植民地統治初期台湾における内地人の政治・言論活 動 : 六三法体制をめぐる相剋
著者 岡本 真希子
雑誌名 社会科学
号 86
ページ 91‑123
発行年 2010‑02‑26
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012090
1.はじめに
本稿では,日本の植民地統治下におかれた台湾に在住した内地人の政治・言論活動に ついて検討する1)。台湾は,日清戦争の結果1895年に清国から日本に割譲され,その後
1945
年までの50年間,日本の植民地支配下に置かれた。日本は植民地支配機構である 台湾総督府を設置し,多くの内地人2)が台湾へ渡っていった。植民地期台湾に関する研 91植民地統治初期台湾における内地人の政治・言論活動
六三法体制をめぐる相剋
岡 本 真希子
本稿では,日本の植民地統治下の台湾に在住した内地人の政治・言論活動について 検討する。植民地期台湾に関する従来の研究では,基本的には支配する内地人側と抵 抗する台湾人の両者の対抗のなかで把握されてきたため,在台民間内地人の動向は台 湾総督府の動向と同一視されるきらいがあったが,本稿では,一枚岩ではない在台内 地人社会内部の相剋の政治過程を検証する。対象とするのは,台湾統治初期の児玉源 太郎総督-後藤新平長官が敷いた植民地統治体制である「特別統治主義」の時代,六 三法体制の時代である。六三法体制に基づく台湾総督府の専制支配体制は,台湾人に 対してのみならず,総督の意に沿わぬ在台民間内地人に対しても猛威をふるったため,
特に1900~1904年の時期には在台民間内地人は総督府の弾圧と検閲に抗しながら,台 湾内で民間新聞『台湾民報』を基盤とした言論活動を展開し,かつ,本国の帝国議会 への積極的なロビー活動を展開した。本国政治をも巻き込んだこれらの活動は台湾総 督府首脳部を翻弄したため,総督府は統治体制の根本的見直しを模索することとなっ た。これらの過程においては,帝国日本初の本格的な植民地統治という事態に対して,
植民地における政治的権利や,民族問題と政治的権利の在り方,本国と植民地との政 治体制の関係などをめぐり,当該期の在台内地人社会内部において,官と民では相当 に異なる構想・対応が生じていたことが明らかとなる。本稿では,まず在台内地人の 概要を把握したのち,在台民間内地人の政治・言論活動について,彼らが発行してい た新聞『台湾民報』を主に用いて検証する。台湾総督府の構想については,児玉総督-
後藤長官の法制面のブレーンであり京大教授・法学者であった岡松参太郎の資料,す なわち2009年に公開された「岡松参太郎文書」所収の新資料を用いて明らかにしてゆ く。
究では,基本的なモチーフとしては,支配する内地人側と,抵抗する台湾在住者の両者 の対抗のなかで把握されることから,在台内地人の動向は,内地人という一つのくくり のなかで台湾総督府の動向と同一視されるきらいがあった。特に,台湾統治初期につい ては,児玉源太郎総督と後藤新平長官からなるいわゆる児玉-後藤体制による“統治体 制の基礎づくり”という側面が突出してみえる。児玉総督・後藤長官が敷いた植民地統 治体制は特別統治主義と呼ばれ,この特別統治主義は,台湾を「異法域」として本国と は異なる領域として設定するもので,これを可能とする法的根拠となったのが,いわゆ る「六三法」と呼ばれた法律である。本国と異なる政治空間を可能とする六三法体制は,
台湾人3)に対する苛烈な弾圧法規の制定を可能にしたことで知られるが,他方で,総督 の意に沿わぬ在台内地人の民間人に対しても,猛威をふるった。
本稿で対象とするのは,この六三法体制をめぐる台湾総督府と民間の在台内地人との 相剋の政治過程である。当該期の在台内地人は,総督府の弾圧と検閲に抗しながら台湾 内で発行していた民間新聞『台湾民報』を基盤として言論活動を展開するとともに,本 国への積極的なロビー活動を展開した。こうした運動は,台湾総督府首脳部をも翻弄し,
本国からの介入を排するためにも,統治体制の根本的見直しを模索することとなる。
以下,本稿では,まず在台内地人の概要を把握したのち,彼等の政治・言論活動につ いて,六三法体制をめぐる総督府との相剋の過程を検討する。台湾総督府の構想につい ては,従来未使用の資料,すなわち児玉-後藤体制の法制面のブレーンで法学者である 岡松参太郎の資料(「岡松参太郎文書」)を用いて明らかにしてゆく。
2.在台内地人の位相
2. 1
人口・民族別構成台湾は,日清戦争の結果1895年に清国から日本へ割譲され,統治のために総督府官 僚や軍隊が台湾に赴くという形で,在台内地人社会が形成されていった。在台内地人の 人口は,黄昭堂の研究によれば,1896年時点で8,
633
名,台湾領有後10年を経た1905年 で59,618
名,1915年で137,229
名,1925年で189,630
名,40年を経た1935年で269,798
名,1943
年には397,090
名へと増加した。増加の経過は,台湾統治初期にあたる「最初の一〇年間は,平均して五〇〇〇余人の増加をみただけ」だという4)。
台湾在住者の民族別構成は,【図1】に1905年から1935年までの民族別人口推移を示 したが,各民族の人口の多寡は逆転することなく推移し,ほぼ横ばいであった。在台内
社会科学 86号 92
地人人口が増大しても,内地人比率は1905年で2%,1935年でも5%と,台湾在住者 全体に占める比率は非常に少ない。こうしたなか,台湾総督府では台湾人を官吏として 任命せずにほぼ内地人で独占していた5)。したがって台湾の統治体制とは,人口比率か らすれば極めて少ない内地人が,その他の民族の上に独占した地位を築いていたものと いえる。
在台内地人の職業分布は,国勢調査のあった1930年時点の統計からその一端を見る と,第1位が公務・自由業で42%を占め,第2位が商業20%,第3位が工業16%であ る。同時期の台湾人の職業分布では,第1位が農業で71%を占めており,第2位は商 業9%,第3位は工業が8%と続き6),公務従事者が高い比重を占める内地人とはきわ めて対象的な分布となっていた。
年齢別人口分布でもまた,内地人と台湾人は対照的な分布となっていた。1935年時 点の内地人(含む朝鮮人)の年齢別人口分布を見てみると,内地人の場合は,【図2】
に示したように5歳ずつの人口分布では,0-4歳・20-24歳のふたつの山が看取で きる。他方で台湾人(含む原住民)の人口分布は,【図3】に示したように,0-4歳 からならだかに減少してゆく。また,外国人の場合は,対岸から渡ってくる中国大陸出 身者と考えられるが7),【図4】に示したように,内地人同様に0-4歳・20-24歳の ふたつの山が看取できる。こうした分布の特徴について,台湾総督府官僚の言葉を借り れば,
「一般的法則から言へば,最多の分布数を占むる部分は〇-四年齢級であって,そ れより年齢の進むに従つて漸次減少するのが本則である。然るに,内地人と外国人 植民地統治初期台湾における内地人の政治・言論活動 93
【図1】民族別人口推移
0 1000000 2000000 3000000 4000000 5000000 6000000
1905ᖺ 1915ᖺ 1920ᖺ 1925ᖺ 1930ᖺ 1935ᖺ
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(人)
の両人口は二〇-二四歳の青壮年階級に於ては,〇-四歳に匹敵する分布数を有す る。是は内地人に在りては現役陸海軍々人並警察官吏等,外国人に在りては出稼ぎ 労働者の影響に基因するものである。而して,本島人に就ては最多の分布数を有す るものは〇-四歳階級で,それより年齢の進むるに従ひ,年齢級毎に減少して行き 恰かも直角三角形の斜邊に相当する型を示してゐる。是は人口の理想的年齢別構成
社会科学 86号 94
【図2】内地人(含む朝鮮人)の年齢別人口(1935年10月1日)
【図3】台湾人(含む原住民)の年齢別人口(1935年10月1日)
【図4】外国人の年齢別人口(1935年10月1日)
(人)
(人)
(人)
法則に一致してゐるものである。」8)
という。台湾人の自然な人口分布とは異なり,20-24歳の人口が多いことは,内地人 の場合は軍人・官吏,外国人においては出稼ぎ労働者というように,いわば働き盛りの 年代が集中して台湾に在住していたことに基因していた。
次に出身地域を,本籍地を手掛かりに見てゆく。台湾総督府が1920・・ 年に行った国勢 査の結果報告書では,比率からいえば,①熊本10%,②鹿児島9.
9%
,③福岡5.4
%,④ 広島5.1
%,⑤山口4.5
%,⑥佐賀4.1
%,⑦東京3.9
%,⑧長崎3.7
%,⑨宮城3.4
%,⑩大 阪2.9
%となっており,「在台内地人には九州地方の者特に多く」「総数の三割九分余は 九州及沖縄の八県に属す」というように,地理的に近い地域からの移動が多かったとい えよう9)。では,在台内地人の出生地はどのような構成であったか。注意を要するのは,本籍地・・
である出身地と,実際に誕生した地である出生地とは,異なるという点である。戦前期・・ ・・
日本の戸籍制度は血統主義を採っており,出生地主義を採っていなかったため,本籍地 と出生地は必ずしも一致しないという特徴があった。すなわち,本人の出生地と,戸籍 上の本籍地とは直結しないのである。本籍地では,出身地は把握できても出生地は把握・・ ・・
できず,したがって台湾で出生した内地人(いわゆる「湾生」)の動態は把握できない。
他方で,出生地が台湾であるか否かは,植民地台湾における内地人の定住傾向を見る上・・
で一つの指標となる。
そこで本籍地とは別に,在台内地人の出生地について,ここでも1920・・ 年の国勢調査 の結果から見てみたい。
1920
年時点の在台内地人164,266
名の出生地を示したものが【図5】であるが,本国出生者は76%に上る。他方で,台湾出生者は,現住している 州・庁(台湾の行政区域は,大きくは5州・3庁に分割されている)で出生した「台湾
(自州庁)」は19%,現住する州・庁と異なる州・庁で出生した「台湾(他州庁)」は5
%で,合わせて24%となっている。この比率につき台湾総督府の国勢調査報告書では,
「内地人及外国人の出生地に至りては必ずしも内地又は外国を多数とするに限らず,本 島との定著〔ママ〕的関係厚きを加ふるに随ひ本島出生者を増加するに至るや勿論なり,然も本 調査にては尚本島出生者少く,内地人にては内地出生者は十二万五千余人即ち七割六分 余に及べるに,本島出生者は三万八千人即ち二割三分余に過ぎず」という。そして,
「本島出生者を現在庁の出生者と他州庁の出生者」とに分けると,「前者を多数とするこ と各種族同一なるも,後者の割合内地人を最多とするは内地人は島内に於ても最も居所 植民地統治初期台湾における内地人の政治・言論活動 95
を移動するに由る」と述べており,台湾出生内地人の数が多くはなく,また,台湾内の 移動が少なくないと指摘する。同時期の台湾人の出生地については,「三百四十六万六 千余人中,本島出生者は九割九分九厘を占め,本島以外の出生者は僅に四千八百七十三 人」といい,両者の間の定住傾向の違いが看取できる10)。
さらに,在台内地人の台湾在住期間を,同じく1920年時点で見てみる。台湾出生後 に引き続き居住している者を除いた合計123,
147
名の在台内地人は,男71,026
名/女52, 121
名(男女比:女100名に対して男136.3
名)で,このうち,5年ずつの在住期間を 見ると(【図6】),20年以上在住者は7,820
名(女100名に対して男206.7
名)で全体の6%に満たず,次いで15年以上20年未満は7,
413
名(女100名に対して男109.8
名)で6%,10
年以上15年未満は17,030
名(女100名に対して男137.7
名)で14%,5年以上10年未満 社会科学 86号96
【図5】在台内地人の出生地(1920年・164,266名)
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76%
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ྎ‴䠄ᕞᗇ䠅 5%
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【図6】1920年時点の在台内地人の台湾在住期間(123,147名)
は33,
575
名(女100名に対して男126.8
名)で27%,5年未満は57,272
名(女100名に対 して男138.7
名)で47%となっていた。初期の渡台者における男性比率の高さ,在住期 間5年未満の者の比率が半数近くを占めていることなどがわかる。台湾総督府の分析で は「在住期間長き者の漸次減少する傾向」が指摘されていた11)。2. 2
不均衡な権利・義務関係植民地台湾と本国(「内地」)とは,異なる政治体制下にある「異法域」を形成してい た。そして帝国日本の法の適用方法には,大きく分ければ,本国と台湾というように地 域によって異なる法の適用方法と(属地法),内地人と台湾人というように民族によっ て異なる法の適用方法と(属人法),2種類の方法があり,両者は複雑に交錯していた。
そのため,「日本国民」とされた人々のなかにも,その居住地と出身民族の如何により,
享受できる/賦課される権利・義務関係は異なるというような複雑で不均衡な状況にあ り,在台内地人もその影響を受けざるを得なかった。以下では,彼等の政治・言論活動 に接近する前提として,本国と台湾の政治体制と,参政権と兵役制度の状況につき検討 する。
まず,本国の政治体制だが(以下,【図7】参照),本国においては,1895年の台湾 領有以前にすでに一つの政治体制が形成されていた。明治維新以後に近代国家としての 国家体制を次第に形成してきた日本は,明治時代半ばの1885(明治18)年に内閣制度 を創設し,1889(明治22)年には国家の基本法であるいわゆる明治憲法(「大日本帝国 憲法」)を発布,1890年には衆議院と貴族院の二院制から成る帝国議会が創設された。
憲法は欽定憲法であり,選挙され得るのは衆議院議員のみで,かつ,有権者は納税制限 つきで男性のみ,というように権利を行使しえる範囲は限定されたものではあったが,
それでも,立憲政治体制と議会制度の創設という一大画期を迎えたのであった。しかし,
これらの体制の構築は,台湾領有以前のことであり,植民地を獲得するという事態を想 定しないままに形成された。そのため,1895年の台湾領有後,明治憲法体制と台湾は どのような関係下におかれるのか,台湾の政治体制はいかなる状況に置くべきなのか,
という点は不断に問われる政治課題となってゆく。
結果からいえば,台湾は本国とは異なる政治体制下に置かれ,統治機構である台湾総 督府が設置された。台湾総督府は,台湾内における行政・司法・立法権を掌握し,台湾 総督に委任立法権を付与したのが,1896(明治29)年に制定されたいわゆる六三法で あった。
植民地統治初期台湾における内地人の政治・言論活動 97
台湾総督府の統治体制は,“官僚天国”“官吏万能”ともいわれ,本国とは異なり議会 制度が不在で,官僚の専制政治体制を監視・規制するシステムが台湾内には存在しなかっ た。台湾を範囲とする植民地議会も設置されず,地方レベルにおいても民選議員選出制 度はなく,領台後40年を経た1935(昭和10)年にいたって,ようやく地方制度レベル の民選機関が設置されたにすぎない12)。そして,台湾内のみならず,本国の帝国議会へ の参政権も付与されなかった。国政レベルの参政権を規定する衆議院議員選挙法は属地 法であり,台湾には選挙法が未施行であるとして,台湾在住者であれば,内地人であれ 台湾人あれ民族を問わず選挙権を有さないこととなった13)。したがって,在台内地人の なかには,台湾総督府の官吏となり統治機構の一員となって統治に携われるものと-官 側-,民間においていわば官吏の専制支配体制の下にあるものとが存在し,官と民とい う必ずしも利害が一致しない集団を生み出すこととなった。
しかしながら,在台内地人のなかには官/民の亀裂という側面だけではなく,“内地 人”としての一体感を生み出し,台湾人とは異なる自意識を生み出す別の制度,すなわ ち兵役があった。近代日本の兵役制度は1889(明治22)年の徴兵令の改正により,そ れまであった幾多の徴兵免除規定が廃止され,「国民皆兵」に踏み切っていた。しかし
社会科学 86号 98
【図7】本国・台湾における政治体制および権利・義務の様態(男性のみ)
本国(「内地」) 台 湾
政治体制
・大日本帝国憲法(1889年)
・内閣制度(1885年)
・帝国議会(1890年)
……衆議院(民選選挙制度)/貴 族院(選挙と無関係)
*立憲政治体制・議会制度
政治体制
・憲法は実質的に未施行
・総督政治(1895年):行政・司法・立法を掌握 総督への委任立法権=六三法(1896年)
→三一法(1906年)→法三号(1921年)
・議会制度なし……植民地議会なし
地方レベルでも民選機関なし
→1935年一部改正
・本国への参政権なし(貴族院議員のみ勅撰)
・本国における被選挙権はあり(本国における立候補・
当選は可能)
内地人
・国政・地方参政権あり(1889年納税 制限選挙制度→1925年普通選挙制度)
・兵役あり(1889年徴兵令改正〔免除 規定の大幅改正,「国民皆兵」へ〕)
内地人
官僚(総督府〔総督-下級官僚〕)
・官僚政治の担い手。国政参政権なし/地方参政権,
1935年民選選挙制度
・兵役あり 民間人
・国政参政権なし/地方参政権,1935年民選選挙制度
・兵役あり 台湾人 ・国政・地方参政権あり(1920年政府
が納税制限選挙権を確認→1925年普 通選挙制度)
台湾人(漢族系。「本島人」):一般行政区域
・国政参政権なし/地方参政権,1935年民選選挙制度
・兵役なし→1942年志願兵制度,1945年徴兵制度 原住民(先住民族。「高砂族」):特別行政区域
(作成 岡本)
この改正もまた,1895年の台湾領有以前のことであり,徴兵令には対象となる民族に 関する規定はなかった。ただし,戸籍の有無が徴兵の根拠となっていたため,戸籍法の 適用がない台湾人は(「韓国併合」後の朝鮮人も),兵役適用から除外されることとなっ た。「国民皆兵」の「国民」の範疇には,戸籍に登録された内地人のみが対象とされて いたのである。この状況は,総力戦体制下の1930年代後半以降,朝鮮人・台湾人への 志願兵制度・徴兵制度導入まで続いていた。
このように,法の属地的適用と属人的適用が交錯するなかに在台内地人も身をおき,
その政治的位相は,本国,在台内地人社会内部の官/民関係,台湾人社会との間で,重 層的で交錯する相関関係の中にあったのである。
3.六三法体制と在台内地人
3. 1
六三法体制と先行研究周知のように,本国と台湾を別箇の「異法域」とすることを可能としていたのが,い わゆる六三法であった。六三法とは,明治29年法律第63号「台湾ニ施行スヘキ法令ニ 関スル法律」のことで,法律の号数から六三法と称された。その全文6条は,以下のよ うである。
「第一条 台湾総督ハ其ノ管轄区域内ニ法律ノ效力ヲ有スル命令ヲ発スルコトヲ得 第二条 前条ノ命令ハ台湾総督府評議会ノ議決ヲ取リ拓殖務大臣ヲ経テ勅裁ヲ請
フヘシ
台湾総督府評議会ノ組織ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
第三条 臨時緊急ヲ要スル場合ニ於テ台湾総督ハ前条第一項ノ手続ヲ経スシテ直 ニ第一条ノ命令ヲ発スルコトヲ得
第四条 前条ニ依リ発シタル命令ハ発布後直ニ勅裁ヲ請ヒ且之ヲ台湾総督府評議 会ニ報告スヘシ
勅裁ヲ得サルトキハ総督ハ直ニ其ノ命令ノ将来ニ向テ効力ナキコトヲ公 布スヘシ
第五条 現行ノ法律又ハ将来発布スル法律ニシテ其ノ全部又ハ一部ヲ台湾ニ施行 スルヲ要スルモノハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
第六条 此ノ法律ハ施行ノ日ヨリ満三箇年ヲ経タルトキハ其ノ効力ヲ失フモノト 植民地統治初期台湾における内地人の政治・言論活動 99
ス」〔下線は本稿筆者〕
台湾総督に「法律ノ效力ヲ有スル命令」すなわち律令(りつれい)制定権を付与して 委任立法権を定め(第1条),律令制定には台湾総督府評議会の議決を要するとしてい た。ただし,評議会は実質的には総督府首脳・軍部関係者で占められていた。かつ,律 令制定の過程では「拓殖務大臣ヲ経テ勅裁ヲ請フ」としていたが(第2条),他方で緊 急律令制定権を付与するなど(第3条)14),台湾総督には強大な委任立法権が付与され,
台湾内限りの「律令」「府令」などの制定・発布を可能とする制度の基盤となった。そ の一方で,六三法は3年ごとの時限立法であることが明記されていた(第6条)。その ため,延長期限を迎えるたびに政争のもととなる可能性も持ち合わせていた。
六三法の制定・改変過程については,春山明哲の先駆的な業績がある15)。春山は,特 別統治主義の台湾における実行者である後藤新平と,そのブレーンである法学者・岡松 参太郎,そして内地延長主義の主導者である原敬,という三者を軸に,後藤新平の特別 統治主義と原敬の内地延長主義との対抗という,両者の角逐と推移のなかに,植民地統 治政策の推移を描きだし,植民地統治政策史における必読文献となっている16)。ただし,
春山の論考は,後藤・岡松・原というキーパーソンとその統治構想の相剋という側面に 議論が集約されているきらいがあり,在台内地人については視野に入れていない。
他方で,呉密察の研究が17),中央政界における六三法問題について,在台内地人のロ ビー活動も視野に入れ,本国政治と台湾統治の両者の政治過程の交錯,および在台内地 人社会の内部における官と民との相剋という,植民者社会内部の分裂をも浮き彫りにし ながら,本国-台湾を架橋し重層的に交錯する政治過程18)を先駆的に示している。呉 密察論文は,在台内地人が発行していた民間新聞である『台湾民報』や出版物を発掘し,
また,本国における新聞報道も駆使して,在台湾内地人の論調の一端を明らかにした点 でも先駆的研究であり,本稿でもその視点と資料面において学ぶところが大きい。ただ し,六三法改正問題・時期が主な対象とされているため,在台内地人の主張そのものに ついては,さらなる検討の余地がある。
植民地在住者の政治・言論活動については,従来の研究では台湾人の抗日運動が主要 な対象となっているが19),内地人側の主張は,後述する李承機の台湾メディア史研究20) を除けば,充分に検討されてはおらず,特に台湾統治初期についてはほぼ未検討である。
植民地在住の内地人の動向を検討する作業は,まだ緒についたばかりといえよう。
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3. 2
六三法体制下の弾圧法規六三法体制下では,本国とは異なる苛酷な弾圧法規を,総督の命令である「律令」で 成立可能としており,その対象は台湾人のみならず,在台内地人にも及んだ。
まず,台湾人への弾圧法規では,その代表的なものとして,1896年の「台湾総督府 臨時法院条例」(明治29年律令第2号)があげられる。1896年7月11日に緊急律令とし て台湾総督が発布を命令し(公布は8月3日),その審判の対象は,いわゆる政治上の 罪に関するもので(第1条),審理は1審のみで終審した(第6条)。「土匪」(抗日ゲリ ラ)を迅速に処断するために,既設の法院の裁判管轄に拘わらずに,台湾総督が便宜の 場所に随時に臨時法院を開設することを可能とした。1919年8月に廃止されるまで,
臨時法院は合計6回開設され,苛烈な弾圧に絶大な威力をふるった。
また,1898年の「匪徒刑罰令」(明治31年律令第24号)は,台湾人の抵抗運動弾圧の ための法令であり,処罰対象となる「匪徒ノ罪」は広範な領域に及ぶとともに最高刑を 死刑とし(第1・2条),未遂でも本刑を課し(第3条),また本令施行以前の行為に対 しても適用された(第7条)。この際には,前述の「台湾総督府臨時法院条例」も緊急 律令で改正され(明治31年律令第23号),第1条の対象となる罪に「匪徒刑罰令ニ掲ケ タル罪ヲ犯シタル者」も追加されたことで,「匪徒刑罰令」と「台湾総督府臨時法院条 例」はセットとなって,苛烈な弾圧に絶大な威力をふるった。各地方法院・臨時法院と もに,「匪徒案件」の死刑率は高く,戦闘行為や警察官等による「臨機処分」をのがれ た生存者をも「合法」的に殲滅する苛烈極まりない弾圧法規とし猛威をふるった21)。
つぎに,在台内地人への弾圧法規としては,まず1900年の「台湾新聞紙条例」(明治
33
年律令第3号)がある。台湾内における新聞統制のための律令である。李承機が明 らかにしたように,後藤新平は,総督府を批判する在台内地人の民間メディアの統制を 主眼として御用新聞(『台湾日日新報』)を創刊したのに加えて,さらに法令整備に着手 し,1898年8月から1年半の本国政府との交渉を経て台湾新聞紙条例を制定した。そ の特徴は,発行許可制度(第1条),台湾総督による発売頒布禁止の行政処分権(第9・10
・12条),発行前納本制度(第5条),台湾外からの移入紙・外国からの輸入紙制限 と事前検閲(第12条)などで,本国の新聞紙条例(1897年改正)に比して統制色が強 かった22)。このほか,1900年「台湾保安規則」(明治33年律令第21号)がある。これは,適用対 象民族を「本島ニ在住スル内地人又ハ外国人」とし,対象とする行為として「平常粗暴 ノ言論行為ヲ事トスル者又ハ他人ノ身上若ハ行為ニ対シ誹譏讒謗ヲ事トスル者」(第2 植民地統治初期台湾における内地人の政治・言論活動 101
号)・「何等ノ口実ヲ以テスルニ拘ラス他人ニ対シ脅迫二渉ル言論行為ヲ為ス者又ハ他人 ノ行為業務ニ干渉シ其事由ヲ妨害スル者」(第3号)・「無根ノ流言ヲ作為シ口頭又ハ文 書図画二依リ之ヲ世間ニ流布スル者」(第4号)・「他人ヲ教唆シ第二号乃至第四号ノ言 論行為ヲ為サシメタル者」(第5号)などとし,このうち1つでも該当するとみなされ れば,「地方長官ハ予戒命令ヲ為スコトヲ得」と規定していた(第1条)。これは,台湾 総督府への批判を新聞などに掲載した場合にも,適用対象となりうるものであった。ま た,「治安ヲ妨害セントシ又ハ風俗ヲ壌乱セントスル者」・「二回以上引続キ予戒命令ヲ 受クルモ其行為ヲ改メサル者」に該当すれば,地方長官が「一年以上三年以下本島在住 ヲ禁止スルコトヲ得」(第4条),「在住ヲ禁止セラレタル者ハ十五日以内ニ本島外ニ退 去スヘシ」(第5条)というように,違反者の台湾在住禁止・台湾外への放逐を可能と していた。そして,「退去期限内若ハ猶予期限内ニ退去セサル者又ハ禁止期限ヲ犯シタ ル者ハ一月以上一年以下ノ重禁錮ニ処ス」(第11条)として,従わないものは重禁錮刑 が科せられるという厳しい規定も設けられていた。対象となるか否かは台湾総督府の裁 量の範疇にあり,台湾新聞紙条例とともに,在台内地人の言論を抑圧し封殺する伝家の 宝刀とでもいうべきものであった。
そして,これらの法規は,台湾領有直後に成立したものではなく,1898年に特別統 治主義を持論とする後藤新平が民政局長(のち民政長官)として台湾に赴任して以後,
成立したものであった。在台民間内地人にとって,児玉総督-後藤長官体制の成立は,
六三法体制に基づく「異法域」の存在が,台湾人のみならず内地人に対しても猛威を振 るうことを実感させられる時代の幕開けでもあった。
4.在台民間内地人の政治・言論活動
4. 1
『台湾民報』の総督府専制批判台湾統治初期から1920年代後半まで,台湾内のメディアは,基本的に在台内地人の 独占物であった。しかしその在台内地人メディアの内部には,激しい対立が生じていた。
植民地統治初期の台湾内のメディアの状況は,李承機が明らかにするように,台湾総督 府系の御用紙『台湾日日新報』と在台民間内地人が発行する『台湾民報』とが相互に批 判しあう関係にあった23)。『台湾民報』は,1900(明治34)年8月8日に創刊され,と きに発行停止処分なども受けつつも,1904年3月の発行許可取消処分を受けるまでの 約3年半の間,台湾総督府批判を展開した稀有な存在といえよう24)。
社会科学 86号 102
『台湾民報』の創刊の半年前の1900年2月11日,台北で「利民協会」が発会式をあ げていた。台北・新竹・基隆などの諸方面から数百名の会員が集まったという。創立大 会を報じる『台湾民報』創刊号の記事中には,「民報と利民協会の関係」について
「民報は素より同協会直接の機関にあらずと雖も同協会の創立と同時に重立たる会 員諸氏は将来の活動上是非とも民論宣揚に要する機関の欠くべからざるを認め先づ 之を会員の有志に謀り延て一般人士の間に賛成を求めたる者なり然るが故に民報の 主張せんとする主義と利民協会の主持する主義と其符節を合するは言ふ迄もなく将 来其行動を共にし其存亡を同ふすべきは蓋し先天的約因ある者取りも直さず利民協・・・
会は民報の母なりと謂ふべし」〔傍点本稿筆者〕
・・・・・・・・
として,両者が表裏一体の関係にあることを表明していた。「利民協会」は結成目的を,
「台湾総督府が人民を度外視し民利民福を顧ずして政治を専断姿〔ママ〕行」することに対して,
「総督府施政の監視者たらんとする」ためという。「利民協会々則」では,その目的を
「台民の福利を増進する」とし(第2条),本部を台北に,支部を各地に置き(第3条),
「目的を達する爲め議事,演説,討論,会報,通信其他必要なる方法を執る」こと(第 4条),評議委員・幹事の役員を置き(第5条),討論会を毎月1度公開し(第9条),
会の目的に賛成し会員の紹介のある者はだれでも入会可能とし(第11条),費用は会費 と有志の醵金で充てることとしていた(第12条)。
創立当初の活動としては,台湾と本国間の小包料引上問題,台湾地方税賦課,阿片・
食塩・樟脳などの専売制度,戸籍制度など,在台内地人の生活と利害に直接関係する問 題について評議委員を設け審議し,「調査の結果によりては総督府と一大杆格なきを保 せず然る場合に於ては延て中央政界の問題ともなるべく」と述べていたように,当初か ら,中央政界における政治問題化をも視野に入れていたことがわかる25)。
「利民協会」創立半年後に,『台湾民報』は創刊された。創刊号冒頭に掲げた「宣言」
で以下のようにいう26)。第1に,「吾人は断々乎として,擅制主義に反対す」として,
「台湾の経営」は「須らく朝野官民の全力を傾倒して,之に當らざるべからず,民の声 を聞かず,民の言を容れず,民の力に籍らずして,消極的独力を以て経営の成果を収め んとするは,木に縁りて魚を索むるの類のみ,妄も亦甚だしと謂ふべし」と主張し,
「当局」(台湾総督府)の専制体制を批判する。第2には,「吾人は断々乎として,清化 主義に反対す」として,「我帝国の台湾を領有するに至りたるは,天の命」であり「吾 植民地統治初期台湾における内地人の政治・言論活動 103
人は之を経営するの天職を有す」として台湾領有を肯定したうえで,「従来の陋習悪俗,
之を改めず,彼れに移殖するに,我良風美俗を以てする能はずんば,所謂台湾経営なる もの,何くにある」「三百萬の民,有形無形一切の事,凡て清人に異ならずとせば,我 の領台は空名のみ,之れ豈に我天職を辱かしむるの,大なる者に非ずや」という。この
「清化主義」については,同日の別の記事で 「総督府の治台政略」であるとして,「辮髪 を保護し,其纏足を禁ぜず,其人身売買を黙許し,其阿片吸食を事実に於て奨励し,小 匪を厳罰して,大盗に加恩し,細民を誅求して,好豪に諂媚する者」としており27),清 国時代からのいわゆる「旧慣」温存を指しているものといえる。
『台湾民報』創刊の中心メンバーは,李承機の研究によれば,台北弁護士会の主なメ ンバーで「民党系」の弁護士らで,理事6名は全員弁護士であった。その配布数は,創 刊2年目の1902年には1,
505, 777
部(台湾内1,107, 307
部/本国379,630
部)で,台湾総督 府の御用紙『台湾日日新報』の1,481, 749
部(台湾内1,420, 292
部/本国58,756
部)に匹 敵していた。また,本国における配布数は,『台湾日日新報』が約6万部だったのに対 し,『台湾民報』はその6倍強の約38万部に上っていた28)。こうした点から,『台湾民報』の影響力は台湾内部にとどまるものではなく,本国の世論と政治へ働きかける潜在的な 勢力を秘めていたといえる。
創刊間もなくの論説「総督府は専制政治を行はんとするか」29)では,前述の台湾新聞 紙条例や台湾保安規則を専制体制の具体的策として批判していた。すなわち,台湾総督 府は「在台内地人の多くに向かつて」,「動もすれば彼等の行動を敵視し,先づ言論制圧 の目的を以て新聞紙条例を実施し,以て人権拘束を主旨とする保安規則の如き苛酷なる 法令を発布し,而して偶々内地人の請願陳情等を為すあれば,一言の下に之を却下し,
彼等の利害休戚に関しては,秋毫も更に顧みる所だになし」という。「本島人に対して は啓発誘導の道を尽す能はず内地人に対しては,其利害休戚を度外視」しているとして,
「斯の如くにして総督府は抑も誰と共に台湾を経要せんとするか,政府独り其欲す る所を行ひ,独り其見る所を施し,絶て眼中に人民なるものを措かざるは,是れ取 も直さず専制的政治なり,如何に新領土の政治は大に其趣を異にするものあればと て,立憲治下の今日,独り台湾に於て斯の如き専制的政治を行ふの必要ありや」
とし,台湾で展開される台湾総督府の専制体制を批判していた。
また,台湾保安規則に対しては,論説「何ぞ速に此蛮法の廃止に努力せざる」におい 社会科学 86号
104
て,「保安規則は専制時代の遺物なり,明治聖代の今日に容るべからざる野蛮的法律」
と批判する。本国ではすでに廃止された言論・集会弾圧法規である保安条例30)を,「復 活して台湾の地に施行し,以て党同異伐の具に供せんとする」もので,「多数臣民の利 害休戚を度外視し,其人権を蹂躙し,己れ独専り横の政を施かんとするが如きは,是れ 決して黙々観過して止むべきものにあらざるなり」とし,本国で廃止された弾圧法規が 台湾で亡霊のように復活し闊歩することを黙過できないと主張する。その発布の責任に ついては,「総督府の罪固より大なるものあり,而して今の伊藤内閣も亦其責を辞する 植民地統治初期台湾における内地人の政治・言論活動 105
【図8】「台湾新聞紙条例」を批判する『台湾民報』(1900年11月10日)。
御用新聞『台湾日日新報』を「大変日日辛抱社」と文字り,立札には「筆の牢獄 官吏に限り差入ものをゆるす」として,御用記事しか書けないことを皮肉っている。
【図9】「台湾保安規則」を批判する『台湾民報』(1900年11月9日)。
官吏に担がせた「保安宮」に乗った後藤新平が「キルゾ 」と刀を振りかざし,
それを遠目にながめる台湾人が描かれ,「内地人と外人とに祟る斗り チャン( マ マ ) 万 歳」と説明。
能はず」とし,総督府のみならず本国政府をも批判の対象とするとともに,在台内地人 に対して「此蛮法の性質を明にして汎く與論を喚起し,之を議会の清議に訴へ,内閣容 れずんば以て内閣の責任問題となし飽まで此蛮法の廃止を遂ぐるに努め」よと檄を飛ば していた31)。(【図8】・【図9】も参照)
4. 2
『台湾民報』における「民意」の主体専制政治体制否定とともに『台湾民報』が重視したのが,台湾統治への「民意」の反 映という点であった。創刊号第1面の「台湾の立法」という論説は,台湾総督府評議会 への批判を展開しており,「台湾総督評議会は,台湾総督の提案に対し事実上活発自在 の権限を有するが故に,貴衆両院相待つて単に協参権のみを享有する彼の帝国議会とは 頗る其性質を異にすと云ふ可し」とし,立法過程におけるその固有の権限を指摘する。
しかしその議決を経て台湾総督が発布したものは法院条例,匪徒刑罰令,阿片・食塩の 両専売法,台湾新聞紙条例など,「二十世紀の曙光に於て,這般の不当なる法令の存在 を見る,嗚呼誰か之を目して,我法制史上の一大汚点にあらずと謂ふ乎」というように,
批判すべきものばかりという。そもそも,評議会の構成員は「台湾総督を中心とし陸海 軍の参謀長,民政長官,参事官,事務官」であり,「悉皆総督府の行政者」であるため,
「行政者の法を立るや,行政の便否を唯一法制の標準として制定」し「往々国勢民情に 背反するの法令を発する」結果となるのであり,「組織に於て,国民の意見を採取する の機関を欠」いているし,台湾総督府は「民情を問はず,民意を酌まず,以て繁文縟礼 的法文を雨下す,豈に誤らずや」と喝破し,「不合理にして,弊害多き現行制度を改め,
以て民意を斟酌するを得べき機関と為すの計に出づべきなり」と主張していた32)。 ただし,「民意」を反映させる主体の範囲は極めて限定的かつ人種主義的であった。
そもそも,「本島三百余万の蒼生は実際未だ政治上の能力を有せず,人文の程度亦甚だ 高からず,多少の実権実力は即ち是あらんも,協力和衷して倶に本島経営に裨補するに 足らず」「本島三百余万の民衆多くは政治上の無能力たり」として,台湾人は想定外と していた。しかしながら「民間の原動力たるべき」在台民間内地人の現状は,「各自欲 する所に向てのみ動き,自己を中心として相励むの外謂ゆる社会公共の爲に尽すの念な く,其人物の寥々たること亦既に彼が如し」という有様であると批判し,まずは「大に 民間人士の奮発力行を切望せざる能はず」として,民間の在台内地人の奮起をしばしば 促していた33)。
“優等の地位を占めるべき内地人”が,総督府により冷遇され勢力伸長が妨げられて 社会科学 86号
106
いるという主張は,『台湾民報』紙上でしばしば展開されたものであった。主張の前提 として,台湾人は「既に風俗慣習を異にし,言語生計を同うせず,特に我〔ママ〕皇化を受く る,日尚ほ浅く,固より之をして内地人と同一の法律規則の下に,差別なく服従せしむ るを得ず」として,内地人との法律上の格差設定を肯定する。しかし「内地人の尚ほ未 だ,本島に優等の地位を保つ得ず」という状況にあるのは,総督府が「単に土人〔ママ〕の稍勢 力ある者の鼻息を伺ふの外,一も適当の施政を断行し得ず」,そのため「内地人は,土 人の寄生蟲,官吏の附属用人として,生計を立つる外,更に新事業を。〔ママ〕企画し,新富原 を開き,以て大に風気開発を助成するを得ざるに非ずや」とし,「内地人の,日に萎靡 して振はず,窮して悪徳の淵源を作くる者,統治者亦大に罪なくんばあらじ」という34)。
台湾人との格差を肯定し,「民意」の範疇から台湾人を除外していても,『台湾民報』
の自己認識は,「民報は人民の機関新聞なり」といい,台湾の「官尊民卑」の風潮を批 判し,「刻下の台湾に於て民権思想の発達を庶幾ふ」という。そして「政治上強固なる 団体を作る」ことは「台湾民間に於る最大必需の事」とし,「台湾に於て一の参政機関 なし,自治機関なし,頼むに独り利民協会あり」として,前述の「利民協会」こそが
「専制政府に於る弾正台たり,諌官御史たるの任を果さんとし,立憲政体に於る下院た り,地方議会たるの役目を為さんとし,對土人〔ママ〕政治に就て献替し,而て以て台湾経営の 主眼たる拓殖利民の旗幟を揚げ来りつゝあり民の利害を先として樹立しつゝあり」とい う。そして,「利民協会は政治党派として樹立せり」と自認し,かつ「民報は又た其機 関新聞として此意見を発表するに吝ならざる也」と,利民協会と『台湾民報』の表裏一 体の関係を説明していた。「台湾党派の必要」が生じる理由は,「内地母島朝野の政客」
が,「台湾政治に迂闊,冷淡」である上,「独り督府の意見上申に一任して,民間に主義 主張する所なく而も主張する所,献替する所を内地に伝ふるなき」ためとし,すなわち,
本国において総督府側の情報が一方的に採用され,在台民間内地人の声が届かない状況 を指摘していた35)。
4. 3
「台政」の渇望,「台制」の否定『台湾民報』の主張は在台民間内地人の権利擁護という点で際立っていたが,それは,
総督府の御用新聞である『台湾日日新報』の主張とは正反対のものであった。例えば
『台湾民報』と『台湾日日新報』は,1901年4月に在台民間内地人を主題とした社説を ともに連載しながら相互に激しい批判を展開していたが,両者における在台内地人の位 置づけ,統治体制の在り方をめぐる相違は明白であった。
植民地統治初期台湾における内地人の政治・言論活動 107
この時期の『台湾民報』紙上には,「本島と内地人」・「内地人問題」・「在台内地人の 権利」・「再び内地人権利に就て」などの論説が連日掲載されていた36)。とりわけ主張が 明確な「再び内地人権利に就て」37)を見ると,「台湾統治事業の中に必ずしも土人〔ママ〕を絶 対的の主眼とするを要せず」とし,「内地人は母国同様に取扱ひ,土人・・・・・・・・・・・・ 〔ママ〕は其の進化を促・・・・・・・
すと同時に,暫くは特異なる待遇をなすべしと謂ふに在り」〔傍点本稿筆者:以下同様〕,
・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・
台湾人は「其正当なる進化に由りて,将来享く可き帝国臣民の権利は有り」としつつも,
「今は其の享受を全くする能はざるの程度なり,自ら之を運用すべき程度に,未だ立た ざるなり,左ればこそ土人〔ママ〕には特別制度の必要もあり」という。すなわち,台湾人には 特別統治主義の必要性を認め,他方で内地人には本国同様の待遇を主張していた。
同論説では,台湾統治体制には,以下のような「台制」と「台政」の2二種類がある・・ ・・
という。
「吾輩は今の台湾制度を以て,之を台制といふも,台政といふ能はざるなり,台湾・・ ・・
の政治は,台湾の政治にあらず,唯だ其の制度の稍や特別なるものあるのみ,政治 は即ち我帝国の政治なり,之を冠するに台政の二字を以てする,故に吾輩は論者
〔台湾日日新報の記者〕の眼孔に,唯だ督府あるを知るのみかと疑ふたるものなり,
要するに吾輩が此点に対する論礎は,台制は土人あるが爲に設けられたりとするも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
台政は即ち内地人と土人とを,均霑せざる可からず,行政上の能力は,一に内地人
・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・
を内地同様に取扱ひ,土人を台湾的に取扱ふに在り,之が面倒なりといふの故を以
・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・
て,内地人無視に流るゝは,不可なりと謂ふにあり」(〔 〕内は本稿筆者補足)
・ ・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・
すなわち,「台制」とは,総督府が実施している台湾人を主眼とする制度であり,内・・ ・・
地人はこの制度下でいわば“台湾人なみ”の冷遇に甘んじさせられているという。他方 で,「台政」とは,内地人を本国同様に扱い,「帝国の政治」を内地人に限って享受可能・・ ・・
とするものとしていたが,現在の台湾では未だ実現していないと批判する。この論説で は,在台内地人の政治的権利について,「在台内地人は,台湾に於てこそ之れ無けれ,
内地には各自の自治区あり,選挙区あり,地方議会ありて,其参政権は,豪も影響を受 くることなし」,「権利問題の進求云々といふもの斯の寄留的の台湾に於て,猶ほ其時期 にあらずといふのみ」とも述べており,居住地が台湾というだけで政治的無権利状態に おかれる体制への不満,在台内地人の政治的能力への自負が吐露されていた。
これに対して,同時期の『台湾日日新報』紙上に連続掲載されたペンネーム天髪生の 社会科学 86号
108
手による社説「台湾の容る可き内地人」は,『台湾民報』の主張を真っ向から否定して いた。その冒頭では,政治的権利について「帝国の爲めに台湾統治事業の前途を誤らん ものは必ず国民権利の問題ならん」と切り出し,「全く失敗せる自治制度,全く腐敗せ る議院制度等は,内地人が内地に在りて飽く迄味ひ飽く迄酔ふに余りあり,特に台湾に 来りて頑冥不霊の支那〔ママ〕人に之を接種し国家の爲めに分解作用を促かすの必要安くにかあ るや」と歯牙にもかけない。そして,『台湾民報』の主張は「主内地人主義」だが,こ れは誤った主張と退ける。『台湾日日新報』の主張では,在台民間内地人はそもそも勢 力も能力も低いという認識を示しており,さらには「仮令帝国治台事業の局面悪しくし て内地人は一人も在台し能はさる極端の出来事ありたらんにしても台湾の統治は依然堂々 として一日も間歇なく行はれさるべからず」というように,在台民間内地人が皆無でも 台湾統治にはなんら差し支えなしとする。なぜなら,「今日治台の大要は新附臣民の国 家的統一にあることは自明の事実」で,その「統一力の行はるへき目的物は台湾土着の 支那〔ママ〕
人」だからであり,この「統一力」は「最強力たらざるへからす」とし,「帝国が 台湾総督府を存在するの必要ある間は総督府は此の統一力の主張者たるへき本分」があ るとしていた38)。すなわち,統治の主たる対象は台湾人で,強力な統治を遂行可能な唯 一の存在が台湾総督府という構図となっており,その際には在台民間内地人は眼中には なかった。
以上のような『台湾民報』と『台湾日日新報』の応酬,在台民間内地人と台湾総督府 の対立は,本国政界に持ち込まれることとなる。『台湾民報』創刊後初の六三法の延長 期限は,1902年3月にその2回目の延長期限を迎えようとしていた。帝国議会は,六 三法体制を批判する在台民間内地人の目に,台湾総督府を掣肘するための格好の舞台と してうつっていたのである。
4. 4
六三法撤廃運動と帝国議会へのロビー活動在台民間内地人は,台湾における言論活動に加えて,本国の帝国議会へのロビー活動 を展開した。ターゲットは1902年3月に延長期限を迎える六三法の撤廃であり,前年
1901
年12月,『台湾民報』理事の小林勝民ら3名が,東京に向けて出発した。小林勝民は,1895(明治28)年12月に台湾に渡って以後,弁護士を開業していた。
そのかたわら,1897年8月には「台湾当時の事情に憤激」して「台湾正義同志会」を 組織し,1900年には「同志」とともに前述の「利民協会」を組織し,かつ『台湾民報』
の理事となっていた。渡台前の経歴を見ると,1864年(元治元)年に駿河国(静岡)
植民地統治初期台湾における内地人の政治・言論活動 109
に生まれ,1869年に安房国(千葉)に移り和漢学を学び,のち東京に出て明治義塾・
英吉利法律学校で英学・法律を学び,若くして自由党に入党し,1897年10月条約改正 反対運動に参加した際には集会条例により禁錮5カ月に処せられ,また,馬場辰猪・片 岡健吉・町田忠治らと面識を得るなど,早くから政治運動に携わり,他方で朝野新聞記 者・静岡民友新聞主筆などメディア方面の活動も行っていた。また,渡台前には朝鮮に も渡り,1894年に金玉均が上海で刺殺された際に東京で営まれた葬儀では,弔辞を読 むなどといった活動もしていた39)。『台湾民報』創刊号の「祝辞」欄には,大隈重信・
板垣退助・星亨・末松謙澄・谷干城・高田早苗・犬養毅・徳富猪一郎・西園寺公望・近 衛篤麿・松田正久・元田肇・大岡育三・尾崎行雄などの名が並んでいたが40),ここから は,青年期における本国での政治・言論活動の人脈の一端がうかがえる。
この時期の『台湾民報』の本国への「政界遊説運動」については,呉密察がすでに詳 細に跡付けているが41),『台湾民報』では1901年11月30日に以下の「社告」を掲載し,
「議会開け中央政機大に動かんとす,此時に当り本社は理事小林勝民及萩原孝三郎 を特に派遣し台湾の,真相南荒の政況を齎らし往き中央政界に反映せしむるを期す べし」
として中央政界に台湾問題を持ちこむことを宣言していた。小林・萩原の本国における 訪問先は,同年末から1月にかけて『台湾民報』紙上の紀行文「東征紀行」に逐一掲載 された42)。小林・萩原は12月20日に基隆を立ち24日にまず神戸に入ると,神戸又新日報 社・神戸新聞社,英字新聞のクロニクル社などを訪ねて台湾の現状を伝えた。その際に は,クロニクル社主筆のロバート・ヤングに面会し,ヤングの談話すなわち「日本人民 は既に憲法治下の民なり其台湾なる新領土に移住したるが為めに憲法によりて与へられ たる権利は決して失はれざる可し台湾総督府が本国遷來の母国人をして一切政治に参与 容嘴せしめざるの方針を取り居れりとは余の殆んど信ずる能はざる所なり」という言を 掲載し43),英文メディア人の意見に便乗しつつ台湾総督府の専制体制をぬかりなく批判 していた。
12
月26日に東京に入ったのちには,小林・萩野は言論界・政界の各方面を歴訪した。メディア方面では萬朝報・読売新聞・日本新聞,毎日新聞社長の島田三郎,衆議院議員 では片岡健吉(衆議院議長)・花井卓蔵・秋保親兼・山下千代雄・柴四郎・神鞭知常・
工藤行幹,貴族院議員では曽我祐準・小沢武雄・谷干城・三島弥太郎・堀田正養,立憲 社会科学 86号
110
政友会員では石井信・寺崎泰吉・尾崎行雄・古山又三郎・元田肇,このほか,肝付兼行
(海軍少将),伊東巳代治・副島種臣(枢密顧問官),楠本正隆(男爵),金子堅太郎(男 爵),奥田義人(法制局長官),古賀廉造(大審院検事),山田喜之助(憲政本党政務委 員)などを訪問し,また,研究会・土曜会・帝国党・憲政本党・立憲政友会の事務所を 歴訪した44)。
『台湾民報』紙上には,本国メディアの台湾問題や六三法問題に関する社説や45),本 国の新聞『人民』・『独立新聞』・『萬朝報』・『毎日新聞』4社との連携した模様が掲載さ れた46)。また,2月7日以後,「台湾の真相」と称して台湾統治体制につき全19項目を 掲げ,その関連する法令・施策を逐一仔細に批判し,かつ具体的改革にも言及する連載 を掲載し続けた47)。その冒頭では「台政方針」〔傍点本稿筆者〕として,以下のように・・
いう。
「台湾は属領地にあらずして憲法施行の一地方なり而るに百般の施設,官制組織,
立法,行政,司法に至る迄,一切属地主義の最も頑陋なる専制集権を強行し且其運 用に就て頗る陋弊を極め憲法施行の土地に非ざるを認めしむ」
また,本国メディアでは,『人民』が「台湾悪政要項」と題して台湾統治を12項目に 分類して批判する論説を掲載し48),社説でも『台湾民報』を擁護し六三法の不当性を訴 え続けていた。その社説の筆名は小林勝民の別名「独酔庵」と同じであり,小林自身も
『人民』紙上で持論を展開したと『台湾経営論』で明らかにしている49)。他方で,『東京 日日新聞』・『二六新報』・『時事新報』は六三法の継続もしくは永続を主張し50),その他 の『東京朝日新聞』・『読売新聞』・『国民新聞』・『毎日新聞』なども,六三法継続問題を めぐる政友会・憲政本党などの政党の対応,衆議院・貴族院における議論などを連日報 道した。在台民間内地人の六三法撤廃運動は,台湾を越え本国政界において,政治問題 化することに成功したのである。
第16回帝国議会における六三法の審議は2月2日の衆議院本会議から始まったが,
これに先立ち,まず少数派である憲政本党(全300議席中10議席)が,後藤新平を招き
「台湾談話会」や代議士会などの場で,談話を聴取していた。そこで後藤は,「台湾批政 陳情委員」と自称する小林勝民・萩原孝三郎の手になる小冊子に対して,反駁をする必 要に迫られた。憲政本党は台湾調査会を設け議論を経た結果,2月4日には六三法の継 続は必要なしという結論に達した51)。
植民地統治初期台湾における内地人の政治・言論活動 111
第16回帝国議会で過半数の159議席を占める最大多数の政友会の態度は,六三法の命 運を左右する上で極めて重要であった。機関紙『政友』には小林勝民・萩原孝三郎「台 湾統治の現状に就き世人に訴ふ」という長文の参考論説が掲載されており52),政友会で 彼らの意見が参考にされていたことがわかる。政友会では,2月14日に原敬の意を汲 んだ六三法修正案53)が総務委員会に提出された。修正案は,以下の3條からなる。
「第一条 特に法律に明示したるものを除くの外現行の法律又は将来発布する法律 にして其全部又は一部を台湾に施行するを要するものは勅令を以て之を 定む
第二条 臨時緊急の場合に於ては台湾総督は其管轄区域内に法律の効力を有する 命令を発することを得
前項の命令は内務大臣を経て勅裁を請ひ且つ次期の帝国議会に提出して 其承諾を求むべし
第三条 台湾総督の発したる命令にして勅裁を得ざるときは直に其命令の将来に 向て効力なきことを公布すべし」54)
六三法に修正を要する「理由」は,かつて六三法存続の理由とされたのは「台湾の土 地たる風俗習慣大に内地と異なるものあり殊に新附の土地にして施政上臨機の処置に出 づるを要するものある」という点だが,「爾後の実蹟に徴するに今や該法律〔六三法:
本稿筆者補足〕を継続施行するの必要を見ず政府が該法律の実施期を三年間延引せんと 求むる理由を聞くに漠として取るべきものなし」とし,「唯非常の場合に於て緊急命令 を発する権は尚ほ之を台湾総督に留保せしむるの必要あるを認むるのみ」とする55)。す なわち,台湾の特殊事情を考慮する必要はもはやなく,台湾の立法を基本的に勅令主義 とし,わずかに緊急の場合のみ総督に律令発布権を認め,それも議会の事後承認を要す るというもので,台湾総督の委任立法権を大きく制限するものとなっていた。
しかしこの修正案に対しては,同日の政友会の議員総会では異論が出て議論延期となっ た。さらに21日の議員総会では最終的に否決され,政友会としては,政府の提出する 六三法の再延長案に同意することとなった56)。
この間,台湾総督は,六三法延長を勝ち取るために,児玉総督自ら議会に赴き説明を 余儀なくされていた57)。後藤新平長官も出席した2月5日午後の衆議院の委員会では,
総督自らが「少シ政略上ノコトヲ御話シ申シタイ」「此政略ハ自然未ダ発セヌ所ノ考ヲ 社会科学 86号
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以テ,云ハネバナラヌコトニナリマスルデ之ヲ速記ニ止メ,或ハ之ガ新聞ニデモ出ルト 云ヒマスルト,自然種種ナ障害ガ起ツテ来ル」ので「秘密会ヲ願ヒタイ」として,議論 は非公開の秘密会に付されてしまった。秘密会の開催に対しては,『台湾民報』は総督・
議会ともに批判の対象としたが58),防ぎようのないものであった。
同時に台湾総督府は,台湾内においても,政争の火種のもみ消しに躍起となった。六 三法撤廃キャンペーンを張る『台湾民報』に対して,総督府は1902年2月18日に,台 湾新聞紙条例違反として約1週間発行停止処分の鉄槌を下したのである。理由は,上記 植民地統治初期台湾における内地人の政治・言論活動 113
【図10】六三法体制を批判する『台湾民報』(1902年2月25日)。
児玉総督が「令第六十三号」(六三法)の「金看版」に立ち,一方で笑顔・
脱帽で「殖産勧業」云々し,他方で抜刀・強面で「発行停止」「議会解散」云々 する「両面遣ひ分け」の様子。