(1)土屋忠雄1962 『明治前期教育政策史の研究』(p.2−6)
(2)山住正己編1990 『日本近代思想大系5教育の体系』(p.9−13)
(3)同上書(p.12)
(4)土屋前掲書(p,9)より引用。
(5)山住編前掲書(p.22)。また、京都市歴史博物館編1998 『京の学校歴史探訪』参照。
(6)土屋前掲書(p.27)
(7)『百年史』(p.12−29)
(8)同上書(p.11)
(9)同上書(P.ll)
(10)土屋前掲書(p.56)。福沢諭吉と「学制」との関係については、土屋前掲書始4章「鼓吹された文明開 化と実学思想」参照
(ll)『百年史』(p.11)
(12)土屋前掲書(p.57)
(13)同上書(P.58)
(14)同上書(P58)
(15)同上書(p.98)
(16)支出については『百年史』(p.282)、収入については同書(p.290)より引用。
(17)『百年史』(p.17)
(18)海後宗臣・仲薪・寺崎昌男1999 『教科書でみる近現代日本の教育』(p.37−48)。たとえば、文部省 編集の『脩身口授』をみると、登場人物は外国人であり、挿し絵も外国の風景である。
(19)土屋前掲書(p.169−72)
(20)同上書(p.lgO)
(21)『百年史』(p.7)
(22)山住編前掲書(p.83)
(23)同上書(p。IOO)
(24)土屋前掲書(p.218)
(25)山住編前掲書(p.126)
(26)『百年史』(p.290−1)より算出。
(27)同上書(P.290−1)
(28)同上書(p.272−3)
(29)同上書(p。282−3)
(30)同上書(P.218−9)
(31)『百年史』(p.90)
(32)ハリスについては、http:〃www.geosities.co.jp/HeartLand/8808/rofiles/tlharris.htmを参考にした。
(33)山住編前掲書(p.137)
(34)同上書(p.141)
(35)海老原治善1991 『現代日本教育政策史』(p.109)
(36)『百年史』 (p.90)
(37)海老原前掲書(P.122)
(38)『百年史』(p.8)
(3g)副田義也はこれをユートピアになぞらえている。副田義也1997 『教育勅語の社会史』
(40)海老原前掲書(p.125−8)
(41)『百年史』(p.100−3)
(42)同上書(p.214)
(43)Giddens,A, lggO松尾精文素訳1993『近代とはいかなる時代か?』(p.35−44)
(44)Postman,N.1982小柴一訳1995 『子どもはもういない』(p。73−8)
(45)高木侃1992 『三ぐだり半と縁切寺』(p,62−3)
(46)池田弥三郎1979 『池田弥三郎著作集5』所収の『はだか風土記』には、民俗社会における性の事例 が多く乗せられている
( 47) Embree,J.F. 1939 SUYE MURA The Univ. of Chikago Press
(48)池田前掲書(p.555−6)
(49)河原和枝1998 『子ども観の近代』(p.106−ll)
(50)同上書(p.g8.102)
(51)鈴木栄太郎1940 『日本農村社会学原理』(p.244)
(52)及川宏1940 「同族組織と婚姻および葬送の儀礼」 『民俗学年報2』(p.1−40)
(53)川島武宣1957 『イデオロギーとしての家族制度』参照。
(54)上野千鶴子1994 『近代家族の成立と終焉』(p.69)
(55)前田卓1976 『姉家督』参照。
(56)柳田國男1945 『先祖の話』(p.g)
(57)同上書(p。130以降)、柳田の先祖観については、森岡清美1984『家の変貌と先祖の祭』所収の「柳 田民俗学における先祖観の展開」参照。
第3節 学校の宗教化一学校行事と総力戦
前節までで見てきたように、明治期の学校は擬似宗教組織ともいうような非合理要 素を持っていが、同時に、その組織のあり方はきわめて合理的・官僚制的なものであ った。こうした非合理性と合理性との混在は国家形成期の混乱がもたらしたものでは なく、近代という場が持つ固有の問題だと考えることができる。
近代の時代精神ともいうべきものは合理性である。合理性とは、ある目的に対して 最も有効な手段を理性的に判断して効果的に実行することである。その場合、特定の 価値基準を設定するのが実質合理性であり、価値判断なく技術的正確さによって計算 されるのが形式合理性である。M.ヴェ・一一・バー(Weber,M.)は形式合理性を近代文化固有 の特徴とみなしたが、しかし、日本の近代化には、国家神道のような非合理的要素が 濃厚に見られる。もちろん、社会学の伝統において、非合理もまた見逃すことのでき
ない要素として重視されてきた。
たとえば、M.ヴェーバーは資本主義の精神にプロテスタンティズムのエートスの影響を見た。人間の行為を直 接に支配するのは利害関心であって、理念ではない。しかし、理念がつくりだした世界像が再帰的に軌道を決定 し、利害関心がその軌道に沿うかたちで人間の行為を押し進めるのである。プロテスタンティズムの約束された 救済という「合理化された世界像」によって、利害関心の集積ともいうべき資本主義の精神がうみだされたという
のである(1)。
特にカルヴァンの唱えた「被造物神化の否定」教義は、究極的には非人間的な意識 変革と合理的組織をもたらした。それが近代的合理性であり、官僚制である。ならば、
合理性の背後にある世界像の形成には非合理な理念が介在することも当然考えられる。
しかしウェーバーは、永遠に続くであろう資本主義という合理化を手放しで賛美したわけではない。「精神のな い専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた と自惚れるだろう」という、ニーチェの予言めいた言辞の引用がそのことを示している(2)。
近代官僚制国家としての明治日本が行ったのは、宗教による国家統制であった。明 治初期の官制を見れば太政官と神祇官とが同等におかれ、宗教政策を重視していたこ
とがうかがわれる。官制の変更が行われたあとも、教化局がおかれ、宗教行政は重視 された。宗教国家とはおおまかにいえば信者と国民とが一致する国家であり、国家元 首が宗教教団の長を兼任するような国家である。具体的には現世の王でもあるカリフ が支配するオスマントルコや教皇と皇帝が同一人であるビザンチン帝国のような国で ある。大日本帝国もまた、天皇が宗教的指導者と統治者を兼ね左国家になりたかった。
もっとも、日本にはムスリムやキリスト教のような一神教団は存在せず、そのために 擬似一神教団をいちから創る必要があった。そうしてできあがったのが国家神道であ
る。
幸い、古事記、日本書紀の神代記には天皇の先祖が支配権を世界の中央神たる天照 大神から受け取ったという内容があったため、アッラーやヤーウェから王権を授かる
必要もなく、天皇そのものを現人神として神格化することで国家と教団の二重性を曖 昧にし、大日本帝国という宗教団体を形成しようとした。その教宣部ともいうべき存 在として学校をデザインしたのが、アメリカでカルト教団に所属した経験を持つ森有 礼である。
日本の近代学校がその内部に宗教的要素を含むのは、キリスト教団とのかかわりが深い西洋の教育制度を 忠実に移設したからだけではない。新しい制度は脆弱である。その脆弱さを補強し、存在を正当化するものが必 要である。「合理化された世界像」としての国家神道がまさにそれにあたる。
本節では、国家総動員体制に至る過程を追いながら、宗教的非合理性と科学的合理 性をその身に負いつつ完成していった近代学校の姿を明らかにしたい。
1祝日大祭日規定
学校にはさまざまな行事がある。小学校学習指導要領平成12年度改訂では、 「学校 行事においては,全校又は学年を単位として,学校生活に秩序と変化を与え,集団へ
の所属感を深め,学校生活の充実と発展に資する体験的な活動を行うこと」(3)と規定 されている。学校行事の目標のひとつが集団への所属感形成なのは明白であり、ここ でいう集団とは、もちろん学校集団のことであるが、そこで陶冶されるのは学校を越 えた集団への所属感であり、家族、地域社会、そして国家へと転化していくものだと みなしてもよいだろう。これまでに見てきたように、近代学校は福祉国家としての近 代国家による政治的介入として発展してきた。日本においても、教育は国家の大計と
して語られ、国家発展のための人材育成装置として機能してきた。学校が国家機関の ひとつである以上、国家を語ること抜きにして学校を語ることはできない。学校行事 についても、国家の規定した行事が各校の裁量を越えて全国同日に行われることにな
った。
明治24年、学校行事を規定した法令として「小学校祝日大祭日儀式規定」が文部省 令として公布される④。
第一条 紀元節、天長節、元始節、神嘗祭及新嘗祭ノ日二於テハ学校長、教員及生徒一同式 場二参集シテ左ノ儀式ヲ行フヘシ
一学校長教員及生徒 天皇陛下
皇后陛下ノ 御影二対シ奉り最敬礼ヲ行ヒ且 両陛下ノ万歳ヲ奉祝ス
ニ学校長若クハ教員、教育二関スル 勅語ヲ奉読ス
三学校長若クハ教員、恭シク教育二関スル 勅語二基キ 聖意ノ在ル所ヲ謳告シ又ハ 歴代天皇ノ 盛徳 鴻業ヲ叙シ若クハ祝日大祭日ノ由来ヲ叙スル等其祝日大祭日二相応スル 演説ヲ為シ忠君愛国ノ志気ヲ酒穿下ンコトヲ務ム
四学校長、教員及生徒、其祝日大祭日二相応スル唱歌ヲ合唱ス
学校長、教員及生徒とは、学校の構成員ほぼすべてである。彼らが執り行うこの儀 式のほとんどは天皇・皇后の誕生日や皇室儀礼でもある。一家族内の私的儀礼を国民 に押しつけたと見ることもできるが、反面、皇室の儀礼を国民が共有できたととらえ ることも可能である。むしろ、当時の民衆は後者の捉え方をしていたとみられる。そ うした民衆の心意を創りだしたのが、学校教育だった。
この規定は明らかに宗教儀礼の次第である。御神体としての御真影、聖書・聖典と しての勅語。天皇は神であり、教員は司祭、日本に生まれた国民はすべて信者として この祭典に参加している。こうした宗教類似システムとして近代教育をデザインした のが森有礼であったのは先述のとおりである。
この規定の公布に先立って発生した「内村鑑三不敬事件」が奇しくもこの規定の持 つ宗教性を顕在化することになる(5)。「事件」そのものは、明治24年1月9日、第一高 等中学校講師、内村鑑三が教育勅語(に書かれた天皇の署名)への敬礼をキリスト教 信者の良心に従って拒否したという単純なものである。彼は敬礼を偶像崇拝とみなし てこれを避け、宗教儀礼ではなく慣例としてのお辞儀をしたのであるが、この行為が 天皇への不敬とみなされて批判の的となる,非難が集中する中で病を得た内村は、代 理人によって改めて敬礼を行うなどの措置をとったものの、結局依願解嘱するはめに なる。世間のヒステリックな批判はさらに、内村のクリスチャンという属性に集中し、
ジャーナリズムは日本の国体に相容れないものとしてキリスト教を攻撃しはじる。翌 年には、熊本英語学校でクリスチャンの奥村禎治郎が「博愛」という言葉を使用した ことが批判されて解雇されたり、キリスト教の洗礼を受けた小学生が退学になるなど
(6)、学校現場におけるキリスト教排除がみられるようになるのである(7)。
不平等条約改正を諸外国と締結する必要上、キリスト教についてはデリケートな取 り扱いを期していたであろう明治政府としては、むしろキリスト教へ向けられたジャ ーナリズムの批判を危ぶんでいたかもしれない。注意すべきは、内村への批判が彼の 周囲にいた教員・生徒から始まったということである。彼は国家装置によって処罰さ
れたわけでも免職されたわけでもない。彼の属した第一高等中学校という場が、彼を 異物として排除しようとしたのである。内村じしんは『代表的日本人』という主著を 持ち、旅順港での大勝利の報に思わず「帝国万歳」を唱えるほどのナショナリストで もあった(8)。後年教科書疑獄に関連して、教育勅語の精神を汚した文部官僚を弾劾す る文章を「万朝報」に掲載している(g)。しかし、教育勅語を奉じた集団はその善意に よってそんな内村を攻撃した。教育勅語という「聖典」への信念は、イデオロギー装 置を構成する末端官僚たちに内面化され、侵すべからざる真理として聖別され物神化
される。彼らにすれば天皇への敬礼を偶像崇拝ととらえるクリスチャンは文字通りの 邪宗門として排除されるのである。