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大坂鰯屋近江屋市兵衛の経営(1) 利用統計を見る

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(1)

大坂鰯屋近江屋市兵衛の経営(1)

著者

白川部 達夫

著者別名

SHIRAKAWABE TATSUO

雑誌名

東洋大学文学部紀要. 史学科篇

39

ページ

51-76

発行年

2013

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00006631/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

近江屋市兵衛の本家近江屋長兵衛家は、寛政期に干鰯屋仲間に加入したものであったが、その後、急速に成長して文 ︵3︶ 政期には仲間年番を勤めるようになっている。市兵衛家はその分家である。近江屋市兵衛の名前は、文政六年︵一八二三︶ の干鰯屋仲間の連名には見えず、天保二年︵一八三二の連名に初めてあらわれるので、この間に分家して仲間に加入 ︵4︶ したと考えられる。同家文書は文政二年︵一八二八︶から残っているが、開業間もない頃の帳簿があると見てよい。 大坂干鰯屋仲間はこの頃、二つに分かれていたが、近江屋市兵衛の属したのは本家と同じ、問屋業務を中心とした古 組︵問屋組︶であった。これにたいして仲買を中心とした本組があったが、大坂干鯛屋は、古来仲買と問屋の区別がな く、同じ干鰯屋でもその時々両方兼ねることが普通であった。したがって問屋組といっても問屋業務だけをするのでは ︵2︶ らかにするものである。 大坂干鰯屋の研究は、仲間や流通構造の検討はあるものの、経営についての分析は、史料の欠如からほとんど行われ ︵1︶ てこなかった。本稿では、これまで知られなかった大坂干鯛屋近江屋市兵衛家の帳簿を分析して、その経営の一端を明 はじめに

大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営︵二

大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営︵二

白川部達夫

五 一

(3)

︵5︶ なく、仲買も兼ねていた。近江屋市兵衛は、天保八年︵一八三七︶四月には、戦干鰯屋年行司の一員となっている。こ れは問屋組・本組両組の年番とは別で、叙の干鯛屋の代表として、塩魚問屋へ一札を出したものである。この頃には、 仲間のなかでも一定の地位にいたと考えられる。 ここでは近江屋市兵衛家の帳簿により、その経営の状況を検討することにするが、近江屋市兵衛家は、当主が天保末 ︵6︶ 年になくなり、残された姉弟は、本家長兵衛家に引き取られ養育されることになった。弘化四年︵一八四七︶の仲間連 ︵7︶ 名では、近江屋市蔵として名前と印鑑があるが、これは名義上のことである。市蔵が実際に商売を再開するのは安政二 年︵一八五五︶で、天保末年から安政二年に商売を中断した時期があった。このためここではまず、前段の文政・天保 期から分析を行うことにした。 近江屋市兵衛家文書には、文政末から天保二年︵一八三二までではあるが﹁干鰯買日記﹂と題する帳面があり、こ れにより大坂干鰯屋の魚肥仕入れの様相をうかがうことができる。表1にその状況を示した。文政一二年︵一八二九︶ の帳簿は日付がわかるものは八月頃からで、後半の記録しか残っていない。このため全体がわかるのは、天保元年 ︵一八三○︶、同二年の二カ年分である。 仕入れの総額は、文政一二年︵一八二九︶で一九九貫余、天保元年︵一八三○︶七五一貫余、同二年︵一八三一︶ 八二五貫余である。文政一二年は後半だけの銀額であるので、通常は七、八○○貫目程度の扱い高だったことが想像さ れる。開業数年でこれだけの仕入れ高を記録したのは、本家近江長兵衛家の信用もあってのことであろう。

一文政・天保期の仕入れ状況

五 二

(4)

表 1 文 政 ・ 天 保 期 の 仕 入 れ 状 況 干鰯 〆粕 緋粕 羽 緋 鱒粕 数子 そ の 他 2 9 2 5 8 6 , 5 4 4 6 0 3 1 6 5 2 1 6601 172 ll6,857 58,725 68,876 7,921 4,841 3,090 18,671 37,895 35,360 4,440 2,114 l,288 10,271 大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営︵二 干 鰯 屋 2 7 0 5 2 1 50 〆粕 緋 粕 羽 緋 鱒粕 数子 玉粕 そ の 他 1,552 10,157 2,669 18,307 52,746 44,235 10,033 l9,940 l,780 87,550 86,407 18,798 48,319 4,239 松 前 組 2,053 1,933 12,518 4,875 4,697 18,276 5,86611,567 2 l,269 114 49,493 28,474 28,552 4,636 3,693 437 12 32,119 7,505 7,296 2,794 222 92,830 60,891 26,516 ll,382 5,949 792 463 60,266 15,188 9,195 干鰯 〆粕 緋粕 羽 緋 鱒粕 玉粕 そ の 他 6519 31,047 36,744 15,384 l,762 40,245 20,481 7,622 l,184 16,949 大 坂 周 辺 (兵庫・泉州 紀州) 2 7 1 5 4 6 5,82711,372 干 鯛 〆粕 緋粕 羽 緋 鱒粕 白子 数子 そ の 他 4,090 2,142 l,653 44 376 60,036 15,440 1,306 52 217 35 648 956 35,108 8,383 764 23 26 不明 553 797 321 1,388 1,730 732 73,284 1,677 147,687 271,758 149,690 68,649 84,074 355 1,026 906 1,346 12,221 981 267 146,451 71,572 53,598 33,713 干鰯 〆粕 緋粕 羽緋 鱒粕 白子 数子 玉粕 そ の 他 148,280 243,055 186,107 29,786 93,455 14909 26 8507 95 141,306 5,332 19,960 546 6,264 l,730 5,951 18,276 13164 172 2,516 ll,112 271 2,606 797 2,524 12,518 146,229 95,600 l6,421 39,025 小 計 3,4228,235 5022,99042,955 l9,238 3,693 3,190 90,327 5,949 7,132 825,267 189 五 出典:東洋大学井上円了記念博物館所管:近江屋市兵衛家文書、6,12番。買主の所属は、江戸 問屋は原直史『日本近世の地域と流通」(山川出版社、1996年)、大坂は国文学研究資料館所管・ 祭魚洞文庫・大阪干鰯商仲間記録、27,29,31,36,42番、泉州は石井寛治・中西聡編「産業 化と商家経営」(名古屋大学出版会、2006年)などによる。また史料中の両記載は、当該年度の 大坂の両替相場で、銀へ換算した。基準は岩橋勝「近世米価・貨幣相場一覧」(「日本歴史大辞典」 4,小学館、2001年)にしたがった。

(5)

これによれば、江戸干鰯問屋からの干鰯仕入れは、俵数にすると一万俵程度あったものの代銀額の比重で見ると、す でに相当入荷が低下していたといえる。大坂干鰯屋からの仕入れは、干鰯屋仲間が永代浜の競り、ないし相対取り引き で相互に魚肥を取り引きしたものである。近江屋は江戸干鰯問屋から仕入れた魚肥︵この場合、干鯛︶をここで販売す るいつぽう、その市場から魚肥を買い入れているわけであるが、天保二年︵一八三二については、いわゆる叙の島市 場︵永代浜とその周辺の干鰯屋店のある地域︶への近江屋の仕入れの依存率は四分一を切っていたことになる。前年で は、江戸干鯛問屋からの干鰯の買い付けがなかったので、大坂干鰯屋から仕入れる量が多く三七パーセントとなってい るが、全体としては減少していたと見てよいであろう。大坂干鰯屋は当時、問屋組と本組に分かれていたが、文政九年 ︵一八二六︶に問屋組の干鰯屋の雇用・相続問題から両組が対立し、文政二年︵一八二八︶にようやく和解するとい う事件が起きている。ささいな問題が両組の紛糾に発展した底流には、このように戦市場が全体として低迷していると いうことがあったと考えられる。 数値となるであろう。 松前問屋や大坂周辺からの仕入れは、天保元、二年ともにほぼ半分の比重を占めている。松前問屋は、大坂で松前の 産物を扱った問屋である。大坂干鰯屋が靭の島とその隣接の定まった地域に店を持たなければならないとされていたの ︵8︶ にたいし、松前問屋は戦の島以外にも住居するものもおり、取り引きはそれぞれの問屋において入札で行われた。した の数値がやや高いが、半分ほどは大坂干鰯屋の範囲に収まるのではと見られる。したがって大坂干鰯屋はもう少し高い ている。不明は一七名中、九名が大坂干鯛屋に見られる屋号のものであるので、その関係者である可能性は高い。不明 セント、松前問屋から二五・二パーセント、大坂湾岸地域などから二四・一パーセント、不明一九・三パーセントとなっ 仕入れ先は、天保二年︵一八三二について見ると江戸干鰯問屋から九・七パーセント、大坂干鰯屋からが一二・七パー 五四

(6)

干鰯は文政一二年︵一八二九︶と天保二年︵一八三一︶は、江戸の干鯛問屋から仕入れている。文政一二年︵一八二九︶ ︵Ⅱ︶ 買日記の記載を示すとつぎのようである。 和泉屋三郎兵衛殿 取り扱い品目は、干鰯・〆粕と緋粕・羽緋・鱒粕などの蝦夷地産品が中心である。干鯛・〆粕の仕入れでは、文 政一二年︵一八二九︶には、合計銀高の七○・八パーセントを干鯛が占めたが、天保元年︵一八三○︶には、干鰯が 一九・七パーセント、〆粕が三二・三パーセントで、干鰯・〆粕で五二パーセントと半分を超えた。この点は天保二年 ︵一八三二でも同じで、干鰯一七・九パーセント、〆粕三二・九パーセントとなっている。ただ天保元、二年の〆粕は、 松前問屋組が扱った蝦夷地産や東北産の干鯛・〆粕が三分一程度を占めているので注意する必要がある。 緋粕・羽緋・樽粕など蝦夷地産魚肥は残りを占めているので、こちらも全体では、天保元年以降は、干鯛・〆粕とほ ぼ相半ばする比重となった。天保元年︵一八三○︶について見ると、緋粕が二四・八パーセント、羽緋四パーセント、 鱒粕一二・四パーセントで合計四一・二パーセントとなる。 以下、品目ごとに簡単な検討を行うことにする。 や東北産魚肥の入荷が多くなり、松前問屋からの仕入れが増加していく傾向にあったのである。また大坂周辺からの仕 がって松前問屋の取り扱い魚肥は、永代浜の市場の競りにはかからないものであった。北前船の発展とともに、松前産 ︵9︶ 入れでも、兵庫・尼崎や泉州諸港湾都市から蝦夷地や東北産の魚肥を買い入れていることが多かった。本家近江屋長兵 ︵、︶ 衛などは積極的に松前産の仕入れに乗り出して成功したといわれるが、近江屋市兵衛の場合も、同様な方向性をもって いたといえる。 a干鰯 大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営︵二 五五

(7)

〆弐百六拾俵 津の国や松之助船 出〆四拾五両壱分ト六匁九分

又壱両ト十弐匁六り口銭

〆四拾六両弐分ト四匁九分六り 和泉屋三郎兵衛は江戸干鰯問屋で銚子場組に属したものであった。﹁六俵八分﹂とあるのは、干鰯の価格で金一両当た り六俵八分の価格ということになる。﹁[干鯛網印省略]拾三俵﹂が購入した干鯛の俵数、﹁壱両三分ト九匁五り﹂がそ の代金である。こうした両立ての計算は関東の計算方式で、近江屋市兵衛の帳簿では江戸問屋との取り引きにだけ使用 同 [干鯛網印省略]拾壱俵 六俵 [干鰯網印省略]十三俵 六俵八分 [干鰯網印省略]拾三俵 ︵中略︶ 同 [干鰯網印省略]廿五俵 〆四十九俵 壱両三分ト九匁五り 八両ト九匁三分三り 五六

(8)

されていた。この計算方式の場合、江戸で干鰯を販売した時点で、江戸問屋の利益は確定しており、為替リスクは、大 坂干鰯屋が負うことになる。つぎに﹁〆弐百六拾俵﹂がひとまとまりで﹁津の国や松之助船﹂で大坂に届けられたこと を示す。だいたい二○○俵前後がまとめられて船で送られてきた。魚肥は、船底にバラストとして積まれたといわれる が、それに適当な規模に分けられていたのであろう。文政二年︵一八二八︶の﹁関東買附帳﹂では兵庫の柴久︵柴屋 ︵胆︶ 久左衛門︶へ着船することもあった。﹁出〆四拾五両壱分ト六匁九分﹂が二六○俵の代金で、これに口銭が加えられて、 最後が支払金額となる。口銭は支払額の二・六パーセントとなっている。江戸問屋側に支払われているので、荷物は近 江屋市兵衛が注文を出して買付けた荷物と考えられる。別に江戸問屋が大坂干鯛屋へ販売を委託する送り荷もあるが、 買日記には記載があらわれないようである。この点、文政二年︵一八二八︶の﹁関東買附帳﹂を検討しておこう。﹁関 ︵画︶ 束買附帳﹂の記載様式は、つぎのようである。 ② ① 五俵七分

[網印省略]九俵三三

岩船寒引薄赤中越長中羽飛吟 正月十二日 大坂干鯛屋近江屋市兵衛の経営︵二 小川市兵衛殿 西宮重次郎殿 手前分也 五七

(9)

表 2 江 戸 干 鰯 問 屋 か ら の 仕 入 れ 天 保 2 年 1代銀(匁) 4121i 31,862 556i4,223 741!7,595 68314,741 3129121,379 所 属 組 合 屋 号 ・ 名 前 俵 西 宮 十 次 郎 渡 辺 熊 治 郎 秋 田 富 之 助 栖 原 三 九 郎 小 川 市 兵 衛 19,610 24,260 2033 2538 銚 子 場 組 多田屋又兵衛 和 泉 屋 三 郎 兵 衛 栖原久治郎 湯浅屋与右衛門 3,912 2,890 534 260 元 場 組 621 514 6,116 3-719 合 計 10365 79.635 出典:表lに│司じ 御自分物也 ③ 多田屋又兵衛殿 かせ屋治郎吉殿分 これは、干鰯記録の冒頭の部分であるが、①は手前分とあるので、近江屋が注 文した荷物であろう。一両当たりの価格・数量・産地品質が書かれているが、 直接代金額は書いてはいない。②は御自分物とあったり、御手前ものと書い たりしているが、江戸干鰯問屋が送りつけた送り荷と考えられる。③は江戸 干鯛問屋のものではなく、﹁かせ屋治郎吉﹂の荷物ということであろうか。文 政二年︵一八二八︶では、①手前分五四九八俵、②の御自分物︵御手前分︶ 一五四八俵、③の某殿分が七二○七俵で、外に記載なし五○○俵があった。③ は、かせ屋治郎吉、伊勢屋惣兵衛、田中平次郎、徳山甚兵衛などの名前がある が、伊勢屋惣兵衛が銚子場組の干鰯問屋である以外は、いずれも所在がはっき ︵脚︶ りしない。伊勢屋は近江屋と直接取引がなかったのか、同組の水戸屋次郎右衛 門を通じて干鯛を送っている。他のものは江戸商人には名前がみえず、紀州な どの商人が江戸干鯛問屋から購入して、大坂へ運ばせた可能性もあろう。 江戸の干鰯問屋は表2に示したように、文政一二年︵一八二九︶では、銚子 場組の渡辺熊次郎、西宮十次郎と元場組の多田屋又兵衛、和泉屋三郎兵衛となっ 五八

(10)

〆粕は、鰯〆粕だけをあげている。〆粕は江戸干鰯問屋からのものはなく、大坂干鰯屋か松前問屋組、大坂周辺の問 屋からの仕入れとなっている。干鰯が俵の取り引きだったのにたいして、〆粕は重量で計算することが普通で、比較は いつぼう大坂干鯛屋以外からは、紀州塩津︵現海南市︶の米屋八九郎から三月に六二三○俵の買付を行っている。米 屋は、関東物の外に三河・伊勢から干鰯を集荷していたようで、三河もの三五八○俵、伊勢もの二一五七俵を近江屋へ 販売していた。 近江屋は江戸問屋から干鰯を仕入れるいつぼうで、大坂干鰯屋や周辺の地域から干鰯を購入していた。その点につ いて、天保元年︵一八三○︶を例に見ると、大坂では近江屋が属していた問屋組からは、四八二七俵、本組からは 一七七四俵を仕入れている。江戸買い付けがなかった分、買い付け量が増えている。買った相手は、問屋組では本家に あたる近江屋長兵衛が半分近い二○七四俵、佃屋五兵衛が五○○俵となり、以下稲葉屋栄蔵・南部屋清右衛門・北国屋 九郎兵衛などが三○○俵台となっている。本組では、和泉屋清兵衛から二二九俵、平野屋武兵衛四六四俵で、残りは 場組では栖原久治郎、湯浅屋与兵衛であった。両年とも銚子場組との取り引きが中心となっていた。 ている。また天保二年︵一八三二では、銚子場組では西宮・渡辺に加えて秋田富之助、栖原三九郎、小川市兵衛、元 天保元年︵一八三○︶の場合は、江戸干鰯問屋との取り引き記事がない。文政一二年、天保二年度の買日記では、江 戸問屋との取り引きは一カ所にまとめて記録されているので、別の帳面になっている可能性もある。しかし天保元年 ︵一八三○︶の干鰯購入量は、天保二年とほぼ同じであるので、この上、近江屋が干鰯を江戸問屋から購入する必要は なかったようにも思われる。 一○○俵以下であった。

b〆粕

大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営︵二 五九

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近江屋市兵衛店の魚肥販売については、文政二年︵一八二八︶は五月からの半年分であるものの、翌一二年から天 ︵Ⅳ︶ 保二年︵一八四○︶までの内、六年間は通年の取り引き状況がわかる。買日記と重なるのは文政二年の半年分だけ 出店があり、魚肥を調達して国許に送っていた。この買い付け記録では、文化期と文政期の間に、干鯛から〆粕への転 た。大坂周辺の地域でもほぼ同じで、関東物は飯貝根粕一○○俵があるだけであった。阿波の大藍師三木家は、江戸に 能代などの鰯粕を買い付けている。主として北前船のもたらす蝦夷地・東北産の鰯粕で関東の〆粕は扱われていなかっ ものから佐伯粕、鰯粕、松前鰯粕、南部粕、八戸粕などを購入している。また松前問屋から南部・青森・八戸・松前・ できないが、金額的には干鰯より多い額となっている。天保元年︵一八三○︶の場合を見ると、大坂干鰯屋では本組の ︵鴫︶ 換が見られた。近江屋の場合は、天保期の間に転換が見られるが、その内容は江戸干鰯問屋からの買い付けではなく、 松前問屋組などの蝦夷地や東北産〆粕への転換が中心となった。 C緋粕・羽緋など蝦夷地産魚肥 緋粕・羽緋など蝦夷地産魚肥は、松前問屋の取り扱いであるが、大坂干鰯屋は独自に現地や各地から購入することも ︵肥︶ できた。したがって両者からの仕入れが行われた。また大坂周辺では、兵庫が集荷地になっており、同地の問屋を通じ て近江屋に販売された。松前問屋は天保元年︵一八三○︶では、伊丹屋四郎兵衛・昆布屋伊兵衛・薩摩屋喜六・嶋屋源 兵衛・飴屋又兵衛・昆布屋清三郎などの名前があがっている。また兵庫では上田屋権兵衛・和泉屋いさ・柴屋嘉助など があった。大坂干鰯屋では、問屋組での蝦夷地産魚肥の購入はほとんどなく、基本は本組からの購入であった。

二文政・天保期の販売状況

六○

(12)

大坂干鯛屋本組の虎屋政右衛門に魚肥を販売した記事である。他の魚肥の場合、鰯粕とか緋粕といった品目の記載があ るが、干鰯の場合、網印が記録されるだけでとくに記載がないので、たんに網印だけを記載しているものは干鯛として 計算している。また粕類は重量で計算されるが、干鯛は﹁八匁五分がへ﹂と一俵当たりの単価が示されて、計算されて で、比較がむずかしいが、それでも幕府の天保改革直前の状況がうかがえる貴重な史料といえる。まず記載様式から紹 ︵鳩︶ 介しよう。文政一二年の﹁干鰯売日記﹂の冒頭はつぎのようになっている。 引〆八百五十八匁壱厘 代〆八百八十九匁八分 内三十壱匁七分九り 内引 八匁五分がへ 内壱匁引 代五百拾六匁四分 虎屋政右衛門殿 五月廿七付出し [網印省略] [網印省略] [網印省略] 〆六十一 ︵中略︶ 大坂干鯛屋近江屋市兵衛の経営︵三 一 俵 拾 弐 弐 九 拾 拾 俵 壱 壱 俵 俵 五 引 一ハー

(13)

表3は、近江屋市兵衛の魚肥販売の推移を示したものである。総額の推移についてみると文政二年︵一八二八︶は 半年分なので除くとして、文政一二年︵一八二九︶は銀五一九貫目、天保三年︵一八三二︶は銀四六三貫目、天保六年 ︵一八三五︶は四五六貫目となり、その後、天保後半は銀三○○貫目台となっている。天保後半に低迷した事情はわか らないが、最大の取り引きをしていた大坂干鰯屋の記事がなくなったことが大きく、記載上の問題であった可能性があ る。このことは後でふれることにする。 表3では、干鰯・〆粕︵鰯粕に限った︶・緋鱒についての動向を示している。全体の比重についてみると、干鰯から 〆粕への移行が進むのと、同時並行しながら緋・鱒などの蝦夷地産魚肥の優位が確立していった過程を読み取ることが たようである。干鰯以外の鰯〆粕・緋粕など粕類の取り引きは重量×単価で行われ、さまざまな引き分があった。 引﹂などという記載があったり、引き分のないこともあるので、何らかのことがあって引いた分で、一定はしていなかっ まとめとして、代銀合計が示され、その内、﹁三五引﹂として三・五パーセントを引いて、代銀が算出されている。﹁二五 る。その後、帳簿の様式が替わり、引き分は外引き方式になるので、計算はあうようになる。こうした個別の取り引き が、記載のない場合も引いているようで、取り引きのかなりの分が、単価×数量の計算があっていないという特徴があ 天保三年頃までは、こうした内引きの習慣があり、わずかであるが計算があわない。内引きと記載があれば判断できる のは、内引きとして引かれているためである。この場合、一匁五分と一匁の二回内引きが行われたことになっている。 じて算出されたのが﹁代五百拾六匁四分﹂であるが、これは本来は五一八匁五分でなければならない。二匁五分少ない その原因は、俵の重量にある場合があり、帳面にも大俵、小俵の記述があることがある。俵数に一俵当たりの価格を乗 いる。重量記載がないので、干鰯の実際の価格は当事者しかわからない。干鰯の一俵当たりの価格は相当に差があるが、 a販売品目の推移 一ハーー

(14)

I │

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卑濫

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表4は近江屋の販売先について示したものである。大きくは大坂、大阪周辺、紀州、阿波、伊賀、近江、その他不明 と販売地区別に分けた。売日記には明確に購入者の居所を書いていることは少ないので、多い年は一五パーセントほど の不明者が出たが、だいたいの傾向を見ることには差し支えないであろう。 まず大坂は、総額で文政期は四○パーセント程度を占めていたが、天保期に入ると比重が低下していく。これは文政 期まで記載のある大坂干鯛屋︵問屋組・本組︶への販売が、天保三年︵一八三二︶を最後になくなることが大きい要件 ︵四︶ となっている。買い付けでは、天保九年︵一八三八︶、天保二年︵一八四○︶に﹁浜請取﹂帳がある。これによれば 近江屋は永代浜で買い付けを行っており、なかには大坂干鰯屋からの買い付け記事もある。したがって戦の島市場の取 緋・鱒は、緋粕・鱒粕など蝦夷地産魚肥である。文政一二年︵一八二九︶には三○パーセント弱であるが、次第に増 加して、多い年には七○パーセントに近くまでになった。文政期には鱒粕も比重が高かったが、やがて低下して、羽緋 に替わっていったことがわかる。 粕への転換が進んだといえる。 緋・鱒は、緋粕・鱒粕など梱 と細かな産地名があるものもある。表記のある場合は、その地区ごとに整理した。〆粕は天保三年︵一八三二︶から干 〆粕は、鰯〆粕だけを数えている。鰯粕としか表記のないものも多いが、なかには九十中羽粕︵九十九里浜産︶など 心であったと考えられる。表にあらわれる限りでは、文政一二年︵一八二九︶をピークに減少していった。 干鰯については、ほとんどが産地を示さない形で記載されている。その内容は、関東や蝦夷地や日本海産のものが中 鰯より優位に立っていることがわかる。この傾向は天保二年︵一八四○︶まで同じであるので、この頃に干鰯から〆 できる。 b販売先の動向 六四

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大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営︵二 肖芦 壷漉 冨蔑 率四一・一グー ﹄③。C①﹃ 岸函四国 いや四四③ 岸⑤いい いい﹂祭司 画﹃や⑳﹃﹄ いの今③四四 ③つゃつ、④ 画つい画一 ﹄骨や。、函画 、。画④③ 争司・画﹃﹂ ー m e ー [ ● 吟 。 I t C m O I D●■● 、 つ 。 1 へ ] 、、”画切一 句、PC四 mいつついつ いつ割の﹄ 四つ印も画切司 四函令今いい ]の岸⑰つ④ 今、,四m四 ︽︽,凶昌函 四℃。、 函。﹃ ﹃。︽ い﹂,﹄ ]囚︲画 ④﹃つ 吟いつ今﹂画 ﹄いつ﹄、③ 画、④四四m ﹄つ﹂ 画いつ ﹄﹂、oい]い ゃっ函﹄﹂ ﹄いつ。吟、⑤ 画@つつかつ ︽﹄いい ﹃α,四つ画 令函,い﹄つ 画の。つ ﹂の。、 ④。↑ 四m。﹄ 、,吟 昌幸,の 四m今い④函 四四四つ四今③ @つ寺のつ④ 骨つっ③画⑤ ]o]。いい⑪ 画ついい、 いつ、﹂﹃ ﹂、参四℃﹂ 画﹄っ、﹃画 今唾ぐ唾﹄の 図画。画 c・祭 司。四 m﹄,﹄ ④,、 いのっ心﹂つ 四戸函切画 ﹄畳屋切岸画 四四や⑪↑④ 函司・画画] ⑳いつ司切つ ④⑤,、︽、 畠③っ司司や 劃や。﹃③。 ②,つ画や い﹂。い い③。﹂ ﹄つ。や ﹂画,つ へ J [ 。 、● 《 C つ 令司寺︽﹂心 画戸函いい ③④。画、﹄ ﹃画切函四 ﹂函。司函吟 晨埠つ。@m﹄ 会③.﹃﹂﹂ 昌四,一四畳 函司・函@画 Cつ。の﹂、 ﹂④。③ 四戸今 い︽・﹃ 函,の ﹂四。画 ﹃・函 六五 淵弟屋補 ﹄つ③寺つい、 ]画・今つ﹄ ]]、o令四m ①③。四℃﹁ ﹂③﹄令切 ﹂④。函か、 四mm。①Cの 四四・四 四画。い ﹄函。司 画,の ﹂四。函や、 吟・函切函 岸﹄、ぐつ︽、 ③α・令司函 ﹄やつ﹃いつ 皀│竪念

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り引きから排除されていたわけではない。それなのに販売記事がまったくないのは不自然なので、帳面が別になってい る可能性も考える必要があろう。近江屋の帳簿は、文政期と天保期では組み立てに違いが見られる。文政期では、五月 から帳簿が始められており、内容も内引きがあるなどしている。しかし天保三年︵一八三二︶からは正月始まりで、内 引きもほとんどなくなっている。こうした帳簿編成の違いが出ている可能性も否定できない。 文政一二年︵一八二九︶での大坂干鰯屋の占める比率は二八・九パーセントになっている。近江屋は大坂干鰯屋から 買い付けも行っており、その相互の売り買いは、それぞれ代銀総額の二○∼三○パーセント程度だったことがうかがえ る。魚肥は選好性の強い商品とされ、顧客の注文にも好みがあった。農業生産地での士地と肥料の適否などが注文を限 定させたのである。このため干鰯屋同士で顧客の注文に合わせて、品物を売買して対応した。大坂干鯛屋は仲間として 戦の島とその周辺に店をもつことを強制していたが、これが維持されたのは一定地区に集住した方が干鰯屋自身も品物 のやり取りに便利だったという面があったからである。 大坂市中としたのは、大坂市内の肥料商で、干鯛屋両組に属していないものである。天満堀川町の播磨屋万兵衛や 三木屋庄兵衛などがこれにあたる。三木屋庄兵衛は居所に明記がないが、天保九年︵一八三八︶の﹁万留帳﹂の記事 ︵釦︶ のなかに、播磨屋万兵衛に続いて項目が立てられて出てきて、それらが大坂市中であると思われること、天保一三年 ︵一八四二︶の﹁積日記﹂で近隣に送る茶船を使用して、品物を送っていることから、市中ないし近郊の肥料商と判断した。 三木屋庄兵衛は、文政・天保期を通じて、近江屋と継続取り引きをした仲間外商人であった。 近郊は、西成郡など大阪市中に接するものをあげた。市岡新田の惣右衛門が継続取り引きをしている。惣右衛門は文 政一二年︵一八二九︶は干鰯一六俵であったが、天保三年︵一八三三には干鰯一二九俵、佐伯粕五○俵など代銀三貫 三八匁余を購入しており、小売商としての活動であることがわかる。また天下茶屋の木綿屋利兵衛も継続的取り引きを 一ハュハ

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つぎに大坂周辺として、大坂湾岸市場にかかわるものをまとめた。天保前半では、あまり大きな比重ではないが、天 保九年以降は三○パーセント台を維持していた。その中心は尼崎干鰯屋であった。この時期、尼崎中在家町の年寄で、 古くから干鯛屋を営んでいた梶屋久右衛門︵兵左衛門︶を始め、樋口屋伊兵衛︵別所村︶、鍋屋平三郎︵大物町︶、加島 屋善兵衛︵宮町︶、仲間屋五郎兵衛︵別所村︶、神田屋八郎右衛門︵大物町︶、安台屋太郎兵衛︵中在家町︶、塚口屋五郎 ︵剛︶ 兵衛︵大物町︶などと取り引きがあった。 梶屋久右衛門は、文政九年︵一八二六︶から両替商も営業を始め、同じく両替商を営んだ近江屋長兵衛家と提携して ︵配︶ いた。梶屋はこの関係を利用して、振り手形を出して、近江屋長兵衛から市兵衛へ支払っている。兵庫では、瓜屋忠七、 有馬屋三右衛門、中村屋伊兵衛などの肥料商が買い付けているが、いずれも少額で継続性もなかった。また泉州は貝塚 ︵羽︶ の沼嶋屋助次郎・布屋清兵衛・明瀬永治郎、佐野浦大和屋徳兵衛などと取り引きがあった。 その他としたのは、在村の肥料商で摂津武庫郡水堂村の幸田久兵衛が継続取り引きを行った外は、同武庫郡小曽根村 古手屋六兵衛、河内若江郡八尾の莚屋五兵衛、鴻池新田の伊助などへ販売している。摂津武庫郡や河内若江郡は木綿生 産地帯として知られた地域であり、そこへ向けて販売が行われたが、大きなものにはならなかった。近江屋市兵衛の場 合、在町の肥料商とは一定の取り引きがあったが、在村レベルになると限定されていた。 紀州は、文政期には、一○パーセント以下であったが、天保期に入り比重が増加し三○パーセント台になっている。 込む余裕がなかったと考えられる。 いする販売がかなりあったことは明らかであるが、分家で文政末年に商売を始めた近江屋市兵衛家は、近郊農村に食い する販売は、この時期の近江屋の経営にとって大きな比重を占めなかった。近江屋長兵衛家の場合、河内・北摂津にた 行っていた。ただ大坂近郊での販売は、全体としてそれほど大きくはなかった。つぎの大阪周辺を含めて、在村にたい 大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営︵二 六 七

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表 5 阿 波 の 取 引 地 域 ( 単 位 匁) 天保3年天保6年天保9年犬保lO年 67,70187,6044,6386,263 22,32364,09823,3181,476 28,18661,3749,2661,704 6 , 2 1 3 1 , 8 9 8 天保ll年 14,339 郡名 板 野 郡 名東郡 名西郡 阿 波 郡 麻 植 郡 美 馬 郡 三 好 郡 那賀郡 不明 合 計 文政11年文政12年 27,49175,818 16,5608,014 16,94155,301 3,440 4,668 2-633 1.927 150 5,391 6.434 2,985 368 2,229 130.156 2,081 13.421 12968 4,653 -67.571 12-601 19,730 37.221 161.609 233.346 出 典 : 表 3 に 同 じ 和歌山の米屋六兵衛、才賀屋重左衛門、名倉屋七兵衛、海部郡塩津の米屋八九郎、 阿波屋武兵衛、日高郡藤井澤屋長兵衛、米屋半兵衛、粉川の竹屋庄七、中之庄川 辺屋喜兵衛などがいた。塩津の米屋八九郎は天保二年︵一八三二に、近江屋に 六二三○俵もの干鰯を売り付けているが、いつぽうで買い付けることもあったこ とがわかる。しかし文政・天保期を通して買い付けているのは和歌山のもので、 米屋六兵衛などは継続取り引きをしていた。文政一二年︵一八二九︶では、干鰯、 佐伯粕、宇和粕などを購入していたが、その後、緋粕など蝦夷地産のものが増加 している。 阿波は、天保前期では大坂干鯛屋を除けば近江屋の最大の取り引き先であっ た。総額では天保三年︵一八三二︶まで、全体の三○パーセント前後で推移し、 天保六年︵一八三五︶には四四パーセント余に達した後、後退していった。表5 に取り引き先を郡別に示し、図1でその場所を示したが、板野・名西・名東郡な どが中心で、ことに板野郡が多かった。これらの諸郡は吉野川流域で藍の生産地 帯であった。本家近江屋長兵衛も一九世紀初めから積極的に販売していたので、 ︵別︶ 市兵衛もこれと同様に阿波への販売に力を入れていたと考えられる。長兵衛店が 販売した村と重なっている村もある。買い手は明らかに小売商と思われるものも あれば、直接消費者農民であると思われるものもいた。だいたい年末から翌年正 月にかけて買い付けがあった。天保六年︵一八三五︶の売日記から記載を紹介し ,--ロュ ノ、 八

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大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営︵二 酬洲 洲 蓉 創 群 図一肖肖剛珈洵郵庁固簿画 汁報 汁説 N謡 訓刑 仔卿卵 ユ床 蒲猟 一ローー ノ、 九

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これは阿波国板野郡下庄村の吉兵衛へ鰯粕を売ったときの記載である。鰯粕が﹁本﹂と数えられているのは、蝦夷地や ︵調︶ 東北産のためであろうか。〆粕・緋粕などの粕類は重量で取り引きされたので﹁〆弐百六拾六貫六﹂と重量表記がある。 最後の﹁六﹂は六○○目であるということである。これから﹁跡引﹂が引かれて正味重量が決められる。この引きは色々 ︵妬︶ よ毒っ。 又弐匁弐分 又弐匁弐分 又弐分弐分 又壱匁壱分 〆六百六拾九匁七り 廿六匁壱分替 下之庄村 いわし粕拾壱本 〆弐百六拾六貫六 内拾三貫二 正ミ弐百五拾三貫四 代六百六拾壱匁三分七り ︵正月二二日︶ 阿 州 吉兵衛殿 [網印省略] 出し く、りつみちん 茶ふれ なわ代 跡引 七○

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な名称があるが、一般には、中身の重量で取り引きするため、俵の重さ分ほどを引く習慣から出たとされる。風袋引な どといっている。ほかに相対引がつくこともある。これに一○貫目当たりの直段﹁廿六匁壱分﹂が乗じられて、代銀が 定まる。さらに大坂周辺以外への販売の場合、積み出しにともなう経費が上乗せされる。﹁出し﹂は問屋出しとも書か れるので、問屋の出荷経費、括り積み賃、茶船、縄代などが経費である。茶船は、廻船問屋や本船まで運ぶためのもので、 そこからは買い手と運送業者の間の関係となる。買い手は大坂から阿波の自分の村まで、運送賃を負担しなければなら ない。また阿波藩では、寛政二年︵一七九九︶に干鰯問屋頭を設置して、干鯛輸入や統制にあたらせたが、直買のも ︵訂︶ のには代銀の三歩の口銭をかけることにしているので、正規に輸入すればこの代銀を支払わなければならなかった。そ れでも阿波で肥料商から買うよりも大坂干鰯屋から直買した方がよい状況があって、近江屋長兵衛や市兵衛の阿波への 販売が天保前半までは、経営のなかで重要な意味をもつほどの比重を占めたのである。購入者のなかには、屋号をもつ 小売商と思われもののほかに、直接消費者農民が多く含まれていた。大坂湾岸市場の発展が、阿波をも交易圏に含み込 んでいった結果、小規模取り引きも容易となって、大坂干鰯屋の進出も見られたのであろう。後発組の近江屋長兵衛は ︵躯︶ 松前産品の取り扱いにも積極的に乗り出したいつぼうで、阿波にも販路を拡大していた。近江屋市兵衛も同様に活動し ていたと考えられる。この売買は、関東・蝦夷地・東北l大坂l阿波と結ばれており、大坂の全国市場ネットワークを 介しての典型的な遠隔地市場取り引きとなっている。 こうした近江屋市兵衛の阿波取り引きも天保飢饅期をはさんで、天保後期には急速に縮小していった。天保一○年頃 ︵羽︶ から藍の取り引きは好況期を迎えたが、近江屋の肥料取り引きは回復することはなかった。近江屋長兵衛店でも、代銀 未済の処理のために作成される預り銀証文が一八○○年∼一八四○年に集中しており、以後なくなることから、取り引 ︵鋤︶ きが天保末年には減少していたことがうかがわれる。 大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営︵二 七 一

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その原因については、はっきりしないが、阿波では文政・天保期にかけて山西庄五郎︵和泉屋︶などの廻船問屋が急 成長している。山西庄五郎は買い積み船経営で大きな利益をあげたといわれており、新興の買い積み阿波廻船の代表格 であったが、撫養の塩を出荷して、返り荷に干鯛・〆粕や緋粕を積んで帰ったので、肥料商も兼ねていた。阿波藩から ︵瓠︶ 塩薪大問屋兼干鰯平問屋に任じられており、在村の小売商に魚肥を供給していた。こうした買い積み廻船の活躍は、当 然、大坂干鰯屋との競合をともなったので、大坂干鰯屋にとっては有利性が失われていくことになったと考えられる。 また北前船の着船も増加した。その細部は今後の検討課題であるが、全国市場の変質をめぐる枠組みを押さえておく必 つぎに伊賀・近江についてふれておく。伊賀は天保三年︵一八三三にのみあらわれたもので、試みに終わったよう である。伊賀上野桑町の板屋善兵衛、本屋町の綿屋伊助、同じく上野の市部平市らが二∼四月と二月に羽緋を中心に 買い付けを行っているが、続かなかった。 近江は天保九年︵一八三八︶一二月一日に近江蒲生郡八幡町の塩屋四郎右衛門、納屋嘉兵衛、西川屋善六および中野 村の酒屋助次郎、和田重蔵が干鰯・羽緋を買い付けたことが始まりで、翌年一月二七日に野洲郡野洲、江頭、水口、八 幡、中野、甲賀郡龍法師、杉山、三来柳などの在方肥料商と思われるものが買い付けを行った。後半は一○月九日にま た買い付けがあった。しかし天保二年︵一八四○︶には激減している。近江については、大坂松前問屋の近江屋熊蔵 ︵犯︶ が天保三年︵一八四○︶に、出身地の彦根藩の要請を受けて魚肥の直買いを計画して、干鯛屋仲間と対立している。 通常は越前敦賀から蝦夷地・日本海産の魚肥が入っていたが、この頃、近江南部では大坂から買い付けようという気運 ︵お︶ が起きていたようで、近江八幡の肥料商を中心に買い付けが行われたらしい。この場合、販売日が一律で、仲間でまと めて買い付けた可能性があるが、それだけに、不調となると一気に減少してしまうこともあり得たのである。 要があろう。 七 二

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こうしたなかで販売では、大坂の干鰯屋仲間と市中と近郊の肥料小売商への販売、尼崎干鰯屋仲間を中心とする湾岸 諸都市の肥料商への販売が一定の比重を占めたが、在村の肥料小売商にはある程度販売が行われたものの、直接消費者 以上、近江屋市兵衛家の文政・天保期の経営について、その実態を明らかにしてきた。近江屋市兵衛家は、寛政年間 頃に干鰯屋仲間に加入した近江屋長兵衛家の分家で、文政六年以降に、大坂干鰯屋仲間の問屋組に加入した新興の問屋 仲買商であった。仕入れでは天保元、二年には、銀七、八○○貫目程度を扱っていた。いつぽう販売では、文政一二年 ︵一八二九︶には銀五○○貫目台であった。文政末から天保二年頃まで、いわゆる天保飢饅期の直前まで同家の商売は 急速に拡大していたといえる。その後、完全なデータは得られないが、販売では天保飢饅の混乱期には低迷し、天保末 年には回復がやや遅れたまま当主市兵衛が死亡したため、店を閉めて再興を待つことになった。 近江屋市兵衛家の分析を通じていえることは、天保期を通じて、江戸干鰯問屋からの仕入れの減少のなかで、干鰯か ら〆粕への転換の進展があったこと。また松前問屋からの仕入れの増加と緋粕・鱒粕の仕入れ、鱒粕の減少と羽緋への 移行が見られたことがあげられる。松前問屋からの仕入れが増加したことは、鞍の島市場への依存度をさげる結果となっ た。この時期には、仕入れ・販売で総額の二、三○パーセント程度しか戦の島市場での取り引きはなかったことが明ら かとなった。戦の島市場の諸国から入荷した品物を売りさばくという機能は、その最大の商品であった関東産の干鯛・ 〆粕の入荷減少で低下し、問屋仲買が顧客の注文に合わせて、相互に手持ちの魚肥をやり取りする役割で維持されてい たと見られる。 まとめ 大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営︵二 七

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いつぽう市兵衛家が直接消費者農民にまで、販売を及ぼしたのは、阿波でのことであった。天保初年までは、阿波国 板野・名西郡を中心とする藍生産地域へ販売総額の三、四○パーセントの魚肥を販売し、小売商と思われるものだけで なく、直接生産者農民へ多く販売していた。阿波では文政・天保期には買い積み廻船を積極的に取り入れた山西庄三郎 などの廻船問屋が急速に成長しており、返り荷として魚肥をもたらし、干鰯問屋として活動していた。こうした買い積 みの阿波廻船の展開は、大坂干鯛屋の魚肥販売と競合していた。また北前船の着船増加もあって、近江屋市兵衛家の阿 波取り引きも天保末年にはふるわなくなっていったと考えられる。 近江屋市兵衛家の分析からは、天保飢饅期をはさんで、魚肥における全国市場が大きく転換している様相が認められ た。近江屋は安政二年︵一八五五︶に再興され、取り引きが再開される。以下、幕末維新から明治期の市場の変容と近 江屋の経営展開を検討することが課題となる。 が前面に出ていたといえる。 ていたらしいことに比べて、 農民については、ほとんど正 注 ︵1︶平川新﹁紛争と世論実東京大学出版会、一九九六年︶、原直史﹁市 場と問屋・仲買﹂︵斉藤善之編﹁新しい近世史﹂三、市場と民 間社会、新人物往来社、一九九六年︶、中西聡﹃近世・近代冊 ほとんど販売していない。近江屋長兵衛家が北摂津・河内の木綿生産地帯の在村に広く販売を拡大し に比べて、後発組の市兵衛家には、そうした性格は強くなかった。大坂とその周辺では、問屋的性格 本の市場構造﹄︵東京大学出版会、一九九八年︶など。 ︵2︶東洋大学・井上円了記念博物館所蔵・近江屋市兵衛家文書。 以後、近江屋市兵衛家文書何番と略記する。 ︵3︶拙稿﹁大坂干鯛屋仲間と近江屋長兵衛﹂含東洋大学人間科学 総合研究所紀要﹄一五号、二○一三年︶。 ︵4︶国文学研究資料館所管・祭魚洞文庫・大阪干鯛商仲間記録、 七四

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︵Ⅱ︶ ︵皿︶ ︵B︶ ︵Ⅲ︶ へ 10 … へ 9 … へへ 8 7 ー… ︵戸○︶ ︵ハリ︶ 文政六年﹁組合触印形帳﹂︵二七番︶、天保二年の﹁触書調印帳﹂ ︵三○番︶。以下、大阪干鰯商仲間記録何番と略記する。 大阪干鯛商仲間記録、天保八年﹁干鰯触書控﹂︵三七番︶。 大阪市史編集所所管・近江屋︵田中︶長兵衛家文書、九八○ 番。九八三番には市兵衛から﹁御二家﹂へ宛てて出した、壬 寅四月の﹁預り物﹂覚がある。この内容は、辻源︵辻屋源兵衛、 干鰯屋仲間本組︶からの預銀などを記して、その処理を依頼 しているものである。内容から見て、市兵衛が死の直前に預 り銀の処理を頼んだものと判断される。壬寅年は天保一三年 にあたるので、同人の死はこの年だったと考えられる。 大阪干鰯商仲間記録、弘化四年﹁記録﹂︵四二番︶。 原直史﹁松前問屋﹂︵吉田伸之編﹃商いの場と社会﹄シリーズ 近世の身分的周縁四、吉川弘文館、二○○○年︶。 泉州関係については、岡田光代﹁幕末維新期泉南地域の肥料 流通﹂︵石井寛治・中西聡編﹁産業化と商業経営﹄名古屋大学 出版会、二○○六年︶。 中川すがね﹃大坂両替商の金融と社会﹄︵清文堂出版、 二○○三年︶二七四頁。 近江屋市兵衛家文書、文政一二年﹁干鰯買日記﹂︵六番︶。 近江屋市兵衛家文書、文政二年﹁関東買附帳﹂︵一番︶。 近江屋市兵衛家文書、同前。 原直史﹃日本近世の地域と流通﹂︵山川出版社、一九九六年︶ 表町・他は田中康雄﹃江戸商家・商人名データ総覧﹄︵柊風舎、 大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営︵二 二○一○年︶による。 ︵旧︶拙稿﹁阿波藍商と肥料市場﹂︵ご亀東洋大学文学部紀要﹂ 六四集史学科篇三六号、二○一一年︶。 ︵略︶拙稿﹁大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場﹂言東洋大学文学 部紀要﹂六六集史学科篇三八号、二○一三年︶。 ︵Ⅳ︶近江屋市兵衛家文書、文政二年︵二番︶、文政一二年︵七番︶、 天保三年︵一五番︶、天保五年︵一七番︶、天保九年︵二○番︶、 天保二年︵二囚番︶の各干鰯売日記。なお一七番は表題は 天保五年であるが、中身は天保六年の記事である。また二○ 番は天保九年と天保一○年の記載がある。 ︵咽︶近江屋市兵衛家文書、文政一二年﹁干鯛売日記﹂︵七番︶。 ︵⑲︶近江屋市兵衛家文書、天保九年﹁浜請取﹂︵二一番︶、天保 一一年﹁浜請取﹂︵二五番︶。 ︵別︶近江屋市兵衛家文書、天保九年﹁万留帳﹂︵二二番︶。 ︵別︶居所は岡本静心編﹃尼崎市史﹂二巻︵尼崎市、一九六八年︶。 七四三頁。 ︵助︶拙稿﹁大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場﹂︵前掲︶、同﹁幕 末維新期における畿内先進地域の肥料商﹂︵二言東洋大学文 学部紀要﹂六二集史学科篇三四号、二○○九年︶。 ︵恥︶岡田光代﹁幕末維新期泉南地域の肥料流通﹂︵前掲︶。 ︵別︶拙稿﹁大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場﹂︵前掲︶。 ︵妬︶近江屋市兵衛家文書、一七番。 ︵恥︶本とは、蝦夷地の緋などで使われた束ね方で、江差では緋 七五

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付記本研究は二○二∼二○一三年文部科学省研究費補助﹁近世 後期の肥料商と地域市場﹂の研究成果の一部である。調査にあたっ てご協力いただいた東洋大学井上円了記念博物館以下の方々に記し て感謝の意を表す次第です。 の口に管竹を通して連結し二二匹を一連、五一連を一本 ︵二一三匹︶と数えた。一連の数は地域により若干違う。﹁人 類文化研究のための非文字資料の体系化﹂第一班編﹁日本近 世生活絵引﹄北海道編︵神奈川大学二一世紀○○国プログラム ﹁人類文化研究のための非文字資料の体系化﹂研究推進会議、 二○○七年︶九七頁。 ︵〃︶拙稿﹁阿波藍商と肥料市場﹂︵一︶︵前掲︶。 ︵路︶拙稿﹁大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場﹂︵前掲︶。 ︵空拙稿﹁阿波藍商と肥料市場﹂︵二︵前掲︶。 ︵釦︶拙稿﹁大坂干鯛屋近江屋長兵衛と地域市場﹂︵前掲︶。 ︵証︶拙稿﹁阿波藍商と肥料市場﹂︵二︵前掲︶。 ︵犯︶大阪干鯛商仲間記録、二三番。 ︵銘︶近江南部の干鰯屋については、水原正亨﹁近世近江八幡の干 鰯屋仲間﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館﹁研究紀要﹄二号、 一九七八年︶。 七 六

表 1 文 政 ・ 天 保 期 の 仕 入 れ 状 況 干鰯 〆粕 緋粕 羽 緋 鱒粕 数子 そ の 他 2 9 2 5 8 6 , 5 4 46 0 3 1 6 5 2 1 6601 172 ll6,85758,72 568,8767,9214,8413,090 1 8 , 6 7 137,89535,3604,4402,114l,28810,271大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営︵二干 鰯 屋2 7 0 5 2 150 〆粕 緋 粕 羽 緋 鱒粕 数子 玉粕 そ の 他 1 , 5 5 210,157 2
表 2 江 戸 干 鰯 問 屋 か ら の 仕 入 れ 天 保 2 年 1代銀(匁) 4121i 3 1 , 8 6 2 556i4,223 741!7,595 68314,741 3129121,379所 属 組 合屋 号 ・ 名 前俵西 宮 十 次 郎渡 辺 熊 治 郎秋 田 富 之 助栖 原 三 九 郎小 川 市 兵 衛19,61024,26020332538銚 子 場 組 多田屋又兵衛 和 泉 屋 三 郎 兵 衛 栖原久治郎 湯浅屋与右衛門 3 , 9 1 22,890534元 場 組260 621
表 5 阿 波 の 取 引 地 域 ( 単 位 匁 ) 天保3年天保6年天保9年犬保lO年 67,70187,6044,6386,263 22,32364,09823,3181,476 28,18661,3749,2661,704 6 , 2 1 3 1 , 8 9 8 天保ll年 14,339郡名板 野 郡名東郡名西郡阿 波 郡 麻 植 郡 美 馬 郡 三 好 郡 那賀郡 不明 合 計 文政11年文政12年 27,49175,818 16,5608,01416,94155,3013,440 4 , 6 6

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