• 検索結果がありません。

生活科教育の今日的役割-香川大学学術情報リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "生活科教育の今日的役割-香川大学学術情報リポジトリ"

Copied!
6
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

香川大学教育実践総合研究〔jJ.&jzjc.j?a.7;・a&.7〕a 「Qp.瓦昭αwa陥碩,15:71−76,2007

生活科教育の今日的役割

伊藤 裕康 (社会科敦育講座)

760-8522 高桧市幸町1−1 香川犬学教育学部

New

ROles of Life Environment

Studies in School Education :1)rTomorrow

Hiroyasu lto

Fa] 「印げ瓦&aljQ。,瓦,苓αwa a,jW。jむろ7-7j Sαjwal一油。,7izb。αazj 7邱-,Sj22

要 旨 学力低下論争では,生活科批判も展開された。そこで,現代社会の様相を踏まえ,

眼前の子ども達に必要な学力の検討をして,生活科敦育の今目的役割を考えた。生活科の方

向性は,産業社会からポストモダンの情報消費社会への転換という日本社会の変化に合致し

ていた。[学力の剥落現象]から生活科の意義を考えても,学ぶ「意昧」を感じさせ,学ぼ

うとする力と学ぶ力の啓培をめざす生活科教育の方向性は間違ってはいない。さらに情報

消費社会とか,知識社会,グローバル社会と言われる今日において,新たに求められる学力

をDeSeCoの成果を参考に考えると,知識を活用する学び,自己コントロール能力,コミュ

ニケーション能力,が求められる。これらは,生活科授栗で形成が図られるものである。

従って,生活科の「意昧」として,①知識活用の学びができること,②白己コントロール能

力の形成ができること,③コミュニケーション能力の形成ができること,の3点を挙げるこ

とができる。

キーワード 生活科教育 学ぶ「意味」知識活用の学び 自己コントロール能カ コミュ

      ニケーション能力

1 はじめに  ゆとり敦育が学力低下を招いたとの批判か ら,生活科もその批判の俎上にしばしば登 り,それに対する様々な反論もなされた。奈 須(2006)は,学力論を拡張しトータルに学力 を提える点から,生活科はバランスのとれた学 力形成に資することができると反論した。木村 (2005)も,生活科は全人的な学力観を実質の あるものにすると反論するとともに,今の子ど も達が抱える体験不足による「かかわりあい」 「関係性」「直接経験」の減少を回復する契機と なること,生活科の敦科特性から,よりよき生 活者をめざす教科であること,新人児童の「適 応」を促す敦科であること,「自分自身とのか かわり」体験ができることを生活科の存在意義 としてあげている。野田(2006)は,生活科で 養う学力の中核が自分自身への気づきであると した。北川・松本(2005)も,生活科でこそ「自 分」を中心とした問題解決の確立が保障される とした。藤井(2006)は,学力低下論争を通じ て,敦科の学力を向上させるには,子ども達の 自己コントロール能力やコミュニケーション能 力の形成が不可欠である事が明確となったと し,生活科がこれらの能力形成に資することが できると述べている。

(2)

 以上の生活科擁護論は,今の子どもの抱える 問題から生活科の意義を検討したもの,全人的 な学力論から生活科の意義差検討したもの,生 活科の敦科の特性から生活科の意義を検討した もの,学力論争の教育社会学的考察の知見を踏 まえて見えてきた子どもの問題から生活科の意 義を検討したものに分けられる。これらの生活 科擁護論には,現代社会の様相を検討して子ど も達に必要な学力を考察し,その上で生活科の 意義を論じるという視点が弱いと感じる。  嶋野(2006)は,生活科・総合学習に無関心 な敦員に「子どもの肇かな学びや成長の事実 を,生活科・総合学習の理念・原理・理論を持っ て,わかりやすく説いていくことができなけれ ばならない」し,そのことは「我田引水のこと ではな」く,「可能性のある未来に向かって生 きる子どものためである」と述べている。では, 子ども達はどんな可能性のある未来に向かうの であろうか。教育は時代と無縁ではない。今 我々が何処にいて,何処に行こうとしているの かという現代社会の様相を踏まえ,眼前の子ど も達に必要な学力の検討を抜きに生活科の意義 を説いても,思いこみに陥り,我田引水になる 可能性はないのであろうか1)。そこで,生活科 1 0 0 0   S C X I 2 0 0 1 拶 1 1 り0  ㈲ 6 0 4 □ 2 0 l o 1 9 5 5 1 9 6 0 1965 1970 1975 敦育の今日的役割を現代社会の動きと子どもの あらわれから考えてみる。

2 生活科の今日的役割

(1)現代社会と生活科教育  板倉(1998)は,戦後日本のGDPの変動を グラフ化し(図1),経済の法則的な増大から 1972年までの9.3%成長率時代,1972年∼1991 年の3.9%成長率時代,1991年以後の1.1%成長 率時代と時期区分した。氏のように長いスパン で戦後日本経済を見れば,バブル期も異常でな くこの区分に収まる。今後,この流れに逆らい 成長率が大幅に突出する時が来るとは考え難 い。  二階堂(2003)は,この3区分を①「ヨーロッ パやアメリカに追いつけ追いこせの時代」,② 「追いついて勢いあまってバブルになり,経済 大国といわれた時代」,③「バブルがはじけて 低成長の時代」と位置づけた。①は「大量生産・ 大量消費」が美徳であり,皆がアメリカ人並に 物を持ちたいと思った「大メーカーが支配して いた時代」である。②は大量生産しても物が 徐々に売れなくなり,うまく売れば売れる「販 1980 1985 1990 1995 2000年 図1.日本の(実質)国内生産(GDP)の変動(たのしい授業N0.200,1998)

(3)

売者が強い時代]である。③は供給する側が「こ ういうものを作ったんですが買ってもらえませ んか」と消費者に問いかける[消費者が主の時 代]である。氏は「大量生産・大量消費」時代 を見事に読み,後を読み誤ったダイエー,「消 費者が主の時代」を読み成功したセブンイレブ ンやクロネコヤマトから,時代を読む大切さを 指摘し,教育も時代の流れと共に変わると述ベ る。「大量生産・大量消費」時代は,「我慢して でも勉強して企業の枠組みに入ってしまえば, それにのっかっていけ」た。今は豊かで頑張っ て勉強しなくてもどうにかなり,学びの「意昧」 をみいだし難い。氏は,今を授業が楽しくなけ れば成立しない時代と捉えている。  二階堂の考えに千石保の若者論を重ねると具 昧深い。千石(1991)は,産業社会からポスト モダンの情報消費社会へのパラダイム転換が, 「まじめ」を拒否しコンサマトリー感覚で生き る若者をもたらしたという。価値観の転換が迫 られたのが1973年のオイルショックだという。 1973年,「追いついて勢いあまってバブルにな り,経済犬国といわれた時代」の始まりと符合 する。コンサマトリー感覚で生きる若者の出現 は,授業が楽しくなければ成立しない時代と軌 を一にする。千石(1997)は,自分で選び取る ことが他者の尊重や責任感や社会意識を目覚め させる点で,白分で好きなことを選び「好きな ことで輝く」若者に「まじめ」の崩壊後の曙光 を見ている。  生活科は子どもの思いや願いを大切にして, 学ぶ喜びに迫らせようとする教科である。生活 朴に朧れる教育思潮は,自分で好きなことを選 び輝く若者の在り方とマッチしている。子ども に選択させ「意味」ある学びを成立させ,学び の貴任を待たせようとする方向性は,日本社会 の変化に合致している。

(2)学ぶ「意味」と生活科教育

 生活科教育の方向性は日本社会の変化と合致

していた。だが,前述したようにゆとり教育が

学力低下を招いたとの批判から,生活科もその

批判の俎上に登っていた。

 まず求められる学力は時代により違うことを 確認したい。かって来た道に戻れないのは図1 から明らかである。学習内容を増やせば事が足 りるという単純なものではない。 20世紀中には 発明が不可能と言われた青色発光ダイオード 開発で有名な中村(2001)は,今の日本の敦 育を「『永遠のサラリーマン』を大量に養成す るための『洗脳敦育』]と酷評している。確か に産業社会時代には合った教育だったであろ う。だが,時は「大量生産・大量消費」の産業 社会からポストモダンの情報消費社会に移って いる。氏は「僕は本人の好きなこと,本人の夢 や素質を仲ばしてやるのが本当の教育だと思い ますよ。本人が喜びながら勉強できるしね,ス トレスもたまらないんじゃないですか。](中村 2001:50)と述べている。さらに「夢をのばす 教育が社会を変える」として「一香大切なのは, 小学校低学年ぐらいに子どもたちが何をやり たいかを見つけてやることです。」(中村2001 : 52)とも述べている。  学力を荒く分けると,学んだ力,学ぶ力,学 ぼうとする力,に分けられよう。間題にされが ちな学力は,主に測定学力としての学んだ力で ある。 PISAやTIMSSの調査桔果が判明した後 は,風潮もやや変わった感もするが,それでも 学ぼうとする力は看過されがちであると危惧し てしまう。また,メディアがセンセーショナル に学力低下を報道しただけで,従来のように世 界1・2を競うほどではないが,未だアメリカ やドイツ,フランス等より学力は上位であり, 人□規模も考慮すれば世界トップレベルあると の意見もある(中,2005)。本当に学力低下を 考えるなら,学ぼうとする力の低下を示す藤沢 市教育文化センターの調査(1965∼2000年に5 年ごとに中学校3生を対象に実施)こそ,注目 すべきである。同調査では,「もっと勉強をし たい」者が1965年の65,1%から調査毎に減り, 2000年は23.8%に落ちている。逆に,「勉強は もうしたくない」者が1965年の29.7%から増え 続け,2000年は46.9%にもなる。古来より学ぶ 意欲の大切さを表す言葉に「馬を川につれてい けても水を飲ますことはできない」がある。無

(4)

理矢理物事を教えても,必要なくなれば即座に 忘れてしまう。人は嫌なことは早く忘れて逃れ たいものである。かくて,大学受験時に一香学 習事項を覚えていて,人学後はさっぱり忘れる という「学力の剥落現象」が起きる。中(2005) は,世界各国でも実施した18歳以上69歳までを 対象とした「科学技術に関する意識調査」(2001) から,大人の低学力ぶりを紹介している。対象 とした日本の大人は,子どもの頃,間違いな く世界でも1・2を競う学力を誇った人たちで あった。それが,子どもの時下位にいたアメリ カやイギリス,イタリア,フランス,ドイツに 大人になると抜かれ,EU平均よりも下の14位 である。剥落する学力形成に励むことが学校教 育だとしたら,どんな「意味」があるのかヘ  筆者が中学校教師をしていた時,「なぜ歴史 を学ぶか」生徒に聞かれたことがある。人は「意 味」を感じない事をするのは苦痛であり,早く 逃れたいと思うものである。「意昧」を感じら れないから勉強となり,「学力の剥落現象」が 起きるのである。また,学ぶ「意昧」を感じ難 いから,学ぶ意欲が落ちるのである。日本は産 業社会から情報消費社会へ移った。欧米に追い つき追い越せの産業社会では,圃一化した大量 生産がめざされている。産業社会の敦育はチャ イムが鳴ると着席し,大人しく一斉授業を受け る様式が合っていた。欧米に追いついた情報消 費社会では,他と差異化した個性が求められ る。産業社会に対応したままの学校教育システ ムが変化に対応できず,生じたのが学級崩壊や 不登校であると言えなくもない。右肩上がりの 産業社会の子ども達と違い,頑張って勉強すれ ば後々役立つと思い難いからこそ,今の子ども 達は学ぶ「意昧」が感じられる教育を求めてい る。[意昧]が感じられれば,学ぶ意欲も出て くる。学ぼうとする力と学ぶ力の啓培をめざす 生活科教育の方向性は,問違ってはいない。

(3)現代社会で求められる学力と生活科教育

 前述したように求められる学力も社会変化と

共に変るはずである。だが,情報消費社会の他

にも知識社会とかグローバル社会と言われる今

日,求められる学力のコンセンサスは得られて いない。今日求められる学力を考える際,グ ローバル化社会で必要なキー・コンピテンシー を探ったOECD主導の「コンピテンシーの定義 と選択:その理論的・概念的基礎」プロジェク ト(以後DeSeCo)の成果が参考になろう。な ぜなら,DeSeCoは,国際的な協力の下,次の ようにグローバル化社会における学力を射程に 入れた考察がされているからである。   グローバリゼーションと近代化は,次第に  多様化し相互につながった世界を生み出して  いる。(中賂)個人はたとえば変化するテク  ノロジーをマスターしたり,犬量の利用可能  な情報を理解する必要がある。また個々人  は,環境の持続性と経済成長とのバランス  や,繁栄と社会的公正のバランスをとると  いったように社会としても集団的な挑戦に  直面している。(中略)個人がその目標を実  現するために必要なコンピテンシーはいっそ  う複雑化し,ある狭く定義された技能をマス  ターする以上のものを要求するようになって  きた(ドミニク・S・ライチェン/ローラ・H・  サルガニック2002:202)。  コンピテンシーは人間の知的能力で,仕事 上必要な具体的な知識や能力を指している。 DeSeCoは,キー・コンピテンシーのカテゴ リーとして,「相互作用的に道具を用いる」, 「異質な集団で交流する」,「自律的に活動する」 を提示した。「相互作用的に道具を用いる」コ ンピテンシーの内容には,「言語,シンボル, テクストを相互作用的に用いる」,「知識や情報 を相互作用的に用いる」,「技術を相互作用的に 用いる」が含まれている。「異質な集団で交流 する」コンピテンシーの内容には,[他人とい い関係を作る],「協力する。チームで働く」, 「争いを処理し,解決する」が含まれている。 「自律的に活動する」コンピテンシーの内容に は,「犬きな展望の中で活勤する」,「人生計圓 や個人的プロジェクトを設計し実行する」,「自 らの権利,利害,限界やニーズを表明する」が 含まれている。  「相互作用的に道具を用いる」は,昨今話題

(5)

となっている読解力育成の点から着目される。 巣住(2002 : 69)は,グローバル化社会を生き 抜くのに「知恵」が必要で,「『知恵』は『知識 を基に個人のもつ応用力・適応力を用いるこ とによって価値を創造する源泉となる』」と述 べている。価値を生む道具が知識との捉えは, 「相互作用的に道具を用いる」の内容「知識や 情報を相互作用的に用いる」に通底している。 今こそ知識活用の学びが求められる。翻って生 活科を考えると,生活科は「実生活に生きる知 識・技能を獲得することで,子どもを『よりよ き生活者として形成することがめざされてい る』」(木村2005 : 40)。つまり,「日常生活のな かに課題(興昧・関心の対象)を見つけ,その 課題を体験や活動を通して解決する(対象との かかわりを心ゆくまで堪能する)。そのプロセ スの中で,子どもたちは知識や技能の意昧を実 感をもって理解する。そこで獲得された知識や 技能は,再び自分の実生活へ取り込まれ,さら なる次の学習や日時用の活動へと活かされる。」 (木村2005:40)のである。正しく,生活科授業 では知識活用の学びが行われている。  藤井が生活科で形成を図るとした自己コント ロール能力とコミュニケーション能力は,知識 社会の到来を予見したドラッカーが知識社会で 必要とした白己マネジメント能力と通底してい ゐ。さらにDeSeCoの「自律的に活動する」 ことや「異質な集団で交流する」とも通底して いる。「白律的に活動する」コンピテンシーの 内容である[大きな展望の中で活動する],「人 生計圃や個人的プロジェクトを設計し実行す る」,「自らの権利,利害,限界やニーズを表明 する」は,自己コントロール能力と関わるもの である。また,「異質な集団で交流する」コン ピテンシーの内容である「他人といい関係を作 る」,「協力する。チームで働く」,「争いを処理 し,解決する」ためには,コミュニケーション 能力が必要である。

4 終わりに一生活科の「意味」−

生活科の「意昧」として,①知識活用の学び

ができること,②白己コントロール能力の形成 ができること,③コミュニケーション能力の形 成ができること,の3点が挙げられる。②の自 己コントロール能力の形成に関わって若干付言 する。この能力は,千石の自分で好きなことを 選びとって真摯に取り組み輝く若者像や,中村 の小学校低学年ぐらいで何をやりたいかを見つ けることと,重なるものである。つまり,「自 己コントロール能力とは,未来の価値ある目標 と現在やるべき行動とをつなげて捉え,その過 程を確実性のあるものに作り上げていこうとす る意欲に基づく。通時的な連続性の中で,発 展的な自分の存在を位置づけている意識に基 づく。」(藤#2006 : 37)ものなのである。自分 で好きなこと,やりたいことを選びとるから, 「未来の価値ある目標と現在やるべき行勤とを つなげて提え,その過程を確実性のあるものに 作り上げていこうとする意欲」もわき,真摯な 取り組みができ,生き生きと輝くことができ る。学ぶ「意昧」も分かって来る。さらに真 摯な取り組みの中で,獲得した知識が恬用され たり,不足していた知識が新たに獲得されて活 用されたりもして,①知識活用の学びができる のである。当然,真摯な取り組みの中では,ク ラスの伸間との真剣なやりとりがあり,③コ ミュニケーション能力の形成がなされるのであ る。そして,このような学びの姿が,子どもの 思いを大切にする生活科の授業ではしばしば見 られるのである。        註 1)この他に生活科擁護論には他教科の関係者か  ら,我田引水ととられかねないものもある。例え  ば,木村(2005:42)は,生活科が他教科と違って  「『たった一つの正しい応え』などあり得ないから」  「子どもが発表するのに『間違う』心配はない敦科・  時間」とし,生活科の意義として表現力の仲張を  あげている。だが,現代社会の諸事象を扱う社会  科でも,本来「『たった一つの正しい応え』などあ  り得ない」はずなのである。同様に,木村(2005:  41)「これまでの各教科の学習が,実際には,絹切  れの知識獲得に終始し,その先にある『一人の人

(6)

問として社会の中で生きること』の問題につなが   一前人的な学力観を前提にしてー」,せいかつ&そ らなかった」と述べている。ところが,社会科で   うごう第↓2号,36 −43 は,生き様とか生き方を学ぶとかいうテーマで地  嶋野道弘(2006)目日弊にとらわれず,旧態に安住せ 道に「一人の人間として社会の中で生きること」  ず,進取に境地を開く」,せいかつ&そうごう第13 の問題に関わる実践研究を深めてきた経緯がある。   号,4−7 低学年の社会科と理科を廃止して成立した生活科  ドミニク・S・ライチェン/ローラ・H・サルガニッ だけに両敦科の関係者が納得できる擁護論を展   ク編著(2006)『キー・コンピテンシー』,明石書店, 開しなければ,たとえ「可能性のある未来に向かっ   248p. て生きる子どものためである」としても,我田引  中一夫(2005)『学力低下の真相』板倉研究室,  水の誹りは免れないであろう。 2)有馬朗人も,日本が1970年の算数と理科のテス  トで20カ国中1番だったのが,1991年OECD実施の  35歳を中心にした科学の基礎知識を問うテストで,  20カ国中19位であり,日本の教育の大きな問題点  として指摘している(http://www.manabinoba. .com/)。        文 献 板倉聖宣(1998)「日本の経済成長率の変動」,たの  しい授業N0.200,仮説社,128 − 136 負住忠久(2002)「『グローバル・カリキュラム』の  特性(2)」,総合学習15,黎明書房,66−69 北川由美・松本謙一(2005)「古くて新しい価値:常  に『白分』を中核に据えた学び一大切にしたい「白  分の問題をつかむプロセス」−」,せいかつ&そう  ごう第12号,52 − 59 木村吉彦(2005)「生活科・総合的な学習の存在意義  118p. 中村修二(2001)「『永遠のサラリーマン』を大量に  養成するための『洗脳教育』」,総合教育技術56−5,  49 奈須正裕(2006)「豊かな学力の防衛」,せいかつ&  そうごう第13号,16−23 二階堂泰全(2003)『仮説実験授業の時代』,岩国仮  説の会,34 − 46 野田敦敬(2006)「次期学習指導要頷改訂に向けての  1提案∼自分自身への気付きを生活科で養う学力  の中核に∼」,せいかつ&そうごう第13号,46 − 31 千石保(1991)『「まじめ」の崩壊 平成日本の若者達』,  サイマル出販会, 千石保(1997)『「モラル」の復権 情報消費社会の  若者達』,サイマル出販会, 藤井千春(2006)「子どもたちに自己コントロール能  力とコミュニケーション能力を形成することの必  要性」,せいかつ&そうごう第13号,32 − 39

参照

関連したドキュメント

これらの定義でも分かるように, Impairment に関しては解剖学的または生理学的な異常 としてほぼ続一されているが, disability と

これはつまり十進法ではなく、一進法を用いて自然数を表記するということである。とは いえ数が大きくなると見にくくなるので、.. 0, 1,

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

であり、 今日 までの日 本の 民族精神 の形 成におい て大

静岡大学 静岡キャンパス 静岡大学 浜松キャンパス 静岡県立大学 静岡県立大学短期大学部 東海大学 清水キャンパス

一貫教育ならではの ビッグブラ ザーシステム 。大学生が学生 コーチとして高等部や中学部の

17‑4‑672  (香法 ' 9 8 ).. 例えば︑塾は教育︑ という性格のものではなく︑ )ット ~,..

学側からより、たくさんの情報 提供してほしいなあと感じて います。講議 まま に関して、うるさ すぎる学生、講議 まま