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生徒指導におけるズレの構造とその克服に関する研究 : 中学生の校内暴力回復過程からの接近

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(1)学位論文 生徒指導におけるズレの構造とその克服に関する研究. 一 中学生の校内暴力回復過程からの接近 一. 学校教育専攻・生徒指導コース. 学籍番号 M93152 H. 上坂: 一二.

(2) は じ め に. 論考の基底. 教育はいまや混迷のなかにあり、そして苦悩している。教師も憔梓し、. あるいはとまどいをみせるなど、まさに受難のなかにある。教育諸科学は 今こそ問題の改善のために、学校現場での実践の理論化と理論の実践化を 図り、問題の改善ないしは解決を図ちなければならない。そのためには実 践家も研究者も共に連携、共同してその方途を探索し、社会の期待に応え ることが求めちれるのである。 教育現場では技術主義が台頭し、授業の法則化運動が全国的な広がりを 見せている。それは学校内での先輩の教示に満足できず、教育方法の「規 則化」や「法則化」によって「技」として獲得しようとするものである。 しかし、それは教育を技術の側面でしかとらえておらず、きわめて一面的 把握であって問題の核心に迫るものではない。今日の子どもの問題は広い 視野かち教育的関係を見据え、そこに生じているズレやギャップの内容と、 その原因を明らかにすることが重要である。 ところが、学校も家庭も子どもの問題への対処において、戸惑いや不安 からの傍観的姿勢が見ちれ、また、指示や命令の一方的で画一的な対処に よって生徒に従順性を求めようとするなど、子どもとの問のズレをさちに 大きくしている。このように、現在の生徒指導は問題への適切な対応を欠 き、混迷の中で推移している。 問題の改善と解決を図るためには、生徒指導への具体的な方略が編み出 されることが望まれるのである。そこで、本論文においては筆者の学校内 暴力を克服した実践的学校経営論からの接近により、問題の改善への理論 と方略を探索しようとするものである。そのためには、まず生徒指導にお けるズレに着目し、その構造を明ちかにすることが必要である。そのなか で関連する問題を洗い出し、それを教育課程の展開に即して検討すればズ レの内容が明確となり、その克服のための方途を編み出すことが可能にな るであろう。それが本論文の基底である。 ズレの止揚問題は生徒指導の成否を握る鍵概念とも言えるものであり、 その克服のための指導方略の開発は、生徒指導に新生面を拓くものである。 昨今、子どもの感覚や行動の意味がわからなくなったと言う教師が多いと 聞くが、それは教師が直面している問題の複雑さを示すものである。また、 現代の教育研究が、有効に機能していないことを物語るものでもある。こ こに、教室のズレ矛盾を出発点として、その構造的把握と克服のための検 討を行うものである。. 一1一.

(3) 生徒指導におけるズレの構造とその克腋に関する研究 中学生の校内暴力回復過程かちの接近. = も く じ =. はじめに一論考のi基底. 1. 第1章生徒指導をめぐる問題と研究の目的 1 問題状況と問題の所在 2 教師の指導姿勢の問題と関心 3 研究の位置と目的. 4. 第2章 学校の枠組みに内在するズレの構造 1. 「ズレ」とは何であるか. 2. 学校の基本的性格. 3. 教:職の持つ矛盾性. 4. 教育における関係性の問題. 第3章生徒指導の過程に生ずるズレの構造 1. 3. 中学校における教師と生徒の教育的関係 授業における教授行動と学習行動 価値規範の認識と行動 ’. 4. 個人(個性)と学級集団. 2. 2. 3 4. 26. 43. 第4章ズレかちの創造(1) 1. 14. 対立的教育論の統一と指導方略の検討 教育的関係と二項対立の教育論 教師役割の専門的分化の検討 学習の対象と状況認知による授業改革 目標の共同化による学級改革. 第5章 ズレからの創造(1[) 学校・家庭・地域の教育的関係の構築. 1 学校適応に寄与する家庭と地域の対人関係 2 三者の連携課題と地域活動 3・地域生徒指導体制の整備. 一一. @2一. 62.

(4) 第6章結び・自己指導の助成方略 1. 2. 3 4. 所感発表会と生徒の自己形成 言語表現と人間の形成 所感発表を媒介とする相互応答関係 父母・地域の所感発表会への参加. おわりに 資. 76. 研究の概括と課題. 95. 料 1−0 1−1−1. 1−1−2 1−2 1−3 1−4 1−5. 2−0. 児童・生徒の対人関係枠に関する調査項目 児童・生徒の心の絆としての対人選択・小5−6、中学1年 児童・生徒の心の絆としての対人選択・中学2−3年 中学1年・対人対象被選択項目数 中学2年・対人対象禄選択項目数 中学3年・対人対象被選択項目数 子どもの属性別に見た対人対i象の位置 中学生の学校適応に関する調査項目. 2−1−1学校適応項目相関係数rの行列 ・中学1年 2−1−2 学校適応項目相関係数rの行列 ・中学2年 2−1−3 学校適応項目相関係数rの行列 ・中学3年 2−2. 92. 学校適応に関する因子分析・因子負荷量. 一3一.

(5) 第1章. 生徒指導をめぐる問題と研究の目的. 一人ひとりの生徒が学校生活に適応し、確かな学力と豊かな道徳性を身 につけ、心身ともに健やかに成長することは父母や教師の願いである。そ して、そのような願いに応える教育の展開が学校の役割でもある。 J.Dewey(1859・一1952)は学校教育について、「もっとも賢明な親がわが子. に望むところのもの、まさにそれをこそ社会はそのすべてのこどもたちに 望まねばならぬ。」とし、さらに「われわれの学校には、これ以外のいか なる理想も狭隙であり、好ましくない。これ以外の理想に従うならば、そ れはわれわれの民主主義を破壊する。」“}と言っている、 この理想の追求こそ、教師と教育研究者の姿勢でなければならない。そ のためには、まず事態を冷静に見つめ、問題状況の的確な把握が必要であ る。. 第1節 問題状況と問題の所在 今日、Deweyの理想とは裏腹に、学校と教育をめぐる問題状況は深刻で ある。少年非行は依然として昭和40年(1965)前後の戦後第2のピークに 匹敵する水準にあり、また子どもの心身にわたる異変などの諸問題が次々 と発生し、それらの問題は、今や学校の「病理」となってしまった。学校 内暴力をはじめとする非行問題は、昭和57年(1982)を頂点としてその後 は減少傾向にあったが、平成の時代に入ってより初発型非行と学校内暴力 は再び増加の傾向にある。(2}. 現代の子どもの問題行動の特徴は、暴力的な「いじめと迫害」に見られ るような陰湿化したもの、「不登校と自閉」の現実逃避の行動、さちには 「学習の空洞化と授業の不成立」などが広がっていることである。これら の問題は授業や学級経営のあり方、および生徒の学業への適応とも深くか かわっており、その不適応による不良行為的行動は中学3年で急上昇する ことが指摘されている。(3)また、子どもの問題行動は家庭環境や地域環 境との関連も深く、家庭や地域は学校教育の基盤でもあることから、今日 の生徒指導は幅広く総合的にとらえることの必要性が高くなっている。 このような状況のなかで、問題の改善を図るためには次の5点について 検討されなければならない。 1)今日の経済的豊かさと核家族の進行は子どもの甘えと過保護を招き、 それが地域の遊び空問の減少と相談って子どもの多様な身体的直接経験を. 一4一.

(6) 貧弱なものとし、いわば人と物との関係的世界を狭窄している。また、一 方では都市化の進行が地域住民の生活連帯を希薄なものとしている。これ らの現象は地域社会の持つ教育力を低下させ、子どもの自立基盤を軟弱な ものにしている。. 2)今日、子どものいじめや非行などの問題行為、および公共マナーの 悪さが、一部の若い夫婦の間に「子どもを持つことをためらわせ、また子 どもを導くことに自信を失わせ」(‘)さらに、子どもを嫌う風潮の原因とな. っている。このことは少子化傾向を増幅させるばかりでなく、健全育成の ための「声かけ」運動などの地域活動をも阻んでいる。 3)一部の親達には、わが子に遠慮して社会生活での規範を教えること をせず、ただ一元的能力主義にもとつく知識詰込みの競争に躍起となると いう風潮がある。今や学習塾に通う中学生は60%に達し、(5)受験偏重の教 育は子どもの生活をも歪めている。そして中学生の54%が睡眠時間の不足 と疲れを訴えているという。. 4)学校においては「授業の不成立や空洞化」を初めとして、生徒の 「暴力といじめ」の歪んだ行動や「自閉と不登校」の逃避的行動が後を断 たず、そのために教師の中には最近の生徒の感覚や考え方はよく理解でき なくなったと、その対応にとまどいを見せる者と(6}短絡的にその解決を 求める者との分極化が進んでいる。 5)これらの教師の指導姿勢と生徒の実態との間に生ずるズレが結果と して指示・伝達・訓戒・説得による一方的過剰教育をもたちし、管理的色 彩を濃くする原因となったり、あるいは傍観的態度や諦め的態度となって いよいよズレを拡大し、問題をさらに複雑なものとしている。 このように、教育はまさに混迷のなかにあって苦悩している。そして学 校は揺れている。. 第2節教師の指導姿勢の問題と関心 教師役割という一種の制約を長く受けると「人格的職業病」ともいうべ き歪みをもたちす。そして、その自覚がない。それは俗に言う「天狗」で ある。「いじめ」を訴えてきても、生徒が荒れてもその内面を理解しよう とせず、短絡的に解決を求めようとする。それが校則の強化と体罰につな がるのである。. 教育に関する専門的語彙は豊かであるが、子どもを共感的受容的に理解 しようとする言葉は少ない。その言葉が少ないということは、その心が薄. 一5一.

(7) いということである。この教師と子供の間にあるギャップは大きく、それ は憂慮すべきことである。. 1.体験算学校内暴力回復過程の概略 筆者の体験した学校内暴力は3年間にわたって連続し、件数にして年間 140件を数えた。それは35週の授業日数のうち、週に4件という割合であ る。教職員は東奔西走、日に夜をついでの指導と事件の処理に追われた。. その内容は真昼の廊下・教室で掲示物が燃やされる。授業をエスケープ して外出し、ビールを買い求めて回し飲みしてはドアを蹴破る。夜間に忍 び込んで教室、廊下の壁面や塀に油性マジックで大きく落書きを繰り返す。 購買部の物品を盗む。または商品を傷つける。プールへ瓶やガラスの破片 を投げ入れる。校舎建物に投石しては窓ガラスを破る。そして煙草の火の 不始末かち火災を起こすにいたるなど器物の損壊行為を繰り返していた。 また、教師への反抗は極致に達した。授業中にラジカセが高鳴り、爆竹 が連発する。文化祭での演奏や演劇の最中に爆竹をやちれては、もはやそ れは教育の場ではなくなる。注意をすれば暴力をふるい、教師の中には肋 骨を折られるなどの負傷者が出る。学校の秩序とルールは無視され、その 無法ぶりは目にあまるものがあった。 暴力行為は器物破壊や対教師暴力にとどまることなく、生徒間において も発生する。それは番長格の勢力争いから起こるもので、碍に行政区域を 越えた近隣の学校グループとの抗争事件に発展することもあって、関係警 察の介入なしには事件の処理も事後の指導もできないことさえある。 一方、良識ありと思われていた一般の生徒までが一部生徒の暴力行為を 傍観し、時に扇動し、さらに助長する。このことは「いじめ」の構図にお いて共通である。当該学年が卒業すれば、その翌日かち後輩がまったく同 じことを繰り返すのである。. 正常化への道は険しく困難を伴うものであったが、3年後の春には完全 に静かな落ち着きを取り戻すことができた。その回復の過程は、教育課程 の編成と経営を軸とする個性的な学校運営の過程そのものであった。中で も生徒の「所感(主張〉発表会」の実施、:全教師による「全校相談・談話 タイム」の設定と実施、3年間を通じての「10分間ドリル学習」の実施、 および地域教育への丁丁としての「教育問題懇談会」などを計画し、それ 一6一.

(8) を着実に実施したことが学校内暴力克服への源泉となったように思う。. それちがどのような教育的意味を持ち、そして何をもたちしたのか。殊 に「所感発表会」を通しての「問いかけ」の教育が、「話すこと・聞くこ と」の言語諸活動を盛んにし、内言活動を誘発し、そして内省から対話へ と発展したことの意味は重大である。つまり、「対話的活動」が自己内関 係と自他の関係において交互的な問いと異論と補完の中で進行し、互いに その在り方を規定したことを分析し理論化しなければならない。 そのことは、これからの生徒指導推進の根本にかかわる有効な資料を提 供するものと考えちれる。それは、教育の究極としての生徒の自立を促す ための教育関係性(自己内関係と自他の関係構成)を確立し、連続して生 起するズレ克服の方略を構想することである。. 2.課題としての中学校生徒指導における問題性 学校の基本的構造が教師と生徒にあるかぎり、生徒指導をめぐる問題に 関しては、その原因の一つとして学校のあり方や教師の指導姿勢・指導方 法が問われなければならない。それは無理解な批判ではなく、教育的関係 における教師の「役割」と生徒におよぼす「作用」という視点からの本質 的な問いかけである。そのため、学校の指導場面での現実的問題を子ども と教師との関係において明確にすることが必要である。その問題は次の6 点である。. 1)人格的接触の希薄なこと 今日、生徒相互間において、教師と生徒間において、.さらに学校と地域. や家庭との間において、その相互関係が事務的となり、人格的接触の度が 希薄となる傾向にある。対立や葛藤を乗り越えたところでの、相互の固い 結合や統一の関係が不在であると言ってもよい。. 筆者の経験したものに、中学3年の男子が3か月間にわたって12回も自 分に宛て攻撃的な内容の手紙を出し、それを迷惑千万なζととして担任教 師へ善処を求めて訴えてきたことがあった。指導経過の中でその手紙は本 人かちのものということが分かったのであるが、それは希望高校を受験で きないことへの不満と劣等感にさいなまされた自嘲と自己否定と、そして 相談相手のない寂蓼の中で起きた出来事であった。. この事例は特殊なものではなく、友人との付き合いの深さにおいて日本 の子どもの場合、先進諸国に比して一般に「あっさりしている」という 「友人関係の国際比較調査」の結果(7)(日本65.4%・ドイツ8.5%)に 通じるものがある。つまり、日本の子どもは自己犠牲的な友人関係に乏し. 一7一.

(9) く、自己中心的な生き方をしていることを示している。. 一方、教師と生徒の関係においても、かつてのような生活場面への広が りの中での相互交流は浅いと言わなければならない。つまり、教室場面と 勤務時間を越えたところでの日常的生活の中で、継続的に「かかわりつづ ける」ということを通して触れ合い、理解し合うといった人間関係的教育 基盤が軟弱となっている。. 2)指示、伝達とその受容を強いる固定した指導姿勢 授業を初めとする諸種の教育活動において、なお教師主導型の指示、伝 達的な一斉画一の指導形態がとられている。それは教師が語り、生徒はそ れを受容的に聞くという従来の固定化した図式となんら変わることはなく、 およそ個性化や個別化とはほど遠いものである。従って、生徒自らが学習 対象へ働きかける余地と場が少なく、相互に交流することも少ない。この ことは、自主的実践的態度の育成をねらいとする特別活動においても同様 であり、管理優先の計画が「自主・自立性」発揮の場を乏しくしている。 たとえば、学年集会が説教・訓戒・懲罰の場に使われたり、修学旅行や 野外活動が訓練という名のもとに、集団操作による「型」の習得ないしは 「鋳型」へのはめこみに終始することがある。「自立を妨げる学校行事」 との批判はここかち生じている。. 3)生徒の感情理解の浅いこと 生徒指導においては往々にして問題の改善が見られず、むしろ累犯的に 問題行動が繰り返されることが多い。このため、指導の場面においては大 人の秩序の強制によって効率を図ろうとし、生徒の心の動きに鈍感となり がちである。そして非言語的コミュニケーションや内面の揺れ、葛藤を考 慮することなく、叱責とか懲罰的反省を求めて終わりとすることが多い。 このことが生徒の反抗心や心的抑圧を大きくしている。 4)校則に寄りかかった指導 文部省は昭和63年4月に校則や規則による管理教育の見直しを通達した。 しかし、校則はいまもなお不合理な側面を持っており、生徒には不人気で ある。即ち、中学生の63.0%が校則に対して不満を表明しているが、教師 の方では「小さな服装の乱れ」も非行につながると考え、「小さな違反も 厳しく正す」という態度をとっている。また、これを支持する教師は、71. 2%と極めて多い。(8)友達の中に校則の違反者があれば「密告・告発」さ せるなどの新聞報道事例は、ここから生じるのである。(9) このことは、校則によって生徒を管理し、規制しようとする教師の体質 を示すものである。. 一8一.

(10) 5)教師は生徒の従順さを強制する 教師は生徒との関係において常に優越した立場にあることかち、「生徒 は全面的な信頼と尊敬をもってその教示に従うべきこと」を暗黙の前提と しでいる。そして「従順さの強制」に陥りがちとなることに気づいていな い。. そのことは、時に生徒の感情や情緒を切り捨てた理論主義ともいうべき 一方教示的態度をとるという傾向性となって表れる。そしてその優位性に 安住し自己を顧みることが少なく、時に権威主義を振りかざして体罰を加 えることとなる。そして「たたかれたら感謝しなさい」と自ちの行為を正 当化するといった事例が報道されるのである。“o) 単なる一方的教示と権力による規範や体罰は、反発や攻撃の原因とはな っても自己を顧みることにはつながらないことが多い。文部省調査による と、平成4年度、体罰を行なって懲戒処分を受けた教師は’242人を数えて いる。“1)公立学校教職員の服務上の違反は、市町村教委の内申にもとづ き都道府県教委が処分の決定を行なうことから、この数は氷山の一角に過 ぎないであろうことが推察される。体罰は人権意識の甘さと学校教育法11 条違反の意識の乏しさを表すものであり、教育の本質に背くものである。. 6)地域教育との提携を是としない傾向 学校には子どもの人格形成基盤としての地域教育への参画を是としない で、むしろ排斥しようとする風潮がある。 生徒指導は学校の教育機能であるが、生徒の問題行動の要因が親の養育 態度や地域環境に深く関連していることを思うとき、学校は進んで地域や 家庭と連携協力することが必要である。そして健全育成の立場から協力関 係を促進し、地域教育機能の充実に貢献することが重要である。 以上の6点は、学校と地域社会、教師と生徒、生徒と生徒との関係性に おけるズレかち生じているものである。したがって、問題の改善や解決を 図るためには、教育の場と過程における関係性とその間に生じる「ズレ」 の内容と構造とはどのようなものかを明らかにすることが必要である。. 第3節 研究の位置と目的 教育をめぐる問題はいつの時代においても社会的論議の焦点となるが、. その中心は生徒指導をめぐる諸問題である。教育の究極は子どもへの関心 にあるかぎり、それは当然のことである。しかし、子どもの問題はその時. 一9一.

(11) 代の社会世相の反映でもあって、すべてが学校に帰する問題ではない。. したがって、一方的な学校批判論や非難に終わることなく、広く問題解 決への提言が求めちれ、また研究が深められなければならない。生徒指導 に関連する非行問題の先行研究は、非行原因論、非行制御論、非行文化論 そしてそれらの統合論の四つに大別することが出来る。具体的には、次の ような論がその主なものである。. 1)緊張・不満論 これはGlueck夫妻による研究に見られるもので、問題行動の分析とそ の結果からのパースペクティブにもとつくものである。即ち、少年が社会 的環境条件に対してなんらかの不満を持ち、周りの人との間において緊張 関係にある時、本来の行動がとれなくなり、誤って非行などの問題行動と なるというものである。つまり、学校や家庭環境に問題があり、フラスト レーションによってうまく適応できず、非行や問題行動に走るとの見方で ある。これは少年非行・問題行動研究の主流をなしている。. 2)統制・制御論 この研究は劣悪環境の中にあっても「なぜ問題行動を起こさないか」と いう課題の設定によって、問題行動制御の力となるものを洗い出し、その 要因の充足によって問題行動は抑止できるとするものである。その要因と は「親との愛着・学校との結合・友入との結合・慣習性の係留・活動への 専念・法への信服」にあるとする。つまり、人は社会のルールに従うこと を余儀なくされる事情が生じると非行をしないというものである。 この理論は、T. Harshi等の「社会学的制御理論」(統制理論ともいう) によっている。それは情緒的繋がり(attachimefit>、犯罪行為への得失 計算や心配(co皿mitment)、社会内の役割が忙しく楽しい(involvement)、 非行をしない信念(belief)である。. 3)動機論 これは、前者の非行制御要因とは別に緊張・動機づけの要因が非行に対 して大きな影響力をもっていることを明らかにしたものである。動機論は 西村ちの科学警察研究グループによるもので、非行の動機は「無気力症・ 無規範志向・大人への対抗心・孤立感覚・無目標性・自尊感情」などのい :わば疎外感にあるとしている♂(1 2). 4)情動障害論 問題行動研究の多くは「確定した事実に立脚せず役立たぬ」と批判し、 「非行といえども生命活動の流れの一等分であり、内的外的圧力に対する 一つの感能としての自己表現の一変形」である(13)ととらえるものである。. 一10一.

(12) つまり非行という表現は情動障害の表れであるととらえ、フロイトの人格 構造のイドの面を問題としている。その障害の発生は発達過程のなかで、 家庭で満たされるべき欲望が、未処理のまま放置されたために生ずると見 る。. 5)非行文化論 人は一般に社会の「慣習的ルール・その基準」にしたがって行動するが、 非行少年の場合は「非行扱いとされる行動基準」に従う(反動の形式〉こ とが自分の生き方としてのルールであると考えているという見方である。 従って、一般社会でのルールへのフラストレーションとか不適応という ことは存在せず、自然の帰結として非行:是認の方向に到るのである。この ような価値観は特定の非行グループにおいて支持され、反社会的行動その ものとなって表れることになる。. 6)統合論 以上の諸理論を人間の精神的活動としての「知・情・意」の三つの側面 から統合しようとする麦島の研究がある。(14)それによると、人間の不満 や緊張は「情」にあり、大なり小なりすべての人が持ち合わせているが、 それは時としてバネとなって創造活動を生む可能性をもっている。〈昇華 作用)この方向づけは「知」的に不満解消の仕方を学習することによって、 内なる統制力としての「意」が育ち、非行の抑止が可能となるとする。 以上のように、専門的に分化した理論的研究が行なわれているが、子ど もをめぐる事態は改善されることなく、むしろ悪化の傾向にある。この事 態の改善のためには、社会や文化の構造的側面かちの研究も必要であるが、 学校の基本的構造は教師と生徒との関係にあることかち、両者の相互交流 に視点をおき実践へ直結した研究がなされなければならない。 本研究では、いじめや暴力などの子どもの問題は教育を必要とする人間 存在の本質としてとらえる。つまり、社会的には非行であり不適応行為で あってもそれは環境に対する反応としての一種の変形的自己表現として理 解し、非行などの問題行為や精神的危機に新たな自己生成への可能性を拓 く契機を憶い出そうとするのである。ここに困難ではあるが達成すべき生 徒指導の今日的課題が存在するのである。 このような認識のもとに、生徒指導上の問題や危機の背景にあるズレの 類型と内容、およびズレの発生する関係を人間の精神的活動としての「知 ・情・意」のはたちきと対応させながら検討するものである。即ち、教育 関係(生徒指導)における教師の指導的役割行動を縦軸とし、生徒の学習 一11一.

(13) 行動を横軸として、その間に起こるズレの内容を明らかにしたい。そして、. 筆者の学校内暴力を克服した体験を理論化し、そこからズレ克服の生徒指 導方略を探索するをもって目的とする。. = 註 =. (1)J.Dewey宮原誠一訳 「学校と社会」 1991 p.22。. (2)青少年対策本部「青少年白書」平成4年号大蔵省印刷局 1993 p.227 pp.232−237. 刑法犯少年総数に占める初発型非行の割合は71.6%と高く、その推移は. 現在なお増加傾向にある。校内 暴力においては、昭和57年のピークに おいて1388校(13.5%)であったものが61年では979校(9.3%)と減 少したが、平成元年から増え続け同3年では1237校(11.7%)となって いる。高校にあってはピーク時を越えて572校(13.7%〉にも及んでいる。 (3)鈴木真悟 「自己報告法による非行体験の年令的変化」 科学警察研. 究所報告25巻 2号所収1984p.43。学業への適応と非行との関連は強 く、不適応の生徒は不良行為的行動をとりがちであり、法律違反行為を 伴う傾向は中学3年で急上昇する。 (4)朝日新聞記事 「若者たちの解放区」一子育て一 1993.9.28 夕刊。 (5>朝日新聞 ’94.7.30朝刊 文部省調i査の結果を報道。. (6)全国教育研究所連盟「新しい生徒指導の視座」ぎょうせい1991p.22。. (7)青少年対策本部「青少年白書」平成4年版大蔵省印刷局1993p.101。 (8)上掲書 pp.132−135。. 校則を不満とする中学生は63.0%にものぼるが、教師は小さな違反も厳 しく正さねばならないと考えており、その数は71.2%である。生徒指導 では学校全体の規律を保つことが第一とする者が84.0と高率である。 (9)朝日新聞「校則違反申告せよ・級友の密告も」1993.10.27 朝刊。 (10>同紙 「たたかれたら感謝しなさい」 1993.10.28朝刊。. 小学校2年の担任が4月以来、児童を物差しでたたく、頬をつねるの 体罰を繰り返し、「何もしないのにたたかれた」と理由も理解できない 子どももあると報じている。 (11)同紙 「体罰教師増える」1993.10.30朝刊。. (12)西村春夫「非行を制御する力と動機づける力の比較分析」科警研 1984e. −12一.

(14) (13)W.Healy, A. Bronner樋口幸吉訳「少年非行」みすず書房 1956。 p. 11 p・ 152.. (14>麦島文夫 「非行の原因」 東京大学出版界 1990 pp.131−136。. = 参考文献 =. 1佐伯 腓 「学校の再生を求めて」1・2・3巻東京大学出版会 1992。 2 Glueck,S.and E,T.法務省訳 「少年非行の解明」大蔵印刷局195 Unraveling Juvenile delinquency Harvard Univ. 1950. 3 麦島文夫「非行の世界」福村出版 4 5. 6 7. 8 9 10 11. 千石 保等 野田正彰 麦島文夫 屋久孝夫 野原 明 兼頭吉市 福島 章 西村春夫等. 1982。. 「日本の中学生」 日本放送協会. 1987。. 「漂白される子どもたち」 情報センター1988 「非行の原因」東京大学出版. 1990。. 「校内暴力・いじめ」 黎明書房 1991。 「日本の教育」 丸善 「少年の暴力」 立花書房. 1993。 1981。. 「非行心理学入門」 中央公論社 1985。. 「少年非行一その実態・原因・対応の分析」. 19890 ソフトサイエンス社 12 柳原一元「児童・生徒の問題行動制御に関する研究」兵教大修論’90 13 全国教育研究所連盟「新しい生徒指導の視座」 ぎょうせい1986。 14Heaty,W.and Bronner,A. F’36樋口幸吉訳[少年非行」みすず書房 1956. New l ight on delinqueficy and its treatment. 15 一谷 彊 相田貞夫. 「児童生徒の精神的環境と生徒指導の教育心理. 学的研究」 風間書房 1991。 16 Trvis Harshi.. Causes of Delinquency. University of California Press. 1969.. 17 高橋 勝. 「子どもの自己形成空間」 川島書店 1993。. 13 一.

(15) 第2章 学校の枠組みに内在するズレの構造 「ズレ」という言葉は、主要な教育学辞典にも哲学辞典にも項目として は存在しない。それは、この言葉が矛盾、対立、つまずきなどの多様な意 味をもっため、学術語としては不適切であるからかもしれない。しかし、 日常語としての「ずれ」は、さかんに用いられている。日本語大辞典(小 学館’829刷)によれば「位置、時間、時期、考えなどが標準、基準かち はずれてよく合わないこと、くいちがうこと」と解している。 このことは、相互関係や位置関係において生ずる「くいちがい」とか、 「ギャップ」という意味にとらえてよいであろう。ズレは教育活動にもつ きまとっており、人と人、人と物、人の中、物の中において生じる。つま り、教育の制度や教師と生徒関係という差異性など、学校の基本構造にお いてズレを内包しており、また生徒相互間、教材と生徒の関係にも付随す るなど、ズレは学校の枠組みそのものの中に内在している。学校と家庭・ 地域の間においても同様である。そのようなズレの生起する関係と意味を 明らかにし、その構造を捉えることが本章のねらいである。ズレや葛藤の 持つ創造性への着目は、生徒指導上重要な意味を持つからである。. 第1節 「ズレ」とは何であるか 1.「ズレ」の意味とその二面的性格 ヘーゲルは矛盾について次のようなことを述べている。 「同一性は死んだ有であり、矛盾はあらゆる運動及び生命性の根本である。. 矛盾を蔵する限りにおいてのみ活動性を所有する。」とし、さちに「諸々 の関係の諸規定においては、矛盾は直接的にその姿を現す。上と下、右と 左、父と子等の数知れぬ最も陳腐な例は、すべてみな対立を唯一的なもの の中に包含している。上とは下でないところのものである。上は下でない と規定されているところのものであるにとどまり、下が存在する限りにお いてのみ存在する。しかしてまた、その逆である。即ち、一方の規定中に はその反対が内在している。父は子の他者、子は父の他者であって各自は ただこのように他者の他者として存在するのみである。」(1) これによれば、ズレとは二者関係における「矛盾」とか「くいちがい」、 あるいは、その申に存在する「対立」という意味に解することができる。. そして教育指導の枠組みとその営為の中には多くのそれが存在し、あるい は生起しつつある。今日、そのズレが「授業の不成立」とか「空洞化」や 一14一.

(16) 「いじめ」と「不登校」などの子どもをめぐる問題の一因となっている。. しかし、一方においては「ズレ」を意識化し、それを目標達成のための課 題として把握すれば教授・学習活動成立への契機を与えるものでもある。 つまり、ズレはそれを埋める努力をすれば新しい創造へと発展するが、 諦めたり傍観すれば、果てなき深淵へ転落する一因となることをを筆者は 体験している。また、上田は、割れ目というものは関係につきまとい、相 互間の溝を深くするが、達成動機に作用すれば無二の伴侶としての結合の 絆ともなる、という意味のことを述べている。(2)つまり、問題解決的主 体性のあるかぎり、ズレは統一を創造する手がかりとなり、生成発展への 橋頭量となるというのである。ズレはまさに実践過程での中核であって、 その止揚は教育の成否を握る鍵である。. 2.教育におけるズレの関係と種類 教育におけるズレの関係には、表・2−1に示したように克服というより も、むしろ両者の調和と安定を図るべきものと統一を図るべきものとの二 種類がある。. 前者は学校の枠 組みに内在する義 務性とか画一性に あり、これらは教 育制度そのものに よってもたちされ るものであって不 可避である。就学 は義務であり、学 校や学級の選択自 由はない。また教 師と生徒の関係に おける差異性は教 育関係の本質であ り、このこともま. 表・2−1 ズレの関係・内容と対処種別. 対処別. ズレの関係と訟\\i. 解 : 調. 統. 克. 消. 一. 和. 1.学校の枠組(義務・画一). ズレ. ○. … の関. Q.教師一生徒関係(優越性). 係. 3.目標達成過程一集団維持過程. … 綴. ≡. }. i一一…一・. を. ’○. c ○ …. 0. 4.学校一家庭・地域の関係 ズ. 1.思い違い・すれ違い. O. レの内. 2.カベ・困難. ○ 茎. た不可避である。. 一1. 3.矛盾・対立. 容. …. 4.対決・衝突 ?. 一 . 『 巾 }「P. O. 「 F. 従って、これらは調和をもって安定させなければならない。学校と家庭・ 地域の関係においても同様である。 一方、統一を図るべきものとしては、目標達成の過程(授業における認 一15一. I.

(17) 識過程など)と集団維持の過程(授業における集団過程など)である。た とえば、授業において教材と生徒のズレを意識化し、そこから学習課題を 設定して追求することによって、あるいはまた追求過程での相互交流によ ってその統一は可能である。今日の「授業の不成立とか、空洞化」といわ れる問題の改善は、ここにその糸口があるように思われる。. 3.「ズレ」の内容 ズレの内容は言葉の響きとしては量的に僅少であり、微妙微差のイメー ジを持っているが、質的には無限の差異を生じさせる。従って、生徒指導 におけるズレは「思い違い・すれちがい」という小さなものかち「対立・ 衝突」という大きなものまで幅広くとらえる必要がある。さもないと目前 に起きている子どもの問題を開発的に対処できないこととなるからである。 非行は文字どおり逸脱行為であり、法と価値判断との衝突である。 従って、ズレの基準としては法規、規則、校則の類をあげねばならない。 学級や生徒会で生徒と担任とで定めた学習と生活のルールなどもその一つ である。また教師の方針や指導目標、生徒の自治的な目標なども基準と考 えてよい。これらは指導と学習に関する教師と生徒の目標と、その達成過 程において生ずるズレの幅や内容を把握しようとするとき、その着眼点と なるものである。このほか日々の生活と学習行動の過程では、個人の価値 規範や慣習が選択行動の基準となることから、ズレはさちに広がって葛藤 の原因となる。. このような立場から生徒指導上のズレの内容を次のように規定する。 まず、第一に「思い違い」とか「すれちがい」という意味のズレである。 人間の思考・感情には既知と未知との間から生じる思い違いや理解と誤解. との間に生じる勘違いというズレがある。これらは自己内関係や甘えの構 造に起因するところが大である。「親の心子知らず」的なことは、学校の 教育関係においても共通するものがある。反対に生徒の内奥を十分に理解 しない教師の言動もまた多い。呼び掛けに応ずる「はい」という二音節か ち彼の生活と思いのすべてを読み取ることができなければ、ズレは次第に 拡大するのである。. 第二は「カベ」とか「困難」という意味でのズレである、学習やスポー ツにおいて、能力とややかけ離れた課題であっても練習を重ねて習熟すれ ば、あるいは資料やヒントがあれば、解決や克服の可能なズレである。こ のような例は将来の進路希望とその開拓において、また体育系クラブ活動 での記録の更新においても共通である。 一16一.

(18) 第三は「矛盾」、「対立」、「割れ目」(溝・隔蔭)という意味でのズ レである。ズレの中核は矛盾であり、矛盾の本質は対立である。それは中 国春秋時代初期の「韓非子」にいう「矛盾」の故事が示すところであるρ ある商人が「この盾は堅牢でどんなものでも突き通すことはできない」と 言い、また「この矛は鋭くてなんでも突き通す」と自慢しても、それは所 詮「矛盾」であり、「対立」である。 このように白と言えば黒と言い、黒と言えば白と言うようにまったく相 反する考え方を持ち、互いに一歩も譲ちず向き合っている場合である。こ のような例は、道徳的価値規範の話し合いとか、文意の解釈においてよく 見られるところである。 第四は、放置されたズレが次第に大きくなり、「対決」と「衝突」に発 展した場合である。それは時として起こる対教師暴力や生徒間での暴力的 行為、および学校施設の破壊行為そのものであり、まさに対決と衝突であ る。. 学校内暴力とは社会的には非行であるが、教育的にはズレ放置の結果で あり、その距離の隔たりも大きい。これちのズレは教師と生徒の目標設定 とその達成過程において「知・情・意」の各側面において生じるもので、 思考・認識・感情・行動の上に表れる。. り 溝 r. A. ズレ→・…・{・. A 一 .. 接面. コ. ズレぐ一・・…〉. 密 按. 一一一寸一一一一ニ一一1一・⇒創造 1. 轟「六「⑭紬. 致. 図・2−1 教育過程上のズレと類型. それは図・2−1に示すように、教育過程の線上において自他の聞(人と 物)に生じる溝(隔離)や、接面はしていても左右いずれかがずれている などのくい違いとなって表れる。. 第2節学校の基本的性格 1.公教育の枠組み 学校教育法1条にいう学校の基本的性格は、制度化された教育機関であ る。従って児童・生徒への教育目的を効果的に達成せしめることが主眼で あるが、その目的は自らの意思において決することはできない。学校は. 一17一.

(19) 「機関」という語が示す通り、設置者である国や地方公共団体の教育意思 や行為に規定されるからである。つまり、学校は完全に独立するのではな く、諸法規の定めるところに従って管理・運営されるもので、完全な自己 完結的存在ではない。ここに公教育の枠組が本来的に持っているズレが存 在するのである。. たとえば、国の教育行政機関である文部省と学校を所管する教育委員会 は、それぞれの職務権限に基づいて学校に関与するのであり、学校の裁量 幅はおのずから限られてくるのである。学校教育法では教育課程の基準を ・初めとして、校務分掌の整備、教科用図書の使用などを規定し、地方教育 行政の組織および運営に関する法律では、教育委員会が管理規則によって 直接的に命令・監督し、また指導・助言という形において関係を及ぼすの である。. 2.就学の義務と援助 憲法26条一一2には「すべて国民は法律の定めるところにより、その保護. する子女に普通教育を受けさせる義務を負う」と規定している。法律の定 めとは、教育基本法4条(9年の義務教育)と学校教育法22・39条(㌶学 の義務)の規定によって、病弱発育不全、その他止むを得ない事由のある 場合を除き、就学を義務付ける法令を指している。また、校長は学令児の 出席状況を把握して教育委員会へ届け、教育委員会はそれを受て出席を督 促しなければならない(学校教育法施行令)のである。 このことは、すべての子どもに教育を受ける権利と学習を保障するもの であり、それは義務教育の中核的理念である。この理念の実現のため、就 学義務履行を経済的に援助するための法整備も行なわれ、(生活保護法に よる教育扶助・給食費の=補助・安全会費の補助・労働基準法での制限と罰 則)その措置が講じられているところである。このように我が国の教育は 民主主義を基調とする高度の人権尊重の精神を理念として、国民の教育を 受ける権利を保障しているのである。 ところが、他方においてはこのことが子どもにとっての「強制」となる。 つまり、嫌であっても決められた学校の決めちれた学級へ、そうして決め られた服装で入学しなければならない。この宿命とも言うべき選択自由の 認められない強制が、学校と子どもの問の根本的なズレを作るのである。. 3.画一的な教育課程の基準 学校の教育計画を立案するにあたっては、学校教育法施行規則25条・54 −18一.

(20) 条一2に示す文部大臣の公示する学習指導要領によらなければならない。教 材としての教科用図書においても、文部大臣の検定を経たものの使用が義 務付けられている。補助的教材でさえ教育委員会への届け出が必要である。 これちの規定は国の教育水準の維持向上のため、あるいは教育の持つ公共 性の見地かち重要な要請であるというべきであろう。 福岡地方裁判所では「国民として最小限の徳性、知識、技能、並びに一 般的教養を有することは、民主的で文化的な国家を建設するために不可欠 の条件である。」(昭38.5.25)と判じている。また、文部省の菱村幸彦 は「学校教育の持つ公共性、憲法や教育基本法の定める教育の機会均等の 保障、法の定める教育目的を実現するための国の責務、教育の中立性の確 保、および教育水準の維持・向上をはかるという五つの要請かち国家的規 模で教育内容を検討し、設定しなければならない」(3’という趣旨のこと を述べている。. しかしながら、これらの規定と基準は必然的に学校教育の画一性をもた らすこととなる。第5次学習指導要領の全面改訂(’91.3)によって、選 択幅の拡大が図られたが基準は不動であり、ここに生ずるズレを克服する ために個別化や個性化を図るための教師の専門的力量が要請されることと なっている。. 4.抽象と記号文化の支配 今日、人間の生活は知識や情報を使って生きる抽象化が進んでおり、生 活実感や感動性から離れた生活世界が拡大されつつある。学校教育におい てもその中心的活動である教科の授業内容は質・量ともに高度なものとな り、教育における主知性はいよいよ高くなっている。学校はまさに数と文 字の記号文化の支配する社会である。 記号とは具体的現実ではなく、観念であり抽象であって、現実から遊離. した世界である。従って、具体的世界から抽象的世界へと、どのように橋 渡しをするのか、そのズレを克服するための教師の力量が問われることと なる。この学校の持つ主知性という側面が、今日の歪んだ学歴社会の中で その進行に拍車をかけている。そのことが結果として、労働とか体験的学 習を軽視させ、身体で学ぶ場と機会を失わせている。それはさらにズレを 拡大するものであり、授業における陶冶と訓育の統一が求められる所以で もある。. 19 一.

(21) 第3節 教職の持つ矛盾性 1.全体の奉仕者としての教師 教職については従来から聖職論、専門職論、および労働者論など、その 性格をめぐっていろいろの議論が交わされてきた。これを法令に見ると、. 教育基本法6条一2「法律に定める学校の教員は全体の奉仕者であって、自 己の使命を自覚しその職責の遂行に努めなければならない」とあり、教育 公務員特例法1条においても「教育を通じて国民全体に奉仕する」旨の規 定がある。. このことは公務員として制度的に規定された職責〈役割・任務〉を忠実 に遂行するため、「職務専念の義務」や「信用失墜行為の禁止」等の服務 に関する規定を守って、公僕として献身的に奉仕することが基底となって いることを示すものである。 教師はこの理解のうえで服務に関する宣誓を行なって採用されているの である。従って、教師は役割、任務に忠実でなければならず、そのことが また教師の指導性と子どもの主体性との間にズレを生じさせる一因となる のである。とりわけ教育公務員としての教師は、一般のそれとは異なった 特殊性をもっており、それに対応する免許資格の制度、身分保障、服務上 の禁止や制限などが、教育公務員特例法において規定され、また給与上の 優遇措置が講じられているのである。これらのことは、教師の指導性への 期待を示すものであるが、時にその姿勢が一方交通難関係を構成し、従順 性を強制することとなる。. 2.専門職としての教師 教職を専門職とする考え方は、1966年のILOユネスコの「教員の地位 に関する勧告」において「教職は専門職と認められるものとする」(申訳). ことを宣明したことによるものである。この時より教職専門の論議が高ま ったのであるが、原語が「Teaching should be regarded as a Profess−. ion」であることかち「認められるべきである」との意見もあり、また専門 職の具備すべき条件として医師や弁護士の例のように厳しい自律性を充足 していないとして「専門職に準ずるものである」という解釈もある。 従って、教職を専門職と考えるということは理念としては存在するが、. 現実には学習指導要領等の拘束もあり、実践的判断での選択の幅は極めて 狭く教師にとっては自律性の保障はないと言うべきである。ここに教育の 画一性をもたらす原因があり、それがズレを生むことにもなるのである。 一 20 一一.

(22) 3.教育技術のプロとしての教師 今日、「教師はプロである」とか、「教師は授業で勝負する」などと言 われ、プロとしての技術的力量を問う言葉が目につくようになった。この プロと言われる教師像はProfessi。na1(専門家)の意味というより、むし ろtechnician(技術者)としての教師像をイメージするように思われる。. プロとしての教師とは、多くの教育専門に関する用語と技術に精通し、そ の技術技能を駆使して効率のよい教育活動(授業等)を展開する教師のこ とである。. このことの背景には、職場内での経験的知恵だけでは個性化と個別化は 達成できないという事情がある。また、今日の子どものいじめや不登校な どの問題に対処するために、「教える」という営みを単純化し、技術化し、 そして法則化することによって応えようとする考え方がある。それちが、 「教育技術の法則化運動」となって、全国的な広がりを見せている。即ち、 教育指導を技術的側面から捉え、法則化して腕や技を磨こうとするもので ある。. 向山洋一の「授業の腕をあげる法則」(明治図書)が8年間で76刷を数 え、ベストセラーとなったことは、技術志向を示す好例である。このよう な傾向は、技術と効率を重視するのあまり、子どもの内面理解が不十分と なり、そこからズレを生起させる因にもなる。. 4.管理者としての教師 教師には学校教育法にいう「教育を司る」とともに、そこに付随する事 務管理の任務がある。それは生徒の健康安全の確保や出席状況の把握など の人的管理、教材教具や施設設備を教育の用に供するための物的管理、お よび教育課程の管理・運営である。このほか生徒の学年修了や卒業認定の ための実務、対外的な証明としての指導要録の記入などがある。 この四つの教師像はそれぞれ異質な側面をもっており、教職という職域 事態がズレを内包しているのである。この傾向は小学校や中学校の義務教 育学校ほど強い。それは事務職員体制が充分でないからである。教師の憔 梓はここから生じ、校長の焦燥はその中にある。教職が真にprofession であるなら今日の学校不信はなかったかもしれない。. 第4節教育における関係性の問題 1.教育の基本的関係 一 21.

(23) 教育関係の主軸は大人と子どもの聞にあり、学校教育の基本構造は教師 と生徒の関係にある。その関係とは、知識、技術、技能において、人酔的 な成長度において、優劣という差異めあるところに成り立っている。教育 的関係の本質が真理と価値規範や人類の文化遺産を媒介とする限り、この 両者の固の差異は不可避である。 学習者が優れた知識、技能、態度を習得し、価値の内面化を図るために は、教師(大人)は教育それ事態の成立する条件を具備しなければならな いかちである。つまり、知識や技能を提示し、解釈し、価値規範を自らの 態度モデルとして示し得る自律的能力を持つことが教育関係成立の本質的 な根拠である。. 自律的能力とは、子どもが生活の中で獲得したものと大人のそれとを突 き合わせ、吟味し、新しい価値創造とその承認の教育的世界を成立させる 人格的力量をいうのである。従って、子どもの友達伸間の生活の中にのみ 教育のすべてを委ねることはできないのである。教えることは学ぶことで あっても、学ぶことは即、教えることそれ自体ではない。子どもと共在す ることは教育の出発点であり、子どもと同行することは教育の過程である が、それは教育の終着ではない。学校教育の究極は子どもの自己教育への 教育であり、子どもが自立することにあるのである。この意味においては ズレは教育の前提でさえある。. 2.「我と汝」の人間本来の関係 学校での人間関係は、教職としての関 係と人間としての関係とが常に混在して いる。そこにまた第三者の存在があり、. その関係とも関連を持ちつつ教育活動は 展開されるのである。それは図2−2に示 すように教師一生徒、我一旦、教師一挙、 我一生徒、および教師一かれ、我一かれ の関係である。この関係は、教育の場に おける教師と生徒の折々の立場や心情に. 教. 生 我.. 汝. 毛書や滋一一. 徒. XNX N>E. f@. よって生じるもので、常に一定ではない。図’2−2 教育における対人関係の類型. ここに教育的関係でのズレがある。. 教職は法に定める特別の資格要件を要する職種であり、その職務は「児 童・生徒の教育をつかさどる」(学教法28)ことにある。そのため、教師 には「自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努める」(教基法6−2)こ 一22一.

(24) とが要請されている。しかし、それはただ単に他律的な役割として演ずる ならば、その職務を遂行することはできない。代替不可能な自己としての 役割に転化し「愛」としての使命感に支えられてこそ「役割」は遂行でき るのである。教育公務員としての服務上の諸規定はすべてこの課題に応え るためのものであるという解釈にたつことが必要である。愛と尊敬と信頼 こそ教育の成立する基礎であるからである。 それはブーバーの言う「我と汝」の関係に立つことでもある。つまり、 相互的対話関係の中に教育の営為をおくことである。教師も生徒も平凡に して不完全な人間としてその中で生きるのであるから、ズレ矛盾や対立も 起こり得るのであり、それは避け難いものである。その葛藤を克服したと ころにこそ新しい創造と統一があるのである。. 3.援助的(治療的)関係 子どもが知的、身体的機能と自我的機能の十全な発達を遂げるためには、 さまざまな人間関係が必要である。厳しさも要れば優しさも要る。特別扱 いも必要であり、平等の扱いも必要である。この矛盾したものの調和的関 係こそが重要であるが、これが十分に機能しないところがら発達遅滞や適 応障害が出現している。. このため学校においてもなんらかのアプローチが必要であり、その重要 性は年々増加しつつある。それは教育相談のような援助的関係であり、権 威的葛藤関係とは対立するものである。すなわち、学校での有効な作用は 権威にあるのではなく、協力と援助の関係の中でこそ機能するのである。 そのため、日常の中で援助の「場」を整えるこが必要であり、教師と子ど もとが対峙してその場を共有し、自己一致と受容と共感のカウンセリング 関係をもつことである。. 4.人格形成基盤としての学校、家庭、地域の関係 生徒指導は学校で行なう教育機能であるが、子どもの問題は家庭や地域 の教育環境と密接に関係していることかち、それちを視野に入れた生徒指 導の展開が必要になっている。本来、家庭や地域は学校教育の基盤であり、 子どもの人格形成の基礎である。このことから三者の連携と協力は生徒指 導の重要な課題であるが、学校は消極的であり、地域住民は学校への親近 感を失っている。そして単なる通過機関となり、学校は地域社会かち遊離 した存在となっている。このズレの大きさは、少なかちず生徒指導上の問 題への対処を複雑にしているばかりでなく、問題発生の背景ともなってい 一23一.

(25) る。. 学校は地域センターとしての能力を持ち、地域は多くの教育資源を有し ている。この特徴を生かし相互関係を高めることは地域教育の推進と向上 を図るために不可欠である。そのことは、やがて生徒指導に貢献するとこ ろとなるのであり、学校はそのために家庭と地域へ架橋することが求めら れるのである。. 学校の枠組みに内在するズ レは、教育課程の展開過程に おいて生ずるズレとも関連し あっていよいよ複雑なものと なり、その克服は生徒指導に とって重要な課題となる。そ の構造は図・2−3に示したよ うに知情意に即して生起し、. その内容は4種に分類するこ. ズレの類型. ズレの関係 対立・葛疎. 生成・発展する. 統一への橘頭墾. 国..・9.・L. c. 、. ぎ”一開田” {一層’ミ …. ’”…………”. @ 3 W. 国. ….. 幽i .r.L●岡・■響一.曹.■,.. 涯. 動的ズレ}・嗜・・ @. ,響■ . 曹膠・闘曹. , ・層..,・ .. 筈. @. 国. .. C 8.・i. とができる。. ズレの発生場面としては学 校の基本構造に内在するもの、 教育過程の展開の中で生じる もの、および学校と家庭・地 域間において生じるもの等が 考えちれる。それちは生成発 展する創造への橋頭墜ともな り、また反対に生徒指導上の. ズレの内容と作用. …. 黷奄?. ●. ..三._.___ ョ的ズレi…諾. , =. . .響 r■ ・■響 ,■■ ,■●r. すれちがい. vいちがい. 圃. …. C…丁丁雌 奄演Ti一÷一{救育課程の展開;…i蕪蕊i…i灘1. 矛盾 対立. ?れ 目. 岡 璽。●o・脚}層.■曜. i. ξL−i学校一家罎・地域i ●. いじめ・暴力. r鱒四●鱒・曾開r・・9・層・,9…. .,四’. P通過儀礼機関 Q親近感喪失・不信. R相互間羅・批判. 図・2−3 生徒指導におけるズレの構造. 一24一. =. 噂一㎜・・,. s登校・直閉 ッ業の不成立 業の空洞化. 問題原因ともなるのである。. 8.

(26) = 註 = (1). ヘーゲル「大論理学」(中巻〉鈴木権i三郎訳岩波書店pp.113−117. (2). 上田 薫 「ずれによる創造」黎明書房 ’93PP.35∼40。. (3). 奥田真丈「現代学校経営講座 3」第一法規 ’79 pp.13∼14。. = 参考文献 = 1. 2 3 4 5. 6 7. 8 9 10 11. 日本教育経営学会「学校経営の今日的課題」第一法規 ’89. 「ロジャース全集・入聞関係論」岩崎学術出版’9122刷。 畠瀬 稔 ’790 「現代学校経営講座・1.∼5巻」第一法規 河野重雄 ’93e 岡田敬司 「かかわりの教育学」ミネルバ書房 23刷。 ブーバー 「我と汝・対話」岩波書店 ’93 13刷 ’93 吉本 「授業成立入門」明治図書 均 7刷。 ’93 吉本 「授業の原則」明治図書 均 ’920 東大出版 佐伯 「学校の再生をめざして」1.2.3 艀 2刷。 小笠原道雄 「教育哲学」福村出販 ’93 ’82e ボルノー 「教育者の徳について」玉川大教育学科訳編 2刷。 高橋 勝 「子どもの自己形成空聞」川島書店 ’93. 一25一.

(27) 第3章生徒指導の過程に生ずるズレの構造 生徒指導は領域概念ではなく、学校教育の目標を達成させるための重要 な機能である。従って、一人ひとりの生徒が学校教育における三領域の活 動に適応し、個性の伸張と社会の成員としての資質、能力、態度を発達さ せるために機能しなければならない。殊に、自己指導能力(自己教育力) の育成は、今次(平成元年)教育改革の基本方針であり、生徒指導の古く からの課題である。. 学校での教育活動の多くは学級という集団の場において、教師と生徒と の、あるいは生徒と生徒との応答関係によって展開される。つまり、相互 のかかわり合いを介して教育は成立し、個人も集団もともに高まるのであ る。従って、教育目標を達成させるためには、教育される客体としての生 徒は能動的な応答の主体として起ち上がらなくてはならないし、教授主体 としての教師はそのような生徒に育てなければならない。 そこに、教師役割としての教授行動と学習主体としての生徒の学習行動 との関係を問う理由があり、それは教育の本質に根ざす問いかけである。 教育における教師の役割と作用とはずれることがあり、それは必ずしも比 例するものではない。むしろ、ズレの存在が教育効果を高めるために有効 でさえある。その関係を明らかにするためには、教師一生徒の関係と教育 課程の展開過程において、どの領域のどの場面でズレが生起するか、その 構造を把握しなければならない。それが本章の基底である。. 第1節中学校における教師と生徒の教育的関係 発達段階における中学生の時期は、個人にとっても集団にとっても、内 部に不均衡や矛盾を抱えながら、諸々の困難を克服して新しい事態に適応 していかなければならない。その不均衡や矛盾は、対人関係において全人 的融合を避け、一面的な関係にとどめておこうとする傾向性として表れる。 それは、特に対教師(大人)関係において顕著となる。 この傾向は自立と依存の交錯した感情の表れであり、相互性への要求で もある。しかし、教育における教師の優越性と情熱とが生徒を支え、彼へ の援助を可能とするのである。それは内的結合を基礎とする関係であるだ けに、ズレもまた多いのである。 一方、教師にあっては教育者としての任務とか使命感に根ざす情熱的態 度をとることが、結果として一方的押しつけとなり、対話とかコミュニケ 一26一.

(28) 一ション的行為を欠落させ、説得、誘導、訓戒、および示唆といった高踏 的立場からの操作主義に陥りやすくなる。このことは職業病とも言うべき 病弊でもあるが、当人には気づかれていないのが通例である。言い換えれ ば、教職につきまとう硬直化の現象である。こうなると教師はみずみずし い快活気分を失い、観念的教条的となって生徒の高揚した気分に鈍となる。 従って、教育の淵源をただ単に愛と信頼と権威に象徴される伝統的教育 関係においてみても、それは教育の根本的な前提ではあるが、情緒性にお いて規定されていることを否定することはできない。それが教育的関係に おいて感情支配の傾向を帯びるという原因となるのである。生徒の自立を 促すためには愛と信頼と尊敬を基盤とし、彼らの主張や批判にも耳を傾け るため、対話とコミュニケーションを通した新しい教育的関係を構想する ことが必要である。. ことに教師一生徒関係 はズレ問題の中核にあり、 それは教職の持つ矛盾性. 制度的権力者. とも関連している。即ち、. 役割・職責. 教職は制度的権力、道徳 的権威、教職専門性を有 しており、そこから、図 3−1に示したように強制 的従順と自発的従順、優 越性と相互性、画一的と 個別的という三つの矛盾 側面が生じるのである。 ここにズレ発生の必然的 な構造を見るのであるが、. 自発的従順. 強制的従順. 酉島司 入格的充実. 任務・管理権 (職付随). K... 継i. (個人付随). 雛i. ダ. 轟鍵轟評 対話・コミュニケーション (職能的な成長). 図・3−1 教師一生徒関係の3側面. 本節では教師一生徒関係 と相互性について検討するものである。. 1.制度的権力による生徒への従順性の強制 学校には、生徒は教師への全面的信頼をもってその教えに従うべきとす る暗黙的な前提がある。これは愛と権威の伝統的教育関係論に由来するも のと思われる。つまり、教師の教えは生徒のことをおもんばかる愛から生 まれ、かつ権威ある正しいものであるからそれを受けとめることは当然だ とすることである。. 一27一.

(29) また一方では、学校における教師は生徒を一定の方向に行動や考え方を 変えさせるという、公的地位に根ざした権力をもっているという考え方に 支えられている。法令に規定する教職員には校長・教頭・教諭の三種があ り、組織内での職種の分化は別として、対生徒関係においては職能成長の 如何を問わず、いずれも教授職員としての法に定める資格を有した「先生」 である。そこでは教師としての人格と力量は問われない。不適格者とさえ 思われる教師であっても辞することなく、教育公務員として保護されてい る。. 生徒はその指示・伝達を受容しなければならず、反すれば校則に照ちし て懲戒される。ここにズレ発生のメカニズムがあり1自律道徳の時代にあ ってはズレが対立に発展し、溝はいよいよ大きくなっていくのである。こ のように権力的関係は教師の一方的方向づけへの手段としては有効であっ ても、教育の作用としてのマイナスは極めて大きいものがある。 ちなみに教師の持つ公的権力としてどのようなものがあるか、思いつく ままに列挙すると、教育課程編成権、学級編成権、教材選択権、生徒懲戒 権、評価権、校時編成権、学籍・指導に関する対外証明権および修了・卒 業認定権などがあり、、その法的解釈において異論があっても実態としては 学校教育における内的事項の経営管理の権能を有しており、その限りにお いて教師は権力者である。 これらの諸権限は生徒の成長と発達を助け、個性豊かな人間の育成を期 して執行されるべきものであり、その基本原則のうえに運用されなければ ならない。この認識のないところでは外的強制による管理主義となり、あ るいは監視者となって生徒を抑圧し、ひいてはかれらの反発と反抗を招き、 やがて対立や衝突の原因となる。. 2.教師の道徳的権威による生徒の自発的従順 民主主義社会の今日、教師の権威論を強調する人は少ない。しかし、同 時にそれを否定する人も少ない。それは教育関係の根底に「権威」が内在 し、教育の作用に大きく機能するからであろう。生徒をして望ましい方向 に向け、行為ぺと導くにはなんらかのはたらきかけが必要であるが、その 一つに権威に支えられた方向づけがある。それは前項の権力への服従とい うものではなく、生徒の「自発的従順」とも言うべき自主性にもとつく行 為である。. H.ノールは「教育学ハンドブック」の「教育的関係と形成共同体」の 中で、およそ次のような趣旨のことを述べている。 一28一.

(30) 従順とは不安から行なうことでもないし、あるいは盲目的に従うもので もない。また外的服従でもない。むしろ熟達した意志の自分の意志への自 由な取込み、また内的意志関係の表れとしての自発的従属を指しているも のである。こうした関係は教育者によって支えられる高次の生の要求に心 から帰依するということの中に基づいているものであって、人間のあらゆ る意志形成の前提である。“) それは教育的関係における人格的結合の重要性を強調したものである。 つまり、権威による他律とは信頼と尊敬という敬愛を通して内面化され、. それが行動を規定するというのである。この意味においては、生徒の自発 的従順は他かちの強制や指示によるものでなく、主体的決定によるもので あり、教育における権威の必然を感じさせるものがあるrt 自由と権威について、デュルケームは、「自由と権威は排除しあうもの ではなく、相互に包含しており、自由とはよく理解された権威の娘である」 ニ言っている。つまり、自由とは理性による義務遂行と自己支配であっ て、わがままに振る舞うことではないのである。 そのような意味においては、教育における権威は排除すべきものではな い。しかし、権威は教職そのもに付随してあるものではなく、不断の研修 と教育愛としての使命感に支えられた役割の遂行によって、初めて醸成さ れるものである。そうでないところでの権威の強調はズレを生起させ、溝 を大きくさせるばかりでなく、反発や衝突の原因とさえなるのである。そ して、教育における権威と自由とが対立し、組織的教育活動に混乱を招く (2). こととなる。. 3.教育における教師と生徒の相互性の制約 教育における教師の優越性は教育関係の中軸であるが、それが作用とし て有効に機能するためには相互的な呼応・受容関係にあることが重要であ る。ところが、ブーバーは(M.Buber 1878−1965)人間の世界に対する態 度を「我一汝」と「我一それ」の関係においてとらえ、その関係は相互的 であるとしながちも教育におけるそれは完全な相互性に発展できないこと があるとして、次のように述べている。 「(教師と生徒の関係は)彼(教師)が生徒の中にくわれ一なんじ〉の 関係を喚びさまし、生徒のほうも教師を明確な人格として考え、肯定する ことにかかっているのであるが、もし生徒の側から包括くUmfassung)が行 われ、共通の状況に対する教師の役割を体験するならば、教育的な関係は 成り立たなくなる。〈われ一なんじ〉の関係が休止してしまうか、友情と 一29一.

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