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第 19 回 連 続 講 演 会 劇 場 づくり で 育 む 地 域 のきずなと 文 化 NPO 現 代 座 によるうたと 朗 読 故 郷 (ふるさと)へ 帰 れなくなった 人 々の 想 い ( ) ハンセン 病 とは NPO 現 代 座 とハンセン 病 の 出 会 い

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第19回連続講演会

「劇場づくり」で育む地域のきずなと文化

〜 NPO現代座によるうたと朗読

NPO

現代座の方々により、ハンセン病を主題にし たうたと朗読を上演していただきました。

NPO

現代 座は、劇場づくりと演劇を通じ地域のきずなと文化を 育む市民団体として、小金井市を拠点に活動する団体 です。公演には学生や一般市民の方々にご参加いただ き、ハンセン病や、社会的差別に関する理解を深めま した。 ハンセン病は、「らい菌」よって引き起こされる感染 症です。1931年に制定された「癩(らい)予防法」に より、全患者が隔離の対象とされ、多くの患者が療養 所へ強制隔離されました。「らい菌」は感染力が極めて 低く現在では薬により完治される病気ですが、特にそ の外見から、患者やその家族は差別の対象となり続け たそうです。 「癩(らい)予防法」のもとでは、一度療養所へ入っ てしまうと故郷へは戻れません。公演では、2人の女 性患者が歩いてきた過酷な人生や、故郷・家族への想 いが歌を交えて朗読されました。最後には参加者全員 で「ふるさと」を歌い、ハンセン病患者の方々の想い を共有しました。 公演の間には、

NPO

現代座の方々が実際に交流され た療養所に暮らす方々とのエピソードなどが語られま した。過酷な道のりを歩んできたにも関わらず、あた たかい愛情を持つ方々のお話に胸が打たれた参加者も 多いようでした。 公演終了後の懇親会では、ハンセン病を取り巻く社 会的差別・偏見の問題、障害者や社会的弱者をとりま く社会事情に対する思いや、それぞれの参加者が関わ ることのできる活動などについて

NPO

現代座の方々を 交え語り合いました。普段は意識しづらい人権に関す る問題や社会的な環境について理解を深め、参加同士 がつながる場となりました。 日 時:2008年7月23日(水) 14:30(開演)∼17:30(終了) 会 場:東京学芸大学小金井キャンパス

小金井クラ ブ1階ホール 参加者:18人(一般7名、学生7名、教職員4名) プログラム ■挨拶・多摩川エコモーションの紹介 ■

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現代座・役者のご紹介

■「遠い空の下の故郷」公演・朗読 ■懇親会

講演 「遠い空の下の故郷〜ハンセン病

療養所に生きて〜」

■NPO現代座 皆さんこんにちは。

NPO

現代座です。 私たちは、この小金井市の緑町5丁目に小さなホー ルと事務所を持っています。劇団として創立して実は もう45年。北海道から沖縄まで、いろいろなところで お芝居をしてきています。6年前から

NPO

になりまし 2008年度、現代

GP

連続講演会として7回の講演会を実施し、合計22名の講師を招聘し、延べ1188名の参加を得 た。そのうち第21回連続講演会は小金井環境博覧会との連携開催のため800名の参加となっている(この詳細につ いては、4章に掲載してある)。講演会には毎回、環境学習に関心をもつ地域住民の方々に多数参加いただき、質疑 応答や講演会後の交流会など、活発な情報・アイディア交換の場を提供することができた。そのうちの1回はスタ ディツアーを兼ねて、現地のフィールド学習と講演会を同時に開催した。このスタディツアーは、学生企画委員が企 画・運営したもので、学生が地域のステークホルダーと密に接して学ぶ貴重な機会となった。

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て、もっと地域に役に立ついろいろなことをしようと いうことで、今日のこの朗読もそんな中で始めました。 今日は現代座の中の3人でやってまいりました。どうぞ よろしくお願いします。 ■故郷(ふるさと)へ帰れなくなった人々の想い 今日の題名は「遠い空の下の故郷(ふるさと)」です。 皆さんにとってはふるさと、どんなものでしょう。歌 でも、ふるさとを歌った歌はとてもたくさんありますよ ね。でもその多くが、ふるさとを遠く離れて想う歌、な んですね。もしかしたら、ふるさとというのは、何か あってそこから離れてしまったときなどに強く意識する ものなのかもしれません。 たとえば大きな自然災害があって、自分が生活して いた場所で生活できなくなってしまったときなど。それ から、世界に目を向けると、国と国との紛争のために 自分の生まれ育った国を追われてしまう、というような 場合もありますよね。 そして、今日お話しするのが、ハンセン病という病 気になったためにふるさとに帰れなくなってしまった人 たちのお話です。 この人たちはやっぱりふるさとに帰りたいという思い がとても強いので、ふるさとの歌がとても好きなんです ね。ですから今日はまず最初に、たくさんあるふるさと の歌の中から1曲歌います。「故郷の廃家」という歌で す。今日は学生さんもいらして若い方も多いのですが、 もしかしたら若い方はこの歌を知らないかもしれませ ん。一定の年齢以上の方は、歌い始めればわかってい ただけると思います。それでは、「故郷の廃家」です。 幾年ふるさと来てみれば 咲く花鳴く鳥そよぐ風 門辺の小川のささやきも なれにし昔に変らねど あれたる我家に 住む人絶えてなく 昔を語るかそよぐ風 昔をうつすか澄める水 朝夕かたみに手をとりて 遊びし友人

(

ともびと

)

いまいずこ さびしき故郷(ふるさと)や さびしき我家や (「故郷の廃家」作詞犬童球渓、作曲ウイリアム・ヘ イス) ■ハンセン病とは 朗読の前にハンセン病について少しだけお話をしま す。 ハンセン病は、らい病と言われていました。私たち の国ではこの病気にかかってしまうととにかく強制的に 療養所に入れられて、そして一度療養所に入ってしま うと絶対に出ることが許されなかったのですね。これ は「癩(らい)予防法」という法律がほんの12年前ま で、90年以上にわたって生きていて、そのために療養 所から出ることが出来なかった。 そんなふうに「絶対外に出ちゃいけない」っていう ことは、ちょっと近寄ったらうつってしまうような怖い 病気なんだと思いますよね。らい病は恐ろしいとずっ と言われてきたのですが、実際にはほとんどうつるこ とのない病気なんだそうです。ハンセン病はらい菌と いう結核菌と似ている菌によっておこりますが、この 菌はとても弱い菌で、実際にはうつることはほとんど 無いのだそうです。その証拠に、ずっと療養所で生活 してきた職員の人で、この病気にかかったという人は 一人もいないそうです。それどころか、学者が菌の研 究をしようということで、菌を培養しようとしても、弱 すぎて育てられないというほど、弱い菌なのだそうで す。ただこの菌は、体の奥深くに入り込むのではなく、 体の涼しいところに定着するんだそうです。ですから 手とか足、それから顔で、末梢神経を冒して、手が曲 がってしまったり、顔がゆがんでしまったりっていう見 えるところに後遺症が残るものですから、見た人がと ても恐ろしいと思ってしまってね、気持ち悪いというよ うなことで、恐ろしいと思われていたんですけれども、 実際にはほとんどうつらないし、特にもう50年以上前 にプロミンといういい薬が出来てからは、本当に普通 に治療すればすぐに治る、ただの病気です。ですから、 日本以外の国では、もう50年以上前から療養所に入る のではなく、普通に生活しながら病院に通って治すた だの病気になっているんですね。それなのに、どうい うわけか、日本でだけ、とにかく強制的に療養所に入 るということが続けられてきました。どうしてそんなこ とが行なわれてきてしまったのだろうかと思います。 ■NPO現代座とハンセン病の出会い 実は、今こんな風に、まるで知っているかのように 話をしている私自身が、7年前まで、ハンセン病につい てほとんど何も知りませんでした。私が初めてハンセ ン病を意識したのが2001年の5月です。そのときに熊 本と鹿児島の療養所にいる人たちが国を相手に裁判を

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起こしました。そして、熊本地裁で勝利の判決が出た 日の夜に、テレビのニュースに原告の人たち、療養所 で暮らす人たちが生で出演されていたんですね。それ が私が意識した最初です。その人たちはテレビの生の ニュースに出て、「国は、控訴しないで欲しい。責任を 認めて欲しい」って一生懸命訴えてらっしゃいました。 そのときの、熊本地裁の判決で言っていることは2つ あります。1つは、強制的にハンセン病患者を強制隔離 してきた癩(らい)予防法という法律は、憲法違反の 差別政策だということです。そして、社会の中にハン セン病に対する差別感を定着させてしまったのは、国 の政策の責任だということでした。 あの時結局、国は責任を認めて、当時の総理大臣の 小泉さんが謝罪する姿がテレビでも放送されましたよ ね。そのときには私は、まあそんなひどいことが行な われてきたのか、だけど裁判に勝ってよかったな、と 思っただけで、正直そのまま忘れてしまいそうになっ ていたんです。 そうしたらその年の秋になって、うちの劇団の劇作 家の木村のところに、「ハンセン病療養所を取材に行っ て『人間回復』という題で連載を書いて欲しいという 依頼がきたのです。それはある医療関係の雑誌だった のですが、実は私たちの劇団では病院を舞台にしたお 芝居を何本も創っていて、その取材のときに大変お世 話になったところでしたので、結局お引き受けするこ とになりました。私は、取材する木村の助手ということ で、一緒に行くことになったのです。 ちょうどそのときに、熊本で大きな集会があるから、 じゃあまずそこに行ってみようということになって飛ん でいきました。 とても大きなホールにたくさんの人が集まっていまし た。報道陣もたくさん詰め掛けていて、いざこれから 集会が始まるという時になったら、司会の人が出てき て、「皆さん、今日はテレビのカメラが入っています。 テレビに映ったら困ると言う人はこちら側の席に移動 してください。テレビのカメラはこちら側の席だけを 映しますから。」と言ったのです。そうしたら、たくさ んの人がパッと立ち上がって移動していったんですね。 どうもその会場には、もちろん療養所で暮らす人たち、 それから応援する市民の人たちもいらしていたのです が、実は家族の方たちも、たくさん来てくださってい たようです。病気になった本人は療養所に無理に連れ て行かれてそれは大変だったのですが、実はふるさと に残った家族が、それこそ大変な差別を受けて、つら い思いをして、ずっと生きてきているんですね。だか ら、たとえ癩(らい)予防法が廃止になっても、もう 差別が無くなったから療養所を出てふるさとに戻って おいでととても言えないという状況で、もし自分がこ こでテレビに映って家族だってことがわかってしまっ たら・・・ということがあったようです。ああそうかと 思わされたのですが、実は集会が始まったら、もっと ショックなことがあったんです。その集会の中で、熊 本の菊池恵楓園というところで生活している一人の女 性が、自分の思いを訴えるという場面があったんです けどね。彼女は自分の姿が見えないようについたての 後ろに立って話をされたんです。伝えたいことはたく さんあるんだけど、やっぱり、家族のために、名前や 顔を出せないということだったようです。 それを見たときに、これは取材するなんて、こんな 生半可な知識しかない私たちがどうやって行ったらい いんだろう、と思いました。それと、正直言って、す ごく怖くなったんですね。私は、自分は差別感なんか 持っていないと思っていました。だけど、本当にそう だろうか。もし実際に目の前で出会ったときに意識して いないような拒否反応みたいなものが出てきてしまっ たらどうしようと思ったら、すごく怖くなってしまった んです。だから、最初に療養所を訪ねるときは、もの すごく緊張して行きました。 ところが、実際に出会ってみたら、本当にこの人た ちは、なんというか優しくて魅力的な人たちだったん です。確かに、指が曲がっていたり、顔がゆがんでい たりという事はあるんですけど、本当にそんなこと気 にさせない。私たちがすごく緊張しているのを感じて、 なんとかこうほぐしてあげようとしてくださって。1人 のおじいちゃんが「あ、そっか、現代座って知ってる よ。熊本で『絆を作る街』って芝居やったろ。あれ観 に行ったよ。いい芝居だったなあ。」と言ってくださっ てね。私は、もうそれを聞いて本当に嬉しくて。手を 握って「ああそうですか、ありがとうございます。」と 言って、やっとそれで気持ちが楽になって。ほっとし てそれからは出していただいたお茶を飲んで、お菓子 を食べていろいろお話して、「じゃあ、明日からついて 歩きますのでよろしくお願いします。」と言ってその夜 は帰ったのです。 その帰り道に、私たちを連れて行って下さった熊本 の「国賠訴訟を支援する会」という会の方が、「やあ、 これでもう大丈夫ですよ。」と言ったのです。「え?」と 言ったら、「あの人たちはねえ、自分たちが出した食 べ物をその人が食べてくれるかどうか、とっても気に してるんです。口ではどんなことだって言えるけど実

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際には出された食べ物を食べられない人も多いんです よ。」とおっしゃったんですね。「ああっ」と思いました。 あの日、私たちは夕飯を食べる時間が無くて行っちゃっ たものですから、もうほっとしたらすごくお腹がすい ちゃって、それでもう出されたお菓子みんな食べちゃっ て。それを見て、自分のために取っといたお饅頭とか も全部出してくださって。それもみんな食べちゃったん ですけどね。 そんな風にして、取材を始めました。半年以上かけ て、熊本と鹿児島の療養所を何度も何度もお訪ねして、 たくさんの方からお話を聞かせていただきました。もう 本当に、どの方のお話もびっくりするようなことばかり でした。 今日はそうやって聞かせていただいたたくさんのお 話の中から、2人の女性のお話を、なるべく彼女たち が話してくれた通りに、でもそれを短く、朗読という形 でまとめてみました。「遠い空の下の故郷」、聞いてく ださい。 〈遠い空の下の故郷(ふるさと) 朗読1〉 阿部智子さんのお話 ■心のふるさと わたしは小さいときから川辺で遊ぶのが好きでした。 子どもごころに、水がぬるんでくると春が近いなと感 じたものです。冬を越して春になると、木の枝が薄赤 く芽吹いてきます。枝の先にきらっと光る新芽が出て きます。その新芽が日の光に映えて、とってもきれい。 春になると河原にオキナ草が咲きます。濃い赤のビ ロードのような花です。それが気になっていつも見に 行っていました。それから、もうネコヤナギが咲いた かなとか、風の感じや水がきらきら光るのを見て、もう 秋が近いなとか思ったり。 ■発病 小学校六年生の一学期でした。体に湿疹が出たので 病院で診て貰いました。診察が終わって帰ろうとした とき、お医者さんが「ちょっと」とお母さんを呼び止め て、なにやら話していました。「早く療養所に連れて行 かないと、保健所から連れに来るぞ」と言う声が聞こ えました。 「療養所って、わたし何の病気なの?」 お母さんは厳しい声で「なんでもない」と言いまし た。 そのころ、わたしは学校から帰ると、まだよちよち 歩きの兄の子どもの子守をしていたんですが、兄嫁は すぐ子どもを連れて実家に帰ってしまいました。 母は毎日毎日、心配そうにわたしの顔をみるばかり で、本当のことを言ってくれません。けれど、まわりは みんなわかっていたんですね、それ以来、幼なじみの 友達も遊びに来なくなりました。そしてとうとう兄も別 居することになり、わたしは自宅療養をつづけることに なりました。けれど、もう大好きな川辺に出かけること はできなくなりました。 家から出ることもできず、一日中することがありませ ん。まだテレビのない時代でしたから、一人で家の掃 除をしたり、台所の汚れ物を磨いてみたりしていまし た。そんな生活が三年以上つづきました。もちろん誰 もたずねては来ません。学校の先生が一回訪ねてきた のは卒業証書を持ってきたときです。 もうそのころはわたしは自分の病気がハンセン病と いう病気らしいことはわかっていました。お母さんはあ らゆる薬を手当たり次第集めました。いかがわしい薬 でも、それがわたしの病気に効くと聞けば、とにかく 手に入れてきて、わたしに飲ませるのでした。またあ る年は、皮膚病に効くと言われる田舎の温泉に湯治に やってくれました。 人里から遠く離れた山あいにある静かなところでし た。まわりに話し相手がいませんでしたから、いつも ひとりで草や木に話しかけるのです。ちょうど野菊が 咲いてるころでした。みんなで肩を寄せ合って咲いて る野菊はとっても幸せそうでした。 遠い山から吹いてくる こ寒い風にゆれながら 気高く清くにおう花 きれいな野菊うすむらさきよ 霜が降りても負けないで

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野原や山に群れて咲き 秋のなごりを惜しむ花 明るい野菊うすむらさきよ わたしは本を読むことが好きでした。お母さんは学 校に行っていないので本を読むことができません。お 母さんは十三歳で他人の家に働きに行き、ずいぶん苦 労して育った人でした。雨が降るとお母さんは縫い物 をします。そのそばで本を読んでいると、「声を出して 読まんね」と言います。お母さんが一番喜んで聞いて くれたのはイギリスの子どもの小説「小公女」でした。 小公女の主人公セーラは、何不自由ない生活から、 両親を失って、突然屋根裏部屋の貧しい生活に追い込 まれます。けれどセーラは貧しさやつらさにめげず、 カチカチのパンをかじりながらネズミと友だちになり、 心豊かな生活をつくりだす少女です。「兄ちゃんが読ん でくれてもよくわからんが、お前が読むとよぉくわかる」 お母さんはそう言ってわたしをほめてくれました。わた しの将来を案じて、つらい運命にめげないで生きて欲 しいと思ったのでしょう。 ■決心 梅が咲き始めたころのある晩のことでした。親戚の おじさんが訪ねてきて、「やっぱり療養所に行った方が いいんじゃないかな。もし、お兄ちゃんが帰ってきて も、あんたが病気だとつらい思いをするからなぁ」と 言いました。 わたしは八人兄弟の末っ子で、一番上の兄さんは戦 争に行ったまま帰ってきませんでした。もう戦争が終 わって十年もたっているのに、それでもお母さんは兄 ちゃんはきっと帰ってくると言い続けていたからです。 わたしも兄さんを悲しませたくないと思いました。わ たしのために両親や家族が苦しんでいることを思うと、 わたしがいない方がいいこともわかっていました。け れど、どこにも行きようがありません。わたしはそっと 外に出ました。冷たい晩でした。庭の大きな白梅の木 の下で泣きました。自分は死ぬしかないと思いました。 けれど、ただ死ねばいいのではありません。死んでも 見つかったら家族が困るのです。わたしのなにもかも、 全部が消えてしまわなければならないのです。 空を見上げると無数の星が輝いています。小学校の とき習った歌が聞こえるような気がしました。自分も死 んだらあの星の一つになるのだろうかと思いました。  木枯らしとだえて 冴ゆる空より  地上に降りしく くすしき光よ  ものみな憩える しじまのなかに  きらめきゆれつつ 星座はめぐる  ほのぼの明かりて 流るる銀河  オリオン舞い立ち スバルはさざめく  無窮を指さす 北斗の針と  きらめきゆれつつ 星座はめぐる 星空を見つめながら、わたしはお母さんのためにも 療養所に行こうと決心しました。そして、もう二度と 帰っては来られないのだから、故郷の姿を自分の心の 中にしっかり焼き付けておこうと思いました。あそこに 何があって、どこにどんな花が咲いているか、どんな 実がなるかは今でも全部覚えています。 わたしが入所することを心に決めてから、お母さん は仕事の合間に、あれやこれやと持って行くものなど を準備してくれていました。その日は糸のカセをわたし に持たせて、お母さんが巻き取りながら、何気ない話 をしていたとき、突然お母さんの顔が真っ赤にふくら んだように見えました。そして次の瞬間、身体の底か ら振り絞るような「アーッ!」という叫び声とも泣き声 ともつかない声をあげました。それはお母さんが、そ れまで耐えて耐えて、押しつぶしてきた悲しみのかた まりが、一気に吹き出した声だったのです。わたしは どうすることもできませんでした。 ■療養所 出発の日が来て、兄が町からハイヤーをやとってき ました。運転手が二人ついていました。昼間だと近所 にわかるからと、夜十一時に家を出ました。もう帰って はこられないのだと、車の窓から家の灯が見えなくな るまで見ていました。わたしはもう十六歳になっていま した。 わたしが入ったのは熊本の菊池恵楓園という療養所 です。療養所に着くと一休みして、七時半に食事が出 されました。見ると兄がいません。お母さんに聞くと、 もう帰ったと言います。「何か言って行った?」とたず ねましたが、お母さんは黙って首を振るだけでした。 療養所へ来たのは四月の中旬でした。 キンセンカの花盛りでした。園内にはお花畑がたく さんありました。人はにぎやかに行き来しています。ま だ子どもでしたから、明るくていいとこだなと思いまし た。でも、不思議だったのは療養所だというのに、み んなが一生懸命汗を流して働いていることでした。

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療養所なのになぜみんな一生懸命働いているのだろ うと思いました。見ていると、職員に怒鳴られながら 働かねばならなかったり、一日中見張られたりと、ず いぶん不合理なことばかりです。 患者が亡くなると遺体は荷車に積まれて火葬場へ運 ばれていきます。これも患者の仕事です。町の火葬場 は使わせて貰えないので、療養所の中に専用の火葬場 がありました。 最初に診察を受けたとき、お医者さんは「二∼三年 したら治って帰れるよ」と言いました。けれど、病気 が治っても家に帰れないことはすぐわかりました。病 気が治っても、あの火葬場で焼かれるまで、ここで働 きつづけなければならないのです。 ■裏切られた思い お母さんは一年に一回か二年に一回、お金ができる と隠れるようにして会いに来てくれました。田舎では 外出する格好をすると「どこへ行くの」と聞かれるか らです。たいていは姉たちのとこへ行くと言って家を 出たようです。 お母さんは「小公女」の話をよく覚えていて、「セー ラのように、いくら悪い環境にいてもそれを楽しい場 所に変えていかんとな」と言っていました。 面会者が出入りする小さな通用門の先に巡視小屋が あって、面会者はそこで木札を貰ってから入ります。 帰りにはまたその巡視小屋で木札を返すのです。 巡視というのは患者が逃げ出さないように見張る職 員のことです。四人か五人いました。療養所は刑務所 のように高さ二メートル以上もあるコンクリートの塀で 囲まれていました。その外側には深い堀があって、塀 を乗り越えても逃げられないようになっています。その 堀が浅くなると、すぐまた深く掘っていました。それで も安心できないらしく、監視する職員が園内を歩きま わっているのです。 そのときは人通りもなく、門の所にも誰もいなかった ので、何気なくお母さんを送ろうとして一緒に外へ出 ました。巡視小屋の近くまで来たとき、一人の巡視が わたしに「ちょっと」と声をかけました。見ると、入所 したとき、親切に荷物を運んでくれた巡視さんでした。 あの時の優しそうな人だと思ったときでした。 「患者はあそこから出てはいけない。すぐ帰んなさ い!」 まるで人が変わったような厳しい声です。優しい人 だと思っていただけに、少女のわたしにはショックでし た。ああ、ここは本当に収容所だった。もうここに入っ たらおしまいなのだと思いました。 ■左手の傷 ハンセン病のつらいところは、病気が治っても後遺 症として手足に感覚の麻痺が残ることです。指先や足 先の感覚が麻痺すると、実は生活面でいろいろ不自由 なことがあります。痛みを感じないので、わたしたちは よく怪我をします。怖いのはハンセン病より怪我をす ることです。療養所内の病院では、ハンセン病の治療 より外科の治療の方が多いのです。 わたしの左手首には今でも大きな傷あとがあります。 すぐ皮膚が割れて傷になります。これも、感覚の麻痺 が原因でなったものです。 まだ、療養所に来る前のことですが、ちょっとした しこりがあったので、家にあった油薬を塗って、よく身 体にしみこむようにと火鉢にかざしていたんです。と ころが、熱さがわからないものですから、気がつくと 水ぶくれができていました。子どもなものですから、あ わてて今度はお風呂に使っていた硫黄成分の薬湯をつ けたのです。その薬湯は昔から皮膚病に効くと言われ てうちでも使っていたものですが、薬湯に含まれる硫 黄のために、かえってただれがひどくなってしまいまし た。 わたしはお母さんに叱られると思って、見つからな いように、包帯を巻いて隠していました。けれどすぐ 見つかってしまいました。皮膚は黒こげ状態でした。 このままにしていたら手が腐ってしまうと、お母さんは あわてました。しかし、悲しいことに、病気を隠して いるものですからお医者に行くことができません。結 局、お母さんはかみそりでわたしの腕の黒く焼けた皮 膚を削ることにしました。わたし自身は痛みを感じない ので、目をつぶっていましたが、今思うと、お母さん はどんな気持ちでわたしの皮膚を削ったのだろうかと 心が痛みます。 ■お母さんの死 わたしがここへ来たのは四月二十五日でしたから、 毎年春が来て、キンセンカの花を見るたびに、「ああ、 もうあれから何年になるなあ」と勘定します。そして、 別れた日のお母さんのやつれた顔を思い出すのです。 あれからちょうど三十六年目の日を迎えたときのこと でした。その晩、お母さんの夢を見たのです。お母さ んが死んでしまって、わたしはお母さんの身体を抱い て、なんとか生き返らせなくてはと、一生懸命「お母 さん!お母さん!」と呼んでいるのです。そのうちはっ

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と目が覚めました。 それから三ヶ月たったころ、郷里の親戚の人から電 話がありました。 「あんたには知らせたくなかったんだが、ばあちゃん は死んだよ」 「いつ?」 「もう三ヶ月になるか‥‥‥」 それはちょうどわたしがお母さんの夢を見た日でし た。本当に不思議なことですけど、やっぱり、お母さ んはわたしのことが気になって、お別れに来たのだな と思いました。 何もかもが壊れてしまい、自分の身体が真っ暗闇の なかに吸い込まれていくような気がしました。わたしの ためにつらい一生を送ってきたお母さんなのに、せめ て息を引き取るときだけでもそばにいてあげたかった。 わたしはお母さんが可哀そうで可哀そうで、何日も何 日も泣きました。 やっと思い直して、ながいこと世の中の差別に耐え ながら、わたしのことを思いつづけてくれたお母さん に「お母さん、ありがとう。楽になってよかったね」と 言ってあげたいと思いました。 「お母さん、楽になってよかったね。身軽になって、 明るいところへ行ったんだね」 ■ふるさとの山に わたしは長い間、世の中に戻って暮らすなどという ことは考えたことがありませんでした。それはもうあま りに遠い世界になってしまって、望んでも叶わないこ とだと思っていたからです。それに、わたしにはもうお 父さんもお母さんもいませんから、ふるさとには帰れま せん。 自分が死んだあとのことを考えるとき、夢のような願 いですが、自分の骨を、ふるさとの見える山に散骨し て貰いたいと思っていました。そうすれば雨が降って、 わたしは水に溶けて川へ流れていきます。川へ出たら わたしの家の近くを通れるのです。 子どもの頃、花を摘んだ川辺、ネコヤナギのあるあ の川辺を流れていくのです。遠くからひと目、お母さ んといっしょに暮らしたわが家が見えるはずです。あ の懐かしい白梅の大木は今でも残っているでしょうか。 それから、わたしはきっと広々とした海に出るでしょ う。海へ出たら世界中を巡り歩きたい。わたしは子ど ものときに療養所に入りましたから、どこにも行ったこ とがありません。海に出たら、わたしの心はきっと軽く なるにちがいありません。そうしたら、魚と同じように 自由に泳いで、好きなとこにどこでも行けるなあと思い ました。 ̶音楽の中で一礼して退場 ■ハンセン病差別と私たちの責任 私が初めて療養所を訪ねた7年前、全国の療養所に は、だいたい5000人位の元患者さんが生活していらっ しゃいました。そう「元」患者。今療養所で暮らして いる人で、ハンセン病を患ってる人は1人もいません。 みんな、ずっと前に、発病したときに連れてこられて そのまま、病気が治っているのに帰れないという人た ちです。 7年前でもうその時、平均年齢は70歳を超えていま した。今は、この療養所で暮らしている人は2800人 だったと思います。これは、療養所を出てふるさとに 帰れて減ったのではないんですね。ふるさとに帰れた 人は本当に少ししかいません。 今は療養所は誰でも訪ねることが出来ます。このす ぐ近くにも多磨全生園があります。今、療養所に行っ てみると、本当に広い敷地に、きれいに公園が整備さ れていたりして、うっかりすると、なんていい環境のと ころなんだろうと思わされてしまったりしますが、実は、 そのきれいな公園というのは、かつては食料を作った 畑のあとだったりするんですね。療養所は自給自足が 原則だったそうです。ですから、まず自分たちが食べ るものを自分たちで作らなくちゃいけない。それから燃 料も確保しなくちゃいけない。医療でさえ、割と病気 の軽い人が重い人面倒を看るという事で、大変な重労 働をさせられたそうです。療養所なんだから静かに療 養していられたらまだよかったのでしょうが、そうやっ て重労働をしたために、かえって病気がひどくなって しまったり。 それから、つらいなあと思ったのが、二次障害といっ て、手や足の感覚が弱くなっているために、たとえば 釘を踏み抜いても気がつかなくて、気がついた時には もう手遅れで、結局足を切断しちゃったという話を、 何人も聞きました。 でも、一番問題なのは、あまりにも長い間この強制 隔離という政策を続けたために、私たちの中にハンセ ン病に対する差別感が定着してしまったことだと思い ます。ハンセン病になるとその人は強制的に療養所に 連れて行かれるわけですが、その後その家は、もう真っ 白になるまで消毒されたそうです。そうすると、周り 中にわかってしまって、「そのうちは恐ろしいよ」とか、 「あのうちの前通るときは息をしちゃいけないよ」とか、

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親が子どもに教えたり。結局、ハンセン病の患者は人 間ではないという風になってしまったんですね。 戦後になって、昭和28年に新しい癩(らい)予防法 という法律が国会を通りました。それは、もうすでに プロミンといういい薬が出来て、これは治療すれば治 る病気だとわかっていた時期です。世界的にも、世界 保健機構というところから日本の政府に、強制隔離の 政策はやめるようにという勧告が出されていたのだそ うです。そして私たちの国は戦争が終わった後で、民 主主義というものがすごく大事だということで、人権と いう意識がすごく高まっていた、そんな時代だったの に。そのとき、患者さんたちはもちろん、一生懸命そ の癩(らい)予防法を通さないように運動したんです よね。だけど、私たちの中にそれを応援する力が本当 に弱くて、結局ハンセン病患者の人権は無視されてし まいました。 私はびっくりしたのですが、その時通った癩(らい) 予防法というのは戦前よりひどいものになっていたの です。たとえば、戦前からハンセン病の患者はとにか く根絶やしにするんだということで、強制的に断種や 堕胎が行なわれていたんですが、少なくともそれは非 合法で行なわれてきていたのです。それが、昭和28年 以降は、優生保護法に明記されて、合法的に堕胎が行 なわれてきたのだそうです。 ほかにももう聞けば聞くほどびっくりすることばか りなのですが、いろいろ知っていくと、これは確かに、 裁判でも出たように国の政策の責任です。でも、じゃ あ私は何をしていたのだろう。本当に、この人たちに 対して申し訳ないことをした、そう思わないわけにはい きませんでした。 取材が終わってからもずっと、療養所を訪ね続けて、 今では、たくさんのお友達ができました。現代座が沖 縄に公演に行ったときには、公演の合間に宮古島の療 養所をお訪ねして交流をさせていただいたり。そうい うときにいつも思わされるのが、ああこの人たちは本当 にふるさとに帰りたくて、ふるさとへの強い思いに支え られて生きてきているんだということでした。 ■語り手〜山口トキさんと阿部智子さん〜について そんな風に出会ったたくさんの人の中でも特に印象 的だったのが、鹿児島の鹿屋の療養所にいる山口トキ さんというおばあちゃんです。トキさんは、小さい優し いおばあちゃんで、熊本と鹿児島で最初に裁判を起こ したときの13人の原告の中の1人です。国立の療養所 で暮らしている人が、国を訴えるということは、大変 なことなんですよね。しかも彼らは後遺症があるから 医療がないと生きていけない。国を訴えたりして、もし 療養所を追い出されてしまったらどうするんだというこ とで反対の声もたくさんあったし、それから名前を出 せないということで原告になれない人も多くて。結局、 最初に裁判で名前を出して原告になれたのは、13人、 だったんですね。トキさんはその中のお1人で、彼女 が熊本の裁判所で証言したことが、裁判の判決を出す 上で、本当に大きな力になりました。それでは、その 山口トキさんのお話です。 〈遠い空の下の故郷(ふるさと) 朗読2〉 山口トキさんのお話 ■心のふるさと わたしは大正十一年生まれですから八十六になりま す。わたしは五十三のときに目が見えなくなってです ね、もうずーっと暗闇の中を生きてきとるとですよ。そ れでもね、自分の育った村のことやお父さんのこと、 お母さんのこと、弟のことはよく覚えていますよ。目が 見えなくなってからは、忘れていたいろんな事を思い 出すねえ。 もう、今の人にはわからんと思うけど、戦争中は徴 用と言ってね、兵隊さんのように、国から命令が来る と、遠くの工場や炭坑に働きにいかねばならんかった とですよ。それで、わたしのお父さんも弟も徴用で炭 坑に行かされました。それで、わたしは母と二人で牛 を使って田んぼをやりました。お父さんたちがしよった のを見とったからですね、見よう見まねで鋤を使って 田んぼを耕して、田植えして、稲刈りして、足でふむ 機械で稲をこいでね、もう体の続く限り働いたとです よ。

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■無らい県運動 戦争が終わる少し前でした。二十三くらいの頃、腕 が赤く腫れたんですよ。一年くらいたってからまた眉 毛が抜けたり、髪の毛が抜けたりしてね。それでも忙 しいもんだから病院にも行かずにいました。身体の具 合が悪いといっても寝るほどじゃないから、毎日働きま した。 戦争が終わってから、最初は役場の予防課の人が訪 ねてきて、遠回しに「からだの調子は悪くないですか?」 と聞かれました。そのときはまた来ますと言って帰りま した。半年後にまた別な人が来て、「あんたのような病 気を専門に治すところがある。そこへ行ったら三年ば かりしたら帰れるから」と言われました。だけど、この 忙しい時期に母と二人で仕事をしなくてはならないか ら行けませんと断りました。 そしたら次に、また別な男が来て「あんたの病気は 家にはおれない病気だ。恐ろしい病気でな、人にうつっ たら治らん病気だ」と言うんです。三年で治ると言っ たり、人にうつったら治らん病気だと言ったり、家族 と一緒にいたらうつるからいかんとかねえ。でも、そう ならとっくに家族にうつっているはずなのにと思いまし た。 これはあとからわかったことだけど、そのころ、日本 中の村や町に厚生省から「ライ患者を見つけたら報告 してすぐに療養所に入れるように」という命令を出し とったんですよ。 そして、とうとう警察が来てですね、「お前はこれだ けみんなが病院へ行けというのに、行かなきゃ手錠か けてでも連れて行くぞ!」と言ったんです。その時は ちょうどお父さんが炭坑から帰って来とったですから、 お父さんが怒ったですよ。  「そんな悪いこともせんのに、手錠かけてまで連れて 行くとはどういうことか。あんたらが手錠かけて連れ て行くんなら、その前にわしが娘を殺す!」って。そし たら警察は「まあまあ、そんなにせんでもええ」と言っ て帰っていきました。 人様に悪いことをしたわけではないのに、買い物に 行けば売ってくれんし、バスに乗れば車掌が保健所や 警察に連絡して降ろされるし。家族や親兄弟まで差別 を受けるんですよ。 ■家族と離れて それからまあ、何ヶ月も泣いたりわめいたりしまし た。昼は仕事をせにゃならんし、もう夜になると大変 だったですよ。そんなことがつづくとねえ、わたしのこ とで家族の間でも気持ちが暗くなるんですよ。わたし はお父さんに泣いて頼みました。 「父ちゃん、わたし一人で山で暮らすけえ」 「なにを言う。お前、女一人で山で暮らすのは大変な ことだぞ」 「大変でもええ。もう、たまらん」 お父さんもお母さんも黙っていました。わたしがわ んわん泣くもんですけえ、とうとうお父さんは「仕方が ない」と言いました。 お父さんは近所の人に見つからないように、こっそ り山小屋をつくってくれました。あのころは田舎の人な ら山小屋をつくるのは簡単でした。笹と萱があれば壁 も屋根もできるんですよ。 それから、お父さんとお母さんが、夕方、人に気づ かれないようにご飯を持ってきてくれました。人目がな くなるところまで来たらローソクに火をつけてね。そし て一緒に泊まってから、また朝早く、明け方を見計らっ て帰って行きよったですよ。まあ、親には言葉に尽く せない苦労をかけました。 夜は小屋の中にじっとしているのがこわいんですよ。 昼は昼で、人の気づかないような場所を探しては、じっ と隠れていました。茶碗を洗ったり洗濯したりするの も、川で洗ったりしてるところを見つかってはいけない と思って、人に見つからないように谷から水を引いて、 水がたまるようにしてね。そこで洗いました。その洗 濯物を見つからないように干す場所をみつけるのが大 変でした。そうやって三年間山小屋で暮らしました。 ■山狩りしてでも わたしが一番怖かったのはオオカミなんかじゃなく て、人間ですよ。山を歩き回る猟師に気づかれないよ うに気づかれないようにね。結局猟師には会わなかっ たけど、三年たったときですね、とうとう男の人が三人 で来たですよ。一人は白い服を来たお医者さんでした。 村の人に聞いて、途中まで連れて来てもらったんでしょ うね。 夜、ご飯を持ってきてくれたお父さんと相談しまし た。そしたらお父さんはもっと山奥に小屋を建ててく れました。それからまた一年、山の中で暮らしました。 だけどやっぱりなあ、村の人に道を教えてもらった りして来るんですよ。最後は七人か八人で連れに来ま した。今度はお医者さんだけでなくて、看護婦さんも 来ました。 「もうお前は逃げることはできんぞ。逃げても山狩り してつかまえるようにしてあるから、すぐつかまる。明

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日、下の神社まで降りてこい」と言うわけです。あと でこの療養所に来てみて、そのときの来たのはみなこ この職員だっちゅうことがわかりました。 ああ、もうこれ以上家族に迷惑かけるわけにもいか んなあと思って、山を下りることにしました。進駐軍 のジープのような車に乗せられてですね、窓には黒い カーテンが張ってありました。途中でもう一人女の人 が乗せられて、その人と二人でこの星塚敬愛園へ連れ てこられました。それが昭和二十八年の三月のことで す。ちょうどこの年に「癩(らい)予防法」と言って、 ハンセン病にかかった者は死ぬまで外に出さないとい う法律が国会を通ってしまいました。わたしは三十一 でした。 ■敬愛園での生活 あのころというのは、ほんとにひどい時代でした。 今みたいに洗濯機はないしねえ。ガスもない、電話も ない。病院の医局しかなかったですよ。お風呂も遠く にしかなくてね。 わたしは身体が不自由な人たちの付き添いで重労働 させられたですよ。じいちゃんばあちゃんをおんぶし て風呂まで連れていって、またおんぶして連れて帰っ てくるんです。それで一日働いて十円でした。日曜も 何もなしにまるまる三十日働いて三百円です。そのお 金も園内でしか使えないお金です。石鹸だの何だの少 しは配られたけど足りないんですよ。三百円というと ね、卵十個も買えない時代ですよ。 故郷から手紙や小包が来ても、全部職員があけてか ら本人に渡していました。妻や子どもを外に残してき た人、赤ちゃんがおるのに連れてこられて明けても暮 れても泣きの涙で暮らしてきた人、子どもができたこ とがわかると否応なしに中絶されてしまうし、家族が 面会に来ても予防衣を着せられて、部屋にはあげてく れませんでした。まだまだいろいろんなことがありまし た。 ■結婚 わたしはここへ来て二年目に結婚しました。夫は延 岡の人でね、満州で発病して、強制収容でここに連れ てこられた人です。 しかし、主人はまあほんとに運の悪い人でねえ。白 内障を患って電気針で目を焼くというのをやったら、そ れで目が見えなくなったんですよ。それから結核になっ て結核病棟に入ったんですが、今度は結核の薬の副作 用で、耳が聞こえなくなったんです。結核の薬でスト レプトマイシンとかカナマイシンという薬は副作用で耳 が聞こえなくなるんですよ。それで、まったく会話が できなくなってしまいました。 あのころのここの医療というのはひどいものでねえ。 お医者でもない者が手を手術したり、足を切り落とし たり、めちゃくちゃでした。 もうそれからは六年間、ちょっとでも熱が出ないよう に、咳が出ないようにと、おちおち寝ていられません でした。何というても、主人は目も見えないし、耳も聞 こえないし、そばにおって見ておらなきゃあぶないと 思ってね。 喋るのは喋れるんです。それで何かが欲しいと言う んだけど、それがここでは手に入らないものだったり するとほんとに大変でした。 夏の暑いときに甘酒がほしいと言い出したんですよ。 それで何とかしてやりたいと思って、看護婦さんにも 頼んだりして鹿屋の街でも探してもらったけど、手に 入らないんです。 そしたら、「俺がこれだけ欲しがっているのに、くれ んのか」と言うてねえ。手を尽くして探したんだと言っ てやりたくても、伝えようがないんですよ。夜通し主人 のそばに座って。つくづく、二人ともなんと哀れな星 のもとに生まれたことか、いっそ死んだ方がましだな と、そんなこと考えたりしてね。 ■会話ができるようになった わたし自身取るに足りない人間だけど、主人のこと を思うと、目が悪くて読み書きができないのはつらいだ ろうと思ってね。主人の目の代わり、耳の代わりになら なくはと思ってね。なんとかして会話ができたら、本 人もよかろうにと思って、いろいろ考えました。 ある晩、ふっと思いついたことがあるんです。主人 はよく文章を書く人だったことに気がついたんですよ。 最初は指で主人の背中に書いてみたけど、ハンセン病 は感覚が弱くなってるから、わからないんです。それ で、お腹に書いてみたら、マッサージでもして貰って るつもりらしく、喜んでるんですよ。 いろいろ考えて、額に書いてみたけどやっぱりわか らん。こりゃあ、向かい合うと字が反対になるんでわ かりにくいんだろうと、それで今度は頭の後ろに書い てみたけど、やっぱりマッサージだと思っているらし い。そうだ、自分で字を書くようにしてやればいいと 思って、今度は本人の手を握って、筆で字を書くよう に空間に字を書いたんですよ。「トキ、ココニイル」っ てね。

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そしたら「トキ、ココニイル……、なに! トキ、こ こにいる?」。 主人はやっとわたしが字を書いているんだというこ とがわかったんですよ。もう喜んで、涙を流してです ね。 「俺はこの世とあの世の境を夢うつつしとった。目も 見えない。耳も聞こえない。死の世界にいるのと一緒 だった」ってね。 「コレカラハ、モジデハナシヲスル」 それからは、頭の後ろに書いてやると、少しずつわ かりだしてね。ひらがなよりカタカナの方がわかりや すいと思って、カタカナで書くようにしたんですが、目 で見るようにはいかないからね、たまには「ス」とか 「ヌ」とか漢字の「又」が似て、よく間違えよったです よ。(笑) 夫は法律の知識もあって、世の中のことをいろいろ 知りたがるんですよ。それで、わたしは毎日新聞を読 んでは、頭の横に書いてやるんです。すると、「あれは どうなった?」とか、「今日の相撲は誰が勝ったか」と かね。 ■こころのふるさと ところがですねえ、昭和五十年の大晦日に、今度は わたしがやけどをして目が見えなくなっちゃったんです よ。主人がお茶を飲めるようにと、火鉢にやかんをか けたところ、目の見えない主人がひょいと手を出して、 やかんをひっくり返したんです。火鉢の灰の柱がバーッ と立ったのが見えました。それがわたしの両目に入っ て………、一晩で目が見えなくなったとですよ。 正月が明けるまで、お医者さんたちは国へ帰って誰 もいませんでした。痛いの何の、痛み止めだけもらっ て、一週間我慢しました。そしたら瞼の裏に灰がびっ しりこびりついてですね。 こっちの眼はもっと早く手術してたら直ったんだけ ど、ここの眼科医は女のお医者さんだったが、「私は気 が向かないと手術しないわよ。私はあんたたちの子守 じゃないからね」って、やってくれなかったんですよ。 まあ、癩(らい)予防法は撲滅政策だから、本人に生 きる力がなければそれまでという時代でした。もう人 間あつかいじゃなかった。 主人は昭和五十四年に、風邪を引いて、肺炎を起こ して亡くなりました。 それからしばらくして、今度は弟が死んだという知 らせが来ました。弟はわたしが入所してからあと、兵 庫で働いていたんですが、わたしがハンセン病だとい うことがわかったばかりに、嫁の親が、嫁と子どもを 連れて帰りました。弟はだんだん深酒するようになっ て、とうとう肝硬変になって死にました。 親には本当に不幸をかけました。母は、道を歩いて も「おまえのことを考えると、どうしてこんな病気に なったかねえ」と泣いて歩いたと言ってました。父は 八十四歳になるまでここに面会に来てくれました。 ああ、家を出てからもう五十年以上になるもんねえ。 もう目が見えんから、帰ってもどんな風になっとるかわ からんけど。わたしの家は鹿児島と熊本の境にある山 奧の村でね。今でもはっきり覚えてる。学校で習った 歌があったねえ。なんでも、むかし人吉の音楽の先生 がつくった歌だって、「恋しやふるさと………」 まあ人間の一生なんて、ほんとにね、幸せな一生を 送る人もあれば、わたしらみたいに一生差別される人 間もいる。ハンセン病は指先の神経がやられるんで、 (指を曲げて)こうまっすぐ伸びないんですよ。それで も、人間の心を失ってはならんと思って、手は曲がっ ても心は絶対まげないぞって自分に言い聞かせてきた ですよ。 ■ひとこと言ってやりたかった わたしらを強制的に隔離してきた「癩(らい)予防 法」が廃止になったのは平成八年でしたね。国が間 違っていたと言うて、大臣が謝ったそうですよ。テレ ビでやったそうですが、わたしは目が見えないので人 から聞きました。 そのとき思ったですよ。大臣が頭下げたって、わた したちはもういっぺんやり直すわけにはいかんでしょう が。夫も死んだし。わたしのために警察官とけんかし て山奧に小屋をつくってくれたり、ご飯を運んでくれ たりしたお父さんもお母さんも、もう死んでしまったで すよ。廃止になったんなら、ちゃんとして欲しいことが いっぱいありました。 癩(らい)予防法が廃止になって、しばらくたって からでした。弁護士さんの無料相談ということで誰か がお願いしたんでしょう。西日本の弁護団の方々がい らして、いろんなことを話したりするうちに、「国が謝 れば済むというもんではない。なんでこんなことをし たのか、誰がやらせたのか、それをはっきりさせんと、 またおんなじことになる」、ということで裁判を起こす ことになりました。 わたしは盲人だし、何もわからなかったんだけど、 一緒にやろうと誘われて、みなさんに支えられて原告 団の一人になりました。わたしはどうしても言わにゃな

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らんことがあると思ったからです。長い間苦しんでき たこと、悲しんできたこと、まともに言う度胸はなかっ たけど、ひとこと言ってやりたくてね。 わたしは車に酔うたちで、鹿屋まで行ってもげーげー やるんですが、熊本の裁判所まで六時間かけて証言に 行きました。 女のくせにと言われました。だけどあんた、女だか ら言わにゃならんと思いました。わたしのように目が見 えなくなった人間でもね。 だから証言のとき、わたしは最後に言いましたよ。 予防法を廃止した以上、国の責任で日本国中、津津 浦々、一軒家にいたるまで、草の根を分けてでも偏見 をなくしてくださいって。そうでないと、とてもじゃな いけど、家族もなんも浮かばれないですよ。国はハン セン病は恐ろしい病気だって、ずっと国民に言いふら してきたんだからね。 わたしの夢は、何とかして夫の骨を故郷の墓に入れ てやることです。ハンセン病はほんとは何でもない病 気だったんだということになったけど、やっぱり故郷の 墓には入れてもらえんのです。いまはわたしの故郷の 墓に入れてもらっていますが、きっと自分の生まれ育っ たところで眠りたいでしょう。 わたしももう八十六になりますが、なんとかして、夫 を故郷の墓に入れてやりたい。いろいろな方に力を貸 して下るようにお願いしています。 皆さん、どうかよろしくお願いします。 ■ふるさと トキさんは今もお元気で、お部屋にはご主人の大き な写真が飾ってあるのですが、その下にちょこんと座っ て、ラジオを聞いていらっしゃいます。それではまた、 ふるさとを思う歌を1曲。トキさんの大好きな「旅愁」 を歌います。 更け行く秋の夜 旅の空の わびしき思いに 一人悩む こいしや故郷 懐かし父母 夢路にたどるは 故郷(さと)の家路 更け行く秋の夜 旅の空の わびしき思いに 一人悩む 窓うつ嵐に 夢も破れ 遥けき彼方に こころ迷う こいしや故郷 懐かし父母 思いに浮かぶは 杜(もり)の梢 窓うつ嵐に 夢も破れ 遥けき彼方に こころ迷う (「旅愁」作詞 犬童球渓、作曲ジョン・

P

・オード ウェイ) 今日最初に朗読したのは、阿部智子さんという方で、 実は私が最初に行った熊本の集会で、ついたての後ろ に立って話をされた方です。彼女は今では自分の顔も 名前も表に出して、いろんなところに行って自分の体 験を話しています。特に、小学校や中学校から声がか かると、今、子どもたちの中にもいろんな差別がありま すが、それを無くしたいということで、ちょっとくらい 体調が悪くてもがんばって出かけていくのよと話して いました。彼女は現代座の会員で、現代座のことをす ごく心配してくれていて、九州で公演があるといつも 観に来てくださったり、支えてくれる大事なお友達で す。彼女が、そんな風に一生懸命がんばってる姿を見 て、私たちも何かしなくてはと思ってこんな活動をはじ めました。 本当にささやかな活動ですけれど、何人かでも集まっ て話を聞いてくれるというところがあればどこへでも飛 んで行きたいと思っていますので、どうぞよろしくお願 いします。

(13)

それでは、最後に、皆さんと一緒に「ふるさと」の 歌を、あの、「兎追いしかの山」のふるさとを、歌いた いと思います。これはやっぱり療養所で暮らす人たち が、とても好きな歌なので、いろんな集会でもよく歌 われています。 兎追ひしかの山小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて忘れがたき故郷 如何にいます父母つつがなしや友がき 雨に風につけても思ひいづる故郷 こころざしをはたしていつの日にかかえらん、 山はあをき故郷水は清き故郷 (「故郷(ふるさと)」作詞高野辰之、作曲岡野貞一) どうもありがとうございました。

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第20回連続講演会

冒険探検における環境教育について、

じっくり語り合おう

日 時:2008年11月4日(火)15

:

00∼20

:

00 場 所:東京学芸大学環境教育実践施設多目的室 参加者:40人 プログラム ■挨拶:木俣美樹男氏(東京学芸大学冒険探検部顧問) ■趣旨説明:藤野俊氏(東京学芸大学冒険探検部部長) ■講演Ⅰ:高野孝子氏(

NPO

法人

ECOPLUS

代表・ 早稲田大学准教授) ■講演Ⅱ:関野吉晴氏(グレートジャーニー探検家・ 医師) ■大学探検部の紹介 ■座談会 ■交流会 〈講師プロフィール〉 高野 孝子(たかのたかこ)氏

NPO

法人

ecoplus

代表理事、早稲田大学客員准教授、 英国エジンバラ大学博士号(環境・野外教育)、「オメ ガアワード2002」受賞。 新潟県在住。ジャパンタイムズ報道部記者を経てフ リーランス。1992、1994年と二つの教育団体を立ち上 げ、「人と自然と異文化」をテーマに体験を重視した、 地球規模の環境・野外教育プロジェクトの企画を運営。 犬ぞりとカヌーによる北極海横断やミクロネシアの孤 島での自らの活動を環境教育の素材とするプログラム を展開。2003年

NHK

「未来への航海」では、アジア7 カ国の子どもたち42名の環境教育プロジェクトを指導 し、2008年夏には日本・タイの学生対象の持続可能性教 育プログラムを指導。自身の活動歴には、グレートバ リアリーフでのサンゴ礁調査、北極点パラシュート降 下やマダガスカル島でのサバイバルレースなど、零下 50度からプラス60度の中での数多い遠征が含まれる。 近年はグリーンランドを舞台に気候変動に関する調査、 アラスカ、カナダの少数民族や英国の各種環境教育プ ログラムを題材に、土地と人とのつながりに注目した 研究活動を行う。「地域に根ざした教育」の重要性と 「農山村は学びの宝庫」を訴え、2007年より「

TAPPO

南魚沼やまとくらしの学校」事業を開始。 

〈講演1〉

高 野 孝 子 氏

NPO

法人

ECOPLUS

代表・ 早稲田大学准教授 皆さんこんにちは。高野孝子といいます。今回は冒 険探検活動と絡んだ自分史を話してほしいと、そして その中で環境といかに関わっていくかということを紹 介してほしいということでやってまいりました。40分 程使いましてお話しさせて頂きます。写真をたくさん 持ってきたのでそれを使いながら話を進めていこうと 思います。 みなさんに配られています今日のプラグラムを一枚 めくったところ、私と関野さんの略歴の後、現代英国 への遠征と書いた記事があります。それはだいぶ前に 書いたものなのですが探検部の方が今日は多いという ことを聞いておりましたので、探検の発祥の地でもあ るイギリスの学生たちがどんな事を言っているか、参 考にしていただければと思います。今日は、最初は自 分がどんな光景を見てきたかというところからお話し ていきたいと思います。 ■グリーンランドでの旅 この写真はグリーンランドです。氷河が浮かぶ中、 地元の漁師さんと一緒に狩りについて行ったときの写 真です。だいたい20代前半から約10年間、地球の中の いろいろなところを、いろいろなやり方で見るという機 会が私にはありました。これは見たとおりペンギンで す。南極で皇帝ペンギン、ペンギンの中でも一番大き な種類ですね。小学生1年生くらいの背の高さがあり ます。奥が南極大陸になっていて手前にペンギンがい ます。こういう光景の中、旅をしました。これも南氷 洋です。太陽がまさに沈もうとしているところです。こ のあとグリーンフラッシュというものを見ることができ たのです。太陽が地平線に沈む瞬間に緑の閃光がパッ と走る時があります。それはある一定の条件がすべて 折り重なった時にしか見られないということで、私と一 緒に行った科学者の人は10回くらい南極に来ているけ れども初めて見たと言っていました。とてもラッキーで した。南極を旅しながら、生態系のことを考えました。 皆さんの中で冒険・探検の定義はバラバラではないか

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と思うのですけど、この時私はいわゆるスポーツ的な 冒険として行ったのではなく、南極大陸の中で、陸か ら一番離れた所まで航海をするというプロジェクトに 加わって行ったのです。その旅を通して、人が人工的 に物資を全て持ち込まないと住むことができない、そ こにあるものだけでは暮らせない、そういうところを旅 しながら、特に生態系の繋がりというものがすごくよく 見えました。 ■マダガスカル島でのサバイバルレース これはアフリカのマダガスカル島なのですが レイ ドゴロワーズというレースに参加したときの写真です。 レイドゴロワーズって聞いたことある方いらっしゃいま すか?フランスで生まれた、いわゆるサバイバルレー スです。女性が1人以上を含む5人一組のチームで旅 をするのです。どのチームが一番早くゴールするかを 競うのですけども、スタートで集合するまで、そのマ ダガスカル島のどの地域で何をするかは知らされない のです。マダガスカル島というのはすごく大きな島で 砂漠もあれば熱帯雨林もあります。もちろん海も山も 川もあります。まずどのあたりなのだろうということを 推定して、かつどこにでも適応できるような装備を準 備しなくてはいけないし食糧も準備しなくてはいけな い。レースですからできるだけ軽く、テントなども持た ずにどうやって早く移動できるかを考えなくてはいけな い。事前の準備から全てレースの要素になっています。 行ってからは地図を読みながら、地点を区切りながら 行くのですけれども、私が行った時には、日陰で計っ ても気温が60度ぐらいまで上がるのです。これは主催 側にも想定外の暑さだったようです。地図の上でかな り大きな川を見つけて、そこで水を汲もうと思ってわざ わざ行くのですが、そこが干上がっていたりするので す。そういうすごい状況で旅をさせてもらいました。 初日からレスキューのヘリが上空を飛びまわって いるような状況です。いろいろなところからチームが

SOS

を出してレスキューされているのを見ながら、実 は私たちのチームも初日に熱中症になりかけた人が2 人出て、夜を越すのもやっとの思いでした。翌朝にヘ リに来てもらってレスキューしてもらいました。残りは 3人で旅を続けたのですが、チームとしてはもう失格 なので、できるところまで行こうということで行きまし た。その中の一コマがこれです。岩場を渡っていると ころです。こういうのも全く知らされないのです。どん なルートなのかは行ってからでないとわからないので、 自分たちが持つ全ての技術とノウハウを使ってやるわ けです。当然マダガスカル島がどんな気候でどんな地 形で何があるのかというのはできる限り研究して行く わけですけれども、やっぱり生まれて初めて行く場所 なのでチャレンジの連続です。それでもそれがレース の面白い要素です。本当にトップを争うチームは違う でしょうが、レースといっても、主催者側の狙いもこん なことでもなければ絶対に行かない場所を旅するチャ ンスというふうにとらえてほしいと言うし、私たちもそ のつもりでした。バオバブの木が森になっているよう なところを歩いたり、そこに竜巻がたったり、そうかと 思うと一変して恐竜が出てくるのではないかと思うよ うな岩場を延々と歩いたり、ときにはワニがいる川をカ ヌーで下ったり、最後はシーカヤックで行くといったよ うな旅をしました。夜は活動を止めなくてはいけない 時間があるのですが、あるとき、岩場でビバークをし ていたら突然雷雨になってしまったのです。本当にあ のときは目を覚ました時には生きていないかもしれない という思いでシュラフカバーの中にいました。 ■いろいろな民族との出会い・暮らし グリーンランドは未踏峰だらけです。でもグリーンラ ンドには人が住んでいて彼らにとってみたら、その山 の上に登るということは別に興味のないことなのです。 グリーンランドの人々は海岸線に住んでいます。そこ で一番食糧が取れるからです。グリーンランドの中央 部は全部氷で覆われていますから、そこにはせいぜい いるとしてもシロクマくらいで、人がちゃんと暮らし ていくには海岸線が一番いいわけです。氷がなくなっ た時には船やカヤックで漁に出たり、植物もいっぱい あるので採ってきて、油に漬け込んで保存食にしたり、 ベリーを採ったり、貝を獲ったりして暮らします。地球 上いろいろなところに行くと、それぞれいろいろな光 景があって生き方があって、子どもたちも日本のように 学校と塾と家を往復する子どももいれば、こんな風に 岩場で遊んでいる子どももいるのだなと行く度にそん なことを考えます。 これは魚です。手のひらくらいの魚で、これが入り 江いっぱいに流れ込んできます。それを網でどんどん すくって石の上で乾かしていく。たまには鳥が食べて いるし波がかかってしまうこともありますがお構いなし です。「鳥も生きなくてはいけないからね」なんて言い ながら生活しています。これはサメの肉を干している ところです。サメの肉は犬のエサになります。グリーン ランドでも特に東岸の人たちというのは犬ゾリを使い ます。「どうしてスノーモービルを使わないの?」と聞

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