近代学校のゆくえ : 学校教育のシステム論的考察
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(2) を基本コンセプトとして戦後教育をデザインし. 子どもの個性重視を原則として、自由の重みと. ょうとした。それに方向性を与えたのが、アメ. 責任の増大に耐えうる能力の育成を求めた。. リカ教育使節団の報告書であり、その提言が戦 後日本の教育システムを規定することになる。. 自由化は結果として学校の存在意義を低下さ せる。学校が持っていた聖性は剥奪され、世俗. 「H本国憲法」の精神を活かし、民主的な教育. 化する。学校はヘゲモニーを発揮できなくなり、. をめざした「教育基本法」は、やがて「教育勅. マスコミを第三者的審級として判断の基準とす. 語」に替わるものとして、勅語を否定する存在. るようになった子どもたちは学校に魅力を感じ. としての意味が付与される。しかし、総力戦体. なくなった。. 制下に生まれた教育システムは完全に否定され たわけではなかった。. そうした状況の中で子どもの心の荒れを示す 病理現象が頻発し、文部省は心の教育と学校カ. 教育委員会制度は戦前の視学官などによる文. ウンセラーの導入をはかる。しかし、学校カウ. 部省の影響力を削減するため、教育の地方分権. ンセラーの導入は問題を子どもの自己責任に還. をめざして設置されたものであり、地方の実状. 元し、子どもを心理学的誤差や平均値の中に抑. と公正な民意を反映するために公選制がとられ. 圧してしまい、三二権力と化した専門家システ. た。また教育長についても教育に対する専門的. ムによる生活世界の植民地化がおこなわれる可. 知識と技能を持っていることを示す免許が設け. 能性がある。. られた。いずれも教育の民主化と地方分権をも. また、学校の自由化は結果的に教員の仕事の. たらすものとして設置されたのである。. 増大による教育レベルの低下と、ビジネスセン. しかし、55年体制の保:革対立の図式の中で、. ス導入による管理強化をもたらすことになる。. 教育委員は公選制から地方公共団体の長による. それは、学校選択の自己責任を家族に求めた場. 任命制にかわり、その権限も後退した。教育長. 合、その家族のハビトゥスによっては学校選択. もまた専門的技能よりも事務職としての実務能. が子どもに利益をもたらすどころか、スタート. 力が重視され、行政職のひとつとされた。こう. ラインでの不平等を個人の責任に還元してしま. して教育の地方分権の要であった教育委員会制. うことで、かえって社会構造の固定化と文化的. 度は文部省中心の官僚制システムにふたたび取. 再生産を強化することになる。その場合、学校. り込まれてしまった。. は不平等にあきらめを与える指標として新たな. 冷戦の終結に端を発する80年代の世界シス. 信仰を得る。. テムの構造変化は、日本の教育界では「臨時教. 近代化の中で、一一Ptの宗教的装置として機能. 育審議会」をもたらし、ネオリベラリズムの思. してきた近代学校は、そのイデオロギ・一一一装置と. 潮の中で日本の教育システムを大きく変えた。. しての機能が低下したとしても、そのつど新し. 答申の中心概念は教育の自由化・市揚化であ. い歴史と意味を与えられる。システムは姿を変. る。それは自由放任主義の復活であり、経済界. えつつ、永続的に自己組織化を続ける。. による労働力の育成と資本の参入といった要求 もあって、教育システムの建て直しがはかられ. 主任指導教官. た。. 指導教官. 一方、問題化していた教育の荒廃については、. (杉尾宏). (杉尾宏).
(3) 平成12年度 学位論文. 近代学校のゆくえ 一学校教育のシステム論的考Pt一一. 指導教:官. 杉尾 宏. 学籍番号 氏 名. M99015j 外海靖規 兵庫教育大学大学院学校教育研究科. 学校教育専攻 教育基礎コース.
(4) はじめに ポストモダン的状況において学校に関する様々な言説が生まれ、様々な過去とそれ に対応した様々な未来が語られている。百家争鳴によって、今や正体不明になりつつ. ある学校を、意味の産出を中心概念におくシステム論によって捉えようというのが本 稿の目的である。意味が産出された現在の瞬間に、過去と未来が同時に産出されると. いうルーマンの時間概念にもとづき、近代学校の成り立ちから完成、変容の歴史を一 瞥することによって、ありうべき未来像を探り出したい。. そのとき、注目したいのは学校という制度に一貫して流れている「宗教性」である。 宗教装置(それはイデオロギー装置でもあるが)として学校をとらえることによって、. 自明性の中に隠されていた学校の諸問題を探りだし、生徒や教師、保護者を閉じこめ る常識1生の橿への異議を申し立てることができると思う。. システム論が問題にするのは、「いかに社会秩序が可能なのか」である。いわゆる ホッブズ問題については、パーソンズの研究が先駆的であるが、近代社会の分析につ いての有効性は色あせないにしても、ポストモダン的状況下ではその行為理論・パー ソナリティ理論には限界があるといわざるをえない。人間主義的・啓蒙主義的な視点. からパーソンズやルーマンを批判する人物にハーバーマスがいるが、人間主義的な思 考もまた、人間を社会の被造物として選挙化し、人間が本来社会に匹敵して持つ複雑 性を見失ってしまっている。一方、ルーマンのシステム論は、人間を社会の環境とし て設定することで、社会と人間との関係を遮断する事に成功し、かえって自由な人間. 観を得たのである。システム論に対するハーバーマスの批判は、その社会学主義、社 会工学的視点にも向けられるが、それは自らの啓蒙主義がもつイデオロギー性への無 思慮にすぎない。ルーマン理論は決して社会体制の維持を図る保守理論ではない。彼 の理論は社会体制が中心を失い、自己言及システムとして自律することの欠如性を指 摘する。システムの興味深いところは、そうした中心の欠如にもかかわず、いかなる 不確定性に対してもそれを観察し、自己組織化によって秩序維持をはかるという点で ある。そこにこそ、機能が構造を産むというシステム論の変奏可能性がある。. 叙述に関しては、ヴェーバーのいう価値自由の原則に従い、吟じしんの教師という. 属性を極力廃する努力をした。しかし、いかなる人間もレリバンスによる類型化から は逃れられない以上、その努力にも限界があるのは確かである。それを認識した上で の叙述であることを再確認し、それでも垣間見られる私の思想については、ご寛恕願 うしかない。. 本稿もまた、ルーマンの社会学的啓蒙の末席に位置することを願う。本稿が読者に 再参入されることで近代学校のもつ宗教性を認識し、その信仰の橿から脱するささや かなきっかけになることを期待したい。.
(5) 〈目次〉. 第1章 近代学校の成立と完成………・…・・…… ……・・・・… …・…・1 第1節 イギリスにおける近代学校の成立…・… ……・……・・・… …・…l. l 国家関与と宗派性の対立・… ……………・・………・・………・…1 2 産業資本主義の進展と教育制度の萌芽・・……・………・・… ……・・…3. 3 教育制度の成立…・……………・・……・・…・・…・…・…・…・…・5. 4公教育成立期の問題点…… …………… …・…………・…・……6 第2節 日本の近代化と学校制度の形成・・………………・……………9 1 学制発布…・…・……・…・… ……・・……・・…・……・・………・9. 2教育令とその改正………・…・……・・…・…・・…・……・…・・…14 3 学校令と教育勅語……・・・・… ……・・… ………・……・・…・…・19. 4子ども、家族、国家…・…・……・・・・……・…・…・…・・………・24 第3節 学校の宗教化一学校行事と総力戦…・……・…・…… …・・……30 1視日大祭日規定・…・……………… …・・……・・・・・… …… …31. 2 総力戦のとらえ直し・…………・……・……………・・…・・…・・38 3 国民学校の完成…・…・…・…・・・… ……・・…………・・・・… …・40. 第2章 近代学校の変容・・……・… ……… ……・………・…・…・…46 第1節 戦後の教育改革…・……・………・……・・…・…・…・・……46 1GHQ・CIEの教育政策一戦後教育は何をしたがったのか(1)・・……・…46 2 合衆国教育使節団報告一戦後教育は何をしたがったのか(2)……… …50 3 教育勅語と教育基本法一戦後教育は何をしたがったのか(3)…………54 第2節 近代学校の回帰と変容………・……・…・…・…・…・・…・…・59 1 教育委員会制度の日本的変容一戦後教育は何をしてきたのか(1)・・……59 2 臨時教育審議会一戦後教育は何をしてきたのか(2)・・……・……・…・65 終章 近代学校のゆくえ・・…………・…・… …・・・… ………・・……・74. 1心理学の栄光と誤算一心的システムへの侵入………・・………・…・・74. 学校の市場化とネオリベラリズム・………・………・…・・……… 81 3 近代学校のゆくえ一終わりなきシステムの果てに・・………………・・90. 引用・参考文献一覧…・・……………・・…・……・……・……・・…100 EL3t … 一・一・… 一・一・一・… 一・・一・・一一・一一一・一一一・一一・一・一・一一112.
(6) 近代学校のゆくえ一学校教育のシステム論的考察一 第1章 近代学校の成立と完成 第1節 イギリスにおける近代学校の成立 イギリスにかぎらず、学校の教育機能は長く教会の専有するところのものであった。. 近代になっても、教育は基本的に個人の私的権利であり、自由裁量に任せられるべき であると考えられていたため、公教育の父とされるコンドルセ(Condorcet)でさえ、. いわゆる市民にとっては家庭教育が本来の姿だとみなしていた。そのため、一般民衆 にとっては、ギルドでの徒弟教育か教会の日曜学校以外に学ぶ場はなかった。市民階 級にとって私的権利であった教育の門戸を民衆に開くようになったのは、産業革命期 以降、都市に集中した労働者階級への対処として設けられた学校によってであった。 1 国家関与と宗派性の対立. 産業革命期以前の民衆教育は、主として宗教団体のボランタリー活動として行われ ていた。産業革命の進展にともない、南部農業地帯から中北部工業地帯への人口移動 がおこり、都市労働者階級の生活状況が劣悪化してくる。貧困は家庭教育を崩壊させ、. 労働者階級の児童は野放しにされるか工場へ送り込まれることになる。工場における 幼・若年者の労働条件は劣悪であり、「労働力そのもののあまりにも早い消耗と死滅」. を招くものであった。もはや民間ボランティア団体の能力を超えた、国家の問題とし て子どもを処遇する必要が生じたのである。. すでに、1601年半「救貧法(エリザベス立法)」によって、よりよい労働者を育成 するための教育施設が構想されていた。それは貧困児童をギルドという古い制度に組 み入れるという地主的意図によるものであり、放浪していた貧民を囲い込んだ定住法 とならんで、原始的蓄積に貢献するものであった(1)。しかし、産業革命による社会. 構造の変化は、アンボランタリーな失業者の増加と階級対立による社会的不安感を生 み出していた。1796年にウィリアム・ピット(Pitt,W.)の提出した教育法案は、現実. に働く手段を失った貧民・失業者を産業予備軍として再生産する意図を持っていた。 それゆえ「勤労学校にはいることを拒否した貧民は救助を受ける資格がない」という 厳しい救貧適用条件を提案したのである。産業資本主義体制を維持する労働イデオロ ギーの形成を意図したこの条件であったが、自由放任主義を主張する資本家層の反発 を招き、救貧税負担をめぐる争いと相まって否決されることになる(2)。. ピットの民衆教育案は、それまでの民衆教育が労働力の再生産装置として機能して いたのに対し、一般教養や宗教教育をカリキュラムに含めることによって国家のイデ オロギー装置としての機能を持たせようとした点で、近代学校の萌芽につながるもの. 1.
(7) であった。. 1807年、サミュエル・ホイットブレッド(Whitbread,S.)は貧民児童のための教区学. 校の設立を求めた。これは教育そのものの立法動議として評価されるべきものであっ たが、公教育が民衆統治を安定させるという彼の主張に対して、知識を与えることに よって労働者自らがその社会的ポジションに疑問を抱くであろうという危惧によって 反対された。何よりも大きな反対はカンタベリー大主教によるものであった。英国国. 教会は教育支配の既得権を主張し、教育の非宗派主義を提唱するスタンホープ (Stamhope,E.)らと対立した。以降、教育と宗派性の問題が公教育成立の遅滞要因と. なる。宗教団体のボランティアに民衆教育を任せてきたつけが回ってきたといえるだ ろう(3)。. こうして、国家による民衆教育法案が否決された頃、労働者階級も政治への関心を 強めはじめていた。特にトマス・ペイン(Paine,T.)の書物が民衆によって廉価で出版さ. れ(4)、各地で改革協会が組織されると、資本家層も民衆教育に無関心ではいられな. くなっていた。国教会派による国民協会や非国教会派の内外学校教会などの宗派によ る民衆教育団体の設立も、自派勢力の拡大をねらう以上に、その支i思者たる産業資本 家層の意図をていしたものだといえるだろう。 ニュV一一一一ラナークにある自分の工場で性格形成学院を創設していたロバート・オーエ ン(Owen,R.)は、ピール(Peel,P.)に協力して「工場法」の改正案を起草する。オーエン. が問題視したのは、自由放任主義が民衆教育を阻害するということである。自由放任 主義は安価な自由労働力の供給を意図する。それは資本家層にとっては理想的状態で あるが、労働者にとっては児童がもたらす収入を断念してまで、学校に通わせること になり、そこに価値を見いだせない以上、通学意欲を欠く要因になり、就学率の上昇 は見込まれない(5)。結局、自由放任主義と国家による干渉主義とをめぐって審議は 難航し、改正工場法はオーエンの理想とはかけ離れたものとして、1819年に公布され た。. このころ組織された「ロンドンの下層階級の教育を調査するための特別委員会」は 委員長のブルーム(Brougham,H.P.)を中心に精力的な調査活動を行ない、教育手段の欠. 如が民衆教育の普及を困難にしているという結論から、国家関与の必要性を勧告した (6)。校舎建設費に国庫補助金を使うというかたちで国家関与が要求されたが、これ. は宗派立学校の権限を侵すものではないという点で妥協的であった。国教会の持つ教 育既得権への譲歩は、法案を現実化するための便法であったが、しかし、1820年にブ ルームが議会に提出した「教区学校法案」は、再び否決されてしまう。非国教会派の 反発と譲歩を認めない国教会派じしんの反対は大きく、資本家層にとっても自由放任 主義への国家介入と受け取られたのである(7)。. 国家の民衆教育への関与は、教育既得権を侵すものとして宗派の反発を招くと同時. 2.
(8) に、宗派の支援者でもある資本家層にとって、自由労働力の確保を意図する自由放任 主義を規制するかのごとくに受け取られていた。. 2 産業資本主義の進展と教育制度の萌芽 ジョナサン・スィフト(Swift,J.)に、増えすぎた下層階級の子どもたちの処理につい. て書かれた奇妙な文書がある。「貧家の子女がその両親並びに祖国の重荷となること を防止し、且社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」(8)と題され. たこの書は、増えすぎた下層階級の子どもたちを食用にすることで、貧困の解消と治 安の安定をはかろうとするもので、もちろん報告書の形式をとったパロディであるが、. 彼独特の笑えない皮肉のなかに階級的対立の危機感を読み取ることができる。増えす ぎた子どもたちは、食品ではなかったが消耗品であった。当時の幼少年労働者の様子 は、1833年に改正された「連合王国の工場児童および年少者の労働を規制する法」か らの逆照射によって明らかにできるだろう(g)。 1条.18才未満の夜間労働禁止 2条:年少者労働時間を一日12時間、週69時間に制限 7条:9才未満の児童雇用禁止 8条:13才未満の労働時間を一日9時間、週48時間に制限(10). もちろん、オーエンのような心ある工場主もいたに違いないが、多くは規制された 以上の労働条件で雇用していたと推測される。これでは教育を受ける時間など物理的 に不可能であるが、それ以上に生命を維持することすら困難であった。 児童労働については、この時代の特殊な児童雇用形態を考える必要がある。児童・. 年少者は成年男子熟練労働者に直接雇用されていた。雇用主の多くは父親であり、家 内工業の延長のような雇用形態を持っていた。「貧乏人の資本」として、子どもは育 てられたのである。それはまさに子どもを「喰う」とたとえてもよいかもしれない。 熟練労働者が賃金表に基づいて工場主から報酬を得るのに対して、補助労働者として の年少労働者は労働に見合った時間給を熟練労働者から得ていた。親権の乱用ともい うべき血縁関係のなかに子どもは囲い込まれ、命を削るような長時間労働に耐えてい た。結果として、年少期から少額とはいえ収入を手にすることは、初婚年齢の低下と 道徳的退廃をもたらした(ll)。. それほどまでに若年労働者を必要としたのは、国際競争の激化に対抗するために新 大型機械を導入して経営規模の拡大をはかった大資本家と、その大資本家に対して長 時間労働によって対抗しようとした小工場主だちであった(12)。新型機械の導入は熟 練工を不要とし、より賃金の安い若年労働者の雇用を促進した。小工場主にとっても、. 長時間労働には賃金の安い若年労働者を充てるしがなかったのである。 こうした若年労働者のおかれた状況にまず危機感を感じたのは大資本家層であった。. 3.
(9) 彼らは「労働力のあまりにも早い消耗と死滅」を恐れ、また、経済変動に耐えうる能 力をもつ労働者の育成を求めた。ところが、労働力の投下によってしか大資本家に対. 抗できない小工場主にとっては、若年労働者保全を自己規制することなどできない以 上、法的規制=監督官を導入するしか労働力を維持する方法がなかった。大資本家の 要請による国家介入として工場法の改正が行われた。このことはまた、小工場主の唯 一の対抗手段を規制によって封じることでもあり、大資本家による一層の資本蓄積を もたらすことになる。. 「工場法」の意義は労働力を保全しただけではない。13才未満児童に週12時間の学 校出席を義務づけ、学校出席証明書がないと雇用できないという教育規定を設けた意 味は大きい。学校への出席義務は、雇用者に労働時間を遵守させるだけでなく、消耗 品であった若年労働者を、経済変動に耐えうる労働力として再生産させる目的も持っ ていた。その規定をバックアップしたのが、1833年の「教育国庫補助法」である。 もっとも、年間2万ポンドの国庫補助は学校建築費に限定されており、その半分は私 的寄付にたよるという、「けちくさい公教育法」(13)であった。もちろん、宗教団体. への配慮も忘れずに行われ、国庫補助は宗派立の学校にも適応された。 教育国庫補助金の管理を主目的として、1839年に勅令にもとづいて枢密院教育委員 会が設置され、視学官による査察制度が設けられた。この機関は勅令によって成立し たため、法律や議会の規制を受けることなく活動することができた。. 1830年代の教育政策は、従来の宗派立学校を基準としたボランタリズムに依存して いたが、労働者の子どもたちに教育の機会を義務づけるという点では「工場法」の改 革は公教育のはじまりとして評価できる。しかしその目的が、消耗される若年労働者 を一般労働者として再生産することであるのは、1834年改正の「救貧法」にみられる、. 劣等処遇の法則からもうかがい知ることができる。産業資本主義体制が確立される経 済的変革のなかで、労働力の再生産に公教育が機能することが期待されたのである。. 宗派による民問学校のあり方に批判的であった全国公立学校協会は、地方税を新校 舎設立と既存校補助に用いると同時に地方の公的機関による新設校、既存校の管理監 督を求める主張をなした。これは地方税による無償学校と世俗教育を求めた点で画期 的であったが、教会や保守派の猛反発を受ける。世俗教育に対しては互いに協調して 反対する諸教会であったが、国教会と非国教会の対立はすさまじく、コブデン (Cobden)の主張にみられるように宗派問対立が学校教育の普及に対する阻害要因だ. とみられていた。宗教教育は道徳的=イデオロギー的支配を担うものとして産業資本 主義体制に支持され、全国公立学校協会案も宗教教育じたいに対しては肯定的であっ た(14)。. それでも、既存の学校のあり方に批判がでたのは、後発産業革命国である他の西洋 諸国の民衆教育の内容が、同時代のイギリスをはるかに凌駕していたからである。国. 4.
(10) 際競争力を左右する要因として学校の持つ教育力が意識されはじめていた。ダービー 内閣は初等教育の実情を把握するため、1858年にニューキャッスル委員会(Newcastle Commission)を組織し、内外の教育の現状調査をおこなった(15)。. 委員会の勧告はきわめて現実認識的なものであった。特に世俗主義的普遍的義務教 育制度を実現不可能なものとして、宗派立学校のボランタリズムに依存してきた現状 を認識し、その上で地方税を公的負担に加えるなどの方法で国庫負担の軽減をはかろ うとしていた。1862年、ロバート・ロウ(Rowe,R,)によって導入された、有益な教育の. 確保を目的とした出来高払制度の勧告(16)はそのあらわれのひとつである。これは生. 徒を試験することで、間接的に教員=学校の能力を査定し、それにもとづいて補助金 額を決定するという、きわめて功利的で効率的な公的補助制度である。学校教育の結 果にアカウンタビリティを求めたという点でもきわめてユニークな制度だといえる。. しかし、出来高払い制度は生徒に対する道徳的訓練を無視して、試験に反映しやす い3RSの修得のみに教員を向かわせる危険性をもつことになった。このことは教員養 成にも影響を与えた。出来高払い制度は、教員の資格取得による給与補助をなくした。. そのため、教員養成校(これも委員会によって、教員にとってはレベルが高すぎると 評価された)への入学者が減少し、結果として、国庫に負担をかけていた有資格教師. への補助金を軽減することになったのであるが、教員の専門性の低下はまぬがれなか った。. ニューキャッスル委員会が軽減しようとしたのは経済性だけではない。地方教育委 員会の設置も宗派立学校を直接監督するものとしてではなく、事務を肩代わりするこ とで中央の負担を軽減するためものとして考えられていた。委員会が求めたものは結 果のはっきりとでる安価で効率的な教育政策だったのである。. 3 教育制度の成立 宗派主義とボランタリズムは表裏一体のものとみなすことができる。ボランタリズ ムは国家関与と一線を画するが、それゆえに各宗派間では反目を生みやすい。とくに イギリスにおける最大宗派であった英国教会は下部組織である国民協会立学校によっ て宗派教育を行うことで学校教育による自派勢力の伸張を目論み、他宗派との難壁が 生じていた。. 1870年の初等教育法(フォスター法)は、グラッドストーン内閣の下で成立したが、. 効率的に学校施設を普及させたいという現実的判断によって、宗派主義と妥協するこ とになる(17)。学校施設を供給できない地域では学校税の設定と学校委員会の設立を. 要求したのであるが、既存の学校には旧来の方式を適応した。そのため、宗派立学校 のほとんどは学校委員会の管理も地方税の収奪も受けることなく補助金を手にするこ とができた。さらに、学校設立に猶予期間が設けられたため、その間に2400校以上の. 5.
(11) 新設校が宗派によって建設され、40万ポンドの国庫補助金が支出された。結果として、. 学校委員会による公立の学校と宗派立の学校の二種類の学校が並立することになった。 宗派、特に国教会にとって有利に働いたのは、学区の設定に当たって教区が用いら れたことである。そのため、学校委員は職務上制約を受けることになり、他宗派の子 どもたちにとっては宗教上の不公正になってしまった。もちろん時間外に行われる宗 教教育に子どもを出席させない権利を持つという良心条項(18)はあったものの、非国. 教会の子どもたちが宗教教育を受けられないことにかわりはない。学校委員会の管理 下にある学校では宗教教育は聖書についてのみ認められたが、コントロールを受けな い宗派学校では改宗のための授業が行われない保証はなかった。. 宗派立学校が、学校委員会の管理を受けないということは、校区=教区内の子ども たちの就学に強制力を発揮することができず、学力面でも不公平をもたらすことにな る。親たちは召喚を受ける最低限度以上の出席の必要性を子どもたちに認めなかった。. さらに教員の不足と出来高払い制による悪循環によって学力を伸ばすにいたっていな かった。. 1876年の教育令は、子どもたちが等しく教育を受けられるように就学の強制と罰則 規定を設けた。10才未満の雇用は禁止され、中位以上の学力証明書がなければ14才ま での児童を雇用することができなくなった。まさに初等教育法の弱点を補完するかの ような法令である。執行機関としても就学督促委員会が設置されたが、学校委員によ る督学をうけない宗派立学校にとっては生徒を増やす要因として歓迎された。 同時代人として、トーマス・ヒル・グリーン(Green,T.H.)は宗派立学校の賊雇を批. 判し、学校委員会制度の拡充によって宗派立学校を監督し、中央の支配下におくこと を提案している(lg)。自由主義者として処刑されたグリーンらしからぬ提案であるが、. それほど公教育にとって宗派が阻害要因とみなされていたのである。宗派の持つボラ ンタリズムは国家からの中立を意味するものであったとすれば、国庫補助を受けた時 点でボランタリーとはいえなくなっている。金は受け取るがボランティアだから口は 出させないという教会の理屈を通したがために、公教育としては不安定なものとなら ざるをえない。国教会という特定宗派に益する措置によって教育の公正さは損なわれ、. 宗派学校が温存された結果として、学校制度の二元性が生じたのである。 宗派立学校をめぐる問題点を抱えながらも、1870年の初等教育法によって義務教育 が実態をともなったものとして成立する。国家機関としても1858年に枢密院教育委員 会と科学技芸局が統合して設置された教育局が、1899年に文部省に改組されることで、. 国家政策として教育問題があっかわれるようになるが、福祉国家を標即して国家介入 が自明化されるのは第二次世界大戦における総力戦を待つことになる。. 4・公教育成立期の問題点. 6.
(12) ロバート・ロウは第二次選挙法の改正についての演説(20)で「大半が無教養である. 国民大衆に我が国の全権を託する前に、我々はその行使の仕方について彼らをもう少 し教育する必要がある」と語っている。このあとに有名な「We must educate our. masters.」という警句が続くのだが、全世帯主が選挙権を持つようになった選挙法の改 正が与えたインパクトの強さが想像できる。一般大衆がご主人様になるためには、「優 れた書物と自然法則についての知識」(21)の修得が必要である。が、実際には「工場. があり原料が速やかに搬送されているのに、期待されるような製品ができあがっては こない」(22)とグリーンに皮肉られるありさまである。たしかに、成績証明書が雇用. 上必要だという教育令に従えば、学校は労働者という製品を作る工場にたとえられて もおかしくはない(23)。. これまで略述してきたように、国家と宗教=教会との確執が公教育の順調な発達を 阻害してきた要因だといえる。その対立の原因となるのが、教会の教育既得権である。. 教会が従うのは神の法であり、国家が従うのは王の法である。これは学校という場に おいても当てはまった。その意味でも、教育活動によって自派勢力の拡大をはかる宗 教団体にとって、国家が学校管理に介入してくるという事態は許し難いものであった。. しかし、国家と宗教の蜜月時代があったことを忘れてはならない。宗教的イデオロ ギーによる道徳的支配によって、教会が創ろうとしたのはよき信者という身体である。 神の法と王の法とが合致していた幸せな時代には、王権は神に与えられたものであり、. よき信者とよき国民とは同じものであった。政治システムと宗教システムが未だ分化 せざるそのとき、王の正義は神によって正当性を与えられていた。教会は国家権力に 疑いをいだかせぬものとして、よき市民として国家に貢献を促すものとして、つまり、. 国家のイデオロギー装置として機能していた。国家が教育に介入せず、宗派に任せる ことができたのは、宗派立学校が造ろうとした製品と国家の求める製品とが一致して いたからである。近代学校が成立するはるか以前には、国家と教会とは意見の一致を 見ていた。一致した意見とは、イデオロギーによって教会=国家の支配を受けさせる ことであり、国家と教会の幸せな時代はその限りにおいて続いていた。. 近代化の過程において、政治システムが権力/非権力をコミュニケーション・メデ ィアとしてシステム分化すると、宗教システムは外部環境として複雑性(ありそうも ないこと)へとはじき出されてしまう。王の法が神の法の庇護を脱したとき、外部か ら正当性を与えていた宗教に代わって、システムじしんが自己産出を通じて自己を正 当化するようになる。王の法と神の法とが里勝をきたしはじめ、教育する権利をめぐ って対立しはじめると、よき信者とよき市民とが分離し、よき国民製造装置として公 立学校が機能しはじめる。国家は、教会よりもはるかにコントロールの効く学校を通 じてイデオロギー支配を目論むが、それは教会側にすれば国家という後ろ盾を手放す ことでもある。教会は学校を通じて信者を獲得し、学校を通じて国家とかかわるしか. 7.
(13) なかった。それが、教会が学校を自分の手の内に収めようとする一方で公教育をライ バル濾してきた要因である。. 近代学校を阻害してきたもう一つの要因は自由放任主義である。自由市場による調 整作用を「神の見えざる手」とする立場からすれば、若年労働者を囲い込む学校は、 神の手を払いのける制度であるかのように映ったとしても当然である。 自由放任主義者は子どもを労働市場の要因として自由競争の場に入れようとする立 場にたつ。そこでは、子どもも大人も労働者としては区別なく自己決定できる個人と してみなされている。当然それは建前上のことで、実際には安価な労働力を確保した いという産業資本家の合理的判断が働いている。一方、国家介入としての学校制度は、. 将来の労働者として若年労働者を確保することを目的としている。労働力の消耗を防 ぐためではあるが、そこには未成熟で保護が必要な存在としての子ども観がうかがわ れる。子どもをカテゴリー化することによって自己決定できる個人と差異化し、近代 学校というシステムが子どもを囲い込むことによってそのカテゴリーを自明なものと して制度化する役割を果たす。その過渡期の問題として、公教育と自由放任主義との 対立が生じたといえる。. 自由放任主義は経済恐慌や階級対立といった社会的矛盾の出現によって破綻した姿 を見せ、やがて総力戦の下で国家関与の肥大した福祉国家体制にのみこまれていく。 それでも、学校と自由放任主義との関係は、決して清算されたわけではなく、近代学 校の行方を見据える上でも重要な要因となってくる(24)。. 第1章第1節注 (1)三好信浩1968 『イギリス公教育の歴史的構造』 (p.33−4). (2)杉尾宏1977 「イギリス近代公教育の成立とその発展(一)」 『大谷大学大学紀要』11−2(p71−2) (3)同上書(p76−7). (4)同上書(p.79) The Rights ofManやAge ofReasonなどの書物である。. (5)ロバート・オーエンについては、三好前掲書(p.49−51)およびSimon,B.1960成田克矢訳 『イギリス教 育史1』(p.226−34)参照。. (6)Green,T.H.1911松井一麿他訳 『イギリス教育制度論』(p.6)。結成は1816年、報告書の発行は1818 年である。 (7)杉尾前掲書(p.85). (8)Swift,J.1745深町弘三訳 『奴碑訓』所収。. (9)この年、議会選挙法の改正が実施された。 (10)杉尾前掲書(p.87). (11)子どもおかれた悲惨な状況については、篠田弘・鈴木正幸・江藤恭二1992『子供の教育の歴史』 (p.41−3)、道徳的退廃については、北本正章1993『子ども観の社会史』(p。90−7)を参照のこと。 (12)杉尾前掲書(p.97)。こうした国際競争は、1825年の世界恐慌に起因する。 (13)同上書(p.104)。当時のプロシアは60万ポンドであった。しかし、グリーーンによると、枢密院教育委. 員会が予算管理をすると、数年のうちに200万ポンドに巨大化したという(Green前掲書(p.12))。 (14)杉尾宏1977 「イギリス近代公教育の成立とその発展(皿)」『大谷女子大学大学紀要』ll−4(p.81). 8.
(14) (15)同上書(p.88). (16)Green前掲書(p.29) (17)同上書(p.49−50) (18)同上書(p.55) (19)同上書(p.72−5). (20)同上書(p.80)補注より引用。 (21)同上書(p.77) (22)同上書(p.78). (23)それでもグリーンによれば不経済な工場ということになる。 (24)功利主義的自由主義者たちを現代の教育自由化の先駆としてとらえるものに、Coons,J.&Sugarman,S.. 1978白石裕監訳『教育の選択』や白石裕2000 『分権・生涯教育時代の教育財政』などがある。. 第2節 日本の近代化と学校制度の形成 日本の場合にはやや特殊な事情を勘案しなければならない。それは明治国家によっ て初等教育が整備される以前から、郷校や寺子屋などの庶民教育がある程度浸透して いたことである。もちろん仕事に必要な(労働力再生産のための)読み・書き・算盤 や礼儀作法中心の基本的な教育内容であったが、江戸時代の識字率は国際的に見ても 飛び抜けていた。また、支配者階級の武士層だけでなく、ある程度の資本を蓄積した 商・農民層でも芸術や哲学を享受することができた。情報網も発達し、木版印刷によ る出版物は全国に階層を越えて流通していた。茶の湯や都響などのいわゆる芸道には 庶民の参加も見られたし、心学や国学といった庶民階級中心に広がった学問体系もあ った。同時代において、資本主義先進国であるイギリスをはるかに凌駕するだけの文 化的な広がりがあったのである。また、産業面では家内制手工業が発達し、都市にお いては三井家のような企業化された産業資本家層も成立していた。その意味で、江戸 時代をプレモダンの、汚れなき理想郷と捉える見方には一線を画す必要がある。近代 の揺藍はすでに江戸時代に始まっていたといえる。. しかし、国家システムがはっきりと家族システムに介入し、法令の形で制度化され ていったのは明治維新以降である。近代日本が成長する過程で、教育システムが整備 され、学校は「幻想の共同体」を担う「国民」製造装置として整備されていく。その 鏑矢となるのが「学制」の発布である。 以下の法令の引用は特に断りのない限り文部省編1972『学制百年史(資料編)』(以下『百年史』)による。. 1学制発布 明治初期の学校制度は学制発布から始まる。 「学制」に込められた教育政策上の思 想は以降の日本の学校教育に大きな影響を与えることになる。. 新国家形成の中核のひとつとして教育政策をいかにとるかについて、明治政府はき. 9.
(15) わめて復古主義的な二つの選択肢を持っていた。ひとつは律令制度下にあった大学寮 の復活である。中心となったのは掌骨操、平田鉄胤、矢野玄道ら国学者による学校掛 であったが、京都学習院復活派との確執もあり、京都に成立した「皇学所」「漢学所」 は事実上空中分解してしまう。. いまひとつの選択肢は、旧幕の昌平坂学問所・開成校・医学校を接収し、それぞれ 大学本校、西校、医学校として編成し直すことであった。これもまた、内部抗争が発 生し、 「皇國ノ目的學者ノ先務ト謂フヘシ」(1)といわれた大学本校が開校以前に閉鎖. されてしまう。かくて、国学・儒学を中心に据えた復古主義的な学校政策は頓挫する。. こうした明治初年の学校制度案はあくまで選ばれた者のための学校であり、民衆に 対する教育という視点は欠けていた。また、教育内容は復古主義的であり、外蕃學(洋. 学)については技術・知識のみが要求され、西洋思想を取り入れる様子はなかった。 復古主義者にかわって、洋学を学んだ進歩主義者たちが民衆教育を意識しはじめる。 伊藤博文は明治2年2月1日に『國是綱目』(2)を提出する。彼は「欧洲各國ノ如ク文 明開化」をなしとけ、「人々ヲシテ弘ク世界有用ノ學業ヲウケシメ」る必要を説いた。 そのため、「新二大興野ヲ設ケ、薔來ノ學風ヲー攣セザル可ラズ。乃チ大四四ハ東西?. 京二榮シ、府藩縣ヨリ郡村ニイタル迄小學校ヲ設ケ」ることを提案する。 復古派の総帥的人物であった岩倉具視もまた、明治3年3月8日に『建胃壁』を提出す る。この献策は郡県制の実施を眼目におくが、彼ははっきりと書く。「僧家ヲシテ文 明二導キ、富強二赴カシムル」(3)ものは大学に隷属した中小学校の設置であると。岩. 倉の教育案の射程には国家富強が納められていた。ここには文明開化二学校の設置= 国家富強という等式が成り立つのである。下級藩士であった伊藤にとっては、洋学を 学べばこその現在の地位であり、学業を受けることの有用性が実感できたのであろう し、それゆえ旧弊を一新する事に注目したのだろう。一方生まれながらの貴族であっ た岩倉にすれば、重要なのは変革よりも、国家の維持、発展であった。 政府が示した『下府縣施政順序』(明治2年)には洋学系進歩主義者による献策に呼 応するかのような、 「小野校ヲ設ル事」という一条がある。 「専ラ書跡素讃算術ヲ習ハシメ願書書翰記牒算勘等其用ヲ閾サラシムヘシ又時々講談ヲ以國膿時勢ヲ辮 へ忠孝ノ道ヲ知ルヘキ様教諭シ風俗ヲ敦クスルヲ要ス最早画料二秀テ引続進達ノ者ハ其志ス所ヲ燧ケシ ムヘシ」(4). 教育内容として3RSと道徳が重視されている。3RSの重視は実用に益するためであ り、市場への労働力の提供を意味するといってよい。また、道徳の内容は忠孝と国体 時勢であり、早くもイデオロギー装置としての学校がイメージされているといえる。 国体=国家に対置されるものが個人であるが、書読算の習得はその個人の志を遂げさ せるものだとされている。学制の先駆ともいうべきこの案は、個人の社会的成功を国 家の発展に重ねることでそのイデオロギー性を隠蔽している点でも注目されるべきで. 10.
(16) ある。. 郡県制下で全国に学校を展開したいという岩倉の考えは、明治3年の藩政改革の布告 によってかなえられることになる。各藩でも独自の学校制度の模索をはじめ、福山藩 や岩国藩のような地方小藩においても見事な学制改革案が提出されている。これらの 多くは洋学を大胆に取り入れ、藩の利益を越えた国家レベルの視野に立ったものであ った。やがて廃藩置県によって藩が消滅すると、すべての教育は国家の支配下におか れることになる。その中心となったのが、明治4年に設置された文部省である。民衆教 育の総仕上げ的に文部省が誕生したイギリスとは逆に、日本では民衆教育の黎明以前 に文部省が成立し、日本の教育制度を構築してゆく。日本の教育は発足当初から、上 からの教育改革が運命づけられたといってもよい。 もちろん江戸時代以来の民衆教育の伝統は絶えたわけではない。福沢諭吉は明治5年の「京都学校の記」で、 町衆の力によって設立された京都市の学校に触れ、「野天恰も故郷に帰りて知己朋友に逢ふが如し」と述べて いる(5)。. 初代文部卿となった大木喬任は「学制取調掛」を任命し、学制の制定をはじめる。 取調掛は「和蘭学制」を刊行した内田正雄や「佛國学制」を翻訳した河津祐之などの 洋学者中心で構成された。明治4年12月2日の任命からほぼ一月で左院に「学制大綱」 が提出されるが、「被仰出書」が附せられたのは明治5年8月2日付、「学制」の正式公 布は同年8月3日と公布までにタイムラグが見られる。. 発布までに時間がかかった理由は数点ある。ひとつは政治的空白であった。政府中 枢が国外にある中で首脳部の確執が発生し、学制どころではない緊張がはしっていた。. また、文部省内部でも、学区制のあり方をめぐって文部大輔福岡孝弟による「学制発 布猶予の建議」などの反対意見だされていた。しかし、何よりも「学制発布」に立ち はだかった障害は、財政面での折り合いがっかなかったことである(6)。その事情を示. すかのように「学制」の九九条は、金額が空欄のまま公布された。財政の裏付けのな いままに全国規模の学校組織を作り出すような無茶を行ってもまだ、文部省としては 「学制」を公布したかったのである。. 「学制」は全国の8大学区を32中学区に、その中学区を210の小学区に分け、それぞ れに大学・中学校・小学校を設立、全国で大学8校、中学校256校、小学校53,760校を 設けることを計画した。初等教育機関として上等・下等小学校が設けられ、各4年間「必. ズ卒業スベキモノ」とされた。こうして6才から13才までの日本国民は小学生として差 異化されることになる。下等小学校の教育内容は、綴り字、習字、単語、会話、読本、. 修身、書順、文法、算術、養生法、地学大意、理学大意、体術、唱歌(当分欠く)で あり、上等小学校ではさらに、史学大意、幾何学罫書大意、博物学大意、科学大意を 学び、必要に応じて外国語学、記簿法、書学、天球学を加えられた。旧幕時代に寺子. 屋でも教授されていた3RSを中心科目におく一方、洋学を大幅に取り入れている。ま. 11.
(17) た修身、唱歌と体術が加えられている(7)。. 中等教育としては大学に接続する中学校、専門学校につながる外国語学校の他、師 範学校や農・工・商学校が設定されている。高等教育として大学と専門学校が設けら れており、特に専門学校は外国文化の導入を目指して構成されていた。 それまでに存した各地方の学校はすべて学制による学校に編入され、日本における 学校はすべて文部省の管理するところとなった。「邑に引照の戸なく、家に不學の人」 (8)のいないように、日本国民はすべて文部省管轄下の小学校を通過することになり、. かくして、初等教育については制度上完全な平等が確立されたのである。これは、学 制に遅れて明治5年12月29日に発行された「徴兵」の詔書とシンクロしていることは言 うまでもない。教育=文明開化による殖産興業と徴兵制とが富国強兵のための両輪で あるというだけでなく、国民の学力・体力を均一化することで徴兵訓練を容易にする など、軍隊という国家装置に対して教育システムが人員供給などでサポートを果たす ことになる。. 最終的には二百章を越える学制の基本的コンセプトは、その前文ともいえる太政官 の被平出書によって知ることができる。. 被門出書によれば、学校は「身を工め智を開き才学を長ずる」ことで「人々自ら其 身を立て其産を治め二業を昌にして以て其生を遂る」ためにある。 「學問は身を立る. の財本」だと学校の有用性をアピールし、「国家の為に」学問するなどと唱える者は 自分自身のために学ぶことを知らず、「詞章記諦」 「空理虚談」に陥って実際には役 に立たないと言いきってしまう(g)。. ここにあるのは強烈な「実学思想」であり、きわめて個人の発達を重視している。 学制の内容に三田の文部卿こと福沢諭吉の強い影響が認められるというのは定説であ るが、国家のためでなく自分のために学べという「被抄出書」はきわめて啓蒙主義的 であり、個人主義的な様相を見せている(10)。しかし、個性(個人)を主張するときに. は概して国家が対置されるものである。その意味では学制は他の政治的装置から独立 した教育装置を介して国民と国家とがストレートに向き合うような構造がつくられた。 学制の規定は学校による個人的な現世利益をうたったが、問題はそこに語られなかっ た部分である。. いったい学制は誰に向かって語られたのか。法令である以上、国民一般に向けられ たのは当然である。しかし、他でもない自分に対して語りかけているのだと実感して いるのは地方官吏たちであった。彼らは「地方官二戸テ辺隅小民二至ル迄不等様」(11). に努力する。特に督学局や学区取締たちは、その努力の中で、あえて「学制」が語ら なかったことまでも表出してしまうことがあった。. 文部省は「学制」施行にあったって、出発点である小学校を重視するように通達し ていたが、現実には後述のように、一般民衆の拒否反応は大きく就学率は低かった。. 12.
(18) そこで、奈良県や佐賀県のように有用性をよりPRしたり、埼玉県のように巡査によ って追い込んだりするなど、就学督励に努力することになる。. ところが、なかには「皇国」をもちだすことで県民を従わせようとする県も出現す る。「昂騰をして益泰山の安きにおく」(】2)ために大和魂を奮発して勉強せよという堺 県や「人民の父母たる朝廷の御恥辱にして一家の安危全國盛衰のよりて生ずる」(13.). ところだから学問愚かでは困るという愛媛県などである。地方官僚の強権的善意が太 政官布告の触れなかった部分をあけすけにさらけだす。土屋忠雄は「学制」が天下国 家を考えるがゆえに触れなかったことを真意の把握できない地方諭告が台無しにして いると捉えているが、慧眼である(14)。教育が個人に幸せをもたらすものであるなら、. それに反対したとしても、あくまで個人の問題として捉えられ、対国家の問題にまで 発展しないことになる。教育の主体を個人に求めることで、本来公教育のもう一つの 主体となるべき国家は隠蔽される。しかし、いかに学制が個人主義を装っても、学校 に行かない自由は制度上ないのだから、国家の存在を隠し通せるはずがない。 それゆえ民衆にとっては、学制の理想は家族システムに対する政治システムの暴刀 的介入として受け取られた。産業資本主義の発達したイギリスでは少年労働者の保護 と労働者層の育成は意味を持ったが、産業資本主義がいまだ未成熟な日本においては、 子どもはマニュファクチャーの重要な担い手として家族内に囲い込まれていた。突然、. 6才から13才の子どもに「小学生」というラベルが貼られたのであるが、幾人の親がそ のラベルに気づき、意味を理解したのであろうか。むしろ、労働力を奪われたその上 に、学費を負担せよというのでは泥棒に追い銭を与えるが如く映ったであろうことは 想像に難くない。子どもが行かないのではなく、親が行かせなかった。学制反対はさ らに徴兵制や地租改正など新政策への反対運動とシンクロしながら、各地で一揆を誘 発していく。その背後には国民の受けた経済負担の大きさがあった(15)。 明治6年の教育支出総額は1,570,179円であり、収入総額は1,939,098円であった。そ. れに対して、国家からの補助金は当初空白のままだったものの、生徒一人当たり9厘を 充当することになり、244,524円が支出された。国庫補助は全体の12%、単純計算で 1,694,674円を国庫以外が負担することになるという、 「けちくさい公教育法」であっ. た。授業料については、学制の規定では小学校で月50銭が規定されていたが、実際に は無料や半額以下の学校がほとんどであった。それでも全体で121,925円が支払われて いる。また、篤志家による寄付が370,532円、雑収入が103,790円である。問題は838,319. 円を捻出した市区町村費(学区割当金)の内容である。市区町村費(学区割当金)と は、実際には各学区内で戸別に割り当てられた、いわば用途限定の地方税である。そ れが年間数銭から一円以上にわたって徴収される負担は国民にとって大きかった(16)。. 学制による公教育案は、きわめて実学志向の強い個人主義的なものであり、財政面 でも「教育ノ設ハ人々自ラ其身ヲ立ルノ基タルヲ以テ其費用ノ如キ悉ク政府ノ正租二. 13.
(19) 仰クヘカラサル論ヲ待タス」(17)と受益者の自助努力が要求されている。ここでも国家 は最小限しか姿を見せず、多くはボランタリg一一一一な寄付金や特別徴収金でまかなわれた。. 教育施設についても、京都府のように熱心な府県は別として、新築校舎など望めず、 寺院や民家を借り受けての授業となる。旧幕時代の寺子屋であれば、必要な学習内容 を必要な人間が、経済状況に応じて学ぶことができた。学制施行下では教育機会は平 等に与えられたものの、経済的負担が増大した。負担が増えてもそれに見合った教育 内容であればともかく、寺院において専門の訓練を受けていない教師から学ぶのであ れば、寺子屋と変わらない。しかも実学をうたう小学校ながら、習うのは外国教科書 の翻訳文である(18)。きわめてコストパフォーマンスが低いといわざるを得ない。十分. な教育を受けさせる環境を整えるには、寄付金や特別徴収金を増やすほかなく、就学 児童を増やすための努力も空回りと反感を買うしがなかった。国家により政策的に分 化されたばかりの教育システムと経済システムや家族システムとの摩擦の中でおきた 自己観察が、D.マレーと田中不二麻呂という人を得て、「教育令」を産出する。. 2 教育令とその改正 明治10年は、急速な国家形成を行ってきた明治政府が地租軽減など自己反省を行い はじめた時期である。その背後には相次ぐ農民一揆や士族の反乱など、国家への暴力 的抵抗があった。特に、徴兵制穿下の西洋式軍隊が西南戦争に勝利したことは明治政 府に大きな自信を与えたが、財政面での破綻を引き起こし、政策上の変更を迫られる ことになる。. 学制に関しては、その特色ともいえる洋学を主とした授業内容と中央集権体制につ いての反省がなされた。教育システムの自己反省の中心となったのは、洋学重視に対 しては元田永孚ら明治天皇の持講たちであり、中央集権的教育体制については田中不 二麻呂や伊藤博文などの留学経験を持つ人々であった。. 田中不二麻呂は萩明倫館出身であり、維新後は学制以後の文部行政を主導した人物 である。明治9年に渡米して米国独立百年記念博覧会を視察、アメリカの教育状況を調 査した。帰国後、学監デビッド・マレー(Murray,D.)らと協力し、アメリカの教育制 度の影響を強く受けた「日本教育令」を作成した。. 「日本教育令案」は明治11年5月14日に太政官へ提出された。参議伊藤博文はこれを 審査し、 「教育令案」として大幅な修正を加えた。 「教育令案」は元老院の審査過程. で若干の削除を受け、明治12年9月29日に公布された。 田中=マレーの原案が、伊藤や元老院の審査を経ることによって、より簡略化され、. 放任主義的なものに代えられた。特に伊藤博文による修正は、反政府的活動を行って いた自由民権運動を意識したものであった(lg)。この時期の伊藤は、政府首班であった. 木戸孝允の病死と大久保利通の暗殺による政治的混乱の中にあり、一方で元田永孚ら. 14.
(20) の批判を受け、また一方で板垣退助ら自由民権派の攻撃を受けていた。元田らに対し ては、大久保の政策を受け継ぎ、持補職そのものを廃止に追い込んだものの、自由民 権派については、反乱への危機感もあって譲歩せざるを得ない状況にあった。 こうした政治状況の中で成立した教育令は自由教育令といわれるほどの内容を持っ ていた。何よりも学制の特徴ともいうべき学区制を廃し、学務委員を設置したことは、. 教育令を単なる「学制」の改正以上のものにした。学務委員を市町村レベルの選挙に よって選出するという規定は、地方行政が文部省によるコントロールから逸脱するこ とを可能にし、公立学校の存在を脅かすように私立学校が林立することになる(82)。. さらに、学齢を6才から16才までの8年間と定めたのは学制を継続しているが、「少 クトモ十六箇月ハ普通教育ヲ受クヘシ」 (教育令十四条)と必要最小限の就学期間を. 明示したことによって、かえって子どもを学校へ行かせるモチベーションをなくさせ てしまった。西南戦争後のデフレ財政の中、学制公布当初よりも民力は疲弊し、経済. 的な余裕のない親にとって、子どもは働き手であり、「生きた貨幣」であった。学校 は通わせなければならないところではなく、子どもにとっては強制的に収容される場 所である。教育は「父母及後見人等ノ責任」 (教育令十五条)であったとしても、学. 制反対一揆までも引き起こした人々にとってこの規定は学制の枷をはずすことを意味 し、政府の設定した必要最小限の就学期間が、国民の目には最大目標のようにうつっ たとしてもしかたがない。「学校二入ラスト難モ別二普通教育ヲ受クル途アルモノハ 就学ト倣スヘシ」 「学校ヲ設置スルノ資力二乏シキ地方二於テハ教員巡回ノ方法ヲ設 ケテ児童ヲ教授セシムルコトヲ得ヘシ」 (教育令十七条、十八条)などの規定も同様 に就学の義務性を希薄にしている。. 教育令は公教育の法令というにはあまりにも「公」が隠れてしまっている。国家が かかわるのは、教育事務が文部卿の監督下にあるという第一条、公立学校の教則に文. 部卿の認可がいるという第ニ一条、補助金にかかわる二八・二九条、巡視や報告にか かわる三九・四〇条である。もちろん管理監督にかかる大事な部分は押さえてられて いるのだが、教育行政は府知事県令の裁量下におかれた。. 教育令による規制緩和と分権化は、地方・中央の双方から反動を呼ぶ。明治13年の. 地方官会議において、京都府知事と山梨県令とが連名で提出した教育令改正の建白書 に代表されるように、地方官僚にとっては、教育権を移譲されてもありがた迷惑であ った(20)。. 一方、国家中枢においては、明治天皇じしんが教育令への不快感を持っていた。明 治11年の教育令審議の時期に明治天皇の意向を元田永孚がまとめた「教則大旨」では 教育令とは逆の意向が示されていた。ここで主張されているのは仁義忠孝の重視であ るが、それ以上に強調されているのは洋学への批判である。文明開化の結果、品行は. 破られ風俗はそこなわれ、西洋の長所を取り入れることに効果はあっても、仁義忠孝. 15.
(21) を後回しにして、君臣父子の大儀を忘れていると元田は書く。特に「是我邦教學ノ本 意二等サル也」(21)とは強烈である。これは洋学を重視した学制への批判であり、被仰. 出書で「国家の為にすと唱へ身を立つる基たるを知らずして或は詞章記諦の末に趨り 空理虚談の途に陥り」と書かれたことへの儒教側の反撃でもある。. しかしながら、儒教道徳をもって「我邦教學ノ本意」というのでは、近世から明治 維新を主導してきた国学思想を無視することになる。国学は徳川幕府を支えたイデオ ロギーとして儒教道徳を指弾した。国学にすれば、洋学にしても儒学にしても外来思 想に違いはない。それゆえ、本居宣長は「古事記」をもって大和魂を明らかにしょう としたのであり、平田篤胤は日本の神こそが世界の宗教を支配していると論じたので ある。彼らの後継者が王政復古を唱え、明治維新へとつながつたにもかかわらず、こ こで徳川時代のイデオロギーが復活し、日本精神の(新たな)伝統として創りだされ る。近代日本は他の多くの産業革命以降の国家がそうであったように、家族システム における家制度や宗教システムにおける国家神道のような多くの相似的伝統を創出す る。. さらに小野鳩目二件として、仁義忠孝を感覚させるため、忠臣義士について絵画写 真を用いて教えること、教育内容に高尚空論が多く現場で役立たないので職業に結び ついた内容をとることという、学制の教育内容を補完するというよりは全面否定する かのような案が附されていた。これは、教育令とは違った方向からの学制改革となり えたものであり、学制の記述を越えて国家の為の教育を口にした地方官吏と通じるも のでもあった。. 「教學大旨」を審議中の教育令に生かすべく要請された伊藤博文は、 「教育議」を. 奏してこれに反撃した。元田もまた「教育議附議」を奏上し、天皇をはさんで伊藤と. 元田が(政府と宮中とが)対立する。伊藤の論は基本的に「学問のすすめ1として実 学を重視し、「政談の徒過多ナルハ国民ノ幸福二等ズ」(22)として、民権家は洋学を中. 途半端にしか理解できない漢学から生まれたと、暗に宮中派を批判する。一方、元田 にとっては孔子の学=儒学こそが学問であり、儒学を軽視するかのような教育制度な ど許し得ない。. 結局、教育令に「教學大旨」が生かされることはなかった。忠孝どころか、国家の 影響力を後退させた法令である。民衆の学校離れと地方官吏の反対を生む結果となり、. 政府としても自由民権運動への懐柔から対抗へと政策転換がうつるなかで、民権派に 評価されるような教育令を維持する必要はどこにもなくなっていた。かくして、明治 13年に田中不二麻呂が更迭され、河野敏鎌文部卿の下で教育令の改正が始動する。. 河野はまず、地方官吏に教育令の問題点について意向をまとめさせた。一方、明治 天皇より行幸にあわせて各地の教育事情を視察し、報告することを命じられる。この ことが、 「教學大旨」の意向を盛り込まざるを得ないという、官吏としての河野を縛. 16.
(22) りつけるルールを創りだしてしまう。. 河野文部卿による教育令改正案の基本的コンセプトは、 「教育令改正案ヲ上奏スル. ノ議」において「文明ヲ以テ稻セラルル國ニシテ普通教育ノ干渉ヲ以テ政府ノ努メト セザルハナシ」(23)と記載されるような干渉主義である。彼にとって学制の問題点は干. 渉の過度ではなく、干渉の途轍を過ったことにあり、学制は失敗したのではなく、実 現に日が足らなかったから民間に浸透しなかっただけである。上下の意向を汲みつつ、 干渉主義的教育令改正案は明治13年12月28日に布告される。. 改正の要点は干渉主義に基づいた。まず、就学義務が強化された。最低必要な就学 期間が16ヶ月から3年に延ばされ、就学の免除についても、府知事県令の起草=文部卿 の認可が必要になった。同時に巡回授業や不就学普通教育についても基準を設けるこ とで中央の統制がかかるようにした。就学義務の強化は同時に中央の規制強化でもあ ったが、それを求めたのは、中央文部官僚ではなく文部卿の諮問を受けた地方官吏た ちであった。. 学務委員についても中央の規制はその選任に干渉することになる。各市町村におい て選挙で選ばれていたものが、府知事県令の選任、文部卿の認可によるものとなった。. また、学務委員には戸長を入れることが明記され、後には地方の有力者の選任が通達 された。その学務委員の申請によって教員が府知事県令の任命を受けることになり、 教員一学務委員一府知事県令一文部卿という秩序が創られた。教員選定だけでなく、. 公立学校教則についても府知事県令一文部卿の統制を受けた。子どもたちは、元田永 孚の意を反映した修身を筆頭に、読み書き算を最低3年間教授されることになる。ちな みに、修身の教科書は元田派の西村茂樹による「小学修身訓」が用いられたように、 元田派の巻き返しが見られる。. 元田永孚の「教學大旨」に見られた仁義忠孝の尊重は、教科としての修身に生かさ れる。また三目二件で触れられた、実業教育についても、教育令になかった専門学校、. 農学校、商業学校、職工学校等を設置することが付け加えられている。実業学校につ いては、河野興野が農商務省に移動後、文部省との問で管轄をめぐる確執が起こり、 農学校・商船学校については農商務省に移管された。このことからも、国家としては 最悪の経済状況を脱する可能性を実業教育に求めていたことがうかがえる(24)。. この教育令改正を補完するかの如く、明治14年6月に文部省から通達されたのが「小 学教員心得」(25)である。この第一項に「人ヲ導キテ善良ナラシムルハ多識ナラシムル. ニ比スレハ更二緊要ナリトス門戸教員タル者ハ殊二道徳ノ教育二分ヲ用ヒ」ることが あげられている。道徳の内容として、小学生が「皇室飛騨ニシテ国家ヲ愛シ父母二甲 山シテ長上ヲ敬シ朋友二信ニシテ卑幼ヲ慈シ及自己ヲ重ンスル下野テ人倫ノ大道二通 暁セシメ」るよう教員が模範となることが書かれている。. しかし、当時の政治経済状況を考える上でもっとも重要な改正は、文部省からの補. 17.
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