にも自信を もたせることに成功したが,一方では高齢者グループの利益のみを追求する圧 力団体となっているという批判もある。

マギー・クーンもまた当時の女性では珍しかった大学教育を受けて,YWCA

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本部や長老派教会本部の教育や福祉,社会活動部門で長年働いてきた[Kuhn et

al., 1991]。19世紀福音主義に感化されて[98],現実の人々の問題の改善に関

心をもつそのような組織においても常に女性であることで差別を受け乍ら

[115],地域の人々や低所得の働く女性の健康保険制度や住宅制度に関心を寄 せ,綿密な現状報告や改善のための工夫を凝らした企画の提言や出版物の編集 をし,核兵器開発にもプロテストすることを呼びかける活動をしてきた。

そのような過程を経て,自らが事務管理能力も備え,新しいアイデアにも恵 まれた活動家であることを感じていた最中,65歳になる数ヶ月前に退職勧告 に直面したときに,すぐさま同じように退職を不条理と感じている仲間に呼び かけて強制退職制度,それも特に女性に容赦のない制度に対して団結して抗議 するための新しいソーシャルアクションの団体を作った。この団体は,最初は 厳密な本部・支部や会費のある組織形態をとらない草の根運動を特徴とし,高 齢者の問題のみならずヴェトナム戦争やヘルスケアなど,「高齢者と若者が共 闘する」ことを目指し年齢に関わらない,しかし正義感に根ざすすべての人々 にとって大きな不幸となるような問題に取り組んだ。1971年に開かれたホワ イトハウス高齢者会議での目覚ましい活躍で注目を浴びたことから,グレイパ ンサーと名付けられた[138]。1980年には全米に90の支部,1万人近い会費 を払うメンバーと9000人の会報「ネットワーク」を受け取るメンバー,数百 の参加グループがあった[204]。グレイパンサーの仲間達は,60年代,70年 代に急速に増加し,高齢者の虐待や放棄が報告されていたナーシングホームに も出かけて,居住者にサポートを提供し,問題点を探り,居住者やスタッフを 組織化し,ネットワークを作り,巨大なナーシングホーム業界に改善を迫り,

ナーシングホームでのケアを変えた[175]。

アンドラスの組織したAARPとクーンの創始したグレイパンサーはそれぞ れ異なる形態と運動方式をとり,その活動領域も異なっているが,高齢者の生 活の改善のみならず高齢者に対する社会の考え方に大きな影響を及ぼしたこと は共通している。彼女たちは無数の高齢者の声なき声を吸い上げて,現実の声

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とした。すでに権威を持った誰でもなく,それまでは無名な市井の高齢者達自 身が自分たちの困窮ぶりをはきはきと訴えること,データや証言を用いて,テ レビ番組や連邦議会の公聴会,また政府要人に対しても,対等のことばで理路 整然と語ること自体が,高齢者に対するこれまでの偏見や固定観念を覆すもの であった。これと相呼応するように,高齢者に対する偏見や神話を検証とする 老年学研究者達の綿密な研究や調査活動があったが,それについては,別稿に 記す。

Achenbaum[1995, 212]は,アンドラスの創始したAARPは下院議員達と協 働して,1977年の年齢による雇用差別禁止法の改正を議会で成立させるのに 細かな資料を効果的に提示することに長けていて功があったが,クーンのグレ イパンサーは,メディアの注意を惹き付けることに力があったとしている。社 会の変革に必要な要素を,それぞれの運動体が分かち持ち,異なるやり方で高 齢者の社会経済条件の改善という大きな目標に向かって行ったのが,当事者で ある高齢者であった。

お わ り に

ここでは,過去1世紀の人口高齢化に対するアメリカの取り組みを見てき た。社会と産業界の高齢者排除の過程と結果としての貧困や孤独,そして排除 を支持した偏見が,現在どの程度まで改善されたかを明示するのは,やさしい ことではない。追ってきた取り組みが,とくに偏見とそれに基づく差別の過程 の克服という点では,第1に高齢者の自己イメージやセルフ・エスチームなど の主観的な評価と,高齢者の生活実態の客観的な指標が求められる。第2に は,社会が高齢と高齢者に対してどのような評価をもつかといった高齢者観の 研究が必要である。第3には,社会が高齢者をどのように遇しているかの実践 内容の検討が必要である。例えば,退職制度,雇用における高齢者の状況,医 療や住宅,福祉サービスなどである。これら3点において,過去と現在といっ た時間的な変化を明らかにするものと,現時点での他の社会や国々との比較に

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よる研究が,取り組みの効果を示すことができるものである。

1つの目立った動きは1980年代から,「サクセスフル・エイジング」や「プ ロダクティブ・エイジング」という考え方が提唱されていることである[Estes

& Associates, 2001, 27]。「サクセスフルエイジング」はかつては年齢によって避

けられないと思われていた生物学的,行動学的な現象が,今ではもっと柔軟で あり,可逆的なものであるという知見である。過去半世紀近い,老年学の調査

・研究によって得られた知見の一つである。それは,例えば,「長生きをした いなら,長生きの両親を選びなさい」という,長命は大きく遺伝によっている という意味の広く浸透していた言い伝えは,今では「神話」となった,とする ものである。病気の起こり方や寿命に遺伝的な要素は勿論無視できないが(例 えばハンチントン病などの特殊な遺伝病など),それとても環境やライフスタ イルなど,我々がどこで,どのように生きるのかが,病気の起こり方に大きな 影響を与えるというものである[Rowe & Kahn, 1998, 29]。日本において成人病 という呼び名が今では生活習慣病という名に取って代わられたのも同じ考え方 に基づいている。高齢者を衰退と病気に結びつけていた古いエイジズムと比較 すれば,このような高齢への見方は画期的だと言える。

しかしこの非常にポジティブと思える見方には,反論もある。それはこの半 世紀のもう一方の大きな知見,加齢のプロセスと高齢期の健康を説明する要因 として,ますます社会,行動,環境の3つの重みが増している,ということに 基づいている。この観点からみると,サクセスフルエイジングやプロダクティ ブエイジングは,健康や長命に対する構造的な要因の影響力,つまり個人の経 済や社会条件,あるいは教育程度など個人が大きく制限されている事柄に対し て,余りにも考慮をおいていない,というものである[Estes, et al., 2001, 27]。 例えば,ライフスタイルにしても,まず,健康によい生き方についてそれだけ の情報を得るには,知識やそのような知識へのアクセスが必要であり,それら は階層や教育など,社会経済的条件に大きく左右される。また同じ情報をもっ たとしても,実際にそれを実行に移すことができるかは,場所,時間,資金な ど,それぞれの社会経済条件によるところが大きい。アメリカのような人種,

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エスニシティ,あるいは社会階層の違いがはっきりしていて,貧富の差の甚だ しい社会においては,そのような社会経済条件が「加齢」経験に大きな影響を 与え,「老い」がサクセスフルかプロダクティブかに,ライフスタイルが影響 力を持つとしても,そのライフスタイルを選び取ることに社会経済的な構造の 制約が働いていることの指摘である。今も,黒人やマイノリティの高齢者の境 遇を指して,二重の危険(=double jeopardy),加えて女性 に は 三 重 の 危 険

(=triple jeopardy)があるとする理論も支持を得ている[Barrow, 1992, 287]。 このように,アメリカ社会において半世紀にわたって展開されてきたエイジ ズムの克服と高齢者の境遇の改善に対する努力は,高齢者に対する様々な神話 の真偽を確かめることを通して,加齢と高齢者の状況に対して,広範な知識を 積み重ね,それを政策に反映させるための道筋を拡げてきたと言えるだろう。

人間の労働力が機械との競争に用いられ,安い労働力としての移民にかくも容 易に置き換えられた時代に成立した高齢者に対する見方を,人間の尊厳におい て問い続けたプロセスは,理念的には社会のあり方そのものを問い返し,具体 的には高齢者の可能性を押し広げ,これからの時代に高齢者がどのように生き ていくかについて,選択肢を提供するとともに,その条件について多くの示唆 を提供してきた。また,年齢を初めとするあらゆる属性にまつわる偏見と差別 について,その構造と機能への理解を深めた。

アメリカ社会にあれほど厳然として存在した高齢恐怖症を初めとする様々な 偏見や差別を議論の対象とし,研究調査の対象としてきた過去半世紀のアメリ カの高齢社会への取り組みのプロセスから獲得したものは,加齢が身体的な

「老い」として単一で生起するものではなく,他の様々な社会,経済,文化的 な文脈の中で生起することを社会知とし,高齢と他の社会条件の関連性を考慮 に含め,レイシズムやセクシズムなど他の様々なイズムへの問題提起と歩調を 同じくすることを可能にしたことである。アメリカ社会がさまざまなイズムに ついて向き合い,「老い」や「女性」や「人種」などについての,神秘性や神 話を解き明かそうとする努力のプロセスから,加齢と人間存在の多元性が認識 されたと言えるだろう。

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これは超高齢化を歩む日本にとって,大きな示唆となる。高齢社会へのいた ずらな不安は第1に「老い」や「高齢者」,「高齢社会」に対してわれわれが保 持している偏見や「神話」から生じているし,第2に,対応や解決法への発想 が旧態依然とした固定的なものであることから,超高齢社会への展望に欠如が 生じているものである。枯れ尾花を幽霊と間違えて恐れる前時代的な反応に似 通ったものであると言える。恐れているものがわかると,それが果たして加齢 や高齢社会に本来的なものなのか,あるいは状況や文化,時代的条件によるも のなのかを確かめる必要が生じ,それが解明されると解決策や対応策も組み立 てられる。日本にはこのような姿勢に基づいたアプローチが欠けていると言え る。このように超高齢社会に向かう日本の姿勢や問題が見えてくれば,過去1 世紀半のアメリカの歩みと取り組みから学ぶことは大きく,また日本が今後と るべき道筋を探求する上に大きな示唆となるのではないだろうか。

1)この近代化理論に対しては,核家族化は欧米では工業化される以前から広まって いた[Fischer, 1978, 23],など社会変化の時期や家族の紐帯の点などで反論もあ る。

2)Cattell(1971)は知能は流動性知能(fluid intelligence)と結晶性知能(crystallized

intelligence)の2つの要素から成り立っていると考えた。流動性知能は事象の関

係を理解し見つけ,その理解に基づき推測を行う時に用いられ,結晶性知能は得 られた知識やすでに開発された知的技術であると考えられる。結晶性知能は加齢 の影響を受けにくい。また,横断的調査は,サンプルの時代的,文化的影響を受 けやすいので,加齢の影響を調べるときには注意が必要である。

3)雇用における年齢差別禁止法は初めて制定された1967年には65歳までの年齢を 理由とする退職を禁止するものであった。1978年には改正されて,70歳まで適 用が引き上げられ,1986年には4つの例外(70歳以上のテニュアをもつ教授,

年間4万4千ドル以上の年金受給資格のある管理者,民間雇用法が適用されない 政府行政官と職員,そして消防官及び警察官)をもって一切の年齢制限が取り除 かれた(パルモア,1990, 82)。

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参照

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